2010年の投稿詩 第151作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-151

  越台播州赤穂友好記念樹由来     越台の播州赤穂友好記念樹由来   

松山藩邸預忠臣   松山藩邸忠臣を預り

供應慇懃倶愴~   供応慇懃倶(とも)に神を愴(いた)ましむ

櫨木贈來締友好   櫨木(ろぼく)贈り来たって友好を締(むす)び

今望紅葉謝芳因   今に紅葉を望んで芳因を謝す

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

「越台」: 愛媛県松山市道後を指す。
「(江戸)松山藩邸」: 東京都港区三田にあった。現在は在日イタリア大使館になっている。
「櫨木」: ハゼの木。赤穂事件の後年、松山藩の厚遇に感激した赤穂郷民が贈呈して来た由来がある。
     毎年道後公園堀端で、見事な紅葉を見せます。
「忠臣」: 大石主税良金以下10人の元赤穂藩士。元禄16年2月4日、幕命により切腹となった。

(立看板の説明要旨)
 時の松山藩主 松平隠岐守貞直は10人の赤穂義士を預り丁重に扱ったのを、後に赤穂の人々が知り、感謝の印として赤穂特産の櫨の苗木を送って来たと言う。
 松山藩はその櫨の苗をここと石手川の堤防に植えたが、今はこの木のみとなった。


<感想>

 赤穂浪士は事件後に四つの藩に預けられたとのことですが、松山藩の他に私の住む愛知県の岡崎藩にも預けられたそうです。もちろん、江戸藩邸の話ではありますが、岡崎と吉良とは隣同士のようなもの、何か因縁めいたものを感じますね。

 詩の前段で当時の事情を語り、転句では結句の現代の姿へとつなぐ友好を描いて「芳因」を導く展開は、分かりやすく、松山の方々の思いがよく伝わる詩になっていると思います。


2010. 7.17                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第152作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-152

  土州四万十川夏景        

両岸青山譟晩蜩   両岸の青山晩蜩(ばんちょう)譟(さわ)ぎ

大河漾漾細鱗跳   大河漾漾 細鱗跳(は)ぬ

群兒遊泳人投網   群児は遊泳し 人 投網す

時見晴波沈下橋   時に見る晴波 沈下の橋

          (下平声「二蕭」の押韻)

<解説>

「細鱗跳」: 鮎などの小魚が跳ねる
「沈下橋」: 一斗俵沈下橋 飛び込み(四万十川ポータルサイト)

<感想>

 四万十川の悠然とした流れが眼に浮かぶような書き出しですね。
 「青山」に対する「晩蜩」「大河漾漾」に対する「細鱗」の配置が悠遠さをより強調して、効果を出していると思います。
 サラリーマン金太郎さんの観察力が表現と調和して、詩人としての充実を感じます。

 後半もよく持ちこたえていますが、結句も叙景ですので、前半との違いをもう少し出したいところかと思います。「時見」に時間の変化や時刻を表す言葉を用いると、変化が出て余韻が生まれるのではないでしょうか。


2010. 7.17                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第153作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-153

  平城京大極殿復元        

白鳳皇宮大極殿、   白鳳の皇宮 大極殿、

雄姿髣髴蘇平成。   雄姿 髣髴はうふつとして 平成によみがへる。

丹楹粉壁復輪奐、   丹楹たんえい 粉壁ふんぺき 輪奐りんかんを復し、

銀瓦金鴟感勢榮。   銀瓦 金鴟きんし 勢栄を感ず。

瞑目宛如聞警蹕、   瞑目すれば宛ら 警蹕けいひつを聞くが如く、

澄心正若浴鑾鳴。   澄心すれば正に 鑾鳴らんめいに浴するが若し。

嗒焉玉笛幽玄調、   嗒焉たふえん! 玉笛の 幽玄なる調べ、

驚倒貴人閑雅聲。   驚倒 貴人の 閑雅なる声。

想起先蹤知コ澤、   先蹤せんしょうを想起して 徳沢を知り、

參加盛事祝清明。   盛事に参加して 清明を祝す。

此迓遷都千餘載、   此に遷都をむかふる 千余載、

再現新装古帝城。   再現 新装 古帝城。

          (下平声「八庚」の押韻)

「丹楹」: 赤い丸柱。
「粉壁」: 白壁。
「輪奐」: 建物の広大・壮麗なこと。
「金鴟」: 金色の鴟尾(しび)。
「勢栄」: 権勢と栄誉。
「警蹕」: 天子の出御の先ばらい(騒がしさを静めるシッシッなどの語)。
「鑾鳴」: 鳴鑾。天子の車につけてある鈴の音。ここでは天子の出御。
「嗒焉」: われを忘れてうっとりするさま。
「驚倒」: 倒は焉とともに助辞。
「貴人」: 白鳳時代の大宮人をさす。
「閑雅」: しとやかでみやびやかなこと。
「先蹤」: ここでは白鳳時代の事跡。
「徳沢」: めぐみ。
「参加」: (観客として。)
「盛事」: 盛大なもよおし。ここでは平城遷都1300年祭をさす。
「清明」: 天下が平和に治まる。
「古帝城」: 平城京。 太宰春台作 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi3_07/jpn143.htmより引用。
  参照 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi3_07/laixin226.htm


<感想>

 七言の排律は古い詩形と言われますが、井古綆さんの豊富な語彙と表現力、そして今回のような詩題と合わさると、絢爛豪華で緻密な古代の建築を見るような、そんな趣がありますね。
 律詩では収めきれない、古詩では厳格さが消えてしまう、井古綆さんのこの詩への思いが感じられます。

 書き出しと結びのまとまりも良く、読み終えて思わず感嘆のため息がもれるような気がします。


2010. 7.17                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第154作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-154

  詠梅        

忍耐嚴寒避世塵、   厳寒を忍耐して 世塵を避け、

温存精氣待熙春。   精気を温存して 熙春きしゅんを待つ。

開花點綴招千客、   開花 点綴てんてい 千客を招き、

結實連珠養萬民。   結実 連珠 万民を養ふ。

          (上平声「十一真」の押韻)



「熙春」: のどかな春。
「点綴」: あちこちにほどよく散らばっていること。
「万民」: ここでは梅農家。


<感想>

 梅の高潔さを前段で出して、梅の詩の伝統をまず踏まえたのは、後半の花と実という現実性に対する精神性をまずは示そうというお気持ちでしょう。

 梅に対しては唐代後期からはもっぱらその花の姿に目が向けられるようになったということはよく知られることで、結句で「結実」を出すことで、詩の広がりが古代の人々の生活まで届くように私には感じられました。
 そういう観点で「万民」を読んだので、「万民:梅農家」の解説は私には詩が小さくなるような気がしたのですが、いかがでしょうか。


2010. 7.17                  by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

 ご感想をありがたく存じます。
 この詩は全対格にしたため、先生ご指摘の結句「・・・・養万民」と措辞してこのような風流にほど遠い詩句が先賢にあったであろうかと思いました。

 しかしながら、現在では農家は風流よりは実益を重んじるではないかと思い、漢詩といえども時代に即応しなければならないと思った次第です。
 従って、詩句解説を「万民」: ここでは梅農家を初めとする全国民。として頂ければありがたく存じます。


2010. 7.18               by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第155作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-155

  氷土噴火     アイスランドの噴火   

氷河噴火止鵬程   氷河の噴火 鵬程を止む

欧米観光帰未成   欧米の観光 未だ帰るを成せず

四海天然猛威慄   四海 天然の猛威に慄く

降灰夙鎮願平生   降灰 夙に鎮め 平生を願ふ

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 四月末から八日間の日程で仏独瑞の三国を歴遊す。僅か七日違いの先発で難を逃れての偶成詩です。時事として時が経ましたが・・・

「鵬程」: 鵬の飛んでゆく道のり、転じて飛行機の行程。

中国で鵬翼を飛行機の翼に例え使われる。

<感想>

 アイスランドの火山噴火でヨーロッパの空港の多くが活動不能になったことは、まだ記憶に残っていますね。
 今年の梅雨明け間近の、全国各地の豪雨による被害も、自然の持つ力の大きさを改めて知らされます。
「四海天然猛威慄」という深渓さんのお言葉にも十分に納得できます。

 承句の下三字の読み下しは、「未だ帰るを成さず」では語順に無理があります。「帰るを未だ成さず」と直しておくのがよいでしょう。


2010. 7.20                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第156作は中国の広西自治区北海市の 千江秀色 さん、四十代の男性の方からの作品です。
 

作品番号 2010-156

  中秋夜        

風逐雲従海角生   風は雲を逐ひて 海角より生じ

波瀾涌起几多情   波瀾 涌き起こりて 幾多の情

潮頭拾取銀灘月   潮頭 拾取す 銀灘の月

捧照東江千里明   捧げ照らす 東江 千里明らか

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 四十代というお若い方を、漢詩の仲間として中国からお迎えできて、嬉しく思います。
 広西チワン族自治区は、山水画の世界と言われて日本からの観光客も多い桂林があるところですね。

 海に風が吹き、波が湧き上がる前半の描写は、雄大な景色とともに、時間の流れを感じさせます。
 承句の「几」は現代語の用法で、古典では「幾」と同じですね。どのような「情」が多いのか、内容を示す言葉がありませんので、読み手としては様々な思いがいっぱいあるという理解になります。

 中秋の明るい月が東から昇り千里を照らす、具体的にどこの地を思い描いていらっしゃるのかは分かりませんが、共感のできる光景になっていますね。

 なお、読み下し文は桐山人がつけました。


2010. 7.25                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第157作は横浜市にお住まいの 松本邱堂 さん、七十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 お手紙には、「このような投稿欄があるとは思いもよらなかった。有難いと思います。」とのお言葉をいただきました。

作品番号 2010-157

  初夏山莊        

林蹊屈曲水潺潺   林径屈曲 水潺潺

翠竹苔愈碧鮮   翠竹 青苔 いよいよ碧鮮たり。

得絶塵埃無一事   塵埃絶つを得て一事無く、

松濤茅屋夏初天   松涛 茅屋 夏初の天。

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 初夏の自然の中に浸って、世間の煩わしさから離れ、別荘で静閑を享受している状況を詠みたかった。
自分では山荘はないが、嘗て他人様の海に近い山荘に泊まった気持ちを詠んでみた。

<感想>

 初めまして、新しい仲間を迎え、とても嬉しく思っています。
今後もよろしくお願いします。

 静かな山林の小道を歩いていくとサラサラと流れる水の音が聞こえる、それだけでも十分な涼しさを感じます。起句は印象的な句ですね。「潺」は辞書には「上平声十五刪」「下平声一先」の両韻がありますが、漢詩では「上平声十五刪」で用いられるのがほとんどかと思います。
 読み下しに「径」とされたのは入力ミスでしょうが、同じ小道でも「蹊」は平声、「径」は仄声と違いがありますので、気をつけましょう。

 承句は「翠」「青」「碧」と畳みかけるように同系色を出して、辺り一面が青々とした緑に包まれていたことを表そうとしているのでしょうが、「碧」は余分なようにも思います。

 ここまでの前半は、別荘の周囲、あるいは別荘に辿り着くまでの風景のどちらにも取れますが、転句に「得」がありますので、気持ちとしては後者、辿り着いてやっと手に入れたというところでしょうか。
 私は「得」とするならば「纔」にした方が良いかと思いますが、いかがでしょうか。


2010. 7.25                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第158作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-158

  冬日抱兒吟     冬日 児を抱いて吟ず   

飛蓬飄轉度旬霜   飛蓬 飄転 旬霜を度り

今日定居東葛岡   今日 居を定む 東葛の岡

疇隴葱葱侵雪意   疇隴 葱葱として 雪意を侵し

雀烏喜喜舞寒光   雀烏 喜喜として 寒光に舞ふ

北尋松柏宜冬景   北に松柏を尋ぬれば 冬景宜しく

西望江川好夕陽   西に江川を望めば 夕陽好し

此地何愁非我土   此の地 何ぞ愁へん 我が土に非ざるを

前途可愛是君郷   前途 愛すべし 是れ君が郷なるを

          (下平声「七陽」の押韻)




<解説>

 冬の日、子供を抱いて散歩していたときの感懐です。
 割合にネギの栽培が盛んなところで、寒さの中のネギの青さに想を得、はじめ七絶に作ったものですが、思うところを言い尽くせず、七律に改めました。

 [語釈]
「飛蓬〜」: 上京してからの10年で6〜7回の転居を行っているので。
「定居」: 住宅ローンを抱えてしまったので、もう当分は引越しできないですね。
「東葛」: 現在住んでいる松戸市は東葛飾郡。
「疇隴葱葱」: 畑が青々としている様子。実景としては、ネギ畑でした。
「松柏」: 常緑樹の意味ですが、地理的にも、松戸市の北側に柏市があったりします。
「江川」: 江戸川のつもり。
「非我土」: 王粲「登楼賦」の「雖信美而非吾土」を意識したもの。
「君」: 腕に抱いた息子

 [訳]
 十年ばかりあちこちに 住んでは引っ越し繰り返し
 ようやくのこと葛飾の 東の岡に落ち着いた
 雪の気配もものかはと 畑の畝は青々と
 寒々しさも何のその カラスにスズメ嬉しそう
 松戸・柏と尋ねれば 冬の緑の色の良さ
 江戸川のはて眺めれば 沈む夕日の美しさ
 悲しむものかこの土地が 古郷からは遠くても
 愛するだけさこれからは 君のふるさとなんだから


<感想>

 読んでいると、詩としては普通に読んでしまうのですが、解説に書かれたような「隠し言葉」、観水さんの遊び心が見えますね。

 三句目の「葱葱」は元々はネギの青さから「青々とした」という意味が出たのですが、この詩ではそのまま「ネギネギいっぱいの青々とした畑」ということですね。
 「松柏」「江川」も同類語の対句かと思いきや、どちらも固有名詞を折り込んでのもの、「思うところを言い尽くせなくて」と書かれていますが、律詩にした狙いは実はこのあたりにあるのでは、と勘ぐってしまいたくなります。
 こうした頭脳の活性化というか、言葉や文字が自在に頭の中を動いている感覚というのは、お子さんの誕生、定居などによる生活面での充実から生まれてきているのでしょうね。観水さんの詩に、ひと味、旨味成分が加わったような思いがしました。


2010. 7.26                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第159作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-159

  春日江上吟        

十里長堤景物妍   十里の長堤 景物妍なり

坐尋佳句送江船   坐ろに佳句を尋ねて 江船を送る

落花上下群青水   落花 上下す 群青の水

飛燕西東一碧天   飛燕 西東す 一碧の天

明月初生風自動   明月 初めて生じて 風自ら動き

夕陽欲沒影相連   夕陽 没せんと欲して 影相連なる

リ光已盡何須去   晴光 已に尽くるも 何ぞ去るを須ひん

以謂今宵抵萬錢   以謂(おもえらく) 今宵 万銭に抵らん

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 春先に川のほとりを散策していて、作り始めました。

「今宵抵萬錢」は蘇軾の「春夜」の起句「春宵一刻直千金」を意識してのものです。

 [訳]
 堤の上で見渡せば ものみなすべて美しい
 川行く船を送りつつ 良い句はないかと考える
 浮きつ沈みつ落ちる花 青をあつめた水の色
 行きつ戻りつ飛ぶツバメ 碧いちめん空のいろ
 明るい月が出はじめて 風が自然に動きだす
 沈む夕日に照らされて 影が互いに続きあう
 昼の輝き尽きようと 帰る時間にゃまだ早い
 きっと今夜もお金では 買えない夜になるだろう

<感想>

 松戸市は私の高校時代の友人が、以前住んでいたことがありました。
 愛知を出て東京の会社に就職した彼が松戸市に居を構えたのは、都心に通勤するのに便利な地を選んだのだと思っていましたが、観水さんの詩を拝見すると、風光明媚な土地のように思えますね。
 結局は松戸市の家を訪問することもなく、彼は退職して地元愛知県に戻ってきてしまいましたが、もっと早く訪ねておけば良かったと、今は残念な気持ちです。

 堤から水、水から天へ、そして東の月から西の落日まで、自然な目線の動きに配慮した詩で、作者の心の動きも見えるような臨場感がありますね。

 頸聯は句中対を用いて、リズミカルにしているのですが、「明月生風動」「夕陽沒影連」と虚字が続き、輪郭がぼけている気がします。
 特に「自」「相」は、もう少し具体的な意味を持つ字にすると、情景が鮮明になるでしょう。


2010. 7.26                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第160作は 牛山人 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-160

  梅雨客来        

黄昏有客酒須賒   黄昏 客有り 酒須く賒るべし

早暁夢魂庭院譁   早暁 夢魂 庭院譁し

正是瀟瀟檐滴曲   正に是れ 蕭蕭たる檐滴の曲

開窓一幅紫陽花   窓を開けば 一幅の紫陽花

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 平仄や用語などで気になる点はなく、よく勉強と推敲をされていることがわかりますね。

 詩の構成としては、前半は、夕方から客が来て酒を飲み、朝方目を覚ましたら庭が(雨の音で)やかましい程だったということでしょう。
 しかし、「黄昏」と書いて、すぐ次の句で「早暁」と来るのは説明的で展開が急すぎるでしょう。

 また、転句は承句の謎解き、結句は窓外の紫陽花という新展開となりますので、構成的には、起句の役割がよく見えない感じです。逆に、承句からの三句だけで見ると梅雨の詩としてはよくまとまっているわけで、「客」や「酒」がここで必要になる理由は見あたりません。
 せっかくの好詩、題名に縛られることはありませんので、梅雨の詩として起句を再度お考えになるか、承句から始まる詩として、結句には、紫陽花をもう少し説明するなどで全体を収束させる句を入れると良いかと思います。


2010. 7.29                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第161作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-161

  初夏偶成        

初夏郊墟散歩行   初夏の郊墟 散歩に行く

四邊景物見枯榮   四辺の景物 枯栄見ゆ

秧田漸次緑苗長   秧田 漸次 緑苗長じ

麥隴整齊黄熟成   麦隴 整齊 黄熟成る

掠水低飛新燕子   水を掠め 低飛するは 新燕子

藏林悽囀老倉庚   林に蔵れ 悽囀するは 老倉庚

群花開落依時節   群花の開落 時節に依る

一命安危亦道程   一命の安危 亦 道程

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 散歩しながら、自然の中に栄えるときと衰えるときのあることをあらためて思い、つくりました。
よろしくお願いします。

<感想>

 自然界の「枯栄」を、頷聯と頸聯を用いて対比する事物を拾い出した詩ですね。

 頸聯の「倉庚」は「うぐいす」、上句の「燕子」との時期のずれは「新」「老」で調整しているのでしょう。

 論文の書き方として、結論をどこに置くかで「頭括式」「尾括式」「双括式」と分類されるのですが、この詩は「頭括式」というところでしょう。冒頭に結論を語り、その後に例証するという構成ですが、先に「対比だぞ」と示されたことで、頷聯や頸聯の描写が理屈っぽく感じます。
 特に頸聯には、「悽」のような作者の心情を感じさせる言葉が上句にも欲しいところです。
 読者にも共感を得たいというなら、「尾括式」の形で、一緒に景色を眺めながら最後に結論に辿り着く構成の方がリアリティが出てきて良いかと思います。

 まとめである尾聯でも「開落」「安危」と置くのはややくどいかという気もします。しかし、自然を見て人生へと発展させた思考は納得できます。


2010. 7.30                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第162作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-162

  春宵一刻        

鐘音隠隠一枝妍   鐘音隠隠 一枝妍しく

漫歩尋春新月円   漫歩春を尋ぬれば 新月円なり

近有鶯声姿不見   近く鶯声有れども姿見えず

孤愁幽寂法堂辺   孤愁 幽寂 法堂の辺

          (下平声「一先」の押韻)


<感想>

 題名を「春宵」ではなく、「春宵一刻」としたのは、当然蘇軾の「春夜」を意識されたのでしょうが、「花」と「月」と「春の宵」という組み合わせが導いたものでしょうね。
 仲泉さんはそこに、お寺の鐘の音と鶯の声という聴覚を加えて独自性を出しています。

 気になるとすれば、素材の配置で、起句は「鐘音隠隠」「一枝妍」、承句の「漫歩尋春」「新月円」とも、上四字と下三字のつながりがなく、ただものが並んでいるような印象がすることです。
 例えば、上四字を入れ替えて、

   尋春漫歩一枝妍
   隠隠鐘音新月円

 とするだけでも脈絡が随分はっきりしてくると思います。

 尚、承句の「新月」「円」とありますので、「東に昇ったばかりの月」で、現在私たちが用いる陰暦三、四日頃の三日月ではありません。


2010. 8. 4                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第163作は 小鮮 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-163

  故郷 冬天        

北風叫喚到南山   北風叫喚して南山に到り

西圃東籬素雪環   西圃東籬に素雪環(まわ)る

芽甲耐寒樹林裏   芽甲 寒に耐ふ 樹林の裏(うち)

老農研耒地炉間   老農 耒を研ぐ 地炉の間(かん)

          (上平声「十五刪」の押韻)

<解説>

 最初に起句を得て、あとはそれにあわせる形の農閑期の光景です。
 はじめ、転句と結句は逆でした(父老研鋤火炉側/冬芽待季樹林間)が、屋外の風景から屋内の風景への順にした方がいいかと推敲し直しました。
 結句の韻事「間」を「かん」と読み下して「房間」の意味で使いたいのですが、可能でしょうか。無理なら「閑」の字にあてて、「しずか」と読み下したいと思います。

 逆風の中に、春の準備をするというのは、現在の私の心境でもあります。

<感想>

 今年の投稿詩123作〜125作で「故郷 春天」、「故郷 夏天」、「故郷 秋天」まで掲載しましたが、その「故郷四部作」の冬の詩ですね。

 前半に「東」「西」「南」「北」の方角を入れ、後半は対句にした構成はリズム感を生んでいると思います。

 後半の対句は良いとして、前半の「東西南北」は方角を表すだけですので、厳密に言えば「南山」がどんな山なのか、「西圃」や「東籬」がどんな様子なのかは伝えてくれません。故郷の暮らしの具体性を出すならば、形態を表す字にした方が効果が出ます。
 ただ、「南山」「西圃」「東籬」などは、陶潜を代表とする隠逸生活を連想させる言葉ですので、塵俗を脱した生活を表そうとしたのかもしれませんね。現実感よりも、作者のイメージが強くなりますので、題名で言えば「故郷」よりも「冬天」の方が強くなります。

 後半で、解説に書かれた「間」のことは、「現代中国語で『房間』を『部屋』の意味で使っているので、『間』だけでもその意味が出せるか」というお尋ねですが、「間」には「部屋」の意味もありますので大丈夫です。

 転句と結句の順番について、情景の流れを考えられたようですが、転結の場合は起承ほど流れは気にしません。それよりも、結句は詩の結びですから、読者へ伝える重みや余韻が関わりますので、何を最後に持ってくるかが重要だと私は思います。
 この詩では「芽甲」「老農」ともに春に備えるというもので、しかも対句ですので、役割的には同じになりますが、人を最後に置くか、植物を最後に置くか、で作者の詩に託した思いが表れます。「逆風の中に、春の準備をするというのは、現在の私の心境」とのことですので、現行の形で良いだろうと思います。


  2010. 8. 4                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第164作は 青眼居士 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-164

  愛犬        

老犬名言諷   老犬 名づけて諷と言ふ

雌而十二年   雌にして 十二年

願望唯飯足   願望 唯飯の足る

肥満遂肢顚   肥満 遂に肢顚(たお)る

嘱目欲毋與   嘱目 欲すれど与ふること毋(な)くんば

垂頭悲莫延   垂頭 悲しめど延くこと莫(な)し

可哀無垢命   哀れむべし 無垢の命

傍汝共春眠   汝に傍ひて 春眠を共にせん

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 我が家の愛犬は12歳の老犬で、名前を諷と言う。唯一の願いは腹いっぱい食べることで、甘やかしたがために遂に股関節を傷めてしまった。
 あわてて食餌制限をしたのだが、人間の食事の時に欲しがってじっとテーブルを見上げる。それでも与えなければ悲しそうにうな垂れるが、食事が終われば何事もなかったように尻尾を振って寄ってくる。
 純真無垢の老犬に限りない痛ましさと愛おしさを感じる。ひとつ今日はお前と一緒に昼寝でもしてみるか。

<感想>

 私の家でも、愛犬と十五年一緒に暮らしました。晩年は緑内障で片目が見えなくなりましたが、それでも一歩一歩確かめるように散歩していた姿が今でも目に浮かびます。

 ペットは家族の一員、とよく言いますが、十年以上も一緒に居ると、子供達の成長や日々の生活を見守り続けて、家族の誰よりも私たちを支えてくれた存在だと感じます。

 愛犬へのことを詩に託そうとすると、思いが大きすぎて、どんなことを言えば足りるのか分からなくて、あれもこれも言い足りない、という気持ちになりますが、この詩では、食事の折の一スナップを中二聯に置いて、愛犬の姿を髣髴をさせていますね。

 第一句に名前が「諷」とありますが、このお名前を付けた意図や、名前と関わる行動などが描かれると、この句の働きがよくなります。今ですと単に紹介ですので、部外者にとっては(失礼な言い方ですが)「諷」でも他の名前でも良いことになり、作者の気持ちが十分には伝わって来ないのが残念です。


2010. 8. 4                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第165作は 青眼居士 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-165

  菜園有感        

晩春首夏尚餘寒   晩春 首夏 尚寒を余し、

蔬菜高騰民不安   蔬菜 高騰 民安からず。

長雨田園塗若濘   長雨の田園 みちぬかるが若きも、

薫風壟畝土初乾   薫風の壟畝 土初めて乾く。

胡瓜苗展恰宜植   胡瓜は苗びて 恰も植うるに宜しく、

蚕豆莢肥秖好餐   蚕豆は莢肥えて まさに餐ふに好し。

農事竟年多苦慮   農事は竟年苦慮多し、

然而莫似世縈蟠   然れども世の縈蟠えいばんするに似ること莫し。

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 今年は春から初夏にかけて寒い日が多く、作物の成長は遅いし、夏野菜の植え付けの時期にも頭を悩ましたものです。
 しかし、一日初夏らしい爽やかな風がふきはじめると、畑の土は乾き農作業に好適となりました。
 キウリは苗が大きくなってちょうど定植によい頃となり、ソラマメは莢がでっぷり太って今が食べごろである。
 私らの家庭菜園もふくめて、農業と言うのは年中心配や苦心が絶えないけれども、自然の摂理は明解で、今の世の中のように迷走して縺れはびこる様子とはだいぶ違う。

<感想>

 植物と接するようになると、自然の変化に敏感になります。私の最近のもっぱらの問題は、天気予報を見ては、庭の水やりをどうするかを考えることです。まあ、簡単に言えば、雨が降るなら水やりをパスしたいという願望なのですが、しかし、愛知県では夕立すらもほとんど無いような状況で、結局は蚊に刺されながら毎日水を撒くことになってます。
 数週間前の長い豪雨に苦しんでいたことが信じられないくらいです。

 七月の終わりから学校のキャンプに生徒引率で行ってきたのですが、昨年は梅雨明けが遅く、同時期の行事ですが土砂降りの中でのキャンプでした。ところが今年は熱中症を心配しなくてはいけないようなカンカン照り。太陽との戦いだけで疲れてしまいました。

 さて、詩の方は、首聯で今年の天候不順を述べ、頷聯では「濘」「乾」の対比で好転の気配を伝えます。
 頸聯はそれを発展させ、「胡瓜」「蚕豆」と具体的な野菜名を出すことで、農家の人(家庭菜園の作者も含めて)の嬉しく働く様が見えてきます。

 最後に農業から「現代日本の混乱」へと持っていったのは強引な気もしますが、頸聯で好転を詠った分だけ、尾聯の上句と下句の間に「(農業は苦労が多いけれど)楽しみもある。それに比べて(現代日本は混乱しっぱなしだ)」とつなげる下地はあるということでしょうかね。


2010. 8. 4                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第166作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-166

  祝喜寿        

遐算迎来喜寿年   遐算(かざん)迎へ来る 喜寿の年

蒼顔白首集華筵   蒼顔白首  華筵に集ふ

語朋和気長生訣   朋と語り気を和らげるは 長生きの訣

朝夕琅琅不老仙   朝夕琅琅(ろうろう)たり  不老の仙

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 同期の親友と喜寿の祝いをした時のものです。
お互いに長生きの秘訣を語り合いました。

 [語釈]
「遐算」: 歳をとること
「蒼顔白首」: 老人
「琅琅」: 明るく元気なこと

<感想>

 喜寿をお迎えになり、おめでとうございます。
 緑風さんからは、昨年の投稿詩「年末偶成」や今年の新年漢詩「平成二十二年 年賀(二)」、「賀新年」でも喜寿の思いをいただきましたが、今回はお友達との楽しい様子が描かれて、お喜びが一層増したように拝見しました。

 仰る通り、不老長生の秘訣は、気のおけない友人、愛する家族と楽しい時を過ごすことだと思います。
 ここ数日、ニュースでは超高齢者の所在確認が出来ていないと報道されています。色々な事情があるのでしょうが、10年、20年以上も家族が会っていない、近所の人も顔を見ていないというまま過ぎていく現代社会ですので、長寿を喜ぶことができる仲間がいることこそ、何よりの喜びですね。


2010. 8. 5                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第167作は 青眼居士 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-167

  首夏池畔        

佳期未到一隅蓮   佳期未だ到らず 一隅の蓮、

水榭旗亭亦寂然   水榭 旗亭も亦寂然たり。

山色空濛非獨雨   山色 空濛 独り雨のみにあらず、

楝花紫白宛如煙   楝花の紫白 宛ら煙の如し。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 五月の末から六月のはじめごろ、さくらは勿論、名高いきりしまツツジも終わって、長岡天満宮の境内は閑散としています。
 池の中央に中国のどこやらの池のものを模した水亭が作られているのですが、折からの雨で人影は無く、たけのこ料理で有名な料理店もひっそりしています。
 そんな中で池畔に並び立っているセンダン(中国の栴檀とは別)の大木は今が花の時期で、紫白のこまかい花を房状につけて雨空の下にぼんやりと浮かんでいます。なかなかの風情です。

<感想>

 前半はよくまとまっていて、特に起句の「未到」と承句の「寂然」がよく対応していると思います。感情形容語の「寂然」は、これが主題ならばあまり使いたくない言葉ですが、この「寂然」も含めての景色を出したということですね。

 転句は蘇軾の「飲湖上初晴後雨」を意識したものですので、それを考えて訳せば、「山色が空濛として良いのは雨の時だけではない、紫白の楝花も煙のように遠くの山を霞ませている」ということでしょう。
 ただ、花が山を霞ませるというのはなかなか理解しにくく、結局、楝花も雨でぼんやりしていることを考えると、「非独雨」は展開に無理があるように思います。また、意味から行けば本来の語順は「独非雨」のはずですが、平仄の関係で入れ替えたのでしょう。


2010. 8. 5                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第168作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-168

  寄卒哭忌     卒哭忌に寄す   

天意無情獨悵然   天意 無情 獨り悵然

服喪三月憶生前   服喪 三月 生前を憶ふ

當知去者疎日以   當に知るべし 去る者は 日々に疎し

休哭如今人已仙   哭くを休めよ 如今 人 已に仙なり

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 故M大兄の百日忌に、奥さまを招いて「M大兄を偲ぶ会}を催した。
百日忌を「卒哭忌」とも称するのは「哭くのを卒さめる」の意である。

「三ヶ月も経った。泣いてばかりいないで、もう通常の生活にお戻りなさい」
とは言え、急には気分転換が出来ない御本人の気持ちを察して一句を献呈した。

    衣更へて猶人を戀ふ百日忌  
             兼山




<感想>

 M大兄は兼山さんの高校時代の一年先輩の方でしたね。
 私も高校時代の先輩としては、やはり一年上の方が一番親しみやすく、色々な方にお世話にもなりましたが、どなたも私にとっては大切な方ばかりですので、兼山さんのお悲しみもよくわかります。

 今回の詩は、前回の「悼M大兄」に比べると、作者の気持ちがより明確に出ていますね。
 ただ、承句の「憶生前」は、転句に直接つながりそうで不安です。
 転句や結句の「人已仙」は、悲しみを忘れるために、そう思い込もうとする心であって、現実に「去る者は日々に疎し」ではあまりに無情です。「憶生前」はその無情を更に強調しているようで、ここは「卒哭忌」の折の季節の風物や天候などを描く方が誤解が少ないでしょう。


2010. 8. 5                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第169作は 展陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-169

  雨後        

雨後微涼薫風軽   雨後微涼 薫風軽し

簾掀夾道雀吟声   簾を掀(あ)ぐれば 道を夾(さしはさ)む雀の吟声

偸閑把酒臨窓坐   閑(ひま)を偸みて酒を把り 窓に臨みて坐す

万事忘愁暑自平   万事愁ひを忘るれば 暑さも自ずから平らかならん

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 今年の夏の暑さは、とにかく堪えがたいですね。せめて「微涼」だけでもと思いますが、陽射しにはそんな思いやりはないようです。
 展陽さんのこの詩を読んで、少し涼しくなりましょう。

 起句は「下三平」ですので、直しましょう。「蒼樹明」「午下清」「山気清」などが候補でしょうか。

 承句の「簾掀」は語順を逆にして、「掀簾」が自然ですが、どうして入れ替えたのでしょう。

 転句は「偸」「把」「臨」「坐」と七言の中に四つも動詞が入っていますので、句が慌ただしくなっています。少なくとも「坐」は余分でしょうから、「北窓下」としておいてはどうでしょう。

 結句は「忘愁」が唐突に感じますが、作者は転句の「把酒」を意識して、「酒は愁いを忘れさせる」という流れなのかと思います。それはそれで分かるのですが、「暑自平」まで来ると、筆が走りすぎてしまったという感じで残念です。
 論理として「酒が暑さを飛ばしてくれる」と言うならば、前半の「雨後」「微涼」「薫風」「簾」「雀吟声」などが無くても、「酒」さえあれば暑さがしのげるわけで、「暑」一字によって、前半を否定してしまった形です。慣用句のようになりますが、「心自平」としておけば、破綻は無かったと思います。


2010. 8.11                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第170作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-170

  丁亥皆既月蝕即事        

C宵次第月光缺   清宵 次第に月光欠け

全覆金環雲影中   全く金環を覆ふ 雲影のうち

自然妙理何深奥   自然の妙理 何ぞ深奥なる

暫且回元造化工   暫且ざんしょ元にめぐる 造化のたくみ

          (上平声「一東」韻の押韻・起句踏み落とし)



丁亥ていがい皆既月食」: 平成十九年(2007)八月二十八日、晴れ、松山でも赤銅色の月影が見えました。
         次回は本年2010年十二月二十一日です。

  「財団法人 国際文化交友会

「暫且」: 少しの間、暫時。


<感想>

 日食、月食といった現象は、本当に天体ショーという感じですよね。
 古代の人はいざ知らず、何となくウキウキしてしまうのが現代人の心ですね。ただ、昨年辺りの皆既日食の時のように、あまりにショー化してテレビでキャーキャー騒ぐところまで来ると、サラリーマン金太郎さんが仰るような「自然妙理何深奥」という意識が薄くなってしまう気がします。
 日食に比べると月食は、夜ということもあって落ち着いた感じがあり、「妙理」を感じるには適しているかもしれません。

 承句は、「金環」が「満月」を指し、それが「全覆」で「全て隠されて」、「まるで雲に隠されたように(雲影中)見えなくなった」という意味でしょう。
 ただ、「雲影」を比喩ととらえてもらえるかと言うと疑問で、文字通りに、「雲が出てきて見えなくなった」と読んだ方が自然に感じます。
 月食の丁度ピークの瞬間を述べるわけですから、この下三字をもっと劇的にしても面白いと思います。

 結句の「造化工」は、「月がまた素晴らしい姿に戻った」ということでしょうが、「暫且」があると、皆既から一息で満月に戻ったような気がしますね。実際は起句とは逆の進行が「次第」にあったわけで、句としては「漸漸回元造化工」くらいの方が納得できます。


2010. 8.11                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第171作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-171

  讃印度巴爾判事     インド パール判事を讃ふ   

風去怒濤収暗雲   風去り怒涛 暗雲収まり

裁和法廷議紛紛   和を裁す法廷 議紛紛たり

浩瀚堂堂君正論   浩瀚(こうかん)堂堂 君正論す

親交日印立功勲   親交の日印 功勲を立つ

          (上平声「十二文」の押韻)


「浩瀚」: 広く大きな様

<解説>

 インドのパール判事は先の大戦における戦犯を裁く極東国際軍事裁判(「東京裁判」)で、唯一全員無罪を主張した。「戦争の勝敗は腕力の強弱であり、正義とは関係ない」と戦争裁判の不当を唱えた。また平和に対する罪など、事後に作った法律で裁くべきではないと批判した。
 またパール判事は、東京裁判で被告を全員無罪としたことについて、「わたくしが日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。わたくしは日本の同情者として判決したのでもなく、またこれを裁いた欧米等の反対者として裁定を下したのでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい」と述べた。この博士の高い見識に、多くの人は、畏敬の念を深くしたという。

 また平成19年8月23日インド訪問中の安倍晋三首相はコルカタ市内のホテルで、東京裁判でインド代表判事を務めた故パール判事の長男プロシャント・パール氏(81)と約20分間懇談した。首相は「お目に掛かれてうれしく思います。お父様は今でも多くの日本人の尊敬を集めています」とあいさつされたところである。

 現在、東京靖国神社や京都霊山護国神社境内には「パール判事顕彰碑」が建立されている。
 京都の顕彰碑には竣工間もない日に小生も参拝した。

 間もなく第65回目の終戦記念日が巡ってくる。改めて平和の意義をかみ締めたいと思う。

★ラダビノード・パール博士略歴
 1886年    1月27日インド、ベンガル州ノディア県クシュティア郡カンコレホド村に生まれる。
 1921年    弁護士登録。
 1927−41年  インド政府法律顧問に就任。
 1941−43年  カルカッタ高等裁判所判事。
 1944−46年  カルカッタ大学副総長。
 1946−48年  極東国際軍事裁判所判事。
 1952−67年  国際連合国際法委員会委員(1958年度および1962年度委員長)。
 1960年    インド最高の栄誉である PADHMA RRI 勲章 を授与。
 1966年    四度目の来日、日本政府より叙勲一等。
 1967年    1月10日、カルカッタの自邸において逝去。

参考  「パール(「ぶらり重兵衛の歴史探訪3」様サイト)

<感想>

 うーん、この詩はパール判事への思いが強すぎたのでしょうか、ちょっとポイントがぼやけていますね。
 戦争から東京裁判の歴史説明、パール判事の発言、そして、その後のことなどをまとめて絶句四句に収めるのは、かなり苦しいと思います。そのためか、具体的な記述よりも抽象的な説明になっており、結句の「親交日印立功勲」もなぜこういう結びになるのか、解説を読まないと分からない読者が多いと思います。

 また、転句の「君正論」も観念的で、「こちらが正しい」と作者の考えを押しつけられる印象がします。ここは「公正論」として、パール判事の言葉を持ってきた形の方がおだやかでしょう。

 私の感想としては、結句の後日談は我慢して、当時のパール判事の発言や考え方(「見識」)に該当するようなことを詩の中に書くと、全体のまとまりが生まれると思いました。


2010. 8.11                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第172作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-172

  幽趣逍遥        

細雨如煙対白濱   細雨 煙の如く白浜にむか

柳堤蕭寂湿衣巾   柳堤 蕭寂 衣巾を湿す

同雲住嶺江村暮   同雲 嶺にとどまる 江村の暮

懐抱迷行浅浅春   懐抱 行に迷ふ 浅々の春

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 承句の「湿衣巾」の主語は起句の「細雨」ですね。それならば、承句は「細雨湿衣巾」と近づけたいところです。
 「白浜」「柳堤」がはみ出てしまいますが、起句で場面を少し整理すると良いでしょう。

 転句の「同雲」は「雪雲」のことで、どんよりとして色が同じことから来た言葉で、今にも雪が降り出しそうな重く暗い雲を表しています。
 結句の「浅浅春」は、「少しずつ春になっていく」ことですので、「同雲」と合わせると冬とも春とも言い難い時季のようですね。
 その微妙な季節だから、「迷行」であり、題名の「幽趣」なのだろうと思います。
 できれば、前半でもう少し「白浜」なり「柳堤」について、「春の気配がする」とか「まだ冬のままだ」とかを感じさせる写実的な描写が欲しいことと、題名も「幽趣」ではなく、ストレートに「春初逍遥」としてはどうでしょうか。


2010. 8.13                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第173作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-173

  同窓会        

卓有嘉肴手鵦醇   卓に嘉肴有り 手に鵦醇

紅顔緑髪歓談頻   紅顔緑髪 歓談頻り

浮生天命誰能料   浮生の天命 誰か能く料らんや

老気横秋活満宸   老気 横秋 活 宸に満つ

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 今年は喜寿を祝って、第14回目の同窓会を開催し、八十名が参加しました。
 この歳になると出席したくても健康面で出られない人が多くなり、参加できることが一番幸せだなと思います。
もっとも小生は主催者としての苦労が多々ありましたが・・・・

 一同、高校時代に戻って、昔話に花が咲かせお互いに活力を吸収されたようです。

<感想>

 緑風さんの前作、166作の「祝喜寿」と同じ頃に作られた詩ですね。

 前作では、「青顔白首」と出されていたのですが、今回は「紅顔緑髪」と来て、おや、どうしたことかと思いました。「若い頃と同じような(気持ちで)歓談した」ということかと理解しましたが、解説を拝見すると、「高校時代の昔話」ということのようですね。
 ただ、この書き方では「紅顔緑髪」「歓談」の主語と取り、そうなると、血色も良く、髪も黒々とした方ばかりが参加したのかと読み取るのが自然です。解説や私のような読み方は、かなり相当無理をして善意に読んだ時のものと思ってください。

 結句の「老気横秋」は、「老人パワーが秋(空)に横たわり」と解釈するのでしょうか。
 「宸」は意味は「宮中の御殿」、同窓会の会場を大げさに表したのでしょうが、やはり誤解を招くと思います。「上平声十一真」韻は韻字の数も多いことですから、下三字は推敲されると良いと思います。


2010. 8.13                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第174作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-174

  雨日閑適        

江村六月景濛然   江村ノ六月 景 濛然トシテ

畔竹堤楊影若烟   畔竹 堤楊 影 烟ルガ若シ

野雨欲来沾鷺語   野雨 来タラント欲シテ 鷺語ヲ沾ラシ

雷光初起彩池蓮   雷光 初メテ起コッテ 池蓮ヲ彩ル

閑閑貪睡午鐘下   閑閑 睡ヲ貪ル 午鐘ノ下

適適賦詩灯火前   適適 詩ヲ賦ス 灯火ノ前

逸居窮里人無訪   窮里ニ逸居シテ 人ノ訪ル無キモ

日日真可隔俗縁   日日 真ニ可ナリ 俗縁ヲ隔ツルハ

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 メールに「久しぶりに投稿します」とのコメントをいただきましたが、同郷ということで、いつも近くに居ていただける安心感があり、私にはあまり間遠な気がしません。

 前半は、梅雨空の下での川沿いの風景ですが、第二句の「影若烟」は前句の「景濛然」と重なり、比喩の効果があまり感じられません。
 ここは「竹」なり「楊」の実景を写した方が良いので、「畔竹堤楊翠緑烟」と比喩を取る形でどうでしょう。

 眼前の風景に対しての、写生画を見るような丁寧な自然描写が真瑞庵さんの詩の楽しみですが、今回は頸聯から作者ののんびりとした生活を詠っています。
 その分全体での情景描写が短くなりましたが、素材を絞ることによって一層緊張感も出て、良い詩になっていると思います。

 尾聯の平仄が乱れていますので、せっかくの好詩、整えられることをお勧めします。


2010. 8.15                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第175作は 忍夫 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-175

  雨中観花        

桜花万朶又千枝   桜花万朶 又 千枝、

独領紅雲雨景奇   独り紅雲を領して、雨景も奇なり。

唯惜青春時節短   唯青春の時節 短きを惜しみ、

詩家行楽歩遅遅   詩家の行楽 歩み遅遅たり。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 近くに橘諸兄公ゆかりの井出の里があります。古来、山吹の花が有名で歌にも多く詠まれています。井出の玉川は桜も美しく、雨の中訪れたところ、花見の客も無くゆるゆると桜の花を楽しみました。
 投稿した短歌や俳句を桜の枝につるしてくれてあるので作品をよみながら歩くのも一興です。
 「玉川の桜盛りとなりぬれば雨にも濡れてながむるもよし」という去年の拙作が目にとまり、去年も雨の中に桜を見に来ていたのかと感慨に浸りました。



<感想>

 花を独り占めという、贅沢な喜びが「万朶」「千枝」「雨景奇」などの言葉で素直に表現されていて、うらやましいと共に、好感の持てる詩ですね。

 転句の「青春」は「春」そのもの、「青」は五行では春を指す色です。

五行





西

 ただ、ここのところは「若い頃」と読んで理解したくなるような、そんな清新さも感じられます。作者の心の年齢が幅の広さを持っているからでしょうね。


2010. 8.16                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第176作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-176

  春愁        

長堤春盡落花流、   長堤 春尽きて 落花流れ、

九十韶光不得留。   九十の韶光 留むるを得ず。

少憩新陰望天半、   新陰に少憩して 天半を望めば、

杜鵑一叫破春愁。   杜鵑 一叫 春愁を破る。

          (下平声「十一尤」の押韻)

<感想>

 「春愁」は、春の華やかさの陰に潜む愁いを表し、過ぎゆくものへの寂寥感は詩人ならではの感覚と言えます。その愁いの中に浸りそうになった心をスパッと斬るホトトギスの鋭い声、井古綆さんの手慣れた構成が伝統的な詩題を破綻無く描いていると思います。

 承句の「九十」は三春、つまり春三ヶ月の九十日を表しています。

 起句と結句の「春」の重複だけは気になりますので、起句の「春尽」の方を直されると良いと思います。


2010. 8.16                  by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

ご高批ありがとうございました。
初めて同字重出を試みました。
起句の「春」の意味を結句まで持続させるのは無理なように思いましたので、同字重出の禁を侵しました。


2010. 8.17              by 井古綆





















 2010年の投稿詩 第177作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-177

  先算狸皮        

政權公約及財源、   政権公約 財源に及び、

國庫収支疑議論。   国庫の収支 議論を疑ふ。

先算狸皮正荒誕、   狸皮(りひ)を先算するは 正に荒誕、

毋虧確實弄甘言。   確実を虧(か)いて 甘言を弄する毋(なか)れ。

          (上平声「十三元」の押韻)




「先算狸皮」: 取らぬ狸の皮算用(未捕狸子先算皮价)。
「荒誕」: 荒唐。言説がとりとめのないこと。
「虧」: 欠ける。


<感想>

 井古綆さんのお手紙によりますと、今回の詩は丁度一年前にお作りになったものだそうですが、現時点に持ってきても内容は全く色褪せて見えませんね。
 と言うよりも、政治の方が何も進展していないと考えた方が良いでしょう。
 昨年の衆院選、敵失から転がり込んだような政権を自失点でどんどん苦しくしているような感じで、参院選の敗北以来、政府が一歩も動けずに立ちすくんでいるような印象しかありません。
 「もう既に1年間分の時間的(政治的)空白ができているぞ」という意味を籠めて、掲載をさせていただきました。

 皮算用をしていたのは現政権なのか、それとも国民なのか、せめてその答だけでも分かるような進展を見せて欲しいと思いますね。


2010. 8.16                  by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

 ご高批ありがとうございました。
当詩の投稿したことをすっかり忘れていました。

 改めて作詩日を調べましたところ、2009,8,18日となっています。ネットで調べますと、衆院選の公示日でした。
 今から振り返ってみれば、当時野党であった民主党のマニフェストが余りにも「狸皮先算的」な公約を掲げたことに対して、一種の皮肉を込めて作ったと記憶します。
 やはり政権奪取のため、大風呂敷を広げた「吹牛」のではないでしょうか。


2010. 8.17               by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第178作は 秀涯 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-178

  傷琉金     琉金を傷む   

児掬琉金玩具為   児 琉金を掬ひて玩具と為す

戯遊淡海巳跳危   戯遊ぶ淡海 巳は跳ねて危ふし

得棲十歳空濾水   棲得て十歳 濾水も空しく

患六可憐魚往悲   患ふこと六日憐むべし 魚は往きて悲なし

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 娘が、昔縁日の金魚掬いで持ち帰った琉金。
 戯れ遊泳し、狭い水槽から跳ねて床でピチピチやっていた事もある。
 棲んで十年。老いて病を患うこと六日余り。可愛そうだが、遂に往ってしまった。生あるものの悲しきかな。

<感想>

 秀涯さんから送っていただいたのは随分前なのですが、結句が欠落していたため後回しにし、確認するのが遅れてしまってこの時点での掲載になりました。すみません。

 今年はペット関係の詩が結構多いような気がしますが、金魚は初めてですね。
 猫とか犬は飼い主との意思の疎通が出来る部分があり、家族の一員という気持ちで飼っていらっしゃる方も多いと思いますが、金魚はどうなのでしょう。
 私の家では金魚は何故か短命で、愛情が湧くほどの日数飼えたことが無いのが実情ですので、十年も飼っていらっしゃったと聞くと、ただただ驚くばかりです。

 起句は下三字の語順が苦しいですが、頑張って「玩具と爲す」と読んだとして、では句全体の意味はと言うと、「子供が金魚を掬っておもちゃにして遊んでいる」という小動物虐待のような話としか読めません。句の主語は「児」ですので、「日愛之(日に之を愛す)」とするところでしょうか。

 承句は主語が金魚に替わっているのですが、起句と承句はワンセットで考えますので、導入の言葉が無いと、「児」が湖で遊んだのかと思いました。
 水槽を「淡海」と呼ぶのも苦しいですが、「巳跳危」は意図がつかみかねます。「水槽から飛び出していた」ことは家人にとっては大きな思い出かもしれませんが、読者は「10年間、金魚はどう過ごしていたか」だと思います。金魚が年がら年中「危」うい状態に居たわけではないのですから、ここは「安らかにのびのびと泳いで(生きて)いた」という内容でないといけません。

 転句も前半は良いですが、下三字の「濾水」がどうして「空」しいのか、「共棲十歳忽焉病」のように丁寧に説明した方が良いでしょうね。

2010. 8.21                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第179作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-179

  論詰佳人有感        

論詰佳人欲断腸   佳人に論詰(ろんきつ)されて腸を断たんと欲す

胸中寂寂又荒涼   胸中寂寂(せきせき) 又荒涼(こうりょう)

難堪戀慕君休笑   堪え難き恋慕 君笑ふを休(やめ)よ

暗涙数行心易傷   暗涙数行(すうこう) 心傷(いた)み易(やす)し

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 起句は「佳人を論詰」とも「佳人に論詰」とも取れますが、どちらにしても「論詰」は表現としてきついですね。「論白」として、下三字の「欲断腸」ももう少しゆるやかな言葉にしましょう。

 承句以下も表現の大げささは感じますが、恋人同士の喧嘩ということで見れば第三者は少しゆとりを持って読めます。でも、当事者としては切羽詰まった気持ちなのでしょうね。

 題名の「有感」は「論詰佳人」を受けては間延びした感じがしますので、削った方が良いでしょう。


2010. 8.21                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第180作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-180

  賞桜花        

清明独楽野人家   清明 独り楽しむ 野人の家

思入佳期情亦加   思ひは佳期に入って 情亦た加ふ

屋外風来芳意好   屋外風来たりて 芳意好し。

歓天喜地万桜花   歓天喜地 万桜花

          (下平声「六麻」の押韻)




<解説>

 家の外では桜の花が咲いて美しくて、しかし、自分はそんな季節を独りでしか楽しめないものなのかな?という気持ちです。
でも、うれしいことです。きれいなものを見ると言うことは。

<感想>

 題名から見て、すいすいと読める詩かなと思いましたが、解説と合わせて起句の「独楽」を寂しいイメージで解釈すると、悩み始める方が多いのではないでしょうか。
 特に承句は、「独楽」しているのに、更に心が「佳期」に入るって何のことを言っているのか、難しいですね。

 結句の「歓天喜地」は互文で「春の天地に歓喜する」という意味でしょうから、ここでは「独楽」を肯定的に読み、「この素晴らしい光景を独り占めだ!」と解釈して行くと、詩全体が一貫して良い詩になると思います。

 ただ、この春の風景の中での孤独感、寂寥感も出したい、というのが作者の思いであるならば、「独」の字を承句に持ってくる形で、前半二句で寂しい気持ちを強く出す必要があります。その作者の寂しさに対して、窓の外は・・・・という展開で後半を生かせるでしょう。
 ただ、それでも結句の「歓喜」で作者の感情を出してしまうのは抑えるべきでしょうね。


2010. 8.21                  by 桐山人