2010年の投稿詩 第121作は北九州市にお住まいの 牛山人 さん、六十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2010-121

  晩春偶成        

十里長堤千万枝   十里の長堤 千万の枝。

行人仰看月如眉   行人 仰看る 月眉の如し。

桜雲流去風前立   桜雲 流れ去り 風前に立つ。

一水渡頭花落時   一水の渡頭 花落る時。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 三日月を見ながら桜並木のもと、海峡のほとりに春風をうけながら花びらの落ちる様をと思って作りました。

 今年初めから漢詩を作る勉強を始めて、なんとか一首を作りました。
 何としても一首作りたくて、二つほど作りましたがうまくいかず、今度のは出来ているのかどうかを教えていただきたくアップしました。
 間違っているところを出来れば教えて頂ければ幸いです。

 又、現在の自分の状況等を詩に作りたいと懸命です。
これからも宜しくお願いいたします。


<感想>

 平仄に破綻もなく、作り始めたばかりとは思えない作品だと思います。「(漢詩として)出来ているのかどうか」とご心配なさることはないですよ。
 初めのうちは一首作るのにも時間がかかって、作品として通用するのかどうかも不安かもしれませんが、このような詩をどんどん作って行かれれば大丈夫です。

 形式のことよりも、内容にどれだけ自分の思いを籠められるか、という点に思いを深めていくことが肝要でしょう。
 古人の詩を読む時にも、作者はどんな気持ちで、何を言いたくてこの詩を書いたのか、この表現をしたのはどんな意図か、そうした点に気をつけながら、多くの作品に触れていくと、俗に言う「(作詩の)カン」のようなものが自然に身についてきます。

 そういう観点で今回の詩を拝見し、推敲の方向を考えましょう。

 起句は「十里」「千万」の数詞の対比で、まず桜花の堤が広く描かれていて、よく工夫された詠い出しになっていますが、それを受けての承句に「行人」として作者の姿が出てくるのが物足りないところです。
 もちろん、「行人」は、作者でなく花見客を表しているととれないことも無いのですが(それならば情景の一つとして収まります)、「月如眉」という感懐が入れば、他人の心の中までは読めないわけですから、これは作者自身のこととしか考えられません。
 「月が眉のように細く感じたのだ」というところで既に作者の感情が暗示され、そのままの延長で転句の「風前立」(「風前に立つ」と読むためには語順が苦しいですが)と作者の姿が提示されると、転句の働きがいかにも弱く、結局、ずるずると最後まで流れてしまう形で、全体の印象も余韻も浅く感じます。

 起句と承句はひとまとまりに考える、これが絶句の構成の要点です。心情や作者の姿を出したいところでも、叙景で書き出したならば次の転句までは作者を出さずに我慢するか、承句の作者の姿も客観的に見た叙景の句として、転句から別の観点から語り始めるか、そうした全体を見ての構成を考えると、詩としてのまとまりが生まれるでしょう。

 転句の「桜雲」は雲ではなく桜の花そのものを指しますので、「桜雲流去」と結句の「落花」に重複が表れていますので、ここもお考えになると良いでしょう。


2010. 5. 8                 by 桐山人



斗牛さんからお返事をいただきました。

 わかりやすく教えていただき有難うございました。

 基本的な考え方を教えて戴き、また大方では間違いのないこともわかりました。これからは感慨が詩に出来るように頑張りたいと思います。
 扨、投稿した「晩春偶成」を訂正しました。簡単に基本的な間違いを教えて頂ければ幸いです。

    晩春偶成
  十里長堤千万枝●●○○○●◎   十里の長堤 千万の枝
  鴉散人帰送春時○●○○●○◎   鴉散じ 人帰り 春を送る時
  如狂欲問君安在○○●●○○●   狂ふが如く 問はんと欲す 君安くに在りや
  一水渡頭払面吹●●●○●●◎   一水の渡頭 面を払って吹く


2010. 5.10             by 斗牛


 起承転結については、良くなったと思います。
しかし、平仄が乱れてしまいましたね。示しておきましたが、問題があるのは、承句と結句です。
 承句については、「鴉散」「人帰」を入れ替えておけば、「二四不同」「二六対」ともに合うでしょう。
 結句は「四字目の孤平」になっていますので、三字目か五字目を平字にしなくてはいけません。
再推敲案もいただきましたが、そちらでは

  一水渡頭聴子規   一水の渡頭 子規を聴く

となっていまして、「聴」は平仄両用ですので大丈夫です。
 ただ、承句で「鴉散」と述べたばかりですので「子規」を持ってくるのは、どうでしょうか。
 転句全体、特に「如狂」は、詩情としてはストレート過ぎるので、ここももう一息、時間を置いて推敲するのが良いかと思います。


2010. 5.24                by 桐山人



牛山人さんから、再推敲をいただきました。

 再度の訂正の悪いところをわかりやすく解説いただき、有難うございました。
 起句承句を重点に考え、平仄に又「二四不同」「二六対」「孤平」などに関しては頭から抜けてしまっていました。

 再び推敲しました。     晩春偶成
  十里長堤千万枝   十里の長堤 千万の枝
  人帰鴉散送春時   人帰り 鴉散じ 春を送る時
  蘭舟寂寂君安往   蘭舟 寂寂 君安くに往くや
  古渡沈沈酒一巵   古渡 沈沈 酒一巵


 蘇軾の「春夜」を拝借いたしましたが、はたして当てはまるか否か。


2010. 5.30               by 牛山人



 随分良くなりましたね。何よりも、イメージが統一されてきたため、詩が読みやすくなりました。
起句は「長堤」を「桜堤」にして花を出しておいた方が良いでしょう。

 「古渡沈沈」は、「酒一巵」とのつながりが弱いですね。結句はまだ直す必要があるでしょうね。


2010. 8. 4            by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第122作は 秀涯 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-122

  想君        

遇与君探勝   遇ふて君と与に 勝を探ぬ

帆輝片瀬橋   帆は輝く 片瀬橋

弾山河曲尽   山河を弾じ 曲は尽く

秋去客心寥   秋去りて 客心寥たり

          (下平声「二蕭」の押韻)

読み下しは桐山人が行いました。

<解説>

 君と遇い、景勝を歩いた。帆は、きらめき(真夏の)片瀬の海は素晴らしかった。(やがて)山河の流れ=琴の音は、激しく弾きつくされた。いつしか、秋が去り二人の別れの日が訪れた。

 若い日の思い出を残そうと挑戦しました。七言絶句より二字少ないことで、表現が難しいことと転句の構成がこれでいいのか迷いました。

<感想>

 七言に比べて五言の更に絶句となると、どうしても文字数が不足するために、句と句の間の飛躍が大きくなったり、一句の中でも大胆な省略があったりしますので、いざ作ろうとすると「あれも書けない、これも描けないない」と戸惑うことも多いものです。
 そのことをあらかじめ理解した上で、必要な言葉を選び抜くという作業がどうしても必要になり、そうでないと、結局何を言ってるのか分からない、読者の想像力まかせという詩になってしまいます。
 想像に委ねるにしても、その方向性をどれくらい限定できるかが作者の努力で、読者への思いやりになります。

 今回の詩で言うと、句の展開では起句から承句の流れが苦しいですね。「探勝」と持ってきたからには、多少なりともその景物を描くべきで、固有名詞に三文字も使っては、作者の思い出としては良いにしても、読者には具体的に何も目に浮かびません。
 「帆輝」としたならば、橋ではなく、川か海の様子を描いた方が良いでしょうね。

 また、転句は「山河の曲を弾じ尽くし」と読むのかもしれませんが、いづれにしても、「山河(の曲)を弾ずる」とは何のことか多少の導入が無いと理解できないと思います。

 最後の結句は無難にできていますが、「客」である必要性がはっきりせず、前半との対応が出て来ませんので、読者は「あれ、二人で遊びに行ってたんじゃないの?」という気持ちになります。
 現在の「客心」から過去を回想したということでしょうから、結末を述べたい気持ちは分かりますが、全体との関わりで考えると、この詩では二人で過ごした時間に限定して描写した方が良く、「客」の一字を推敲されたらどうでしょう。


2010. 5. 8                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第123作は 小鮮 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-123

  故郷 春天        

連山残雪映蒼穹   連山の残雪 蒼穹に映え

満邑桃花万朶紅   満邑の桃花 万朶紅

白鷺飛来追土塊   白鷺飛来し 土塊を追えば

回眸暫止耒車翁   眸を回(めぐら)せ 暫し止む 耒車の翁

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 原形は数年前に書きました。
 昨秋『漢詩を創る、漢詩を愉しむ』を頼りに推敲した四季連作の故郷の春景です。

 故郷を出てから数十年。久しぶりに帰郷して感じた変わらぬ風景(連山残雪、白鷺追春耕)と現代の風景(郷里でここ数年流行のハナモモ栽培、トラクターによる起耕)の対比を、書いてみました。

 耒車:耒の車。現代中国語で警察のパトロールカーを警車というので、春耕用の耒を装着したトラクターの意味で「耒車」としました。
 春耕で土を返すと、土中に冬眠中の虫や蛙もあぶり出されます。白鷺や烏などの鳥がそれをねらい、耒車のうしろについてきます。

     大いなる雪形山にあらわれて翁(おきな)ゆるりと田起し初(そ)む


<感想>

 前半の叙景は遠近による立体感、また「残雪」の白、「蒼穹」の青、「桃花」の紅と重なって色彩感も豊かに描かれていると思います。
 その点から行けば、転句の「白鷺」の「白」は欲張りすぎでしょう。「烏鷺」でも良いかと思います。

 転句の「追土塊」は「白鷺」を主語として動きを出したところですが、「追」はやや弱いですね。「窺」「覗」のような攻撃的な意味を持たせるか、「耕地上」「田畝上」とすると結句との相性が良いでしょう。

 結句の「止」は「息」の方が意味も適すると思います。


2010. 5. 8                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第124作は 小鮮 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-124

  故郷 夏天        

燕子飛飛遊碧落   燕子飛飛として碧落に遊じ

禾苗育育映清漣   禾苗育育として清漣に映ず

田夫午睡猶慵起   田夫の午睡 猶起くるに慵(ものう)く

夢裏穣穣収稼筵   夢裏 穣穣たる収稼の筵

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 故郷では田植えが終わり初夏となります。
 まだ稲の稠密さより水面の広さの方がまさっている田圃の水面すれすれに燕が飛び交います。
 広い田圃も、今は田植機で一人で作業ができます。
 一仕事終えて休憩時のまどろみの中で農夫が見る夢は、秋の収穫のことでしょう。


     今はもう早乙女の歌もなく ただ目をみはる田植機の技


<感想>

 前半の対句が効果を出して、初夏の田園風景をよく表していると思いました。ただ、結句まで同じ位置に畳語を置くのは、せっかくの前対格の勢いを消しているように感じます。

 王維が「新晴野望」の詩で「農月無閑人」と詠みましたが、ちょうどそれに対応するのが転句で、現代の農作業をうまく伝えていますね。

 小鮮さんの詩は、詩作を重ねるほどにどんどん良くなってきているように思います。楽しみですね。


2010. 5. 8                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作を拝見いたしました。

 小鮮さんの作詩に対する姿勢が真摯に表われているように感じられます。
少しだけご助言を差し上げたく筆をとりました。

 転句の「田」を承句の韻字に使用すれば、完全な色対になります。

「飛飛・育育」の措辞は今後の課題として、いつか推敲されれば秀作になると思います。
 益々のご精吟を期待しております。


2010. 5. 9            by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第125作は 小鮮 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-125

  故郷 秋天        

峻嶺悠悠万里天   峻嶺悠悠 万里の天

黄金禾穂畝鱗鱗   黄金禾穂 畝(ほ)鱗鱗

農翁已刈稲畦角   農翁已に刈る稲畦の角(かど)

少壮将開康拝因   少壮将(まさ)に開(かい)せんとす康拝因(コンバイン)

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 昨秋の甲州道中を歩いたときの光景を故郷の秋に重ねています。
 現代の収穫はコンバインを使って、田圃で稲刈りと脱穀を同時におこない、籾の乾燥は乾燥機での作業になっています。あるいは、穂刈だけして、稲の茎は、別途粉砕し土中にすきこむ方式がとられていました。この詩では頼もしいコンバイン「康拝因 kang1bai4yin1:聯合収割機」を入れたくて通韻を使う無理もしています。

 なお、コンバインを使うときは、田の四隅は手刈りして、コンバインの最初の入り場所をつくります。
 現代語のコンバインや運転する意味での「開」をつかうのは、漢詩としてはどうなのでしょうか。許されますか。


     機械化が遍ねしといへど 幼きは落ち穂を集む稲刈りのとき


<感想>

 こちらの詩では、転句からの展開はよく分かりますのでこれで良いのですが、承句に稲穂のことが出てきますので、転句の効果がぼやけています。
 承句を起句に持ってきて、遠方の山の様子を承句に置くと、後半の独立性がはっきりしてくると思います。通韻も避けられるように思いますが、どうでしょうか。

 「開」の俗語用法や「康拝因」の音訳などは、もちろん他の字句で表せればそれに越したことはありませんが、どうしても古典語では違和感が残ったり、作者自身の思い入れがあるならば、仕方のないことだと思います。
 大切なのは、詩としての趣(これが多様なわけですから)が生かされているかどうか、だと思っています。
 結句に関しては、前の転句の「已」に対応するならば、「忽」などの意味の方がより対照的になると思います。


2010. 5. 8                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第126作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-126

  詠時節        

朝聞鶯囀喚春来   朝に鶯囀の春を喚びて来たるを聞き

夕見梅花点点開   夕べに梅花点々と開くを見る

欲賦下庭香馥郁   賦さんと欲して庭に下りれば香馥郁

真成景趣詠詩媒   真成 景趣 詠詩の媒(なかだち)

          (上平声「十灰」の押韻)

<感想>

 この詩では、鶯が来て春を呼び、その後に梅が開き始めたという描き方なのですが、「梅に鶯」の決まり言葉のように、鶯と梅で見ればやはり、梅が先にあるべきではないかと思います。前半が何となく読みづらいのは、そのあたりの違和感が影響しているかと思います。

 後半について見ますと、転句の「欲賦」は、結句に「詠詩媒」と置いたからには不要な言葉ですね。
 転句の内容が、梅の花だけになってしまい、詩題の「詠時節」とは合っていません。こうした展開ならば「詠早梅」とでもすべきでしょう。
 しかし、今は詩題に合わせることとし、転句全体を推敲されると結句の収束も落ち着くと思います。


2010. 5.10                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第127作は川崎市にお住まいの 呑雲 さん、六十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2010-127

  同期会即事        

南柏無逢五十年   南柏逢はず五十年

友朋訣別立昂然   友朋訣別、昂然として立つ

未忘遊子流離夢   未だ忘れず、遊子流離の夢

霜月蒼穹集滑川   霜月蒼穹、滑川(なめかわ)に集ふ

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 故郷の宇和島南高校卒業五十年の同期会に参加した時の詩です。
 学校のシンボルである柏の木が立派に残って、我々を迎えてくれました。
 若かりし頃の全国漂泊への思いも蘇ってきました。
 11月景勝地である滑床(なめとこ)渓谷の水辺で集まり、昔話に興じた時のことです。

<感想>

 お手紙にホームページの感想として、「初心者でも分かりやすく、とても参考になりました」と書いてくださり、ありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

 さて、作品を拝見しましたが、平仄に破綻はなく、しっかりとお勉強なさっていることがわかります。
 起承転結を意識した全体の構成を考慮すると、時間の流れも揃って、落ち着いた詩になると思いますので、その観点から感想を書きましょう。

 起句は現在、承句は五十年前の旅立ちの頃という流れですが、転句でまた現在に戻って若い頃を回想するのは、漢詩の展開としては詩を分かりにくいものにしています。
 起句と承句はひとまとまり、ということで見ると、承句と転句を入れ替えた方が自然です。転句はこのまま、と言うのならば、起句と承句を入れ替えるだけでも良いでしょう。(もちろん、入れ替えるためには平仄押韻を再度整えなくてはいけませんが)

 作者の色々な思いがいっぱい胸の中にあり、その中の一部分を句として表現しているわけですから、あまり飛躍や破綻を感じないのですが、読者は詩を読んで心の中に情景や心情を浮かばせることになります。道案内を作者は丁寧にしないといけません。

 同じようなことで言えば、結句の内容も、かつて「遊子流離」した時の話なのか、現在同期会で集まった時の話なのかはっきりしません。「霜月」「滑川」と具体的になっているから分かるだろう、と言うのは作者の気持ちで、読者には伝わりません。
 この句が同期会の時のこととすると、その内容ならば題名に入れた方が良く、この詩では場所を母校の庭に限定しておいた方が良いでしょう。どうしても入れたいと言うならば、起句に置いて、導入とするべきですね。

 語句のことで見れば、起句の「南柏」は、解説に書かれた宇和島高校のの木という意味でしょうね。その柏に五十年逢っていないということですから、卒業後五十年ということを表しているのでしょうが、「古柏」くらいの方が分かりやすいでしょう。
 「無逢」は主語が「南柏」では木が動いてくるような感じがしますので、「孤生」「孤高」などの表現も検討してみてください。



2010. 5.13                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第128作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-128

  真臘残影 其一  大吴哥城  大吴哥城(アンコール・トム)  

緑暗榕林蔽廃都   緑暗の榕林 廃都を蔽ひ

倒残彫壁惆歌姝   倒残の彫壁 歌姝惆たり

那辺嫋嫋哀音度   那辺 嫋嫋として 哀音度る

樹下弾琴隻脚徒   樹下 琴を弾ず 隻脚の徒

          (上平声「七虞」の押韻)

<解説>

 2月にアンコールワットへ行ってまいりました。古代クメール王国の遺跡はそれは素晴らしいものでしたが、人々の暮らしはまだポルポトの内乱の痕が残り、悲惨な様子も見られました。対人地雷の被害者であろう片足の人たちが集まって音楽を奏で喜捨を乞うていました。
 古代クメール王国は真臘の名で中国に伝わっていましたが、今はクメールを高棉と書くようです。



<感想>

 世界遺産のアンコールワットの旅の連作をいただきました。
 「其一」は都城遺跡であるアンコール・トムの姿ということですが、この「アンコール・トム」は古代クメール語で「偉大な都」を意味するそうで、現状を描いた禿羊さんの詩を読むと、その格差を如実に示された気がします。

 承句の「歌姝」は遺跡の壁に刻まれた女性のことを詠ったのだと思いますが、「惆」は「悵」の方が平仄の点からは良いと思います。

 転句は、思い出とすれば「那辺」として、現地で詠んだとするならば「此辺」でも臨場感は出るでしょう。

 結句は「樹下」でも良いのですが、戦禍の被害の面を出すと、前半の遺跡の荒廃や琴が「哀音」である理由も見えてくるように思います。


2010. 5.16                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第129作も 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-129

  真臘残影 其二  立真臘遺跡   立真臘遺跡 (真臘の遺跡に立つ)   

乱収稍至乂安時   乱収りて 稍く至る 乂安の時

此地埋湮百万屍   此の地 埋湮す 百万の屍

真臘栄華在何処   真臘の栄華 何処にか在る

門前只見乞銭児   門前 只見ゆ 銭を乞ふ児

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 連作の二です。

 後半は、この二句だけを単独で読んでも歴史的な時間経過を象徴する句として読み取れるのですが、ここに前半の内戦の出来事が加わることで、詩の内容がより具体性を帯びたものになってきます。
 特に、「只見」の二字はよく使われる言葉ですが、この詩ではここで生きている言葉になっていますね。

 起句の「乂安」「政治が安定する」という意味ですが、その「安定」に該当する描写が承句以降には見当たらないのですね。
 更に、後の句へのつながりを見ると、承句は「平安な時を迎えたが、しかし実はこの土地には・・・・」と、また転句では「平安な時を迎えたが、しかしかつての王朝の繁栄はどこに・・・・」となり、そして結句も「平安な時を迎えたが、しかし門前には・・・・」という形で、起句を起点として他の句へ逆接でつなげて行くところを見ると、作者の狙いは、安定への不安、内乱の残した傷の深さを一層浮き彫りにすることにあるのだと理解できますね。


2010. 5.17                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 鈴木先生の感想文を拝見いたしました。
 禿羊さんの詩意が 「起句を起点として、逆接でつなげていく・・・」 と感想を述べていらっしゃいますので、そのように理解いたしましたが、詩意が左右にゆれているのは良くないように思います。

 白文を再度拝見すると、起句と承句が反対になっているように感じます。
起句と承句を入れ替えるのは少々詩想の転換をしなくてはなりませんが、そのことによって詩意の一貫性が出てくるように思います。


2010. 5.21            by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第130作も 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-130

  真臘残影 其三  洞里薩湖   洞里薩湖 (トンレ・サップ湖)   

小艇沿渠別葦芒   小艇 渠に沿ひて 葦芒を別く

靄天遙見大湖茫   靄天 遙かに見る 大湖の茫たるを

湖中蛋戸千家市   湖中 蛋戸たんこ 千家の市

童子乗盆操櫂航   童子 盆に乗り 櫂を操りて航く

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 トンレ・サップ湖は乾期には琵琶湖の3倍、雨期には10倍もある湖です。湖上に町があります。
 「蛋戸」の語を使いましたが、適切ではないかも知れません。子供達がタライに乗って行き来していました。

<感想>

 「蛋戸」は、福建省、広東省に住む水上生活者を表した言葉ですが、かつては差別的な意味合いもあったとされていますので、「不適切」と禿羊さんが書かれたのはその辺りの事情を考慮されたのでしょうか。

 起句の「小艇沿渠別葦芒」は白居易の「池上 三」の趣に通じるように思いますね。

 

  池上 三   白居易(中唐)


小娃悩小艇   小娃 小艇を悩り

偸採白蓮廻   偸かに白蓮を採りて廻る

不解蔵蹤跡   蹤跡を蔵すを解さず

浮萍一道開   浮萍 一道 開く



 承句と転句に「湖」の字が重出していますので、ここは気になります。



2010. 5.18                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作は2010−135に匹敵する画のような詩だと思いましたが、鈴木先生ご指摘の「湖」の重複は失礼ながら推敲不足だと拝察いたします。

 承句にある「・・・・大湖茫」の「茫」措辞は通常では畳韻で使用するようです。
すなわち「・・・・水茫茫」とすれば解決いたします。
 ここを推敲すれば秀作になりますので、失礼ながらあえて筆を執りました。


2010. 5.31               by 井古綆





















 2010年の投稿詩 第131作も 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-131

  真臘残影 其四  吴哥落日   吴哥(アンコール)落日   

阜陵坐石望西穹   阜陵 石に坐して 西穹せいきゅうを望む

千里翻衣太古風   千里 衣を翻す 太古の風

晩靄地涯惟漠漠   晩靄ばんあいの地涯 惟漠漠

高棉曠野夕陽紅   高棉(クメール)の曠野 夕陽紅なり

          (上平声「一東」の押韻)

<感想>

 ゆったりとした時間が流れていて、心がすーと広がっていくような詩ですね。

 石に坐して風を浴びている禿羊さんは、この広漠たる風景の中に溶け込んでいるように見えます。結句の「夕陽紅」は余韻が深く、古人が「夕陽無限好」と詠んだ気持ちと通じるものを感じます。

 承句の「千里」は、詩のイメージから行けば、ここにこそ「万里」を私ならば使いたいところですが、実際の場面では広すぎるのでしょうか。


2010. 5.19                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第132作は 海鵬 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-132

  看花        

残花映水夕陽橋   残花、水に映ず夕陽の橋、

老友隔年聴一妖   老友、隔年して一妖(わざわい)を聴く。

無語誰吟武陵詠   語る無く誰か吟ず武陵の詠(うた)、

勿辞満酌短春宵   満酌辞する勿れ、春宵は短し。

          (下平声「二蕭」の押韻)



<解説>

「一妖」: 災い

 仲の良い友達が、毎年花見に集うのですが、老齢を重ねる近年になると、その友人の誰かが不幸を受けることを聞くのですが、どうすることも出来ないのです。

 于武陵の「勧酒」の詩を思い出して重ねて見ました。

<感想>

 投稿の際に詩題がありませんでしたので、私の方で添えさせていただきました。起句が情景にしぼられていますので、皆さんが集まることをここで伝えておくと、承句の「一妖」が理解しやすくなるでしょう。

 毎年の集まりに一人ずつ仲間が減っていくことは寂しく辛いものですが、でも、その辛さを乗り越えるためにも、古来から酒が使われて来ました。現代の私たちは交通機関の発達により友と再会することは難しいものではないのですが、典故とされた于武陵もそうですし、王維の「勤君更尽一杯酒」(「送元二使安西」)を読んでも、「今生の別れ」という思いは友との別れにはつきまとうようです。
 酒に思いを託すというこの詩の展開は、よく理解できます。

 承句の「隔年」は「近年」「今年」の方が切実感が出ると思います。
 転句の「武陵詠」は、「于武陵の詠んだ詩」ということでしょうが、結句の「勿辞満酌」だけで十分に于武陵は思い浮かびますので、却って作者名は邪魔で、私は「武陵だから桃源郷のことかな」とか「地名を出したのかな」などと考えてしまいました。
 ここは、「無語」を受けて、皆さんの気持ちを述べるくらいにしておくのが良いと思いました。

2010. 5.25                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第133作は 俊成 さんから、お久しぶりの投稿です。
 

作品番号 2010-133

  春霽吟     春霽の吟   

雲開寒日照諸隣   雲は寒日を開き 諸隣を照らす

老幹梅花発一輪   老幹の梅花 一輪発く

帰雁北行鳴月下   帰雁北行 月下に鳴き

風聲鳥語不蔵春   風聲 鳥語 春を蔵さず

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 桐山先生お久しぶりです。大変ご無沙汰していました。友達とまた漢詩作りを始めました。
今回の絶句は「竹密にして能く水を通じ 花高くして春を隠さず」をヒントにして作りました。



 三月は末になっても雪は積もり、四月八日も雪降りでした。みちのくの春の待ち遠さは格別のものがあります。

春の淡雪は雲開けるとたちまち融けてしまう。
こんな寒さの中でも、庭には凛として立ち居る老木が梅の花をつけている。
さて月下に鳴くは帰雁の群れか。
風の音も鳥のさえずりも春そのもののようだ。

<感想>

 お久しぶりです。五年ぶりくらいでしょうか、懐かしい友だちに再会したような嬉しさです。
また、一緒に漢詩を楽しみましょう。

 ヒントにしたという絶句は、漱石の「春日偶成 其二」ですね。春の自然界の生き物たちは、春が来たことを隠すこともなく、一杯に季節の変化を愉しんでいるという思いが伝わってきます。
 今年は本当に天候不順で、俊成さんは釜石市にお住まいだったと思いますが、いつまでも寒さが残ったことでしょうね。

 手慣れた作り方を感じますが、転句だけは気になりました。
 ここに登場するのが「帰雁」でなく「流鶯」くらいならば、結句の「鳥語」へのつながりも良いのですが、転句で敢えて「雁の鳴き声」という結句と異なる鳥声を置く意味や、時間的に夜にする必要性があるのかどうか、疑問に感じます。
 漱石の詩をヒントにしたならば、やはりここには「詩人」の姿が欲しいところ、作者自身が登場しても良いと思いますが、いかがでしょうか。


2010. 5.25                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第134作は 展陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-134

  伴林泉友        

対坐林泉友   林泉の友と対坐し

相斟伴便餐   相斟して便餐を伴にする

樽前紅潮頬   樽前で頬(ほほ)が紅を潮(さ)し

鏡裏白鬚残   鏡裏に鬚が白く残る

世路雖多梗   世路に梗(とげ)が多くとも

人生亦有歓   人生に亦た歓(よろこび)あり

名声皆夢幻   名声 皆夢幻

唯望布衣安   唯望むは布衣の安らぎを

          (上平声「十四寒」の押韻)



<解説>

 八十歳代の友人数人で簡単な食事しながら雑談した話題をちょっと漢詩にしてみました。


 [語釈]
「林泉」: 隠遁の処
「便餐」: 手軽な食事
「世路」: 世の中,世渡り
「布衣」: 仕事を離れた自由人

<感想>

 五言律詩の形を用いることで、皆さんの話題が浮かび上がってきますね。

 対句の点で言えば、頷聯が対応が良くないですね。「樽前紅潮頬」は平仄の点でも「○○○○●」ですので合いませんし、下句の「白鬢残」(白鬢残る)に対しての「紅潮頬」(紅が頬に潮す)は文の構成が異なっています。対応させるならば、上句を「紅頬満」とするのでしょう。

 頸聯は味わいがある聯ですね。「世路雖多梗」は「世の中のことは色々と障害が多い」という意味ですが、杜甫の「春帰」の詩から持って来られたのでしょう。
 杜甫は「世路雖多梗 吾生亦有涯」と残りの人生を楽しもうという姿勢ですので、それを「人生亦有歓」とストレートに出したのが作者の工夫のところですね。
 その「人生の歓び」を「名声」でなく「布衣の安らぎ」とつなげて落ち着かせたのが、今回の詩の目玉でしょうね。


2010. 5.26                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第135作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-135

  真臘残影 其五  高棉農村   高棉(クメール)の農村   

曠野村郊一路長   曠野の村郊 一路長し

南邦二月獗炎陽   南邦 二月 炎陽獗る

圃畦農婦忙耕耨   圃畦の農婦 耕耨に忙なり

樹蔭嬌嬰睡吊床   樹蔭 嬌嬰 吊床に睡る

          (下平声「七陽」の押韻)



「吊床」: ハンモック

<感想>

 農村の昼下がり、そこで暮らす人々の日常に対しての禿羊さんの穏やかな視点がうかがわれますね。

 私はクメールに行ったことはもちろん無いのですが、禿羊さんの詩を拝見していると、とても懐かしい思いになります。
木陰で赤ちゃんを昼寝させながらの農作業、そんなのどかな風景から久しく遠ざかっていることを感じます。

 そう思っていたら、今日、市内の海岸にある公園に久しぶりに行きました。ここ数日、風邪で体調を崩してしまい、あまり仕事をする気力も出ないので、海や風をぼんやりと眺めたいという気持ちがふと浮かんだからです。
 天気が良かったこともあり、子供連れの若いお父さんやお母さんが沢山いらっしゃり、あちこちの木陰にベビーカーを停めて子供にお昼寝させていました。
 その時に気がつきました。のどかな風景が私の近くから消えたのではなく、のどかな風景に近づく余裕が私に無くなっていたのかもしれないと。
 日常の忙しさに気持ちまで流されないように、気をつけなくてはいけないと改めて思いました。

2010. 5.29                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 禿羊さん玉作を拝見いたしました。
まるで一幅の絵画をみるような感じがいたしました。

 この風景は我国でも戦前には見られた風景であるような気がいたします。
ですから鈴木先生も “とても懐かしい思いになります。” とおっしゃっているのでしょう。

 何処かで読みましたが、まさに『詩中に画あり』であろうと思います。わたくしは語彙を余り覚えていませんので猖獗の獗(ケツたける。くるう。わるづよい)を探すのに苦労をしました。新字源には載っていませんでした。
 鈴木先生は現役のお方ですので、語句を調べるのにご苦労は少ないでしょうが、それでも、多くの方々の作品を看られることに改めて敬意を表したいと思います。


2010. 5.30               by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第136作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-136

  真臘残影 其六  村行      

烈日三竿気欝蒸   烈日 三竿 気欝蒸

村行携扇払飛蠅   村行 扇を携へて 飛蠅を払ふ

田家狗睡籬辺寂   田家 狗睡りて 籬辺寂たり

少女献苞黄衲僧   少女 苞を献ず 黄衲の僧

          (下平声「十蒸」の押韻)

<感想>

 こちらの詩も「其五」と同じく、おだやかな風景が目に浮かびますが、結句の描写によって仏教の村のイメージも濃くなりましたね。
 承句の「携扇払飛蠅」に作者の姿が見えるのですが、他の句は眼前の景を描いておられます。起句の「烈日三竿気欝蒸」を受けて「扇」が出てきたのでしょうか。

 承句と転句は内容が入れ替わっても良いかとは思いますが、どちらにしろ転句までは、クメールのこの村だと限定する描写は特に無いのですが、結句で一気に固有化されて、心に残る詩になっていると思います。

2010. 5.28                  by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

禿羊先生 七絶城 難攻不落詩無敵 首首天工 可羨矣。

2010. 6. 2               by 謝斧



禿羊さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、井古綆、謝斧諸先生、ご批正有難うございました。

 ご指摘の通り、特に「真臘残影 其三  洞里薩湖」は推敲が足りなかった点が有りました。
 今まで同字重出はあまり気にせず作詩していたのですが、トンレサップ湖の詩では、「水茫茫」がずっとベターでした。
頂戴したいと思います。

今後ともよろしくお願い申し上げます。 2010. 6. 4             by 禿羊





















 2010年の投稿詩 第137作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-137

  觀豫州内子座大歌舞伎        

白壁紫甍抽僻ク   白壁はくへき紫甍しぼう 僻郷へききょうぬきんじ

雪中高館祭旂長   雪中の高館 祭旂さいき長し

梨園名手縦横舞   梨園の名手 縦横の舞

心技齊稱獨擅場   心技ひとしく称ふ 独擅場(どくせんじょう)

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 内子座は現存する全国でも名だたる芝居小屋です。
 NHK大河ドラマ「風林火山」の武田信玄役で活躍した歌舞伎俳優・市川亀治郎が座頭役で、「内子座大歌舞伎」が開催され観劇しました。鈴木先生お住まいの名古屋の御園座や東京銀座にある歌舞伎座並の13,000円の観劇料には驚かされましたが、鄙に住まいする私たちにとってはめったにない機会で、大いに酔いしれました。

 市川段四郎、市川亀治郎、市川門之助、中村亀鶴、中村梅枝、坂東薪車、坂東竹三郎など豪華キャストが出演、珠玉の舞台でした。

【演目】
「奥州安達原」袖萩祭文
「義経千本桜」吉野山


「僻郷」: 愛媛県喜多郡内子町
「祭旂」: 出演者の氏名を書いた幟
「内子座大歌舞伎」: 平成19年冬、内子座で大歌舞伎が興行された。
 内子座 内子町公式ホームページ 愛媛

<感想>

 内子座のホームページを拝見しました。

 承句の「雪中」は実際の光景か、あるいは季節を表しているだけなのか、ただどちらにせよ、起句の「白壁」と色が重なっているのが私にはやや残念な気がします。
 「高館」は内子座のことでしょうから、高さを示す、あるいは建物の前に作者が立っているという趣を出して「冬天」「蒼天」などの空を表す言葉を置くのも面白いかと思いました。

 「内子座」のホームページを拝見すると、「木造2階建て瓦葺き入母屋造り」とされていますが、定員650人、映画館にもなったということですが立派な建築物ですね。


2010. 6. 4                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第138作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-138

 奉獻國津比古命~社祠官井上忠衡大人命帰幽五年祭靈前  
   国津比古命神社祠官井上忠衡大人命いのうえただひらのうしのみこと帰幽五年祭霊前に奉献す   

承繼先君稱俊英   先君を承継して俊英と称せられ

偏崇~道盡眞誠   偏に神道を崇(あが)めて真誠を尽くす

創基千歳齋儀儼   創基千歳(そうきせんざい)斎儀儼(おごそ)かに

恭賦帰幽追憶情   恭しく帰幽を賦す追憶の情

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

「國津比古命~社」: 豫州風早郡総鎮守で延喜式内社。
           創基は記録が確認できる限りでも1100年の県内最古社の一つ。旧北条市民の氏神様である。
           詳しくは「拙サイト」を参照されたい。

「承繼先君」: 直接的には亡きご尊父のことだが、大和朝廷以来の「風早國造家」歴代の神霊をも包含する。
「創基千歳齋儀儼」: 約15年前、亡き宮司が悲願とした「御鎮座1100年祭記念事業(境内整備やVTR製作など)」が見事に了した。



<感想>

 「帰幽五年祭」というのは、仏式で言う「七回忌」のような意味合いでしょうか。

 前半は故人の功績や人柄を振り返ってのものですね。
 転句は、舞台となっている神社や「五年祭」の様子を詠じたのかと私は思いましたが、解説を拝見すると「創基千歳の斎儀」という意味のようですね。私は「創基千歳 斎儀は儼かだ」と切れ目を入れたからですが、読者としてはこちらの方が読みやすいように思います。

 結句で「帰幽祭」ということが明確になりますね。私はこうした祭儀に参加したことがありませんので、その場の雰囲気は分からないのですが、結びの「追憶情」は、それまでの格調から行くと、作者の感情が出たもっと強い言葉でも良いかと思いました。


2010. 6. 4                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第139作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-139

  視察能登半島地震被災地     能登半島地震被災地を視察す   

乾坤鳴動襲能州   乾坤鳴動して能州を襲ひ

道没崖崩攅百憂   道は没し崖は崩れて百憂攅(あつ)まる

復舊鎚音滿衢巷   復旧の鎚音 衢巷(ぐこう)に満ち

村民聲援邵於秋   村民の声援 秋よりも邵(たか)し

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 「能登半島地震」は、2007年3月25日に石川県輪島市沖で発生。最大で震度6強を記録し死者1人。
 同年秋に個人的に被災地を訪問して作詩したものです。

<感想>

 結句の「邵」は混用されることが多いのですが、別字で、「戟vが正しい形です。

 地震から半年後の姿を記録されたものですが、復旧に向けてのエネルギーが感じられる詩ですね。

 転句の「衢巷」は「大通り(衢)と裏通り(巷)」で街中を表しますが、前半の自然界の描写から急に小さくなった感じがします。承句で「崖」を「家」としておくと、流れがよくなるように思います。
 また、「衢巷」は通常は「くこう」と読みますが、「衢」を漢音の「ク」ではなく呉音の「グ」とルビをつけられたのは違和感があるのですが、どのような意図があったのでしょう。


2010. 6. 5                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作を拝見いたしました。
詩題について些か感じる処がありましたので筆を執りました。

 この詩題では、正に何の味も無い題名です。詩題は詩意を補足することが出来ます。
 管見ですが、詩題の後に「有感」をつければ詩の風格が出てくるように感じられます。
そうすることによって、承句の韻字「憂」は結句に使用しなければならないでしょう。


2010. 6. 6              by 井古綆





















 2010年の投稿詩 第140作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-140

  訪輪島市白米千枚田     輪島市白米(しろよね)千枚田を訪ふ   

金風颯颯北溟傍   金風颯颯 北溟の傍

雲際棚田段段長   雲際の棚田 段段として長し

千畝一望禾穂遍   千畝(せんぼう)一望 禾穂(かほ)遍(あまね)し

青苗稔熟到天黄   青苗稔(みの)り熟して天に到って黄なり

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 平成19年秋、先の被災地視察にあわせて賦したものです。

<感想>

 秋の輪島の様子が描かれていますが、語に流れと勢いがあって、良い詩ですね。地震とは直接に関係は無いのでしょうが、元気が湧いてくる気がします。
 特に転句は金太郎さんの実感がそのまま表れている句ですね。「禾穂」は「かすい」あるいは「いなほ」と読んだ方が自然でしょう。

 結句は「青」「黄」の対応が狙いのところでしょうが、これは狙いすぎのように私は思います。
 転句にすでに「禾穂」とある上に「青苗」と置いた重複感があります。また、この土地の農夫ならば「青苗」が「稔熟」するのを見つめ続けることもできますが、視察で訪れた作者がそれを言うのはどうでしょう。もちろん、心の中に思い描くことはできますから表現することは良いと思いますが、敢えて重複感までも持たせた上での二重の力業で色の対比を持ってきたという印象を与えるように思いますが、どうでしょう。


2010. 6. 5                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第141作は 秀涯 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-141

  寄愛犬女吽     愛犬ジョンに寄す   

野良縁有多摩頭   野良ト縁有リ多摩頭

鋭吠声駆敏捷丘   吠声ハ鋭ク丘ヲ敏捷二駆ケル

茅舎団欒十八夢   茅舎二団欒スルコト十八夢

花環新涙是良儔   花環二涙新ナリ是良儔

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 四月、愛犬"ジョン"が往くことになった。
 多摩川の頭で、野良犬に会ったのを二女が拾ってきたものである。
その声は鋭く、よく、河原を駆け回るジョンと遊んだものである。
我家に来て、十八年(犬年86という)かけがえのない野良であった。
葬にあたり、子供達が花環で囲んで送ったが、皆涙・であった。
(この間、金魚も去るなど)私達、家族の悲しみはひときわ大きなものがある。

<感想>

 十八年は長生きの犬でしたね。私の家にも愛犬が十五年居ましたので、秀涯さんのご家族のお気持ちはとてもよく分かります。結びに置かれた「良儔」はまさにその通りで、作者の思いが凝縮されたように感じます。

 今回は漢文法からの語順に苦しい所が目立ちましたので、そのあたりを書きましょう。

 起句は「縁有」を「有縁」の語順にまず直す必要があることと、下三字が全て平字ですので「下三平の禁」を冒しています。
 語順がこのままですと、「野良は多摩川のほとりと縁がある」という意味になりますので、読み下しの「野良ト」は「野良」としなくてはいけませんね。

 承句も読み下しのようには読み辛く、「吠声」を主語とするなら「鋭」の前に置くべきで、現行ですと「鋭」は修飾語として考えますので、「鋭き吠声」と読むことになります。「敏捷」も修飾語ですので、「駆」の前に置くべきです。また、三字目で句の切れ目が出来るのも違和感がありますので、この句は作り直す形が良いでしょう。

 転句は下三字が仄声ですので、これも好ましくありません。

 結句の「新涙」は「新しい涙」としか読めません。「涙新ナリ」と読むならば、主語+述語の関係ですので、「涙新」となります。

 転句は愛犬が亡くなったことを婉曲に表したのでしょうが、そのことを直接に表していないために、結句の「涙」の訳も分からなくなっています。書き辛いところかもしれませんが、承句の元気だった姿に対比させて描くと、悲しみの気持ちが一層強く出ると思います。


2010. 6. 5                 by 桐山人



秀涯さんからお返事をいただきました。


    推敲作
  遭遇野良二子頭   野良二会フ二子(橋)の頭、
  児駆犬戯野辺遊   児ハ駆ケ 犬ハ戯レ 野辺二遊ブ
  星霜十八衰俄也   星霜十八、俄カ二衰フ
  花葬揮涙真良儔   花葬二涙ヲ揮フ 真ノ良儔二

 平仄に囚われ、読み下しもそのままの141作でした。
 それでも、承句は悩んだ所です。七言で愛犬との思いでは表現しきれません。。

 これからも平仄を厳守して、流れを考えた詩が作れるよう頑張ります。
ご指導、ありがとうございました。


2010. 6.11             by 秀涯





















 2010年の投稿詩 第142作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-142

  春雨        

蕭蕭春雨薄寒生   蕭蕭たる春雨 薄寒生じ

書院窓前簷滴聲   書院の窓前 簷滴の聲

避水鶯児庭柳隠   水を避け 鶯児 庭柳に隠る

作巣燕子屋梁鳴   巣を作る燕子は屋梁に鳴く

辛夷葩潤都飛散   辛夷の葩は 潤ひて な飛散

躑躅蕾寛彌發榮   躑躅の蕾 寛みて いよいよ 發栄

終日閑居残氣力   終日の閑居 氣力残す

鼓将吟興待新晴   吟興を鼓しもって 新晴を待たん

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 春雨を思いつつ、習作を試みました。しかし、今年の春雨はどうやら、いささか降りかたが違うようです。

<感想>

 春雨という題で、破綻無く終結まで持って行った好詩だと思います。

 対句の語句の対応も良いと思いますが、強いて難を言うならば、頷聯の鶯と燕、視覚と聴覚の関係では、一般的には逆のように感じます。意図的に配置したということでしたら、それもそうかなと納得できるところではありますが。

 尾聯の「鼓将」は持って回った言い方で、もう少しすっきりできるかと思います。


2010. 6. 8                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作を拝見いたしました。
回を追うごとに上達されていらっしゃることを大変嬉しく存じます。

 今回は時期的に相反する対句がありますので、非常に苦労されたでしょう。
すなわち頷聯の鶯と燕は数ヶ月の時差があります。
 これを齟齬なく対句にされる努力は計り知れないものがあると思いました。
しかしながら、読者としてはもう一つ納得が参りませんでしたので、長考いたしました。

 頷聯を
  客裡啼鴬楽人去   客裡の啼鴬 人を楽しませて去り
  巣中乳燕喚親鳴   巣中の乳燕 親を喚んで鳴く
 と、このようにすれば時差に齟齬がないように感じられます。

 以下の管見は心に感じる処があれば斟酌してください。

@第二句の七文字の詩意が繋がらないように思います。
A頸聯での「辛夷**」と、「躑躅**」の**部分には適当な熟語があるような気がいたします。
Bわたくしは不勉強で余り語彙の知識がありませんが、第六句句末の「発栄」は何処かに使用例がありましたでしょうか。


2010. 6.11              by 井古綆



謝斧さんからも感想をいただきました。

 古人の詩話に七律の作詩作法があります。
「李重華貞一齋詩話」に
    詩句両聯 必須情景互換 方不復沓 とあります。
 対句の両聯は 必ず 抒情 叙景 を交互に用いなければならないということです。

 唯だ、沈徳潜は「寫情寫景不宜相礙」といっています。
情を叙するに景を用いる。

 点水先生の詩をみるかぎり、中聯の対句は叙景ばかりで、詩に変化がなく冗長的になっています。

  律詩中二聯既有情景二端、詩人常喜其変化

 我々が律詩を作るには、こういったことが肝要かとおもっています。


2010. 6.23              by 謝斧


 謝斧さんの感想を読まれて、井古綆さんからお手紙をいただきました。

 謝斧さんの平生の博学には以前から尊敬していました。
 2010−142ページの点水さんへの薫陶も吾事と思って拙作を調べてみました処、拙詩での総ての両聯が謝斧さんのおっしゃる前景後情には措辞してはいませんでした。
 その際には尾聯でもって叙情句に措辞していたようです。

 律詩において後半の四句を総て叙情句にしたならば、どのようになるかを具体的に説明して戴ければ、わたくしの今後の詩想にも反映するのではないかと思い筆を執りました。


2010. 6.26              by 井古綆


点水さんからお返事をいただきました。

 桐山人様
 一応のご評価をいただき、感謝しております。

 頷聨の鶯と燕のこと、いささか考慮がたりなかったかと、反省しております。
「鼓将」についても、今後、気をつけます。

今後ともよろしく。お願いします。


 井古綆様
 いろいろと的確なご指摘をいただき、恐縮いたしております。
頷聨は新たに、お作りいただき、有難うございます。今後の詩作の参考にいたしたく存じます。
 4月末頃、鶯と燕が重なる時期が年によってあるように思い、こんな形となりました。

「發栄」ですが、『全訳 漢辞海  監修 戸川芳郎   三省堂』の「栄」(p715)の項に次の用例があります。

「枯木發栄」: 枯れた木が花を咲かせる  (曹植 七啓)

 今後とも宜しくご指導ください。


 謝斧様
 律詩の作詩作法をご教授くださり、有難うございます。
 今後の詩作に役立ててまいりたいと思っております。


2010. 6.29              by 点水



常春さんからも感想をいただきました。

 「春雨」というと、つい杜甫の「春夜喜雨」を思い出します。初春「雨水」の季節の「春雨」です。点水さんのこの作品は、「穀雨」の時期の雨ですね。

 梅の季節、わが家には鶯が来ません。どこか貴人の家にでも行っているのかな。ところが、穀雨から処暑まで、美しい声を聞かせてくれます。
 点水さんの詩は、鶯の雛が巣立ちする頃、燕が帰り来たって巣作りを始める情景と私は理解しました。燕子の「子」は、子どもの意ではなく、強意の「子」、燕の親と理解できます。

 三体詩では、この点水さんの詩のように、頷聯、頚聯に景を読むのを「四実」としています。「はなやかで堂々ととしている中に、ゆったりとひろやかなすがたが有るのが、そのすぐれた点である。この体が少しく変化してはじめて「虚」の境地に入り・・・いろいろなスタイルの筆頭足るべき地位にある。・・」(村上哲見)

 尾聯で「鼓将吟興・・」と情(虚)を詠じた、落ちついた詩と鑑賞いたしました。
 詩には「四虚」「「前虚後実」「前実後虚」もあります。
三体詩には「前虚後実」について「唐詩を範とするものは重んずる・・」とあります。


2010. 7.12                by 常春





















 2010年の投稿詩 第143作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-143

  題落花        

牆角山茶椿寿縁   牆角の山茶 椿寿の縁

亡妻栽植有余妍   亡妻の栽植 余妍有り

無情人逝復誰在   無情 人逝って復た誰か在る

勿嘆落花披毎年   落花を嘆く勿れ 毎年に披く

          (下平声「一先」の押韻)


<解説>

 わが小庭の垣根に椿を数株植えて、亡妻曰く、「武士は椿花の姿を嫌ったというが、椿寿(長寿・長生き)という縁起ものである」と。その人はすでに・・・。

<感想>

 深渓さんは、奥様の一周忌を迎えられたのでしたね。
 思いを率直に描かれた詩で、胸を打たれます。

 「椿」から椿寿を導いた方が、自分よりも先に逝かれたということは尚更悲しみを誘うことでしょう。
 結句は「毎年花を咲かせるのだから、今年の落花を嘆くのはよそう」ということですが、毎年この花の季節には、奥様の思い出が新たになるという気持ちを籠めていらっしゃるのだと思います。


2010. 6.24                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第144作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-144

  讃諧諾貝爾賞     讃イグノーベル賞   

竹葉熊猫排泄中   竹葉 熊猫の排泄中

幽微酵素妙無窮   幽微な酵素 妙窮まるなし

糞泥方是資環境   糞泥方に是 環境を資くと

足暖人心着目工   人心暖むるに足る着目工みなり

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 パンダの糞は大量、この中に笹を分解する酵素があるという着想。
 これをごみ処理に利用する。田中文章博士、まことに奇抜。
 これを詩に纏めようと苦闘されているMさんに和韻しました。

<感想>

 イグノーベル賞は、ノーベル賞のパロディとされていますが、まじめに(とんでもない)研究に取り組んでいる研究者にも賞が与えられているものです。

 転句まで、読んでいると思わずニヤリとしてしまうような趣がありますが、それは「妙無窮」「資環境」などの大げさな言葉を生真面目な態度で表しているところから来ているのでしょう。
 もう一息、結句の「着目工」もぶっ飛んだ表現にすると面白いかと思いますが、そこに少し冷静さが出てくるところが、常春さんの「生真面目」さ、作者の個性が表れたところかもしれませんね。

 結句の「足」は「能」あたりの方が分かりやすいでしょう。


2010. 6.24                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第145作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-145

  寄歌集「古手綱」        

生涯一意一人隨   生涯一意 一人に随ふ

家犬回聲索伴滋   家犬 声を回し伴を索むること滋し

朝夕哀歓十餘歳   朝夕の哀歓 十余歳

歌箋得寫可憐姿   歌箋写し得たり 可憐の姿

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 子犬からその死まで14年、折々に詠んだ和歌五十首「古りし手綱」を頂戴して。
(いちにんに随きゆくもの)と犬の文字解きし彼の日のわが辞書失せぬ

<感想>

 「犬」の文字を「いちにんに随きゆくもの」と解した歌を受けての起句は、人間に対する犬の忠実な姿をよく表していると思います。
 ただ、それに続く承句で「索伴滋」としたのは起句の「一人随」の限定とバランスが悪く感じます。
 前半で犬という生き物の一般論を語り、後半の転句から歌集に歌われた犬に個別化していく展開は納得できますので、「索伴」の二字のみ検討されると良いと思います。


2010. 6.24                  by 桐山人



常春さんからお返事をいただきました。

ご指摘に有難うございました。
承句 「家犬回聲索伴滋」 を 下記訂正します。

  家犬聲催陪伴時   家犬 声は催がす 陪伴の時


2010. 7. 3                  by 常春






















 2010年の投稿詩 第146作は 海鵬 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-146

  題孫        

俊孫才未晬   俊は孫、わずか、未ださいならずも

固有識人差   固より人の差(ちがい)を識る有り

方品為英否   方(まさ)に品(ほん) 英を為すや否や

吾徒慰朽衰   吾徒だ朽衰を慰むのみ。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 いつも鈴木先生はじめ諸先輩の皆さんのご指導を頂き、有り難く篤く御礼申し上げます。

 卑近な身内をことを漢詩にしてすみません。

 一才の誕生日にじじーが、自詠の詩を揮毫して送ろうと考えました。
 詩意は、孫が一才になり、私などに会うと人見知りが酷くて、もし、これを褒めるとすれば人の差をもう既に知っているのだから、将来、俊英になるものなのかと、揶揄した内容なのです。

 ご指導宜しくお願い致します。

<感想>

 お孫さんも一歳ということで、可愛い盛りですね。「じじ」の満面笑みの顔が浮かんできそうですね。

 起句の「晬」は「満一歳を迎える」ことですが、「才」「未」で、意味としては「やっと」と「まだ」と重なるのは矛盾していて気になります。「才」を「猶」とした方が良いでしょう。

 承句の「差」も「違い」の意味では「下平声六麻」の韻、「上平声四支」韻は「不揃い」の意味になります。
 上平声四支は韻字も多いので、他の語を探してはどうでしょう。

 結句はちょっと暗いですね。お孫さんを詠んだ詩ですので、結びは元気よくしたいところ。自身の「老い」を描いて対比するのはよいですが、それを結句に置くと「老い」の重さが増してしまい、全体の主題が「幼を見ての老の嘆き」になってしまいます。
 順序を入れ替えるなどすると解消すると思います。


2010. 6.25                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第147作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-147

  寄日本刀覚書 其一       

鍛錬層層蹈鞴鋼   鍛錬層層 蹈鞴の鋼

刃鋒粘靭背梁剛   刃鋒粘靭 背梁は剛

寶刀切玉禳妖悪   宝刀 玉を切り 妖悪はら

不盡幽深有美光   尽きず 幽深有美の光

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 日本刀の詩は、北宋の欧陽脩の「日本刀歌」が有名です。
 七言古詩の第一解で、「かつて西の昆夷の国に、『切玉』の名刀があった。いま、東の日本に宝刀があり、佩びていれば妖凶を禳うことができる」と語られ、日本刀の姿については「鞘は香木に魚皮で飾り、金属部分は真鍮の黄色と銅の白色が混ざり合っている」と説明されています。

 常春さんは欧陽脩の詩を踏まえて、「切玉」「禳妖悪」と両面を入れて「これこそが天下の宝刀だ」と主張するのですが、その根拠となるのが前半の二句、刀工の技術の粋が尽くされたことを述べていますね。
 この二句があるため、転句の記述が納得できるような気がするし、結句の「幽深有美光」も言葉だけではなく、実感を伴うものとして捉えられますね。


2010. 6.29                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第148作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-148

  寄日本刀覚書 其二        

姿勢包含時代邀   姿勢包含す 時代の邀

素鋼濃厚冶工勞   素鋼濃厚なり 冶工の労

昔時武具今奇趣   昔時の武具 今奇趣として

魅力逾凝日本刀   魅力 逾々凝まる 日本の刀

          (下平声「二蕭」・下平声「四豪」の通韻)

<解説>

 「日本刀覚え書き静岡新聞社刊」を頂戴して。この方、鑑定に最新科学を用いる。
日本刀は蹈鞴鉄の皮金を15回ほど折り返し、鍛錬し、三万層の鋼層が形成されているという。


<感想>

 其二も日本刀の技術に対する常春さんの熱い思いがよく出ている詩ですね。

 起句は初め私は下平声四豪の「遨」かと思ったのですが、通韻として、「日本刀の姿は時代の要請」であったのだという気持ちを出されたものでしょう。



2010. 6.29                  by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

 詠物体は難しいので、作詩するも詠物からはずれがちですが、今回の先生の詩は、十分に詠物体に適っています。
 題は「日本刀」にすべきで、「寄日本刀覚書」はどうでしょうか。
詩意にはないようにおもえますが

 唯、こういった作品はなにかしら隠喩めいたものを感じるようにつくるのですが、いずれにしても佳作だとおもいます。


2010. 7. 7                  by 謝斧






















 2010年の投稿詩 第149作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-149

  和深渓雅兄「題落花」・用韻        

琴瑟相和五十年   琴瑟 相和して 五十年

良妻遺影老滋妍   良妻の遺影は 老いて滋(ますます)妍なり

孤愁慰匪只椿樹   孤愁 慰むるは 只椿樹のみに匪(あら)ず

欲結鈴門文字縁   鈴門に結ばんと欲す 文字の縁

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 深溪さんの奥様が亡くなられて一年の玉作を拝見しました。
 雅兄のお心を少しでも慰められないかと一詩を用韻で賦しました。ご笑読ください。

<感想>

 深渓さんの「題落花」の詩に対しての、用韻の詩です。用韻は、元詩と同じ韻字を順序を換えて用いるものです。

 結句の「鈴門」は、この桐山堂のサイトを指しておられますので、「漢詩を通しての交流を、今後も続けていきましょう」というお気持ちが出されたものですね。


2010. 7.10                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第150作は 牛山人 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-150

  小集席上有作        

今宵相会興津津   今宵 相会し 興津津。

満座迎君感激新   満座 君を迎へ 感激新なり。

鐘鼓弾琴如裂帛   鐘鼓弾琴 裂帛の如し。

百花飛尽快哉頻   百花飛び尽し 快哉頻りなり。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 パソコンの集まりで、キーボード、ギター、ドラムと楽器に変えて始めて演奏するので皆が興味津々としている中で始まり、喝采の中で終了した様子のつもりです。
 起句、承句がなかなか出来ず、転句・結句も、起句・承句も詩語のつなぎ併せでいいのかなと思いつつ作りました。

 「百花」は上に関連する詩語がないのに使っていいものか迷いましたが、他に思いつかないので使いました。



<感想>

 解説を拝見しますと、コンピュータで音楽演奏をする発表会が催されたということでしょう。

 まず題名に悩まれたようですが、「小集席上有作」では堅すぎて内容に合いませんので、「音楽会有感」とか、コンピュータを強調するなら「電脳演奏会」とそのまま書かれたらどうでしょう。

 どんな音が出るのか、興味津々で観客が待ちかまえているところに演奏者が登場するという緊張とワクワク感が前半部分によく描かれていると思います。
 ただ、「興津津」「感激新」と感情を表す言葉を二つ重ねたのは考えものです。
 特に「感激新」については、このことを感じさせる物や出来事を描いた方がよいですね。
 「満座」の人々の気持ちを作者が何から分かったのか、例えば盛大な拍手、開演を待つざわめき、観客の笑顔、あるいはスタート直前の静寂、こうした描写を描くことで具体的に「感激」は伝えられるわけで、逆に「感激新」としてしまうと、その場のざらつくような感覚が消えて平板な印象になります。

 転句の「如裂帛」は悲鳴や叫び声のイメージが強い言葉です。白居易の『琵琶行』の中で楽器(琵琶)の音の形容で「如裂帛」は用いられてはいますが、だからと言われると逆に、演奏会全体が悲しく哀調を帯びたものになりそうです。「きぬを裂く」ような鋭い音でどんな演奏がされたのかを想像するのは、ちょっと悩みますね。
 まだ他にも適切な比喩はありそうな気がしますので、検討してみてください。

 結句の「百花」は、コンピュータから出る様々な音色を表したのでしょうか、それとも観客の皆さんの喜んだ心、はたまた比喩ではなく晩春の季節をここで出したのか、色々考えてしまうのは、やはりこの言葉が関連がなく唐突だからでしょう。
 何かの比喩ならばヒントなり方向性なりを示す、直接花を描いたのなら具体的な花の名を言うなどの配慮をしておかないと、表現が適切かどうかの判断もつかないというところです。


2010. 7.12                  by 桐山人



牛山人さんからお返事をいただきました。

 投稿作「小集席上有作」を訂正し、タイトルも先生の云われる如く「電脳演奏会」にしたいと思います。
至らぬところの指摘を願います。

    電脳演奏会
  今宵相会興津津   今宵 相会し 興津津。
  満座迎君喝采頻   満座 君を迎へ 喝采頻り。
  鐘鼓弾琴如烈火   鐘鼓弾琴 烈火の如し。
  歓声沸起涙沾巾   歓声 沸き起り 涙巾を沾す。


 第二句、待っている時にざわざわしている様子が描けないかと「満座迎君瑟瑟臻」にしたかったのですが、「瑟瑟臻」なる詩語があるものか、又妥当性を有するか教えて頂ければ幸いです。


2010. 7.24              by 牛山人


 うーん、こうして推敲作も読ませていただいて、悩んでいるのは、この演奏会ではどんな音楽が出されたのかということです。前回では「帛を裂くよう」で、今回は「烈火のよう」、何とも想像しにくい比喩ですが、それに対して「歓声が沸き、涙がハンカチを濡らす」のは私にはどうしてもピンと来ないわけです。
 実際に音を聞いていませんので、本当に「帛を裂き、烈火のような」音で構成されたパソコンミュージックだったとしたら、私の想像力が到らないわけで謝るしかないのですが。

 「瑟瑟臻」が使えるかどうか、ですが、「瑟瑟」は本来は寂しげな風の音を表しますので、例示なさった「満座迎君瑟瑟臻」ですと、演奏者を迎えて会場に寂しげな風が吹き抜けたと解釈することになると思います。「ざわざわ」と落ち着かない状態でしたら、「冉冉」などでどうでしょう。


2010. 8. 4                by 桐山人



 牛山人さんから、お返事をいただきました。

 白髪三千丈的に大げさに作ったので、想像できないと思います。
「鐘鼓弾琴」は合っていますが、「裂帛、烈火」は非常に大げさです。楽器、ヴォーカルとも平常に弾いています。
 結句の拍手喝采はありましたが、「巾を沾す」は誇張です。

    電脳演奏会
  今宵相会興津津   今宵 相会し 興津津。
  満座迎君冉冉臻   満座 君を迎へ 冉冉臻。
  鐘鼓弾琴初喝采   鐘鼓弾琴 初喝采
  閑吟電脳眼前新   電脳を 閑吟す 眼前新なり

 極めて平凡な演奏会で、楽器が IPad という新しいパソコンに変化したと考えていただければ結構です。


2010. 8.13               by 牛山人



 そうですね、パソコンでの音楽ということで考えると、どんな不思議な音でも出現してしまうというところがあり、それが逆に私のイメージを拡げ過ぎてしまうのかもしれません。
 今回のように表現をやや抑えていただくと、普通の音楽が流れていたのだろうと思えます。

 結句は新たに入れた「閑吟」が、静かなニュアンスを出しますので、演奏会にはどうでしょう。前回までの派手派手しい音楽のイメージがあるので、急に静かになると心配になります。
 後半を「鐘鼓管弦初喝采  弾琴電脳眼前新」という形でどうでしょうか。


2010. 9.16             by 桐山人