2007年の投稿詩 第211作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-211

  水社途上遇驟雨        

黒雲覆墨遮山岫   黒雲 墨ヲ覆シ 山岫ヲ遮リ

乱颶捲沙廻陌阡   乱颶 沙ヲ捲キ 陌阡ヲ廻ル

沛雨昏昏籠四野   沛雨 昏昏トシテ 四野ヲ籠メ

奔雷閃閃裂中天   奔雷 閃閃トシテ 中天ヲ裂ク

白葩紅萼浮濃靄   白葩紅萼 濃靄ニ浮カビ

竹径柳堤融淡煙   竹径柳堤 淡煙ニ融ク

檐滴既休漁舎下   檐滴 既ニ休ム 漁舎ノ下

彩橋一架藕花前   彩橋 一タビ架ク 藕花ノ前

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 木曽三川治水神社に向かう途中、久しぶりに雷雨に遇いました。
 この詩を推敲している時、二、三年前の拙詩「驟雨」が頭をよぎり、如何に表現を変えるかに悩みましたが出来上がってみますと、どうも似た措辞となってしまい、われながら情けないことです。
 尚、首聯は蘇軾の「六月二十七日、望湖楼酔書」を意識しました。

<感想>

 治水神社には一ヶ月ほど前に行きましたので、真瑞庵さんのこの詩の光景がとても明瞭に目に浮かびます。
 首聯の上句は解説にお書きになったように、蘇軾の句である「黒雲翻墨未遮山」を置きつつ、「遮山岫」と違いを出したところで、読者も思わず「ふむふむ」と身を乗り出すような軽快さがありますね。

 頷聯の雷雨の激しさ、頸聯の雨に煙る川沿いの道、そして雨上がりの尾聯へと時間の流れも自然です。
 また、前の三聯が白黒のモノトーンで来ていますので、尾聯の「彩橋」の色彩が目に焼き付くようです。ただ、どれだけ印象づけるか、という点で、これを尾聯の下句に置くか上句に置くかは、迷うところです。
 全聯を対句にしたのは、何か狙いがあったのでしょうか。聯がそれぞれ分離してしまうような気がしますので、尾聯は表現を変えた方が収まりが良いように感じましたが。

2007.11.28                 by 桐山人



真瑞庵さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生から全対格にした理由をお尋ねでしたが、にわか雨によってあたりの景色が刻々と変化するその変化の速さを対句の調子の良さで表現しようと思ったものです。汲み取って頂けなかったのは小生の力不足だったようです。
 さらに精進を重ねなければと思います。
 更なるご指導お願いいたします。

2007.12. 5           by 真瑞庵





















 2007年の投稿詩 第212作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-212

  題高野山        

渡海修鴻徳   渡海鴻徳を修め

開山依大師   開山大師に依る

已盈弘法志   已に盈つ 弘法の志

此創密宗基   此にはじむ 密宗のもとい

老樹亭亭聳   老樹 亭々と聳え

香煙縷縷弥   香煙 縷々と弥る

筇靴連絡繹   筇靴きょうか 絡繹らくえきと連なり

堂塔露参差   堂塔 参差と露わる

冬冱教僧苦   冬こおるは僧をて苦しましめ

夏涼令客怡   夏涼しきは客をよろこばしむ

鯨音排利達   鯨音げいおん利達を排し

貝葉感慈悲   貝葉ばいよう慈悲を感ず

済度諸人導   済度さいど諸人導かれ

帰依衆寺維   帰依きえ衆寺つな

千年清浄地   千年清浄の地

深念謁尊祠   深念尊祠に閲す

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

「鯨音」:鐘の音
「貝葉」:経文にあてる
「尊祠」:奥の院の大師廟

 以前掲載して頂いた律詩「高野山」と同時期に作りました。

<感想>

 前作は七言律詩でしたが、こちらは十六句の五言排律、二つの詩を拝見すると、形式の違いによって表れるのは、全体の字数の差よりも句数の違い、そこを大きく感じます。
 七律は全体のまとまりも出ていたように思いますが、排律の方は五言ということで全体に自立語が多くなったこともあるのでしょう、それぞれの句の意味合いよりも挙げられた項目の多さに目を奪われてしまいました。

 あとは、細かいことになりますが、七句目の「連絡繹」は、「絡繹」が既に「連なる」ことを表している言葉ですので、「連」ではない言葉の方が広がりが出ると思いました。

2007.11.28                 by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

 ご高批有難うございました。
 七句目「筇靴連絡繹」へのご指摘、まことに鋭いところを衝かれました。 実は当箇所、わたくしも悩みました。
 千思万考した末、あのようになった次第です。以下にその経緯を述べます。

 「絡繹」“人馬が絶え間なく続くさま”とあり、重複を感じました。
 さまざまな事を引用した末、“春風がそよそよと吹く”の場合には“そよそよ”は形容詞で、「吹く」を入れなくては意味が通じないと思い、「絡繹」「そよそよ」と同じく形容詞として用いた次第です。

 先生のご指摘に鍾子期の「高山流水」を思い出しました。
まことに有難うございました。 

2007.11.29              by 井古綆


井古綆さんから改めてお手紙をいただきました。

鈴木先生、今晩は。
以前から諸兄のさまざまな詩を拝見して来ましたが、注意を申し上げるチャンスがなく、このたびわたくしの作品で説明をいたします。
 先生にご指摘を頂いた、動詞を形容する際の形容詞のことで述べたいと思います。

 かつて拙詩の「黒四ダム」にも用いましたが、崢エと言う形容語があります。「崢エ(そうこう)」を辞書で検索すれば、@高くそびえるさま、高く険しいさま。A谷などが深くて危険なさま。B歳月が積み重なるさま。C寒さが厳しいさま。D才能の特に優れているさま。と多くの語を形容しています。すなわち、ただ崢エだけでは何のことか分かりません。これを使い分けるには、その直前かまたは直後に、主語または形容される語を置かないと意味が通じません。
 主語が漠然としていてもやはり意味が不明です。白居易が十六歳の時に作ったといわれる有名な「草」の第一句に「離離原上草」とあり、「離離原上」だけでは意味不明で、修飾される「草」を出して始めて意味が通じます。

 さらに例をあげますと、「崢エたる絶壁」または「絶壁崢エ」。「歳月崢エ」または「崢エたる歳月」。「寒気崢エ」「幽谷崢エ」などと使用しますが、ただ「崢エ」だけでは意味が通じません。
 最近作りました拙詩を例題にここに記します。

   歳末(次韻)
  油價高騰逐日滋    
油価高騰 日を逐うて滋く
  崢エ歳末庶黎悲    崢エたる歳末 庶黎悲しむ  (れいしょ、庶民)
  芳魂識否人間事    芳魂識るや否や 人間の事  (じんかん)
  金粟耐霜清短籬    金粟は霜に耐えて短籬に清し (きんぞく、菊)

2007.12. 6               by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第213作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-213

  日本三景丹後天橋立        

無雲千里望逾遙   雲無く千里 望み逾(いよいよ)遙かに

大社參宮游艇漂   大社參宮の游艇漂ふ

碧海兩分老松列   碧海両分して老松列(つら)なり

股間倒見是天橋   股間倒(さかしま)に見る 是れ天橋

          (下平声「二蕭」の押韻)

<解説>

「大社」:丹後一宮籠神社(このじんじゃ)

<感想>

 「大社」として解説された「丹後一宮籠神社」は、「股のぞき」で有名な笠松公園の近く、歴史は古く、伊勢神宮がこの神社から移っていったことから「元伊勢」とも呼ばれている神社ですね。

 転句は「碧海」を先に持ってきましたが、意味がどうも苦し紛れのようで、感動の中心が「海が分かれた」ことに向かってしまうような気がします。また、「老松」というのも、長い歴史を表そうとのことでしょうが、「青松」に比べると印象が悪いですね。「松堤」が前面に出るようにしたらどうでしょう。
 結句は「股間倒見」が「股のぞき」を表したのですが、「股間」が何となく品が無いように感じるのは私だけでしょうか。単に「倒見」だけでも十分な気がしますが。

2007.11.28                 by 桐山人



鮟鱇さんから感想をいただきました。

サラリーマン金太郎様

 鮟鱇です。
 「股間」という言葉、鈴木先生ご指摘の見方される読者、決して少なくないと思います。
 日本三景のひとつである「天橋立」の絶景を堪能する詩に「股間」が出てくるのはどうもね、ということで。

 「股間倒見」を避けるなら、「登台倒見」とすれば穏当でしょうね。そして、「股のぞき」についての注書きを付ける。また、「見」よりも「看」がよく、「是天橋」は「領天橋」とすれば、「天橋立」の絶景を、股の間でひとり占めしている感じが出せるように思います。

 しかし、私は、「股間」の方が、サラリーマン金太郎さんの持ち味が出ていると思います。
 絶景に尻を向け、股を開いてその間から賞景。奇妙なことに、その行儀の悪い賞景が「天橋立」のセールスポイントになっていますね。いつからそのような賞景方法が推奨されるようになったのかはわかりませんが、江戸俳諧が生んだ鑑賞方法ではないかと思えます。江戸時代の町人の、股引きを穿いた旅姿でなければ、できない鑑賞方法ですので。  そこで、「俳諧」だろう、と私は思うのですが、玉作、その味がよく生かされていると思いました。起承転結でいえば、転句までが淡々とした叙景。読者からすれば、サラリーマン金太郎さん、いいところへ遊びにいらっしゃって、よかったですね、という以上のものではありません。
 しかし、結句で、「股間倒見」とやられて、読者としては、ですが、サラリーマン金太郎さんに突然尻を向けられる思いです。この「驚き」、あるいは、滑稽嗜好。書けばいろいろ書けますが、私の場合は、快く読めます。

 漢詩がユーモアや滑稽をどこまで詩材にできるかは、読者が漢詩に何を期待して読むかということと関係があって、いろいろ難しいと思います。ユーモアや滑稽は、度が過ぎると顰蹙を買うだけで、どこまでが許されるのかがはなはだ難しい。しかし、玉作、ユーモアや滑稽に新しい嗜好を開き、日本人の情緒をより豊かなものにしている若いみなさんには、きっと大いに歓迎されていると思います。私はそれを心強く思います。これ、平たく言えば、若者からいい、っていわれなければ、漢詩作りに将来はない、ということですが・・・

2007.12. 1               by 鮟鱇


井古綆さんからも感想をいただきました。

 サラリーマン金太郎さん、井古綆です。
 以前雅兄の玉作「展墓」について心からの賛辞を申し上げましたが、今回の詩につきましては、句の展開に疑問を感じました。
 まず、ご存じの方も多いと思いますが、絶句の作り方で、かの頼山陽が説いたといわれる俗謡があります。

      「起句」   京の五条の糸屋の娘
      「承句」   姉は十七妹は十五
      「転句」   諸国諸大名は弓矢で殺す
      「結句」   糸屋の娘は眼で殺す

 すなわち、対句ではないときには、起句と承句は詩意が繋がっていて、承句に新しい展開をせずに、あくまで起句を受け継がなくてはなりません。
 詩が展開するのは転句であり、その転句も結句の領域を侵してはなりません。
 これをマジックにたとえれば、マジシャンが最後に大見得を切る寸前にネタがバレてしまったようなものです。

 このことにつきましては、「全日本漢詩連盟」のホームページで、窪寺貫道先生が書かれた「起承転結論A」に例題も添えて詳しく載っていますので、拙文より遙かに意義があると思いますので、ご覧になってください。
 絶句にあっては基本的には前半を叙景、後半を叙情であることには論を待ちません。
 以下に拙作を以って擱筆したいと思います。

 「天橋立」には先聖、釈希世の応制の絶唱があり、非才も律詩「暖冬天橋立」を詠じた際にも先聖の作を意識して賦しました。
 このたびはサラリーマン金太郎さんの韻を用いて作りました。

    天橋立
  沙州六里白迢迢    
沙州六里 白(はく)迢迢
  碧海青松仙筆描    碧海青松 仙筆描く
  賽客文人于墨客    賽客と 文人と 墨客と
  三嘆絶景瞰天橋    絶景を三嘆して 天橋を瞰(かん)す

「賽客」: 成相寺、智恩寺(文殊堂)などの・・・
「三嘆」: 蕉翁の “松島や・・・” を意識する
「 瞰 」:  俯瞰

2007.12. 1                by 井古綆


真瑞庵さんからも感想をいただきました。

 真瑞庵です。
井古綆さんが感想で、
 絶句にあっては基本的には前半を叙景、後半を叙情であることには論を待ちません
と述べておられますが、周弼の『三体詩』では次のように著しています。

 実接
 絶句之法。大抵以第三句為主。・・・・中略・・・ 以事実寓意而接。則転換有力.若断而続。外振起而内不失於平妥。前後相応。雖止四句。而涵蓄不尽之意

 絶句之法ハ大抵第三句ヲ以って主ト為ス。・・・・・事実ヲ以ッテ意ヲ寓シテ接スレバ則チ転換力有リ。外ニ振起シテ内ニ平妥を失セズ。前後相応ジ、四句ニ止マルト雖モ而シテ不尽ノ意ヲ涵蓄ス。云々

 また、
虚接
 謂第三句以虚語接前二句也。亦有語雖実而意虚者。於承接之間。略加転換。反與正相依。順與逆相応。一呼一喚。宮商自諧。如用千鈞之力。而不見形跡。云々

 第三句虚語ヲ以ッテ前二句ニ接スルヲ謂ウ也。亦、語ハ実ト雖モ意ハ虚ナルモノ有リ。承接ノ間ニ於イテ、略転換ヲ加エ、反ト正ト相依リ、順ト逆ト相応ジ一呼一喚、宮商自ズカラ諧ウ。千鈞之力ヲ用ウル如クニシテ而シテ形跡ヲ見ズ・・・・・

 実とは実景描写を言い、虚とは情思を言います。  周弼は著書『三体詩』の中で、絶句を作すに於いて第三句を如何に作るかによってその成否があり、それは実接、虚接更には用事を問わないと説いています。
 必ずしも前二句叙景、後二句叙情が基本とは言えないのではないでしょうか。

 また、『三体詩』の中で、周弼は律詩についても対句四句を取り上げ、「四実」、「四虚」、「前虚後実」、「前実後虚」としてこの叙景、叙情について述べています。

 どの方法を執ろうとも、平板に流れないことが肝要だと言う事ではないでしょうか。小生まだまだ未熟とてもかなわないことではありますが。

2007.12. 5               by 真瑞庵


井古綆さんからお手紙をいただきました。

 愚見を申し上げましたが。言葉足らずでした。
 真瑞庵さんが後半で述べられているのが正しく、愚見では前二句叙景、後二句叙情と述べましたが、これが反対になってもかまわないわけで、全体が叙景にならないようにと、申したかったわけです。
 前後を繋ぐためには「転句」が最も重要でこれを叙景ととるか、叙情ととるかは、わたくしには分からないため、あのように述べた次第で、真瑞庵さんのご意見が正しいことには間違いがありません。

 ついでに申し上げますと、絶句においては、転句が最も重要で、かつて和歌山県に「高橋藍川師」という僧侶であり、また詩の大家がいらっしゃいましたが、そのお方でさえ吟行される際には、“転句のみを書き留めて帰る”と、述べられていたことを読んだことがあります。
 言い換えればこの転句のみで、さまざまな韻字に使用できるわけです。わたくしは藍川師のさまざまな玉作を拝見し、その余香を拝せんと藍川師の没後はるばるお寺をお尋ねしたことがあります。

2007.12.10            by 井古綆


真瑞庵さんから再度お手紙をいただきました。

 私は「前半叙景、後半叙情が必ずしも絶句の基本であるとは言えない」と申したかったのではなく、「前半後半ともに叙景でも、転句さえしっかりしていれば其れは其れでよいのでは」と述べたつもりです。
 たとえば
「楓橋夜泊」「江南春」「絶句」(杜甫)「寒江」などなど、周弼も『三体詩』で多く実例を取り上げています。もっとも取り上げている詩すべてが前後半ともに叙景とは思えないものもありますが、それでも四句共に叙景の詩が多く見られます。また反対に4句とも叙情のもの然りです。
 要はくどいようですが転句の良非に係わる事ではないでしょうか。

2007.12.11            by 真瑞庵





















 2007年の投稿詩 第214作は 嗣朗 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-214

  新秋即時        

瑟瑟秋風露草菁   瑟瑟と秋風 露草の菁

不貧不富我人生   貧しからず富まず我が人生

連枝共命百年道   連枝共命 百年への道

児子騎肩悦色盈   児子を肩に騎せて悦色盈つ

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 朝の散歩、道ばたに咲いている「露草の花」、可憐で・・色彩の美しさは抜きんでている、古来は秋を代表する草花として「月草」と呼ばれ詩に残されている。
この花を愛でながら、贅沢せず、長生きをしようと家内と誓い、孫を肩に騎せて喜んでいる。

<感想>

 奥様と二人で朝の散歩で行かれた折にお感じになったことを書かれたものですね。
 家を出たら秋風、道端のツユクサ。その可憐さから、これまでのことを思い、また、これからのことを思う。散歩から家に戻り孫と遊ぶ・・・・幸せ。
 作者と一緒に歩いている気持ちになると、とてもよく分かる詩ですね。

 ただ、読者は詩単独で鑑賞しますので、散歩にいつでも付き合ってくれるわけではありません。そういう意味での客観的な構成が必要になります。
 この詩では、句のつながりで見ると、「露草」が和語なのは置いておくとしても、起句から承句の感慨、「不貧不富」へとつなげるのは苦しいように思います。
 また、結句については、「悦色盈」の主語は「児子」と読む方が自然ですが、「子どもが肩車で喜んでいる」ことを詩全体の結びとするのは、幸福感の象徴としても、収まりが悪いでしょう。

 今のままですと、各句がそれぞればらばらの印象ですので、承句転句の内容を後半に持ってきて、前半は起句の自然描写を膨らませるような推敲が良いかと思います。

2007.11.29                 by 桐山人



嗣朗さんからお返事をいただきました。

ご指導ありがとうございます。
まだまだ自分の思い込み中心の漢詩しか作れませんが、宜しくお願いいたします。

 この漢詩について、以下のように推敲いたしましたが?
ご指導下さい。

  瑟瑟秋風月草菁     瑟瑟と秋風 月草のはな
  雷雲一洗遠山晴     雷雲 一洗 遠山晴る
  連枝共命百年道     連枝共命 百年の道
  不富不貧天恵情     富まず貧しからずは天恵の情

2007.12. 3            by 嗣朗

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 承句に情景描写を入れ、後半に作者の気持ちをまとめた構成になりましたので、とても分かりやすくなりました。この状態でも十分に良い詩だと思いますが、更に推敲をされるのでしたら、ということで一点だけ追加の感想を書きます。

 各句のリズムが同じになっていて、単調な印象です。とりわけ、下三字が「○○/○」という切れ方で揃っていますので、一層単調さを感じます。こうした時は、どれか一つの句でも良いので、「○/○○」のリズムになるようにしましょう。

2008. 1. 2            by 桐山人





















 2007年の投稿詩 第215作は 童心 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-215

  礼文利尻偶吟        

山頂延延雲霧留   山頂は延延と雲霧留まり、

半眠湖沼水光幽   半眠の湖沼は水光幽なり

百花繚乱辿斜径   百花繚乱として斜径を辿れば、

島島北端迎早秋   島々は北端にして早秋を迎える

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 北海道の礼文利尻島ツアーに参加しました。
 「れぶんあつもりそう」などの著名な花々は時期遅れでしたが、それでも北端の島々に固有な様々な植物群を楽しみ、歩いてきました。
 百花繚乱として咲き誇る花々に北国の早い秋を見ました。
生憎と利尻山は雲に隠れて顔を見せず、写真が撮れませんでした。

   山霧のベール離さず利尻山 

<感想>

 結句の「島島北端」は読み下しに書かれたような「島々は北端にして」とは読みづらく、「島々の北端」と読みます。
 全体的に、北海道の礼文利尻だという部分が弱いので、この「北端島島」の語は前半に置いた方が良いと思います。

 承句の「半眠」は読者に伝わるでしょうか。また、転句の「百花繚乱」は春のイメージが強い言葉ですので、この言葉の直後に「秋」の字を用いた方が良いでしょう。

2007.11.29                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第216作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-216

  古都逍遥        

旧故黄鐘娯洛中   旧故 黄鐘 洛中であそ

江楼酒熟笑声充   江楼 酒熟し 笑声 充つ

華靡艶舞皆陶酔   華靡なる艶舞に皆陶酔す

懐想祇園雅麗風   懐想す 祇園雅麗の風

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 昨年11月高校の同級生で京都に旅行し、久しぶりに祇園の艶舞を楽しみ、翌日は西山を回遊しました。その時の感想を作詩したものです。

<感想>

 起句の「黄鐘」は11月を表す言葉です。
 題名の「古都逍遥」ですが、詩の内容からはどうも祇園のことばかりが出てきますので、ここはやはり「逍遥」を削るか、「古都」を「祇園」に替えるなどが良いでしょうね。
 そういう題名だとして読めば、納得できる展開だと思います。

 転句の「皆陶酔」だけは、言葉が練れてないでしょう。誰もがうっとりとして見ていた、ということを「うっとり(陶酔)」という言葉を使わずに、しかも雅味を残して表してほしいところです。

2007.11.29                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第217作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-217

  中秋        

蕭颯西風残暑収   蕭颯西風 残暑収り

梧桐落葉正中秋   梧桐落葉 まさに中秋

籬邊蟲語侵簾箔   籬邊の蟲語 簾箔を侵す

天半氷輪照四周   天半の氷輪 四周を照らす

往事軒前観月盛   往事 軒前 観月盛ん

近来室内読書脩   近来 室内 読書 脩し

自然現象雖常態   自然現象は常態と雖も

時代推移時尚流   時代は推移 時尚流る

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 律詩の勉強はこれからですので、よろしくご指導ください。

<感想>

 そうですね、まずは対句の点から行きましょうか。
 頷聯上句の「簾箔」は「簾」も「箔」もどちらも「すだれ」を表す字ですので、この熟語の二字は同意語による並列の関係です。対して下句の「四周」は「四」が「周」を修飾する関係です。このような熟語の構成が異なる言葉を対にするのは良くありません。
 後の「四周」を生かすなら前半にも数詞を用いるような形、あるいは前の「簾箔」を生かすなら後半も並列の熟語を持ってくるような工夫が必要です。
 同じく、頷聯では、「蟲語」「氷輪」の対も気になります。「蟲語」はそのままずばりで「蟲の声」で良いのですが、「氷輪」は「氷の輪(リング)」ではなく、「氷のように冷ややかな丸い輪」という比喩になっています。「月輪」「月光」という言葉ならば「蟲語」と直接表現で対応が良いと思いますが、他の句で「月」を用いているために工夫された結果かと思います。

 内容や用語の点では、ここでも頷聯が気になります。「虫の声がすだれを侵す」という上句ですが、作者は今どこに居るのでしょうか。「すだれ」を通して虫の声を聞くわけですから、普通に考えれば作者はすだれの内側、つまり室内に居ると思います。さて、室内にいて簾が下りて外が見えない状態で、どうして虫の鳴き声が「籬邊」から聞こえたと作者は分かったのでしょう。
 ここは「階前」「庭前」など、部屋から近いところを書かなければいけない筈ですが、後の「軒前」との関係でしょうか、あるいは「虫」→「籬」とつい勢いで書いてしまったのでしょうか。現実感が一気になくなってしまいます。

 後半はやや息切れでしょうか。頸聯の「往事軒前観月盛」は、「昔は月見も盛んだった」ということで理解できますが、下句は何のことなのか分かりません。作者個人のこととして、昔と今を比べているというのなら、「私も最近は(月見もせずに)本ばかりを読んでいる」と理解できますが、そうしますと、尾聯の「時代推移」という内容がぼやけます。
 作者個人の変化であれ、世の中の変化であれ、その違いがはっきりと出る対比をさせることが必要でしょう。

 用語の点では、「室内」は和習で、「室裏」「斎裏」が良いと石川忠久先生の本に書いてありましたね。
 尾聯の「自然現象」は詩意としては「四季の変化」ということでしょうから、やや大げさな感じで、それが詩をわかりにくくさせている理由の一つでもありますね。

2007.12. 1                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第218作は 鯉舟 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-218

  済州島        

墨黒龍頭激浪湾   墨黒(ぼっこく)龍頭(りゅうとう)激浪の湾

皚皚残雪漢拏山   皚皚(がいがい)残雪 漢拏(はんな)山

石牆風転三多島   石牆(せきしょう)風転(めぐ)る三多(さんた)の島

流眄佳人好笑顔   流眄(りゅうべん)す 佳人(かじん)笑顔好(よ)し

          (上平声「十五刪」の押韻)

<解説>

 今年3月上旬、韓国の済州島へ旅行しました。
 東シナ海の荒波に洗われる真っ黒な龍頭岩の海岸と遥かに望む漢拏山(はんなさん)山頂の雪景色との対比が印象的でした。
 済州島は「風・石・女」が多いことで有名で「三多」の島と呼ばれています。
 又、近年この島は韓流ドラマの映画撮影のメッカとして脚光を浴び、多くの女性ファンが押かける観光スポットとしても有名です。

 三日間、流暢な日本語で案内してくれた若い女性ガイド、蘭(ラン)さんの笑顔はなかなかチャーミングでした。

<感想>

 済州島は「三多」とともに、「三無」の島とも言われているそうですね。「泥棒がいない、乞食がいない、泥棒を防ぐ必要が無いから大きな門も無い」ということで、何となく古代人が理想とした別天地のようですね。
 韓国の中でも最南端、気候的にも恵まれている地ですね。ただ、「三多」で女の人が多いのは、男が漁業に携わることが多く、厳しい自然環境の中で亡くなるケースが多かったからだとも言われます。「女の人が多い」のではなく、「男の人が少ない、少なくならざるを得ない環境だった」と考えると、胸に刺さってくるものがあります。

2007.12. 1                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第219作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-219

  肝中巣病毒     肝中に病毒巣くふ   

十年病毒在肝中   十年病毒肝中に在り

羸血肥脾脅我躬   血を羸(やせ)しめ脾を肥やして我が躬(み)を脅かす

垂老欲猶為事事   老いに垂(なんなん)として猶事事を為さんと欲す

冀唯医術比神功   冀(こいねがわく)は唯だ医術の神功に比(たぐい)せんことを

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 語注)
「病毒」:現代中国語でウイルス

 十数年前に発症して慢性化したウイルス性肝炎が因で血小板減少、脾臓肥大という事態に到り、本格的な治療のため入院手術をすることになりました。
 入院を前にして医術の神業に類する事を願う以外ありません。

<感想>

 柳田さんからの投稿をしばらくいただかなかったので気にかけていましたが、お病気だったとのこと、大変でしたね。

 次の作品ともに、手術前のお気持ちが描かれた詩です。病室でお作りになったのでしょうね。

 皆さんもご心配のことと思いますが、柳田さんからのお手紙では、その後の経過も順調とのことです。安心しました。
 退院時の詩、またその後の詩もいただきましたので、順次紹介させていただきます。

2007.12. 3                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第220作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-220

  脾摘手術前        

病肝久亦血孱羸   肝を病むこと久しければ血も亦孱羸(せんるい)

加療先爰欲摘脾   加療先ず爰(ここ)に脾を摘さんと欲す

傍我妻娘何有患   我に傍ふ妻娘 何ぞ患ひ有らん

鎮心今只信名医   心を鎮め今や只名医に信(まか)すのみ

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 午後に手術を控えた日の朝、病室に来た妻と長女を前にしての作。
正にまな板の鯉の心境です。

<感想>

 起句の「孱羸」は、「弱り、細る」の意味です。

 「久亦」「先爰」「今只」と虚字が多く使われていますが、転句の「何有」も含めて、不安を打ち消そうとする作者の気持ちが表現に出ているのでしょうね。

2007.12. 3                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第221作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-221

  出雲大学駅伝        

競覇路上雨紛紛   競覇の路上 雨紛々

母校精英各逸群   母校の精英 各おの群を逸す

八百万神神集地   八百万の神 神集ふ地

健児健闘有餘欣   健児の健闘 欣び餘り有り

          (上平声「十二文」の押韻)

<解説>

 投稿の諸先生の玉稿と桐山堂先生のご高評をいつも多としています。  10月8日の体育の日、箱根駅伝の前哨戦、出雲大学駅伝が雨中行われました。
 私の母校は昨年二位、今年こそ雪辱を願ったのですが、一区で出遅れ苦戦、しかし次第に順位をあげて今年も二位と健闘しました。桜門の老生はテレビで観戦でした。
 東海大学の三連覇には敬意を表します。



<感想>

 大学駅伝は、深渓さんが今回題材とされた10月の出雲駅伝、11月の全日本大学駅伝、そして正月の箱根駅伝が「学生三大駅伝」と言われるそうですが、私の地元愛知県では、名古屋の熱田神宮から三重の伊勢神宮まで走る全日本大学駅伝が行われます。
 箱根駅伝は毎年正月の楽しみとして見ていますが、出雲駅伝も楽しみにしていらっしゃる方が多いのでしょうね。

 深渓さんの母校の桜色のタスキが箱根を快走することを期待し、今度の正月は応援します。(私の母校はちっとも箱根に出てくれませんし・・・)

 転句は「神」の繰り返しが効果的で、和習をものともしない強さが良いですね。「出雲だぞー!!」という感じが出てきます。

 起句の二字目の「覇」は仄声ですので、平仄が崩れています。そこだけはお直しください。

2007.12. 3                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第222作は 杜正 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-222

  秋夜想北鮮拉致     秋夜 北鮮の拉致を想ふ   

遠望南方月下濤   南方を遠望すれば 月下の濤

逃帰拉致阻波高   拉致より逃帰(とうき)するには 阻波(そは) 高し

空過政変無情苦   空しく過ぐる政変 無情の苦

家族潸潸気勢豪   家族は潸々(せんせん)と気勢 豪なり

          (下平声「四豪」の押韻)

<解説>

 拉致から逃れて日本に帰ろうと何度も試みたが、つかまって戻されてしまう。首相の突然の交代という政変。核問題中心の6カ国協議。拉致問題が解決しないまま、また秋が過ぎていく。物理的に帰れないならすぐにでも対策が取れるのに、政治という人為的な障害で帰れないのはいかにも空しい。政治的解決の試みが無になるたびに、家族は涙ながらに気勢を挙げるしかない。

「潸潸(せんせん)」:涙ながらに

<感想>

 拉致問題解決は、杜正さんがおっしゃるように、政治的情況の変化によって、遅滞が生じているようです。ここ数日は、オーストラリアの選挙、ロシアの選挙の報道がされていますが、こうした世界の情勢の変化も、日本の拉致問題解決への願いに少なからず影響を与えるでしょう。それをいかに先手を打って、願う方向へと進めていくかが政治の力なのでしょうが、政治の表舞台では拉致問題はひとまず棚上げ、という空気が感じられて不安です。

 さて、いただいた詩ですが、承句の「逃帰拉致」は、ご指定の読み下しには行きにくいですね。「拉致から帰る」という表現は、日本語としてもしっくりきません。「故国に帰りたい」という言い方に持って行けるように、詩語を検討すると良いでしょう。

 結句の「気勢豪」は、「気力充ち満ちて、勢いが盛ん」という意味で、直前の「潸潸」とのつながりが良くありません。
 前半から転句まで読み進めてきて、「拉致された人や家族は気の毒だなぁ」と思った読者は、結句の「家族潸潸」で「家族の人達は涙をハラハラと流す」とその悲しみに対して共感し、一体感を持つはずです。そこまで読者を引っ張ってきて、最後に唐突に「いきおいは盛んだよ」と来ると、「さっきの涙はどうなった?」とひっくり返された思いになります。
 深い悲しみに涙を流しつつ、それでも気持ちは強く持って行こう、そういう思いを表すには、「気勢豪」の部分は言葉の選択を替えた方が良いと思います。


2007.12. 4                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 杜正さん初めまして。井古綆です。
 玉作を拝見いたしました。詩意は良く分かりますが、韻字の設定に問題があるように思いました。

 もしかして雅兄は起句より作詩していらっしゃるような気がしました。鈴木先生もご指摘のように結句の「気勢豪」では詩意の一貫性がないように思います。

 このような詩を作るには(下平声「八庚」韻)が作りやすいと思います。
雅兄の使用されました韻でわたくしなりに作ってみましたが、非常に苦労をいたしました。

 まず、結句の韻字を設定して作詩をなさると、作りやすいかと思います。車のハンドルを握った場合には、すでに目的地を考えているのと同じような感じです。

    試作

  受捉邊疆幾試逃    
辺疆に捉われて 幾たびか逃れんと試みるも
  故郷千里怒濤高    故郷千里 怒涛高し
  卅年空過苦親族    卅年空しく過ぎて 親族を苦しませ
  悲涙潸潸奈我曹    悲涙潸潸 我曹(がそう)を奈(いかん)せん

2007.12. 4             by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第223作は 庵仙 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-223

  示我国老若男女     我国の老若男女に示す   

游海登山快感生   海に游び 山に登れば 快感生ず

釣川聞谷共渓声   川に釣りし 谷に聞けば 渓声を共にす。

何為侵害無辜幸   何為なんすれぞ 無辜むこの幸せを 侵害するや、

君莫相忘惻隠情   君 相忘するるなかれ 惻隠の情。

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 海で水游びをしたり、山に登れば 快い気持を味わうものである。
 また川で釣りをしたり、谷に入って自然の声を聞けば 渓声を共にする事ができる。
 どうして(何為)罪もない人を死に追いやったり、害したりするのか。
 諸君 相忘れてくれるな 憐れむ心を。

「惻隠情」:孟子の四端の一つで、哀れみ傷む心。痛ましく思う心。

 最近の日本の実情をみるに、年齢を問わず、殺傷事件が連日のように起き、新聞紙上を賑わしている。また各所で、日本にはかつて他国にない、奥ゆかしい心があったが、それも消え、人を気遣い、人を思いやる気持はなくなったと言う。それを題材に悲痛な思いを漢詩にまとめ、皆に訴えた。

<感想>

 孟子の「四端」は、次の文章です。

 無惻隠之心、非人也。無羞悪之心、非人也。無辞譲之心、非人也。無是非之心、非人也。
惻隠之心、仁之端也。羞悪之心、義之端也。辞譲之心、礼之端也。是非之心、智之端也。

読み下しは次のようになります。

 惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。
惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり
 惻隠の心は「仁」の表れということですので、最も大切な心として位置づけられています。
 最近は肉親が加害者というような悲しい事件が続き、歳末の慌ただしい心を傷つけられることが多いのですが、庵仙さんの仰るように、相手を思いやる心が失われている気がします。

 詩の方は、前半の海山川谷の提喩が適切かどうか、分かりやすく言えば、この詩で描かれた素材が自然との親しみの全体を表すのに十分かどうか、もう少し練ることができそうな気がしました。

2007.12. 4                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 庵仙さんはじめまして、井古綆です。
 玉作を拝見いたしました。詩意の濃い作品であると思いますが、少しもの足りないところもあるように感じられます。

 起句承句と転句結句が離れているように感じられました。
 やはりこれだけの詩意をこめるには、何回も推敲を重ねなくては読者に伝わりにくいと思いまして、わたくしも同韻で雅兄の「惻隠情」を以って、一詩を作りましたので参考になれば幸いです。

    愁世情
  戦後黎元指泰平    
戦後黎元 泰平を指すも
  暖衣飽食大倫傾    暖衣飽食 大倫傾く
  増憎減愛之何事    増憎(ぞうぞう)減愛(げんあい)之(これ)何事ぞ
  今日誰求惻隠情    今日誰か求めん 惻隠の情

「黎元」: 国民
「大倫」: もっとも基本となる法律
「増憎減愛」: 憎愛と増減との互文、造語です

2007.12. 5            by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第224作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-224

  中秋観月        

登臺望桂月   台に登りて 桂月を望み

佳宴賞中秋   佳宴 中秋を賞す

皎皎蟾光照   皎皎として 蟾光照らし

蕭蕭雁影流   蕭蕭として 雁影流る

久朋遙寄句   久朋 遙かに句を寄せ

醉客不堪愁   酔客 愁ひに堪えず

相隔思千里   相隔てて 千里を思へば

難期昔日游   期し難し 昔日の游

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 月見の宴で、遠くの友のことを思う、そんな光景を詠みました。
遠くの友は、会う機会が数年に一度くらいになりました。
今は昔を懐かしみながら、会える日を楽しみにしております。

<感想>

 中秋の月を眺めた折の感懐を五言絶句にまとめたものですね。空に架かる月を見て、遥か遠くの友人を偲ぶというのは古来の伝統です。
 数年に一度しか会えない友ですので、「千里」ではまだ足りないくらい、「万里」としたかったところでしょうが、平仄を合わせて「千里」に落ち着いたのでしょうか。

 頸聯の下句、「不堪愁」は、「堪」の字は「不」と同じく虚字ですので、上句の「寄」とは対句のバランスが悪いと思います。実際の動作を表す字にしたいですね。

2007.12. 4                 by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

「桂月」も「蟾光」も同じ事を言っているので、内容が平板に流れているような気がします。
起聯はやや急ぎ足で句を作ったような印象です。逎勁(力強さ)が欲しいと思います。
 要知発端草卒、下無声勢

2007.12. 6            by 謝斧





















 2007年の投稿詩 第225作は 博生 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-225

  想秋夜     秋夜に想ふ   

銀河迢遞月光清   銀河迢遞 月光清し

宇宙茫茫極不明   宇宙茫茫 極み明らかならず

天命有涯多感慨   天命かぎり有りて 感慨多し

暗愁寂寂佇三更   暗愁寂寂 三更に佇む

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 澄んだ秋の夜、星月は輝くが暗き所はあくまで暗い、果ては無限、人の身は限り有り静けさの中、想い多々。

<感想>

 秋の夜は様々な物思いを誘うのですが、とりわけ自らの人生に思いを馳せることが多いようです。
この詩では、「天命有涯」と持ってきて、人の生のはかなさに気持ちを持っていったのですが、そのきっかけは承句の「宇宙の茫漠とした果ての無さ」からの対比なのでしょう。
 転句へのつながりがやや明瞭すぎる気もしますが、その分、分かりやすい表現になっているとも言えます。

 私の感覚としては、起句で「銀河」「月光」を並べたのは、実際には明るい月の下で銀河を見ることはできないと思いますので、起句が実景というよりも観念的な印象になります。その辺りを狙った上でのものかどうか、が判断の難しいところです。

2007.12. 4                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第226作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-226

  晩曳筇郊外        

索居閑寂俗情微   索居 閑寂トシテ 俗情微ナリ

倦耜曳筇歩落暉   耜スルニ倦ミ 筇ヲ曳キ 落暉ニ歩ス

南径離離留夜露   南径 離離トシテ 夜露ヲ留メ

西山日日纏秋衣   西山 日日 秋衣ヲ纏フ

風運村寺晩鐘韻   風ハ運ブ 村寺 晩鐘ノ韻

月訪茅家荊竹扉   月ハ訪ノフ 茅家 荊竹ノ扉

今夕余郷好時節   今夕 余ガ郷 好時節

一壷美酒可無違   一壷ノ美酒 違ナカルベシ

          (上平声「五微」の押韻)

<感想>

 今回の真瑞庵さんの詩は、とても情景が明瞭で、句もよく錬られていると思います。私は書き出しの「索居閑寂俗情微」に一気に惹かれてしまいました。
 頷聯、頸聯もよく秋情が描かれていると思いますが、その分、最後の「可無違」がややこの詩の結びとしては弱いような感じで、ちょっと飲み足りないうちに宴が終わってしまったように思います。

 第五句の「運」は仄字ですので、ここは勘違いでしょうか。


2007.12. 4                 by 桐山人



真瑞庵さんからお返事をいただきました。

 真瑞庵です。
 いつも更新を楽しみにしています。特に投稿した拙詩に先生からどんな感想、アドバイスを頂けるのかが楽しみです。

 さて、相変わらずまたドジをしてしまいました。

 第五句 ご指摘のごとく『運』は仄字でした。。『輸』に変えます。
 第八句下三字の「可無違」について、先生はまだ飲み足らなさを感じたとの事ですが、私はまだ飲んでいません。
 この散策の後、晩酌に大事にしまっておいた頂物の銘酒を飲めば、間違いなく美味いだろうな。こんなにもすばらしい秋の夕景色を肴にできるのだがら。
 とこんな調子なのです。
 実はこの三字に最も意をおいたのですが。力不足を恥じ入るばかりです。

2007.12. 6               by 真瑞庵


井古綆さんから感想をいただきました。

 真瑞庵さん玉作を拝見いたしました。井古綆です。
 律詩は大変に難しく、わたくしも苦労しております。

 玉作を拝見し、農作業の後になぜ郊外に筇を曳くのかを、理解出来ませんでしたが、後の説明文で理解することが出来ました。
 それでしたならば、事実そのものずばりと表現しては如何でしょうか。ご本人にしか分からないことを、他人が差し出がましくいうのは、見当違いがあるかも知れませんが、以下のような措辞ではと思いますが。

尾聯

  忘却芳樽惠贈友    
忘却す芳樽の 友に贈られたるを  (下三仄)
  執心返踵怱怱歸    執心踵を返して 怱怱と帰る (くびす)  (下三平)


2007.12.10              by 井古綆


真瑞庵さんからお返事をいただきました。

 井古綆さん 真瑞庵です。
 貴重なご意見、ご感想有難うございます。

  忘却芳樽惠贈友
  執心返踵怱怱歸

 結聯前句下三仄、後句下三平の措辞には脱帽しました。

 しかし、小生、とってあった酒を思い出し、急に飲みたくなって怱怱歸という気持ちではありません。
『こんないい時節、こんなにいい気分、こんな時に飲む酒はきっとうまいに違いないだろうなぁ』
 絶対飲むぞーといきごんで帰る程の気持ではありません。もう少しゆったりと秋の気配の心地よさに浸りそしてそんな気分で晩酌で飲む酒のうまさを楽しむ気分・・・・・
 そんな事が表現出来ていれば良かったのですが・・・・・・・・。

『農作業の後になぜ郊外に筇を曳くのかを、理解出来ません』との事ですが、「倦耜・・・」、此の言葉で何も齷齪働くことはないんだ、どうせ索居の身。是だけの仕事を仕終えなければと言ったことでもない。ちょうど夕暮れ、ぶらぶらと散歩にでも出かけようか。
 起聯第一句「俗情微」をうけての「倦耜」であり、結聯「今夕余郷好時節、一壷美酒可無違」なのですが、如何とも一人善がりだったようです。

2007.12.11              by 真瑞庵


井古綆さんからのお手紙です。

 真瑞庵さんお早うございます。
 早速に愚見をお聞きくださいまして有難うございました。人様の玉作を、一読したのみで詩意を把握するのは簡単には出来ないことを勉強いたしました。
 わたくしが作詩に当たって苦心していることを申し上げますと、推敲の大切さです。「山園小梅」で有名な林逋は作詩してもなおざりにして、後世には残っている詩が少ないといわれています。我々は少なくとも多くの人に批評して頂くことを前提に作っているので、詩意を誤解されないようにと、常に心がけていますが、なかなか難しく今に到っております。

 なお、下三仄・下三平は、今春大阪の池田市で「広瀬旭荘」の真筆展があり、その中に「藤井竹外」の詩も展示されていました。その絶句のなかに下三仄・下三平の措辞がありました。
 しかし、これはやむを得ない場合以外は多用するべきでは無いと思います。

2007.12.13               by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第227作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-227

  湖愁        

孤棹浮漚落日斜   孤棹浮漚 落日斜なり

繋愁対岸数昏鴉   愁ひを繋ぐ対岸昏鴉を数ふ

青雲遠去空惆悵   青雲遠く去りて空しく惆悵

過半人生只有嗟   半ばを過ぎし人生只嗟き有るのみ

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 ネガティブな詩で申し訳ありません。
 転句のところが、どうしても飛躍しすぎるように思いますが、ご指導よろしくお願いします。

<感想>

 テーマとしては、225作の博生さんの「想秋夜」と共通するところがありますね。

 ご自身がお書きのように、転句の感慨が生まれてきたつながりに飛躍があります。前半の景が多少とも「青雲」とつながるようだと良いのですが、このままではほとんど無関係ですので、前半後半が別々の詩のように感じます。
 同じ「過去」を表すにしても、「青雲」では前半の景を無駄にしてしまいます。「孤棹」「落日」「昏鴉」の配置も上々ですので、この辺りを生かすようにできないでしょうか。

 結句は、「只有嗟」がそのものずばりですので、ここも一工夫して、婉曲な表現にした方が良いでしょう。

2007.12. 4                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第228作は 柳田 周 さんからの作品です。
 「退院に当たり、礼状に添えて漢詩二首を便箋にペン書きし、担当外科のスタッフセンターに遺して来ました」とのことです。

作品番号 2007-228

  脾摘後二首 其一 謝医師       

僅五日前全摘脾   僅かに五日前 脾を全て摘したり

歩餐経肆亦書嬉   歩と餐はでにほしいまま、書も亦たの

足驚老体猶能復   驚くに足る 老体猶能く復すとは

応謝此都依大医   応に謝すべし 此れすべて大医に依ると

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 最新の検査設備と手術設備が整った病院で、優れた外科医に執刀して貰えたので、標準以上の早さで回復が進んだようです。
 手術は、プロ野球王貞治監督の胃癌に際して採られたのと同種の腹腔鏡下脾臓摘出という術式でした。
 手術痕は、脇腹と鳩尾を結ぶ線上に長さ2cmの切開部が3つと臍上に長さ4cm程の切開部が一つあるだけで、術後翌日から歩行も食事も行い、6日後には抜糸してシャワーを浴びる事ができました。
 それでも術後3日間は、傷の痛みと絶え間ない点滴による頻尿と、そして浅くなる呼吸による呼吸困難とに苦しみ、悩まされて、殆ど一睡もできない程でした。
 この時期には看護師さんの手を煩わす事も多く、真夜中でも労を厭わない親切がどれだけ有り難かったか、医師と看護師に対する感謝の気持ちを詩を遺すことで表したいと、退院前二日間で作りました。

<感想>

 前回の手術前の詩二首(「肝中巣病毒」「脾摘手術前」)の投稿をいただいた時に、びっくりして私はお見舞のお手紙を差し上げました。
 作者の解説文は、その手紙への返事としてお書き下さった部分、読者の皆さんもご心配かと思いますので、術後の報告ということで載せさせていただきました。

 転句の表現は、私自身の経験として、とても納得できる言葉です。
 私は先の病気入院の際、病名は違いますが症状としては脳梗塞に近いもので、右半身の動きが難しくなりました。ベッドの上で、右手や右足の動かし方がどうやっても思い出せなくて、今まで意識もせずにやっていたことができなくなりました。ベッドからやっと立ち上がるところから、一歩ずつ歩き始め、次第にリハビリへと進みました。
 動くところは動かす、忘れたことは無理をしてでも動かす、リハビリの早期の必要性は知識として十分理解していましたから、新しい回路を作るつもりで必死でリハビリをしました。
 発病が40代後半だったことも幸いだったのでしょう、今では、病気の頃の私を知っている人が驚くほどに動けるようになりましたが、つくづくと人間の身体の回復力に感動します。
 「老体」とお書きですが、柳田さんもまだまだお若いのですから、粘り強く、快復を目指してください。

2007.12. 6                 by 桐山人



柳田 周さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生
柳田 周です。

 「脾摘後 其一 謝医師」に対する先生の感想の中で、先生ご自身が40代後半で脳梗塞に似た病気をご経験なさった、と書いて居られるのに驚きました。リハビリによって右半身の運動傷害が完治され、身体の回復能力に感動された由、生物としてのヒトが進化の過程で身に付けた治癒力というのは、本当に凄いものだと思います。
 無論、医術の進歩と良医にに助けられている訳ですが、しかし、本来備わっている回復力が基であることは言を待たないでしょう。

2007.12.17             by 柳田 周





















 2007年の投稿詩 第229作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-229

  脾摘後二首 其二 謝看護師        

生来初臥病床頭   生来初めて臥す病床のほとり

術後有時萌大憂   術後時にはなはだしき憂ひの萌すこと有り

看護婦扶勝苦痛   看護婦にたすけられて苦痛に

不知何以謝還酬   知らず何を以て謝した酬いんかを

          (下平声「十一尤」の押韻)

<感想>

 病気になった時は、本当に看護師の方々の温かい対応に、心から救われます。何とかして感謝の気持ちを伝え、酬いたいという思いになるのは、共感できる表現です。
 退院前の二日で作られたそうですが、承句の下五字はこの語順では読みにくいと思います。

2007.12. 6                 by 桐山人



柳田 周さんからお返事をいただきました。

「脾摘後 其二 謝看護師」の承句の読み方のご指摘ありがとうございます。

「有時萌大憂」ですが、「時」は「萌」にかけた積もりでした。
「大憂時に萌す有り」又は「時に萌す大憂有り」と読むならよいのでしょうか?

2007.12.17              by 柳田 周


 承句の読みについては、「時」が下三字にかかっていくのは、七言のリズム「二・二・三」の点から、読みにくいのは変わらないでしょう。
 ここでは、「有」の字が必要かどうか、私の気持ちとしては上四字を「術後時萌」として下三字をお考えになった方が、「大憂」も強く印象づけられるし、句としても落ち着くと思います。
 意図的に句のリズムを崩して、病気の不安を示したいというお気持ちもあるならば、また別の方向での検討になるかもしれません。

2007.12.18              by 桐山人


柳田 周さんからお返事をいただきました。
b 
 早速、ご返事を戴きありがとうございます。
 ご多用中と拝察致しますのにご丁寧に対応下さり、本当にありがとうございます。

 手術してから強い緊張を持続する事が少し難しくなっている様に感じています。
作詩の推敲なども、些か安易になっていると自戒しています。

 さて、「有時萌大憂」ですが、先生のご返事の後、改めて考え直しました。
二四不同がなければ、この文は「時有萌大憂」が自然な語順と思います。また、ご指摘の通り、「有」の字は却って冗長にすると思いました。
 そこで、この五字は「時萌更大憂」としたいと思います。

   生来初臥病床頭
   術後時萌更大憂
   看護婦扶勝苦痛
   不知何以謝還酬


2007.12.20              by 柳田 周





















 2007年の投稿詩 第230作は 展陽 さんからの作品です。
   

作品番号 2007-230

  書法展        

二王草体古今稀   二王の草書 古今に稀れ

字字毫鋒凛有威   一字一字の筆のするどさ きびしい威厳がある

筆勢清高如老柏   筆の勢い さっぱりして老柏の如し

群英不語自知違   居並ぶ英士たち 語らずとも自ずと違いを知る

          (上平声「五微」の押韻)

「二王」:王羲之と王献之

<感想>

 句の構成を見ると、承句と転句の役割にあまり差がない、というよりも、「二王」の書に対する感想として同じものになりますので、起承転結が働いていません。
 こうした構成も詩としてはあり得るのですが、詩の印象が弱いものになります。押韻平仄を別にすれば、承句転句を前半に置いて、起句を転句に持ってくると、勢いのある詩になるでしょう。

2007.12. 6                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第231作は吹田市の 道佳 さん、六十代の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2007-231

  夏日句     夏日の句   

烈暑英華百日紅   烈暑の英華 百日紅

上升蕣蔓舞天空   上升すあさがおつる 天空に舞ふ

於朝夏季苦炎熱   朝から夏季は炎熱に苦しむ

観賞花晨心気充   観賞す 花晨かしん 心気充さん

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 いま漢詩の勉強中です。いまは、一海和義先生の書を読んでいます。
 今年は、残暑も大変厳しいものがありました。その中で、玄関に百日紅の赤い花とそれにまきつけるアサガオの花が咲きました。朝見ると、青空に咲いています。朝から暑さに苦しみましたが、花の咲いた朝、見上げるといつも元気を与えてくれます。
 そんな気持ちをこめて作詩しました。

<感想>

 道佳さんは漢詩創作経験が一年程とのことですが、季節的には作詩が難しい夏の詩を送っていただきました。
 気のついたことを幾つか指摘させていただきます。

 まずは、詩としてどこにポイントを置いて書くかという点です。夏の暑さが厳しいことを言うのか、夏の花の美しさを言うのか、夏の朝の心の状態を言うのか、そこが整理されていないようですので、読者はどこに共感すれば良いのか分かりません。
 どれでも全部感動すれば良いと言うかもしれませんが、これでもか、これでもかでは息がつけません。
 入門期には言葉を探すのに大変で、あれもこれもというところがあるかもしれませんが、例えば、「夏の暑さ」と「咲く花」を並べた時でも、「燃えるような真っ赤な花」ならば「花」が「暑さ」を強調する役割になるし、逆に「白い花」の時には「暑さ」が「花(爽やかな白さ)」を強調する役割になる、そんな相互関係が生まれるものです。
 分かりやすく言い換えるならば、その詩の主題をまず決めて、その主題を伝えるためにどんな素材を配置するのが適切か、という順番で考えていくと良いでしょう。

 次に、言葉の重複に、気をつけてください。
 起句の「烈暑」と転句の「炎熱」、転句の「朝」と結句の「晨」は、意味としても違いがなく、そのまま置き換えても構わないくらいです。と言うことは、それぞれ、どちらかが無くても良いということでもありますから、七言絶句の字数が限られた詩では重複はもったいないでしょう。
 そうした重複が無いかどうか、推敲の段階でチェックが必要です。

 最後に用語の選択が必要です。結句の「花晨」は、二月頃の春の季節を表す言葉ですので、字の意味だけではなく、用法でも注意が必要です。
 また、転句の「於」は「ヨリ」と読みますが、これは基本的には比較の時に用いるものですので、起点を表す時には、「自」の方が良いでしょう。
 こうしたことは、漢和辞典で調べることになります。

 色々書きましたが、この詩では、承句の「蕣蔓舞天空」という表現が斬新で、頭がシャキッとさせられます。こうした視点や表現が詩の中で自然に彫り上がってくるような構成を狙うと、良い詩になると思います。

2007.12. 9                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 道佳さんはじめまして、井古綆です。
 鈴木先生のご指摘以外に気がついた点を述べてみます。

 漢詩を作り始めて1年とのことですが、良く出来た作品かと思います。この詩では、紫薇に碧花が捲きついている光景は詩的だと感じました。しかし、入門期の間は絶句一首の中に、花草などを二種類出さないほうが良いと思います。

 鈴木先生がご指摘された転句の「於朝」などは、辞書を引けば「朝来」と載っています。
 最初から熟語を多く使用するように心がけてください。わたくしは殆んどを「新字源」に頼っていまして、二十年近く利用してぼろぼろになりましたので、二代目を購入しました。
 新しい仲間の道佳さんと一緒に今後も学べることを、とても楽しみにしております。

2007.12.10             by 井古綆

<追伸>

 道佳さんが佳景を観察されたことはとても素晴らしいと思います。改めて、この記憶を一詩に賦してください。きっと佳作になると思います。
 わたくしもこの情景を頂いて一詩をと思いますがご遠慮して、後日、道佳さんの佳作がこのホームページに載るのを楽しみにしております。

2007.12.11               by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第232作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-232

  湖西懐古        

湖国曾遭仰聖人   湖国に曾て聖人と仰がれ

一伝良知説彛倫   一に良知を伝へて彛倫(いりん)を説く

扶疎藤樹成清蔭   扶疎たる藤樹は清蔭を成し

瀟洒書堂謝俗塵   瀟洒なる書堂は俗塵を謝す

永使薫陶輩群彦   永く薫陶をして群彦を輩せしめ

常令徳育弘村民   常に徳育をして村民に弘めせしむ

顧愁今日世情乱   顧みて愁ふ 今日世情の乱れ

適討遺芳欲問津   まさに遺芳を討ねてしんを問はんと欲す

          (上平声「十一真」の押韻)


「問津」:もとの意味は孔子が弟子に渡し場のある場所を問うた故事
<解説>

 嗣朗さんの「中江東樹記念館」で鈴木先生に紹介していただきましたが、私も五年ほど前に、中江藤樹記念館に行きました。当時のことは嗣朗さんの作品の感想に載っていますが、その折に作った作品です。平仄は敢えて整えてありませんが、思うところがあってのものです。

<感想>

 嗣朗さんの詩の解説に追加しようかと迷いましたが、単独で載せさせていただきました。
 平仄については「因有所思 不整平仄」とのことですので、六句目の下三平はご理解ください。

 頸聯の下句の読み下しについて、井古綆さんは「弘めせしむなのか、弘めしむなのか、迷った」と書かれていましたが、ここは上句ともに使役形、「誰かに何かをさせる」という構文です。通常、「使AB(AをしてBせしむと書き、「AにBのことをさせる」と訳します。「使」の他にも、「令・教・遣」などが使われます。

 送り仮名の「しむ」は、動詞の未然形につながる助動詞ですので、この場合は「弘む」の未然形「弘め」につながります。したがって、「弘めしむ」が正解です。
 サ変動詞につながる時(例文の「Bせしむ」がそうですが)には、サ変動詞の未然形「○○せ」に「しむ」がつながるのですが、その「せしむ」の語調が耳に残ってしまったのでしょう。上句の「輩せ」がサ変動詞ですから、そちらの影響かもしれませんね。
 「使我読書」は、「我をして書を読ましむ」とも「我をして読書せしむ」とも読むわけです。

 この頸聯では、使役形の読みの問題よりも、そもそもこの句を使役形にしたことに私は興味があります。句意から見れば、「使」「令」ではなく、それぞれ「以」「将」とした方が適すると思うのですが、これはどんな「思うところ」があったのでしょうね。

2007.12.11                 by 桐山人



井古綆さんからお手紙をいただきました。

 ご高批有難うございました。またまた、高山流水の言葉を使わせてください。
 先生のご指摘のように、五句六句の使役形にしようか否かを迷いましたが、浅見では「以って」「将って」よりも、ほんの“わずかに”使役形式のほうが、近江聖人の功績が強調されると思ったので、あのようにいたしました。

「因有所思 不整平仄」はこれとは関係なく、嗣朗さんの玉作「中江東樹記念館」に説明してあります。
 あざといかも知れませんが、近江聖人への追慕の気持ちです。

2007.12.11               by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第233作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-233

  浮御堂        

落雁明蟾浮御堂   落雁 明蟾めいせん 浮御堂

琶湖漸暮水蒼茫   琶湖漸く暮れて 水蒼茫

庭碑拝誦蕉翁句   庭碑拝誦す 蕉翁の句

句使凡人裹辨香   句は凡人をして 弁香につつましむ

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

「蕉翁句」:境内にある「鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂」の句
「弁香」:一つまみの香の意で、もと禅僧が人を祝福するときに、これをたいた。転じて人を尊敬し、慕う意。

 嗣朗さんの「浮御堂」(2007−172)の玉作を拝見し、かつてわたくしも平成十四年の十月の終わりにここを尋ねて作った詩を探し出しました。
 皆さんの参考になればと思い送稿いたします。

<感想>

 起句で「雁と月と浮御堂」を並べ、承句では琵琶湖の暮れていく様子を広々と描く、この二句で近江八景を凝縮したような趣が出ています。
 転句への視点の変化もリズミカルで良いと思います。句またがりの同字重複は強調効果を狙ったものでしょう。

 結句は、本文を読んでいる時は分かるのですが、読み下しになると何となくモヤモヤとしてしまいます。それは「弁香裹ましむ」の「に」の部分のせいでしょう。井古綆さんの意識の中に、「凡人が弁香に裹まれる」という受け身のイメージが残ってしまったのではないでしょうか。
 ここは使役形を持ってきたからには、「凡人をして弁香を裹ましむ」とすっきりと読み、「凡人に対しても仁愛の心を持たせる」と訳せば良いでしょう。

2007.12.11                 by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、お早うございます。
 ご高批ありがとうございました。いろいろと考えた末、あのように読みましたが、「凡人をして弁香を裹ましむ」が良かったかもしれません。

 詩中での「弁香」の意味は、僧侶が我々凡人に祝福して頂けると言う意味を重要視し、謙譲の気持ちを表したつもりでした。真意は「蕉翁の秀句はこの凡人をも、弁香に包ませていただいた」と表現したかったのでした。

 なおこの「弁香」の熟語をはじめて見ましたのは、近江聖人記念館において、佐藤一齋の玉作詩中にあったのを辞書で調べましたが、新字源にも、廣漢和辞典にも、載っていなく、図書館で大漢和辞典、その他の大辞典を調べましたが、載っていませんでした。ただ角川の「漢和中辞典」のみに載っています。弁香は仏教用語で、もしかしたら和語かも知れませんが、良い言葉だと思いますので、皆さんも使用して頂ければ、鴻儒佐藤一齋にも喜んで頂けると思います。
 意味は前述した通りです。

2007.12.11             by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第234作は 青山 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-234

  花鳥風月「秋」        

花緘枝蝶息   花緘ずれば 蝶枝に息み

鳥泛水成紋   鳥泛べば 水紋を成す

風揺秋櫻路   風は揺さぶる 秋桜の路

月輝蟲語聞   月は輝き 虫語聞こゆ

          (上平声「十二文」の押韻)

<感想>

 青山さんの「花鳥風月」連作も、いよいよ大詰めですね。これまでの作品は、「花鳥風月「冬」」、「花鳥風月「春」」、「花鳥風月「夏」」ですので、ご覧ください。

 さて、今回の秋編ですが、起句が春、承句が夏を表し、前半で季節の推移を述べ、そして、後半の転句結句で秋の情景を「風」「秋櫻」「月」「虫語」で表したものですね。
 ただ、この四つの秋を代表する素材を二句十字の中に入れるのは、どうしても並べただけという印象で、通り一遍という印象です。逆に前半の方が、作者の目線が浮かんでおり、生き生きとしています。

 用語の面では、起句の「枝蝶息」は「枝の蝶は息み」と読むべきです。

2007.12.12                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第235作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-235

  秋夕慢歩        

日落乗閑歩   日 落チ 閑ニ乗ジテ歩スレバ

四辺秋気滋   四辺 秋気滋シ

水縈蘆雪岸   水ハグル 蘆雪ノ岸

風起稲雲陲   風ハ起コル 稲雲ノ陲

楓樹映暉燦   楓樹 暉ニ映ジテかがや

鴉声向晩悲   鴉声 晩ニ向ッテ悲シ

野亭青旆影   野亭 青旆ノ影

即是誘傾卮   即チ是レ 卮ヲ傾クルヲ誘フ

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 秋の夕暮れののんびりとした散歩の様子がよく出ていると思います。

 しみじみとした寂寥感に浸って読んでいくと、尾聯に「青旆」が出てきます。これはもちろん、酒屋の旗印のこと。杜牧の「江南春」の承句「水村山郭酒旗風」に出てくる「酒旗」と同じですが、中国では昔、酒屋は青色の旗を店先に掲げたと言われています。
 鴉の鳴き声が聞こえて来て、なんとももの悲しい気持ちになっていたところを、お酒がひょいと救ってくれますから、この尾聯によって夕暮れの景が暖かそうなものに変わるようですね。

2007.12.15                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 真瑞庵さん今晩は。玉作を拝見いたしました。

 起承転結が整っていて、わたくしも見習わなければいけないと思います。
 尾聯に心の動きが表現されていて、お相伴に預かりたく感じました。 

2007.12.16             by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第236作は 井古綆 さんからの作品です。
 柳田 周さんが退院なさったことをお祝いしてのものです。

作品番号 2007-236

  祝退院 用韻       

沈痾手術任名醫   沈痾の手術 名医に任せ

聞説由由治療嬉   聞くならく由由 治療嬉しと

拝見尊君依舊賦   尊君の依旧の賦を 拝見すれば

病脾摘出忘吟脾   病脾摘出して 吟脾を忘る

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 柳田周さんはじめまして、井古綆です。

 数首の玉作を拝見して、雅兄がご病気のことを知りました。なお作詩をなさっていることは退院されていることと、お慶び申し上げます。

 鈴木先生のこのホームページの同輩といたしまして、蕪詩をもって全快お帰りを歓迎いたします。

 ※辞書によれば脾臓には血球の生成能力があるとあり、手術は全摘出だそうで、生成能力と作詩能力をかけましたが、善意に理解してください。

<感想>

 井古綆さんからは柳田 周さんへの励ましの詩を二首いただきました。こちらの詩は柳田 周さんの「脾摘後二首 其一 謝医師」の詩と同じ韻字を順番を替えて用いたもので、「用韻」です。

 結句の「忘吟脾」は起句の「名医」と照応するわけで、詩人にとって大切な「吟脾」(どこにあるんでしょうね?)を摘出しなかったのは、まさに「名医」ならではのことだという気持ちを籠めた表現ですね。

2007.12.15                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第237作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-237

  祝退院  次韻       

近親郭索副牀頭   近親郭索かくさく 牀頭に副ふも

正使醫法作杞憂   正に医法をして杞憂と作せしむ

深謝邦家杏林粹   邦家杏林の粋に深謝して

鈴門倒屐盡賡酬   鈴門倒屐とうげきして賡酬こうしゅうを尽くさん

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

「郭索」:心が不安なさま
「倒屐」:(喜びのあまりに)履き物を逆しまに履く
「賡酬」:唱酬


<感想>

 こちらの詩は、「脾摘後二首 其二 謝看護師」の詩に対しての次韻になります。「次韻」は、元詩と同じ韻字を同じ位置に置くわけで、韻を合わせる中では一番条件の厳しい形です。

 転句の「杏林」は「医者・医術」を表す言葉です。中国三国時代の呉の董奉の故事です。以前にも示しましたが、再度『聯珠詩格』からの文章を引用しておきます。

 呉の董奉、道術有りて山に居す。田を種ゑず、人の爲に病を治め、亦銭を取らず。
 重き病に癒る者には杏五株を栽へしめ、(病の)軽き者には一株。
 此の如くして数年計るに、十餘萬株を得。乃ち、山中の百禽群獣を其の下に遊戯せしむ。
 竟に草を生ぜず。常に芸治が如し。
 後に杏子大いに熟す。林中に於いて一草倉を作し、時の人に示して曰わく、
 「杏を買はんと欲する者は奉に報ずるを須たず。
  但だ、穀一器を将って倉中に置き、即ち自ら往き一器の杏を取りて去れ」
と。
 人に、穀を置くこと少なくして杏を取ること多き者有り。群虎輒ち吼え之を逐ふ。

 結句の「鈴門」は、この「桐山堂」のサイトを表して下さった言葉ですが、まさにこの通りで、ホームページをご覧の皆さんも私も、一同、心からご快復をお祈りしていますよ。

2007.12.15                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第238作は 青眼居士 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-238

  晩秋訪詩仙堂     晩秋詩仙堂を訪ふ   

叡山紅葉仰妍姿   叡山 紅葉 妍姿を仰ぎ、

庭下茶梅欲發時   庭下 茶梅 發かんと欲するの時。

睥睨菲才詩伯像   菲才を睥睨す 詩伯の像、

吟懐雖極詠難為   吟懐極まると雖も 詠為り難し。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 詩仙堂は洛北比叡山のふもとにある、石川丈山が隠棲した草庵で、一室には中国三十六詩仙の画像(狩野探幽作)が掲げられていることからその名があり、庭隅には山茶花(茶梅)の大きな木があります。

<感想>

 起句で比叡山を仰ぎ見ての広がりと高さ、それが一転して承句では「庭下」へと目が移り、しかも「茶梅」(サザンカ)のという近くの物へと行きますので、普通で行けば視点の変化がきつすぎるかもしれません。
 しかし、今回の詩ではそれが逆に、いかにも草庵の中に居るという現実感を引き出しているとも言えます。多分、作者はこの詩の通りに山を眺め、同時に庭の蕾も見たのでしょう。

 転句は詩仙堂をよく表していて、詩人の肖像を自分が「見ている」と思ったら、実は「見られていた」という発想が面白いですね。確かに、立派な詩人にあんな風に並ばれると、気恥ずかしくなります。
 その思いが、結句へと流れていくのでしょう。「周りの景色が素晴らしくて詩が作れない」というのは詩作の際の謙譲を表す常套手段ですが、そこに「詩伯像」の威厳を加えたのが、この詩の工夫ですね。

2007.12.15                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 青眼居士さんはじめまして。
 玉作を拝見いたしました。漢詩創作をお勉強中とのことですが、起承転結の整った良い詩だと思います。以前わたくしは、詩仙堂には三回訪問いたしましたが、当時のわたくしの作を顧れば遙かに佳作だと思います。

 鈴木先生の感想に加えまして、わたくしにはある一点、以前自身の失敗を見るような感がありますので書かせていただきました。

 すなわち、雅兄の転句「睥睨非才詩伯像」「詩伯」が最も当詩に合わない詩句だと思われます。やはり「詩仙」の語を使用しなくてはならないでしょう。
 また、三十六詩仙であれば、「群仙」としたいところです。また、「睥睨」より「瞻仰」のほうが尊敬の心が表れますし、下三字を時間の経過などで埋めれば、結句とのつながりがスムーズに行くように感じられます。
 青眼居士さんには失礼ながら、「瞻仰群仙○○○」とすればいかがかと思いました。

 わたくしは、推敲が作詩では重要なことと思って励んでいます。参考にしていただければ幸いです。

2007.12.16             by 井古綆





















 2007年の投稿詩 第239作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-239

  晩秋即時        

晴天萬里溢清%#27872;   晴天萬里 清%#27872;溢れ

百舌一聲聞隔屏   百舌の一聲 屏を隔てて聞こゆ

滿地飄飄紅葉散   満地飄飄 紅葉散る

籬邊郁郁菊花馨   籬辺郁郁 菊花馨る

厨房新米生來白   厨房の新米 生れ来たりて白し

農畝麥芽萌出青   農畝の麦芽 萌え出でて青し

五彩風光情緒動   五彩の風光 情緒動き

追隨赤卒歩園庭   赤卒を追随 園庭を歩む

          (下平声「九青」の押韻)

<感想>

 首聯の数詞の用い方がくどくなく、すっきりして良いと思います。
 頷聯では、「満地(地に満つ)「籬邊(籬の辺り)は対が悪いでしょう。
 同じく、頸聯の「新米」も、下句の「麦芽」との対応で言えば、「米」の字を上に置いた熟語になると良いでしょう。

 尾聯は、上句での「五彩風光」はこの前に色彩を巧みに配置していますので、なるほどと納得、「情緒動」も共感できるのですが、その結果として「追随赤卒歩園庭」では一篇の結びとしてはあまりに弱いと思います。「詩を作った」か「語を練った」か、そうした「情緒が動いた」ことにつながる表現が欲しいところです。
 第一句と第八句をそのまま入れ替えてみるくらいの、力強さが結びには欲しいと思います。

2007.12.15                 by 桐山人






















 2007年の投稿詩 第240作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2007-240

  清秋尋友        

秋到郊墟詩景宜   秋は郊墟に到りて 詩景宜し

夕陽遙望碧梧枝   夕陽遙かに望む 碧梧の枝

山居尋友共吟酌   山居 友を尋ね 吟酌を共にす

月色虫声興熟時   月色 虫声 興熟すの時

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 仲泉さんの作品も、味わいの深いものになってきましたね。特に今回は、転句が光っていると思います。前半の自然描写から人事への転換も良く、言葉の用い方も素直で、友への気持ちが清々しく伝わります。

 この転句を中心に前後を構成させるのが良いわけで、その点では、結句の「興熟時」は言わずもがな、心は盛り上がって行ってもそれをそのまま説明するのではなく、静寂の景で抑制した方が印象が強くなるでしょう。

 また、承句についても転句に向けて構成していくとなると、「碧梧枝」が、特に秋とは対照的な「碧」の字が邪魔です。
 起句の「郊墟」から転句の「山居」へと読者を自然に導くためには、承句の下三字では、途中の径路である「谷」とか「丘」などを示すのが良いと思います。

2007.12.15                 by 桐山人