2004年の投稿漢詩 第76作は 勝風 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-76

  冬夜偶成        

寒村野鳥有精純   寒村の野鳥 精純有れど

暖飽梟雄無一真   暖飽の梟雄に 一真も無し

松樹悉枯惟寂寞   松樹悉く枯れ 惟寂寞

百花斉放断紅塵   百花斉放 紅塵を断たん

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 最近の世相や政治に何かしら厳冬以上の寒さを感じています。三百歳の松並木は去る大戦で砲弾に倒され、それから六十年、ようやく息を吹き返した山々の琉球松が今又松食い虫の被害にあって無残な姿をさらしています。
 そんな様子が悲しい世相を象徴しているようです。無力な自分は憂さ晴らしのためにこんな詩を作ってしまいました。

<感想>

 戦後も六十年が過ぎようとしていますが、世相のきな臭さはますます強くなってきているように感じます。「平和ボケ」の日本人などと言われた時期もありましたが、あえて意識しなくても平和に浸っていられたことの幸せを今思います。

 そうした思いを詩で表すということで、「野鳥」「梟雄」を対比させたのですが、対としてはややバランスが悪いかもしれません。
 「暖飽梟雄」で、これは人間のことを言っていることは十分に分かりますので、起句もわざわざ「野鳥」としなくても、「野老」と明確にした方が良いかもしれません。今のままですと、前半が対句らしく見えて却って流れが悪く感じます。

 結句は「断紅塵」「わずらわしい俗世間から放たれる」ことを示しています。そこで、直前の「百花斉放」は作者の気持ちとしては、早く春が来て花が咲いてくれれば・・・というところなのでしょうが、冬の詩としては唐突な印象です。まだ春は来ていないのですから、梅一輪くらいにしておくべきで、「百花斉放」では欲張りすぎかもしれません。
 あと、題名は「冬日偶成」の方が良いでしょうね。

2004. 4.26                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第77作は 鮟鱇 さんからの漢俳の作品です。
 

作品番号 2004-77

  漢俳・維納斯的誕生        

天人賣羽衣,      天人 羽衣を売り,

笑買碧螺輝雪肌。   笑って買う碧螺 雪肌に輝けり。

足賞海生奇。      賞(め)でるに足りたり、海に生じたる奇。

          (普通話韵「七斉」の押韻)

<解説>

 「維納斯」:ヴィーナス
 「天 人」:天女
 「羽 衣」:羽衣(ウイ、はごろも)。
       また、「竜宮羽衣」という名の珍しい二枚貝があります。
       貝の蒐集家であれば、これを思い浮かべるかも知れません。
 「碧 螺」:碧い巻貝。
 「海生奇」:海で生じた珍しいもの。

 綺麗で珍しい巻貝を買うために身に纏う羽衣を売ってしまう天女を空想して書いた漢俳です。
 自分自身が信じる美のために恥をさらす話に「裸の王様」があります。しかし、ここは天女の話ですので、ボッチチェリの名画から題を拝借して、「ヴィーナスの誕生」としました。
 なお、「海生奇」は、天女にとっては「碧螺」ですが、ヴィーナスが海の泡から生まれたことをご存知の方には、ヴィーナスその人を思い浮かべてもらえると思います。
 また、「竜宮羽衣」は、中国人で貝の蒐集家でもあるわたしの大事な友人から教えてもらったこと、漢俳を書いた時点では知識がありませんでした。彼は、二枚貝を売って、巻貝を買う、そういう風にも読めると喜んでくれました。彼にとっての「美」は、巻貝で、彼の眼中には、美しい巻貝しかありません。しかし、彼の奥さんには、巻貝はほとんど見えなくて、貝を愛でるご主人の姿ばかりが目につくそうです。

 拙作は、そのあたりのことを書いています。





















 2004年の投稿漢詩 第78作も 鮟鱇 さんからの漢俳の作品です。
 

作品番号 2004-78

  漢俳・病後賞櫻花        

老殘惜物華,      老殘物華を惜しみ,

沈痾全快訪櫻花。   沈痾 全快して櫻花を訪ぬ。

有恨踏殘葩。      恨あり 殘葩を踏むとは。

          (普通話韵「一麻」の押韻)

<解説> <解説>

 昨年の12月1日から今年の1月14日までの45日の間に、800強の詩詞を書きました。そしてそのおよそ8割が漢俳です。
 この詩詞の数を誇らんとするいささかの愚挙は、作詩歴6年と8か月という時点で、1か月にどのくらいの数の詩詞が書けるか、試してみたいと思って始めました。そして、漢俳が圧倒的に多くなったのは、字数が17字の漢俳は五絶の20字よりも早く書けるように思えたので多く書いたからです。
 ただ、それだけで面白くないので、数ある漢俳の書き方のなかで、@平仄は必ず踏まえる、A漢俳3句のすべてで押韻する、ということを原則としました。五絶は2韵・20字、漢俳は3韵・17字、2×20=40。3×17=51。このふたつの数を思いながら、しかし、それではどちらがより能率的に詩の数を増やすことができるかという点の答えはまだわかりません。

 さて、拙作、多分600は書いた漢俳のなかで小生がいちばん気に入っている作です。この作につき、何がいいたいのかわからない、そういうご批判があることは、承知しています。作者としては、通じるか通じないかわからない境目の一髪での作です。そこで、何がいいたかったのか、ご説明はしませんし、いいわけもしません。
 ただ、どこが気に入っているかでひとこと。
 拙作、この句を作っているプロセスで、詩の技法のうえでの同字重複、あるいは同義重複の可否を意識しました。「華」「花」「葩」「華」「花」、見た目では同字重複ではありません。しかし、同義重複です。韵もどちらもhua。そして「花」「葩」「花」は花一般、「葩」は花一般ではなくて花弁の大きな花です。そこで厳密には「花」「葩」は、同義重複ではないかも知れませんが、わたしの考えではこれも同義重複です。
 しかし、ひるがえって、「華」「花」も実は微妙なニュアンスの違いがあるのではないかとあえて考えてみました。中国の方がどう思うかはわかりませんが、わたしたち日本人は、「華」「花」を微妙にわけて使っていると思います。
『花伝書』「花」は、現代人の文字感覚でいえば「華」。なぜなら、「華」「花」にくらべより抽象的・観念的・思弁的な使われかたをするからですし、『花伝書』は、芸についてのとても具体的な記述がなされているのですが、そこには「幽」な部分が言外に込められているようにも読めます。そこには、きわめて日本的な形での抽象・思弁の世界があるようにも思えます。そこで、ほんとうは『華伝書』の方が、字面のうえでわかりやすいと思ええるのですが、世阿弥は、もちろんそれらをふまえたうえで、「華」をあえて「花」としたのではないのか。などとも思ってみました。





















 2004年の投稿漢詩 第79作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-79

  記時事        

父母相別離   父母 相別離し

哀哉失怙持   哀しい哉 怙持を失なわん

継母甚偏愛   継母 甚だ偏愛し

憮兒多笑眉   兒を憮しては 笑眉多し

何以苦憎彼   何を以ってか 苦だ彼を憎み

讒口毎詆欺   讒口 毎に詆欺せん

阿父即瞋怒   阿父 即ち瞋怒し

任情不須疑   情に任せては 疑うを須いず

詐云為訓育   詐り云う 訓育を為せりと

苛虐苦餓飢   苛虐 餓飢に苦しむ

打擲不与食   打擲して 食を与えず

欲逃筋骨衰   逃んとすも 筋骨は衰う

阿弟怖阿父   阿弟 阿父を怖ては

見此何所為   此を見るも 何んの為す所ぞ

継母為鬼母   継母 鬼母と為り

捶彼卻笑嬉   彼に捶っては 卻って笑嬉す

身痩如幼孩   身痩て 幼孩の如く

手足似枯枝   手足 枯枝似たり

朋友偶尋彼   朋友 偶々彼を尋ぬ

驚見枯槁姿   驚き見る 枯槁の姿を

訴吏只拱手   吏に訴たえるも 只だ手を拱かん

竟為世所知   竟に世の知る所と為る

阿父為骨肉   阿父 骨肉為り

本知身命危   本り知る 身命の危きを

非道且情薄   非道 且つ情は薄く

時俗疎親慈   時俗 親慈疎なり

何哉無悔恨   何なる哉 悔恨無く

平然死吾児   平然として吾児死せり

孟軻説惻隠   孟軻 惻隠を説くも

今于訓徒癡   今于 訓え徒らに癡なり

吾人頗難解   吾人 頗る解し難く

離憂心苦悲   憂に離りては心苦だ悲し

悲歌空慷喟   悲歌しては 空しく慷喟す

噫噫亦噫噫   噫噫亦噫噫

          (上平声「四支」の押韻)























 2004年の投稿漢詩 第80作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-80

  欲濯心探春        

信筇津口径   筇に信かす津口の径

時好捨塵襟   時は好し 塵襟を捨てるに

拒穢孤峰雪   穢れを拒む 孤峰の雪

濯纓三水潯   纓を濯ふ 三水の潯

笱伸枯葦傍   笱は伸ぶ 枯葦の傍

莟綻老梅陰   莟は綻ぶ 老梅の陰

春近暄風度   春近うして 暄風度らば

正聴造物音   正に聴く 造物の音

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 年を重ねるに従い色々な雑事から逃れ悠悠自適、雲山に棲む生活が得られるとの思いに反し、煩わしい事に追われる毎日。そんな或る一日フラッと木曾川縁を歩いてきました。
 頷聯が対句と言えるのか如何。文法的には対句と言えないのかの知れませんが。御教授下さい

<感想>

 初春の情趣がよく感じられますね。
 尾聯の「造物音」が具体的に何を指すのか、前の句が仮定形ですので、抽象的なままで終わるのはどうでしょうか。「泉声」「残氷」・・・何が良いのかは分かりませんが、そうした類のものを「正聴」の所に置くとすっきりするように思います。
 頷聯の対句については、上二字は良いと思います。下三字は、「孤峰」「三水」「三本の川の流れ」の意味と共に、「木曽三川」という固有名も指していて、工夫された対になっていますね。
 「雪」「潯」は、物と場所の組み合わせですので心配されたのでしょう。
 「雪」「嶺」に変われば問題ないのでしょうが、前の「拒穢」からのつながりで見ると、「雪」を用いた方が収まるでしょうね。「雪」「潯」は意味の上での対応は弱いかもしれませんが、文法的には対句と見ても問題無いと私は思います。

 第四句の「濯纓」屈原『漁父辞』からの引用ですが、「水が清く澄んでいる」ことを表しますので、効果的な使い方ですね。

2004. 4.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第81作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-81

  青年蹲地上     青年地上に蹲る   

大人自制在娑婆   大人は自制し娑婆に在り

不少青年害協和   少なからざる青年 協和を害す

奔放行為時可許   奔放なる行為も時には許すべきも

奈蹲地上謔浪何   地上に蹲り謔浪するを奈何せん

          (下平声「五歌」の押韻)

<解説>

 近頃に若者が人通りの多い場所にたむろして、物を食べたり、冗談を言い合い、通行を邪魔しています。なまじ注意したら、私のような老人は反対にやられそうです。こんなことを題目にして、作ってみました。
 このような、時勢を表現するには定型の詩語がないので、むずかしいです。いろいろとご意見を賜りたいと思います。

<感想>

 現代の若者を詩として描く、実はこれはかなり勇気が要ることです。なぜなら、そもそも詩の対象としての素材としてふさわしくなく、どうしても露悪的な描写を避けるわけにいかないという現状があるからです。
 点水さんが「詩語がない」と仰るのは尤もだと思います。
 以前、謝斧さんが書かれた「少年行」の折の感想でも書きましたが、今は自分と違う環境(世代やら仕事やら)の人のことを気遣い、共感するということが出来にくい社会になってしまっています。
 若い人たちの姿を見ながら、「ああ、俺も昔はこんな馬鹿だったなぁ」と思うことが出来ない、まったく別の文化圏の人間のように感じてしまう。これは、かつて言われた「世代の断絶」を超えた隔絶の構図でしょう。
 今話題の年金問題でも、「自分が払った金を返してもらわなきゃ損だ」という感情論ばかりが先行していて、それでは若い世代に年金未納者が増えるのも当然ではないでしょうか。「自分もいつかは働けない老後が来る」→「その時に年金制度で扶けてもらえるとうれしい」→「今の老人を自分が扶けてあげよう」という論理がどうして通じないのでしょうか。
 おそらくそれは、同じ国で暮らす者同士であるという連帯感の喪失、「自分もやがて(老人と)同じ立場になる」あるいは「自分もかつて(若者と)同じ立場だった」という仲間意識や共感の欠如が原因でしょう。
 用語としては、起句の「娑婆」「世間」という意味でしたら、和語になります。又、承句の「和」の字は「調和する」という意味ですと、仄声になりますので、注意が必要です。結句の「奈何」は目的語が長すぎますので、「謔浪蹲地奈之何」と並べると読みやすくなるでしょう。

2004. 5.1                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第82作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-82

  送人歸郷 別後偶吟     人の郷に帰るを送る 別れて後 偶々吟ず

横行闊歩酒樓間   横行 闊歩す 酒楼の間

傾盡聖賢將欲還   聖賢を傾け尽して 将に還らんと欲す

夜半獨眠新宿驛   夜半 独り眠る 新宿の駅

夢中相看故郷山   夢中 相看る 故郷の山

          (上平声「十五刪」の押韻)

<解説>

 東京から北へ向う。
 北から東京へ来るときの玄関口といえば、上野駅が強いイメージを有していますが、実際に東京に暮し、人を送ったり、あるいは送られたり場合、各人の交通の便の都合等からか、新宿駅周辺が舞台となることが少なからずあります。
 そうしたことを重ねるうち、「新宿」の二字は「故郷」の二字と丁度よく対になると思い、ここから一詩を膨らませてみたものです。

承句の「聖賢」は、それぞれ「清酒・濁酒」のこと。
結句は、「兎追いし…」「ふるさと」とともに、李白「相看両不厭/只有敬亭山」が念頭にありました。

<感想>

 「横行闊歩」「傾盡聖賢」も酒宴の雰囲気をよく出していると思います。
 転句の「新宿驛」も、「驛」の字はstationの意味では無いと知りつつも、つい「酔っぱらって駅のホームで寝てしまった」というイメージを誘ってくれて、結句と合わさると妙に説得力のある対句になっているでしょう。

2004. 5.1                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第83作も 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-83

  歸郷        

烈烈風連入上州   烈烈 風は連って 上州に入る

故山依舊自低頭   故山 旧に依って 自ら頭を低れたり

雙親更老固知得   双親 更に老ゆ 固より知り得たり

反哺難成何不愁   反哺 成り難し 何ぞ愁えざる

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 白居易の「慈烏夜啼」にも詠われていますが、烏には、養われた恩返しに成長してから母鳥に食物を口移しに食べさせるという話が伝えられています。
 結婚の際、この「反哺之孝」を引いて両親への感謝の意を籠めた詩を作ろうと試みたのですが成らず、後に帰郷の詩に詠んだものです。

 起句「烈烈」「凛冽」「冽冽」の方が一般的な語でしょうが、上州出身の萩原朔太郎「帰郷」の冒頭「わが故郷に帰れる日  汽車は烈風の中を突き行けり。」から「烈」字を採りました。上州名物「空っ風」のイメージです。

 蛇足ながら、ほぼ現在の群馬・栃木両県を併せた地域を古くは「毛野国(けぬのくに)」といい、後、それぞれ「上毛野国(かみつけぬのくに)」「下毛野国(しもつけぬのくに)」に分けられ、さらに用字が「上野」「下野」に改められ、読みも「かみつけ(こうずけ)」「しもつけ」に変化したところから、「上野」「上毛」「上州」の語で群馬県を示します。

<感想>

 承句の「自低頭」は、李白の「静夜思」を想定すれば「故郷を思い出してうなだれる」となるでしょうが、ここはもう故郷に着いているのでしょうから、「故郷の変わらぬ姿に敬意、感謝」と理解するのでしょう。
 転句は「固知得」「得」の字が働きが無いですね。「(両親が年老いていることは)前から知っていたことだけど」という句に「知ることが出来たと加えるとどうなるのでしょう。意図がちょっと分からないのです。
 ただ、あまり深い意味ではなく、添え字のような感覚で見れば(語順も少し気になりますが)理解できます。

 町のゴミ箱をあさる烏を見ていると、「反哺」とつながるようにはとても見えませんが、これは烏に限らず、人間でも同じ様な気もします。そうした現代の中で、観水さんのこの詩を見ると、心が潤い、ホッとします。
 ご両親への感謝のこの気持ちがあれば、周りの誰もが幸せになれますね。

2004. 5.1                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第84作は 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-84

  那智瀑 其一     那智の瀑  

磴辺鬱鬱仰喬杉   磴辺欝鬱 喬杉を仰ぎ

得見飛泉掛断巖   見るを得たり 飛泉 断巖に掛かるを

豪壮奔流四百尺   豪壮の奔流 四百尺

忘辞佇立濡征衫   辞を忘れて佇立し 征袗を濡らす

          (下平声「十五咸」の押韻)

<感想>

 李白の「望廬山瀑布」を思い出しますね。李白「飛流直下三千尺」に対してやや遠慮気味に枳亭さんは「四百尺」としておられますが、落差百三十三メートルの那智の滝を具体的な数字で示しているだけに、写実性が生きていると思います。
 この転句の下三仄を救うために結句を下三平となさったのでしょうか。転句の下三仄は具体性を出すと言うことで(固有名詞と同じように)許される範囲でしょうが、結句の下三平は避けなくてはいけないでしょうね。

2004. 5.3                 by junji



謝斧さんからの感想です。

  叙述が平板な気がします。
  当眼(眼にむかう)は真っすぐ目に入るです。
  詩ですから四百尺と断らなくてもよいと思います

2004. 5. 5                by 謝斧






















 2004年の投稿漢詩 第85作も 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-85

  那智瀑 其二        

遠望如絵使愉人   遠く望めば絵の如く 人をして愉しましめ

近眺似竜令竦身   近く眺むれば竜に似て 身を竦ましむ

豊富流量利澆漑   豊富の流量は 澆漑に利し

衆民畏敬篤崇神   衆民畏敬して 篤く神と崇む

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 枳亭さんからの那智の滝の二作目ですね。
 平仄の点では、転句の「流量」については、「量」は動詞用法では平声ですが、名詞用法では仄声になりますので、注意が必要です。

 どちらの詩を先に作られたのかは分かりませんが、「其一」に比べるとこちらの方が感情を抑えた表現になっていますね。前作のダイナミックな詩との対で落ち着いた雰囲気を出そうとされたのでしょう。ただ、その分伝わってくる感動は少なく、説明的な詩になってしまったように思います。
 例えば、起句承句は対句を用いていますが、どちらも「如絵」「似竜」とあるだけで、どんな絵なのか、竜のどんな姿なのかが分かりません。つまり、具体的な映像が読者に浮かばないわけです。
 後半の転句結句も、申し訳ないのですが私には何となく社会科の教科書みたいで、旅情や詩情が薄いように思います。ご自身の旅の記録としての詩と割り切れば良いでしょうが、第三者に伝えるにはやや表現が不足している印象ですね。

2004. 5.3                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第86作は 坂本 定洋 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-86

  寄胡蝶花     胡蝶花に寄す  

胡女拐來東海上   胡女拐われ来たる東海のほとり

千秋逃伏一春粧   千秋の逃伏一春の粧い

白花飾野歡知否   白花野に飾るも歡(きみ)知るや否や

萬里波涛隔想郎   萬里の波涛想郎を隔つるを

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 胡蝶花、和名はシャガ。アヤメ科の多年草。原産地は中国。5月に白に黄と紫を帯びた花を咲かせます。山登りをする者にとっては最高の季節に山の入り口を飾る花として知られます。
 日本にあるものは全て一つの株から分かれたものです。どこに咲く胡蝶花も遺伝学上は同じ個体ということになります。花は咲いても実を結ぶことはできません。

 詩は、胡蝶花を胡女と見立てて(ペルシャのお姫様というイメージでしょうか)、この花の思いを量ろうとしたものです。実のところ、これを書きたくて漢詩づくりを始めたようなものです。山登りの帰りに霊感のようなものを感じ、この花の思いがわかったような気がしたのです。
 はじめの頃の、平仄合わせもままならない段階で、まともなものが書けるはずもありません。起句の踏み落しはその時の名残です。何度も投げ出しては手直しし、今の形になりました。私のメモによると、これは第6稿です。
 やっと思うものが見えてきたという所で、私はこれを完成とは思っていません。いい加減なところで妥協してしまうことも多い私ですが、この詩に関しては完璧が欲しいと思っています。何年かかっても少しずつでも、一語でも良いものにしていきたいと思っています。どのようなご意見でもいただきたいと思っております。

 承句は論理的につじつまが合わないことですが、詩の上での事、言葉の綾としてお許しいただきたく思います。

 追伸
 対句を伴わない踏み落しの例は王維の詩にもあります。王維の例では起句と承句に句中対と言えるものを持っており、なおかつ仄起こりです。このような条件が揃えば起句の韻を落しても音声的な冗長感は生じにくく、韻を落す方にも一定の理はあるのではないかと思います。
 専門的な見解をいただければ有難いと思います。

<感想>

 ちょうど今の季節はシャガが盛り、私の家の小さな庭にも根を下ろしてくれて、木陰にひっそりと可憐な白い花を咲かせてくれています。「胡蝶花」と書くというのは初めて知りました。

 仰るように、「千秋」「一春」は破綻があるわけですが、聞くところでは、一つ一つのシャガの花は一日しか咲くことはできないそうですね。一年間耐えてきて一日だけ花を開く、そうしたはかなさを象徴的に描き出すならば、「千秋逃伏一春粧」も誇張の範囲ではないでしょうか。
 転句の「歡」の字を代名詞として用いるのは、恋人同士が相手を呼ぶ時だというのが私の理解です。となると、「歡知否」「胡女」が海を隔てた恋人に向かって語りかけたと見るのか、作者が同行した人に語りかけたと見るか、でしょうが、「萬里波涛隔」なのは恋人も十分承知していることの筈ですので、ここは後者の同行した人と理解しました。
 どちらで解釈するにしても、「歡知否」は唐突であり、検討が必要でしょう。シャガの花の可憐さをもう少し描けると良いかもしれませんね。

 七言絶句の起句踏み落としについては、定洋さんの言われるような条件が必要であるとは言えません。
 七言詩が初句も押韻するのは、偶数句毎の韻のままでは間が長すぎることを避けるためです。齋藤 晌博士の『漢詩入門』(大法輪閣)にはこう説明がありました。

 七言は第一句が韻を踏むのを常則とし、従って三韻となる。第一句を踏み落としにすることは差支えないけれども、二韻は三韻よりも作例が少ない。この点が五言絶句との著しい相違の一つである。それは七言だと、十四字目に押韻したのでは距離がありすぎて押韻の効果が弱まることを恐れるからである。
 そして二韻の場合、修辞的にも韻律的にも起句と承句とが対偶をなし、十四字を七字ずつ相対的に躍動せしめて、長さを感ぜしめないようにするのが常である。
 この考え方が現在の基本ではないかと思います。王維の有名な「九月九日憶山東兄弟」の平仄を見てみましょう。

  独在異郷為異客   ●●●○○●●

  毎逢佳節倍思親   ●○○●●○◎

  遥知兄弟登高処   ○○○●○○●

  遍挿茱萸少一人   ●●○○●●◎

 ご指摘の通りで、仄起式で句中対を用いていますので、「長さを感ぜしめないようにする」工夫がされています。
 ただ、全てがこのような工夫があるのか、と言いますと、当時の人の発声感覚との関わりになりますので、分からないものも多くあります。
 『唐詩選』では踏み落としの例はあまり多くないのですが、『三体詩』には十数首出てきます。中唐晩唐の詩人の作に多出するというのは何か理由があるのかもしれません。
 その中から見てみますと、例えば晩唐の雍陶「韋処士郊居」などは、

  満庭詩景飄紅葉   ●○○●○○●

  繞砌琴声滴暗泉   ●●○○●●◎

  門外晩晴秋色老   ○●●○○●●

  蕭条寒玉一渓烟   ○○○●●○◎

 これは、起句承句が対になって踏み落としたものですね。

 中唐の賈島「三月晦日贈劉評事」は、
  三月正当三十日   ○●●○○●●

  風光別我苦吟身   ○○●●●○◎

  共君今夜不須睡   ●○○●●○●

  未到暁鐘猶是春   ●●●○○●◎

 これは、句中対とは言いにくいかもしれませんが、「三」の字の重複がリズムを出していると考えれば納得できます。

 次は、中唐の劉長卿「寄別朱拾遺」ですが、こちらになると説明が難しくなります。
  天書遠召滄浪客   ○○●●○○●

  幾度臨岐病未能   ●●○○●●◎

  江海茫茫春欲遍   ○●○○○●●

  行人一騎発金陵   ○○●●●○◎

 これなどはどうなのでしょう。

 また、同じく中唐の張籍「哀孟寂」
  曲江院裏題名処   ●○●●○○●

  十九人中最少年   ●●○○●●◎

  今日風光君不見   ○●○○○●●

  杏花零落寺門前   ●○●●●○◎

 この詩も韻律の点では私には分かりません。

 こうして見てきますと、句中対などを用いればリズムが生きてきますが、それが絶対の条件ということではないということです。従って、踏み落としがあっても「差し支えない」という通りではないでしょうか。
 ただ、可能な限りは「長さを感ぜしまない」工夫をした方が良いことですので、対句・句中対などを用いるようにと言われているのではないでしょうか。

2004. 5.6                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第87作は 登龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-87

  春宵聽雨        

瀟瀟細雨冷侵肌   瀟瀟細雨冷肌を侵す

搖動柳條臨緑池   搖動す柳條緑池に臨む

靜聽淋鈴花落否   靜かに聽く淋鈴花落つるや否や

春愁一夕未題詩   春愁一夕未だ詩を題せず

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 大意は次の通りです。

 細い雨が寂しく降り冷感が肌に沁み透る
 揺れ動く柳の枝が緑の池に臨む
 静かに雨の音に聞き入り、花が落ちるだろうか落ちないだろうか
 春の宵に気が塞がり詩が未だに出来ない

<感想>

 「聴春雨」という定番の詩題ですが、そこにどう新味を出すかがこうした場合に難しいところですね。

 「春愁」につきましては、以前に書かせていただきましたので(賈至「春思」)繰り返しませんが、味わいの深い言葉だと私は思っています。その愁いを春の雨と重ねて、気持ちがよく表れた作品になっていますね。
 結句の内容が全体をまとめているとは言い難く、やや浮いた印象を受けます。それは、転句の「靜聽淋鈴」が起句の「瀟瀟細雨」と重なり(「淋鈴」「雨の音」)、発展に欠けるからかもしれません。構成の上からは、転句と結句の内容が入れ替わるとまとまるのではないでしょうか。

2004. 5.6                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第88作は 逸爾散士 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-88

  田園調布花時        

公園道路遍韶華   公園、道路、韶華遍ク

櫻樹爛開籠落霞   桜樹 爛開 落霞ヲ籠ム

不羨勝區連廈屋   羨マズ、勝区ニ廈屋ノ連ルヲ

人間富貴若飛花   人間ノ富貴、飛花ノ若ケレバ・・・

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 今回の「田園調布花時」も旧作ですが、太刀掛先生に添削で直されたところはありません。
 バブルに向かう頃の作だから、高級住宅地、田園調布の地名も東京周辺の人には意味があるかも。
田園調布には宝来公園、多摩川台公園というのがあり、特に後者はお花見場所です。日本の住宅地だから、そんなにばかでかい豪邸が立ち並んでいるわけではないけど、一頃は、ずいぶん高値が付いていました。

 そういう場所の桜の頃の詩だから、誰が作ってもこれは結句のように収束させるんじゃないかと思います。 今年の桜は早そうだけど、年年歳歳、桜は桜。

<感想>

 結句の訓み方ですが、「若」「ごとし」「ごとく(連用形)・ごとし(終止形)・ごとき(連体形)」の三つしか古典では活用しません。ですので、お書きになった「ごとけれバ」という用法は古典文法的にはないんですね。
 連用形の「ごとく」に存在・断定の意味で「あり」「なり」を付けた「ごとく・あらば」「ごとく・ならば」「ごとく・あれば」「ごとく・なれば」が縮まった「ごとからば」「ごとかれば」という言い方ならばある(のでしょうか)。
 そして、「あらば・ならば」「あれば・なれば」では意味が違ってきます。前者は「もし・・・ならば」と仮定形に、後者は「・・・なので」と原因理由を表します。

 逸爾散士さんのこの詩の場合にも、「若飛花」は両用に解釈できます。
 「飛花のようであるならば、羨マズ」とも取れれば、「飛花のようであるから、羨マズ」とも読め、意味合いが違ってきますね。漢詩そのものはどちらとも漢字そのものからは決められませんので、読者に委ねることになるでしょう。
 こうした訓読の自由度については、以前に桐山堂のコーナーに「漢詩はこんなにポストモダン」というタイトルで投稿していただいてました。今回の作はそういう意味でのまさに実践を示されたという感じでしょうかね。

 起句承句の記述を転句の「勝区」でぐっと凝縮し、そこに「連廈屋」と人事を配して結句へとつなげる展開は、それぞれの句が不可欠の役割を果たしていて、全体のまとまりもよく出ていると思います。
 「景勝の地に大きな家屋が並んでいる」と言われると、現代の私たちはつい自然景観の破壊ととらえるのですが、『方丈記』の時代でも、「人とすみかと、またかくのごとし」と無常の象徴とされていましたね。

2004. 5.6                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第89作は山口県の 知秀 さん、萩市での漢詩の会に参加していらっしゃる、創作経験五年程の方からの作品です。
 

作品番号 2004-89

  晩春偶成        

蝶怨鶯愁花作塵   蝶怨み鶯愁ひ花塵を

薫風一路餞徂春   薫風一路徂春を餞す

夢回醒処人空老   夢回り醒むる処人空しく老い

窓外林亭緑已   窓外の林亭緑已にととの

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 蝶よ花よはひとときよ
 風吹きすぎて春は逝く
 夢まぼろしの人の世を
 知らず顔なる森の木々


<感想>

 新しい仲間を迎えて、とてもうれしく思っています。今後ともよろしくお願いします。

 起句の「蝶」「鶯」「花」から「薫風」「徂春」(過ぎゆく春)「緑已堰vと言葉が続き、春から夏へと移り変わる候を感覚的にもよく伝えてくれる詩だと思います。
 また、添えて下さった七五調の訳文も、これも名調子ですね。漢詩だけを見ていますと、転句の「人空老」がやや急転気味な気もしましたが、この「夢まぼろしの人の世を  知らず顔なる森の木々」と口に出して詠っていると、自然に腹に落ち着いてきます。

 次作も楽しみにしております。

2004. 5. 8                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第90作は 鯉舟 さんから、以前に投稿された2003年の第244作、「秋夜寄思天涯」についての推敲作品です。
 

作品番号 2004-90

  秋夜寄思天涯(改)        

宇宙迢迢絶世賢   宇宙迢迢として 世賢を絶す

茫茫幾百億光年   茫茫幾百億光年

森羅万象随常理   森羅万象 常理に随い

日月星辰繞九天   日月星辰 九天を繞る

凝視闇冥惶奈落   闇冥を凝視して 奈落をおそ

仰観銀漢覓神仙   銀漢を仰観して 神仙をもと

生生流転身帰土   生生流転 身は土に帰し

魂魄散之何処辺   魂魄散りて之くは 何処の辺

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 前回の掲載時のご指摘により推敲しました。
 頷聯の対句に未だ不満がありますが、今後の宿題として残します。

<感想>

 仰る通りで、頷聯についてはまだまだ言葉を探す楽しみが続きそうですね。前半の「森羅万象」「日月星辰」の四字熟語の対は、尾聯にも「生生流転」があって、盛り沢山の豪華料理を並べられたような気がしますね。

2004. 5. 8                 by junji