秋日郊行皆さんも、年末の一時、一ひねりしてみてはいかがですか。幾つか集まったら、「何處難忘酒」コーナーでも作りましょうか。(桐山人)
何處難忘酒 何レノ処カ酒ヲ忘レ難キ西郊萬頃秋 西郊 万頃ノ秋。
野宏黄菊亂 野宏ク 黄菊乱レ
山遠白雲流 山遠ク 白雲流ル。
翻袖荐追蛬 袖ヲ翻エシテ
荐 リニ蛬ヲ追イ寛襟暫憩丘 襟ヲ寛ゲテ 暫シ丘ニ憩ウ。
此時無一盞 此ノ時 一盞無クンバ
爭奈眺悠悠 眺メ悠悠タルヲ
争奈 セン。万頃=キワメテ広イコト 蛬=キリギリス、コオロギ
中秋對月
何處難忘酒 何レノ処カ酒ヲ忘レ難キ中秋夜色深 中秋 夜色深シ。
回頭惆悵念 回頭 惆悵ノ念
對月寂寥心 対月 寂寥ノ心。
傲骨聊違俗 傲骨 聊カ俗ト違イ
浮生獨歎今 浮生 独リ今ヲ歎ズ。
此時無一盞 此ノ時 一盞無クンバ
何以慰憂襟 何ヲ以テカ 憂襟ヲ慰メン。
惆悵=ウレエ悲シムサマ 寂寥=サビシク静カナサマ 傲骨=人ニ屈シナイ気質
晩 秋
何處難忘酒 何レノ処カ酒ヲ忘レ難キ又聞過雁聲 又聞ク 過雁ノ声。
荒蹊黄葉散 荒蹊 黄葉散ジ
破壁暗蛩鳴 破壁 暗蛩鳴ク。
荏苒空輸歳
荏苒 空シク歳ヲ輸 リ瞢騰徒竊生
瞢騰 徒ラニ生ヲ竊 ム。此時無一盞 此ノ時 一盞無クンバ
爭奈不堪情 情ニ堪エザルヲ
争奈 セン。暗蛩=暗イトコロノコオロギ 荏苒=歳月ガ長ビク、時ガユルク進ム 瞢騰=頭ガボンヤリスル
思 君
何處難忘酒 何レノ処カ酒ヲ忘レ難キ麗容心歯エ 麗容ニ心氏@紛タリ。
躊躇憧翠黛 躊躇 翠黛ニ憧ガレ
懊惱夢紅裙 懊惱 紅裙ヲ夢ム。
凝趣不扛睫 趣ヲ凝ラセド 睫ヲ
扛 ゲズ消魂未送文 魂ヲ消シテ 未ダ文モ送ラズ。
此時無一盞 此ノ時 一盞無クンバ
爭奈竊思君
竊 カニ君ヲ思ウヲ争奈 セン。麗容=美シイ姿 紛=ミダレル 翠黛=美人ノタトエ 懊惱=悩ミモダエル 紅裙=美シイ姿
懷 舊
何處難忘酒 何レノ処カ酒ヲ忘レ難キ老來懷舊多 老来 旧ヲ懐ウコト 多シ。
薄氷過歳月 薄氷 歳月ヲ過シ
徒手度山河 徒手 山河ヲ度ル。
獨勞鏡中影 独リ
労 ワル 鏡中ノ影靜吟胸奧歌 静カニ吟ズ 胸奥ノ歌。
此時無一盞 此ノ時 一盞無クンバ
爭奈熱情波 熱情ノ波ヲ
争奈 セン。ご参考:
「予は洛陽の分局に勤務し、自宅に居て暇な日が多い。閑になると飲み、酔うた後は吟詠する。若し歌詞が無ければ謡へないので、一つの想が湧くごとに一篇を作った。
合計十四篇、皆酒を主題とし、聊か以て自ら酒を勧める次第である。故に「何の処か酒を忘れ難き」「来りて酒を飲むに如かず」の二題を以て篇に名づける。」(青木正児訳 『中華飲酒詩選』より)
勧 酒 白楽天
何處難忘酒 何レノ処カ酒ヲ忘レ難キ長安嘉氣新 長安 嘉気 新タナリ。
初登高第客 初メテ高第ニ登ルノ客
乍作好官人
乍 チ好官人ト作 ル。省壁明張牓 省壁 明ラカニ
牓 ヲ張リ朝衣穩稱身 朝衣 穏ヤカニ 身ニ称(カナ)フ。
此時無一盞 此ノ時 一盞無クンバ
爭奈帝城春 帝城ノ春ヲ
争奈 セン。
舞台人魅惑 舞台人は魅惑なり
観客注目姿 観客は姿を注目す
我感心心底 我心底より感心し
魂行於未知 魂 未知に行く
(上平声「四支」の押韻・五言絶句平起式)
<鑑賞文>
私は頻繁に演劇を観にいき、その度魅惑的な役者の演技に圧倒される。
そして、私も含め観客はその役者の姿に釘づけになってしまう。私は心の底から感動しうっとりしてしまい、私の魂は現実と違う未知の舞台上でくりひろげられている世界へと迷い込んでしまう。
この時だけ、私は現代の忙しさから逃れて幸せな時を過ごせているのである。また、普段では味わえない色々な人生を知ることができる場でもあり演劇は素晴らしいものである。
<感想>
作者の演劇への思いがストレートに伝わってくるような作品ですね。特に、結句の「私の魂は未知の世界に踏み入れていく」という所などは、芸術というものの最も基本の在りようを掴み取っていると思います。
私もほんの少しだけは演劇に関わったことがありますが、芝居を観る観客も演ずる役者も舞台を通して、日常と離れた世界に飛び込むことを実感しますね。
ほしみさんはどんな演劇がお好きなんでしょうね。ご自分でも舞台に立たれたことがおありなんでしょうか。生き生きとした言葉がとても魅力的な詩です。
承句は「注目」を「凝眸」に換えれば平仄の点でも完璧ですね。
私開目見似洋空 私は目を開け洋に似た空を見き
昔読楽園譚絵風 昔読みし楽園の譚の絵風なり
盍孰無済暗闇過 盍ぞ孰にも済い無き暗闇は過ぎず
未非情冷戦争終 未だ非情なる冷たき戦争は終らず
地球周覆無涯涙 地球周は涯無き涙で覆われたり
明日扉開幸溢虹 明日への扉は幸せの溢れたる虹へと開かれき
我瞬止街還動始 我の瞬きで止まりし街が還た動き始めたり
而奇跡起喜胸充 而れども奇跡は起き喜びが胸に充つ
(上平声「一東」の押韻・七言律詩平起式)
<鑑賞文>
目を開けて、空を見上げると、海のような青空が広がっていた。
それはまるで昔見たことのある絵の楽園のようだった。
こんな空の下でも今も世界では戦いが繰り広げられていて、涙を流している人がいっぱいいる。
しかし、どんな人でも明日への扉は開かれ、きっと涙もなくなり幸せの虹が出るはずだ。
そう思うと、自然と希望が湧いてきた。
私の瞬きで、一瞬止まっていた街が再び動き出した。
けれども、私の目に映るのは、今までの光のない街ではなく、いつでも奇跡の起こりうる喜びに満ち溢れた街だった。
人は、気持ちの持ちようで、自分の居場所を、どんなに暗い街でも、楽園に変えてしまうことができるのかもしれない。奇跡が起きない世界なんて、絶対にないのだから。
テロが毎日のように起きている、今の世の中にも、必ず平和が訪れるだろうから心に希望を持って生きたい。
<感想>
戦後から今日までで経験したことの無いような事態にこの国は陥り、「戦争」という言葉がこんなに日常的に語られるようになってしまいました。
こんな時代を若い人たちはどのように感じているのか、そのことに私はとても関心があります。
「地球の周りは涯のない涙で覆われている」という壮大な発想とその悲しみの深さの表現に圧倒されました。
しかし、悲観や絶望で終わるのではなく、「奇跡」への希望で詩を結ぶことに、私も救われたような気がしました。
詩の長さに負けない作者の強い思いが感じられます。
三句目の「済」のところは、「すくう」という字を入れたいのですが、「救」「済」「援」などは皆仄声ですので苦労されたのではないでしょうか。平声では、「丞」「拯」の字が該当します。
映窓辺夕暮 窓辺に映る夕暮
直面命消時 命の消ゆる時に直面す
弱弱儚尊命 弱弱しく儚く尊き命
注何程愛施 どれ程の愛を注ぎ、施しても
(上平声「四支」の押韻・五言絶句平起式)
<鑑賞文>
今年、祖父がガンでこの世を去りました。その時の事を思い出しながら、詠んだ詩です。
ここではあえて、祖父=E人″という文字を使いませんでした。なぜなら、命が眠ってしまうというのは、人間に限らず、動物・植物といった命あるもの全てに共通しているからです。
それから、どんなに愛を注ぎ様々な手立てを施してもダメだったという時に、悲しみ・自分が何も出来なくて無知だという悔しさ・もどかしさを感じるのは、その命が人間以外でも言えることだと思ったからです。
その悲しみ・悔しさ・もどかしさが伝われば、と思いました。
<感想>
悲しい体験でしたね。身近な人が亡くなることはとてもつらいことです。
うずさんがどんなに口惜しく寂しい思いをしたかは、結句の「注何程愛施」から十分に感じ取れます。語順としてはここは「施」が最後にあってはおかしいのですが、そうした文法などを無視して伝わるものがあります。
高校の国語の授業で斎藤茂吉の「死にたまふ母」や、宮澤賢治の『永訣の朝』を勉強なさったでしょうか。
最愛の人を失った悲しみ、しかし、人はその悲しみからいつかは抜け出さなくてはいけません。詩や短歌に思いを籠めることはひとつの救いだったのでしょう。うずさんのこの詩でも、全ての生き物の命へと思いを広げたことが大切な視点なのだと思います。
片雲無碧宇 片雲碧宇に無く
梨雪満紅霞 梨雪紅霞に満つ
不可逢師友 師友に逢ふべからず
涙珠如六花 涙珠は六花のごとし
(下平声「六麻」の押韻・五言絶句平起式)
<鑑賞文>
全体としては、敬愛する人を訪ねて放浪する主人公の切ない気持ちをうたっている。
敬愛する人の足跡を訪ね歩いても何の手がかりも得られず、ため息をつきながら振り仰いだ空は、一切れの雲さえなく澄みわたっている。その空が赤く染まり日が傾くころになって、呆然と立ち尽くす主人公の目の前には、夕焼け空の下、梨の白い花が地面に落ちて、雪が降り敷いたようになった情景だけが広がっている。
前半部には、たった一人でさまよい歩く主人公の孤独と虚しさが、「碧(青)」や「紅(赤)」に対比された「白」という色を通して描かれている。
また、「碧宇(青空)」から「紅霞」への移行によって、主人公が一日中さまよい、歩き続けていたことを示している。
転句、結句では、主人公の心情が切々と語られている。
「幾日もさまよっても、師とも仰ぐ友人である貴方に逢うことはかなわず、貴方のことを思って流す涙は、あたかも雪が舞い散るごとくはらはらと滴り落ちる」という意味で、主人公の「師友」に対する敬愛の深さと切なさを表している。
<感想>
<鑑賞文>にお書きになっておられるように、色彩にとても気を配っている詩ですね。内容からこの詩を見ると、高校生の方が書いたとは思えないような落ち着きがあります。
起承転結も申し分ないですが、最後の比喩の「六花」と承句の「雪」は重複しますので、一工夫したいですね。
転句の「不可逢」は、「逢うことが許されない」という意味ですので、この場合には「不得逢」(逢ふを得ず)の方が良いでしょうね。
昔水流溢緑 昔水流れ緑溢る
友遊優故郷 友と遊びし優しき故郷
戦争連去彼 戦争は彼を連れ去りぬ
今只見紅場 今只場に見ゆるは紅
(下平声「七陽」の押韻・五言絶句仄起式)
<鑑賞文>
水は青のイメージ、緑は自然にある色のイメージで、昔は様々な色があったという意味で、多くの色は、様々な遊び、楽しみを表す。
しかし、戦争は、友と友に、多くの色を連れ去ってしまった。今見えるのは紅のみ、つまり血の色だけ。
友がいなくなってしまった今となっては、血の色即ち友のことしか考えられないのである。
<感想>
これはシュールな詩ですね。戦争によって全ての色が消えていくという思考は、非常にドラマチックです。
結句の「血の色の世界しか残っていない」という表現は、一種の凄みさえも感じられ、息をするのも苦しいような、そんな緊張感があります。
結句は読み下しのようには読みにくいのですが、詩はそのままにして、読み下しの方を、「今は只 紅場を見るのみ」としておくと良いでしょうね。
平仄の点から言えば、起句の「溢」は「充」でしょうか。
我見辛夷燭 我辛夷の燭を見む
其如春夜精 其は春の夜の精のごとし
月煌揺容美 月は煌めき揺るる容は美しく
風舞仄香清 風は舞ひ仄めく香は清し
人之忽忽急 人は忽忽と急ぎて之き
華光皎皎明 華は皎皎と明るく光る
蓋誰気淑景 蓋ぞ誰かは淑景に気づかざる
花朶嬌妍栄 花朶は栄へて嬌妍なるを
(下平声「八庚」の押韻・五言律詩仄起式)
<鑑賞文>
辛夷は早春に咲く白い花。作者(私)はその花を夜に見ました。
暗闇に灯火のように白く浮かび上がるその花は大変美しいです。それはまるで春の夜の聖霊のようだったのです。
頷聯での対句は、その花の美しさや香りを表現し、頸聯での対句や尾聯ではその美しく咲き栄える花に気づかず、毎日をあわただしく通り過ぎる人々と、花は毎年その場所に咲き、通り過ぎていく人々をじっと照らしていることを表現しています。
<感想>
この詩を、投稿詩のコーナーで紹介させていただきましたが、平仄合わせのために私が一部直したものを投稿詩には載せましたので、こちらが原詩です。
若い方の詩を拝見した時に、文法や平仄の関係で修正する必要が出たりしますが、直すほどにイメージが狭くなってしまうことをよく感じます。それは、きっと、若者の生命エネルギーが詩の中に溢れているのでしょうね。
対句の工夫もよく出来ていますし、何よりも自然をとらえる細やかな目と、それを紡いだ言葉が、タペストリーのように組み合わされていて、心に残ります。感性のきらめく詩だと思います。
青柳岸春渡 青柳の岸春の渡し
将来発跡時 将に発跡の時来むとす
嗟乎勿流涕 ああ流涕することなかれ
情意靡如枝 情意靡きて枝のごとし
(上平声「四支」の押韻・五言絶句仄起式)
<鑑賞文>
この詩の場面は、青い柳がはえている春の渡し場。
もうすぐ出発のときがやってくる。(この詩の主人公には、やるべき事があってこの地から旅立たなければならないのだが)別れを悲しむ人の顔を見ると気持ちが(あの柳の)枝のように(あなたの方へ)靡いてしまう。
という悲しい別れの1シーンを描いている。
この詩では恋人との別れということにしたが、これから、卒業をして、それぞれの人生のために別々の道を歩んでいかなければならない私たちにも、このような別れの悲しみの場面に遭遇することがあるのではないだろうか。
<感想>
まさにドラマのワンシーンを見ているような、実感の伴った良い詩ですね。
結句の「心が枝のように靡く」という表現が秀逸、これは良いですね。また、この句は起句の「青柳岸」から導かれているわけですから、首尾一貫ということですね。
親しい人と別れるときに柳の枝を折ることが古来の送別のしきたりでした。そうした伝統をも踏まえていますから、余韻も深いですね。
飄飄鶴唳響深林 飄飄として鶴唳深林に響き
邑邑澗聲広峪深 邑邑として澗聲峪深く広がる
荏苒日来何以変 荏苒たる日来何を以てか変はらん
蓬莱欲在我儚心 蓬莱在らんと欲す我が儚き心に
(下平声「十二侵」の押韻・七言絶句平起式)
<鑑賞文>
行き先が定まらない鶴の鳴き声が深い林に響き、微かに聞こえる谷を流れる水音が、深い谷に広がっていく。ぼんやりと過ぎてきた今までの日々は、どのようにして変わってしまったのだろうか。蓬莱は、不安定で未熟な私の心に留まろうとする。
この詩は、見えない未来への不安を抱き、まだ子供のままでいたいと思う、不安定で大人になりきれない心を表現したものである。
まず最初の二句では、「行き先が定まらない鶴の鳴き声」と「微かに聞こえる谷を流れる水音」を、不安定で頼りない自分に例えている。
そして、「深い林」と「深い谷」という全く正反対の方向のものを出すことで壮大な情景を描写し、無限大に広がる未来と、これから自分自身が進む、色々な方向に用意されている道を表現している。
つまり、まだ子供で未来に不安を抱く自分が、無限大の見えない未来に進んでいく様子を表しているのである。
三句目では、そんな子供から大人への岐路に立った自分が、ずっと子供のままの楽しい日々が続いていくと思っていたのに、いつの間にか変化してきた日々を振り返っている。
そして、四句目だが、「蓬莱」というのは中国の架空の地名で、不老不死の地として知られている土地のことである。これは毎日が永久不変だと思っていた子供だった自分に例えており、転じて「まだ子供のままでいたい、変わりたくない自分」を意味している。そして、「蓬莱が、私の不安定な心に留まろうとする」というように「蓬莱」を主語にした擬人法を使い、自分の心の方を受身にしている。
そうすることで、自分は不安定でありながらも無限大の未来に向かって大人へと脱したいと思っているのに、それに相反する子供のままでいたい心がそんな自分の意志に反して自分の心の中に留まろうとしている、という子供でもない大人でもない今の複雑な心境をより細かく表現している。
<感想>
難しい主題をよく工夫しながら描いていると思います。
前半の二句が単なる情景描写ではなく、内面を象徴したものでもあるということは漢詩での約束事でもあり、無理のない展開が説得力を増していますね。
「荏苒」は難しい言葉ですが、「年月のゆったりと流れていくこと」を表しますが、同時に「苦しみや哀しみが絶えることなく続くこと」という意味もあります。それを意識下で感じるからでしょうか、詩全体が重みを増して、青年の果てない憂愁が伝わってくるように思います。
内容と表現のバランスの取れた詩に仕上がっていると思います。
2004. 1.13 by 桐山人
******** 水谷先生からのお手紙(2004. 1.17 ) ********
メールありがとうございました。生徒たちはとても喜んでいました。
今は、卒業レポートとして「日本漢詩」で書かせています。菅原道真あたりで書く子が多いかな、と予想していたのですが、案外、夏目漱石などの近代の小説家の詩を探す子が多いです。
同志社の校祖新島襄は、漢詩を多く残しています。それを題材にする子もいます。
ともあれ、こんな具合に、漢詩に生徒が興味を持ってくれたのが、とても嬉しかったです。とっつきにくく思われがちですが、規則があるからこそ、はまっちゃうのですね。
私も生徒に触発されて、作ってみようと思い立ち、そして、はまっちゃいました。
海山人です。
同志社女子高校の「漢詩創作授業の実践」拝読いたしました。
何よりも真剣な姿勢と勢いでやや違和感を感じる用字をも吹き飛ばす若い活力を感じました。
先ず、「辛夷花」の「人往湍湍急、華光皎皎明」には言い古された対比でありながら何故か新鮮さを感じました。
劉庭芝、「代悲白頭翁」の「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」のテーマですね。
ただ惜しむらくは鈴木先生の御手が入っており、後から原詩「人之忽忽急、華光皎皎明」を読むと、簡明な反面やや浅薄さを否めません。「往」字と「湍湍」字の持つ広がりの差でしょうか。
次にうずさんの「注何程愛施」への鈴木先生の感想、「語順としてはここは「施」が最後にあってはおかしいのですが、そうした文法などを無視して伝わるものがあります。」には私も前科(笑)がありますので良く解ります。
梅足(1999-1新年漢詩)「賀梅」の「一陽初処動」の「処動」で一悶着ございました。
最後に「訪師友」はすばらしいですね。良く仕込まれた作で海山人好みです。良いだけに更に欲を言えば、雪の取り回しを転句で「雪裏」と出して結句は原詩のまま「六花の如くはらはらと落ちる涙」とし、「梨雪」を単に「梨木」などにすれば鈴木先生の言われる「雪」と「六花」の重複もさほど気にならないと思いますが、如何。
また、全体に”仕込の濃い詩”の場合は、用字をその分簡明にするのが読者に親切だと考えています。
例「碧宇」「紅霞」
鈴木先生も言われていますように「平仄まで整えていらっしゃることに感激しました。」
漢詩の規則である押韻平仄の両方とも満たすと言うのは高校の段階では並大抵ではなかったと思います。私の高校(愛媛の愛光学園)の漢詩の先生も「平仄は難しい」と言われて説明を省かれました。
押韻平仄を満たすと言うのはそれはそれで大変素晴らしい事なのですが、取り組む優先順位としては、押韻の次には文字構成が良いのではないかと思います。
文字構成というのは五言なら2字+3字、七言なら2字+2字+3字が普通という例のものです。最後の3字は2字+1字あるいは1字+2字が普通です。
私の処女作は1996年秋で「朝浴陽光往、受夕日背還。望西山青雲、禽鳥一羽舞。」、
次作は「子年年不同、吾歳歳不改。将一刻千金、須隔日不同。」ですが、「受夕日背」「望西山」「子年年」「吾歳歳」「将一刻」「須隔日」と大半が上述の文字構成を外しておりました。
この結果、一例として読者から「”子年年[コはネンネン]”は”子年[ネドシ]”の句かと思った。」と誤解されてしまいました。
この”2字+3字”という文字構成のリズムは規則を超えてもっと自然なものと思われます。したがって本高校生の作品も文字構成というものを理解して作っていれば一層判り易い詩となったのではないでしょうか。
ただ、あくまでも”2字+3字”という文字構成のリズムが普通ということで、吉川幸次郎博士が「漱石詩注」で「春興」を評して、「何にしてもさいしょの二字の下に大きな pause があるのが、普通であるが、この聯のごとく、聴/黄鳥/宛転と、それをくずしたリズムを、時にまじえるのも、詩家の技量である。」というのも尤もだと思います。
先の例で言えば「望西山青雲」や「将一刻千金」は右四字の連関が強い分、破格のリズムでも誤解を生む事は無いと思います。
とにかく皆さんの勢いに打たれました。そこで「注何程愛施」の句に啓発されて一篇、「草花」を作りましたので投稿させて頂きます。ご覧下さい。
2004. 1.19 by 海山人
――五言句でも、七言絶句の転句でも使われ、例外というよりも、かなり多くの詩でも使われています。●●○○○●●となるべきところを、●●○○●○●とするようなケースですが、これは結局、下三字について、「●○●」を「○●●」と同じとみなすという約束なのです。但し、挟み平にした場合には、本来は結句の下三字を「○●○」と孤仄にしてバランスを取るのが正しいそうですが、そこまでやっていない例も多くあります――ところで最近、「本来は結句の下三字を「○●○」と孤仄にしてバランスを取るのが正しい」という但し書きについて疑念を抱くようになったので、投稿させていただく次第です。
平起式に於て轉句第六字に平を用ひた時は第五字は必ず仄を用ふべきで、此場合には必しも二六対とはならないのである。この後半の一文、これは「又」の部分から改行するのが、きっと本来の著者の意図だったのでしょうね。挟平格については前半で終わり、後半は孤平の救拯法の話の筈が、後半までつながってしまったのでしょう。
例へば、
夜 發 C 溪 向 三 峽
の如くである。又、轉句の第六字が孤平である時は、結句の第六字は孤仄を用ふるのを常とする。
結句の孤平は挟み平を丞けるだけではありません。
[前句の孤平を孤仄で丞ける]
×○×●●○● ×●×○○●○
兒童相見不相識 笑問客從何處來
孤帆遠影碧空盡 唯見長江天際流
春潮帶雨晩來急 野渡無人舟自
花開堪折直須折 莫待無花空折枝
只今滿座且尊酒 後夜此堂空月明
鞦韆門巷火新改 桑柘田園春向分
獨乘舟去値花雨 寄得書來應麥秋
寵光尢t與多碧 點注桃花舒小紅
外江三峽且相接 斗酒新詩終自疏
負鹽出井此溪女 打鼓發船何處郎
洲上草閣柳新暗 城邊野池蓮欲紅
一雙白魚不受釣 三寸黄柑猶自青
溪雲初起日沈閣,山雨欲來風滿樓
殘星幾點雁塞,長笛一聲人倚樓
対句であれば、
[前句の仄三連を孤仄で丞ける]
○○×●●●● ×●×○○●○
清談落筆一萬字 白眼舉觴三百杯
平原曉雨半槐夏 汾上午風初麥秋
田中誰問不納履 坐上適來何處蠅
[前句の二六不対 五字目孤平を孤仄で丞ける]
×○×●○●● ×●×○○●○
來時珥筆誇健訟 去日攀車餘涙痕
太行秀發眉宇見 老阮亡來樽俎
鷄豚郷社相勞苦 花木禪房時往還
肺腸未潰猶可活 灰土已寒寧復然
市聲浩浩如欲沸 世路悠悠殊未涯
冷猿挂夢山月暝 老雁叫群江渚深
春波澹澹沙鳥沒 野色荒荒煙樹平
東門太傅多祖道 北闕詩人休上書
2004. 2.19 by 謝斧
ご意見ありがとうございます。
とても勉強になりますが、さらなる疑問も生じてきました。
>結句の孤平は挟み平を丞けるだけではありません。
つまり、結句の孤平で挟み平を救うことは許される、と考えてよいのでしょうか?
このところが、私が一番ご意見を伺いたかった点なのす。
>[前句の孤平を孤仄で丞ける]
>×○×●●○● ×●×○○●○
これは納得しているところです。
しかし、
>対句であれば、 >[前句の仄三連を孤仄で丞ける]
>○○×●●●● ×●×○○●○
というのは初めて知りました。
仄三連(●●●)を●○●と見做すものでしょうか?
それに「対句であれば」と限られるのは、どのような理由からでしょうか?
また、
>[前句の二六不対 五字目孤平を孤仄で丞ける]
>×○×●○●● ×●×○○●○
というのは、前句末の○●●を●○●と見做すものでしょうか?
言わば、挟み平の逆も真であるということでしょうか?
さらに、
こうした救拯法は、どれほど許容されているのでしょうか?
つまり、作詩上、積極的に使って用いてよいものなのでしょうか、それとも、可能な限り避けるべきであるものなのでしょうか?
以上、ご教示いただければ幸甚です。
2004. 2.23 by 観水
はじめまして、ゆかりと申します。
この度はどうしても気になっている事がありましてメールをさせて頂きました。
私が高校の時なのですが、書道の時間に先生が生徒一人一人に与えられた文章を書くという授業がありました。そしてその文章を何度も練習して先生が合格をくれたものを掛け軸にして頂いたのです。
しかし自分の家には掛け軸を飾るような場所がなかったので、祖父の家にその掛け軸を飾ってもらうことにしました。
そして、数年前のお盆にお坊さんがお経をあげに来ていただいた時に、私の掛け軸を見たお坊さんが、祖母にこう言ったそうです。
お坊さん:「これはどなたが書いたものですか?」
祖母 :「これは孫が書いたんですよ」
お坊さん:「こういうお孫さんなんですね」
と言って笑ったそうです。
私はその話を聞いた時、祖母に、
「もし次そのお坊さんが来る事があったら意味を聞いてほしい」と伝えました。
しかし、そのお坊さんはその後一度も祖父の家に来ることは無く、結局意味もわからないままです。私なりに一生懸命インターネットで調べてみたものの、うまく結果が出ず思い切ってメールをさせて頂きました。
私は漢詩にも全く詳しくなく、この文章が漢詩なのかどうかもよく分かりません。
もしこの文章の意味をご存知であればどうか教えていただきたいのです。
文章は以下の通りです。
雨 疎
源 風
生 ?
檻 ?
外 林
山 稍
月
宿
実はこれは行書で書いた物で多分この文字じゃないのかなと思っているのですが、もしかしたら間違っているのかもしれません。
しかも??の所は自分で書いてあるにもかかわらず、全くわからないのです・・・。
今になってお盆に祖父の家に行ったのに掛け軸をデジカメで撮ってこなかったのを後悔しています。
もしこの文章の意味をご存知であればどうぞ私に教えて頂けないでしょうか?
初めてのメールなのに長文で申し訳ありません。
どうぞよろしくお願い致します。
2004.8.19
今晩は
お手紙拝見しました。授業の時には内容まであまり考えている余裕はありませんが、後にふと気になる事というのはよくあります。ゆかりさんのお気持ちもよく理解できます。
さて、本題の文章の件ですが、これは漢詩の一節です。
清の時代の、彭啓豊という人の作です。
疎風影動林梢月 疎風 影は動く 林梢の月
宿雨涼生檻外山 宿雨 涼は生ず 檻外の山
時々吹く風は林の梢の月を動かし 昨夜から降り続いた雨に 檻の前の山には涼しい雰囲気が生まれた
というもので、秋の夜の雨、という伝統的な情景を詠んだものです。恐らくは、絶句(四句)の後半部分だろうと思われます。
勉強は後になって本質が分かる部分がありますが、疑問に思ったことを放っておかないで追求したことは素晴らしいですね。
また、頑張って下さい。
2004.8.20
お早いお返事どうもありがとうございました!
正直こんなに早く分かると思っていなかったのでびっくりしています。
どうもありがとうございました!
もう長年の謎が解けて感激しています。
本当にありがとうございました。
なんだか涼しげで大変きれいな詩ですね。
ちょっと疑問に思ったのが、
> 昨夜から降り続いた雨に 檻の前の山には涼しい雰囲気が生まれた
「檻」というと囚人が入っている所という感じがするのですが、ここで言う「檻」とは一体何なのでしょうか?
また、質問したことを褒めて頂いてどうもありがとうございます。
私は高校から商業高校に進んだため、普通科の科目がほとんどありませんでした。
でも国語の授業のとき「人面桃花」という漢詩を勉強してこの漢詩が好きになり、こういうものを何も参考書を使わずスラスラ読めるといいなぁ、と思いました。
私のような漢詩初心者でも読めるような本があればいいなと思います。
インターネットって本当に便利ですね・・・。
鈴木さん本当にどうもありがとうございました。
漢和辞典で調べますと、@「獣や囚人を入れる場所」という意味とともに、A「てすり、欄干」の意味も載っています。この場合はAの方の使い方でしょうね。
「疑問に思った」ということが次への発展となる、是非ゆかりさん自身で漢和辞典で再確認をしてみて下さい。今回は私が教えてしまいましたが、同じステップを辿ることで、ゆかりさんが書いておられた「スラスラ読める」段階へと少しずつ近づいて行くのです。
ただ、実際には「参考書も使わず」読める人はいません。特に外国の文学ですから、参考書を使った方が誤解をすることは少なくなると思っていますので、私はどんどん参考書を読んだ方がいいと思っていますよ。
どうもこんばんは。
またまたご親切に教えていただいてありがとうございました!
漢和辞書で調べればよかったのですね。
どうもすみません・・・。
本当にどうもありがとうございました<(_ _)>
これからもホームページ運営頑張ってくださいね
それでは失礼致します( ´・ω・)ノ
ところで ひとつ教えていただきたいことがあります。ということで、お燗ドックリではなく、そこに書いてあった漢詩が知りたいということです。これだけのヒントでは・・・・と思いましたが、次のお手紙で、
数年前、デパートで陶磁器の即売会をやっていたとき、有田焼かなんかの四角いお燗ドックリに漢詩がかいてありました。
龍が湖底でまどろんでいるようなことが書いてあり、非常に気に入ったのですが、2万円ぐらいしたので買いそびれてしまいました。
これだけのてがかりでもしわかることがありましたら、教えていただきたいのですが。
かなり前のことなのでよく覚えていないのですが、と更に詳しくいただきました。
「龍が湖底でまどろんでいる」の他に
「鳳凰が飛んでいる」というような記述もあったような気がします。
とにかく スケールの大きな内容だったような気がしています。