作品番号 2004-151
初夏即事
薫風習習入簾涼 薫風習習 簾に入って涼しく
緑樹陰濃日正長 緑樹陰濃 日正に長し
啼鳥飛花餞清晝 啼鳥飛花 清晝を餞り
浮雲流水薄炎陽 浮雲流水 炎陽を薄くす
對山庭際青梅熟 山に對せし庭際 青梅熟し
隔徑籬邊紅薬香 徑を隔てて籬邊 紅薬香る
一椀新茶心気爽 一椀の新茶 心気爽か
麥秋晴朗俗情忘 麥秋晴朗 俗情を忘る
<感想>
首聯の「習習」は穏やかな風ですので、春風のイメージが強い言葉ですね。逆に「緑樹陰濃」は晩唐の高駢の「山亭夏日」から引かれたのでしょうが、真夏のイメージです。その、春と夏のぶつかるところに「初夏」があるわけで、季節の重なる候に読者を初っぱなから引き込みますね。
ただ、「陰濃」と言うことは裏返せば周りの日差しが強いということですので、この第二句ではカーッと照りつける夏の午後という感じが強くなりすぎて、次の頷聯への流れがやや滑らかさを欠くかもしれません。
頸聯は読み下しですが、上句が「山に對せし庭際」(「對せる」の方が良いでしょうが・・・・)に対応するように、下句も「徑を隔つる籬邊」と修飾関係を揃えてはどうでしょうか。
2004. 8.16 by junji
作品番号 2004-152
老婦緑陰歌
遠望如絨触如羅 遠望すれば絨の如く 触るれば羅の如し
蒼黄柿葉大心和 蒼黄の柿葉 大(はなはだ)心和む
偶聞誰昔流行曲 偶たま聞く誰昔(すいせき)の流行曲
老婦低声緑蔭歌 老婦低声もて 緑蔭に歌う
<解説>
起句中の「如絨」の「如」は平字、「如羅」の「如」は仄字として読まねばなりませんが、「如」は平仄両用とはいえ、このような使用法がよいのか否か、よくわかりません。
不可ならば「如羅」は「若羅」とする他ありません。
<感想>
「ごとし」を用いる時は、漢詩では「如」は平声、「若」「似」を仄声として使い分けます。柳田 周さんのような使い方は、例えば、中唐の
江流如箭月如弓 江は流れて箭の如く 月は弓の如し
という用例はあります。
しかし、これは二字目の「流」は平声であり、平仄を書けば、
○○○●●○○
ということで、どちらの「如」も平声に読んで、平仄上の問題はありません。
ところが、柳田 周さんの方では、起句の平仄は
●●○○●○○
二字目の「望」は平仄両用ですが、四字目の「絨」が平声ですから、「二四不同」でここの「望」は仄声となります。四字目の孤平を避けるためにも、「如」は平声として、特に問題もありません。
ここで「二六対」を避けるために「如」を今度は仄声に読むというのは駄目です。
中唐の
野鳥如歌又似啼 野鳥歌ふが如く 又 啼くが
となって、二六対を守るために用字を換えています。柳田さんのこの詩でも、同様の行程を経た方が良いでしょう。
2004. 8.16. by junji
作品番号 2004-153
水調歌頭・燒伊拉克的戰火不到日本芳春
華首空思量, 華首 空しく思量す,
天道不殺人。 天道は人を殺さずと。
自由民主欺瞞, 自由と民主は欺瞞なり,
又擧義軍侵。 また義軍を挙げて侵す。
獨占最新兵器, 最新兵器を独占し,
蹂躙石油産地, 石油の産地を蹂躙し,
砲火燬風琴。 砲火は風琴を燬く。
老幼熱沙死, 老幼 熱沙に死に,
日本百花新。 日本に百花 新たなり。
○
梅香尽, 梅香 尽き,
櫻雲散, 桜雲 散じ,
緑無塵。 緑に塵なし。
支援重建焦土, 焦土を重建するを支援して,
汗血涌仁心。 汗血は仁心に涌く。
專守家國防衛, 家國の防衛に専守し,
萬里長征精鋭, 万里長征の精鋭,
何憶故郷春? なんぞ故郷の春を憶わんか。
半月照荒外, 半月 荒外を照らし
清影一傷神。 清影 一に神を傷ましむ。
<解説>
[語釈]
伊拉克:イラク
義 軍:正義を守るための軍。ブッシュ大統領はテロと戦う大義のもとにイラクを攻めた。
華 首:しらが頭
重 建:復興
家 国:祖国。母国
荒 外:荒れ果てた辺地
清 影:月の光
アメリカは戦後いくどか「自由」と「民主主義」のための義軍を挙げてきましたが、イラクでの戦いは、何のために誰と戦っているのかがとてもわかりにくいものになっています。「自由」と「民主主義」のための戦いは、これまではそれを「守る」ための戦いであったが、今はそれを「押し付ける」戦いになってしまい、「自由」と「民主主義」のための破壊ばかりが目に付きます。拙作第3・4句「自由民主欺瞞」は、そのあたりのことをいいたくて書いています。
なお、この詞は、現代韻(十五痕押韻)で書いています。
<感想>
この詞は、以前掲載しました鮟鱇さんの作、「願平和」と一緒に掲載するように依頼されていたのですが、すみません。遅くなってしまいました。
日本のような戦後復興を目指してと言われる現在のイラクですが、その復興の仕上げ段階で大きな苦労をしているのが当の日本人です。だからこそ知恵を絞って協力できるはずのところが、思考停止の状態が続いて、先行きは全く見えなくなっているようです。
昨日が終戦記念日、尚更平和を願わずにはいられません。
2004. 8.16 by junji
作品番号 2004-154
思八国首脳会議 八国首脳会議に思う
会談成果転懐危 会談の成果 転た 懐危す
乞見忘邦諛藪誰 乞う見よ邦を忘れ 藪に諛うは誰ぞ (藪=bush)
喜悦風情泉宰相 喜悦の風情 泉宰相
先憂勿笑戦火悲 先憂 笑う勿れ 戦火の悲しみ
<解説>
同会議に於ける首相の姿勢に疑問と不満を感じ、国会の議決無しに多国籍軍参加を表明したことにより、戦闘の義務を負わせられのではないか。その不安と、青年時代に辛酸をなめた戦争の悲惨さを痛切に想起した。
<感想>
今度の詩は、サミットが主題ですね。時事問題が続きますが、現実社会を見つめる目は漢詩の大切な部分です。
承句の「諛藪誰」は「ブッシュ大統領にごまをすって近寄るのはどこのどいつじゃ」というところでしょうが、表現は面白く読みました。事ははるかに重大なのですが、どうも転句に登場した人は分かっていないようです。
選挙の結果についても、誰も責任を取らないということは、みんなが「無責任」ということなのでしょう。政治や社会に期待しない、思考停止状態に国民を導きたいのでしょうかねぇ。
結句は「勿笑」は誰に向かって言っているのでしょうか、ここは「笑」でなく、「忘」のように思いますが。
もう一点は、「戦火」の「火」は仄声ではまずいところですので、平声の字を探してみましょう。
2004. 8.16 by junji
作品番号 2004-155
題歌劇暮園夢
巴里冬來夕日微 巴里冬來たって夕日微かなり。
病身縫女與朋歸 病身縫女朋と與に歸る。
畫家貨乏難求薬 畫家貨乏しくして薬求め難し。
宿命消灯事既非 宿命灯を消して事既に非なり。
<解説>
鮟鱇先生、謝斧先生に続いてプッチーニの歌劇「ラ・ボエム」終幕について詩の形にまとめてみることにしました。
結句「灯」は、この場面にはないのですが、劇中二人の出会いを象徴するものとして用いる事にしました。この歌劇を知る人にも納得いただけるよう工夫したつもりです。
場面を終幕に絞り込んだとは言え歌劇の「説明」としては良く書き得たつもりです。しかし「詩」としては先の二人に敵すべくもありません。問題点をご指摘いただき、後の参考にさせていただければ幸いです。
今回あまり時間をかけていません。推敲不足は後になって自分でも気づくと思います。しかし今回のような場合は速さも大事かと思いますので、この点お許し下さい。
また鮟鱇先生、謝斧先生にもご意見いただけないでしょうか。
<感想>
率直な感想を言いますと、オペラの説明としてはストーリーが分かりやすく書けているし、結句の「宿命消灯」なども工夫が生きているでしょう。
しかし、この歌劇のどこに感動したのか、なかなか伝わってきません。多分、起句の役割が不明確なことと、結句の「非」の観念性のためだと思います。そうした点は不満といえば不満なのですが、先に二人の詩が掲載されていることは重要で、三作を重ねて読むと定洋さんの狙いも分かります。
競作の面白さでしょうね。
2004. 8.16 by junji
率直に感想を述べます。
作詩力は鮟鱇先生にも勝るとも劣らないのですが、今回の作品は、感興に乏しく、面白くありません。
推敲が足りないせいでしょうか、全編叙述に工夫が感じられません。只説明だけで、詩人の詩意がどのへんにあるかよくわかりません。
短詩形なので、「縫女」や「畫家」は必要はないと思います。
大変な病気になって帰ってきたのに「與朋歸」はあっさりしすぎではないでしょうか。
「宿命消灯」については、意味としては「これからの人生は灯が消るように終わった。これも宿命であるのか」ということでしょうか、そうであれば、表現にまだ工夫が必要です。宿命が灯を消すという表現自体が晦渋だと考えます。
また、譬えも安直のように感じます。
起句は題意を説破するものと聞き及んでいます。「冬來」の具体的叙述はどんなものでしょうか、よく解りません。
私ならば
破屋寒窓夕日微 破屋の寒窓に 夕日は微なり
病躯難歩抱身帰 病躯歩み難く 身を抱かれて帰らん
花顔無語呼無應 花顔語る無く 呼べども應る無く
堪恨蘭摧奈凍饑 恨に堪えり 蘭は摧かれて 凍饑を奈んせん
とします。
「破屋寒窓夕日微」は「夕日微」が全編を示唆させるような叙述が好ましいと考えます。
2004.8.20 by 謝斧
鮟鱇です。
坂本定洋さんから玉作「題歌劇暮園夢」につき感想を求められています。また、謝斧さんの玉作「歌劇 ラ・ボエム」も、小生が「佳人死盛春」を書いたのでお書きになったとのことです。
小生、実をいえば、詩のよしあしや巧拙を人前で論じることはあまり得意ではありませんし、苦労することですので、個人的にはあまり好きなことでもありません。そこで、投稿詩のすべてに丁寧な感想を付せられる鈴木先生のご労苦には日頃から敬服しています。
しかし、拙作がもとでお二人までが貴重な時間を割いて詩を書いていただいたのですから、ここはやはり小生がどう思うかをいうべきでしょう。このページの読者のみなさんに対して、そうすべきだと思います。
ただ、ぜひ、あくまでも詩を書く者のひとつの見方という読み方をしてください。
詩には詠物、詠史というジャンルがあります。ひとつの歌劇を題材に詩を書く、それを何と呼ぶのか小生は知りませんが、詠劇とでもすればよいのでしょうか。
そして、もし詠劇というものがあるとしての一般論ですが、詠物、詠史、詠劇の順に、読者の負担を軽減する書き方がなされなければならないと思えます。ここでの読者の負担とは、作品を読むにあたって、作者が題材とすることがらについての知識をより多く要求されるという意味です。そこで、物・史・劇の順番で、詩材となっていることがらについて読者の知識の足りない部分を補う努力がなされなければ、独立した詩としての成り立ちがむずかしくなります。
詠物は七言絶句でも可能でしょう。しかし、詠史、詠劇は、七言絶句二十八文字では、言葉が足りないかも知れません。
三作を較べれば、謝斧さんの作が「ラ・ボエム」がどういう歌劇であるかということ比較的バランスよく捉えていると思います。「ラ・ボエム」がどういうオペラであるのかということが、拙作にしても坂本さんの作にしても、書きつくせていません。
そこで、桐山人先生に、次のような感想を持たれてしまうのだと思います。
>結句の「憔悴」「斷腸」の言葉があまり実感として伝わって来ず、言葉を貼り付けたような感じがします。観客の立場から見たからでしょうか、鮟鱇さんには珍しく、気持ちの入り方が少ないように思いました。
>この歌劇のどこに感動したのか、なかなか伝わってきません。
次に、坂本さんの玉作と拙作を比較すれば、「ラ・ボエム」の本質をどう言葉にするかという点で、拙作は坂本さんの作に及ぶものではありません。何の解説もなしに拙作を読んで「ラ・ボエム」を思い浮かべる読者はおそらくいないでしょう。しかし、「ラ・ボエム」を知る人であれば、坂本さんが「ラ・ボエム」を詩題としているとわかります。
「巴里冬來」「病身縫女」「畫家」「難求薬」これらの語句、坂本さんの作は、二十八字の約半分を用いて、読者を正確に「ラ・ボエム」に導いています。そして、読者を正確に「ラ・ボエム」に導くという点では、謝斧さんの作を凌いで巧みですし、読者が「ラ・ボエム」についてどれだけ知っているかということについて冷静であり、明晰です。
しかし、謝斧さんの作には、「ラ・ボエム」の感動を詩にこめようとする作者としての強い思いがあり、坂本さんの作はそれが希薄です。読者は精確に「ラ・ボエム」に導かれていますから、「ラ・ボエム」に感動したことのある読者なら、その感動を、合句(結句)「宿命消灯事既非」に重ねることは可能でしょう。
しかし、謝斧さんの「花顔如語将如笑」が、謝斧さんが看取ったヒロインの臨終の様子、つまりは作者なりの主観をきちんと描いているのに対し、「宿命消灯事既非」はいささか誰でもが認識するところ、つまりはその詩の作者でなくとも書ける客観的な事実を書いているに過ぎないと読まれるおそれがありそうです。
この点、もう少し言えば、小生は、「花顔如語将如笑」がとりわけ美しい語句であるとか、「ラ・ボエム」のヒロインの心情を巧みに描いていると思うわけではありません。
「ラ・ボエム」のヒロインの臨終をどう看取るかは、人さまざまであるでしょう。しかし、そうしたなかで、わたしはこのように看取ったというメッセージが大事で、謝斧の作にはそのメッセージがあると思います。
謝斧さんの作がうまく書けて、坂本さんと小生の作がそれに劣ることとなった原因のひとつに、冒頭に触れたことですが、坂本さんと小生が、律詩ではなく絶句を選んだということもあるように思えます。坂本さんの作が、読者を正確に「ラ・ボエム」に導いているという力量を思うにつけ、絶句二十八字(あるいは七言四句)では伝えうる情報に限りがあり、観客としてどう感じ、どう思うかということを書くには字数が少な過ぎるかとも思えるわけです。詩材と形式をマッチさせることもまた大事なことかと思う次第です。
この機会に、「佳人死盛春」についてのいささかの弁明をお許しください。拙作の解説に「この春、アマチュア声楽家の知り合いが出演したオペラ「ボヘーム(題がラ抜けでした)」を見て書いた詩です。」と書いたのは小生です。一度口をついて出た言葉は戻りませんが、この解説を書いたことを小生、いささか後悔しています。そう書いたことで、拙作が「詠劇」になってしまいました。
しかし、実を言えば、昼間見た「ラ・ボエーム」を思いだしながらお酒を飲んでいて、小生の脳裏あるいは胸のうちに浮かんだのは、若い清楚な女性の胸を蝕む病を、これから咲き開こうとする可憐な花に見たてて詩を書いてみたいということでした。「肺臓藏花開病身」という句がそれです。胸に咲き開く花のごとき病、それを描きたかったのです。その意味でわたしの関心は、「ラ・ボエーム」から離れ、もっと別のことに移っていたのだと思います。
ただ、「肺臓藏花開病身」と書いて次に何をいうのか、つまりは何がテーマなのか、それがよくわからないままに「ラ・ボエーム」のストーリーに再び引き戻されたようなところがありまして、ご覧いただいたような作になってしまいました。それで、上記に書きましたような桐山人先生の感想になってしまったのだと思います。イメージ先行の失敗といえるかと思えます。
後悔。とはいえ拙作をもとに謝斧さんに書いていただき、坂本さんに書いていただき、それぞれに拙作を超えていただいたのですから、詩を書く者として、いささか愉快ではあります。
言葉が過ぎた点もしありましたら、どうぞご容赦ください。
最後に、謝斧さんの評について、苦言をお許しください。「作詩力は鮟鱇先生にも勝るとも劣らない」というのはどういう意味でしょうか。謝斧さんご自身が、わたしや坂本さんの詩を作る力をどう見ているかということはご自由になさってかまわないことですが、坂本さんの作詩力が小生に勝り、劣ることはない、つまりは、わたしの作詩力は坂本さんよりも劣るということを公開の場で公言されることには、いささか困惑しています。わたしは、わたしの「作詩力」を坂本さんのそれと比較されるために詩を書いているわけではありません。
謝斧さんの評を読むかぎりのことですが、謝斧さんは「詩は作者の作詩力の反映」であるとお考えのようです。しかし、わたしは、そのような意味での「作詩力」なるものの発露としての詩を書いたことは一度もありません。わたしが拙作を世に問うことがあるとして、それは個々の作がどうかということであって、わたしの「作詩力」なる能力ではありません。
なぜならわたしは、わたしの能力に内在するものとしての「作詩力」なるものの実在を考えたことはなく、作品がその発露であるとは夢にも思っておりません。そこで、その実在しない能力をめぐって他の方とどちらが勝るとか劣るとかの議論をされることにとまどいを覚えるのです。「作詩力は鮟鱇先生にも勝るとも劣らない」云々はわたしが世に問うていない能力をめぐってのことでありますから、あえて反論はしませんし、わたしの能力が坂本さんと較べてどのように劣っているのかという質問もしませんが、言葉の対象となるもの(ここではわたしの「作詩力」)につきもう少し精確に言葉をお使いいただきたいと思います。
2004.8.23
拝啓。鈴木先生、鮟鱇先生、謝斧先生。
先ずは謝斧先生の評に対して。
一々ごもっともです。ただし、「鮟鱇先生に勝るとも劣らない作詩力」については社交辞令と受け止めさせていただきます。
正直な所、私にとって今回の作は「一字も書かないでは済ませない」この一念だったのです。この題材をまともな詩にしようと思えば、詩の力だけではなく、謝斧先生のようにスコアまで目を通すほどの深い知識と愛情が必要です。
ただ、それを得ようとすればお金も身も、おそらく心も持ちそうにありません。のめりこむのは危険な代物なのです。オペラとはそれほど魅力のあるものなのです。謝斧先生ならば私の言い分もご理解いただけるかと思います。
ちなみに私の場合、CDについては相当なコレクションを誇るのですが舞台に接したのは「フィガロ」と「魔笛」の二回だけです。私はいわゆるモーツァルティアンで、「ボエム」に対しては嫌いなわけなどないのだけれど愛情不足を指摘されても仕方ないのかなとは思っています。
鮟鱇先生の詩に接し、それに対して意見など差し上げようとするうちに、これは、挑戦するだけでも意義がある、ここで一字も書こうとしないで、この先どの面下げて生きていくのかなどと、身の程知らずにも思ってしまったのです。私も書き手のはしくれ、そして男のはしくれなのです。
曲がりなりにも今回のような難物に手が掛かり、ちっとも面白くはないのだけれど、それなりにわかっていただけるものにできたのです。今の気持ちは、初めて漢詩づくりに挑戦し、とても読むに耐えたものではないのだけれど、ともかく平仄の合うものを仕上げた時と似ています。
決して詩として合格点をいただいたのではないけれど、鈴木先生の評は、これまでで一番うれしいものでした。言われてみれば鮟鱇先生の詩に対しても謝斧先生の詩に対しても「序文」程度の役割は果たせるのかなと思っています。
鈴木先生の評に力を得て、あえてお二人に意見させていただくならば、このオペラに対して何の予備知識もない読者に対しては読む力を要求しすぎるものではないかと言うことです。謝斧先生の詩は私には完璧に見えます。お説も一々ごもっともと思います。しかしそれは多分に私自身がこのような層に属する読者だからと言う理由にもよる点は否めません。
成否は別にして私が冒頭「巴里」にこだわったのは、より広い範囲の読者の想像力を喚起できると考えたからです。この点のみ、読者層も含めたトータルの伝達効率では、何事かをあきらめるに値するものと考えています。
最後に鮟鱇先生、謝斧先生に対して。
末席を汚しただけとは言え、今回の競作に参加(乱入?)させていただいたこと、とても誇りに思っています。私にとっては初めて女性に思いを伝えようとしたときのような(重要度は違いますが)、踏まねばならない段階であったと感じています。先ずは書こうとしなければだめですね。
両先生のお導き、および、このような機会を用意していただいた鈴木先生に対し、心より感謝申し上げます。
今回のように場面を絞って、何人かで寄ってたかるならば、私は役に立たないにしても、ひょっとすれば例の「リング」も攻略できるのかも知れません。そんな可能性も感じました。
敬具。
2004. 8.30 by 坂本 定洋
作品番号 2004-156
観菖蒲 菖蒲を観る
薫風一路歩回廊 薫風一路 回廊を歩む
紫色鮮明水畔菖 紫色 鮮明 水畔の菖
閣閣無聲閑白晝 閣閣 聲無く 白晝閑に
拂塵清景満池塘 塵を拂う 清景 池塘に満つ
<解説>
青葉を吹いてくる心地よい風に吹かれながらの菖蒲園の散策の述懐です。
[語釈]
「回廊」 | :神代植物公園・水生園の湿地にある板敷きの歩道。 |
「閣閣」 | :蛙・蛙の鳴き声 |
<感想>
起句「薫風一路歩回廊」で、まず植物園の広々とした光景が目に浮かびます。爽やかな風、青く澄んだ空、そこに菖蒲の紫色が鮮やかに登場するという前半は、とても良いと思います。
転句は、「無聲」は「蛙の声も聞こえない」ということでしょうか、それとも「蛙の声以外は何も聞こえない」でしょうか。後者ならば、芭蕉の立石寺での句、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と同じような情景でしょう。
結句は、「拂塵清景」はどんな情景なのでしょうか。何が塵を払うのかがはっきりしませんね。一般には雨が塵を落としてくれるのでしょうが、ここでは風でしょうか。また、場所も屋外の庭園を歩いているわけですから、漠然と空気が澄んでいることを言っているのでしょうか。
「世俗の塵までも払い落としてくれるような美しい景色」とひとまず私は解釈しましたが、そうした大きく広がってきた世界が、最後の「満池塘」で一気に凝縮されている点では、意見が分かれるところかもしれません。
2004. 8.21 by junji
作品番号 2004-157
近夏至
得機終業早於常 終業の常よりも早き機を得たり
夏至近猶高夕陽 夏至近ければ猶夕陽高し
駆自行車郊外道 自行車を駆る郊外の道
敷芬郁郁栗花傍 敷芬(ふふん)郁郁たり栗花の傍
<解説>
自転車は現代中国語で自行車、脚踏車などというようです。
<感想>
夏至に近い頃、というわけですが、そのことが直接に感じられるのは承句の「高夕陽」と結句でしょうか。
ただ、夕陽については、起句で「いつもより早く仕事を終えた」と言ってしまいましたから、夏至には関係なく、いつもに比べて夕陽が高い位置に残っていると解釈するでしょうし、そうなるとますます夏至とは離れます。
結果として、夏至のことが出ているのは結句だけとなります。
これははっきり言って面白くありません。結論から言えば、詩である部分は結句だけで、他の句は解説文、とさえ感じさせるからです。それぞれの句の関連もうかがわれません。少しずつでも、結末を感じさせるような言葉の工夫が必要です。
それは技法とかの問題ではなく、作者の感動の自己分析に迫る過程だからです。
郁郁たる栗の花に、何故今日は感動したのか、いつもと何が違っていたのか、そこから詩は始まるはずですが、その自己分析を経ないで詩を作れば、読者に感動は伝わりません。
柳田 周さんご自身は、この栗の花の香に弾けるような感動があったのでしょうが、それを読者にそのまま投げ捨てても、お互いに共感できる部分の描写が少ないわけですから、読者は物足りません。
作者の日記代わりに記録としては良いでしょうが、読者を意識すると、非常に不親切な詩だということです。起句、承句にもう少し夏至の景を入れてみると良いと思います。
2004. 8.21 by junji
作品番号 2004-158
電脳
電脳機能軟件支 電脳の機能 軟件支ふ
内容構築不関知 内容の構築 関知せず
発生障害嗟無奈 障害を発生 ああ いかんともするなし
操作再開安息時 操作再開 安息の時
<解説>
近頃パソコンが調子悪くなり、その修復にだいぶ時間を費やしました。
その時感じたのは、軟件(ソフト)の内容はまったくわからず、結局はソフトのメイカーの援助を受けるより方法がありませんでした。
こんな経験は私以外にもお持ちでしょう。その気分を漢詩に纏まらないかと、試みてみたものです。しかし、電脳のための言語は不足していて言語障害となった気分です。
それでも、これからの時代では詩のなかに取り込む努力をしてみたいものです。ご批判をお待ちしています。
[語釈]
「電脳」 | :パソコン |
「軟件」 | :ソフト |
<感想>
「パソコンもソフト無ければただの箱」というようなことを、以前よく言いましたね。何となく僻みというか、負け惜しみというか、そんな気持ちがよく表れていた言葉でした。
しばらく前までは、「DOSの時代は手作り感覚、手触り感があって良かった」なんてことも言いました。でも、さすがに最近は減ってきたように思います。
以前中国に行った時に、中国の人の持っている携帯電話がどれも非常に小さくて、電話とメールくらいのシンプルな機能に絞ったものだったので、とても羨ましく思ったことを覚えています。日本では、携帯にカメラが付き、液晶は大きくなり、機能をどんどん拡大することで携帯電話本体も大きくなっていた時期でした。
こんなに沢山の機能は必要ないから、安くて小さくて持ちやすいものを作ってくれ、と携帯会社の人に話したこともありましたが、その頃は真剣に聞いてくれている雰囲気じゃなかったですね。
点水さんのこの詩は、仰ったように現代の物事を表現しますので、なかなか適する言葉を探すのは難しいですね。意味だけではなく、詩の雰囲気も生かす言葉でないといけないし・・・・しかし、そうした雅語と俗語のせめぎ合いは今に始まったことではなく、俳句などでも時間をかけて乗り越えてきたことです。初めは多くの抵抗があっても、必要が深くなれば次第に認められるでしょう。
漢詩の場合には、唐代の規則に従うというのを長く守ってきましたから、後の時代になっても新しい語を用いることができませんでした。特に日本では、漢詩文に典拠を持たない言葉を「和臭」として禁じてきましたから、近代以降の事物を漢詩で表すのは大変です。
漢詩に何を求めるのかはそれぞれの人で違うでしょう。古典的な作品を作りたい、という人もいるでしょうし、現代の風物を描きたいという人もいる。押韻や平仄を守った上で、新しい言葉や表現を模索するのも漢詩の今後を考える一つの方向です。
さて、前置きが長くなりましたが、点水さんの詩についての感想に進みましょう。
承句については、主語は人の筈ですが、省略されています。そうなると、「内容構築」に誰が関知するのか、不明確です。ここは「構築内容人不知」とした方がよいでしょうね。
転句と結句では、「発生障害」と「操作再開」は、それぞれ「障碍発生」「再開操作」と入れ替えた方が分かりやすくなりますので、その辺りの平仄を合わせながら、句間の語句の移動も含めて推敲すると良いと思います。
2004. 8.21 by junji
作品番号 2004-159
遊漓江 漓江に遊ぶ
開窓碧水故遅遅 窓を開くれば 碧水ことさらに遅遅たり
極目青山景物奇 極目 青山 景物奇なり
独歩舟行千里思 独歩 舟行 千里の思い
雲流微雨再遊期 雲は流れ 微雨 再遊期す
<解説>
窓を開けると(漓江の)青い水がことのほかゆったりと流れている
見渡す限りの青き山々を目にしてすばらしい眺めである。
一人船旅に来たが、思いは遠く家人に馳せる。
雲流れかすかなる雨に(一層漓江の景色は映え)再び来ようと期するもの(次回は二人で来ようとの意)がある
長年の念願であった地であるのに、家内が行けず一人旅になってしまったことをベースにしました。
これまで漢字を並べるだけの雑詩作りはありましたが、韻を踏み平仄を合わせた漢詩らしきものは、ともかくこれが初作であって、投稿はおこがましいのですが、人様にはどのように見ていただけるものかと思い投稿しました。
<感想>
新しい漢詩の仲間を迎えて、とてもうれしく思います。
初めての作とは思えない、というのが多分皆さんの感想ではないかと思います。それは単に平仄や押韻が整っているということではなく、詩としての雰囲気をこの作品が持っている、ということでしょう。
転句まではよく仕上がっていると思いますが、結句の「雲流微雨」はどんな意図があるのでしょうか、「再遊期」とのつながりがはっきりしませんね。
一般的に言えば、この種の表現は、@時間の経過を示す A作者の心情の投影 などの目的で使われます。この詩の場合には、どちらもありそうで、でもどちらも希薄で、それは転句の「千里思」と結句の「再遊期」とが重ならないことから来ているのかもしれません。
つまり、「千里も離れた孤独の気持ち」であるのに、「また来ようと心に決めた」は変ですよね。
解説に書かれていることから判断すれば、作者の意識としては転句に「妻と一緒でなくて寂しい」という気持ちがあり、だから「再遊」となるようですが、「独」の一字でそこまで読者に分かってもらうのは難しいでしょう。
話を戻しますと、ですから「雲流微雨」は前の「千里思」を象徴しているのか、「再遊期」を象徴しているのか、分からないし、そうした心情とは無関係に情景として置いたと言うなら、前半の美しい景色を打ち消すような表現は逆効果でしょう。
内容的に推敲を進めるならば、「千里思」は削りたくはないところですので、結句を見直されたら(特に意味がぶつかる「再遊期」を)どうでしょうか。
2004. 8.22 by junji
作品番号 2004-160
星宿
大火垂南海 大火 南海に垂れ
銀河亘満天 銀河 満天に亘る
逐風往曙野 風を逐いて曙野を往けば
薇蕨露珠円 薇蕨の露珠円かなり
[語釈]
「大火」 | :蠍座のアンタレス。 |
「垂」 | :たれる。低れる。 |
「亘」 | :コウ。わたる。端から端まで渡る。 |
「逐風」 | :風を追う。馬を駆る意。 |
「曙野」 | :夜明けの原野。 |
「薇蕨」 | :わらびとぜんまい。 |
「露珠」 | :葉先の朝露。 |
<感想>
夏の代表的な星である蠍座のアンタレスは、同じく蠍座の三つ星と同じく、夏の夜に南の低い空に浮かびます。空気が澄んでいないと、地表に近いため、光りがぼやけがちでもあります。
この詩では、くっきり見えたようですね。しかも、天の川までも全天に見えたと言うことですから、これは素晴らしいですね。そうした光景を起句承句の簡明な表現が巧みに描いていると思いました。
前半の天空への視点から、転句で地上に降り、更に葉先の朝露へと目を向けていくわけですので、一気に転回します。このスピード感は快感で、七言絶句ではなかなか味わえないでしょう。
五言の魅力がよく出ている詩だと思います。
2004. 8.22 by junji
作品番号 2004-161
探勝兼六園
兼六名園曲水連 兼六の名園 曲水連なり
古松新草互争妍 古松新草 互に妍を争ふ
清風颯颯離塵世 清風 颯颯 塵世を離る
四季回来麗色鮮 四季回り来たって 麗色鮮やかなり
<解説>
初夏の頃、兼六公園を訪れその美しさに感激しました。
<感想>
よく整った詩で、初夏の兼六公園に居るような気持ちになりますね。
初夏ならではの爽やかさは、起句から転句まで工夫された配置がなされ、「曲水連」「新草」「清風」などが統一された調べを出していますね。
特に、承句の「古松」と「新草」が「妍を争う」という取り合わせは、面白い視点ですね。
この承句の表現が生きているために、逆に転句や結句があまく感じるほどです。それぞれの句は納得できる内容なのですが、何と言えば良いのか、例えばコース料理を食べた時に途中で出されたスープがとても美味しくて、その後のメインディッシュの印象が薄くなってしまう、肉も魚も十分に美味しいんだけれど帰宅して思い出すのはスープの味ばかり、というような感じでしょうか。
転句の内容を承句に、承句の内容を転句に持ってくると落ち着くように思います。
2004. 8.22 by junji
拝啓。諦道先生。
鈴木先生は承句と転句の内容入れ替えと言われます。これは起句と承句および転句と結句を対として見た場合の相性の良さを言われるのだと思います。それならば私の腑にも落ちます。
しかし、それならば起句と結句の転置も一案と思います。この線で少し(長々と)話をさせていただきます。
先ず、現時点の結句。これは率直に「甘い」と言わせていただきます。転句まで書き進んでから、まとめあぐねましたね。私もよくやることです。この息遣い。ピンと来ます。上段と下段のつながりの弱さがあります。
これは鈴木先生の言うように他の句と比べればと言うことなのかもしれません。しかし下段の「麗」も「鮮」も「基準が定かでない」まま「言いっぱなし」です。それ以前の問題として「麗」と「鮮」は同じ意味にしか取れません。「麗色鮮」とは何なのでしょうか。句としての甘さは、あえてこのままでも構いませんが、ここだけは「景色鮮」程度には直していただく必要があります。
さて、この句を初めに持ってくるとします。何なのだと言う句でも、承句以下でしっかり説明されるのですから、一先ずは理にかなった手堅い位置が確保できることになります。
ここで私が目の色を変えてしまうような面白いことが起きます。これが一番言いたいことです。めったにあることではありません。注目下さい。この句を一番初めに置けば、この句としての甘さが読者の油断を誘うのです。先に指摘した息遣いの苦しさがこのように働くのかも知れません。結局は私の直感としか申し上げられません。しかしそのような何かが、この句には備わっていると思うのです。
この句以外に私が指摘できるような甘い句は一つとしてありません。私の直感が正しいならばですが、ここで油断させられた読者は承句以降押されつぱなしになります。からくりを見抜けるほどの読者ならば、むしろ喜んで身をまかせます。
現時点の起句は、最後に置いても転句との相性の良さもあり、含みを残して終わるような小粋さも得られると見ます。これはこれで申し分のない結句になるはずです。
怪我の功名とも言います。運も実力のうちとも言います。ここで私が提案したようなものは、狙って得られるものではありません。決して初めから狙おうなどとしてはいけないことです。しかしここで転がり込もうとしている運は、よく勉強された、しっかりした句作りのたまものなのです。そのようなものをしっかり見抜き、しっかり頂戴するのも実力です。
とは言えたかだか詩の事。手慰みにお試しいただければ良いのかと思います。お楽しみいただけるはずです。
最後に、私の提案したものと同じ駆け引きを梁川紅蘭の詩が持っています。紹介しておきます。きっとしたたかな女性だったのでしょうね。起句の「故臺」も「芳草」も、「基準が定かでない」まま「言いっぱなし」。よくよく見れば、先が思いやられるような甘い句なのです。
諦道先生の今後のご活躍、期待して止みません
記 芳草蝶飛圖 梁川紅蘭
故臺芳草罩烟霏 故臺の芳草烟霏を罩む
萬古青陵事巳非 萬古青陵事巳に非なり
愛此貞魂團不散 愛す此の貞魂團じて散ぜず
春風随處作雙飛 春風随處に雙を作して飛ぶ
敬具。
2004. 8.29 by 坂本 定洋
作品番号 2004-162
水亭聽蛙
午風水漲片雲輕 午風水漲り 片雲輕し
置酒江亭涼意盈 置酒す 江亭 涼意盈つ
鼓吹群蛙何訴奏 鼓吹す 群蛙 何をか訴へて奏す
相呼遠近曲池平 相呼ぶ 遠近 曲池平らかなり
<解説>
昼過ぎからそよ風が吹き 水は漲り ちぎれ雲が飛ぶ
孤亭で酒盛りをしていると涼しさが満ちてくる
多くの蛙が何を訴えて演じているのか
あちらこちらと相呼び 曲がった池は平和である
<感想>
これは何とも羨ましいことで、昼から酒盛りというのはいいですね。
私も先日、大学以来の友人と琵琶湖に遊びに行きました。近江八幡の近く、安土の辺りから水郷巡りということで昼食をとりながらゆったりと舟に乗ってきました。前夜に色々とあって睡眠不足だったため、舟で酔う前にビールで酔ってしまおうと勝手に決めて飲み始めたら、これが美味しいんですね。
お昼に飲むビールって、どうしてあんなに良い味なんでしょう。普段の日常では味わえないから、特別な思いもあるんでしょうね。ちょっと悪いことをしているような罪な味もしたりして、うーん、感動でした。
でも、酔いすぎて水に落ちることを心配しちゃったものですから、「酒盛り」までは行きませんでしたね。まだまだ未熟、これは乾杯、いや間違い、完敗です。
転句は「鼓吹」と「奏」が重なっています。日本語で言うと、「鳴いてる蛙はどうして鳴いているのか」ということですから、変な感じですよね。「訴奏」を他の言葉に替える方が良いように思います。
その際には、蛙を擬人化するわけですので、一工夫すると、結句の「平」につながるでしょう。例えば、そうですね、「鼓吹群蛙何告諭」などとすると、諧謔味が出るような気がします。
2004. 8.22 by junji
作品番号 2004-163
夏宵偶作
青青稲葉満田疇 青青稲葉 田疇に満つ
茜色斜陽映野溝 茜色斜陽 野溝に映ず
一陣晩風涼万斛 一陣の晩風 涼万斛
蛙声閣閣板橋頭 蛙声 閣閣 板橋の頭(ほとり)
<解説>
田んぼの水回りに行ったときに浮かんだ詩です。
ごくありふれた風景ですが日常生活の中から詩を作ることにつとめております。
<感想>
恵香さんは、今年の第89作、「晩春偶成」を投稿された知秀さんと同じ勉強会にいらっしゃるそうです。
お手紙には、
このページのことを知り、そのご批評がすばらしいので感動しております。
私どもは7年前に指導者を失いまして、その後も、少ない仲間内で何とか勉強会を継続してきました。
それなりに楽しいのですが、やはり専門家の方のご批評、ご指導をいただきたく投稿させていただきました。
と書かれていました。
頑張っていらっしゃるんですね、少しでもお役に立てるように私も努力しますので、お互いに頑張りましょう。よろしくお願いします。
詩を拝見しましたが、キャリアの感じられる落ち着いた詩ですね。
「夏宵」と来れば、やはり涼を求めることになりますが、何を配するかが詩としての勘どころですね。「晩風」に添えた「一陣」がよく利いています。
前半の恵香さんの一日の生活がふとうかがわれるような描写、それゆえに一層、一日を終えた時の「一陣晩風」が引き立っています。
その効果でしょう、結句の「板橋」なども涼味が出てますし、「蛙声閣閣」などにも同じ様な感じを持ちます。
仰られたように、ありふれた日常生活からの詩でしょうが、その中での感動を引き出すのが詩人の感性、他の方にも参考になる詩だと思いました。
2004. 8.22 by junji
作品番号 2004-164
苦熱
瘴氣蓋疲村 瘴気疲村を蓋い
蚊群制仄軒 蚊群仄軒を制す。
青天懷殺意 青天殺意を懐き
白日灼生根 白日生根を灼く。
數夏年増暑 數夏年に暑を増して
萬人齊滅魂 萬人斉しく魂を滅す。
豈能題苦熱 豈、苦熱に題する能うや。
宜待至秋門 宜しく秋の門に到るを待て。
<解説>
「人生腸断不能泣」(禿羊さん)。誠に勝手ながら、座右の銘とさせていただいています。
もう一つ勝手なことを言わせてください。せめて暑いのと寒いのだけは思いきり泣き言を言わせてください。
頚聯は私の実感です。地球温暖化なのだと思います。
尾聯の意は伝わるものかどうかは別として次のようなものです。「このような題の詩といえども、いくらかは涼しい間に書くに限るのです。無理は止めましょう。」
私のこのような提案を、世のみなさん全てに受容れていただけたら、本当にありがたいのですが。
<感想>
禿羊さんのこの「人生腸断不能泣」の言葉は、お孫さんが生まれた時の詩、「茲孫号泣」で使っておられましたね。私も心に残りました。何か、親父に諭されているような気持ちになります。
特に今年は夏の暑さがひときわ厳しかったことと、台風などの上陸も相次ぎ、豪雨による被害も大きかったので、尚更「異常気象」の感が強かったですね。
丁度その暑さが厳しくなる頃に坂本定洋さんからお手紙をいただき、「暑さに気をつけて無理をしないようにして下さい」とメッセージを送って下さったのは、本当に嬉しく、元気が出ました。「無理をしない」というのを病気以来守って来ているつもりなのですが、ついつい動いてしまうのが性格でしょうかね。
その割に掲載が遅いぞ、とお叱りを受けそうな気もしますが・・・・
さて、この詩では、鍵は尾聯の逆説的な表現でしょうね。「苦熱」という詩の中で「宜待至秋門」という面白さは、印象に残ります。「無理は止めましょう」というメッセージよりも、前半の「やれやれ、この暑さはたまったもんじゃないぜ」という気持ちがより強く出て、全体を引き締める聯になっているのじゃないでしょうか。
これがそのまま、「暑い、暑い」と続いていると、読む方もちょっと疲れますからね。
首聯は対句仕立てを狙ったのでしょうか、「瘴氣」と「蚊群」は対応が悪いですし、ここで「蚊群」と小さなものを出すのはどうでしょうか。まだここでは大きな視野を残した方が良いと思います。
2004. 8.25 by junji
拝啓。鈴木先生。
鈴木先生にそのように言われては失敗を認めざるを得ません。本当に私が書きたかったのは、全篇これ泣き言と言う詩だったのです。本当ですよ。
第二句については、対句仕立てを狙ってと言うより平仄を気にし過ぎたせいです。第六句四字めにも孤仄があるし、苦しい事を書いている詩なのですから、開き直って思うことを書くべきだったのだと思います。
平仄は一歩後退になりますが、とりあえず第二句は次のように改めることにします。
「火車嘗仄軒」(火車仄軒を嘗める)
2004. 8.30 by 坂本 定洋
作品番号 2004-165
不死鳥外科入院所感
終樂帰朝病頚椎 楽しみを終えて帰朝するや頚椎を病む
哀残左手涙殊垂 哀残たる左手に涙殊垂る
臥床身覚降霜早 臥床の身は覚ゆ降霜早きを
剣舞錬成諧孰時 剣舞の錬成孰(いず)れの時に諧(かの)ふや
<解説>
不死鳥外科=フェニックス外科病院
ハワイから帰国時エコノミー症候群から、無理な姿勢がたたり頚椎症と診断されました。現在は八割方は回復しています。
しかし、趣味の剣舞(詩吟に合わせて日本刀で舞う伝統芸能)は今も休んでおり、早く舞台に立ちたい思いです。
<感想>
大変なことでしたね。八割方は回復と言うことですので、ひとまずは症状も落ち着かれたということでしょう。私の治療経験でも、リハビリは辛抱強く、根気強くが大切ですね。ある程度のところまでは回復も早く、気分的にも盛り上がるのですが、だんだん目に見えてという変化が少なくなってくると、大切なのは気持ちです。
お書きになったように、「剣舞」の舞台をもう一度という希望がありますから、それを第一の目標にされると良いと思います。
私の場合は、「もう一度教壇で、生徒の前に立ちたい」という気持ちで、「話せること」と第一目標、「字が書けること」を第二目標として頑張りました。
暢気なことを言えば、入院していると詩が沢山書ける、と慰めてくれる人もいましたが、何よりも元気が大切ですからね。
「不死鳥外科」というのは「フェニックス外科」という病院名なんですね。
私は最初、サラリーマン金太郎さんがご自身のことを「不死鳥」と呼ばれたのかと思いました。「私は不死鳥の如く復活するぞ」という決意と読んだのです。固有名詞ですので、そのままカタカナ書きで構わないと思います。
起句の「終楽」は表現としては物足りないですね。「終に楽しみて」と読みそうです。「楽」以外の言葉の方が気持ちがよく伝わるでしょう。
完全な回復をお祈りしています。
2004. 8.25 by junji