昔日齷齪不足誇 昔日の齷齪 誇るに足らず
今朝放蕩思無涯 今朝 放蕩 思い涯(はて)無し
春風得意馬蹄疾 春風 意を得て 馬蹄疾し
一日看尽長安花 一日 看尽くす 長安の花
<通釈と解説>
今年は桜の開花が思ったよりも遅く、清明節のこの4月が丁度満開の桜となりそうです。
北海道有珠山の噴火に驚いていたら、何と首相の入院、内閣総辞職の決定(4/4現在)と、自然界も政界も大変動の年度初めとなりましたが、入学式、入社式、新しい世界に足を踏み出していく皆さんに、中唐の詩人・孟郊の『登科後』を贈りましょう。
自分で切り開いた新しい世界です。胸を張って、堂々と進んでいって下さい。
[口語訳]
合格前の、あの齷齪(あくせく)していた時のことは自慢にもならないが、
合格の今朝は のびやかな気持ちは果てしがない。
春風の中、得意満面、馬を風の如く走らせ、
一日で、長安の花の名所を全て見てしまおう。
「推敲」の故事を生んだ賈島と並んで、苦吟型の詩人の代表とされる孟郊が科挙に合格した時の作です。
孟郊は、科挙に合格したのが46歳の時とされています。何度も試験に落ちた辛い経験が、逆に合格時の得意・幸福の絶頂を一層際立たせていますね。
科挙の合格者は、発表の日に、長安の金持ちの家のどこでも入ることが出来、自慢の庭園を自由に見学できたそうです。
落第した時の悲しみの詩に比べると、本当にうれしそうな作者の気持ちが伝わってきます。
新入生、新入社員の皆さん、「得意満面」で良いですから、新しい世の中への旅立ちは、笑顔を忘れずに進んで下さい。
落尽残紅始吐芳 残紅落ち尽くして 始めて芳を吐く
佳名喚作百花王 佳名喚びて 百花の王と作す
競誇天下無双艶 競ひ誇る 天下無双の艶
独占人間第一香 独り占む 人間第一の香
<通釈と解説>
いよいよ春の季節もこの「穀雨」の節気を最後とし、まさに晩春の景。最後を飾る花として、「二十四番花信風」では「穀雨」の第一候の花に牡丹が出されています。牡丹を詠った詩も沢山ありますが、晩唐の皮日休の詩で今回は楽しみましょう。
[口語訳]
春の名残の花が全て散った後に咲き始め、
素晴らしい名は、「百花の王」と呼び讃えられる。
「天下に並ぶものの無い」あでやかさを誇り、
「この世で最も香しい花」の名を独り占めしている。
唐の高宗の皇后である則天武后が牡丹を愛して以来、世の人々に牡丹が賞美されるようになったとのことですが、
自李唐来、世人甚愛牡丹。 李唐よりこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
菊華之隠逸者也。 菊は華の隠逸なる者なり。
牡丹華之富貴者也。 牡丹は華の富貴なる者なり。
蓮華之君子者也。 蓮は華の君子なる者なり。
(周敦頤『愛蓮説』)
と語られ、また、
花開花落二十日 花開き花落つること二十日、
一城之人皆若狂 一城の人皆狂へるが若し
(白居易『牡丹芳』)
と詠われています。
日皮休のこの詩は、「百花王」「天下無双」「人間第一」と最上級の形容を三つも重ねて、ここまで言われれば牡丹も満足ではないか、と思いますね。
そう言えば、李白も楊貴妃の美しさを牡丹に喩えていました。
坐酌泠泠水 坐して酌む 泠泠の水
看煎瑟瑟塵 看て煎る 瑟瑟の塵
無由持一 一を持して
寄与愛茶人 茶を愛する人に寄与するに由無し
<通釈と解説>
「夏も近づく八十八夜」と唱われますが、その「八十八夜」は五月一日でした。
「若葉」「茶摘み」と、初夏の風物詩が盛り込まれた、いかにも日本の歌という印象ですが、漢詩の方では立夏のお薦めとして、緑茶が言葉として詠い込まれた白居易の『山泉煎茶有懐』を選びました。
[口語訳]
(山の中で)ゆったりと坐って清く澄んだ水を酌もう。
目の前で、濃い緑のお茶をたてよう。
この一杯を茶を愛する人に持って行って
飲ませてあげたいのだが、その術も無いことよ。
中国では「清明」の頃に既に一番茶の茶摘みが行われるそうですが、日本ではこの季節に摘まれて出来上がったお茶が「新茶」ですね。
緑に囲まれた静かな山中、清冷な水がわき出る泉のほとり。ゆったりとした時の流れの中で、新緑よりも一層濃い翠緑のお茶をたてる。
独り占めしたくなる贅沢な一時。こんな素敵なお茶はここでしか飲めないよ。飲みたかったらここまでおいで。
そんな白居易の得意そうな大声が聞こえてきそうです。
でも、どんな美味しいご馳走でもお酒でも同じことで、時と場所に巡り会ったが故にこその「美味しさ」があるはずです。今、ここでしか味わえない素晴らしさ、人と人が一期一会であるように、人とお茶も一期一会、「飲みたかったらここまでおいで」、これがやはり大正解なのかもしれませんね。
清晨入古寺 清晨 古寺に入れば
初日照高林 初日 高林を照らす
曲径通幽処 曲径 幽処に通じ
禅房花木深 禅房 花木深し
山光悦鳥性 山光 鳥性を悦ばしめ
潭影空人心 潭影 人心を空しくす
万籟此倶寂 万籟 此に倶に寂たり
惟聞鐘磬音 惟だ鐘磬の音を聞くのみ
<通釈と解説>
夏の気配も次第に深くなり、午後になると汗ばむ日も多くなりました。
初夏の木々の葉も、濃く淡く、様々な緑色に彩られ、「爽やか」という言葉が本当にふさわしい季節ですね。
今回の推薦詩は、盛唐の常建の『破山寺後禅院』、名山を訪ねて放浪の人生を送った詩人ですね。
[口語訳]
すがすがしい早朝、古びた寺の境内に入ると
上ったばかりの陽の光が、高い梢を照らし始めた。
竹の小径は、奥深い静かな場所に通じ、
禅の部屋は、花をつけた木々に囲まれている。
(照らされた)山の光は、鳥の心を喜ばせ、
(反射する)淵の水の光は、人の心を雑念を捨ててくれる。
すべての物音はここでぴたりと止み、
ただ聞こえるのは、寺の鐘と磬の響きだけだ。
「磬」は、勤行に用いる石の板、「鐘」と併せて時を告げるものです。
この詩は、『唐詩選』『三体詩』『唐詩三百首』の全てに収載されていることからも分かりますが、盛唐の時代の詩とは少し趣の違うもの、どちらかと言うと宋詩のような雰囲気を持ち、多くの人に愛されてきた詩です。
首聯(第一聯)の対句は、山寺の朝を描いて、本当に爽やかな空気を感じさせます。頷聯(第二聯)が対句になっていないので(「偸春体」)、やや中央部が弱く感じますが、尾聯(第四聯)に来て、静かな禅院の画面が一気に完成されます。
何も音がしない静寂を表現するのは、古来から詩人が工夫を凝らすところです。
私たちに馴染み深いのは、例えば、芭蕉の、
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
の句や、齋藤茂吉の、
死に近き母に添い寝のしんしんと
遠田のかはづ天に聞こゆる
などの歌が、頭に浮かぶと思います。
蝉の声がうるさいのだが、その蝉の声以外には何も聞こえてこない、だからこそ静寂が深まるのだし、遠くの蛙の鳴き声が聞こえてくるということで辺り一帯の静寂を伝え、母の死を受け止めねばならない茂吉の悲しみが一層際立って来ます。
この常建の詩でも、第7句の「全ての物音(万籟)」に対するに、ただ「鐘磬音」だけが聞こえる形で、静寂を一層強めています。
注意深く使われている「倶(ここでは、一斉にという意味)」や「惟聞」の字句も、効果的ですね。
乳鴨池塘水浅深 乳鴨の池塘 水は浅深
熟梅天気半晴陰 熟梅の天気 晴陰半(なか)ばす
東園載酒西園酔 東園に酒を載せて 西園に酔ひ
摘尽枇杷一樹金 摘み尽くす 枇杷一樹の金
(下平声「十二侵」の押韻)
<通釈と解説>
そろそろ梅雨入りの声も聞かれるようになり、夏も暦の上だけではなく、本格的な暑さを感じさせる日も多くなってきましたね。
6月初めの『お薦め漢詩』は、(南)宋の戴復古の詩を読みましょう。
[口語訳]
子育ての鴨の親子が群れている池、浅い所や深い所、
梅が熟しかけたこの季節、天気は晴れるかと思えばまた曇る。
庭の東で酒を船に満たしては、庭の西で酔っぱらい、
枇杷の実を、全部摘み取ってしまったよ。
南宋の戴復古、陸游に師事して詩を磨いたそうです。一生仕官をせず、諸国を放浪して詩を売り歩く「職業詩人」の人生を貫いた人です。
彼が七十歳の時の詩「市舶提挙管仲、登飲于万貢堂有詩」の冒頭、
七十老翁頭雪白 雪のような白髪の七十のじいさん
落在江湖売詩册 世の中に落ちぶれ詩を売り歩く。
平生知己管夷吾 永い友人の管夷吾のおかげで
得為万貢堂前客 万貢堂の門前に身を寄せられた。
嘲吟有罪遭天厄 棘のある詩で朝廷の罪を得てしまい
謀帰未弁資身策 故郷に帰る金も無い。
鶏林莫有買詩人 詩を買ってくれる商人がいるかしら
明日煩公問蕃舶 明日外国船に尋ねてくれないか。
自嘲的なニュアンスが漂いますが、でも、そこにある種の居直りのようなたくましさも感じられます。
また、八十歳の時には、「歳暮書懐寄林玉渓」という詩で、
吾年幾八十
暮景不勝斜
老鶴猶能語
枯梅強作花
一心為死計
無意問生涯
有酒時相過
東隣八九家
と、老いの心境を「心はただ、死ぬことばかりを考えている/自分の生涯を振り返っても何の感興も無い」と語っています。
この詩でも、特に頷聯の表現などには、「枯れても老いても、まだまだ詩を詠うことはできるぜ」と作者がニヤリと笑っているように私には感じられます。
私の家の梅の実も、少しずつ黄色く熟してきました。梅雨の鬱陶しい季節も、この詩のように、あるいは彼のように、カラリと生きていきたいものですね。
緑樹陰濃夏日長 緑樹陰濃かにして 夏日長し
楼台倒影入池塘 楼台影を倒まにして 池塘に入る
水晶簾動微風起 水晶の簾動いて 微風起こり
一架薔薇満院香 一架の薔薇 満院香し
<通釈と解説>
衆議院選挙もこの日曜日に終わり、世の中も政局もいよいよこれから動きが始まるようです。
公的な役職であると知りながら時代錯誤的な発言を繰り返す、配慮の一つも出来ないような人物でありながら、その程度の人しか首相に選べないというこの国の政治の姿に、あきあきした人も多いのでしょう。
梅雨はまだ、私の住む地域では明けていませんが、晴れ間にのぞく陽光にはすっかり真夏の烈しさが見えます。
ようやく、なのか、とうとうなのか、あまりにも有名すぎて推薦するのも恥ずかしいくらいですが、今月は、晩唐の高駢の『山亭夏日』を読みましょう。
[口語訳]
樹々の木陰は緑が濃く、夏の日差しは長い。
池畔の高楼はその影を逆さまに池に映している。
水晶の簾がサラサラと動いて 微かな風が起こり、
薔薇の棚からの香りが庭一面にたちこめている。
愛され続けているこの詩ですが、あらためて読み返してみても、確かに心に残る詩ですね。
夏という季節はなかなか詩になりにくく、夏の美しい景色、と言われても具体的に「これ!」とすぐに頭に浮かばないのですが、この詩では明確に、緑の樹陰や池に映る影を表出しています。
しかも、実は語っているのは逆の内容で、石川忠久氏の言葉を借りれば、
「緑の樹の陰が濃い、ということは、それだけ日ざしが強いこと。ギラギラする太陽の下、黒々と樹が陰をつくる。楼台の影が池に映っている、ということは、水面に波が立たない、風がそよとも吹かぬこと」
となります。
転句で吹き始める微かな風、それを引き立たせる起承句の静寂、巧みな構成の詩ですね。
作者高駢は、晩唐、黄巣の乱で一旗あげた先祖代々の武人、最期は謀反を疑われて部下に謀殺されるという劇的な経歴の人ですが、この詩を通してはとてもそんな風には見えませんね。
あくまでも繊細な感覚を通して描かれたこの詩は、詩人の隠れた感性を描いたのか、作者を離れて愛されているのでしょうか。