作品番号 2003-91
梅雨偶成
閑人終日坐幽軒 閑人終日幽軒に座す
細雨霏霏懶出門 細雨霏々として門を出ずるに懶うし
抛巻午眠傾国夢 巻を抛り午眠し傾国を夢む
軽羅忽散酌残樽 軽羅忽ち散じ残樽を酌む
<解説>
社会人になってからはあまり暇な思いをした記憶がないが、中国の古人の事を想像して軽い冗談の積りで作った一編です。
<感想>
梅雨の鬱陶しい一日、出かけるのも面倒だし、昼間っから一杯飲んで寝ることにしよう。
古来からの、勤め人達の憧れの生活を詠んだ詩ですね。うーん、私もうらやましい気持ちになりますよ。全体的にも、何となくけだるげな言葉が続いていて、テーマをしっかり表しているでしょう。
気になる点としては、承句の「懶出門」でしょうか。
内容としては、起句と承句が逆ならば、まず「雨がしとしと、門を出るのも億劫だ」とまず述べ、「だから、暇な私は一日中ひとりで軒端に座っている」と流れます。これなら原因結果が明確で、そう問題はありません。
ところが、お書きになったような順番ですと、「私は暇で、一日中軒端に座っている」ことがまずあり、「特に今日は雨がしとしと、外に出るのも嫌だ」と添加の働きになります。これも間違いではありませんが、もう既に「一日中坐っている」ことは言っていますので、「懶出門」がくどい感じがします。
起句承句の内容を入れ替えるか、承句の下三字を情景を表す言葉にして「叙景」にまとめると良いと思います。
転句は「傾国夢」の読み下しを「傾国の夢」としておいた方が良いでしょう。ここだけでは「美しい女の人でも出てくる夢かな」と思わせるくらいですが、次の「軽羅」でやや艶めかしくなるでしょうか。
結句は、そうなると「軽羅忽散」が「夢から覚めた」ということで、「忽」が入っていますから、「楽しい夢からはすぐに覚める」ということでしょう。
ここもやや回りくどい気がしますが、話は一応理解できます。ただ、夢の内容を伝えるのがこの詩の主題ではありませんから、「目が覚めた」と言うだけのために結句の四字を使うのは考え物。
「酌残樽」の「残」の字が生きていますから、もう少し深みのある結末でも良いと思います。
2003. 5.12 by junji
私はなんの問題もない作品だとおもいます。わるくいえば可もなく、不可もなし。まずは無難にまとまっているという感じです。
結句は技巧的で好いとおもいます。措辞叙述には問題なく、作詩経験の豊富なかただとおもいます。少し物足りないかんじもします。
桐山堂さんの「もう少し深みのある結末でも良いと思います」という感想については、私も同感です。
詩に余韻が無いように感じがします。読者に詩人の心情をを想像させる余地がすくなく、直置的な叙述でおわっています。
閑人終日坐幽軒 閑人終日幽軒に座す
細雨霏霏懶出門 細雨霏々として門を出ずるに懶うし
抛巻午眠傾国夢 巻を抛り午眠し傾国を夢む
羞将宰我賈箴言 羞らくは将って 宰我が箴言を賈うを
では少し俗にすぎますでしょうか。(「宰我」:孔子の弟子 宰我昼寝・・・論語公治長)
2003. 5.15 by 謝斧
「初めまして!
パソコンも漢詩も手を染めてから日なお浅く、どちらもよちよち歩きでお恥ずかしいことですが、敢えて拙作を投稿させていただきました。
どうか宜しくご叱正ください。」
作品番号 2003-92
賞公園桜花
春陽梢映翠明鮮 春陽 梢に映じて 翠 明鮮たり
園径桜花正競妍 園径の桜花 正に妍を競う
觴酌芳筵無興尽 芳筵に觴酌して 興 尽きる無く
池頭酔歩赤灯煙 池頭を酔歩すれば 赤灯 煙れり
<感想>
はじめまして。新しい漢詩の仲間を迎えて、とてもうれしく思います。今後ともよろしくお願いします。
詩を拝見しまして、平仄の上で気になったのは、四句とも一字目が平字であることです。リズムに変化を付けるためにも、仄字とのバランスを考える必要があります。
ここでは、語句のわかりやすさも考えて、承句の初めを「満径」「満路」とすれば落ち着くでしょう。
語句のことでは、まず、起句の「梢映」が語順が逆であること、「翠」が何を指すのか、分かりにくい点が気になります。
ここがはっきりしないと、承句の「競妍」が、桜同士が「妍を競っているのか」、「翠」と桜が競っているのか、それによって目に浮かぶ風景が違ってきますね。
転句の「無興尽」も「興無尽」の方が良いでしょうし、結句の「赤灯」も「紅灯」でしょう。
結句については、「赤灯煙」は「赤灯 煙れり」と読まず、「赤灯の煙」と読む人の方が多いと思いますが、さて、そもそも「赤い灯が煙っている」というのは何のことなのか、このままでは、火事でも起きたのかと思います。
恐らく、春霞でおぼろに見えたか、酔眼で朦朧としたか、ということでしょうが、「煙」は表現が直接的すぎたのでしょうね。
もともとは統一感のある優しい趣の詩ですので、以上の点を直されると、良い詩になると思います。
2003. 5.12 by junji
「無興尽」について、
いつもおもうことですが、「無興尽」は無駄ことばと感じています。
テレビの料理番組で、料理の感想を単においしかったで済ますのを嫌うのと同じことに思われます。
詩人がなぜに「無興尽」と感じたかを叙述するのが詩ではないかと思うからです。
2003. 5.15 by 謝斧
作品番号 2003-93
春雨
深更雪点在園粧 深更の雪は点在して園を粧う
冷雨随風漸勢喪 冷雨は風に随って漸く勢いを喪い
暫溢泥庭今地滲 暫く溢れていた泥庭も今は地に滲みこんで
春花根潤静時望 春花の根を潤して静時を望む
<解説>
「私の4作目」です。
昨夜遅くに降った雪が今朝庭の処処に消え残っていて庭を飾っていた。
冷たい雨も風が吹き出すにつれて小降りになった。
暫く雨水が溢れていて泥状態だった庭も今は殆ど地に滲み込んで、
春花の根を潤して、咲く時期を待ち望む。
3月7日の雨の日に何回か庭のテラスで眺めた状景を、流れに従ってコマぎれビデオの感じにまとめてみたつもりです。
雨は夕方過ぎには、やっと止み夜は星空となりました。
こんなに降ったのは今年初めてです。
<感想>
一陽さんの作品でも語順が気になるところがいくつかありますので、まとめましょう。
漢文法では、述語と目的語の順番が日本語と逆になる、ということを以前に書きましたが、もう少し簡単に言えば、「○○ヲ」「○○ニ」「○○ト」という形になったら動詞の後ろに来ると言うことですね。
この辺りは英語と同じです。
あなたを( YOU ) 愛しています( LOVE )という場合には、 ( I ) LOVE YOU とするようなものです。
「ヲ・ニ・ト」が来たら要注意と思ってください。
この詩では、「園粧」「勢ヲ喪」「地ニ滲」「根ヲ潤」「時ヲ望」が逆になっています。
もう一つ、気を付けることは、句の切れ目を「○○ ○○ ○○○」という形で、「二・二・三」にすることです。一陽さんの今回の詩では、起句が崩れていますので、非常に読みにくくなっています。
内容としては、起句で「雪が残っている」ことと、承句の「雨が降り続いた」ことが結びつきません。雨が降れば雪は融けるものと思いますが・・・・
また、結句からの「溢」「滲」「潤」の行為の主語である「水」が省略されているため、何がどうなっているのか分かりにくい状態です。
泥状態の庭から地中へ、更に草花の根を潤わすところまで見通す視点は面白いと思いますので、以上の点を考慮されて、組み直してみたらいかがでしょうか。
2003. 5.13 by junji
作品番号 2003-94
探春醉歌
迂儒走肉老塵喧, 迂儒は走る肉のごとくに塵喧に老い,
樗散行尸負日暄。 樗散は行(ある)く尸(しかばね)のごとくに日暄を負う。
帶酒花間聽鶯語, 酒を帯びて花間に鶯語を聴けば,
流涎醉梦問仙源。 涎(よだれ)を流して醉夢に仙源を問わんとす。
天人泳處天如水, 天人泳ぐところ天は水のごとく,
風漢吟時風永言。 風漢吟ずる時に風は言を永くす。
化蝶游魂飛碧落, 蝶と化して魂を遊ばし碧落に飛び,
含靈振翅亂紅翻。 霊を含んで翅を振るい乱紅に翻(ひるが)えらんと。
(上平声「十三元」の押韻)
<解説>
お花見の醉歌です。
「天人泳處天如水,風漢吟時風永言。」は馬鹿馬鹿しい句かも知れませんが、わたしなりには、書けて良かったと思える対聯です。
また、「化蝶游魂飛碧落,含靈振翅亂紅翻。」は、作者としては、風に吹かれて舞う花びらの様子に酔う心を描写したつもりですが、そういう風には書かれていないというご批判もあるかも知れません。仙境に遊ぶ夢魂と解釈していただいても結構かと思います。
[語釈]
「迂儒・樗散」 | :迂儒は世情にうとく役に立たない学者。樗散は単なる役立たず。 |
「走肉・行尸」 | :走る肉と歩くしかばね。ただ生きているだけでなんの役にも立たない者。 |
「負日暄」 | :日の暄(あたたか)きを負うと読み下すべきかも知れません。 要するにひなたぼっこのこと。 |
「天人」 | :天女 |
「風漢」 | :気が違った男。 |
「永言」 | :詠じる。書経舜典に「詩言志。歌永言声依永。」とある。 |
<感想>
首聯を読むと、思わずドキリ、自分の身につまされて考えてしまいました。鮟鱇さんの厳しい眼が私に向けられているのかしら。
頷聯に進んで、少し安心しました。うん、これは鮟鱇さん自身のことだな、と。
こういう気持ちというのは、そうですね、例えば古くはベトナム戦争の従軍カメラマンが撮影した戦場写真を眺めた時、最近ではイラクでの戦闘のリアルタイムの報道を茶の間で眺めている時、映し出されている画面の悲惨さに眼を奪われているけれど、それでも自分は直接その場で被害を受けてはいないというある種の安心感、そんな感じでしょうかね。
しかしながら、安全な場所に自分はいるとしても、そうした場面を眺めることで自分の心はやはり傷ついているのですよね。それは、まさに文学のもたらす体験、芸術作品を味わう意義でもあるでしょう。
インパクトの強さ、訴える内容の深さ、どちらも必要ですが、鮟鱇さんのこの詩は十分ですね。
頸聯は対句として読むと今一ピンとこないのですが、それぞれの句を独立して読むと、味わい深いですね。このまま禅寺の掛け軸になりそうな、そんな風格さえあります。
ただ、詩全体の中での働きという点で、作者の意図が分かりにくい感じがします。要するに、「花に酔い、酒に酔い、自然にとけ込んでいく陶然とした気持ち」を表したのでしょうか。
2003. 5.17 by junji
作品番号 2003-95
新秋書感
蛍火乱飛蒼海潯 蛍火乱れ飛ぶ蒼海のほとり
星辰早没夜初深 星辰早に没して夜初めて深し
清風玉露輕衫爽 清風玉露輕衫爽やかに
獨楽酒肴還放吟 獨り酒肴を楽しみ還(ま)た放吟す
<解説>
星が消えるからこそ蛍が生かされる。
<感想>
昨年の秋に出来上がった作品でしょうね。掲載をもう少し遅らせようか、とも思いましたが、忘れてしまうといけないので、ここで掲載することに決心しました。
投稿をいただいたメールでは、結句が「楽酒肴獨還放吟」となっていましたが、これは平仄から見てもおかしいですので、掲載のように順序を入れ替えました。
「蛍」を題材にした詩は、「三体詩」に多く採られていて、「唐詩選」にはほとんどありません。これはどういう理由なのか正確なところは分からないのですが、蛍のか弱く繊細な光は、晩唐の詩風に合うと言えるでしょうね。
蛍の詩で私のお薦めは、晩唐の鄭谷の「贈日東鑑禅師」でしょう。結句の末三字の表現には、私は思わず「参った」と感激した詩ですね。
故国無心渡海潮 故国 無心にして 海潮を渡る
老禅方丈倚中條 老禅の方丈 中条に倚る
夜深雨絶松堂静 夜深く 雨絶え 松堂静かに
一点山蛍照寂寥 一点の山蛍 寂寥を照らす
作品番号 2003-96
春日偶成
二月草堂春又還 二月草堂 春又還り
看梅掻癢意蕭閑 梅を看 癢を掻いて 意 蕭閑たり
南簷欲借麻姑爪 南簷 借りんと欲す 麻姑の爪
墜玉如粧公主顔 墜玉 粧うが如し 公主の顔
花裏生愁娯甚少 花裏 愁い生じて 娯しみ甚だ少く
榻辺抱疾薬唯殷 榻辺 疾を抱いて 薬唯だ殷んなり
荒庭不掃草重畳 荒庭掃わず 草重畳
窓納淡煙山外山 窓には納る淡煙 山外の山
[語釈]
「公主顔」 | :宋の武帝の女 寿陽公主 5月7日の人日に彼女が含章殿の梅の木の下で眠っていたら、梅花が散りその一片が彼女の額について離れなくなった。 梅花粧として宮人皆これにならったという。 |
<感想>
まず句の構成を確認しないといけないようですし、順を追って確認しましょうか。
第二句の「掻癢」は、四字熟語の「隔靴掻痒」の「掻痒」と同じで、「かゆいところを掻く」という意味ですが、「麻姑掻痒」という故事もあり、こちらの場合には「かゆいところを掻いて気持ちが良い」と後半の意味が強くなります。
ここでは、第三句に「麻姑爪」がありますので、「麻姑掻痒」を連想させ、「気持ちがよい」と言っているのだろうと思いましたが、そうすると、「意蕭閑」とつながらないようですから、ひとまず、実際に痒いところを掻いたという意味かな、としました。
第三句と第四句は、構成から見てみますと、第三句の「欲借」の主語は詩人なのでしょうが、第四句の「如粧」の主語は「墜玉」、つまり「ハラハラと落ちる花びら」ではないでしょうか。
あるいは、「墜玉」は「はなびらが落ちる様子」を言うのだから、「如粧」を修飾しているのだとも言えますが、それでも第三句の「南簷」の場所を表す語と対にはなりにくいでしょう。
また、「梅」について書かれているのが第二句、第四句、第五句、そうなると「梅」のことが書かれていない第三句が前後の句とどうつながるのか、その役割がはっきりしないように思います。
その「梅」についても、散っている様(「墜玉」)と言うのか、咲いている様(「花裏」)を言うのか、第七句の「不掃」は散った花を掃くのだと思うのですが、「草重畳」では掃くにも掃けないでしょうし、どうもそのあたりの不統一感が構成を分かりにくくしているのではないでしょうか。
典古も詩の中で突出しているような印象ですので、私の解釈の足りない所を補っていただけると良いかと思います。
2003. 5.19 by junji
鈴木先生の感想に合わせて書きます。
第二句の「掻癢」は、四字熟語の「隔靴掻痒」の「掻痒」と同じで、「かゆいところを掻く」という意味ですが、「麻姑掻痒」という故事もあり、こちらの場合には「かゆいところを掻いて気持ちが良い」と後半の意味が強くなります。
ここでは、第三句に「麻姑爪」がありますので、「麻姑掻痒」を連想させ、「気持ちがよい」と言っているのだろうと思いましたが、そうすると、「意蕭閑」とつながらないようですから、ひとまず、実際に痒いところを掻いたという意味かな、としました。
作者に確認したわけではないのですが、私の感じたところを述べさせていただきます。
「麻姑掻痒」を連想させ、「気持ちがよい」ではあまりにも此の詩を矮小化しています。
此の句は最初の句「春又還」で詩人の感慨を読者に訴えかけています。
今年も去年と同じく春はやってきましたが、去年とは、私の気持ちははるかに悲しみが深いのです。
なぜならば、去年ならば、背中が痒ければ、掻いてくれるものもいたのですが、いまは私独りで誰もいないので、麻姑爪を借って、独り掻くのです。
私独りなので、ゆっつくりできるのですが、なんとなく物寂しいかんじがします。
というのが「意蕭閑」の意味だと私は理解しました。(言外の意)
第三句と第四句は、構成から見てみますと、第三句の「欲借」の主語は詩人なのでしょうが、第四句の「如粧」の主語は「墜玉」、つまり「ハラハラと落ちる花びら」ではないでしょうか。
あるいは、「墜玉」は「はなびらが落ちる様子」を言うのだから、「如粧」を修飾しているのだとも言えますが、それでも第三句の「南簷」の場所を表す語と対にはなりにくいでしょう。
此れは作者自身の説明があり、少し引っ付きがわるいが、ということでしたが、どちらも従属関係で、古人の作例もあるのではないかということで好しとしました。
「南簷」は南にある簷で、「墜玉」は墜ちてゆく花びらで少し無理がありますでしょうか。
また、「梅」について書かれているのが第二句、第四句、第五句、そうなると「梅」のことが書かれていない第三句が前後の句とどうつながるのか、その役割がはっきりしないように思います。
その「梅」についても、散っている様(「墜玉」)と言うのか、咲いている様(「花裏」)を言うのか、第七句の「不掃」は散った花を掃くのだと思うのですが、「草重畳」では掃くにも掃けないでしょうし、どうもそのあたりの不統一感が構成を分かりにくくしているのではないでしょうか。
「不掃」は、掃くにも掃けないではなく、なにもする気にはなれなく、荒れはてたままにしていると理解しています。
此の詩の主題は梅ではないと感じています。
奥さんをなくした、病翁のなににつけてもやる気のなくなった心情を叙述したものとおもいますが(梅 公主顔には何か示唆暗喩するものはあるかもしれませんが、善く分かりません)
典故も詩の中で突出しているような印象ですので、私の解釈の足りない所を補っていただけると良いかと思います。
此の事は私も同感です。なにか深い意味があるのか、作者にきいてみたいとおもいます。
2003. 5.23 by 謝斧
作品番号 2003-97
餞春有感
萬紫千紅半作塵 萬紫千紅 半ば塵と作り
東皇將去餞徂春 東皇將に去って 徂春を餞る
雲開嶺嶂江山改 雲開きし嶺嶂 江山改まり
雨潤郊原草木新 雨潤いし郊原 草木新し
堤上花飛飛送客 堤上の花飛 飛びて客を送り
林邊鳥語語留人 林邊の鳥語 語りて人を留む
鶯愁蝶怨堪惆悵 鶯愁蝶怨 堪だ惆悵し
看盡詩翁獨愴神 看盡せし詩翁 獨り神を愴む
<感想>
一読、「春愁」を感じさせる、統一感のある詩だと思いました。
作者の工夫が頸聯の同字の名詞と動詞の使い分けにあるのはよく分かります。ただ、「鳥語語」の方は納得できるのですが、「花飛飛」の方は疑問が残ります。
それは、「花飛」という言葉が聞き慣れないからでしょう。よく使われる「飛花」の語順を逆にして、「花が飛ぶこと」としたのでしょうが、不自然ですし、意図が露わなように感じます。
また、第一句の「萬紫千紅」や第七句の「鶯愁蝶怨」などの対句が生きている分、頸聯の同字重複がくどいようにも見えますね。
2003. 5.19 by junji
作品番号 2003-98
五稜郭
五稜城郭渡薫風 五稜の城郭薫風渡る
躑躅繞濠花若虹 躑躅濠を繞り花虹の若し
未醒戊辰腸断恨 未だ醒めず戊辰、腸断の恨み
杜鵑一叫震林叢 杜鵑一叫林叢を震わす
<解説>
五稜郭は明治1-2年旧幕臣榎本武揚等が官軍と戦った所。戊辰戦争最後の戦いで土方歳三等が戦死した。
今は公園になっていて、周囲は都市化してホトトギスも聞かれないかも知れない。
春は桜、その後躑躅が咲きます。
<感想>
今回の詩では、固有名詞をどこまで使うかが鍵でしょうか。
例えば、題名で「五稜郭」と詠っていて、更に起句の冒頭で「五稜城郭」と来るのは少し気になります。それでも、ここは題名と内容は別物と考えれば良いでしょうが、更に転句で「戊辰」と来ると、明らかな強調になります。
そうした強調をする必要があるかどうか、だと思います。
もう一つは、具体的なイメージを浮かべにくい言葉の使い方。
例えば、承句の「花若虹」は、花がどうなっていたのでしょうか。色が七色(七層)に広がっていたのか、花の咲いている形が虹のように橋形だったのか、読者に色々な想像をさせて楽しいとも言えますが、どちらかと言えば、作者の思いこみのような気がします。
もちろん、「花を虹のようだと思った」という発想は作者独自のものであり、その取り合わせの面白さを詠うのも詩の役割ですが、それを十分に伝えているかどうかは作者の責任でもあります。そのあたりが比喩表現の難しいところですね。
用語の点では、転句の「未醒」についてですが、「恨みが醒める」という言い方はあるのでしょうか。「解く」「銷す」などならば滑らかですが、「醒」ですと飛躍がありそうですね。
結句は全体を締めくくり、「杜鵑」の声を配したことが効果的だと思います。
2003. 5.20 by junji
作品番号 2003-99
浅春
夜半於柔雨湿微 夜半よりの柔らかい雨は微かに湿って
草桜花片露猶輝 桜草の花片に露は輝くと云えど
山桃暗葉繁残侭 山桃は暗い葉の繁みを残せし侭
端境浅春彼岸飛 端境の浅春に彼岸飛ぶ
<解説>
冬の名残の暗さと春の明るさとの対比を表現したかったのですが。
庭の山桃(大樹なんです)の葉の色は青黒く・・・・3月は寒かったからですね・・・・それに比べて桜草は盛りに近いくらいです。
今回で5作目となりましたが、不安ばかりがつのります。
助字のポジションの可否も含めて「添削」をよろしくお願いします。
<感想>
助字のポジションということですが、「於」が気になるのでしょうか。結論から言えば、この字は不要です。「より」という始点を示したかったのでしょうが、詩の場合にはほとんど使いません。また、もし使うならば、前に置きますので、「於夜半」とすることになります。
転句の末字の「儘(侭)」は、恐らく「まま」と読んでおられるのでしょうが、この字を「まま」と読むのは日本語の用法で、漢詩では「ことごとく」とか「まかせる」の用法になります。
言葉として、漢詩にふさわしくないのは、「柔雨」「桜草」「端境」など。これらは日本語用法ですので使うべきではないでしょう。
起句は「夜来細雨○○微」(夜来の細雨 ○○微かにくらいで作り始めてみるとどうでしょうか。(○○は適当な語句をお考え下さい)
転句は、「残侭」のニュアンスを生かすためには、「猶残」などを句の前の方に持ってくるとよいでしょう。
結句は「彼岸飛」が何のことを言っているのか、これは解釈に困りました。
特に結句の「端境」については、和臭であることもそうですが、何よりもこの言葉が詩の主題なのであり、目に見える自然の景物から「季節の変わり目」を感じ取ったことが感動の中心、それをあっさりと「端境」としたのでは、詩の面白さが半減ですよ。
2003. 5.20 by junji
作品番号 2003-100
回故郷 集句
葡萄美酒夜光杯, 王 翰 「涼州曲」
少小離家老大回。 賀知章 「回郷偶書」
白狼河北音書断, 沈全期 「獨不見」
黄竹歌声動地哀。 李商隠 「揺池」
孤城背嶺寒吹角, 劉長卿 「至鸚鵡洲望岳陽」
落葉添薪仰古槐。 元 槙 「遺悲懐」
千載琵琶作胡語, 杜 甫 「詠懐古蹟」
暫憐團扇共徘徊。 王昌齢 「青信怨」
<解説>
集句を一首投稿します。読みは原玉に倣ってください。韵と平仄は、中華新韵に依って居ます。(現代の中国普通話の発音と韵を基準にしています。古典の発音と古典の韵では有りません)
これを機会に集句の作品を募っては如何ですか?
猶、集句の作例は、 小生のPage に幾つか掲載されています。ご参照下さい。
<感想>
何となく「おいしい所取り」という感じの面白さですね。
こうした集句の楽しみ方は、中山さんの漢詩の知識を土台にしてのものでしょうが、読む方も同じ知識が求められるわけで、共通の教養を確認しあいながら選び出すという知的遊戯は、平安時代の貴族が好んだコミニュケーションに近いかもしれませんね。
紹介しますので、興味を持たれる方は中山さんのPageを是非ご覧になって下さい。
2003. 5.21 by junji
作品番号 2003-101
陶杯共思春日愁 陶杯と共に春日の愁いを思う
春酣時序感淒哀 春酣 時序にして淒哀を感ず
握掌蒐羅昵比杯 握掌するは蒐羅昵比の杯
土性火燎生此器 土性と火燎は此の器を生ず
酒光野趣得心開 酒光は野趣にして心開を得る
<解説>
春がたけなわとなり、世間は賑やかになったように思えます。
そんな時のうつろいのなか、ふとものがなしさを感じました。
そんな時に気に入った陶器のぐい飲みで酒を飲み、心を穏やかにするとともに、何か啓発されるものがあり、句作に励んでみました。
萩や唐津といった地域に根ざした土の香りがするような焼き物が好きです。
土と炎の融合で滋味深い陶器が生まれ、それで酒を飲めばまた格別に思えます。
この慌しい時期に一服の清涼剤となる気持ちを織り込んでみました。
[語釈]
「淒哀」 | :ものがなしさ |
「蒐羅」 | :収集 |
「昵比」 | :なじんだ、愛用の、 |
「心開」 | :啓発 |
<感想>
起句の「春酣」と「感淒哀」の間に何か大きなものがあります。もし、この詩の主題が「春のものがなしさ」を詠ったものであるならば、起句の表現はいきなりのぶしつけなものになります。
しかし、一般に言う「春愁」も背景の一つとして捉え、次の「陶杯」に主眼を置くのならば、この表現が逆に生きてくることになります。
ただし、承句の「握掌」は当たり前のことで、無用な言葉です。「蒐羅昵比」と愛着のこもる言葉を使っていますから、ここではせめて色とか形とかの形態を表してほしい気がします。「握掌」で「小さいこと」を示したと言われるかもしれませんが、それは苦しい説明のように思います。
転句から結句は鮮やかで、リズミカルな展開は心に残ります。それを締めくくるのには、「心開」は何が啓発されたのかが分からない分、やや物足りなさを感じます。
心がどのように変化したのか、そこが示されると詩が深まるように思います。
2003. 5.21 by junji
作品番号 2003-102
題竹林裕吉写真集中桃源郷烟雨
春景雨濃羅幔紆 春景雨濃やかに 羅幔紆らし
瑤芳千朶影模糊 瑤芳千朶 影模糊たり
夭夭瞼濕元無意 夭夭瞼は濕えど 元より意無く
人誘桃源自作娯 人は桃源に誘われて 自ずから娯しみを作す
<感想>
お恥ずかしいことながら、竹林裕吉という方のお名前を聞いても記憶に浮かばないので、ピントがぼけた感想になってしまったらすみません。
ただ、「桃源郷烟雨」ということから読ませていただくと、前半はそのまま眼に浮かぶような両句だと思います。
「羅幔紆」が、春の雨がしっとりと、幕を張りめぐらしたように景色をぼかし、さらに承句の「影模糊」で桃の鮮やかさもにじんでいく。視野の広がりも感じられて、とても印象に残ります。
転句の「夭夭瞼濕」が、私は読み切れませんでした。最初はカメラのシャッターを切ったことかと思ったのですが、言葉の意味とは通じませんね。竹林さんがどういう方なのかを知らないと分からないのでしょうか。
補足していただけるとありがたいと思います。
2003. 5.23 by junji
作品番号 2003-103
臨江亭跡
人没星移已無痕 人没し星移り すでに痕なし
斜陽空照乱雲奔 斜陽(ゆうひ)空しく照らし 乱雲奔(はし)る。
臨江亭跡興亡感 臨江亭跡 興亡の感、
一望予州誰与論 一望の予州 誰とともに論ぜん。
<解説>
お久しぶりの広島の金先生です。 私の住む町の史跡?を訪ねて作ってみました。
・臨江亭とは江戸時代後半、阿賀村(現在の呉市阿賀地区)の庄屋宮尾兵左衛門の別邸の名称。
高台にあったためここからは海を越えて伊予の島山が南に広く眺められ、晴天時には松山城の天守閣も遠望されたという。
藩主巡回の時もここで休息したといい、文人墨客も多く来たり泊まったという。
・現在の住所でいうと 呉市阿賀中央八丁目12−6から10番地にかけての所。明治時代には亭はすでになく第二次大戦後には長く市立阿賀中央保育所として使われていた。古い石垣が残っていたが、数年前に保育所が移転して以後、建て売り住宅が建って石垣もろとも地形がかわってしまった。
・いまでは新開開発により海も遠くなり家屋が建て込んだためこの場所より「一望予州」は見ることができない。人事も自然も昔をしのぶことはできなくなっています。
[訳]
時は移り 痕跡すら残らず、
ただ夕陽が照らしているだけである。
臨江亭の跡で 栄枯盛衰を思い、
(多くの雅客が訪ね来て)
一望のもとに見えたという(対岸の)伊予の景色も(見えなくなり)、かつてのように詩を論じる人はもういなくなった。
<感想>
名称からして由緒を感じさせる場所のようですね。
かつての景観はほとんど失われ、日本のあちこちに残る「潮見・・」という地名も、ただ名のみという状況が多いようですね。
「昔はここから海が見えた」とか「ここから富士山が見えた」ということを聞く度に、隔世の感を強くします。仕方のないこと、とは思うのですが、何とも切ない思いもします。
金先生の久しぶりのこの詩も、そうした時の流れの切なさを十分に詠っていると思います。
起句の「已無痕」は、「痕」のみで「痕跡」の意味を表すのかどうか、一文字では「傷跡」にしかならないように思います。「涙痕」「苔痕」「潮痕」などがよく使われますよね。
結句の「誰与論」は、この形では「一望予州」について「論」じるように読めます。それでも主題的には外れるわけではありませんが、作者の意図とは少し違ってしまいますね。
「一望予州万里昏」とか「一望予州草木繁」などではどうでしょうか。
2003. 5.23 by junji
作品番号 2003-104
慈孫号泣 慈孫 号泣す
稚孫何事啼号急 稚孫 何事ぞ 啼号すること急なる
双眼真珠将欲吸 双眼の真珠 将に吸わんと欲す
可以今唯搾肺肝 可以 今は唯 肺肝を搾れ
人生腸断不能泣 人生 腸は断つるとも 泣くこと能わず
<解説>
孫に泣かれると爺さんはお手上げです。婆さんに手渡して早々に退散致します。そこで戯れに、こんな詩を作りました。
「可以」を「よしよし」といった意味に使えるのか自信ありませんが。
<感想>
なるほど、これはまさしく、孫に手を焼くおじいさんの姿がよく描かれていますね。
特に、起句などはあたふたと走り回る光景が眼に浮かび、つい微笑んでしまいました。
承句の「双眼真珠」の比喩は素直すぎる気がしますし、句末で「吸」とそのままなのも気になります。比喩を生かすのならば、「真珠」と喩えたことに対応した言葉(例えば「拾」)の方が面白かったでしょう。
転句の「可以」は、「良い」の意味で、呼びかける意味の「よしよし」は「好(hao)」かなと思いますが、これは中国語に詳しい人に教えてもらった方が良いでしょうかね。どなたかお教え下さい。
でも、「可以」は発音上は「カーイー(ke yi)」ですので、なんとなく日本語の「かわいい」と似ていて、それはそれでおもしろいですね。
結句は私に言われたような、重みのある言葉ですね。お孫さんにはまだ不釣り合いな言葉でしょうが、それが逆におじいさんの孫への期待感とかが表れていて、滑稽な中にほほえましさが漂っていると思いました。
お孫さんが大きくなられた時には、何よりも貴重な励ましの言葉になると思いますよ。
2003. 5.23 by junji
作品番号 2003-105
暮春雑賦
依稀曾岸暁 依稀タリ 曾岸ノ暁
鐘韻彩雲垠 鐘韻 彩雲ノ垠
靄罩茆茅屋 靄ハ茆茅ノ屋ヲ罩(こ)メ
江涵芦葦漘 江ハ芦葦ノ漘ヲ涵ス
桜花風裡謝 桜花 風裡ニ謝シ
麦穂雨中伸 麦穂 雨中ニ伸ブ
独耜三畦圃 独リ耜ス 三畦ノ圃
以安匏繋身 以テ安ンズ 匏繋ノ身
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この詩は、漢字表記に Unicord を用いています。
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<解説>
4月とも成りますと、此処、木曾川沿いの農村は春の農作業が忙しくなります。
今では兼業農家が多く、夜明け前から野良で働く農夫を見かけることは稀に成りましたが、小生100坪ほどの家庭菜園の手入れに鍬を振り種を播き、苗を植付けと朝早くから追われています。
そんな一コマです。
<感想>
「曾岸」は「木曽川の岸辺」ということですね。
「桜花風裡謝」と「麦穂雨中伸」の対で、晩春から初夏へと移りゆく「暮春」の景をうまくまとめていると思います。「謝」はここでは「花が衰える、しぼむ」の意味です。
結句の「匏繋」は、「ぶら下がった瓢箪」、詩では「役に立たない無用の人・もの」の例えとして使われる言葉ですね。
ここでは作者である詩人自身を指しているわけですが、結び方としてはお決まりの感じで、「水戸黄門」のような安心感とでも言っておくと良いでしょうか。
この詩の投稿に関しては、真瑞庵さんと何度かメールのやりとりをしました。と言っても、内容のためではなく、文字化けのためでした。
恐らく、JIS 標準字に入っていない文字を表記するために、外字を独自に作られているのではないかと思います。漢詩を表現するためには、どうしても外字を使わなくてはいけなくなりますが、外字はそのコンピュータでしか使えない文字。自分で見るときには何も問題はないのですが、他の人に送るととんでもない字に変わってしまいます。
しかも、自分のコンピュータ上では問題なく表示されているために、つい気がつかないことがよくあります。(私も何度か失敗をしました)Unicordを使うと他の人でも見ることができますが、それを登録してないと読めないし、漢詩をコンピュータで見るのはなかなか大変ですね。
2003. 5.26 by junji