2008年の新年漢詩 第31作は 叶 公好さんからの作品です。
 

作品番号 2008-31

  迎新年        

如風旧歳凶聞去   風の如く旧歳の凶聞去り

似雪新春吉報堆   雪に似て新春の吉報堆し

A heap of happiness be yours, wish I
As a snow falling down from the sky
At the start of this new year, today!

 春聯でご勘弁を。

 これで漢民族13億+日本人1億+英語ネイティブ4億+ノンネイティブ20億人
半分重なるとしても20億人ぐらいに意味が通じるはずです。
「梅花開く」とかで後ろをつければ詩になるかなと思ったのですが、大伴家持に失礼ですし、これはこれで完成形かと。





















 2008年の新年漢詩 第32作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-32

  御題 火        

昔將打石千年續   昔は打石を将って 千年続き

今頼油田萬事危   今は油田に頼って 万事危ふし

偏祷穏燃原發火   偏に祷る 穏やかに燃えよ 原発の火

何望廣島與長崎   何ぞ望まん 広島と長崎と

          (上平声「四支」の押韻)























 2008年の新年漢詩 第33作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-33

  酬答詩友賀新年        

八人圍火一人知,   八人 火を囲めば一人は知らん,

風裡一虫眠一枝。   風裡の一虫 一枝に眠るを。

不羨寒中醉翁在,   羨まず 寒中に醉翁ありて,

閑談空論美辞滋。   閑に談じて空論に美辞をすを。

迎春夢醒身隨意,   春を迎へなば夢は醒めて身は意に随ひ,

悦目花開翅應時。   目を悦ばせて花は開き 翅は時に応ず。

千里游魂飛勝景,   千里に魂を游ばせて勝景に飛び,

夏来死舞緑陰詩。   夏が来たれば死して緑陰の詩に舞はん。

          (中華新韻「十三支」の押韻)

<解説>
 八人圍火:八+人=「火」という字。
 風裡一虫:「風」という字には、一虫が棲んでいる。























 2008年の新年漢詩 第34作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-34

  年頭即事        

菅廟歳新文墨場   菅廟 歳新たなる 文墨の場

階除梅蕾吐C香   階除の梅蕾 清香を吐く

陶然一笑浮生事   陶然 一笑 浮生の事

賀客吟毫帶瑞光   賀客の吟毫 瑞光を帯ぶ

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 大阪天満宮の新年の詩会の風景を、漢詩にしてみました。

「菅廟(かんびょう)」:菅原道真を祀った天満宮を指します。























 2008年の新年漢詩 第35作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-35

  平成戊子新年偶懐        

浪城負笈弱冠時   浪城に笈を負ひしは弱冠の時

功業無成只免飢   功業 成る無く 只飢を免れしのみ

回首喧塵幾半百   回首すれば 喧塵 半百に幾し

今朝又賦望郷詩   今朝 又賦す 望郷の詩

          (上平声「四支」の押韻)























 2008年の新年漢詩 第36作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-36

  戊子元日作        

三更靜晏不成眠   三更 静晏 眠りを成さず

百八鐘聲自肅然   百八の鐘声 自ら粛然

夫婦稚兒共迎歳   夫婦 稚児 共に歳を迎へ

怡怡相語賀新年   怡怡 相ひ語って 新年を賀す

          (下平声「一先」の押韻)



明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

もうサイト開設10周年になるのですね。
こちらもおめでとうございます。

お忙しいこととは思いますが、これからもよろしくお願い申し上げます。























 2008年の新年漢詩 第37作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-37

  次 禿羊雅兄玉作「平成戊子新年偶懷」        

獨向攝州雙八時   独り摂州に向かふは 双八の時

未修技術只饑飢   未だ技術を修めず 只饑飢のみ

他年成長凌糊口   他年成長して 糊口を凌ぐ

忘却師恩一片詩   忘却す師恩 一片の詩

          (上平声「四支」の押韻)


「双八」: 二八=十六歳。昭和二十六年ごろの事です。

 禿羊雅兄の玉作を拝読して、わたくしの少年時代を思い出しました。
  まことに有難うございました。























 2008年の新年漢詩 第38作は 夕照亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-38

  新年書懐        

東山旭日暁初開   東山の旭日 暁初めて開け

寒陋茅齋春色催   寒陋茅齋 春色催す

鬢上新驚霜降積   鬢上新たに驚く 霜の降り積むを

心機一轉撥爐灰   心機一轉 爐灰を撥ねる

          (上平声「十灰」の押韻)

新しい年が来ることはうれしいが、確実に一年歳を取るのだなあ、でもやはり心機一転、もう一度情熱を掻き立てようか





















 2008年の新年漢詩 第39作は京都府の 忍夫 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-39

  新年書懐        

旧年無事又迎春   旧年 事無く 又春を迎ふ

快酔屠蘇一笑真   屠蘇に酔って 一笑 真なり

只守清貧安穏日   只だ清貧を守って安穏の日々

詩中自記太平民   詩中自ずと記す 太平の民

          (上平声「十一真」の押韻)

 昨年は無事に過ごすことができ、また新年を迎えられた。
 屠蘇を飲んで正月の楽しい気分に浸る。
 特に出世もしないが、好きなことをして暮らしていれば日々安穏。
 詩を作れば、自然と平和な時代に生きる幸福を感じるということ。






















 2008年の新年漢詩 第40作は 豊邨 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-40

  新年口號        

春到猶存千里夢   春到りて猶ほ存す 千里の夢

老來却愛少年眞   老来たりて却って愛す 少年の真

初正凭几清齋裏   初正 几に凭る清齋の裏

把酒揮毫不識貧   酒を把りて揮毫す 貧を識らず

          (上平声「十一真」の押韻)
























 2008年の新年漢詩 第41作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-41

  戊子元旦書懐        

古来子鏡育看親   古来 子は鏡 親を看て育つ

和漢東西總是眞   和漢 東西 總べて是れ眞なり

麻沸世情無所答   麻沸の世情 答ふる所無し

前途多難賀正晨   前途 多難 賀正の晨

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 「子は鏡 親を看て育つ」のは、日本古来の美徳でも何でもない。
  生き物本来の真の姿であり、人間として守るべき道徳である。
  昨今、親が子を、子が親を殺傷する様な事件が余りにも多い。
  何時の時代から乱れたのだろうか。嘆かわしい世情である。

(鈴木先生も庵仙さんの詩【「示我国老若男女」に付記されています)
「最近は肉親が加害者というような悲しい事件が続き、歳末の慌ただしい心を傷つけられることが多いのですが、庵仙さんの仰るように、相手を思いやる心が失われている気がします。」

※兼山さんからのこの詩は十二月の初めに送られてきていました。私の方がしまい忘れて、掲載が遅くなってしまいました。すみませんでした。      桐山人






















 2008年の投稿詩 第42作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-42

  歳暮        

老生依舊歳除天   老生 舊に依る 歳除の天、

未作佳詩暦幾年   未だ佳詩を作さず 幾年を暦たり。

齢算杖朝明日事   齢杖朝を算ふ 明日の事、

炉辺獨感世情遷   炉辺 獨り感ず 世情の遷るを。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 歳の暮れというのに、今年も会心の詩を作れず、過去何年同じ思いをしてきたか。
 夜が明ければ八十才、世の中が変わってゆくのである。と。焦燥感に駆られる老生。

 本年もよろしくお願いいたします。歳暮を新年には如何やとは思いましたが。

<感想>

 転句の「杖朝」「朝廷の中で杖をつくことが許される年齢」ということで、「八十歳」を表す言葉です。
 深渓さんが八十歳をお迎えとはとても思えませんでした。いつも拝見する時事詩などでは、現代社会に対する鋭く厳しい視線を保たれていらっしゃるので、柔軟でお若い感性をお持ちになっていると思っています。

 私事ですが、明日私は東京に出かける用事がありまして、せっかくの機会と言うことで深渓さんと鮟鱇さんにご無理を言ってお会いできることになりました。とても嬉しく、楽しみにしています。
 関西や地元の皆さんにもお会いする機会を作れたら良いなぁと思っています。

2008. 1.24                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第43作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-43

  聽早鶯        

青帝周流驟暖生   青帝周流 驟暖生じ

梅香馥郁暁庭清   梅香馥郁 暁庭清し

朝來隠顕鶯梭影   朝来隠顕 鴬梭おうさの影

靜聽今春第一聲   静かに聴く 今春の第一声

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 以前鈴木先生に拙詩「北国冬夜」に“五感をフル動員した・・・”とのお褒めの言葉を頂きました。
 この詩は起承転結にそれぞれの感覚を詠じてみました。

 起句、皮膚感覚。承句、嗅覚(きゅうかく)。転句、視覚。結句、聴覚。
 以前に“転句は結句の領域を侵してはならない”(2007−213)と申し上げましたのはこのことで、転句を「朝来隠顕(もしくは 睍v)聴鴬語」としたならば、最も重要な結句の立場がなくなります。
 ゆえに「鴬梭」の語を使用しました。

 鴬を詠じた詩を多く拝見しますが、「鴬梭」の詩語は余り見かけません。しかし、この語で詩意が膨らみます。わたくしが使用してもわたくしのものでは有りませんので、皆さんも使ってみてください。

 [語釈]
「青帝」: 春の神
「隠顕」: 見えがくれすること
「鶯梭」: 鶯が枝から枝を飛びかうさまを、機織りの杼(ひ)に例えていう

<感想>

 井古綆さんから初春らしい詩を送っていただきました。

 結句の「鶯声」を印象深くするために、転句で十分に撓めておく必要があるという解説ですが、非常に分かりやすい例題を示していただいたという思いです。
 身の回りの自然に触れながら、私たちは実際には身体の全ての器官、全ての感覚を使ってそれらを把握します。そして、それを言葉としてどう紙の上に定着させるかという時に、自分の心の中から選び出し、拾い出して来ます。
 その時、読者に伝える最も効果的な方法を考えることに詩を作る楽しみも苦しみもあります。

2008. 1.24                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第44作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-44

  依井古綆吟長之玉作「書懷」韻述懷        

野叟新詩輕古意,   野叟の新詩 古意を軽んじ,

井翁古綆漑新畦。   井翁の古綆 新畦をたす。

秧田隨處耕耘響,   秧田 随処に耕耘の響,

花氣應時桃李蹊。   花気 応時の桃李の蹊。

人樂余暇有琴酒,   人 余暇を楽して琴酒あり,

鶯啼佳境領東西。   鴬 佳境に啼いて東西を領す。

群情横溢隣師道,   群情 横溢して師道に隣れば,

苗裔放吟清韵齊。   苗裔の放吟に清韵 斉しからん。

          (上平声「八斉」の押韻)

<解説>

 「綆」:つるべにつけて井戸の水を汲むための縄。
 「秧田」:苗代。
 「苗裔」:子孫。

  2007年の投稿詩第288作 井古綆さんの玉作「書懐」に唱和させていただいた作です。
  井古綆さんには拙作につきたびたび指正をしていだだき、感謝しています。

  小生には、どうしてもこう書きたいという思いもあり、ご指正のすべてに合点しているわけではありませんが、説得力のあるご意見を凛として述べられていますので、とてもためになります。
  私なりの敬意を詩の形で申しあげたく、一首唱和させていただきました。



<感想>

 今回の鮟鱇さんの詩は、井古綆さんにあらかじめ見ていただきました。井古綆さんからのお手紙を紹介させていただきます。

 鮟鱇雅兄、拙詩にたいしまして、お心の篭った次韻和詩の玉作を拝読いたしました。

 わたくしの筆名を詠いこんだ、まさに原詩を凌駕する名作だと瞻仰いたしました。。。。。。。。不肖非才が雅兄にたいしまして、時々不遜なことを申し上げていますが、これは我国の漢詩界の将来を危惧するものであり、頭脳明晰な雅兄に拙作詩中の「睡樹」を喚起していただきたく思った次第です。
 不肖わたくし如きが漢詩界をウンヌンいうのは不遜の極みですが、次世代を考えれば鮟鱇雅兄の年代に、奮起をお願いするのは老婆心とは思いません。
 今朝、玉作を拝見して、肩の荷が少しは軽くなった思いがしました。


2008. 1.24                 by 井古綆






















 2008年の投稿詩 第45作は 展陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-45

  迎春        

和風花欲發   のどかな春風で 花は咲こうとしている

麗日柳芽開   うららかな日に 柳の芽が吹き始めている

水面遊魚躍   水面に泳ぐ魚が躍り

中天舞燕来   空に舞う燕が飛んでくる

匆匆寒半減   はやばやと寒さも半分になり

緩緩暖初回   ゆっくりと暖かさが戻り始めている

澗水傳春響   谷川の水が春の響きを伝い

連山伴遠雷   連山に遠雷が伴う

          (上平声「十灰」の押韻)

<解説>

 旧正月の年賀状代わりにどうかと思って試作しましたが、鈴木先生のご意見を聞かせて貰えば幸甚と思い投稿しました。

<感想>

 迎春と言うことで、春の気配を先取りして描こうというお気持ちが出ていますね。

 内容的に見た場合、首聯・頷聯・尾聯が具体的な景物を描き、頸聯が全体を総括する内容になっています。このような配置ですと、頸聯の働きが弱く、その前の二聯で十分に読者に伝わったことを改めてまとめるような印象です。
 ここから新しい内容が発展するのならまとめる必要もありますが、尾聯でまた前半の叙景に戻るので、収まりが悪く、結果として頸聯が蛇足のように感じます。
 絶句の起承転結のイメージで聯を配置されたのかもしれませんね。こうした総括する聯は、初めか終わりに置く方が良いでしょう。

 また、頷聯の「舞燕来」は、迎春の景としてはふさわしくなく、もし用いるなら「早鶯」ではないでしょうか。
 「水面」「中天」の対もあまりきれいではなく、「水」の字が同字重出となっていますので、この聯を推敲されると良いでしょう。

 私の意見としては、聯の順序を組み替えて尾聯に「匆匆寒半減」を持ってきて、春を迎えた作者の喜びなどが出る形で収束させると良い詩になると思います。

2008. 1.28                 by 桐山人



展陽さんから推敲作をいただきました。

 私の「迎春」について親切丁寧なご感想を戴き本当に有難う御座います。早速ご指摘に従って「首,頷,頚,尾」を並べ替えて改作して見ました.

   迎春   和風花欲發  のどかな春風で 花は咲こうとしている
  麗日柳芽開  うららかな日に 柳の芽が吹き始めている
  汀渚遊魚躍  川の水ぎわに 魚が躍り
  湖邊水鳥来  湖のほとりに 水鳥が飛んで来る
  岸明残雪在  岸には雪が残って明るく
  嶺暮伴春雷  夕暮れの嶺に 春の雷が鳴る
  緩緩寒軽減  緩緩と寒さも ゆっくりと減り
  匆匆暖漸回  匆匆と暖かさが かなり戻ってきた

2008. 2. 8              by 展陽


 遅くなりましたが、推敲作を拝見しました。

 推敲して言葉を探された分、視界が狭くなっているように感じます。前回に言い残したことも含めて感想を書かせて頂きます。

 頷聯に「汀渚」「湖邊」、頸聯に「岸」を持ってきましたが、頷聯にまで水辺の景(近景)を残すのは聯としてのまとまりが弱くなり、詩全体のリズムが崩れます。頷聯は遠くの山という遠景で統一した方が良いでしょう。
 「汀渚」「湖邊」の対は、前者が並列、後者が修飾の関係でバランスが良くないので、「江渚」にしたら良いでしょう。

 「残雪在」「在残雪」とし、「二四不同」は崩れますが「挟み平」で大丈夫です。

 尾聯は「緩緩」「軽」が重複しています。また、下句の「漸」「ようやく」の意味はなく、「だんだんと」という意味ですので「匆匆」とはぶつかりますね。

2008. 5. 2                  by 桐山人





















 2008年の投稿詩 第46作は 道佳 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-46

  子年元夕        

袨服華妝初蕾前   袨服華妝 初蕾の前

探求果実鳥歌連   果実を探求す 鳥歌連なり

心情和敬南天燭   心情和敬す 南天燭

揺綴寒風紅玉鮮   寒風に揺綴し紅玉鮮やか

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 【大意】
 一月十五日、晴れ着姿の子女が、華やかに化粧もして、写真をとるために南天の蕾の前に集まっている。鳥たちもその実を求めてさえずって集まっている。寒風がまだ冷たい中、南天の赤い実は、宝石のルビィーのようでもあり、本当に心を和ませ、つつしみ深い気持ちにもさせてくれる。

「袨服」:晴れ着姿  
「華妝」:かしょう、華やかに化粧したひと
「鳥歌」:鳥が鳴く
「和敬」:心をやわらげつつしむ
「揺綴」:ようてい、枝木が揺れて動く
「紅玉」:宝石、ルビィー、美人

<感想>

 「元夕」は上元の日(陰暦一月十五日)の夜、「元宵」「元夜」とも呼ばれますが、唐の時代、この日は提灯を町中に飾り連ねる観燈の節だったそうです。
 上元を中心に前後三日間もしくは五日間、この間は夜になっても城門が閉じられることはなく、着飾った女性たちが夜歩きをして飾り立てた提灯を見て回ったと言われます。
 現代の日本ならば、街のイルミネーション見物といったところでしょうか。

 と、長い前置きになったのは、題名「子年元夕」の「夕」が感じられないからです。単に一月十五日を表したというだけなら「上元」でよく、「元夕」と書かれると都の華やかな行事を誰もが思い浮かべるからです。道佳さんの起句のイメージは成人式でしょうか。

 同じく起句で言えば、「初蕾」はここでは梅か桜でないと季節が合いません。南天の花が咲くのは初夏、南天の実を「蕾」だと比喩するとするには、もう少し下準備をしてからでないと苦しく、起句でいきなりではどうでしょうか。
 その「初蕾」を南天だとして読んでいくと、実は全ての句に同じものが登場します。これではまるで「南天」のキャッチコピーが並んでいるような感じです。

 転句の「心情和敬」になる理由を結句から導くお積もりのようですが、寒い風に揺れる南天の赤い実を見たからと言うのは、どれだけ共感を得るか疑問です。もちろん、詩ですから「私はそう思ったのだ」と言われればそうなのですが、「和敬」が最適な言葉かどうか、を検討されると良いと思います。
 推敲の方向としては、まずは前半に南天を出さないことを狙うと、全体の落ち着きも出てくると思います。

2008. 1.28                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第47作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-47

  偶成        

国風雅頌于今遺   国風雅頌は今に遺り

漢魏文章誰無知   漢魏の文章 誰か知る無し

遒勁気骨使我感   遒勁たる気骨 我をして感ぜしめ

回腸蘯気全神奇   回腸蘯気して 神奇全し

日東詩人繼斯道   日東の詩人 斯道を繼ぎ(失声孤平)

悲哉海内風騷衰   悲しい哉 海内風騷衰ふ

如我才浅意拙劣   我の如きは才浅くして 意拙劣

空矜爪嘴人嘲嗤   空しく爪嘴を矜りては 人嘲嗤す

有句無篇故衒耀   句有るも篇無くして 故に衒耀し

況諛呈媚多顰眉   諛を況して媚を呈しては 眉を顰むること多し

苟無温柔敦厚意   苟も温柔敦厚の意無かりせば

徒列七字誰称詩   徒らに七字を列ねても 誰か詩と称せん

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 謝斧さんのお手紙には「今年最初の投稿詩ですが旧作です」と書かれていました。
 今年の投稿のスタートということで、謝斧さんはご自身の決意として気合いを入れられたのでしょう。「徒列七字誰称詩」と言われると、忙しさにかまけて慢性的に推敲不足の私などは我が身を振り返ってドキッとしてしまいます。

 「有句無篇故衒耀 況諛呈媚多顰眉」「ろくな句が作れないから、底の浅さはバレバレ、しょうがないからおぺっか使うと逆効果」という感じでしょうが、このあたりは詩だけの話ではなく、日常の生活のしんどい所を連想させられてしまいます。
 そうしたしんどさを乗り越えるのに必要なのは「温柔敦厚」だと語られるのですが、謝斧さんの姿勢がよく表れている句ですね。

2008. 1.28                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第48作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-48

 思原發         

曾將打石千年續   曾て打石を将って 千年続き

今頼油田萬事危   今は油田に頼って 万事危ふし

絢爛文明拒停滞   絢爛たる文明は 停滞するを拒み

過多電力奈維持   過多たる電力は 維持するを奈んせん

地球汚染深愁此   地球の汚染 此れを深愁し

人類生存落着之   人類の生存 之れに落着す

偏祷穏燃原發火   偏に祷る 穏やかに燃えよ 原発の火よ

誰望廣島與長崎   誰か望まん 広島と長崎と

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 「過多」: 前句の「絢爛」にたいしての畳韻。
※ 起句の第一字「昔」を「曾」に変更。
  結句の「何」を冒韻の「誰」に変更しましたが、先生のご意見をお願いいたします。

<感想>

 現代文明に警鐘を鳴らす作品ですね。
 起句の「曾」「昔」から変更されたとのことですので時間的には長い幅で考えるべきでしょうから、「打石」が意味するのは「機械文明化される前の、人間が自らの手を使って生きていた文明の時代」ということでしょう。それが「千年」で妥当かどうか。
 人類の歴史を概観するスケールの大きさは魅力ですが、石器時代と現代の比較は実感が湧きませんし、題名の「思原発」から考えると、この「打石」は「石炭」くらいの意味で取っておいた方が説得力が増すでしょう。

 結句の「誰」は「何」との選択で選ばれたのでしょうが、広島や長崎の惨禍を望む人は誰も居ないでしょうから、反語としてはもっと強い調子の「豈」を用いても良いのではないでしょうか。

2008. 2. 1                 by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、ご高批有難うございました。推敲不足でした。
しかしながら、先生のご指摘が無かったら考えが及ばなかったと思います。

 元の題名は「思原發」ではありませんでした。今年の宸題の「火」でしたが、都合で一般投稿詩にした為に改題しました。
 ゆえに原発の語勢が強いようになりましたが、以下のように推敲して見ました。

     思原發(推敲作)
   曾誇靈長覺焼炊    曾て霊長を誇り 焼炊を覚へ
   今頼油田萬事危    今は油田に頼って 万事危ふし
   絢爛文明拒停滞    絢爛たる文明は 停滞するを拒み
   過多電力奈維持    過多たる電力は 維持するを奈んせん
   地球汚染深愁此    地球の汚染 此れを深愁し
   人類生存落着之    人類の生存 之れに落着す
   偏祷穏燃原發火    偏に祷る 穏やかに燃えよ 原発の火よ 
   焉望廣島與長崎    焉んぞ望まん 広島と長崎と

※ 霊長の「長」は仄韻です

2008. 2. 2             by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第49作は 嗣朗 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-49

  探若狭小浜(推敲作)        

紅楓幽賞梵宮郷   紅楓 幽賞 梵宮の郷

鵜瀬閼伽神事行   鵜の瀬閼伽 神事の行

献上漁鰕紆井水   漁鰕を献上 井水を紆らす

遺風鐘韻百星霜   遺風 鐘韻 百星霜

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 桐山人先生今日は、今年の正月は例年になく穏かな年始で在ったと思いますが、先生は大変忙しく過ごせれたのでは?
 昨年投稿しました「探若狭小浜」につきまして、井古綆先生の模範詩を読み返し読み返し、このように推敲しました。

 東大寺二月堂修二会「若狭井」のお水取りに備え、毎年3月2日若狭神宮寺から鵜の瀬まで「達陀の行」が行われています。又、若狭小浜は神々の時代「伊勢、淡路」に並んで「御食国」として魚貝類を朝廷に献上していましたことより、現在では「御食国(みけつくに)」として町興しをしています。
 以上のような事を詩に表現したかった訳です。有難うございました。 

今年も宜しくお願いいたします。

<感想>

 承句の「神事行」「歩いていく道筋、行列」という意味だったのですね。
 転句は「紆井水」では「井戸の水があふれて魚蝦の周りを流れているのか」と考え、意味が分からなくなります。井古綆さんが示された「供」で句中対にしておいた方が良いでしょう。「漁蝦」は「蝦」としなくてはいけません。

 結句は「古刹」に比べると「鐘韻」の方が焦点が絞られるでしょうが、だから何なのかがまだ明瞭ではありません。起句から転句までの事実を描写したことを受けて、作者はどう感じているのかが欲しいわけです。
 そのキーワードが「遺風」のはずですので、ここはその「遺風」がどうであるのか、例えば「遺風脈脈百星霜」でも良いですし、「趣がある」「華やかだ」という感想でも良いですので、作者の思いを出すことです。
 今ですと「遺風の鐘韻」と修飾関係になり、「遺風」そのものの重みが消えています。

2008. 2. 1                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第50作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-50

  看庭梅傷自遣懐     庭梅の傷つきしを看て自ら懐を遣る   

一樹庭梅残樹皮   一樹の庭梅樹皮を残(そこ)なふ

堪寒風雨護南枝   寒の風雨に堪へて南枝を護る

澆肥根際欲還勢   肥を根際に澆(そそ)いで勢ひを還さんと欲し

繃稿幹周将養痍   稿(わら)を幹周に繃(ま)いて将に痍を養はんとす

加療十年肝疾病   加療すること十年 肝の疾病

遏防一歳血孱羸   遏防(あつぼう)すること一歳 血の孱羸(せんるい)

保生不異我于彼   生を保つは我于(と)彼と異ならず

精気自盈春到時   精気自から盈つるべし 春到る時

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 語注)
「南枝」:南向きの枝、主に梅の枝を言う
「遏防」:防ぐこと
「孱羸」:痩せ衰え弱ること

 七絶として作った新年詠を七律に仕立て直してみました。
 初めて七律を試みましたが、対句は形式としては体を成すかも知れませんが、内容的に律詩と言えるかどうか、心許ない限りです。
 頷聯も頸聯も、それぞれの対句が同類でスケールが小さく、また頷聯と頸聯の繋がりも唐突の感じがしています。
 律詩は今後余程勉強しなければ良いもの作れないと思いました。

<感想>

 大きな病気をした時には、四季の巡りを守り通す自然のたくましさに勇気づけられるものです。日頃何気なく見過ごしている小さなものに目が向けられるのも、自分を見つめることができるからこそと思います。
 我が家の庭の梅がいつの間にか蕾を開き始めていることに、今朝初めて気がつきました。ここ数日の寒さに開花はまだまだと勝手に思い込んでいたのでしょう。
 病気の時は柳田周さんと同じように、春を待ち望む心が強かったことを思いだしながら、この詩を読みました。

 さて、初めての七律ということですが、お上手に仕上がっていると思います。各聯の展開は絶句の起承転結の流れを踏襲していますが、これも一つの展開でしょう。
 難を言えば、「七律にしようと思って七律を作った」という感じですので、必要な言葉を絞り抜くのではなくてやや冗舌、作者の気持ちの切実さが言葉のあれこれの中で薄くなったと思います。
 ただ、それが悪いと言えるかどうか。絶句で「春が来たら・・・・」という思いがあまりに強く出るよりも、結果的に少し離れた感じの方が、病気の時には重苦しさが抜けて良いかもしれません。

2008. 2. 1                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 柳田雅兄今晩は、井古綆です。
 その後お体は如何でしょうか。
 雅兄の初めての律詩を拝見いたしました。
鈴木先生の仰るように、初めてといたしましては大変よく出来ているように思いました。今後も続けてみてください。
 失礼ながらわたくしの感じたことを述べてみますが、お気を悪くなさらないでください。
 頷聯の描写が細かすぎるように思いますが如何でしょうか。
 次に雅兄も自覚されているようですが、頸聯は七言絶句の転句のように視点を変えたほうが良いように思いました。とは言うものの難しい注文です。

 しかし、第一作の律詩といたしましては申し分無いと思います。

 例の如くわたくしも作ってみましたが、雅兄の日常生活は考慮していませんので、参考になるかどうかは分かりません。

    試作
   一樹庭梅老去悲   一樹の庭梅 老去悲し
   防寒禦暑注深慈   防寒禦暑 深慈を注ぐ (ぎょしょ)
   香魂歳歳成珠玉   香魂歳々 珠玉を成し
   樗散年年答拙詩   樗散年々 拙詩を答ふ (ちょさん)
   不計方今患肝疾   計らずも方今 肝疾を患ひ
   病床毎日想離披   病床毎日 離披を想ふ
   浮生何靠吾于彼   浮生何ぞ靠(たが)わん 吾と彼と
   精気合盈春到時   精気合(まさ)に盈つるべし 春到る時

「禦暑」: 暑をふせぐ
「樗散」: 作者の謙称
「離披」: (梅の花が)ひらく

頸聯は流水対になりました

2007. 2. 4              by 井古綆



鮟鱇さんからも感想をいただきました。

 鮟鱇です。
 柳田先生の玉作「看庭梅傷自遣懐」拝読いたしました。梅の老幹の養生にご自身の闘病を重ね合わせた詩で、読む者の心に残る佳作だと思います。

 井古綆先生の玉案も一作だと思います。しかし、管見ですが、井古綆先生が「細かすぎる」とされている頷聯の描写にこそ、柳田先生が書きたかった思いがあるのではないかと思えます。もし、頷聯の描写の描写がなかったとすれば、ご自身の闘病を書かれた頸聯が浮いてしまうように思えるからです。
 そこで、用語などに練れていないように思えるところなきにしもあらずですが、そういう詩法の巧拙を超える柳田先生の詩情に心を打たれます。

 このように書くと、小生は詩法の巧拙がわかっているように思われるかも知れませんが、私には、七言律詩の詩法やその巧拙はよくわかっていません。七律は500首近く作っていますが、巧拙はよくわかっていません。わかっているのは、良いものかどうかではなく、私なりの書き方がある、ということが、見えてきた、ということだけです。

 そこで、いささか気になるのが、柳田先生が、「内容的に律詩と言えるかどうか、心許ない」であるとか、「頷聯も頸聯も、それぞれの対句が同類でスケールが小」さいとか、玉作にあまり自信をお持ちでないあたりです。
 「それぞれの対句が同類でスケールが小」とありますが、修辞などのうわべのことを離れ、頷聯の老幹の養生と、頸聯のご自身の闘病という事象の対比をみるとき、どうしてスケールを大きく描かなければならない、という思いになられるのでしょうか。
 心のうちを詩に託すことと、詩を上手に書くことの相克、そのあたりのことが、柳田先生の心のなかで、整理されていないように私には思えます。だから、「律詩は今後余程勉強しなければ良いもの作れない」という結論にもなるのでしょう。

 しかし、詩を作るうえで、良いものを作る必要がどこにあるのでしょうか。七律については、心に思うことを詩に託すこと、それさえも満足にできない状況が、わが国の漢詩界にはあるのです。そういう状況のなかで、その一員である私たちが、「良いものを作る」ことを暗中模索で考えても、詩作りが上すべりするだけではないでしょうか。
 七絶については起承転合(結)もあり、それを指導できる先輩諸兄もいるかもしれません。しかし、すべての詩情が七絶二十八字に収まるものではありません。玉作の詩題は七絶二十八字の短詩に収まるものとは思えず、だからこそ先生も七律をお作りになったのだと思いますが、日本人が抱く詩情は、おおむね七絶二十八字までの短いもの、そこで七律の長さに及ぶ詩法を指導できる指導者は、皆無に近い。
 そういうなかでは、七律で「良いもの」を論じるは無理、と考えたほうが、実作上、利口です。

 しかし、そういう中で柳田先生は七律をお書きになったのであり、七絶ほどの長さではとうてい収まりえない先生の心のうちを詩に託すことができているのです。心のうちを詩に託せるようになることと、詩が上手く書けることとが、二者択一であるとすれば、私は、上手く作ることを捨てます。
 上手く作ることを捨てる、それをしない限り今の日本では、七律の詩情を自分のものにすることはできない、と考えるからです。

2008. 2. 6             by 鮟鱇


(鮟鱇さんからの追加文です)

 鮟鱇です。
 柳田先生の玉作につき、しいて言えばですが、詩法のうえで若干気にかかる点がありますので、追補させていただきます。

 玉作は、第1句では庭梅が主語になっており、第2句は、作者である先生(我)が主語ではあるが省略されている句作りです。

 一樹庭梅残樹皮,(我)堪寒風雨護南枝。

 漢詩は二句一章で読みます。そこで、第2句の頭の「堪寒」の主語は「庭梅」であると読む流れになります。また、下三字「護南枝」の主語は、意味の上から「我」と読むことになると思います。

 一樹庭梅残樹皮,(庭梅)堪寒風雨(我)護南枝。

 この主語の移動あるいは混乱が、流れを悪くしていると思います。そこで、私ならば、ですが、

 一樹庭梅残樹皮 → 看到庭梅残樹皮

 として、第1句から第6句までの主語を「我」にします。

 また、井古綆先生の玉案ですが、頸聯の「流水対」、少し気になります。

   不計方今患肝疾   計らずも方今 肝疾を患ひ
   病床毎日想離披   病床毎日 離披を想ふ

 対句である以上「不計」と「病床」を文法構造が対応するように詠まなければなりません。その場合、「病」は、「床」を形容する名詞とするのではなく、「床に病む」と読まなければなりません。そう読めないことはないとは思いますが、ちょっと苦しいのではないでしょうか。
 そこで私の案では、「養痾」ならどうか。
 また、「肝疾」と「離披」も、「肝」と「離」の対応が悪いと思います。「離披」ではなく、「花披」ではいかがでしょうか。

2008. 2. 6                 by 鮟鱇


井古綆さんからのお手紙です。

 柳田雅兄。
 鮟鱇雅兄の感想文を拝見いたしましたので、不本意ながら吟辺をお騒がせいたしますことをご容赦ください。
 わたくしが三四句の表現が細かすぎるようだと申し上げましたのは、詩全体から見てこの部分のみが七字を一字ずつ積み上げた形になっているのを、婉曲に申し上げたしだいです。
 周知のように漢詩は原則としては、二字二字三字の形式をとっています。鮟鱇雅兄が仰るには、この形式を敢えて柳田雅兄が使用されたのは、ご自分の病気を重ね合わせたのではないかと、述べられています。全くその通りだと思います。
 しかし、雅兄に失礼ながら、このような作風は漢詩には無いような気がいたします。強いて言えば語調が和臭のような気がいたします。これは柳田雅兄を誹謗するものではありません。前述したように律詩の第一作といたしましては、良くできています。
 わたくしが試作いたしました作は元の作を熟読して詩意を自分ながらに理解して作りました。すなわち、一句目に「悲」を二句目に「注深慈」を、頷聯には梅との対話を、頸聯には作者が不意の病気になっったことを表現したつもりです。

 「作者はこのように表現したかったのだろう」と推測に頼るのでは作詩の進歩はありません。あくまで昨日より今日、今日より明日と、進歩しなくてはならないと思っています。
 持論ですがホームページに投稿するのは、万人に見ていただくためであると私は思っています。やはり万人が納得出来なければ、まして審査員の先生方には目にも留めて頂けません。
 わたくしは鮟鱇雅兄のように多作ではありませんが、この拙文を送稿する以前に、わたくしの律詩第一作を送稿してあります。鮟鱇雅兄のご高批を頂ければ幸いです。

 本来ならば自分のページを使用しなければならないのを、柳田雅兄のページをお騒がせいたしましたことを、お詫びいたします。

2008. 2. 7              by 井古綆


(井古綆さんからの追加文です)

 追伸いたします。
 鮟鱇雅兄の追加分の件、雅兄の仰るその通りです。

 流水対とは言え、出来得る限り正確に対にするべきです。指摘を頂きましたように、「病床」より「養痾」のほうが、「離披」より「花披」のほうがはるかによいと思います。
 やはり熟慮すれば、よりよい措辞が得られます。
“柳田雅兄が頷聯と頸聯の繋がりも唐突な感じがしています。“ とのお言葉に答えることに眼目をおいていました。 推敲不足でした。有難うございました。

2008. 2. 7            by 井古綆


柳田周さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生
初めての拙い律詩にご意見をありがとうございます。
 鈴木先生の仰る『七律にしようと思って七律にした』のは確かで、私自身予め『七絶を七律に仕立て直した』と書いた通りです。これまで七絶の中でも時々対句を用いて参りましたが、それは近い将来に七律を作りたいと思っていた故でした。
 無論、対句があれば律詩になるわけではないので、首、頷、頸、尾の各聯をどう性格付けし、また関連させればよいのか、全くわからず悩みました。七絶の新年詠では言い足りない思いがあったので、兎に角、一つ作ってみようと、新年詠に 肉付けする形にしたのが、「看庭梅傷自遣懐」です。

 井古綆先生
蕪詩へのご意見、ご講評を大変ありがとうございます。
 また添削(と言うより、本歌取りとでも申すべきか)詩をありがとうございます。
私が自身の対句にについて、『同類でスケールが小さい』と書いた事が、大先輩のご意見を誘った様で恐れ入ります。 自身の病気の事が心中から去らず、「脾」と「血」と身体に視点を置いた頸聯の対句が先に成り、それに合わせて梅樹の「幹」と「根」に視点を置いた頷聯が成ったのですが、描写が細か過ぎる様に感じたのです。
 頷聯の修辞が漢字一つ一つを積み上げて成っているのは事実ですが、それが和臭か否かは、私には解りません。問題は「根際」と「幹周」が所謂二字成句ではなく、中国語の造語法として自然か否かにあるのだろうと思います。
 何れにせよ、今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

 鮟鱇先生
ご意見・ご講評を賜りありがとうございます。
 私が初めての七律について『自信がない』様な事を書いているが、修辞の巧拙は大した問題ではない、大事なのは詩情であり、詩情に「良い」、「悪い」などは無い、「巧い詩を書くと思うな」と500首を超える律詩をお作りになった先生 が、私を諭し勇気づけて下さったものと、心してお聞きしました。ありがたく感謝申し上げます。
 さて、第二句の「堪」と「護」の主語は作者(我)とお読みになられた由ですが、私は梅樹を擬人化した積もりで書きました。従って風雨に「堪」えているのも、南枝を「護」っているのも、傷ついた梅樹の積もりでした。無論この梅樹は私自身を仮託したものでもあります。
 私の意図が伝わらないのは「護」を用いた私の未熟な用語の故かも知れません。
今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

2008. 2. 9              by 柳田 周





















 2008年の投稿詩 第51作は 叶公好 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-51

  於上野送舊友之紐育     上野に旧友の紐育に之くを送る   

游魚躍翠池   游魚、翠池に躍り

啼鳥繞紅枝   啼鳥、紅枝を繞る

故国春光日   故国、春光の日

倶斟一別卮   倶に斟まん、一別の卮

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 漢詩の王道・送別詩を完全自作したのは初めてです。
 形は整っているものの、過去の名作に比べると同じ二十文字でもどことなく格が落ちる感があります。
あと、ネットやメールのある世の中では、文字通り「天涯も比隣の若し」なわけで、今の世の中では唐詩の時代と比べてどうしても別れに切迫感が伴わないのはいたしかたないことかもしれません。

タイトルが漢文として正しいかどうかが疑問です。

<感想>

 別れの詩は唐詩の表看板ですので、それこそ詠み尽くされたという人が居ます。どれだけ斬新な表現を探しても既に千年も昔の詩人が歌い上げているのだ、と嘆いているのです。
 しかし、私はそうではなく、千年前であっても、また異国の地であっても、惜別の悲しみは変わらないのだと思います。だからこそ唐の詩人と共感し合えるのであり、漢詩を作る面白さもそこにあるのだと、改めて感動します。

 叶さんの今回の詩も、ではこの詩を孟浩然に読んでもらったらどうだろうか、そんな気持ちで考えてみると良いでしょう。
 例えば、芭蕉は奥の細道の旅に出る時、今生の別れになるかもしれないと思い、その悲しみの気持ちを伝えるのに、「ゆく春や 鳥啼き魚の目はなみだ」と詠みました。無情であるはずの魚や鳥までもが惜別の涙を流すという凝縮した表現に万感の思いをこめた句です。
 その芭蕉の重さに対して、叶さんの「躍」「繞」が軽快感を出しており、切迫感が無いと言えばこの辺りの言葉選びに関係すると思います。
 ただ、だからこそ現代の若者の詩だとも言えるわけで、ベタベタしない別れも良いのではないかと思います。無理矢理にしかめっ面をして「永遠の別れになるかもしれぬなぁ」などと悲愴になる必要はないのです。

 一点言えば、結句の「春光日」ですが、「日」ですと単に場面説明になります。ここに感情を表す言葉を入れるだけで、趣が変わります。例えば、「故国春光寂」のような感じでしょう。

2008. 2. 4                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 叶公好雅兄はじめまして、井古綆です。
 玉作を拝見いたしました。わたくしは五言詩は余り作ったことはありませんが、雅兄は前半を対句にしていらっしゃいます。簡単には出来ないことです。雅兄の解説に有るように「天涯も比隣の若し」が現在の送別です。

 鈴木先生の感想文の最後の部分、「一点言えば・・・・・」を拝見して、現在の送別の感情を考えてみました。参考になれば幸いです。

    試作
  游魚躍翠池   游魚 翠池に躍り
  啼鳥繞紅枝   啼鳥 紅枝を繞る
  今日離亭酒   今日 離亭の酒
  何年再会巵   何れの年か 再会の巵

2007. 2. 5               by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第52作は 叶公好 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-52

  祝婚     婚を祝す   

白雪薔薇燦爛冠   白雪の薔薇、燦爛冠

聖堂光溢照紅顏   聖堂、光溢れて紅顏を照らす

可憐三万六千日   憐れむべし、三万六千日

佩指金剛緊縛環   指に佩ぶ金剛の緊縛環

          (上平声「十四寒」「十五刪」の通韻)

A brilliant tiara and roses of snow white,
May your lives be happy and filled with light.
Lucky that, for days of thirty six thousand,
Your finger's bound with The Monkey's Magic Band!

<解説>

 昔いた研究室の後輩で中国人の結婚式の時に贈った作品です。二つに分けて、起句と承句は新婦に、転句と結句は後輩である新郎に、という具合です。
 結婚を寿ぐ良い詩があればいいなと思っていたのですが、ざっと探したところなかったので自作してみました。和臭と言うより洋臭がします。
ここでの「可憐」は「けなるい(うらやましい)」の意味です。

 新婦は香港出身、英語は完璧だけど日本語は分からないそうで、「じゃあ英訳もつけて」ってやっているうちに、こっちはこっちで韻が踏めそうな気がしてきて(笑)
 生まれて初めて韻を踏む英語を書きました。
thousand と band は厳密には韻ではありません。

 なお、詩の巧拙はともかく、おおざっぱな意はちゃんと伝わったようです。
指輪を金箍に例えるのは日本では当たり前の比喩ですしね。

「白雪の薔薇」は「はくせつのしょうび」と読んだ方が「しらゆきのばら」より美しく聞こえます。なぜでしょうね

<感想>

 「良い詩があればいいなと思っていたのですが、ざっと探したところなかったので自作してみました」・・・・これがかっこいいですね。目の前の具体性に即応しながら詩を創ることができるのは詩人の楽しみの極致です。

 英語詩の方は私は分かりませんが、「三万六千日」の誇張表現をそのまま英訳で数字に置き換えてますが、通じたのでしょうか。そう言えば、李白の「白髪三千丈」などはどう英訳されていたでしょうか、気持ちまでも伝えきろうと思うと難しいでしょうね。

 「はくせつのしょうび」と「しらゆきのばら」の違いは漢語と和語の違いに対しての叶さんの感覚が働いているのでしょうが、音的に見ると、強く発音するストレスの部分で、和語は「しゆきのら」となり、耳に残る部分が「ら・ば」となってます。漢語の「はくせつのしょうび」に見られるサ行音に比べて濁った感じがするのが大きな理由ではないかと思います。あまり根拠はありませんが、自信はあります。

 結句の「緊縛環」はそのまま「金箍環」の方が転句の「三万六千日」と釣り合って面白いかもしれませんが、平仄の関係でしょうね。

2008. 2. 4                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第53作は 劉 建 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-53

  漂舟        

路遮漂雪若波紋   路遮り波紋の如く雪漂ひ

湖海既眠籠乱雲   湖海すでに眠り乱雲こめり

分別亦消到何処   分別もまた消え何処に到る

孤舟離岸声未聞   孤舟岸を離れ声未だ聞かず

          (上平声「十二文」の押韻)

<解説>

 寒、厳しくなった小寒に書きました。
 情景と心理描写が重なった作品になりました。
 一行目の「波紋の如く」は、路に線条に雪が舞っている情景で、なかなか理解してもらえないかもしれません。
 推敲を重ねる度に本意から離れて抽象的な意味に傾いてしまいました。反省しています。

<感想>

 起句から疑問点が幾つか目立ちます。
漢文は主語・動詞・目的語の順に並びますので、「路遮」「路が遮る」となります。ここは文意からは「遮路」であるべきです。
 また、「漂雪若波紋」「波紋の如く雪漂ひ」と読むのは無理で、「漂ふ雪は波紋の若し」となります。
 押韻の関係で下三字の語順を入れ替えることはありますが、平仄合わせのために替えると意味が通じなくなります。
 内容的には、「波紋の如くは、路に線条に雪が舞っている情景」とありますが、路を遮るほどに空中に漂っている雪が線状に路面に舞うというのは、話が通じません。「漂」の語を替えなくてはいけないでしょう。

 承句も「湖海既に眠り」というのは水が静かに落ち着いていることを表しますから、「籠乱雲」とのつながりが見えません。もう少し言えば、起句と承句の場面のつながりもわかりません。

 転句の「分別」は、何と何を分けるのか、また、何が「到」のか。雪に閉ざされて見えないと言うのなら、「湖海」「孤舟離岸」が見えるのはどうしてか。

 結論としては、作者の心情を理解するのが非常に難しいと思います。抽象性を追求する詩作もありますが、一つ一つの句の吟味とともに、全体としての統一感、情景の現実感が無いと詩が拡散してしまいますね。
 この詩の場合では、起句の場面を削る気持ちが必要ではないでしょうか。

2008. 2. 6                 by 桐山人



劉建さんからお返事をいただきました。

 添削ありがとうございます。
 先生の指摘に反省するばかりでした。
 確かに主述の転倒は初歩の誤りでした。表現は自分だけが納得するだけでは成立しないと、強く反省しました。
 厳しくも適切な指示を感謝いたします。

2008. 2. 7              by 劉建





















 2008年の投稿詩 第54作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-54

  奉和禿羊雅兄併井古綆雅兄        

懷昔青衿宦學時   懐ふ昔 青衿 宦学の時

住衣常足不知飢   住衣 常に足って 飢を知らず

雙親恩愛無涯岸   双親の恩愛 涯岸無し

欲記斯情賦一詩   斯の情を 記さんと欲して 一詩を賦す

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 お二方には、以前、拙作に次韻した作品を投稿していただいたことがあり、ずっと何かお返しの作ができないものかと思っていたのですが、ちょうど今年、禿羊さんの作品「平成戊子新年偶懐」と、同作品に次韻された井古綆さんの作品「次 禿羊雅兄玉作平成戊子新年偶懷」を拝読し、我が身をかえりみて感ずるところがありましたので、次韻させていただきました。

ところで、次韻の作は初めてなのですが、詩題の付け方はこれでよいでしょうか?

<感想>

 昭和二十年代の後半に生まれた私は、幸いにも「不知飢」の生活を送ることができました。現代の目から見れば、「三丁目の夕日」ではありませんが、当時が物質的に貧しかった時代であることは間違いありませんが、「飢」という厳しさの感覚は私にはありません。せいぜい「空腹」というところでしょう。
 しかし、それでも終戦の前後の過酷だった時代の生活の様子は、間接的ではあっても肌で感じて育ってきたとは思っています。禿羊さんや井古綆さんの作品を拝見すると、「そうですよね、そうだったですよね」という共感と、その時代を生きてこられた先輩への感謝の気持ちが起きます。

 若い世代の方はどんな感じ方をされるのか、今回の観水さんの作で教えていただけたような気がします。
 豊かな時代、恵まれた生活に対して罪悪感や恥じらいを感じる必要は全くありません。親は子どもの幸せを望み、先人は後生の豊かさを願うもの、ただ、その幸せや豊かさは偶然の産物ではなく、親や先人の積み上げたものだという気持ちだけは伝えてほしいと思っています。

 詩題はこれで良いですよ。

2008. 2. 7                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 観水雅兄お早うございます。
 禿羊雅兄より始まりました次韻が輪となりつつありますことを、甚だ嬉しく思います。
 鈴木先生の仰るように、それぞれの人生が時代と共に感じられます。雅兄の転句、わたくしの蕪詩を凌駕して素晴らしく感じました。
 そのことより雅兄が “ずっと何かお返しの作ができないものか・・・・・・” と思って頂いたことに感動いたしました。誠に有難うございました。

2008. 2. 7             by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第55作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-55

  還家道中        

齡廿離家送十霜   齢廿 家を離れ 十霜を送り

今携妻子欲歸郷   今 妻子を携えて 郷に帰らんと欲す

觀山南望渡烏水   観山 南望して 烏水を渡れば

忽見老親歡笑長   忽ち 老親を見て 歓笑長し

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 数えで二十で家を出て 月日は流れ早や十年
 今日はこれから妻と子を 連れて一緒に里帰り
 観音山を南に 見ながら渡る烏川
 たちまち親の顔見つけ つもる話に花が咲く

昨春、帰省したときの作です。
観山(観音山)、烏水(烏川)は地元の地名。

<感想>

 里帰りのお気持ちが表れていますね。お子さんを連れてのことですので、観水さんのご両親もお孫さんに会えるわけですから、さぞかしお喜びのことかと思います。
 起句が江戸漢詩を思わせるような、やや大げさな感じがします。説明的にならないように、前半にもう少し情景を描くような形で心情を投影しておくと、最後の「歓笑長」がより生きてくるのではないでしょうか。

2008. 2. 7                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 観水雅兄玉作を拝見いたしました。
 次韻の前作の転句「無涯岸」を拝見して、ご両親の気持ちを忖度いたしました。
 吉田松陰の辞世の歌に、”親思う心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらむ”とあり、亦た広瀬淡窓の「桂林荘雑詠第二」の起句に「遙思白髪倚門情」とあり、「倚門」とは子供の帰りを親が我が家の門にもたれて待っていることです。このように子が親を思う以上に親は子のことを思っているものです。雅兄も「倚門」の詩句を使用すれば詩の奥行きがもっと深まるような気がしましたので、わたくしが亡母を思っていたことを振り返りつつ、僭越ながら申し上げました。
( なお、「今日のおとづれ・・・」とは松陰が今日断罪されたと言う信を親が聞いたならば、とのことです。)

2008. 2. 8               by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第56作は 叶公好 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-56

  詠連敗        

堅守自崩空逸贏   堅守自ら崩れて空しく贏(かち)を逸し

雨中行客歩如酲   雨中の行客、歩むこと酲するが如し

憑君勿誹将兵失   君に憑る、誹るなかれ、将兵の失(ミス)

擾亂龍眠以喊聲   竜眠を擾乱するに喊声を以てせん

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 毎度おなじみ(笑)中日ドラゴンズ関連詩です。

 転句:当世、結果論でしかモノを言えない評論家が多いですからね。
そういうのに限って、「権藤監督は横浜ではなくて中日の選手だったんですねえ」とか、「ここは”ひとや”酬いて明日に繋げたいところです」とか、人の神経を逆なでしてくれます(笑)

 結句は、ハリーポッターのホグワーツ魔法学校の校訓、
 Draco dormiens nunquam titillandus
 眠っている竜はくすぐってはならない
から発想しました。

<感想>

 これは何時の試合のことでしょうか。中日はクライマックスシリーズも日本シリーズも好調なまま乗り切りましたから、セリーグのペナントレースの時の連敗でしょうか。守護神岩瀬がまさかの逆転弾を浴びた・・・という場面か、と思いますが、承句の「歩如酲」が茫然自失、放心状態の中日ファンの姿をよく表していますね。

 結句は、まあ、勝っても負けても「喊聲」を挙げるのが楽しみなのでしょう。こうして起承転結にまとめると、連敗のショックも野球ファンには詩情になることがわかりました。

2008. 2. 8                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 叶公好雅兄今日は、雅兄はドラゴンズフアンと拝察いたします。
 不肖わたくしは似非阪神フアンでして負けそうになるとすぐテレビのチャンネルを変えてしまいます。本物の阪神フアンに対して誠に恥ずかしい次第です。
 ですのでプロ野球の詩は作っていませんが、高校野球の詩を以前に作りました。雅兄の玉作に因みまして、送稿いたしました。

    敗者
  盛夏人盈甲子園   
盛夏人は盈つ 甲子園
  球児熱戦賭乾坤   球児の熱戦 乾坤を賭す
  一投痛恨輸贏決   一投痛恨 輸贏決す
  拍手何慳雙涙痕   拍手何ぞ慳まん 双涙の痕


蛇足: 双涙=敗戦投手。

※ 日本人の判官びいきと申しますか、敗者に焦点をあてました。

  「球児」は和製の漢語と認識いたします。

2008. 2. 8                 by 井古綆

 追伸いたします。

 その後「叶公好雅兄」の前作数首を再読いたしました。関西には前国会議員のN氏がいらっしゃいまして、そのお方の口癖は“全国1億2千万の阪神フアンは・・・”と常に仰います。名古屋には雅兄のような熱烈なドラゴンズフアンがいらっしゃることを初めて知りました。わたくしが似非阪神フアンでよかったと思います。本物のフアンであれば、もしかしてホームページ上で喧嘩になったかもしれません(笑い)。

 それは兎も角、雅兄は年もお若いのにも関わらず、視点の鋭い感性に感服いたしました。今後雅兄の玉作に期待をいたしたいと追伸いたしました。

2008. 2. 9             by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第57作は 叶 公好さんからの作品です。
 

作品番号 2008-57

  無題(嵌字詩)        

山中蘚石重千鈞   山中の蘚石、重さ千鈞

本是堆成砂細塵   本是れ堆成す、砂細の塵

昌誉老功精控技   昌誉の老功 精控の技

広稱湖海愛球人   広く稱ふ 湖海愛球の人

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

起句 山の中の苔むした石は重さ18トン
承句 この大岩ももともと細かい塵のような砂が積み重なってできた
転句 そのように長年にわたって誉れある勝利を積み重ねた
   老頭(ベテラン)の功績と精密な控制(コントロール)の技を
結句 広く五湖四海(=全世界)の野球ファンが称賛する

・・・ノーノー達成時の五絶よりいい作品です。中学生にもわかるんじゃないかな?

 なお、実作して分かったことですが、日本語でも英語でも漢文でも折り込みの作り方は全くいっしょです。
 #大事なのは平仄より全体で意味が通っていること、不自然に感じられないこと
  ついでに語彙力が要求されるのもいっしょですね。

 質問です。重いと重なるは意味が違うし、平仄も違うし、現代語でも発音が違いますが、累年を重年とすると同字重出になりますか?

<感想>

 各句の句頭で「山本昌広」選手の名前を折り込んだ形で、言葉遊びの一種ですね。お書きになったように、語彙力が無いと不自然さを逃れることは難しく、そうした点でよく工夫された作品になっていますね。
 是非、山本選手に読んでいただいて、来シーズンの活躍を期待したいところです。
 日本人選手が大リーグに行くことが多くなっていますので、なかなか二百勝を国内で達成することが難しい状況ですので、是非体調を整えて達成してほしいと中日ファンならずとも願います。

 ご質問の同字重出についてですが、色々な考えがあるのが実情です。基本的には、漢詩の規則は詩の内容によって破られる場合もある、という点が微妙さを生んでいると思います。古人の作を読んでも同字重出の詩はいくつか見られるのですが、音調上の工夫が見られるとか、反復による効果、言葉の積み上げによる効果などで説明されています。
 本によっては、意味や品詞(動詞と名詞とか動詞と形容詞とか)の違いがあれば(平仄も異なるから)許されると言われたりもしますし、違いがあっても同じ字は避けるべきだという意見もあります。
 曖昧な部分は緩やかな方を選びたいと私は思っていますが、同字重出については、「同じ句中ならば効果が明確なので認める」べきだと私は思います。しかし、句をまたがって用いる場合は、絶句や律詩という字数制限のある定型詩では避けなければいけないでしょう。
 その前提の上で、敢えて同字重出の効果を狙いたいという強い意図があるならば使用も可だと思いますが、その場合には読者は当然、「相当の意志をこめた効果」を読み取ろうとしますので、重出の字だけが浮き上がってくることを覚悟しなくてはいけません。
 以上が私の考えです。

2008. 2. 8                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第58作は 叶 公好 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-58

  和自作添之以和歌及英詩  
      自作に和し、これに添ふるに和歌及び英詩を以てす   

蒼龍到達日東天   蒼竜、到達す、日東の天

英斷継投青史傳   英断の継投、青史に伝はらん

五十三秋深恨蔓   五十三秋、深恨の蔓

雙鎌根絶穫完全   双鎌、根絶して完全を穫たり

          (下平声「一先」の押韻)


あしびきの山井のあとをうけつぎて魂わたりたり守護神の手に

I praise a pitcher has an iron arm
Who goes to the mound with growing alarm.
As if it were no matter,
Shatters all batters,
Ends the ball game filled with charm.

In the web, we call you "DEATH 13".
With exact control like a machine,
As you hurl a sharp sickle,
Streams blood trickle,
Everybody delights in the massacre scene.

大飛球……森野が捕ってもろびとのこぞりて叫ぶ声「あとひとり!」

If you left our homeland team,
Would mourn two millions of Nagoyans per diem.
Aspire the fans:
"Slay Fighters, The Fireman!"
"Enlighten the Dragons' way to the Dream!"

<解説>

 和歌を詠んだのは中学の宿題以来。枕詞をこんなふうに使うか、ふつう(笑)
とはいえ、魂わたりたり は漢詩や英語詩ではできない表現かと・・・

 英詩の韻の踏み方は刑事コロンボ「策謀の結末」を参考にしました。やっと満足のいく言の葉を紡ぎ出せました。

 #英会話学校はいっぱいあるのに英詩の投稿サイトってないのね(笑)
  今どきは韻を踏む英単語をネットで簡単に検索できるから
  こんなのを作るのは全然難しくないはずですが、
  ネットで見る限りno rhyme or reasonな詩ばかり。
  冠詞や前置詞のミスはご愛敬ということで。

 なお、英詩は自己流ですが、東京ドームまたは神宮でメガホンを敲きまくって(推してはいません)、ちゃんと一定の強弱リズムを刻めるように作ってあります。
 口に出して脚韻の美しさに酔いしれてくだされば幸いです。

 さて、漢詩ですが、日本シリーズ敗退を歌った前作「電視日本系列戰惨敗」に依韻して続き物にしています。
「不吉な13番」を背負った「死神」が「必殺の鎌」で人の魂を断ち切るというのは西洋のイメージなので、漢文のほうでは少し変えてクズかヤブガラシかカナムグラか、とにかく53年分の雑草を鎌で刈り払ってパーフェクトが達成されるという形にしてみました。

 かくて、あの「西武球場石ころ事件」以来25年、ようやく恨から解放されました。
「亢龍」にならないように今後も精進して欲しいものです。

こんなのを投稿していいのだろうかしら?

<感想>

 53年ぶりの日本一ということですので、まあ、投稿も許可しましょう。これで、他球団を応援する方達がそれぞれのチームの応援詩がガンガン来たりすると、ホームページの性格が変わってしまうことを怖れます(が、まず大丈夫でしょうね)
 それよりも、漢詩・和歌・英詩で詠み上げた叶公好さんの多才さに感心しました。
 枕詞の使い方については、よく分からないのですが(つまり、こういう固有名詞の一部に使うという例を知らないということですが)、可能ならば「あしびきの山井の水をつぎ受けて」くらいにすれば問題なくなるでしょうね。

2008. 2. 8                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第59作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-59

  偶 懷        

官途散士厭煩忙,   官途の散士 煩忙を厭い,

 走求詩坐草堂。   亡走ぼうそうして詩を求め草堂に坐る。

 業游魂舞仙境,   口業こうぎょう 魂を遊ばせて仙境に舞い,

 公悦耳勸霞觴。   土公どこう 耳を悦ばせて霞觴かしょうを勧む。

 立三春誇酒量,   角立かくりつして三春に酒量を誇り,

 居千載忘家郷。   里居りきょして千載に家郷を忘る。

 麼延壽成樗櫟,   幺麼ようま 寿を延ばして樗櫟ちょれきとなり,

 事山中無盡藏。   楽事 山中に無尽蔵。

          (中華新韻「十唐」の押韻)

<解説>

 亡走:逃げる。口業:ここでは詩を作ること。
 土公:土地の長者。ここでは仙人の長老。
 霞觴:仙人が使う杯
 角立:力の程度が同じくらいでせりあう。
 里居:役人をやめて田舎に住む。
 幺麼:つまらないもの。つまらない人物。
 樗櫟:役にたたない樹木、人物。
 樂事:楽しいこと。

 藏頭七律です。藏頭詩は、各句の頭字がみな前句の尾字に隠されている(『詩体明弁』)詩です。
 拙作では、第2句の頭字は、第一句の末字「忙」から「亡」であるということになります。以下、堂→口、境→土、觴→角、量→里、郷里→幺、櫟→樂。
 藏頭詩は絶句ではかなり楽に作れます。句の尾字を分解して考え、次の頭の候補になりそうな尾字を選べばよいので、 先のことは考えずに筆の赴くままに、という感じで作詩を楽しめます。 何をどう書くかで思いをめぐらせなければならない面が、通常の詩よりも少ないだけ楽です。
 しかし、律詩は、そういう中で対句をきちんと作らなければならないので、いささか手ごわい。 絶句では簡単なことが、律詩では難しくなります。そこで、絶句の藏頭詩は、中国の詩人には、あまり評価されないと思えます。
 なお、藏頭七律には、白居易の作例があります。

  水洗塵埃道未甞, (甘)于名利兩相忘。(心)懷六洞丹霞客,(口)涌三清紫府章。
  (十)里采蓮歌達旦,(一)輪明月桂飄香。(日)高公子還相覓,(見)得山中好酒漿。


<感想>

 最初鮟鱇さんのこの詩を最初に拝見した時は、二句目以降が頭の字が入れ忘れているのか、六言詩を作られたのかと思いましたが、藏頭詩と言うのですね。不勉強ですみません。

 末字をそのまま使うのではなく、部品として拾い出すというところには、漢字の意味の世界から図形の世界への転換があるわけで、そういう意味での頭の柔軟さが求められますね。でも、面白そうですから、今度私も挑戦してみます。

 内容としても、結句の山中の楽事が頷聯と頸聯に描かれ、夢心地のような世界が描かれていますね。ただ、冒頭の「官途散士厭煩忙」は「宮仕えの怠け者は仕事が嫌い」と言われているわけで、我が身を省みつつドキッとしました。

2008. 2. 8                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第60作も 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2008-60

  無言絶句        

蒼鴻帶翰曉天啼,   蒼鴻 翰を帯びて曉天に啼き,

雅友佳吟如吐霓。   雅友の佳吟 霓を吐く如し。

終日無言案絶句,   終日 言無くして絶句を案じ,

通宵有酒忘詩題。   通宵 酒有りて詩題を忘る。

          (中華新韻「十二斉」の押韻)

<解説>
 翰:書翰。
 霓:牝の虹。
   日本語の「絶句する」を詩材としています。和習です。お笑いください。
 なお拙作、現代韻で作詩しています。転句の六字目の「絶」は現代韻では平字になります。

<感想>

 起句「蒼鴻」は以前に鮟鱇さんの解説で「大きな雁」と書かれていましたね。直後の「帯翰」とで蘇武の故事が浮かび上がってきますが、ここでは「雅友」からの手紙(メールかな?)が届いたということでしょう。
 題に用いられた「絶句」について、解説に書かれた「日本語の『絶句する』を素材としています」というのが逆に悩ましいですね。日本語の日常の会話で、どんな場面でどう使われるか、現代の生きている言葉を相手にすることになりますので、「話の途中で言葉に詰まる」(『広辞苑』第五版)という言葉の意味だけではなく、そこにどんな感情がこめられているのか、というところに連想の幅が広がります。
 「あまりのひどさにあきれ果てて絶句した」のか、「急なことにびっくりして絶句した」のか、「ある種の感情がこみ上げてきてこらえきれずに絶句した」のか、様々な感情をからませて私たちは普段使っていますので、鮟鱇さんのこの詩ではどこを指してどの気持ちで言ってるんだろうと迷うわけです。
 詩中の「絶句」文字通りに解釈できますし、漢詩として共感しやすい詩だと思いましたが、題名にどうやら爆弾が仕掛けられていたようで、悩むこともまた楽し、ということですね。

2008. 2. 9                 by 桐山人