作品番号 2000-61
一雨 三耕
梅要待残花
於桜葉出華
文成千里外
一雨惜春過
<解説>
[語釈]
「要」 :必ず。
「文成」:文字通りの意。又「文成侯」こと張良も指す。
<感想>
三耕さんからこの詩をいただいたのは、遅かった今年の桜も盛りを過ぎ、まさに雨に色を傷めさせていた頃でした。
今年は何故か葉桜が目に濃く残り、真っ白な桜霞よりも、新芽の影を映しだして少し陰影を持った枝々が印象的でした。
結句を私は「一雨 春を惜しみ過る」と読みました。「春の過ぎるを惜しむ」よりも雨がさっと通り過ぎて行く感じがしたからですが、どうでしょうかね。
2000. 4.26 by junji
作品番号 2000-61
懷阿母 阿母を懷う 謝斧
平生懷阿母 平生 阿母を懷い
慈恵似寒泉 慈恵 寒泉に似たり
展墓供花卉 展墓 花卉を供す
白葩哀慕牽 白葩 哀慕を牽く
<解説>
[訳]
亡くなった母親のことを思いだすことがあります。
其の優しさは寒い冬の、冷たい泉のようです(詩経 凱風)
今日墓に詣でて花を供えました。
白いカーネションの花が殊更に悲しみをひきます。
<感想>
同じ題で以前に頂いた作「懐阿母」をもう一度読みました。
場面設定の違いも勿論あるでしょうが、律詩と絶句という形式による違いが詩の雰囲気を大きく変えていると思います。律詩の方は、対句の使用や、何よりも使用語数の多さで、感情が流れるように大きく明確に描かれています。絶句は、言葉を絞り込んだ分だけ、感情が昇華されて、深い悲しみが感じられます。
5月には「母の日」が来ますね。私もお墓参りに行って、カーネーションを供えて来ようと思っています。
2000. 4.27 by junji
作品番号 2000-63
悼春 春を悼む 木筆
瀟瀟東帝涙 瀟瀟たり 東帝の涙
鼎鼎首徒掻 鼎鼎として 首 徒らに掻く
花蕊零舗地 花蕊 零ちて地に舗す
悼春不入騒 春を悼みて 騒に入らず
<解説>
春雨は詩趣を添え、詩心を引きだして呉れるものだった筈、
然し、心臓の病気を患ってからは、春の雨は苦しみをもたらすものに変わってしまいました。
ただただ、苦しみをこらえ、時の過ぎるのを虚しく待つばかり、
散り落ちた花の、雨に濡れた道に無惨な(普通なら、これも風流のうち)姿を晒すのを窓外に眺め、とても裁詩の気持ちも湧いてこない。
少し、暗い詩になってしまいました。
<感想>
春は凍てついた冬の心を暖めてくれるものですが、でも、春だからこそ心が痛むこともあります。
私も昨年来、身体のあちこちの不調に苦しんでいますが、調子の悪い時はやはり、どんな景に出会っても詩心は動きません。「まだ修行が足りないからだ」と言われそうですが、病気に習熟するのは嫌ですし、「詩ができない時は無理をしてもできないのだ」と考えることにしました。
ところが、そうすると「できない時」ばかりになってしまい、やはり無理をしてでも作ろうと努力しなくては、と思ったり、堂々巡りの無節操な心に困っています。
承句の「鼎鼎」は、「時間がどんどん過ぎていく」という意味でしょうが、「のんびりとして身体に締まりがない」という意味もあります。体調不良の時は、泥虫のように、だらりと季節を眺めているのが、精神的には一番良いのかもしれませんね。
2000. 4.28 by junji
作品番号 2000-64
次韻杜甫絶句漫興 杜甫絶句漫興に次韻す 東坡肉
衆望托身智将来 衆望を身に托して 智将来る、
醒然猛虎勢難回 醒然たる猛虎 勢いめぐらしがたし。
胸中奥秘三年計 胸中の奥秘 三年の計、
必得秋登美酒杯 必ずや得ん 秋登 美酒の杯
<解説>
阪神タイガースが、首位に立ちました(^^)。(とりあえず一日だけ(^^;)
と言うわけで、この詩は阪神タイガースの野村監督を詠んだものです。
なお、題名が「次韻す」とかなっていますが、元の詩とこの詩には全く関連性はありません。原作と全く違うものが
できる、と言うのが次韻の妙味だと思っております(^^)。
最後にこの詩の問題点を……。
まず、一句目に私めの得意技「孤平」があります(^^;。
あと、二句目の「回」もちょっと苦しいかもしれません(^^;。
[語釈]
「奥秘」:胸に秘めた秘策のこと
「秋登」:秋の収穫のこと
[訳]
みんなの思いを受けて、智将がやって来た。
眠りから目覚めた猛虎の勢いは誰にも止められない。
胸に秘めるは、三年間の秘策。
きっと秋には、実りある収穫と「美酒の杯」を得ているだろう。
<感想>
阪神タイガースへの熱烈な声援が響いてきますね。
3年前、漢文の授業の時に高校生に漢詩を作ってもらいました(高校生の創作)が、その時にも「タイガース応援歌」がありました。
作品番号 2000-65
痴事詩 鮟鱇
師事知詩既已遲
只思酔裡四時痴
誰期垂死詞離体
飛馳似驥喜追曦
<解説>
[訳]
「おろかにして詩をこととす」
師事して詩を知ったもののすでに遅く
ただ思うのは酔っ払っていつもおろかなわたし
だれが期待するものか、死ぬ間際には言葉が体から離れ
飛び馳せて一日千里の馬のように喜んで太陽を追うことを
この詩は三耕さんの詩「一雨」に触発されて試みた詩です。三耕さんの「一雨」は言葉の意味の多重性を保つために書き下し文を省かれていますが、拙作は漢語の音を意識していますので、テニオハが余計なものとなる書き下し文になじみません。拙作はピンインで書けば「i」で終わる語だけで作っております。なお、冒韻はやむをえません。
わたしは平生、わかりやすく単純な詩を心がけています。しかし、そういう含蓄のない、余韻のない詩ばかり書いていますと、たまには少々深遠な、あるいは難解で哲学的で少しは知的かもしれない詩を書いてみたいと思うことがあります。
どうすれば、そのような詩が書けるのか。ひとつの方法に、詩を作るに際して言葉選びの制約をより厳しくするとよいと思っています。たとえば回文詩、あるいは偏旁詩、そして、今回は同じ母音を集めてみました。
平仄・韻に加えての制約のなかで、何とか意味が通じるように集中する、そうすると、そのなんとかかんとかの辛うじて意味が通るという危うさのなかで、たとえれば薄氷を踏むような効果が生まれるとよいという架設を、わたしは夢見ています。
<感想>
ゲームはルールがあるからこそ楽しく面白いもの。しかしながら、漢詩のルールは、平仄・韻だけでも十分厳しい制約で、それを楽しむなんて境地にはまだまだ私には行けませんが、その上、更に制約を加えようという鮟鱇さんの執拗な言葉遊び、極限に追い込んでのトランス状態を高めるという感じでしょうか。
さて、鮟鱇さんのご期待のような、「少々深遠な、あるいは難解で哲学的で少しは知的」になっているでしょうか。うーん、私の感想としては、やっぱり分かりやすいと思います。でも、「分かりやすい」=「単純」というわけでは決してありませんので、十分に「哲学的」ではあります。
2000. 5. 8 by junji
作品番号 2000-66
山行 五言排律 謝斧
暖日雑英綻 暖日 雑英綻び
韶光嫩草生 韶光 嫩草生ず
溪深野寺澹 溪深くして野寺澹に
春浅葛衣軽 春浅く葛衣軽し
聚足石矼滑 足を聚めて石矼滑かに
欹身崕樹傾 身を欹てて崕樹傾く
攀蘿登石嶂 蘿を攀じて 石嶂に登り
沿澗入雲程 澗に沿って 雲程に入る
狼顧逢人喜 狼顧 人に逢っては喜び
狐疑迷逕驚 狐疑して 逕に迷っては驚く
劬劬扶杖歩 劬劬 杖に扶けられては歩す
勿怪嬉山行 怪む勿れ 山行を嬉むを
<解説>
初めの四句は平板で新味をかいて、甚だ陳套であります。
後の八句はやや工夫をしましたが、全体的に不満が残る詩です。
[訳]
山行
暖かい日になって、いろいろなはなびらが綻び
美しい春の光が 嫩い草を生じさせる
奥深い谷合の寺は人気がないために澹に
春は浅く 少し肌寒いので、却って葛衣が軽く感じられる
足が滑るために、小刻みに歩を移しては 飛石を渡り
身を横にしては 崕樹の傾く中をくぐる
蘿を攀じっては やっと 石嶂に登りつき
谷川に沿って歩けば 深い山道に分け入る
寂しくなっては、頻りに後ろを振り返り、人に逢っては安心する
岐路に会えばどちらに行けばよいのか思案し、逕に迷っては驚く
苦労して 杖にすがっては目的地に向かって歩く
知らない人は、苦労して山行を嬉む事を不思議がるでしょう
<感想>
排律を送っていただいたのは、初めてですね。
前半は仰る通り、他でも多く見られる表現だと言えばそうですが、でも、山登りを考えると、どんな山でも登り初めは同じようなもの。麓の光景は見慣れた安定感を与えるますが、登っていくにつれ、それぞれの山固有の顔を見せてきます。
詩も同じように考えれば、初めは落ち着いた春景を描いて、次に来る展開への準備、ウォームアップとなります。ただ、そうならば山中の景にもう少し季節を表す語が欲しいところでしょうか。
2000. 5. 8 by junji
作品番号 2000-67
諏訪北澤美術館 羊羊
玻璃巧藝象形柔
色澤絢華鍾衆眸
錦上添花滿窓景
藹然春望靜湖頭
<解説>
新緑の季節なりました。いつも「悲歌」ばかりでは能がないので、穏やかなものに致しました。
すでにいらっしゃったかと思いますが、小さい美術館ながらに、地方で産を成したお人の満足感が満ち満ちていて、羨望を禁じ得ません。
[語釈]
「玻璃」 :ガラス
「鍾」 :集める
「錦上添花」 :美しいものをさらに美しく見せる
「藹然」 :気持ちが和らぎ穏やかなさま
[状況説明]
諏訪湖の沿岸に建てられた北沢美術館には、同地の事業家が収集した工芸・絵画が収められている。ことにエミール・ガレなどの、いわゆるアール・ヌーボウに属する作家のガラス工芸品が有名。
同時に大きなガラス窓を通してみる諏訪湖の展望、とくに落日の美しさがよく知られている。
詩では「錦上添花」としたが、じっさいにはこの絶景に惹かれてこの美術館を訪ねる人が多いと聞く。
<感想>
転句の「錦上添花」が全体をやや緩ませているように思います。
室内展示を起承句で描きましたから、転句は館外の景でも、窓からの景でも、十分に「転」の役割を果たすと思います。「錦上添花」は、起承を受けているようで、更に転換もあり、という感じで、ややどっちつかず、その分印象が薄くなっているように感じました。
夕景を描き出すなり、外の春景を描くなり、ここは実景を畳みかけた方が面白いのではないでしょうか。
春の諏訪湖には残念ながら行ったことが無いのですが、羊羊さんの結句は雰囲気を伝えて余りありますね。
2000. 5. 8 by junji
作品番号 2000-68
楊柳枝:夕釣 鮟鱇
落日山湖照芥舟 落日山湖に芥舟を照らし
暮雲游 暮雲游ぶ
閑人垂釣喜風柔 閑人 垂釣して風の柔らかきを喜び
楽身浮 身の浮なるを楽しむ
焼尽彩霞図画裏 焼き尽くす彩霞、図画の裏(うち)
峰巒紫 峰巒 紫なり
瞻看眉月若銀鉤 瞻看すれば眉月 銀の鉤のごとく
思悠悠 思い悠悠
<解説>
先日、私見ではありますが、十言の「絶句」のようだということで、「大平時」という詞牌の詞を投稿させていただきましたが、きょう投稿の「楊柳枝」は「太平時」ととてもよく似て、後段第2句の平仄だけが異なります。
絶句転句との対応でみれば、「太平時」よりももっと絶句に近いように思います。
前段:
△●○○●●◎、●○◎
△○△●●○◎、●○◎
後段:
△●△○○●★、○○★
(★は仄声押韻:「大平時」は△●△○○●●、●○◎)
△○△●●○◎、●○◎
<感想>
前作の「太平時」を読ませていただいた時にも、鮟鱇さんが仰る「十言の絶句」という感じがしましたが、今回もなるほどと思いました。
「七字+三字」の、この「三字」がとても面白いと思います。独立しているようでもあれば、前七字を承けてもいて、要のようでもあれば「おまけ」のようでもあり、展開上、自由自在の役割を果たしているようですね。
それが、この「詞」の表現の自由さを高めているのでしょう。定型詩から自由詩へと発展していった中国の詩の歴史の中で、「宋詞」の位置づけは重要だと思います。
2000. 5. 9 by junji
作品番号 2000-69
歳晩偶成 深渓
年華除日巷衢騒 年華除日、巷衢(こうく)騒がしくも
専擬詩人筆硯労 専ら詩人に擬して筆硯(ひっけん)労す
何事回頭聴燈下 何事ぞ頭を回らし燈下に聴く
梵鐘鳴度一声高 梵鐘鳴り度りて一声高し
<解説>
詠んだ通りですが、年末に人々が騒がしく動き回っているのに、自分は詩人のまねをして詩を作っている。そのとき除夜の鐘の音が聞こえてきた。と、そういう意味です。
<感想>
前半の起句・承句は、仰るとおりの年末の情景や雰囲気がよく表れていると思います。
転句からですが、「聴・鐘・鳴・声」など、音と関係のある字が繰り返されていて、もう少し整理できそうな気がします。転句は思い切って、その時に心に浮かんだ内容を直接描いてみたらどうでしょうか。
一年を振り返っての感想、新年に向けての希望、それらが心の中を一杯に去来する時に、除夜の鐘が聞こえてふっと現実に戻る、そうした「起承転結」の展開も一案として参考にして下さい。
2000. 5. 10 by junji
作品番号 2000-70
君成母偶見 君、母となるを偶見す 金先生
慈愛有明眸 慈愛 明眸に有り、
我驚年月流 年月流れるに 我驚く。
憶君青春夢 君を憶すは青春の夢
窓外私自羞 窓の外 ひそかに自ら羞ず。
<解説>
[訳]
君が母となるをたまたま見かける
その眸は 子供への慈愛があふれている、
(君がもう子供をもつほど)
時がたっていたのかと私は驚いた。
君との青春の一こまを共有できたことを私はまだ覚えているが、
(今日の君の姿を見たら、学生時代のことを思い出したり)
(まだ独り身でいる自分のことを考えると)
どことなく自分が恥ずかしくなってきた。
中学校の同級生の女の子が嫁いだ家の前をたまたま通りかかった時に、幼稚園か小学校低学年の子供と夕食をしている姿が窓の外から見えました。
私の中では中学校から高校ごろまでのイメージしか残っていなかったのですが、もうすっかり「母」の姿になっていました・・。
結句の「ひそかに自ら羞ず」というのは、この女の子に少なからず好意をもっていたことを思い出してちょっとはにかんでしまったことと、私はいまだに独り身であることへの複雑な気持ちの現れとでも言いましょうか。
<感想>
この詩は、心情としてはとても分かりやすく、ひょっとしたら誰もがいつかはふと抱く、切ない思いではないでしょうか。こうした若々しい(?)気持ちが込められた詩は、日本の漢詩では数が少ないので、とても良いと思います。
しかし、表現としては、修正した方が良いと思われる所がいくつかあります。
@平仄について
詩全体の平仄を見ますと、次のようになっています。
〇●●○◎
●○○●◎
●○○○●
○●○●◎
五言絶句ですので、初句に押韻の必要はありませんが、ダメというわけではありません。
転句・結句が「二四不同」の原則を破っています。これは避けるべきですから、用語をもう一度検討して下さい。
A用語について
一般的に、自分の心情を言葉として定着させる「詩」では、一人称の主語は要りません。と言うよりも、「この私だけが」とか「他ならぬ私が」などと特別に強調する以外には、かえって邪魔になります。承句の「我驚」は、「驚」一字で十分意味が伝わりますので、たった一字ですが内容を深める言葉を入れたらどうでしょう。「驚」を修飾する言葉が良いと思います。
転句の「青春夢」ですが、漢詩では「夢」は眠った時に見るものだけを指しますので、ここは「青春日」にすると良いでしょう。しかし、二四不同の問題と、句全体の意味も目的語が二つあってやや分かりにくい感じがしますので、句そのものを修正してみたらどうでしょうか。
ご検討下さい。
2000. 5.10 by junji
作品番号 2000-71
磯釣 三耕
釣磯終日只海音 釣磯 終日 只だ 海音
波頭波底復浮沈 波頭 波底 復た 浮沈
世人倦世帰何処 世人 世に倦みて 何処にか帰る
空水青青相不侵 空水 青青として 相い侵さず
<解説>
息子の付き合いで、連休に三浦半島に行ってまいりました。その折の一篇を投稿させていただきます。
寄せては返す波の音は、遠い昔、母親の胎内で聴いたことのある懐かしい音でしょうか。
[語釈]
「倦」:うむ。
<感想>
海の景を詩で詠うのは漢詩には少なく、日本人の詩の方が私は印象に残るものが多く思います。
例えば、頼山陽の詩で有名なものに、
『泊天草洋』
雲耶山耶呉耶越 雲か山か呉か越か、
水天髣髴青一髪 水天髣髴青一髪。
万里泊舟天草洋 万里舟を泊す天草の洋、
煙横篷窗日漸没 煙は篷窗に横たはって日漸く没す。
瞥見大魚躍波間 瞥見す大魚の波間に躍るを、
太白当船明似月 太白船に当りて明月に似たり。
も「スゴイ!」と思いましたし、
『阿嵎根』
危礁乱立大濤間 危礁乱立す大濤の間、
決眥西南不見山 眥を決すれば西南山を見ず。
鶻影低迷帆影没 鶻影は低迷し帆影は没ず、
天連水処是台湾 天水に連なる処是れ台湾
も「デカイ!」と感動しました。
三耕さんのこの詩は、起承転結が整っていて、日常の世事から離れた(まさに連休だったからでしょうか?)悠然とした心情がよく表れていると思います。心の疲れがふっと取れるような詩ですね。
結句の「空」の用法につきましては、以前も三耕さんがよく調べておられましたが、今回のはどうでしょうか。「空山」「空谷」「空江」などの熟語からは、どうしても「誰もいない」「空虚」という感じがします。
頼山陽は「水天」「天連水」として、「空」の字を避けているようですね。「空」と「水」の二者を強調するのなら「空与水」とするか、読み下す時に「空と水と」とそれぞれを分けるようにすると良いかもしれません。
2000. 5.11 by junji
作品番号 2000-72
山郭賞花 鮟鱇
遠峰残雪路桜花 遠き峰に殘雪 路(みち)に櫻花
擁擠山村游覧車 山村に擁擠(ようせい)す 游覧車
高地春遅恵風急 高地 春遅くも恵風急にして
梅桃猶有艶姿誇 梅桃猶有り 艷姿誇る。
<解説>
[語釈]
「擁擠」の「擁」は「群れる」、「擠」は「押しのける」で、「混み合う」の意。
「游覧車」は「観光バス」のこと、いずれも漢和辞典ではなく、日中辞典で調べた言葉です。
連休の間に尾瀬のミズバショウと妙義山の桜を見に行きました。
観光バスで一泊二日、格安のパック旅行で苗場プリンスホテル宿泊。本格的に尾瀬を歩くのは大変だし、花を見にいくのにわざわざ車を走らせる気にもなれず、安直に楽しむことにしました。不精なわたしの本性を見抜いた妻の発案です。
漢詩を作り始めてから、季節の移ろいに敏感になりました。
そうした中で、五十を過ぎて初めて知ったのは、東京では梅が散って桜が咲くまでにしばらく間があり、花のない時期があります。
しかし、バス5台を連ねて苗場に向かう道筋では、様子がまるで違いました。梅と桜が一緒に咲いている、詳しい方には当たり前のことでしょうが、小生にはとてもおもしろいことでした。
同じ主題で宋詞も作りました。あわせてご覧いただければ幸いです。
少年遊・山郭賞花
遠山残雪碧空浮,村路万紅稠。
艶艶桜雲,芳梅猶有,柳色映清流。
春遅高地喜風柔,花急画中収。
酒旆翩翻,売声婉約,最好酔消憂。
(訳)
遠山の残雪、碧空に浮かび、村路に万紅稠し。
艶艶たる櫻雲,芳梅なおあり、柳色清流に映ず。
春遅き高地、風の柔らかきを喜び、花は急いで画中に収まる。
酒籏は翩翻、売声は婉約にして、最もよきは酔って憂いを消すこと。
<感想>
こうして同じ主題で並べてみると、宋詞は全体の字数の多さもさりながら、句の自由度が高い分だけ、表現の深い所まで鮟鱇さんの手が届いている感じがしますね。
絶句の方が良くないわけでは決してありませんが、この主題のように、沢山の素材を一気に盛り込もうとすると、絶句ではやや苦しく、無理して削ってしまう印象です。(もっとも、仮に絶句の方だけを読んだとしても同じ様に思ったか?、と言われると困りますが・・・・)
「酒旆翩翻,売声婉約,最好酔消憂」などは、鮟鱇さんのお得意のフレーズですよね。こういう表現、私も大好きです。
2000. 5.13 by junji
作品番号 2000-73
適意 全対格 謝斧
出門遊目風光好 門を出でて 目を遊す 風光の好きに
去路怡顏節物遷 路に去れば 顏を怡ばす 節物の遷るに
楊柳風輕青糸揺 楊柳に風は輕く 青糸揺ぎ
櫻桃雨歇臙脂鮮 櫻桃 雨は歇みて 臙脂鮮なり
家貧自笑多間亊 家貧しく 自ずから笑う 間亊の多きに
身老誰嘆少世縁 身は老いても 誰か嘆ぜん 世縁の少きを
時坐林堤閑捜句 時に林堤に坐して 閑かに句を捜り
偶來山寺獨安禪 偶々山寺に來りては獨り禪に安んず
<解説>
いつもお世話になっております。
閑適詩です。始めから全対格を意識して作ってみました。五、六句が自分の言いたかったことです。
シンメトリーの効果は出ていますでしょうか。
<感想>
各聯ともに、対句の楽しさ、面白さが出ていて、謝斧さんが詩を作られた時の気の動きが感じられるようですね。
五、六句の主題もよく分かります。
ただ、尾聯の「閑捜句」や「獨安禪」には世俗を抜けきった心境が描かれていますので、首聯の「遊目」や「怡顏」や、頸聯の「自笑」や「誰嘆」に、やや感情を出しすぎた感じがして、尾聯が浮いているように見えますがどうでしょう。
あ、でも、その辺りを計算して、尾聯を効果的に使っているのかな?
2000. 5.21 by junji
作品番号 2000-74
乗風騎自行車 風に乗りて自行車に騎す 東坡肉
身似飛龍到天門 身は飛龍に似て、天門に到る
勢成騎虎渡乾坤 勢いは騎虎と成りて、乾坤を渡る
長駆万里無人境 長駆、万里、無人の境
何用弐師征大宛 何ぞ用いん、弐師の大宛を征するを
<解説>
実は、私め趣味で自転車に乗っておりまして、これは、「追い風を受けながら自転車を漕いでいる」という、自転車乗りにとっては最高の快感を表現した詩です。
まあ、ちょっと風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなっている感も無きにしもあらず、ですが(^^;。
[語釈]
[天門]:天上界の門のこと。
[弐師]:前漢の将軍、李広利のこと。
武帝の命を受けて名馬を得るために大宛国に遠征した。
[訳]
体はまるで天駆ける龍に似て、天上界まで行けそうだ(^^)。
まさに「騎虎の勢い」でこの世界中、どこまでも飛んでいける。
万里を駆けること、無人の地を行くがごとし。
これがあれば、弐師将軍を遠征させ、名馬を得る必要などない。
いつも掲載ありがとうございます(^^)。
前送った結婚の詩は中国でも好評だったようです(^^)。
実は、「陳家」にはお世話にならなければならない事情がありまして、例の詩が名刺代わりに成ったようです。
まあ、個人的には苦労した甲斐があったかな?(^^;
ではでは、再見!!
<感想>
現代の中国を代表するような「自行車」と、「弐師征大宛」というはるか古代の事件とが結び付く、こういった所が文学の面白い所だと思います。
まさに、発想の勝利。確かに「到天門」「長駆万里」などは、表現としては大袈裟すぎる感もしますが、でも、内容の爽快さがそんな欠点もサラリと忘れさせてくれます。
私も自転車は好きです。風を切って走っていると、自分がどこまでも飛んでいけるような気がする、よく分かります。
昨年来、歩くのに不自由していましたが、最近、自転車にも乗れるようになり、近くの図書館くらいまでならスイスイ(?)と走っています。放置と盗難さえ無ければ、無公害のすばらしい乗り物だと思います。
形式の面では、結句が「上声」です。結句は詩の中では要の部分、ここで韻がずれると全体が緩みます。無理をせずに韻を揃えた方が良いと思います。
また、起句が「二六対」の原則から外れていますので、修正できれば直しておいた方が良いでしょう。
2000. 5.22 by junji
作品番号 2000-75
相見歓:春 夕 鮟鱇
花多墨水風馨, 花多き墨水、風馨り、
盛開櫻。 盛開の櫻。
江畔春粧甘美, 江畔の春粧甘美にして、
賞心傾。 賞心傾く。
翠漣耀,紛反照, 翠漣耀き、反照に紛れ、
落英軽。 落英軽し。
最好夕陽横射, 最も好きは夕陽の横射、
暮烟生。 暮烟生ず。
<解説>
[語釈]
墨水:墨田川。
盛開:現代中国語で満開の意。
反照:照り返し
宋詞の投稿お許しください。
きょう投稿させていただく「相見歓」という詞牌(詩形)の詞譜はおおむね次のとおりです。
前段:
△○△●○◎、●○◎。
△●△○○●、●○◎。
後段:
△△★、△△★、●○◎。(★仄声押韻)
△△△○○●、●○◎。
私には「相見歓」は九言の「絶句」のような感じがしてなりません。
起承転結でいえば、後段冒頭九字(絶句の転句にあたる)は三・三・三としていますが、他は九言を二・二・二・三と読むことになりますので、絶句では難しい転句の効果を、リズムのうえでも実現しているように思います。
拙作後段第一・二句「翠漣耀,紛反照」、押韻の都合であまりうまくできていません。「耀」と「反照」のイメージがつき過ぎています。また、第四句の「夕陽」も工夫が必要だと思います。
なお、拙作の韻については、平声韻は「庚・青(通用可、さらに蒸とも通用可)」、仄声韻は「去声十二嘯(去声効・号、上声巧・篠・皓と通用可)」を用いています。
<感想>
宋詞を鮟鱇さんからいただく度に、私も挑戦してみようと思うのですが、途中が混乱して来て、つい投げ出してしまいます。我慢が足りないのでしょうかね。今度はちょっと気合いを入れてみますので、完成したらご指導下さい。
「反照」と「夕陽」が実質的には同じ内容で、絶句の場合は重複になるので避けたいところですが、「詞」ではどうなのでしょうか。
2000. 6. 1 by junji