第61作は 三耕 さんからの作品です。
 この作品は、「転句二様につき、読み下しはご遠慮します」とのことでした。

作品番号 2000-61

  一雨          三耕

梅要待残花   

於桜葉出華   

文成千里外   

一雨惜春過   

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 [語釈]
「要」  :必ず。
「文成」:文字通りの意。又「文成侯」こと張良も指す。

<感想>

 三耕さんからこの詩をいただいたのは、遅かった今年の桜も盛りを過ぎ、まさに雨に色を傷めさせていた頃でした。
 今年は何故か葉桜が目に濃く残り、真っ白な桜霞よりも、新芽の影を映しだして少し陰影を持った枝々が印象的でした。
 結句を私は「一雨 春を惜しみ過る」と読みました。「春の過ぎるを惜しむ」よりも雨がさっと通り過ぎて行く感じがしたからですが、どうでしょうかね。

2000. 4.26                 by junji





















 第62作は 謝斧 さんからの作品です。

作品番号 2000-61

  懷阿母    阿母を懷う  謝斧

平生懷阿母   平生 阿母を懷い

慈恵似寒泉   慈恵 寒泉に似たり

展墓供花卉   展墓 花卉を供す

白葩哀慕牽   白葩 哀慕を牽く

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 [訳]
 亡くなった母親のことを思いだすことがあります。
 其の優しさは寒い冬の、冷たい泉のようです(詩経 凱風)
 今日墓に詣でて花を供えました。 
 白いカーネションの花が殊更に悲しみをひきます。

<感想>

 同じ題で以前に頂いた作「懐阿母」をもう一度読みました。
 場面設定の違いも勿論あるでしょうが、律詩と絶句という形式による違いが詩の雰囲気を大きく変えていると思います。律詩の方は、対句の使用や、何よりも使用語数の多さで、感情が流れるように大きく明確に描かれています。絶句は、言葉を絞り込んだ分だけ、感情が昇華されて、深い悲しみが感じられます。
 5月には「母の日」が来ますね。私もお墓参りに行って、カーネーションを供えて来ようと思っています。

2000. 4.27                 by junji





















 第63作は 木筆 さんからの作品です。
 木筆さんは、以前の号は「青巒」さんでした。先日「木屑」さんとして紹介しました(2000年第50作)が、訂正なさるそうです。

作品番号 2000-63

  悼春    春を悼む   木筆

瀟瀟東帝涙   瀟瀟たり 東帝の涙

鼎鼎首徒掻   鼎鼎として 首 徒らに掻く

花蕊零舗地   花蕊 零ちて地に舗す

悼春不入騒   春を悼みて 騒に入らず

          (下平声「四豪」の押韻)

<解説>

 春雨は詩趣を添え、詩心を引きだして呉れるものだった筈、
然し、心臓の病気を患ってからは、春の雨は苦しみをもたらすものに変わってしまいました。
 ただただ、苦しみをこらえ、時の過ぎるのを虚しく待つばかり、
 散り落ちた花の、雨に濡れた道に無惨な(普通なら、これも風流のうち)姿を晒すのを窓外に眺め、とても裁詩の気持ちも湧いてこない。
 少し、暗い詩になってしまいました。

<感想>

 春は凍てついた冬の心を暖めてくれるものですが、でも、春だからこそ心が痛むこともあります。
 私も昨年来、身体のあちこちの不調に苦しんでいますが、調子の悪い時はやはり、どんな景に出会っても詩心は動きません。「まだ修行が足りないからだ」と言われそうですが、病気に習熟するのは嫌ですし、「詩ができない時は無理をしてもできないのだ」と考えることにしました。
 ところが、そうすると「できない時」ばかりになってしまい、やはり無理をしてでも作ろうと努力しなくては、と思ったり、堂々巡りの無節操な心に困っています。

 承句の「鼎鼎」は、「時間がどんどん過ぎていく」という意味でしょうが、「のんびりとして身体に締まりがない」という意味もあります。体調不良の時は、泥虫のように、だらりと季節を眺めているのが、精神的には一番良いのかもしれませんね。

2000. 4.28                 by junji





















 第64作は 東坡肉 さんからの作品です。
 東坡肉さんは、阪神タイガースのファンだそうです。首位に立ったという記念の詩です。(ちなみに、私はジャイアンツファンですが)

作品番号 2000-64

  次韻杜甫絶句漫興     杜甫絶句漫興に次韻す     東坡肉

衆望托身智将来   衆望を身に托して 智将来る、

醒然猛虎勢難回   醒然たる猛虎 勢いめぐらしがたし。

胸中奥秘三年計   胸中の奥秘 三年の計、

必得秋登美酒杯   必ずや得ん 秋登 美酒の杯

          (上平声「十灰」の押韻)

<解説>

 阪神タイガースが、首位に立ちました(^^)。(とりあえず一日だけ(^^;)
 と言うわけで、この詩は阪神タイガースの野村監督を詠んだものです。

 なお、題名が「次韻す」とかなっていますが、元の詩とこの詩には全く関連性はありません。原作と全く違うものが できる、と言うのが次韻の妙味だと思っております(^^)。

 最後にこの詩の問題点を……。
 まず、一句目に私めの得意技「孤平」があります(^^;。
 あと、二句目の「回」もちょっと苦しいかもしれません(^^;。

 [語釈]
「奥秘」:胸に秘めた秘策のこと
「秋登」:秋の収穫のこと

 [訳]
 みんなの思いを受けて、智将がやって来た。
 眠りから目覚めた猛虎の勢いは誰にも止められない。
 胸に秘めるは、三年間の秘策。
 きっと秋には、実りある収穫と「美酒の杯」を得ているだろう。

<感想>

 阪神タイガースへの熱烈な声援が響いてきますね。
 3年前、漢文の授業の時に高校生に漢詩を作ってもらいました(高校生の創作)が、その時にも「タイガース応援歌」がありました。

風下六甲山   風は下る六甲の山
気上甲子園   気は上がる甲子園
彼率猛虎軍   彼率いるは猛虎の軍
求勝燃闘魂   勝ちを求めて闘魂を燃やす


 まだまだペナントレースは始まったばかり。他球団のファンの方々も、「美酒杯」を飲み干すまでは、応援もがんばりましょう。


2000. 5. 3                 by junji





















 第65作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 「この詩は音読していただきたいので、書き下し文、失礼します。」とのことです。

作品番号 2000-65

  痴事詩          鮟鱇

師事知詩既已遲   

只思酔裡四時痴   

誰期垂死詞離体   

飛馳似驥喜追曦   

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 [訳]
  「おろかにして詩をこととす」
師事して詩を知ったもののすでに遅く
ただ思うのは酔っ払っていつもおろかなわたし
だれが期待するものか、死ぬ間際には言葉が体から離れ
飛び馳せて一日千里の馬のように喜んで太陽を追うことを

 この詩は三耕さんの詩「一雨」に触発されて試みた詩です。三耕さんの「一雨」は言葉の意味の多重性を保つために書き下し文を省かれていますが、拙作は漢語の音を意識していますので、テニオハが余計なものとなる書き下し文になじみません。拙作はピンインで書けば「i」で終わる語だけで作っております。なお、冒韻はやむをえません。
 わたしは平生、わかりやすく単純な詩を心がけています。しかし、そういう含蓄のない、余韻のない詩ばかり書いていますと、たまには少々深遠な、あるいは難解で哲学的で少しは知的かもしれない詩を書いてみたいと思うことがあります。
 どうすれば、そのような詩が書けるのか。ひとつの方法に、詩を作るに際して言葉選びの制約をより厳しくするとよいと思っています。たとえば回文詩、あるいは偏旁詩、そして、今回は同じ母音を集めてみました。
 平仄・韻に加えての制約のなかで、何とか意味が通じるように集中する、そうすると、そのなんとかかんとかの辛うじて意味が通るという危うさのなかで、たとえれば薄氷を踏むような効果が生まれるとよいという架設を、わたしは夢見ています。

<感想>

 ゲームはルールがあるからこそ楽しく面白いもの。しかしながら、漢詩のルールは、平仄・韻だけでも十分厳しい制約で、それを楽しむなんて境地にはまだまだ私には行けませんが、その上、更に制約を加えようという鮟鱇さんの執拗な言葉遊び、極限に追い込んでのトランス状態を高めるという感じでしょうか。
 さて、鮟鱇さんのご期待のような、「少々深遠な、あるいは難解で哲学的で少しは知的」になっているでしょうか。うーん、私の感想としては、やっぱり分かりやすいと思います。でも、「分かりやすい」=「単純」というわけでは決してありませんので、十分に「哲学的」ではあります。

2000. 5. 8                 by junji





















 第66作は 謝斧 さんから、排律の作品です。

作品番号 2000-66

  山行 五言排律        謝斧

暖日雑英綻   暖日 雑英綻び

韶光嫩草生   韶光 嫩草生ず

溪深野寺澹   溪深くして野寺澹に

春浅葛衣軽   春浅く葛衣軽し

聚足石矼滑   足を聚めて石矼滑かに

欹身崕樹傾   身を欹てて崕樹傾く

攀蘿登石嶂   蘿を攀じて 石嶂に登り

沿澗入雲程   澗に沿って 雲程に入る

狼顧逢人喜   狼顧 人に逢っては喜び

狐疑迷逕驚   狐疑して 逕に迷っては驚く

劬劬扶杖歩   劬劬 杖に扶けられては歩す

勿怪嬉山行   怪む勿れ 山行を嬉むを

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 初めの四句は平板で新味をかいて、甚だ陳套であります。
 後の八句はやや工夫をしましたが、全体的に不満が残る詩です。

 [訳]
    山行

 暖かい日になって、いろいろなはなびらが綻び
 美しい春の光が 嫩い草を生じさせる
 奥深い谷合の寺は人気がないために澹に
 春は浅く 少し肌寒いので、却って葛衣が軽く感じられる
 足が滑るために、小刻みに歩を移しては 飛石を渡り
 身を横にしては 崕樹の傾く中をくぐる
 蘿を攀じっては やっと 石嶂に登りつき
 谷川に沿って歩けば 深い山道に分け入る
 寂しくなっては、頻りに後ろを振り返り、人に逢っては安心する
 岐路に会えばどちらに行けばよいのか思案し、逕に迷っては驚く
 苦労して 杖にすがっては目的地に向かって歩く
 知らない人は、苦労して山行を嬉む事を不思議がるでしょう

<感想>

 排律を送っていただいたのは、初めてですね。
 前半は仰る通り、他でも多く見られる表現だと言えばそうですが、でも、山登りを考えると、どんな山でも登り初めは同じようなもの。麓の光景は見慣れた安定感を与えるますが、登っていくにつれ、それぞれの山固有の顔を見せてきます。
 詩も同じように考えれば、初めは落ち着いた春景を描いて、次に来る展開への準備、ウォームアップとなります。ただ、そうならば山中の景にもう少し季節を表す語が欲しいところでしょうか。

2000. 5. 8                 by junji





















 第67作は 羊羊 さんからの作品です。

作品番号 2000-67

  諏訪北澤美術館        羊羊

玻璃巧藝象形柔   

色澤絢華鍾衆眸   

錦上添花滿窓景   

藹然春望靜湖頭   

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 新緑の季節なりました。いつも「悲歌」ばかりでは能がないので、穏やかなものに致しました。
 すでにいらっしゃったかと思いますが、小さい美術館ながらに、地方で産を成したお人の満足感が満ち満ちていて、羨望を禁じ得ません。

 [語釈]
「玻璃」    :ガラス
「鍾」      :集める
「錦上添花」 :美しいものをさらに美しく見せる
「藹然」    :気持ちが和らぎ穏やかなさま

 [状況説明]
 諏訪湖の沿岸に建てられた北沢美術館には、同地の事業家が収集した工芸・絵画が収められている。ことにエミール・ガレなどの、いわゆるアール・ヌーボウに属する作家のガラス工芸品が有名。
 同時に大きなガラス窓を通してみる諏訪湖の展望、とくに落日の美しさがよく知られている。
 詩では「錦上添花」としたが、じっさいにはこの絶景に惹かれてこの美術館を訪ねる人が多いと聞く。

<感想>

 転句の「錦上添花」が全体をやや緩ませているように思います。
 室内展示を起承句で描きましたから、転句は館外の景でも、窓からの景でも、十分に「転」の役割を果たすと思います。「錦上添花」は、起承を受けているようで、更に転換もあり、という感じで、ややどっちつかず、その分印象が薄くなっているように感じました。
 夕景を描き出すなり、外の春景を描くなり、ここは実景を畳みかけた方が面白いのではないでしょうか。
 春の諏訪湖には残念ながら行ったことが無いのですが、羊羊さんの結句は雰囲気を伝えて余りありますね。

2000. 5. 8                 by junji





















 第68作 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2000-68

  楊柳枝:夕釣          鮟鱇

落日山湖照芥舟   落日山湖に芥舟を照らし

暮雲游          暮雲游ぶ

閑人垂釣喜風柔   閑人 垂釣して風の柔らかきを喜び

楽身浮          身の浮なるを楽しむ

焼尽彩霞図画裏   焼き尽くす彩霞、図画の裏(うち)

峰巒紫         峰巒 紫なり

瞻看眉月若銀鉤   瞻看すれば眉月 銀の鉤のごとく

思悠悠         思い悠悠

    ( 下平声「十一尤」 ・ 上声「四紙」 ・ 下平声「十一尤」の押韻 )

<解説>

 先日、私見ではありますが、十言の「絶句」のようだということで、「大平時」という詞牌の詞を投稿させていただきましたが、きょう投稿の「楊柳枝」は「太平時」ととてもよく似て、後段第2句の平仄だけが異なります。
 絶句転句との対応でみれば、「太平時」よりももっと絶句に近いように思います。

前段:
 △●○○●●◎、●○◎
 △○△●●○◎、●○◎

後段:
 △●△○○●★、○○★ 
    (★は仄声押韻:「大平時」は△●△○○●●、●○◎)
 △○△●●○◎、●○◎

<感想>

 前作の「太平時」を読ませていただいた時にも、鮟鱇さんが仰る「十言の絶句」という感じがしましたが、今回もなるほどと思いました。
 「七字+三字」の、この「三字」がとても面白いと思います。独立しているようでもあれば、前七字を承けてもいて、要のようでもあれば「おまけ」のようでもあり、展開上、自由自在の役割を果たしているようですね。
 それが、この「詞」の表現の自由さを高めているのでしょう。定型詩から自由詩へと発展していった中国の詩の歴史の中で、「宋詞」の位置づけは重要だと思います。

2000. 5. 9                 by junji





















 第69作は調布市の 深渓 さんからの、初めての投稿作品です。
 深渓さんはお手紙で、
まだまだ初心者ですが、学べば学ぶほど漢詩の深さに感心しております。今後も投稿を続けたいと思います。宜しくお願いいたします。」とのことでした。
 皆さんの感想も是非、お寄せ下さい。

作品番号 2000-69

  歳晩偶成          深渓

年華除日巷衢騒   年華除日、巷衢(こうく)騒がしくも

専擬詩人筆硯労   専ら詩人に擬して筆硯(ひっけん)労す

何事回頭聴燈下   何事ぞ頭を回らし燈下に聴く

梵鐘鳴度一声高   梵鐘鳴り度りて一声高し

          (下平声「四豪」の押韻)

<解説>

 詠んだ通りですが、年末に人々が騒がしく動き回っているのに、自分は詩人のまねをして詩を作っている。そのとき除夜の鐘の音が聞こえてきた。と、そういう意味です。

<感想>

 前半の起句・承句は、仰るとおりの年末の情景や雰囲気がよく表れていると思います。
 転句からですが、「聴・鐘・鳴・声」など、音と関係のある字が繰り返されていて、もう少し整理できそうな気がします。転句は思い切って、その時に心に浮かんだ内容を直接描いてみたらどうでしょうか。
 一年を振り返っての感想、新年に向けての希望、それらが心の中を一杯に去来する時に、除夜の鐘が聞こえてふっと現実に戻る、そうした「起承転結」の展開も一案として参考にして下さい。

2000. 5. 10                 by junji



 謝斧さんから感想とアドバイスをいただきました。

年華除日巷衢騒   専擬詩人筆硯労   
何事回頭聴燈下   梵鐘鳴度一声高   

 意味は
 もう歳もおしせまってきて町中は騒がしくなっています。
 私はもっぱら詩人のまね事をして詩を作っています。
 どうしたことか推敲しながら鐘の音を聞けば、
 鐘はここまで響きわたってきます 其の音はなかなか荘厳です

でしょうか

 転句が気になります。「何事」は「どうしたことか」と理解しますが、それ以降にその理由がありませんので、詩の内容が読者にはわかりにくくなっています。何事と云う措辞の効果がないように恩われます
 「回頭」は文脈から理解すると、推敲を重ねるという意味で使われているような気がします。「回頭」は、多くは回首と同じように「振り返る」、或いは「昔の事を思い返す(反省する 後悔するような)」の意味に使われるものだと理解しています。
 そうすれば、転句は
どうしたことか、昔のことを想いながら燈下に鐘の音を聞けば』ということになると思います。そうすれば、結句の収束の仕方は読者にとっては説明不足で、詩人が読者に何を感じ取らせたいのかがよくわかりません。
 隔靴掻痒の感がします。詩は志といいます。詩を介して、読者に詩人の志や、物の見方や感じ方を、比や興で訴えるものとおもっています

 以上が私の率直な感想です。お怒りであれば許して下さい。
 貴詩の更に、推敲された詩をお待ちしております。

2000. 6. 5                 by 謝斧





















 第70作は広島の 金先生 さんからの作品です。
 「お久しぶりです。中野逍遥風の作品ができましたのでお送りします。」とのことでした。

作品番号 2000-70

 君成母偶見     君、母となるを偶見す  金先生

慈愛有明眸   慈愛 明眸に有り、

我驚年月流   年月流れるに 我驚く。

憶君青春夢   君を憶すは青春の夢

窓外私自羞   窓の外 ひそかに自ら羞ず。

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 [訳]

    君が母となるをたまたま見かける

 その眸は 子供への慈愛があふれている、
    (君がもう子供をもつほど)
 時がたっていたのかと私は驚いた。
 君との青春の一こまを共有できたことを私はまだ覚えているが、
    (今日の君の姿を見たら、学生時代のことを思い出したり)
    (まだ独り身でいる自分のことを考えると)
 どことなく自分が恥ずかしくなってきた。


 中学校の同級生の女の子が嫁いだ家の前をたまたま通りかかった時に、幼稚園か小学校低学年の子供と夕食をしている姿が窓の外から見えました。
 私の中では中学校から高校ごろまでのイメージしか残っていなかったのですが、もうすっかり「母」の姿になっていました・・。

 結句の「ひそかに自ら羞ず」というのは、この女の子に少なからず好意をもっていたことを思い出してちょっとはにかんでしまったことと、私はいまだに独り身であることへの複雑な気持ちの現れとでも言いましょうか。

<感想>

 この詩は、心情としてはとても分かりやすく、ひょっとしたら誰もがいつかはふと抱く、切ない思いではないでしょうか。こうした若々しい(?)気持ちが込められた詩は、日本の漢詩では数が少ないので、とても良いと思います。
 しかし、表現としては、修正した方が良いと思われる所がいくつかあります。

@平仄について

 詩全体の平仄を見ますと、次のようになっています。

  〇●●○◎
  ●○○●◎
  ●○○○●
  ○●○●◎

 五言絶句ですので、初句に押韻の必要はありませんが、ダメというわけではありません。
 転句・結句が「二四不同」の原則を破っています。これは避けるべきですから、用語をもう一度検討して下さい。

A用語について

 一般的に、自分の心情を言葉として定着させる「詩」では、一人称の主語は要りません。と言うよりも、「この私だけが」とか「他ならぬ私が」などと特別に強調する以外には、かえって邪魔になります。承句の「我驚」は、「驚」一字で十分意味が伝わりますので、たった一字ですが内容を深める言葉を入れたらどうでしょう。「驚」を修飾する言葉が良いと思います。
 転句の「青春夢」ですが、漢詩では「夢」は眠った時に見るものだけを指しますので、ここは「青春日」にすると良いでしょう。しかし、二四不同の問題と、句全体の意味も目的語が二つあってやや分かりにくい感じがしますので、句そのものを修正してみたらどうでしょうか。

 ご検討下さい。

2000. 5.10                 by junji



 金先生から、改作をいただきました。

 君成母偶見 (改作)
  慈愛有明眸     慈愛 明眸にあり
  只驚年月流     年月の流れるにただ驚く。
  回想青春日     青春の日 回想すれば
  窓外転甚羞     窓の外 うたた羞ずることはなはだし。

 平仄が、転句結句で壊れています。転句は、二字目が平、四字目が仄になるように。また、結句は逆に、二字目が仄、四字目が平となるようにしなくてはいけません。
 これは「平仄のきまり」の中の、「反法・粘法」で説明してありますので、確認をして下さい。
 また、語句を修正したために、結句が「二四不同」を破ってしまいました。ここも、考える必要があると思います。
 再度の推敲をお待ちします。

2000. 5.24                by junji





















 第71作は 三耕 さんからの作品です。

作品番号 2000-71

  磯釣          三耕

釣磯終日只海音   釣磯 終日 只だ 海音

波頭波底復浮沈   波頭 波底 復た 浮沈

世人倦世帰何処   世人 世に倦みて 何処にか帰る

空水青青相不侵   空水 青青として 相い侵さず

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 息子の付き合いで、連休に三浦半島に行ってまいりました。その折の一篇を投稿させていただきます。
 寄せては返す波の音は、遠い昔、母親の胎内で聴いたことのある懐かしい音でしょうか。

 [語釈]
「倦」:うむ。

<感想>

 海の景を詩で詠うのは漢詩には少なく、日本人の詩の方が私は印象に残るものが多く思います。
 例えば、頼山陽の詩で有名なものに、

  『泊天草洋』
 雲耶山耶呉耶越    雲か山か呉か越か、
 水天髣髴青一髪    水天髣髴青一髪。
 万里泊舟天草洋    万里舟を泊す天草の洋、
 煙横篷窗日漸没    煙は篷窗に横たはって日漸く没す。
 瞥見大魚躍波間    瞥見す大魚の波間に躍るを、
 太白当船明似月    太白船に当りて明月に似たり。

 も「スゴイ!」と思いましたし、

  『阿嵎根』
 危礁乱立大濤間    危礁乱立す大濤の間、
 決眥西南不見山    眥を決すれば西南山を見ず。
 鶻影低迷帆影没    鶻影は低迷し帆影は没ず、
 天連水処是台湾    天水に連なる処是れ台湾

 も「デカイ!」と感動しました。

 三耕さんのこの詩は、起承転結が整っていて、日常の世事から離れた(まさに連休だったからでしょうか?)悠然とした心情がよく表れていると思います。心の疲れがふっと取れるような詩ですね。

 結句の「空」の用法につきましては、以前も三耕さんがよく調べておられましたが、今回のはどうでしょうか。「空山」「空谷」「空江」などの熟語からは、どうしても「誰もいない」「空虚」という感じがします。
 頼山陽は「水天」「天連水」として、「空」の字を避けているようですね。「空」と「水」の二者を強調するのなら「空与水」とするか、読み下す時に「空と水と」とそれぞれを分けるようにすると良いかもしれません。

2000. 5.11                 by junji



 謝斧さんと、作者の三耕さんから、すぐに「空」の字についてのお手紙をいただきました。

 三耕さんの「空水青青相不侵」、面白い句だとおもいますが、鈴木先生の言われますように、結句の空に関して吟社の間では、よく議論になります。恐らくは、太刀川呂山先生がいっておられたと、記憶しています。
 「空」一字では日本語のいう「そら」、空としては、使えないということです。その他、同じ様な使われ方としては、「彷」はさまようでは使われなく、必ず熟語として「彷徨」でしか用いられないと聞き及んでいます。

 私が調べたのですが、一字で「そら」と云う作例は、李長吉の詩集にあります。

  李憑箜篌引
呉糸蜀桐張高秋 空白凝雲頽不流
   ・・・・・・・・ 空白くの 空白は秋の空

竹 
入水文光動 抽空緑影春 
   ・・・・・・・・ この場合は空ではなく 空中の意味だとおもいますが

 等があります。
 然し、これ以外、作例は無いように思いますので、知らないで使うのは勿論のこと、知っていても、使わないほうが良いと考えています。先生の云われますように、1字では、むなしいで、使用するのが、妥やかだとおもいます。

 ついでというとなんですが、一つ提案があります。
 太刀川呂山先生が、誰でも出来るようにということで、平仄を緩くしたことがあります。
 例えば、一韻到底格であれば、四仄三平(4字目を仄にして後を三平連にする)を四仄五平で(4字目を仄にして五字目を平にするだけで、そのことにより詩語表が使える)詩作する。
 7言絶句では二字目と五字目の孤平を許したことです。
 そのことにより、仄三連も、うるさくはいわれませんでした。批正は無く、仄三連と明記するだけでした。
 孤平も仄三連も、拗句で、同じ程度の病いです。孤平をゆるせば、当然の事ながら、仄三連も許さなければなりません。二松学舎では、孤平は許さないと、聞き及んでいます。当然の事と思います、然し、恐らくは、二松学舎でも、詩全体で孤平を助けるやりかたは、許していないと、おもいます。これはこれで1つの方法だとおもいます。
 私の場合、人の詩に批侫を加える場合、孤平は失声と判断して、更に推敲を促しています。

2000. 5.12                 by 謝斧



 今日は三耕です。
 ご指摘の「空水」ですが、該当個所の用字経緯を申し上げますと、只今、何度目かの「中国名詩選」(岩波文庫)を読んでおりまして、その中に確か「空水」という言葉がありまして使ってみたいと思っておりました。その時は以前の「天」「空」談義の事は全く覚えておりませんでした。
 又、今改めて拙作のイメージの中で推敲いたしますに、特に承句「波頭波底復浮沈」に人生の浮沈も重ねて見るにつけ、「天」の如き明るい響きをもつ字よりも、本来(と諸氏が言われる)「むなしい」響きをもった(文字通り発音も含めて)「空」が適すると判断します。

 ついでに今ポケットにあります「中国名詩選(中)」をめくってみますと、幸い「空水」が「そら」と「みず」という意味で使用されていた詩を確認できました。
 「鳥鳴山更幽」で有名な王籍の「入若耶渓」の第二句「空水共悠悠」とあります。「共」字によりまして明らかに「そら」と「みず」でありまして、訳にもそうありました。確か拙作にも「相」字があったはずです。(私の解釈を示しておきます=「空と水はいよいよ青くして、さらにその青は相侵さず」)

「「空」字は本来「むなしい」であり、中国では「そら」の意に用いない。和臭の典型で批正の要点である。」とはおそらく過去の高名な日本の漢学者が述べられたことを、現代でもそのまま諸氏方が提唱されているようですが、そろそろそのような偏見を取り去る時ではないでしょうか。

2000. 5.12                 by 三耕



 謝斧さんから、再度お手紙をいただきました。

  釣磯終日只海音   釣磯 終日 只だ 海音
  波頭波底復浮沈   波頭 波底 復た 浮沈
  世人倦世帰何処   世人 世に倦みて 何処にか帰る
  空水青青相不侵   空水 青青として 相い侵さず

 三耕先生が言われるように空水(そらと海)の例はありますね、私は有る無しの問題より、生硬すぎるのではないかとおもっていたのですが、古人の詩からみてもそういうことはないようです。むしろ空水と使用したほうが熟したいい詩語なのでしょう、この場合の三耕先生の使い方は適切なのでしょう。

 清渓流過碧山頭 空水澄鮮一色秋 朱熹

 然し、空1字で使用する場合より推敲しなければ生硬な感じをあたえます。韻字を除いては、多くは天を用いた方がよいと考えますがどうでしょうか。
 詩は散文と違って、より雅なる言葉をえらびます。唯だ、辞書に載っている言葉を漫然として使うわけではありません。其のために、古人の詩を出来るかぎり多く読んで、自分の詩に取り込んでいくわけですが、それが熟した言葉だと理解しています。
 今先生の詩を読んで読者の立場では晦渋な感をもちました。
 転句と結句のつながりが表面的にはありません。そこで読者はなにか寓意があるのかとかんがえます。私は浮世にながされるには疲れた。然し居所がない。私は世間に迎合したくない。あの空と水のようにが、転句と結句の意味でしょうか。
 承句はそれ以上に晦渋です。
「波頭波底復浮沈」 なにが浮沈するのかでしょうか。読者にはよくわかりません。少し舌足らずになっているのではないでしょうか。
 転句と結句から考えて寓意があるのであれば少しの説明をふくむ句作りも必要かとおもいます。読者は人生に於ける作者の浮沈と考えるしかないのですが。もう少し推敲を重ねれば、そして読者にも分かりやすくしてくれたら蘊藉のきいたよい作品になるとおもいますが、以上が私の感想です。
 勝手なことをいうようですが、お腹立ちであれば許してください。

2000. 5.23                 by 謝斧



 三耕さんから、謝斧さんへのお返事をいただきました。

 まず、作詩の狙いと致しました「深読み」をして頂きまして作者冥利につきます。ありがとうございました。「空水」談義に紛れて「読み」が軽くなってしまうことを恐れていました。
 その「狙い」とはまさにご指摘の「寓意」でございます。拙作にはほとんど何がしかの「意」を込めております。「有感」の所産であります。ちょうど作品番号 2000-55「紀念成川美術館展贈米寿後藤全久翁 」(羊羊さん)への感想でも述べおりますように叙景の中に情を込める其れでございます。本作の転句はそれ(叙景に徹する事)に耐えきれなくなった一面を垣間見せております。

 では、ご指摘に沿って辿ってみます。
 「転句と結句のつながりが表面的にはありません。そこで読者はなにか寓意がある」という読み方は発見で、又そういう仕込み方もあると学ぶことが出来ました。
 「私は浮世にながされるには疲れた。然し居所がない。私は世間に迎合したくない。あの空と水のように」
 転句はほぼどなたも同様の解釈をして頂けると思います。
 結句は難問です。実は、私も解が出せないのです。御説はありがたく拝聴いたしました。

 承句「波頭波底復浮沈」は、初稿では沖の釣舟を入れようとしておりましたが、起句「釣磯」から読者が「ウキ」なり「舟」なり連想して頂けるかなというのと、又「寓意」を込めるには具象はかえって邪魔と判断した次第です。結局、見え見えの転句から「読者は人生に於ける作者の浮沈と考えるしかない」まさにその(シナリオ)通りです。

 おそらく、「晦渋」とのご指摘は、
 一つ、結句の解釈が作者本人も解っていない。
 一つ、転句の付け方の独自性による。ものと思われます。
 ここで、独特の転句の付け方とは、まさにこの言葉の通り「起承結句に転句を付ける構成法」であります。これは、既に喜寿を迎えられた「漱石往来」の著者 山本 平 氏に伝授されたものです。

 句構成を算術に例えますと
 1(起句)+1(承句)+1(転句)=3(結句=効果)
ではなく、
 (1(起句)+1(承句))×10(転句)=20(結句=効果)
となるような転句を付けるという方法でございます。相乗効果を狙うとも言えなくも有りません。

「×10(転句)」の「×」は指数関数となれば更に良く、又「10」も「100」「1000」となれば更に良いものになります。従いまして、転結だけの単独の繋がりは自ずから希薄となり、起承結と転結を融合させて初めて全体が立ち上がってまいります。
 これは、斯波六郎氏が「中国文学における孤独感」(岩波文庫)付録「中国文学における融合性」で述べておられます「対句」の在り方を敷衍した考え方のようにも思えます。

 結句「空水青青相不侵」は、「空と水がその青を凌ぎつつ 且つ相互に侵すことのない」自然の有様に対しまして、何を学び、向後如何に処していくかというこれまでの人生における全人格的な問いとして問いのまま据えております。

2000. 5.27                 by 三耕





















 第72作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 71作目の三耕さんと同じく、連休中に出かけられた折りに作られたものだそうです。

作品番号 2000-72

  山郭賞花        鮟鱇

遠峰残雪路桜花   遠き峰に殘雪 路(みち)に櫻花

擁擠山村游覧車   山村に擁擠(ようせい)す 游覧車

高地春遅恵風急   高地 春遅くも恵風急にして

梅桃猶有艶姿誇   梅桃猶有り 艷姿誇る。

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 [語釈]
「擁擠」の「擁」は「群れる」、「擠」は「押しのける」で、「混み合う」の意。
「游覧車」は「観光バス」のこと、いずれも漢和辞典ではなく、日中辞典で調べた言葉です。

 連休の間に尾瀬のミズバショウと妙義山の桜を見に行きました。
 観光バスで一泊二日、格安のパック旅行で苗場プリンスホテル宿泊。本格的に尾瀬を歩くのは大変だし、花を見にいくのにわざわざ車を走らせる気にもなれず、安直に楽しむことにしました。不精なわたしの本性を見抜いた妻の発案です。

 漢詩を作り始めてから、季節の移ろいに敏感になりました。
 そうした中で、五十を過ぎて初めて知ったのは、東京では梅が散って桜が咲くまでにしばらく間があり、花のない時期があります。
 しかし、バス5台を連ねて苗場に向かう道筋では、様子がまるで違いました。梅と桜が一緒に咲いている、詳しい方には当たり前のことでしょうが、小生にはとてもおもしろいことでした。

 同じ主題で宋詞も作りました。あわせてご覧いただければ幸いです。

  少年遊・山郭賞花

 遠山残雪碧空浮,村路万紅稠。
 艶艶桜雲,芳梅猶有,柳色映清流。
 春遅高地喜風柔,花急画中収。
 酒旆翩翻,売声婉約,最好酔消憂。

(訳)
 遠山の残雪、碧空に浮かび、村路に万紅稠し。
 艶艶たる櫻雲,芳梅なおあり、柳色清流に映ず。
 春遅き高地、風の柔らかきを喜び、花は急いで画中に収まる。
 酒籏は翩翻、売声は婉約にして、最もよきは酔って憂いを消すこと。

<感想>

 こうして同じ主題で並べてみると、宋詞は全体の字数の多さもさりながら、句の自由度が高い分だけ、表現の深い所まで鮟鱇さんの手が届いている感じがしますね。
 絶句の方が良くないわけでは決してありませんが、この主題のように、沢山の素材を一気に盛り込もうとすると、絶句ではやや苦しく、無理して削ってしまう印象です。(もっとも、仮に絶句の方だけを読んだとしても同じ様に思ったか?、と言われると困りますが・・・・)
 「酒旆翩翻,売声婉約,最好酔消憂」などは、鮟鱇さんのお得意のフレーズですよね。こういう表現、私も大好きです。

2000. 5.13                 by junji





















 第73作は 謝斧 さんからの作品です。

作品番号 2000-73

  適意  全対格          謝斧

出門遊目風光好   門を出でて 目を遊す 風光の好きに

去路怡顏節物遷   路に去れば 顏を怡ばす 節物の遷るに

楊柳風輕青糸揺   楊柳に風は輕く 青糸揺ぎ

櫻桃雨歇臙脂鮮   櫻桃 雨は歇みて 臙脂鮮なり

家貧自笑多間亊   家貧しく 自ずから笑う 間亊の多きに

身老誰嘆少世縁   身は老いても 誰か嘆ぜん 世縁の少きを

時坐林堤閑捜句   時に林堤に坐して 閑かに句を捜り

偶來山寺獨安禪   偶々山寺に來りては獨り禪に安んず

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 いつもお世話になっております。
閑適詩です。始めから全対格を意識して作ってみました。五、六句が自分の言いたかったことです。
 シンメトリーの効果は出ていますでしょうか。

<感想>

 各聯ともに、対句の楽しさ、面白さが出ていて、謝斧さんが詩を作られた時の気の動きが感じられるようですね。
五、六句の主題もよく分かります。

 ただ、尾聯の「閑捜句」や「獨安禪」には世俗を抜けきった心境が描かれていますので、首聯の「遊目」や「怡顏」や、頸聯の「自笑」や「誰嘆」に、やや感情を出しすぎた感じがして、尾聯が浮いているように見えますがどうでしょう。
 あ、でも、その辺りを計算して、尾聯を効果的に使っているのかな?

2000. 5.21                 by junji



 謝斧さんから、私の感想につきましてお手紙を早速いただきました。

 お世話になっております。

 全体的につながりがないとの指摘でしょうか。全対格にしたため分かりにくくなって いるのかもしれません。
 全体的な意味は、

 季節は寒い冬から春になりましたので、ひとつ門を出て野外にでも遊びにゆきましょうか。
 景色はもう、うすらうめや柳などが私をよろこばせてくれる頃となり、すっかり春景色に変わりました。
 さいわいにも、浮世の縁もすくなく、貧乏でもかえって、ありがたいことに暇がたくさんあります。
 だから、時には、少し足をのばして山歩きもします。林のなかをゆき堤に座して詩を作って楽しんでおります、また寺に和尚を尋ねては、軒先でもかりて、禅のまねごとでもします。
 これも季節が変わって暖かくなったからでしょうか。

 以上が詩の内容です。なお不都合がありましたら、お手数ではありますが再度ご教示ねがいます。

2000. 5.22                 by 謝斧



 改めまして、私の感想をもう一度。

 「遊目」の典拠は浮かびませんでしたが、「怡顏」は、陶潜の『帰去来辞』だったと思います。家に帰った陶潜が樽酒を前にして「怡顏」、それがまず頭に浮かんだからでしょうか。相好を崩して喜ぶ作者の姿が見えてしまい、頸聯の「自笑」「誰嘆」にも感情を強く感じすぎたのかもしれません。「多間亊」や「少世縁」の状態を実は嫌なのだが、まあ、仕方ないから笑って済まして、嘆くのも止めよう、と読んだので、尾聯がやや取って付けたような印象になったのです。
 頸聯を謝斧さんが仰るような形で、閑適に徹して読めば、尾聯とのつながりも流れるように思えました。
 私が読み違えていたのは、もう1ヶ所、「家貧自笑多間亊」の部分ですが、「家貧」と「自笑多間亊」の間を私は順接で取りました。つまり、「家貧」であるから「多間亊」である。そのことを「自笑」する、という形で、つい「貧乏=仕事が無い」とつなげてしまったようです。私自身がどうやら現実的すぎるようですね。
 「自笑」という言葉にはどうしても自分を嘲笑する、現実を否定しつつ受け入れるというニュアンスがあり、そこからなかなか抜け切れません。

2000. 5.23                 by junji


 




















 第74作は 東坡肉 さんからの作品です。

作品番号 2000-74

  乗風騎自行車     風に乗りて自行車に騎す   東坡肉

身似飛龍到天門   身は飛龍に似て、天門に到る

勢成騎虎渡乾坤   勢いは騎虎と成りて、乾坤を渡る

長駆万里無人境   長駆、万里、無人の境

何用弐師征大宛   何ぞ用いん、弐師の大宛を征するを

       (上平声「十三元」の押韻・「宛」は上声「十三阮」)

<解説>

 実は、私め趣味で自転車に乗っておりまして、これは、「追い風を受けながら自転車を漕いでいる」という、自転車乗りにとっては最高の快感を表現した詩です。
 まあ、ちょっと風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなっている感も無きにしもあらず、ですが(^^;。

 [語釈]
[天門]:天上界の門のこと。
[弐師]:前漢の将軍、李広利のこと。
          武帝の命を受けて名馬を得るために大宛国に遠征した。

 [訳]
 体はまるで天駆ける龍に似て、天上界まで行けそうだ(^^)。
 まさに「騎虎の勢い」でこの世界中、どこまでも飛んでいける。
 万里を駆けること、無人の地を行くがごとし。
 これがあれば、弐師将軍を遠征させ、名馬を得る必要などない。

 いつも掲載ありがとうございます(^^)。

 前送った結婚の詩は中国でも好評だったようです(^^)。
 実は、「陳家」にはお世話にならなければならない事情がありまして、例の詩が名刺代わりに成ったようです。
まあ、個人的には苦労した甲斐があったかな?(^^;

 ではでは、再見!!

<感想>

 現代の中国を代表するような「自行車」と、「弐師征大宛」というはるか古代の事件とが結び付く、こういった所が文学の面白い所だと思います。
 まさに、発想の勝利。確かに「到天門」「長駆万里」などは、表現としては大袈裟すぎる感もしますが、でも、内容の爽快さがそんな欠点もサラリと忘れさせてくれます。
 私も自転車は好きです。風を切って走っていると、自分がどこまでも飛んでいけるような気がする、よく分かります。
 昨年来、歩くのに不自由していましたが、最近、自転車にも乗れるようになり、近くの図書館くらいまでならスイスイ(?)と走っています。放置と盗難さえ無ければ、無公害のすばらしい乗り物だと思います。

 形式の面では、結句が「上声」です。結句は詩の中では要の部分、ここで韻がずれると全体が緩みます。無理をせずに韻を揃えた方が良いと思います。
 また、起句が「二六対」の原則から外れていますので、修正できれば直しておいた方が良いでしょう。

2000. 5.22                 by junji



 東坡肉さんから、お手紙をいただきました。

 こんにちは。
 いつも漢詩を掲載していただいてありがとうございます(^^)。
 ところで、標題の件なのですが、私めの『乗風騎自行車』について、ご指摘を受けました。それについて書いてみたいと想います。

 まず、起句の「二六対」について。確かにご指摘の通りでした(^^;。お恥ずかしい限りです。こうやって、人に見ていただかないと、こういう基本的ミスですら気づかないことがあるんですね。どうも、ご指摘ありがとうございました。

 で、起句を自分なりに変えてみました。

 身似飛龍 游碧落  身は飛龍に似て、碧落にあそぶ。
        (この身は飛龍のようで、まるで青空を泳いでいるようだ)

 碧落とは青空のこと。游は、泳ぐことです。(ああ、また風呂敷が大きくなってしまった(^^;)
 ここは思い切って「韻の踏み落とし」をやってみることにしました。(起句と承句は一応対句になっている……つもりです(^^;)

 で、次に韻の件ですが、これについては反論させていただきます。
 「宛」と言う文字は確かに「あたかも」「さながら」と言う意味の時は「阮」のグループになりますが、今回のように西域の国の名前に場合は「元」のグループになるのです。これは、講談社『大字典』で確認済みです。

 「宛」の字につきましては、私もご指摘の後、『大漢和』で確認しました。不勉強で済みません。手持ちの辞書で見ただけだったのがいけなかったようですね。
 反省!反省!

2000.5.27                   by junji






















 第75作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 おなじみの宋詞をいただきました。

作品番号 2000-75

  相見歓:春 夕          鮟鱇

花多墨水風馨,    花多き墨水、風馨り、

盛開櫻。         盛開の櫻。

江畔春粧甘美,    江畔の春粧甘美にして、

賞心傾。         賞心傾く。

翠漣耀,紛反照,   翠漣耀き、反照に紛れ、

落英軽。         落英軽し。

最好夕陽横射,    最も好きは夕陽の横射、

暮烟生。         暮烟生ず。

          (押韻については、解説をご覧下さい)

<解説>

 [語釈]
墨水:墨田川。
盛開:現代中国語で満開の意。
反照:照り返し

 宋詞の投稿お許しください。
 きょう投稿させていただく「相見歓」という詞牌(詩形)の詞譜はおおむね次のとおりです。

前段:
  △○△●○◎、●○◎。
  △●△○○●、●○◎。

後段:
  △△★、△△★、●○◎。(★仄声押韻)
  △△△○○●、●○◎。

 私には「相見歓」は九言の「絶句」のような感じがしてなりません。
 起承転結でいえば、後段冒頭九字(絶句の転句にあたる)は三・三・三としていますが、他は九言を二・二・二・三と読むことになりますので、絶句では難しい転句の効果を、リズムのうえでも実現しているように思います。

 拙作後段第一・二句「翠漣耀,紛反照」、押韻の都合であまりうまくできていません。「耀」と「反照」のイメージがつき過ぎています。また、第四句の「夕陽」も工夫が必要だと思います。
 なお、拙作の韻については、平声韻は「庚・青(通用可、さらに蒸とも通用可)」、仄声韻は「去声十二嘯(去声効・号、上声巧・篠・皓と通用可)」を用いています。

<感想>

 宋詞を鮟鱇さんからいただく度に、私も挑戦してみようと思うのですが、途中が混乱して来て、つい投げ出してしまいます。我慢が足りないのでしょうかね。今度はちょっと気合いを入れてみますので、完成したらご指導下さい。
 「反照」と「夕陽」が実質的には同じ内容で、絶句の場合は重複になるので避けたいところですが、「詞」ではどうなのでしょうか。
 
2000. 6. 1                 by junji