作品番号 2014-331
新秋即事
雨洗餘炎爽氣生 雨は余炎を洗って 爽気生じ
晩涼如水透衣清 晩涼 水の如く 衣を透って清し
早蟲初語疎簾外 早虫 初めて語る 疎簾の外
楚楚幽花帯露傾 楚楚たる幽花 露を帯びて傾く
伏せ置ける
植木鉢にも鳴きそめて
エンマコオロギ
秋を告げいつ
<感想>
「早蟲」「疎簾」「幽花」など、新秋を十分に意識して素材が置かれ、それぞれに添えた形容詞が一層季節を強調するというところは、言葉に対する作者の細やかな感覚が表れているのでしょうね。
こちらの詩も比喩の使い方がとても良いですね。
「(晩)涼」と「如水」の比喩自体はよく使われるもの、それが「透衣清」と組み合わさることで、作者の実際の肌感覚が浮かびます。
常套の比喩が生き生きとした現実感を伴う形で、詩語の選択だけでなく組み合わせの大切さが感じられますね。
結句も丁寧な描写で余韻が深いですね。
2014.12.21 by 桐山人
作品番号 2014-332
行樂變化地獄 行楽変じて地獄と化す
御嶽秋晴萬景奇
山行羈客到頭時 山行の羈客 頭に到る時
須臾噴激修羅態 須臾 噴激して 修羅の態
叫喚衝天鏖殺悲 叫喚 天を衝きて
「叫喚」: 八大地獄のひとつ。
「鏖殺」: みなごろし
<感想>
徠山さんは近畿漢詩連盟で事務局長をなさっていらっしゃる方ですが、連盟の会報で「桐山堂」をご紹介くださったご縁で、作品をいただくことができました。
初めての投稿の方はいつも「桐山堂の新しい仲間」としてお迎えしていますので、今回も、同じように紹介させていただきます。
漢詩の仲間が増えることは本当に嬉しいことです。
御嶽山の噴火は九月末のことでしたね。
登山客が撮影した多くの映像がテレビで流されましたが、噴煙が襲いかかる直前の、秋空の抜けるような青さが私は忘れられません。まさに絶好の登山日和だったのでしょう。
徠山さんのこの起句を読んで、同じ思いを持たれたのだと感じました。
転句の「須臾」は短い時間を表しますので、ここでは「たちまち、あっという間」となります。
噴火ですので「突然」とか「思いがけず」という言葉を考えたいところですが、逃げる暇もない噴煙の速さが何度も報道されていましたので、現場に立った感覚からの表現でしょう。臨場感が伝わりますね。
結句の「鏖殺」は「閉じ込めて皆殺しにする」という古代の戦での残虐な行為です。
「死」ではなく「殺」という表現を選んだところに、天帝への怒りが出ていると思います。
2014.12.23 by 桐山人
作品番号 2014-333
豊穣歌
残陽赫赫稲田喧 残陽赫赫として稲田喧し
交厝牛車童子奔 牛車は交厝し童子は奔る
禾穟穣穣収穫急 禾穟穣穣 収穫急ぐ
九天秋盡日黄昏 九天 秋尽きんとして日黄昏たり
<感想>
承句の「交厝」は「交錯、交雑」という意味のようですね。
「牛車」と「童子」が対応していますので、できれば句中対にしたかったところですが、今後の推敲の楽しみでしょうね。
転句の「禾穟」は「稲の穂」、起句に「稲田」とありますから、「禾」とまた言う必要はなく、「穟穟」としても良いと思います。
結句も、「日黄昏」は起句の「残陽」ですでに示されていますので、どうでしょうか。
全体的に、農村での収穫の情景は午後の方が通じやすく、夕方とするならば一日の仕事の終わりという趣を出しておく方が良いですね。
読み終わってから、「あれ、夕方だったっけ?」という印象ですと、「日黄昏」の結びの意味がありません。
2014.12.24 by 桐山人
作品番号 2014-334
立冬賦
秋去還冬近 秋去れば還た冬に近く
方知老日嘆 方に知んぬ 老いては日々に嘆ずるを
八旬衰累歳 八旬 歳を累ねて衰ふ
杖足更槃姍 杖つけば 足更に槃姍たり
<感想>
八十歳という年齢になると、どんな心境になるのかということを、つい考えてしまう詩ですね。
起句は「秋去」「冬近」だけですと当たり前の話になってしまいますが、「還」が入ることによって、毎年の繰り返しが示され、年齢を重ねた嘆きが浮かび上がってきますね。
承句は「老」が余分です。せっかく起句でうまく表したことの種明かしを簡単にしてしまっては、もったいないですし、次の「八旬」も生きてきません。
「方知日日嘆」が良いでしょう。
転句は下三字の読みが苦しいですね。「八旬養衰老」と挟み平で考えてはどうでしょう。
結句は「杖」だけで独立させるのは読みづらく、やはり「二+三」のリズムの方が良いですね。「足」を「歩」にしてはどうでしょう。
「槃姍」は「盤姍」(ばんさん)だと思いますが、「よろよろと歩く」ことですね。
2014.12.24 by 桐山人
作品番号 2014-335
堀川舟行
高楼垂柳映澄波 高楼垂柳 澄波に映じ
白鷺沙州休羽和 白鷺 沙州に羽を休め和ぐ
減速軽舟棹歌起 減速軽舟 棹歌起こり
松江城下趁涼過 松江城下 涼を趁うて過ぐ
<解説>
過日、松平不昧公ゆかりの地松江市へ行ってきました。
とても落ち着いた風情のある街でした。
船頭さんの歌を聴きながらゆっくりとお濠巡りを楽しみました。
<感想>
行かれたのは夏のことですが、爽やかな雰囲気が出ていますね。
特に起句の「高楼垂柳映澄波」は、お濠巡りの景をよく表していて、私も舟に乗って眺めているような気持ちになりました。
前半の景を説明する形が後半になりますが、転句の「減」は変化を表す言葉、「緩」「慢」のような状態を表す言葉とは違いますので、「軽舟」がどこかで「速かった」ということを暗示します。
それはそうなのかもしれませんが、必要があるかどうか。
「軽舸廻濠」とか「風穏軽舟」と来れば流れは自然ですが、「減速」ほどの物語性は無いですね。
2014.12.26 by 桐山人
作品番号 2014-336
菊花大会
並尽丹精鉢 並び尽くす 丹精の鉢
争賞白又黄 賞を争ふ 白また黄
人評優劣序 人は優劣の序を評す
菊也只応香 菊や 只応に香るべし
<解説>
恒例の菊花展に行ってきました。
色々な賞の金銀牌が下がっておりましたが、私にはどこが優れているのかさっぱり分かりません。
見学者も誉めるばかりで、悪く言う人は一人もおりません。花をけなす人はいないのだと、しみじみ分かりました。
ところで、「也」は、呼びかけのつもりですが、語法的にいかがでしょうか。
<感想>
そうですね、私も菊花展を見に行くと、どの花も手を掛けて育ててきたことがよく分かり、「みんなに拍手喝采」という気持ちになります。
門外漢の私には、「〇〇賞」という菊は、やたらと大きく威張っていたり、これでもかと言う程撓められたりして、何となく痛々しく感じてしまいます。(菊の愛好家の方、すみません。菊は私も大好きな花ですので)
起句の「丹精」は和語ですので、やはり「精心」が良いですね。
「也」については色々な用法がありますが、
@文末に置かれた場合
a・「である」という断定。
A文中に置かれた場合
b・「〜だろうか」という疑問や反語。
a・「〜や〜」という並列。
などですね。
b・名詞の後では「者」と同じで動作の主体を示す。
c・固有名詞の後では「呼びかけ」
d・動詞の後では「則」に近く、接続詞の働きをする。
この詩の場合は、[Aのb]に当たりますので、そのまま訳せば「菊(というもの)は」となります。
ただ、上の分類は用例であって、規則ではありません。また、名詞と固有名詞の区別も微妙です。「菊は」と言いながら実際は菊に呼びかけている、という場合も当然ありますので、「呼びかけ」として考えても問題は無いでしょう。
作者が「呼びかけ」のつもりで使っても、読者がそう読むかはまた別で、ここはどちらとも取り得るし、どちらでも詩全体として矛盾していませんね。
「也」の呼びかけの用法では、杜甫の「春日憶李白」にあった「白也詩無敵」の句が思い浮かびますね。
2014.12.26 by 桐山人
作品番号 2014-337
詠晩秋蔵王 晩秋の蔵王を詠む
蔵王山麓盡紅黄 蔵王山麓 盡く紅黄
溪澗霏霏銷白湯 溪澗霏霏として白湯を銷す
酔臥七朝酣睡飽 酔臥七朝 酣睡に飽く
泉聲滾滾小閑長 泉声滾滾として小閑長し
<解説>
鈴木先生お忙しい中恐縮ではありますがまたご指導いただきたくお願い致します。
「蔵王」の「王]は陽韻でありますが固有名詞であっても冒韻として避けるべきなのでしょうか
<感想>
蔵王の温泉に一週間ですか、良いですね。
私も、定年退職したらのんびりと温泉に、と思っていたのですが、どうもまとまった時間が取れずに、馴染みの民宿にも行けないでいる内に冬の季節になってしまいました。
雪道の運転が怖くてできない私は、これで春までは電車で行ける温泉しか駄目ということで、となると面倒で結局は「暖かくなるまで待とう」と出不精の道を選んでしまいます。
温泉でお酒と作詩にふけるのは、まだ先のことになりそうです。
ご質問の固有名詞の冒韻についてですが、冒韻に限らず、固有名詞を「どうしても入れる必要がある」場合には、平仄が崩れても可とされるわけですから、全体的に緩やかな面の多い冒韻も当然許されます。
難しいのは、この「必要」があるかどうか、という点です。
漢詩は定型詩ですから、当然種々の規則があります。その規則を破ってでも詩人の願う表現があった場合、それでも瑕疵とするのかどうか、つまり型式を優先するか、内容を優先するか、ということになります。
そういう議論になれば、当然、「内容を優先すべきだ」という意見の方が優勢でしょう。
しかし、だからと言って、何もかも「作者の意図だから」と規則外れを認めていたら、規則が規則でなくなってしまう。これも分かる理屈です。
そこで「どうしても入れる必要がある」という条件がつくわけです。
「この言葉を使いたい」、というのは作者の意図ですが、そこでもう一度、「どうしてもこの言葉でないと駄目だろうか?」と検討することは、詩に対して謙虚な姿勢をもつことであり、推敲の道でもあると私は思います。
一般論になってしまいましたが、この詩で言えば、「蔵王」という固有名詞を入れるべきかどうか、という点で考えれば良いと思います。
他の表現、例えば「晩秋山麓」などの表現ではどうなのか、と考えるのも、作詩の楽しみのひとつですね。
その他では、承句の「白湯」、起句の「紅黄」からの色の連続のことと、申し訳ないながら個人的にはスープのようなイメージが先行して、何か別の表現は無いかと、これはちょっと私が楽しんでいるのかな?
2014.12.28 by 桐山人
作品番号 2014-338
晩秋偶成
金風嫋嫋白雲排 金風嫋嵶 白雲排なり
紅葉山色幽賞諧 紅葉の山色 幽賞諧にす
日午閑居茶一啜 日午 閑居 茶一啜
詩翰相愛坐茅斎 詩翰 相愛し 茅斎に坐す
<解説>
先般 大垣市の『第54回文芸祭』の漢詩部門に応募しましたところ、文芸祭賞に入賞しました。
ご指導の程厚くお礼申し上げます。
この漢詩は2005年の「大垣空襲」で少し前ですが、先生のご指摘の通り「砲下を炎下に」、「祈を只」に修正しました。
<感想>
まずは、入賞おめでとうございました。
緑風さんの受賞も嬉しいことですが、大垣市の文芸祭に漢詩部門がある、ということにも、ビックリと共に嬉しい気持ちです。国民文化祭でも漢詩部門が設けられないことが多い中、感激です。
市民の方からの応募があってこそのもの、是非継続をしていただきたいと思います。
今回の詩は、前半がかなり広々とした景で、「晩秋郊行」かと思いましたら、後半はご自宅での姿に変わりました。一瞬、あれと思いましたが、緑風さんは自然豊かな場所に住んでいらっしゃることを感じました。
ただ、それは読者にはすぐには伝わらないので、少し説明が必要ですね。
簡単に言えば、私は山住まいだと言えば良いので、転句の「閑居」を「山居」に、そうなると承句の「山色」がありますので、これを「秋色」に。
最後に、「山居」とすると「閑居」と生活の姿も含めた言葉から場所を表すだけの言葉になりますので、結句の「茅齋」とぶつかりますので、こちらを「閑齋」としてバランスを取るという、三角関係のような話ですが、こういう修正でいかがでしょうか。
2014.12.28 by 桐山人
作品番号 2014-339
大学聴講生
七十痴愚欲発蒙 七十の痴愚 蒙を発かんと欲し
再尋大学落花中 再び大学を尋ぬ 落花の中
青衿絳袖教庭満 青衿 絳袖 教庭に満ち
熱鬧如醪醺老翁 熱鬧 醪の如く 老翁を醺はしむ
<解説>
愛想のない題ですが、今年の四月から母校文学部の聴講生として中国文学の講義を受けております。
その中の一つで、蘇軾の詩の会読をやっています。まあ、一海先生の「漢詩道場」みたいなものですが、学部学生が中心ですのであれほどのレベルではありません。
ひたすらに典故を探して解読する手法は同じです。ちょっと詩の鑑賞とは外れている感じですが。
しかし、蘇軾の詩を読み込んでゆくと、ちょっと自分で詩が作りににくくなった気がします。
女子学生というのは詩語の中にはないだろうな、ということで「絳袖」としました。
しかし、若者が群れている中に混じるのは年寄りにはちょっと堪えますね。
<感想>
大学でまた勉強を始められたとは、本当にご立派ですね。
前半が聴講生になった事情説明、後半が大学の様子という形で、わかりやすい構成になっていると思います。
文学部ですので、女子学生も多いことでしょうね。若者の熱気やエネルギーを「如醪醺老翁]と表現されたのは、十分に納得できることです。
私も、退職したら大学で勉強し直したいと思いながら、なかなか行動ができないままに来ています。
母校の大学で、以前の教え子が学部は異なりますが研究をしていて、「先生、一緒に大学で勉強しましょう」と誘われているのですが、生来の無精者で、気がつくと願書を出す時期が過ぎていたりという状態です。
禿羊さんの「七十」という言葉に勇気をいただいて、先輩の後を追いかけるように頑張りたいです。
2014.12.31 by 桐山人
作品番号 2014-340
紀州山中双輪行
老叟駆車勿笑狂 老叟 車を駆る 狂を笑ふ勿れ
山途上下又羊腸 山途 上下又羊腸
秋飆樹上翻枯葉 秋飆 樹上 枯葉翻り
日暮雲間燃落陽 日暮 雲間 落陽燃ゆ
飢渇尋渓斟冷水 飢渇 渓を尋ねて冷水を斟み
困疲枕草睡厳霜 困疲 草を枕にして厳霜に睡る
便旋促我出寒烈 便旋 我を促して寒烈に出づれば
参宿晶晶垂大荒 参宿 晶晶として 大荒に垂る
<解説>
例によって、紀伊半島山中サイクリングの感想です。
<感想>
これまたお元気なお姿、初句がやや言い訳めいているのも微笑ましいですね。
第二句の「上下」は「高低」じゃないかと思いましたが、よく考えれば山道ならば「上り」と「下り」ということで、実際に走っている人の感覚ですね。
頷聯の「秋飆」は「秋のつむじ風」、山の頂上に向かって吹いているのでしょう。
下句の「日暮」との対応がやや気になりますが。
尾聯の「便旋」は「おしっこ」ですが、寒さの中では大変でしょうね。
「参宿」はオリオン座、「大荒」は「地の果て、地平線」で、冬の夜空の雄大さが感じられる結びになっていますね。
2014.12.31 by 桐山人
作品番号 2014-341
晩秋郊歩
伴妻郊歩晩秋塘 妻を伴ひて 郊歩す 晩秋の塘
少悵慈孫無我傍 少しく悵む 慈孫の我が傍に無きを
群戯児童喜声鬧 群戯の児童 喜声鬧たり
黙然草坐愛衰陽 黙然 草に坐して 衰陽を愛(いと)ほしむ
<感想>
禿羊さんからお孫さんのご誕生という詩「抱嬰児」をいただいたのが、2002年のことでした。
ということは、もう小学校の高学年、学校の生活も忙しくなりますので、なかなか爺婆のところに来てはくれなくなりますね。
承句の「少」というところに、「そうした事情はよく分かっているのだけど、やはり・・・」という気持ちが感じられますね。
しょんぼりとして、子供達を眺めている姿が眼に浮かぶようです。
私の孫も今は四歳、「じーちゃん、じーちゃん」とくっついてきてくれて楽しい時間を過ごさせてもらっていますが、「今のうちだけだよ」という周囲のアドバイスも多く、いつまでのことかなとついつい考えてしまいます。
まあ、だからこそ、なついてくれている今だけでも甘甘の「じーちゃん」で良いな、と開き直っています。
2014.12.31 by 桐山人
作品番号 2014-342
題雲
作雨作霙還作雪 雨となり霙となり 還(また)雪となり
金枝白狗又青蓮 金枝白狗 又青蓮
雲師凝氣變無限 雲師 気を凝らして 無限に変じ
不滅不増長運天 不滅不増 長しえに天を運る
<解説>
先生、お世話になります。
今日は、漢詩コンテストで受賞のご報告です。
11月29日(土)、佐賀県多久市の「孔子の里」が主催する「第17回全国ふるさと漢詩コンテスト」の表彰式が、第1回目から審査委員長をされている、石川忠久先生のご隣席の下に行われました。
私は、主催地の佐賀の応募作品の中で表彰される「奨励賞」を頂くことが出来ました。
鈴木先生のごご指導の賜物と感謝申し上げます。
先生も第1回大会で「洞雲寺春懐」で受賞されてますね。
今回のテーマは「雲」でした。
なお、石川先生のご講評は、
「これも言葉の面白み。前半二句はなかなか洒落ている。たたみかけの句法。
と言うものでした。
ただ、後半は面白味に乏しいきらいがある。あと、一息」
自分の作品を日本を代表する碩学から講評して頂き、甚だ光栄でした。
改めて感謝申し上げます。
<感想>
おめでとうございます。
私は第1回でしたか、もう随分前のことですが、同じ「とうざん」同士ということで、嬉しいですね。
機知のある詩だと感じましたが、石川先生のご講評もありますので、私はお祝いの言葉だけにさせていただきます。
2014.12.31 by 桐山人
作品番号 2014-343
秋整理苦瓜畑 秋 苦瓜畑を整理す
採拾蔬畦蔓衍根 採拾す 蔬畦 蔓衍の根
炎陽水利裕青蕃 炎陽 水利 裕に青蕃す
夥多炮煮楽天恵 夥多の炮煮 天恵を楽しむ
想起豊穣偏謝恩 豊穣を想起して 偏に謝恩す
<解説>
【大意】
秋になって苦瓜畑の後始末をした。
今年は例年にも増してすごくたくさん10月中旬までとれた。
丈夫な根がすごく広がっているのに驚く。
焼けつくような太陽のもと 水をしっかり吸い 茎も太くよく繁っていた。
煮たり 揚げたり 炒めたり お茶にしたり いろいろな方法で天からの恵みを楽しんだ。
豊穣を思い起こし ただただ感謝の心でいっぱいだ。
<感想>
私も昨年、緑のカーテン、ということで、南の庭の窓を覆うようにゴーヤを育てましたが、ほとんど実がならないまま、蔓の残骸だけが秋に残りました。
難しいものだと、今年は朝顔にしてしまいました。
我が家はほとんど炒め物にしかしませんが、「煮」たり、「お茶」にしたり、とのこと、すごいですね。
詩全体としては、あまり秋という雰囲気が無く、作者としては過去のことである承句と転句の記述が現在のことのように感じます。
臨場感があって、よく育った苦瓜を収穫し、おいしく食べているという姿が彷彿とするのですが、結句で急に「想起」とされると、今までのは過去のことだったと初めて分かるような感じです。
「感謝豊穣」として、下三字を検討してはどうでしょう。
2014.12.31 by 桐山人
作品番号 2014-344
初夏情景
庭前蛙黽近窗啼 庭前の蛙黽 窓に近づきて啼く
蓬艾香蒲壕齊 蓬艾 香蒲 壕黷ノ斉し
倚机繙書端午節 机に倚り書を繙く 端午の節
浴蘭吟詠夕陽低 浴蘭 吟詠 夕陽低し
<感想>
起句は「庭前」として「近窗」と場所が二つあるのは分かりづらいです。
「蛙声閣閣近窓啼」とまとめてはどうでしょう。
承句転句とも問題ありません。
結句は「浴蘭」が「端午」と同じ意味になります。
殷堯藩の端午の詩を出したいのでしょうが、「浴蘭」でそれを想像させることは無理があります。
どうしても端午の詩だというなら「季吟長詠」とするのでしょうが、私ならばひとまず「古句吟詠」として収めます。
「浴蘭」の言葉が惜しければ、転句に入れる形でいかがでしょうか。
※ こちらの詩は刈谷の漢詩講座での作品で、感想は作品提出時に桐山人が付したものです。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-345
消夏雜詠
奔雷白雨軟驕陽 奔雷 白雨 驕陽を軟らかにし
輯輯江風引萬涼 輯輯 江風 万涼を引く
曳杖逍遙蘇水畔 杖を曳き逍遙す 蘇水の畔
波間孤影釣魚航 波間の孤影 魚を釣るの航
<感想>
題名は「消夏」ですので、夏の風景、そこで「孤影」とすると孤独感が出てくるわけですが、夏らしいと言えるかどうか。
「孤」ではなく「数影」と増やした方が良いと思います。
下三字の「釣魚航」は表現としてはゴツゴツした感じですので、「釣人航」(釣り人の航)が良いでしょうか。
※ こちらの詩は刈谷の漢詩講座での作品で、感想は作品提出時に桐山人が付したものです。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-346
閑居
柴門無客聽鶯聲 柴門 客無く 鶯声を聴き
麗日担鋤樂太平 麗日 鋤を担ぎ 太平を楽しむ
雨入書窗澄筆硯 雨ふり書窓に入りて 筆硯を澄ませば
檐梅香馥促詩情 檐梅 冷艶 詩情を促す
<感想>
晴耕雨読を具体的に描くという形になりましたが、うーん、何となく観念的でリアリティが無い詩になってしまい、面白くないですね。
「麗日」は「終日」、「雨入」は「夕暮」として、日が高いうちは外で働き、日が沈めば作詩に励むという方が、まだ作者の姿が見えてくるように思います。
転句は文法的なことで言えば、「雨入書窓」は「雨は書窓に入り」と読まれる可能性が高いでしょうね。
雨になったので(私が)部屋に入る、ということならば「遭雨」とするのですが、わざわざ「降った」と言う必要は無く、「小雨」「暮雨」などと書けば理解できます。
野老担鋤樂太平
雨日書窗澄筆硯
とすると、「普段は農作業をしていて、雨の日だけは」というニュアンスになりますね。
※ こちらの詩は刈谷の漢詩講座での作品で、感想は作品提出時に桐山人が付したものです。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-347
緑陰幽居
恵風習習入茅屋 恵風習習 茅屋に入り
檐鐸丁東渡小園 檐鐸の丁東 小園を渡る
移榻烹茶新樹下 榻を移し 茶を烹る 新樹の下
清涼一服洗塵煩 清涼一服 塵煩を洗ふ
<感想>
起句の「恵風」は「万物に恵みをもたらす春の風」ですので、「緑陰」の夏の景とは合いません。
そういう意味では「習習」も本来は春の風の吹き方を表しますので、起句は「快風剪剪入茅屋」でどうでしょうか。
結句の「清涼」と重なるような気がするならば、「野風」「午風」とします。
他は問題無く、まとまりのある詩になったと思います。
※ こちらの詩は刈谷の漢詩講座での作品で、感想は作品提出時に桐山人が付したものです。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-348
夏日偶詠
窗外牽牛上竹枝 窓外の牽牛 竹枝に上り
揺風遮日碧紗帷 風も揺らぎ日を遮る 碧紗の帷
簷鈴妙韻添興趣 簷鈴 妙韻 興趣を添へ
獨坐齋中得句時 独り斎中に坐して 句を得るの時
<感想>
この作品は推敲作ですが、初案にあった「睡魔」を出さなかった分、詩に風格が出ました。
※初案では承句が「好風吹面睡魔衰」となっていました。
前半だけを見ると落ち着いていますが、承句で「揺風」があると転句の「簷鈴妙韻」が生きてきません。
もう一点は「窓外」と言っていますので、「斎中」はあまり働かない言葉です。
この二箇所だけ直せば、とても良い詩になると思います。
※後日 いただいた再再槁は次の形でした。
夏日偶詠(再再槁作)
繚乱牽牛上竹枝 繚乱の牽牛 竹枝に上り
炎炎遮日碧紗帷 炎炎たる日を遮る 碧紗の帷
簷鈴妙韻添興趣 簷鈴 妙韻 興趣を添へ
獨坐齋中得句時 独り斎中に坐して 句を得るの時
≪感想≫
承句の「炎炎」は「日」を修飾するならば、間に「遮」が入ってはいけません。
この形ですと、「炎炎」は「日」ではなく、「遮」を修飾する形です。
せめて「遮炎炎日」となるわけですが、そうなると「炎」と二字重ねる必要は無くなります。
「炎天遮日」として、「暑い夏空の下、日を遮ってくれて」というようにすると、イメージが合うでしょうか。
※ こちらの詩は刈谷の漢詩講座での作品で、感想は作品提出時に桐山人が付したものです。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-349
題月
雨晴逐暑是吾天 雨晴れ 暑さを逐ふ 是れ吾が天
斜日炎精葉上鮮 斜日の炎精 葉上鮮やかなり
破屋一時清似水 破屋 一時 清水に似たり
銀盤雲散半空懸 銀盤 雲散じ 半空に懸かる
<感想>
※一兔さんのこの作品も再再槁まで頑張って推敲されました。
私の感想も含め推敲経過をお示ししますので、ご参考に。
起句は「是吾天」と感嘆するには、「逐暑」ではもの足りず、空の美しさが欲しいところです。
あまり起句で大胆な表現をするよりも、別の言葉の方が良いでしょう。
承句は「斜日」と「炎精」はどちらも太陽を表しますので、どうでしょうか。また、「夕日が葉の上に鮮やか」というのも、どういう位置関係なのか分かりにくいところがあります。
葉上ならば、雨の残り露を出す方がすっきりしますね。
転句の「清似水」は読めないことはありませんが、「清」一字なのは漢詩としてはこなれていません。二字の熟語を持ってくるのが収まりが良くなります。
挟み平にして、「似清水」と下三字を置けば、「清らかな水の似し」となります。
「破屋閑舒似清水」「破屋清閑似流水」という感じでしょう。
結句は「雲散」が邪魔で、起句の「雨晴」、承句の「斜日」で、もう表されていることです。
ただ、逆に言うと、前半の描写が月を邪魔しているとも言えます。「題月」であるのに、天空で逆の存在である太陽を出したり、「是吾天」と言うのは読者の集中力をそぎます。
後半は良いとして、前半の描写を検討し、穏やかに宵の月に移れるようにしましょう。
作品番号 2014-350
白露詩
清晨氣爽一杯茶 清晨 気は爽やか 一杯の茶
暝色条風酒幔斜 暝色の条風 酒幔斜なり
樹上殘蜩涼味足 樹上の残蜩 涼味足る
昼間暑熱恋秋花 昼間の暑熱 秋花を恋ふ
<感想>
※一兔さんのこの作品も再再槁まで頑張って推敲されました。
私の感想も含め推敲経過をお示ししますので、ご参考に。
いくつか気になるところがありますね。
起句の「一杯茶」は承句の「酒」と対応させて、朝はお茶、夜は酒という感じでしょうか。
「気が爽やか」だから「お茶を一杯」というのはつながりません。と言って、「お茶を一杯」すると「気が爽やか」ならば表現の順序が逆です。
白露の朝の様子を描くわけで、作者の行為は出すべきではないでしょう。
「秋花」を起句に持ってくるようなことを考えてみましょう。
また、承句で朝晩を描くのは良いですが、「条風」は一般には春の風に用いますので避けた方が良いでしょう。「松風」「林風」「西風」など、候補はいくつもあると思います。
「酒幔斜」は風情を欠きますので、この詩には合いません。ここも叙景の言葉にするべきでしょう。
前半で朝と晩の様子を出しておいて、後半に作者の姿や行為を出すようにするのが良いでしょう。
「涼味」はすでに起句で「気爽」と言ってますので、無駄な語になります。私は起句の「気爽」を直した方が良いと思います。
結句は疑問です。
秋の気配が出てきたなぁというのが詩情であり、昼間はまだ暑いということを言って詩を結ぶのはどうでしょう。詩の中に「朝・夕・昼」と出したいと仰ってますが、順番のことよりも、何と言うか単純過ぎる気がします。
この句は作り直した方が良いでしょう。
作品番号 2014-351
重陽節句
灼灼清暉氣味長 灼灼とした清暉 気味長し
下簾古屋世塵忘 簾を下げれば 古屋 世塵忘る
幽庭午睡秋風裏 幽庭 午睡する秋風の裏
多少叢生雨後香 多少叢生 雨後香る
<感想>
※一兔さんのこの作品も再再再槁まで頑張って推敲されました。
私の感想も含め推敲経過をお示ししますので、ご参考に。
起句の「灼灼」は真っ赤に燃えるような様子、「清暉」は明るい光、夏の太陽ならば分かりますが、重陽の季節ですのでどうでしょうか。「灼灼」以外の、秋の日差しを表すような言葉が良いと思います。
「気味長」は趣が深いということで、仲秋の雰囲気を出していると思います。
承句は「下」ではなく「垂」が良いですね。
転句は「午睡」を庭でしていると読みますが、そうすると、承句の場面と食い違うように思います。「庭を散歩」ならば部屋から出てきたとして時間経過で処理できますが、「午睡」となるとやや長時間になりますので、結局、どこで寝ているのかが分からなくなります。
「午睡」よりも庭での何らかの行動が良いでしょう。
「重陽」なので、菊の花を出したいので、ここに「黄菊」と入れても良いですね。
結句は「多少」も「叢生」(むらがり生える)も同じ意味ですので、こちらに菊を持ってきて、「多少菊花」とか「黄菊叢生」とするのも良いでしょう。
作品番号 2014-352
春遊
春風肌撫透輕蘿 春風肌撫 軽蘿に透る
滿目櫻雲美艶坡 満目の桜雲 美艶の坡
稚子喜聲殘照色 稚子の喜声 残照の色
花天月地宴遊多 花天月地 宴遊多し
<感想>
※M.Oさんのこの作品は再再槁まで頑張って推敲されました。
私の感想も含め推敲経過をお示ししますので、ご参考に。
桜が満開で、花見の宴があちこちで開かれている様子が分かりますね。
起句は「肌撫」が語順に無理があるのと、「透軽蘿」で身体を吹き抜けることがわかりますので、ここは風の様子を描いて「春風剪剪」とするところでしょう。
承句は「美」が邪魔で、美しいことはもう分かりますので、どう美しいかを描く必要があります。
色を出して「白艶」「紅艶」でしょう。
転句は突然「稚子」が出るのは疑問です。
それが「残照」とどう関係するのかもわかりません。
花見に徹して、ここは「残照」をもう少し説明する方向で検討して下さい。
結句は佳句です。
作品番号 2014-353
初夏情景
田園稲稼兩三畦 田園 稲稼 兩三の畦
初夏南薫草色萋 初夏 南薫 草色萋たり
老大汗顔農事急 老大 顔に汗し 農事急なり
半空翻燕夕陽低 半空 翻燕 夕陽低し
<感想>
起句の「稲稼」はどちらもイネの意味で使っていると思います。そうすると、初夏の田園にイネ、つまり田植えのことだろうと想像はしますが、そうなると、「兩三畦」は少ないように感じます。
「田園」と広く詠いだしていますから、小さく収めないで、「田園初夏南薫畦」と承句の言葉を持ってきて、作者(私)が畦に立っているという情景が良いですね。
そうすると、イネなどの植物は承句に来て、すこし視野を近づける形になりますね。
「四面新秧草色萋」という感じでしょうか。
後半は良いと思います。
作品番号 2014-354
小暑
梅霖連日氣消沈 梅霖連日 気消沈
麦麹リ黄幽趣深 麦緑 菜黄 幽趣深し
雛燕書齋休叫血 雛燕 書斎 血に叫ぶを休める
開窗不忘老年心 窓開くを忘れず 老年の心
<感想>
※松閣さんは二十四節気を題に作詩に取り組んでおられ、頑張っておられます。
この詩はその中の一首です。
承句の「麦緑菜黄」は郊外の風景で、他の句との関連がなく、浮いています。
また、起句の「気消沈」と「幽趣深」も矛盾しているように感じますね。
季節的にも春の景色ですので、良い句ですが、この詩では使い辛いでしょうね。
「麦緑菜黄」に変わる庭の景色を詠むと良いでしょう。
転句は「書斎」、本のある部屋に巣があるというのは違和感がありますが、結句から見ると実景のようですし、「珍しい!」という印象です。「梁頭」とすれば場所がぼけて、違和感は無くなります。
「叫血」は「血を吐くように鳴く」ということで、通常はほととぎすの鳴き声に使われます。「雛燕」の鳴き声には大仰すぎると思いますので、他の語が良いと思います。
結句は「窓開くを忘れず」とは読めず、「窓を開き老年の心を忘れず」となりますね。
「開窓朝夕」「開窓終日」とすれば、ほぼ同じ意味になると思います。
「老年心」は燕への思いやりの心だと思いますが、「老年」ではピンときません。少し軽い感じにして「老爺心」とした方が伝わるでしょうね。
作品番号 2014-355
冬日読書翁
雲影盡西風 雲影 西風に尽く
冬天一切空 冬天 一切空なり
鴉聲三里冴 鴉声三里冴(さ)ゆ
只有読書翁 只読書の翁有るのみ
<解説>
鈴木先生
十二月に入ってますますご多忙のことと思います。
お陰さまで私は予定より少し早くこの二首をもって念願の八十首に到達することが出来ました。
ありがとうございました。
手を取るようにしてご指導下さった先生に厚く御礼申しあげます。
これで2月の私の八十歳誕生日には、自作ではありますが記念の詩集に仕上げることが出来ます。
次は百首を目指します。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます
<感想>
八十歳を記念に八十首の漢詩集、素晴らしいことですね。
お手伝いが出来たのなら、本当に嬉しいことです。
私は八十歳の時にはどうしているのだろうか、とついつい考えてしまい、作詩の情熱のますます盛んな芳原さんをお手本として頑張りたいと思いました。
この詩は、どの句も引き締まった調子で、五言の力強さと相まって、ぐいぐいと迫ってくる印象です。
ただ、言葉の勢いに押されてつい納得してしまうのですが、よく読むと、結句の「只有」に対応するのは承句の「一切」で、転句の「鴉声」がどうも宙ぶらりんの働きに感じます。
承句と転句が入れ替わると流れが自然になるように思います。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-356
冬日寸景
冬雷殷殷一天霆 冬雷殷殷 一天の霆(いかづち)
地凍雲低光彩青 地凍て雲低くして光彩青し
男急牛還婆逐子 男は牛を急せ還婆(ばあば)は子を逐って走る
囲爐顔色綻寒燈 炉を囲めば顔色寒灯に綻ぶ
<感想>
冬の雷は、それだけで詩情があるものですが、夏の雷とは異なる様子をどう描くかは難しいところです。
前半は工夫されて、冬の趣をよく出していると思います。特に承句は、今にも何かが起こりそうな不安感が表れており、「青」の字が効いていますね。
転句は読み下しがおかしいのですが、「男は牛を急がせて還り 婆は子を逐ふ」となるところでしょう。
「男・女」や「爺・婆」のようなストレートな対応ではないのは、色々な人達が逃げ惑ったことを表したかったのでしょうが、ちょっとあざといかもしれません。
その分、結句に描かれた安堵の姿についても、「囲爐」や「寒燈」で冬の素材を並べた工夫もわざとらしく感じます。
一句一句に気持ちが籠もっているのですが、全ての句が頑張りすぎるのも微妙なもので、作者のテンションに読者が追いつけない場合もあります。
転句は平板な形にして「野老急牛婆逐子」としてはどうでしょうね。
2015. 1. 3 by 桐山人
作品番号 2014-357
秋光裏
秋冷楓林日日鮮 秋冷の楓林 日日鮮やか
残暉移景速流遷 残暉の移景 速かに流れ遷る
人間車馬遑遑走 人間車馬 遑遑として走り
寓宿翁徒倚几眠 寓宿の翁 徒らに倚几して眠る
<感想>
起句は「日日」にという形で時間経過、承句ももちろん時間の速さ、そして転句は「遑遑」(あわただしく)走るということで、どの句も時間に関したことがありますので、どうも読む方も急かされるような気持ちになります。
せめて起句は「満目鮮」「四面鮮」など、時間を取り除くと安定すると思います。
転句の「人間」は、漢語では「人の世」の意味で、「人」そのものを表すことはしませんので、ここは「人間世界では車や馬が忙しく走っている」と解します。
「人も車も」ということならば「世人」「巷人」、少し情景を詳しくするなら「往来」とする形でしょうね。
結句は「二・二・三」のリズムが崩れているため、読みにくいですね。また、「徒」はわざわざ言う必要の無い言葉ですので、「老耄詩翁倚几眠」のようにしてはどうでしょう。
「徒」を除くならば、転句の読み下しを「遑遑として走るも」と逆接で読むことも可能です。
2015. 1. 4 by 桐山人
作品番号 2014-358
初孫
初孫春美酒 初孫 春の美酒
野語紲宗親 野語 宗親を紲ぐ
嬰笑盈遺響 嬰笑 遺響に盈ち
縁華實喜新 縁(えにし)の華實 喜び新たなり
<解説>
昨年二月、甥に女児が生まれて、嫁の父親(福島三春在)と先日飲み、その折の印象です。
春の美酒も逆さに読んで三春に引っかけました。
「遺響」は「余韻」という意味で使ったのですが、「遺響に盈ち」を「遺響を盈たし」と読んでもどうもしっくりしません。
<感想>
ご誕生、おめでとうございます。
お孫さんのお名前もご紹介いただきましたが、個人名ですので、削らせていただきました。
実は、今回の詩はそのお名前を中に織り込んだものですので、何となく用語がおかしく感じるところがあるのはそのためです。
ただ、そうした裏事情はないものとして読んだ時に、詩として意味が通じること、もっと言えば詩情が含まれていることが大切で、そうでないと、単なる漢字合わせで終ってしまいます。
この場合、承句がそれに当たります。
「野語」は「いなか言葉」、まさかお孫さんの「野語」ではないでしょうし、一緒に飲んだお相手では失礼だし、自分のことでは「宗親」(多分「親族・一族」でしょう)を紲ぐということにつながらないので、うーん、よく分からないですね。
この句は作り直したいですね。
転句の「嬰笑」は「嬰児の笑い声」ということでしょうが、省略しましたね。
「盈遺響」は「玲瓏響」という形でしょう。
結句は「二・三」のリズムが欲しいですので、「華縁逾喜新」とでもしてはどうでしょう。
ところで、解説にお書きになった「甥」というのは、「息子」さんのことでしょうか。
2015. 1. 4 by 桐山人
作品番号 2014-359
秋日郊行
林下葉飛処処明 林下 葉飛んで 処処明るし
水光冷艶小橋横 水光 冷艶にして 小橋横たはる
閑人看尽江山色 閑人 看尽くす 江山の色
携幼逍遥歩歩軽 幼を携えて逍遥すれば 歩歩軽し
<感想>
一昨年の九月、東京新聞に「漢詩じわり流行」という二面抜きの記事が載りましたが、その時の取材で莫亢さんとはお近づきになりました。
記事を拝見して、「漢詩を随分理解していらっしゃる方だ」と思っていましたが、今回、漢詩創作に取り組まれたとのこと、とても嬉しく思います。
新しい仲間を大歓迎ですので、今後もよろしくお願いします。
なお、東京新聞の記事はそのままでは載せられませんが、中国の新華社が配信していましたので、そちらを紹介しましょう。
中国語に翻訳されていますので、慣れない方は雰囲気だけでもご覧ください。
「新華社「漢詩ブーム」
さて、初めての作品ということですが、用語も詩語(漢語)として問題無く、また平仄も考慮されていますし、何よりも秋の趣が伝わってきます。
ただ、一つ一つの句を見ると味わいがありますが、全体として見ると、やや気になる点はあります。
場面を追ってみると、郊外に出かけ、「林」を通ると葉が飛んで(落葉してということでしょうね)あちこちが明るい。
「川」が流れていて小さな「橋」(ということは、これは小川になります)が架かっているところで、周りを見回すと、「山や江」(これは大きな川になります)が眺められる。
分かったようで分からない、というのは、前半を見ると林を散策している(「処処明」)、その林を抜けると小川と橋、つまりそれほど広々とした場所を歩いているのではなく、近所のちょっとした公園の散歩道を歩いているように感じるのですが、「見尽江山色」と転句で大移動したような印象だからです。
これは「江山」の字に問題があるわけです。ついつい「見尽」で言葉が流れてしまったという形になります。
漢詩はスケッチよりも頭の中で場面を構成しますので、文字に誘発されて場面が動いてしまうことがよくあります。
先に言いましたように、全体の雰囲気は出ていますので、以下の点だけを直せば良いでしょう。
また、作者が実際にどこかこうした場所を知っているということでしたら、それは個人的に体験した特別な場所となります。
その場合には、題名を単なる「秋郊」ではなく、「〇〇郊行」「〇〇秋郊」という形で、「房州秋郊」「武蔵野郊行」と書くと良いでしょう。
さて、是非直す点は、起句です。
平仄を見ますと、「林下葉飛処処明」は「〇●●〇●●〇」となります。
「二四不同」「二六対」は守られているのですが、四字目が孤平になっています。これは「四字目の孤平」と言われ、大きな瑕疵となります。
五字目の「処」を替えるよりも、三字目を平字にした方がよさそうですので、その方向で考えましょう。
「飛」の上に持ってくる字は色々考えられますが、その場合には何が飛ぶのか分からなくなりますので、上二字のところに「葉」を持ってきます。
となると「林葉流飛」「紅葉揚飛」という形にすれば収まりますね。
転句は取りあえず「江山色」を「秋山色」「深秋色」のようにすればどうでしょうか。
2015. 1. 4 by 桐山人
作品番号 2014-360
憶故兄閏九月三日月
―和韻深溪大兄玉作「憶予科練」―
南天鉤月夜三更 南天 鉤月 夜三更
七十乾坤憶故兄 七十 乾坤 故兄を憶ふ
弱冠少年干戈斷 弱冠 少年 干戈断ず
馬齡醉夢愧吾生 馬齢 酔夢 吾が生を愧づ
<解説>
一昨年の「旧鹿屋航空基地跡」に関する深溪大兄との応答から、二年の歳月が経過しましたが、今年も、深溪大兄の三連玉作(八月十五日、憶予科練、懐古霞浦)を敬意を以って拝読致しました。
不肖(干戈の語部の末尾に坐す)小生儀、「憶予科練」(2014-273)に和韻させて頂きました。
本日、深溪大兄の御同意を得ましたので、同時吟「月明即事」を附して投稿させて戴きます。(兼山)
<感想>
深渓さんの友への思い、兼山さんのお兄様への思い、今年は戦後七十年という節目の年ですので、尚更感じられるものが深いと思います。
平和を求める心は戦争での辛く悲しい体験の裏返しでもあります。
平和のありがたさ、それはまさに「有り難い」ものであるからこそ、戦後の私たちは「刷り込む」ように、機会ある毎に学び教えて来ました。
心の中の大切なもの、「二度と悲しい思いをしたくない」「子ども達には味わわせたくない」という思いは万人に共通のもの、そのことを信じられる世の中であってほしいと思います。
前回の和韻の詩は「尋旧鹿屋航空基地跡−次韻深溪大兄玉詩『又八月十五日』」でしたね。
兼山さんの今回の詩も心が籠もった詩で、次の「月夜即事」の解説に書かれたお気持ちがよく表れていると思います。
「愧吾生」については、私個人としては、自分も含めて誰もが「あるがままが精一杯」の人生だと思っていますので、あまり共感できない、と言うか、共感しにくい点はありますが、理解はできます。
2015. 1. 4 by 桐山人
作品番号 2014-361
月夜即事
今年閏九月明尊 今年 閏九 月明尊し
十五十三秋興繁 十五 十三 秋興繁なり
唐土本邦同一景 唐土 本邦 同一の景
可無詩作謫仙魂 詩作 無かるべからず 謫仙の魂
<解説>
昨年の秋は九月が二度あったので「明月」を観る機会が平年より多かった。
閏月は約三年に一回来るが「閏九月」は滅多に来ない。
前回の閏九月は1843年であり、今年の閏九月は171年振りであった。
この次は、何と190年後の2204年に来ると言う。
処で、十五夜や十三夜だけが名月ではない。
旧暦の三日の夜、南天に出現する「三日月」の姿を見る度に、三日月に祈って出陣する凛々しい若武者「山中鹿之助」を必ず憶う。
零戦搭乗員だった十歳違いの兄は、満二十歳の誕生日に南海の空に散った。
遺書も遺品も残って居ないが、どんな思いで死地に向かったのだろうか。
徒らに故人の四倍もの歳を重ねた「醉生夢死」の我が人生を愧じるのみである。
少年兵逝き我が戦後七十年 兼山
長安も閏九月の十三夜 兼山
<感想>
「閏九月」のことは知りませんでした。勉強になりました。
結句は否定の言葉がありませんので、「無かるべし」となってしまいます。
「可」の字を、反語が明確になるような「盍」「豈」にするか、「無」を「爲」にしておく必要がありますね。
2015. 1. 4 by 桐山人
作品番号 2014-362
称羽生結弦選手
氷上舞人驚嘆声 氷上の舞人 驚嘆の声
日章君代国民情 日章 君代 国民の情
痩躯如鶴冠天下 痩躯 鶴の如くも 天下に冠たり
電視応援臻未明 電視で応援 未明に臻れり
<解説>
西班牙での大会で優勝せる羽生結弦選手を称ふ。
中国でのアクシデントに見舞われ大けがを負うも、僅かの日時、不屈の精神で美技を堪能させてくれました。
<感想>
グランプリファイナルでの優勝、「日本男子初の二連覇」と新聞に大きく書かれていましたね。
国民的スターだった浅田真央選手の休養、男子のスケートを牽引してきた橋大輔選手の引退という、何となく寂しい思いのする中での優勝、しかも大けがの直後で出場することへの賛否も分かれるような状況でしたから、尚更感動は大きかったですね。
今回の詩は、そうした思いをそのまま言葉にした印象ですが、漢文としては疑問もいくつか残ります。
起句については、「舞人」が「驚嘆声」を上げたように読めます。「舞姿」とすれば多少は良くなるかと思います。
承句は「日章」も「君代」もこれでは通じません。仮にこのまま読んだとしても、「日の丸 君が代 国民の情」となるわけで、どう「国民」の気持ちなのか、羽生選手とは別の話になってしまうようで、日本語としても気になります。
結句は「臻」は「迎」でも良いと思います。
2015. 1. 9 by 桐山人
作品番号 2014-363
世界遺産富士山
誰云東海誉扶桑 誰か云ふ東海 扶桑の誉れ
蟠地参州映曙光 参州の地に蟠り 曙光に映ず
一万三千尺霄峙 一万三千尺 霄峙す
霊峰八朶極瑞祥 霊峰 八朶 瑞祥を極む
<解説>
世界遺産として富士山は美保の松原を含めて登録された。
「参州」: 相模・駿河・甲斐。
<感想>
富士山の世界遺産登録は喜ばしいニュースでした。
静岡の芙蓉漢詩会の皆さんの「芙蓉漢詩集」にも、三保の松原から眺めたり、自宅の庭から眺めたり、地元ならではの詩がいつも入っていて、楽しくなります。
承句の「蟠地参州」を「参州の地に蟠り」と読むのは、修飾語(参州)と被修飾語(地)が逆ですので、苦しいですね。
「蟠屈参州」とすれば「参州に蟠屈」として、同じような意味になるかと思います。
ただ、「参州」は「三河」と混同しやすいのと、この句自体は主語が無く、「映曙光」が浮いているのも気になります。
「三国霊峰映曙光」が考えられますが、いっそ「八朶霊峰映曙光」と結句の上四字を持ってきてはどうでしょう。
そうなると結句が無くなってしまう、と感じる方もいるでしょうが、富士の峰を芙蓉の花にたとえて「八朶」と呼ぶことはよく知られている、というか定番の比喩です。
それが、結句に置かれていると、「霊峰は八朶」であることに感動が生まれてしまい、何となく作者自身の発見のような印象になりますので、承句であっさりと表しておいた方が収まりが良いと私は思います。
結句は承句で削った「三国」を持ってきてもよいですが、「瑞」は仄声ですので、結びをどうするかを優先して検討なさってはどうでしょう。
2015. 1. 9 by 桐山人
作品番号 2014-364
訪妙心寺 妙心寺を訪ぬ
静虚聖地翠風濃 静虚なる聖地 翠風濃く
寂寂響心天下鐘 寂寂 心に響く 天下の鐘
雄勝雲龍圖見仰 雄勝な雲龍図 仰ぎ見る
幾何遺寶動私胸 幾何 遺宝 私胸を動かす
<感想>
妙心寺の雲龍図は狩野探幽の筆になるものでしたね。私も拝観したときに感激したことを思い出しました。
起句で「静虚」を言いましたので、また「寂寂」はどうでしょうね。鐘の音の形容とするならば、「殷殷」とすれば「重々しい低い音」になるし、清らかな音色ならば「清麗」「清朗」などが良いでしょう。
「響心」は「響音」が良いでしょう。
転句の「雄勝」は絵画の表現としてはどうか、「雄壮」の方が良いですが、下三字もいかにも苦しいので、「雄壮雲龍法堂画」として、挟み平でどうでしょうね。
結句の「幾何」は「沢山の」という意味ならば「許多」とそのまま書いた方が良いです。
また、「私胸」は漢語では妙ですので「吟胸」、どうしてもならば「吾胸」というところでしょうか。
2015. 1.10 by 桐山人
作品番号 2014-365
厳島再見
厳島探秋留旅鞋 厳島 探秋 旅鞋を留む
楓林鳴鹿夕陽佳 楓林 鳴鹿 夕陽佳し
献吟朋友廻廊外 献吟 朋友 廻廊の外
再訪神前故旧懐 再訪 神前 故旧懐ふ
<感想>
この詩の結句は、最初は「回顧青春老大懐」ということで、「若い頃に厳島に行ったことを思い出して懐かしい」ということでした。
転句までの内容とのつながりがなく、突然の「回顧青春」は理解しにくいので、結句を推敲していただいたのがこの作品です。
転句は、外に出て作者も吟じたということですと、「献吟」は「和吟」「合吟」とした方が良いかと思います。
あるいは、「献吟與友」(献吟 友と与にす)という形でしょうか。
重要な結句ですが、「故旧」は「昔の友人」のこと、ただし、これは転句の「朋友」とは別の人たちになりますね。
二つの「友」が出て混乱するとともに、「友人と一緒に居ながら、別の友人のことを思う」というのは、何となく失礼な印象もします。
言葉を分解するようですが、「旧懐」を生かして、「新旧懐」「深旧懐」などと考えてはどうでしょうか。
2015. 1.10 by 桐山人
作品番号 2014-366
初夏名古屋場所
天昏連日雨聲侵 天昏 連日 雨声侵す
車外郊村柳色深 車外 小村 柳色深し
何處鬢油香一柱 何処 鬢油 香一柱
輕衫力士爽吾心 軽衫の力士 吾心爽たり
<感想>
名古屋場所の季節になると、愛知県の各地で力士の姿を目にするようになります。
私の住む半田でも、以前は二つほどの相撲部屋が宿所にしていて、電車に乗ると浴衣姿の力士をよく見かけました。
その度に、「ああ、また今年も名古屋場所の時期になったんだ」と思います。
清井さんのこの詩、最初は転句まで出来たのですが、結句で随分苦しまれたようです。
詩の狙いとしては、大相撲の力士そのものを描きたいのではなく、私の感想と同じく、季節の風物詩として捉えたいということのようです。
例えば俳句だったら「鬢油香」と出せば、それだけで日本に住んでいる方ならば「大相撲の力士」を連想してくれるでしょうから、転句までで終っても、逆に余韻(というか余香)があって面白いものになるでしょう。
つまり言いたいことはもう描いてしまった、という感覚で、この後結句に何を入れたら良いのかと悩んだわけです。
そうした気持ちはよく分かりますが、「鬢油」が誰のものなのかくらいは示さないといけないということで、「輕衫力士」が入った形です。
下三字の「吾心」で作者の「心」が出るのは、読者の余韻をばっさり切り捨てるような感じです。
「心」を使うにしても、自分の心ではなく、力士の心にしたいところ、私ならば「暫寛襟」(暫く襟を寛くす)のように、力士の姿を描いて爽やかさを感じさせる言葉にしておきます。
2015. 1.10 by 桐山人
作品番号 2014-367
歳末偶感
六十加三已晩秋 六十 三を加えて 已に晩秋
無功多愧意無愁 功なく愧ぢ多きも 意(こころ)愁ふ無し
四時客旅各存樂 四時の客旅 各(おのおの)楽しみ存す
冬到雪花温酒謳 冬到れば 雪花 酒を温めて謳はん
<感想>
私も東山さんとほぼ同じ年代ですので、よくわかりますね。
振り返れば私の場合、「多愧」ばかりですが。
季節の細やかな変化を感じたり、自分のこれまでの人生を振り返ったり、詩人の心はあれこれと本当に忙しいものですが、それも漢詩の世界に入れたからこそ、「四時各存樂」は全く同感ですね。
一点、起句の「已晩秋」は、「63ではまだ早いぞ」と諸先輩から叱られるかもしれませんよ。
2015. 1.10 by 桐山人
作品番号 2014-368
甲午歳晩書懷(一)
光陰容易轉悽然 光陰 容易 轉た悽然
霜鬢明年又一年 霜鬢 明年 又一年
多事忙忙詩未就 多事 忙忙 詩未だ就らず
歳云暮矣恨綿綿 歳 云に暮れたり 恨綿綿
年の瀬や今も昔も慌ただし
<感想>
承句は高適の「除夜作」をひとひねり、ということでしょうか。
「明年」と替えて、一年一年があっという間に過ぎて行くということを表す形、つまり「歳晩」だけの感懐ではなく、「霜鬢」つまり「老」への感懐としたのだと思いますが、うーん、それほどの効果が出ているとは思えません。
「明年」に何か老いを表す言葉を入れた方が、意図ははっきりすると思います。
2015. 1.10 by 桐山人
作品番号 2014-369
甲午歳晩書懷(二)
戰後六旬餘九年 戰後 六旬 餘九年
干支甲午歳除天 干支 甲午 歳除の天
誰知解散無大義 誰か知らん 解散 大義無し
宰相應嘆幾變遷 宰相 應に嘆ずべし 幾變遷
解散の大義は見えず年暮るる
<感想>
色々とあった一年のように思いますが、年末の総選挙のせいで、何とも無意味な一年が過ぎたような気になってしまいましたね。
先日の新聞では、総選挙をまとめて「空洞化する現状肯定」というような言葉がありましたが、ある意味、現代日本の現状を表した選挙結果だったのかもしれませんね。
バブルの軽薄さに懲りたはずが、「もう一度あの夢を!」と思う世代が台頭し始めたのでしょうか。
転句の平仄だけ確認をしてください。
2015. 1.10 by 桐山人
作品番号 2014-370
離郷
不意離郷六歳巡 意はず郷を離れ六歳の巡り
看峰残雪配流身 峰に残雪を看し 配流の身
煙霞遠路陽炎邑 煙霞 遠路 陽炎の邑
回首花謡万里春 首を回せば 花は謡ふ 万里の春
<解説>
事情があって帰れなかった故郷を偲びつつ、春の風景に慰めを求めながら詩を作りました。
<感想>
新しい漢詩仲間をお迎えして、とても嬉しく思っています。
明斎さんはもう20年近くの経験をお持ちとのこと、これからも沢山の詩を拝見するのが楽しみです。
起句は「不意」は「離郷」に懸かるとも、「六歳巡」に懸かるとも読めますね。
前者なら、「思いがけずに故郷を離れ、それ以来六年が過ぎた」と読みますし、後者なら「六年も過ぎるとは思いもしなかった」となるのですが、作者の狙いは「六年」にあるようですね。
そのあたりをはっきりさせるなら、「客土誰知六歳巡」のように目的語と述語を近づけることになります。
承句の「配流」は罪を犯して流されることですので、ご事情は分かりませんが、もう少し穏当な言葉が良いように思います。ただ、そうなると「離郷」と同じことにはなりますが。
上四字の「看峰残雪」も、過去のことを言っていると分かるのは読み下しの「し」だけしかなく、現在の景と読みがちです。
そうなると後半の叙景との区別がつきにくく、転句からの変化があまり明確になっていない気がしますので、「看」を「辞」に替えてみてはどうでしょうか。
転句はいただいた原稿では「陽炎里」となっていたので、「里」の同字重出を避けて「邑」を提案しましたが、読み返してみると「裏」の方が良かったかな、という気がしてきました。
2015. 1.11 by 桐山人
作品番号 2015-371
桂林漓江
桂榕街樹拷A連 桂榕の街樹 拷A連ね
渡口風柔動細漣 渡口風柔らかにして 細漣を動かす
危嶂奇峰如滴墨 危嶂 奇峰 墨を滴らすが如し
絶佳山水客心牽 絶佳の山水 客心牽かる
<解説>
今年度最後の詩は、私桐山人のものです。
初夏に桂林に行ってきた時の詩ですが、桂林はご承知のように、文人墨客がこれまでにあまた訪れ、素晴らしい景観を詩に残しています。
今更私が、というか、自分の詩の力では表現できない気がしてなかなか詩にならなかったのですが、旅の記録として書いておくことを日頃勧めている手前、何とかまとめた次第です。
「桂榕」はキンモクセイとガジュマルの並木道、桂林の街を歩くと、ガジュマルの大木が枝を垂らしているのが目に入ります。
そこから漓江の乗船場に行くと、もう別世界が目の前に広がります。
キンモクセイとガジュマルの並木道
渡し場はそよ風が波を揺らしている
聳え立つ奇峰は墨を垂らしたようで
素晴らしい山水画の世界に大感激
2015. 1.11 by 桐山人
作品番号 201-372
祭詩
空老彫虫四十年 空しく老ゆ 彫虫四十年
悪詩謝斧未爲全 悪詩斧を謝して 未だ全ったきを爲さず
徒労区区屠龍技 徒労たり区々たりし屠龍の技
此夜祭詩心悵然 此夜詩を祭れば 心悵然たり
<感想>
2015. 2. 1 by 桐山人
作品番号 2014-373
歳除
歳除温酒解吾愁 歳除酒を温めて吾が愁を解かん
物化匆匆逝不留 物化は匆匆として逝きて留まらず
慚愧空為遊手客 慚愧す空しく為る遊手の客
謝蝉霜鬢更悠悠 蝉謝(さ)りて霜鬢 更に悠悠
物化 万物が変化すること 斉物 荘子
遊手 職無く遊び暮らすこと
謝蝉 蝉の羽のように,透き通って美しく見える鬢が白くなる
悠悠 不安なさま
<解説>
<感想>
2015. 2. 1 by 桐山人