31作目は 桐山人 、拙作です。
 入院していた病室の正面に、鶴舞公園という名古屋では有名な公園があります。手入れが行き届いていて、色とりどりの花が咲き誇るそうですが、私が居た時はまさに桜の季節、風に舞う花びらを詠んでみました。

作品番号 1999-31

鶴舞公園        桐山人

桜花万片落漫漫   桜花万片落ちて漫漫

柳糸千條綜摶摶   柳糸千條綜(す)べて摶摶

鶴舞園亭風駘蕩   鶴舞園亭 風は駘蕩

尾城三月是春闌   尾城三月是れ春闌

          (上平声十四寒)

<解説>

「漫漫」:空一面に花びらが飛び散る様
「摶摶」:糸がまとまって重く垂れる様
「尾城」:(尾張)名古屋の町

桜の花びらが数限りなく大空に舞い、
柳の細い枝は幾本も縒り合わさって重そうに垂れている。
ここ鶴舞公園の東屋に腰を下ろせば、風はのどやかに吹き、
名古屋の三月は、まさに春が闌(たけなわ)であることよ

 前半を対句にしたのですが、やや言葉に流れすぎたか、と反省しています。
 ところで、この「鶴舞公園」のことを名古屋人は「つるま公園」と呼ぶんですよ。地下鉄などの駅名は「つるまい」なのですけどね。だから、花見に行く時は、「つるまこーえんにいこみゃーか」となるのです。

1999. 5. 6 

                





















 32作目は 鶴峰 さんからの作品です。
 鶴峰さんは、「夜光杯」のお名前で投稿いただいていましたが、号を改められたそうです。
 今回の作は、金沢称名寺でのものだそうです。

作品番号 1999-32

称名寺春景        鶴峰

花近山門懐古風   花は山門に近くして古風を懐(おも)ふ

彩橋映水正如虹   彩橋水に映ず正に虹の如し

武州金澤称名寺   武州金澤称名寺(しょうみょうじ)

池畔晩鐘今古同   池畔の晩鐘今古に同じ

          (上平声 一東)

<解説>
 花便りに誘われて十数年振りに横浜金沢区称名寺を訪れた折の作。

 山門に寄り添う様に大振りの見事な桜がまさに満開であった。門を入るとすぐに極楽浄土を模した阿字ヶ池とそこに渡された朱色の反橋が眼に入る。
 池の辺には金沢八景のひとつ、称名寺の鐘楼が今も昔も変わらない晩鐘を響かせている。

 なかなか詩題が見つからず、ゴールデンウイークには久しぶりにまた山歩きに出かけようかと思っている今日この頃です。
 今まではあまり草や木や花などには興味がなかったのですが、漢詩を始めてその方面への関心が湧き、妻に笑われております。

<感想>
 詩題に苦しむのは、まったくよく分かります。
 今回の詩は、転句が真っ先に完成しましたか?地名と平仄がきれいに照合して、印象的な詩になっていますね。
 起句と結句に同じ「古」の字が使われているのは、避けた方がよいでしょうから、そこだけ直されたらどうでしょうか。

1999. 5. 6 

                by junji





















 33作目は 三耕 さんからの作品です。
 前回の「風刀山月」(作品番号1999-24)と「転回」(作品番号1999-25)への私の感想へのご返事もいただきました。書き加えておきましたので、そちらもご覧下さい。

作品番号 1999-33

是誰春          三耕

留落花随意   留落 花 意に随ひ

神仙不可関   神仙も 関するべからず

青衫十有五   青衫 十有五

万緑是誰春   万緑 是れ誰が春か

          (上平声 十一真、十五刪通韻)

<解説>
[語釈]
「神仙」 桜花には神仙が宿るとされる。
「青衫」 古代中国の新社会人の服装。
「十有五」十五年。

<感想>
 三耕さんのこの詩には(1999/04/05)という日付が付けられていました。入学式の直前でしょうか、それとも当日かもしれませんね。
 「十有五」は学に志す年、自分の可能性が拡がり始め、どんな力でも手に入るような気持ちになる年、まさに青春の始まりですよね。私は毎年こうした子供達を四月に迎え、そのエネルギーに満ちた眼差しを見るのが好きです。
 傲慢でも、図々しくても、世界が自分を中心に回っていると思いこんでいても、それで良いと私は思います。だって、それが青春じゃないでしょうか。ただ、そうした彼等の自己主張が暴走する場合だってあるわけですから、そうした緊急事態に備える大人の側の対応、見て見ぬ振りをしない責任感を持っていることが大切だと思っています。

1999. 5.15                 by junji






















 34作目は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 1999-34

青蝿        鮟鱇

仮如喧羽声   たとえ羽声喧しくとも

君莫払青蝿   君、青蝿(はえ)を払う莫れ

虫善知香味   虫は善く香味を知りたれば

飛来応聘徴   飛び来たらば応に聘徴すべし

          (下平声 八庚)

<解説>
(訳)  蠅 
羽の音がうるさいからといって
ハエを追い払ってはいけない
虫は美味しい匂いをよく知っているのだから
飛んできたら歓迎してあげよう

<感想>
 蠅をあつかった文学作品というと、真っ先に頭に浮かぶのは『枕草子』でしょうか。

 「蠅こそにくき物の内に入れつべく、愛敬なき物はあれ。人々しう、かたきなどにすべきものの大きさにはあらねど、秋など、よろづの物にゐ、顔などに、濡れ足してゐるなどよ。人の名につきたる、いとうとまし(岩波古典大系・第三十四段より)」

 これは「虫は」で始まる章段ですが、ここの後半部分、「濡れ足」という表現を初めて見た時には、思わず手を打って納得したものです。こうしたきらりと光る冴えた言い方は、清少納言の独壇場ですね。
 「人の名につきたる、いとうとまし」などは、そこまで言わなくてもと思いますが、蠅を名前に持つ人は実際に多くいたようですね。びっくりです。

 漢詩の世界では、私が頭に浮かぶのは韓愈の「雑詩」でしょうか。

   朝蠅不須駆   朝蠅は駆るを須いず
   暮蚊不可拍   暮蚊は拍つべからず
   蠅蚊満八区   蠅蚊八区に満つるも
   可尽与相格   尽く与(とも)に相格すべけんや
   得時能幾時   時を得るは能く幾時ぞ
   与汝恣啖咋   汝が与(ため)に啖咋を恣(ほしいまま)にせしめん
   涼風九月到   涼風九月到れば
   掃不見蹤跡   掃ひて蹤跡を見ざらん

 うるさい蠅や蚊(権力に群がる小人)も追い払う必要はないよ。九月になって秋風が吹けば、どうせ居なくなってしまうんだから。
と、こんな意味でしょうか。

 うっとうしい蠅や蚊に対しても、韓愈や鮟鱇さんのようにゆとりを持って向かいたいものです。

1999. 5.16                 by junji




 鮟鱇さんから、感想へのお手紙をいただきました。内容が面白かったので(スミマセン)、少し直して無断転載してしまいました。

 この度は、私の「青蝿」にとても素晴らしい感想を書いていただき、ありがとうございました。
 清少納言や韓愈の詩を引いてこのように書かれますと、わたしの拙い詩も我ながらよくできたのではないかと思え、とても面映ゆく、また、勇気付けられます。

 先日、ある小さな中華料理店で食事をしていました。客は私だけで、とても空いていましたが、その時たまたま大きな蝿が一匹飛び込んできました。店の女主人が大騒ぎをし、夜でしたので、店中の電灯を順次消しながら蝿を外に導くなど、私も協力して追い払うことになりました。
 その後、「まてよ、人間だからといって、私だけが美味しいものを一人じめしてよいものか」と思って作った偶作です。

 妻などからはよくヘソまがりだと言われるのですが、私は、人間にしろ動物にしろ、人から卑しめられ嫌われているものへのシンパシーがありまして、動物ではカラスやゴキブリなど、人間から嫌われながら懸命に生きている動物たちをいとおしく思います。人間界で言えばエリートばかり集め、どんな選手もエリートにしてしまうジャイアンツが嫌いです。(もし先生が ジャイアンツファンでしたら、ごめんなさい)
 それで、あのような詩ができたのだと思います。

 ほんとうにありがとうございました。


1999. 5.18                 by鮟鱇






















 35作目は 真瑞庵 さんからの作品です。

作品番号 1999-35

雨中山村逍遥       真瑞庵

漠漠濛濛遠近林   漠漠濛濛遠近の林

濃煙淡靄四方岑   濃煙淡靄四方の岑

風揺樵径紅花耿   風は樵径紅花の耿かなるを揺らし

湫映山腰翠樹深   湫は山腰翠樹の深きを映ず

西畛農夫蓑笠影   西畛の農夫簑笠の影

東皋野寺晩鐘音   東皋の野寺晩鐘の音

風光都是塵俗外   風光都て是塵俗の外

恰若雨声洗我心   恰も雨声の我が心を洗ふが若し

          (下平声 十二侵)

<解説>
 初夏の一日雨の中、犬山寂光寺附近の山歩きを楽しんできました。
 行き会う人も無く、雨音と時折吹く風の音だけの世界。そんな静寂の中に身を置くと陶淵明の世界に入り込んでしまいます。

<感想>
 真瑞庵さんのこの詩に触発されて、久しぶりに陶淵明の詩をいくつか読みました。
 その時その折の自分の気持や状況によって、心に残る詩は違ってきますが、今回は『雑詩 其二』にひかれました。
 引用しますと、
   白日淪西阿   白日 西阿に淪(しず)
   素月出東嶺   素月 東嶺に出づ
   遙遙萬里輝   遙遙として萬里に輝き
   蕩蕩空中景   蕩蕩たり 空中の景
   風来入房戸   風来たって房戸に入り
   夜中枕席冷   夜中 枕席冷ゆ
   気変悟時易   気変じて時の易(かわ)れるを悟り
   不眠知夕永   眠らずして夕の永きを知る
   欲言無予和   言はんと欲するも予(わ)れに和するもの無く
   揮杯勧孤影   杯を揮(ふる)って孤影に勧む
   日月擲人去   日月は人を擲てて去り
   有志不獲騁   志有るも騁(は)するを獲ず
   念此懐悲悽   此を念(おも)ひて悲悽を懐(いだ)
   終暁不能静   暁を終ふるまで静まる能はず

 九行目の「欲言無予和」からを読んだ時に、李白の『月下独酌』を思い出しました。
 そして、超俗して自由奔放の天才詩人である李白と、脱俗の田園詩人である陶淵明が重なって来ました。今まで何故か私の心の中では、この二人が重なったことは無かったんですね。これは私の陶淵明のとらえ方がきっと足らなかったのでしょう。
 そう言えば、これも以前の話になりますが、岩波書店の『唐詩概説』(「中国詩人選集」別巻)での小川環樹氏の解説の中にあった次の文章、
 「かれ(陶淵明)の詩は平静な心境を反映しているように見えるが、それは深淵のしずけさであり、不気味でさえある」
 の、特に「不気味でさえある」という言葉がなかなか理解できなかったことを思い出しました。

 今回も感想が長くなってしまいましたが、陶淵明をもう少し読み進めてみようという気持になっています。
1999. 5.29                 by junji





















 36作目は 天山一風 さんからの初めての投稿です。
 天山一風さんは、佐賀県の方だそうです。数年前に一度詩を作ったことがある、とのことですが、しっかりした七言絶句です。

作品番号 1999-36

薫風洗春愁      薫風春愁を洗う  天山一風

薫風如水洗春愁   薫風水の如く春愁を洗い

燕語一過排積憂   燕語一過積憂を排す

庭院芭蕉新翠滴   庭院の芭蕉新翠滴り

黄昏村外夕陽流   黄昏村外 夕陽流る

          (下平声 十一尤)

<感想>
 晩春から初夏への季節の流れがよく表れている詩ですね。特に、転句の「新翠滴」は鮮やかな緑が目に浮かびます。春の終わりと一日の終わりとが、視野の広い結句によって融合されていますね。
 「黄昏」や「夕陽」の言葉からは、晩唐の李商隠の『楽遊原』を思い出します。

1999. 5.29                 by junji





















 37作目は 瓦礫 さんからの作品です。
 

作品番号 1999-37

讃嘆鈴木先生奮励      鈴木先生の奮励を讃嘆す  瓦礫

東海詩壇忘失波   東海の詩壇、忘失の波

誰能鼓勇度昏河   誰か能く勇を鼓して昏き河を度らん

先生果敢孤灯挙   先生果敢にして孤灯を挙ぐれば

李杜欣然拍手歌   李杜欣然として手を拍ち歌ふ

          (下平声 五歌)

<解説>
 先般はじめてこのホーム・ページの感想をお送りしたら、早速丁寧な返事を頂戴しました。そこで今度は同じ感想を詩にしてみました。
 いまにも廃れてしまいそうな日本の漢詩復興をめざして、敢然と電脳詩壇を立ち上げた鈴木先生。冥界の詩聖・詩仙もさぞ喜んでいらっしゃるだろうと・・・。お粗末、ご容赦ください。

<感想>
 瓦礫さんからのお手紙は、「ホームページ作者からの挨拶」のコーナーに転載させてもらっていますが、あたたかい励ましをいただきました。その後に、詩も送って下さり、感激ひとしおです。
 このホームページも、風塵翁さんから頂いた詩を初めて掲載してから丁度1年が過ぎました。多くの方の励ましやご支援を心から感謝しています。
 ありがとうございました。
 
1999. 5.30                 by junji





















 38作目は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 1999-37

 愉午餐欲吟詩未成   午餐を愉しみ詩を吟ぜんと欲すも未だ成らず  

一吟二舞両三觴   一に吟じて二に舞わん、二三の觴(さかずき)

肆体午餐情陸梁   午餐に肆体すれば情(こころ)は陸粱たり

妻子将捌杯与酒   妻、まさに杯と酒とを捌かんするも

遅遅未鼓我詩腸   遅々としていまだ鼓さず、わが詩腸

          (下平声 七陽)

<解説>
 昼、ご馳走を食べてその幸せな気分を詩に歌おうとするが、詩情がわかず詩ができないという詩です。

 一から十までの数字を、現代中国語の発音で読みこんでいます。
 四は肆、五は午、六は陸、七は妻、八は捌、九は酒、十は詩と同音。
    (なお、思も四、遅も七と同音ですが・・・)

 字句、無理に数を読み込んでいますので、無理があると思います。一応、漢和辞典で意味は調べながら作っており、熟語で発明したものはありませんが、用法正しいかどうか・・・。

 気になるところ、以下、補足させてください。
肆体:体を伸ばす、から、のびのびするの意。
陸粱:体を右に左に動かすこと、暴れまわる様子。
    なお、陸は六の書き換え文字としても使われます。
妻子:妻のこと
捌杯与酒:わたしの辞書には「捌」には「分ける」の意味があるとありますが、一般的な用法といえるかどうか。
 また、捌A与Bという言い方が正しいかどうか。なお、捌は八の書き換え文字としても使われます。
妻、詩:現代中国語ではそれぞれ七、十と同音ですが、唐音では妻・詩は平声、七、十は入声です。

 下平声七陽韻のほぼ七言絶句ですが、転句四字目、本来平声でなければならないところ、仄声(入声)になっています。ただ、現代中国語では第一声(唐音の平声に対応)に発音しますので、仄声のままにしています。
 平仄だけでいえば、「妻子捌杯従緑酒」とでもすればよいのですが、捌A従Bという言い方、捌A与B以上に自信がありません。

 いずれにしろ、転句・結句は、わたしはお酒を飲んでいい気持ちになっており、もうすこし飲めばいい詩ができそうなのに、妻はさっさとお酒を片づけようとしている、そういう恨みがましい情景を歌いたかったものです。

<感想>
 うーん、鮟鱇さん以上に私は自信がありません。こういう場合は、あっさりと河東さんに伺った方がよいかな?
 河東さん、お読みになったら感想を送って下さい。

1999. 5.30                 by junji





















 39作目は 鶴峰 さんからの作品です。
 「これから中国の南の山奥に出張に出かけます。何かよい詩題が見つかればと思っております」との言葉が、詩の最後に添えられていました。
 今頃はきっと、詩想をまとめていらっしゃることでしょうね。

作品番号 1999-39

    愁父老           父の老いを愁ふ    鶴峰

薫風渡水入紅霞   薫風水を渡り紅霞に入る

負杖仰山老父斜   杖に負(よ)りて山を仰ぐ老父斜めなり

緬想幼時山上父   緬(はるか)に想ふ幼時山上の父

明年還見杜鵑花   明年還た見む杜鵑の花

          (下平声 六麻)

<解説>

 5月の連休に今年76歳の父と母を誘って伊豆の温泉に遊んだ。
 何時の間にか父はすっかり足腰が弱くなり、杖をついて歩く姿もなんともおぼつかない。子供の頃、父に連れられて山に登った時の、父のたくましい姿が思い出されて、月日の過ぎることの早さを想ったものだ。
 来年も元気でまた来ようねと心から思った。

 前作 称名寺春景の結句はご指摘の通り古を昔に変えて
   「池畔晩鐘今昔同」
 としました。
 ありがとうございました。

<感想>
 お父さんをいたわりつつ旅行をする姿が目に浮かび、あたたかい気持になります。こうした詩は、自分の心情の記録という意味も強いので、大切にして下さい。
 今回は転句がやや弱く(「幼時」の主体が不明瞭なこと、「山上父」がどんなイメージなのかがつかみにくいこと)感じます。解説に書かれたような気持は、まだ詩には十分出し切れていないようですね。
 他の部分はとても良いと思いますので、転句だけをこれから推敲されたらいかがでしょうか。

 鶴峯さんのこの詩から三首、「薫風」の書き出しの詩が続きます。初心者コーナーでの「5月の題」だったこともあるようですが、色々なイメージを楽しんで下さい。

1999. 6. 5                 by junji





















 40作目は まりりん さんからの作品です。
 まりりんさんは、数年前に私が担任をした生徒ですが、現在はもう結婚をして、小学校の先生になっています。

作品番号 1999-40

  雲      

薫風空青青   薫風 空は青青として

白雲静流流   白雲 静かに流れ流れる

刻刻変化楽   刻刻の変化は楽しく

我欲常自然   我 常に自然を欲す

          

<解説>

5月の風は爽やかで、空は青々として素晴らしい。
給食の時間に、ふと空を見ると、静かに白い雲が流れている。
ところが、それを見て子どもたちが、
「さめだよ、さめ!」
「こどものさめになったよ」
 と、おおはしゃぎ。
どんどんと形を変えていく雲を見てるのって本当に楽しいよなあ。
この子どもたちのように、自然の物に感動することのできる人間でいたいなあ。

 投稿詩に添えられていたメッセージです。
  淳次先生お元気ですか。
  初挑戦してみました。めちゃくちゃですがー。
  小学校では、とても楽しく過ごしています。
  とてもかわいい子たちですよ。

<感想>

 子供たち(生徒)と気持を一緒にすることは、教師として大切なことですが、誰でも簡単にできることではありません。努力と、天性の素質が大きく作用すると思います。
 空の雲を眺めて、「さめだ!」と一番さわいでいたのは、実は「まりりん」さんではないか、と私はひそかに思っていますが、彼女を知る友達ならば納得してくれるでしょう。
 というわけで、人柄のよく表れた詩でした。次回作にも期待します。

1999. 6. 5                 by junji





















 41作目は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 1999-41

  看杜鵑花偶感          鮟鱇

薫風吹処杜鵑花   薫風吹く処の杜鵑花

日照残紅吐血嗟   日は照らす、残紅の血を吐いて嗟(なげ)くを

黒蝶飄飄如鬼伯   黒蝶、飄飄と鬼伯のごとし

蜀王何恨野人家   蜀王、何ぞ恨まん、野人の家

          (下平声 六麻)

<解説>
 漢詩入門講座、鈴木先生からお題をいただきながら初心に返るつもりで挑戦させていただいております。
 杜鵑花(ツツジ)の残花にやってきた黒アゲハを見ての偶作です。

 蜀王杜宇は、死後、杜鵑(ホトトギス)となって国を思うので、ツツジとは関係はないのですが、残花といえども色あざやかなツツジを、「杜鵑花」と名付けた古人のセンスのよさを、ふと思ったものです。
 黒アゲハを「鬼伯(死んだ英雄の霊)」としたのは、悠々と飛ぶ蝶の姿にさまよう霊のようなものを感じてのことです。

<感想>
 鶴峯さんと鮟鱇さんの詩に、「杜鵑花」が出てきましたね。ツツジを「杜鵑花」と呼ぶのは、その花の赤さとホトトギスの啼き吐く血の色とが重なっての命名なのでしょうか。「蜀王」の伝説もそうですが、悲しい思いがしますね。

 「杜鵑花」とホトトギスの登場する李白の詩を引用しましょう。

    宣城見杜鵑花        李白

   蜀国曾聞子規鳥   蜀国 曾て聞く 子規の鳥
   宣城還見杜鵑花   宣城 還た見る 杜鵑の花
   一叫一廻腸一断   一叫 一廻 腸一断
   三春三月憶三巴   三春 三月 三巴を憶ふ

1999. 6. 5                 by junji





















 42作目は 河東 さんから頂きました。
 先日の鮟鱇さんの詩「愉午餐欲吟詩未成」についての感想をこのホームページを通してお願いしましたが、早速に送ってくださったものです。

作品番号 1999-42

  養生 (歩鮟鱇先生「愉午餐吟詩未成」韻)        河東

不愛抽煙不近觴,   

三餐多菜少膏粱。   

河辺毎日勤行路,   

無病吟詩不断腸。   

          (下平声 七陽)

<解説>
 [注釈]
抽煙:タバコを吸う
無病:無病呻吟という熟語があります。病気がないのに、わざと呻いたりする。

 [訳]
タバコが好きではない。杯にも近づかない。
一日三食では野菜を多く摂り、油や肉類は控えめにする。
毎日河辺で勤めて散歩する。
病気がないから、気分に良くない断腸詩を作らない。

 さて、鮟鱇氏の「愉午餐吟詩未成」に数字が使われていることについて、鈴木先生から コメントしてほしいとご指名を頂きました。
 小生もよく分かりませんが、詩に数字を入れて、更に平仄、韻、意味、順番を全部考えなければならないから、作るのがかなり難しいと思います。
 歌や「順口溜」(民間の口頭韻文)では見たことがあります。子供に数字を覚えさせる昔の歌を1首ご紹介します。

   一去二三里
   沿村四五家
   亭台六七座
   八九十枝花

 鮟鱇氏は一から十までの数字を工夫しながらうまく詩に入れ、且つ近体詩のルールを守れています。
 さすがに回文詩まで易々と作る氏の作品で、頭が下がります。

<感想>
 ありがとうございました。
 教えて下さった歌も押韻・平仄が揃い、リズムが美しいと思いました。
 日本では、子供にどんな歌で数字を覚えさせていましたっけ。今、すぐに思い浮かばないのですが、心当たりのある方は是非教えて下さい。
1999. 6. 8                 by junji





















 43作目も 河東 さんからの作品です。
 37作目の瓦礫さんの詩「讃嘆鈴木先生奮励」に和しての作です。

作品番号 1999-43

 読瓦礫先生『賛嘆鈴木先生奮励』有感、歩原韻奉和,並贈鈴木先生  河東

網上詩壇掀大波,   

全憑閣下啓先河。   

東瀛諸子多佳作,   

李杜有知当放歌。   

          (下平声 五歌)

<解説>
 [注釈]
網 :インターネット
先河:物事のきっかけを作る。

 [訳]
インターネット上での詩壇が巻き起こしている大きなセンセーションは、
全て鈴木先生が作ったきっかけのお陰である。
日本の方々には傑作が多くて、
李白、杜甫はこのことを知ることができればきっと喜んで歌ってくれるであろう。

<感想>
 恐縮の限りです。漢詩に対して、現代でもこんなに多くの方々が関心を抱いていらっしゃることに、本当に驚いています。
 「孤独な趣味」と思いこんでいましたが、ホームページを開いたおかげで、仲間が一気に増えた気がします。勿論、皆さんのおかげですが、私自身にもちょっぴり感謝したりしているこの頃です。

1999. 6. 8                 by junji





















 44作目は 鮟鱇 さんからです。
 40作目のまりりんさんの「雲」を読まれての作品です。

作品番号 1999-44

  読馬麗琳老師之詩真愉快作一首        鮟鱇
    馬麗琳老師の詩を読み真に愉快なり、一首作る  

天雲楽化生   天雲、化生を楽しみ

児女叫長鯨   児女、長鯨と叫(よ)

又似河豚泳   又 河豚の泳ぐにも似たれば

学窓笑語争   学窓に笑語争ふ

          (下平声 八庚)

<解説>

 マリリン先生の爽やかな詩、楽しく読ませていただきました。
 夜、先生の詩を思いながらお風呂に入っていてできた詩です。
 ふだん、どちらかといえば暗い詩を書きますので、子供たちに囲まれた先生の明るい世界に心ひかれたのだと思います。感興、ありがとうございます。

 以下、注釈少々。
馬麗琳:マリリン先生の現代中国語音訳
  姓の「馬」は元代の有名な詩人、馬致遠から拝借。
  「麗琳」は麗しく清らかな玉の意です。
化生  :変身、雲の姿が変化する様子を表現しようとしました。
叫   :この語には、大声を出すの意のほかに「名前を呼ぶ」の意があります。
笑語争:「明るく笑ったり語ったり、言い争いもする」のつもりです。
  ここでは、雲の姿が鯨であるのか、河豚であるのかを言い争っているところです。

<感想>
 ありがとうございます(と、私が言うのも変ですが・・・・)
 こうした詩のやりとりは、韻文では特に重要な文化の伝統です。小学生の子ども達が直接漢詩を作るわけでは勿論ありませんし、内容を十分に理解することは難しいでしょうが、自分たちに身近な所で行われていると知ることは、大きな文化的な刺激になると思います。
 そんなに難しいことは言わなくても、インターネットの素晴らしさ、ということだけでも伝わりますよね。
 素晴らしい名前も頂きましたし、是非、まりりんさんも学校での生きた教材として下さい。

1999. 6.12                 by junji





















 45作目は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 1999-45

    猫              鮟鱇

天天安命負暄猫   天天、命を安んじ暄を負う(ひなたぼっこ)の猫

半睡打禅影不揺   半睡して禅を打てば影、揺らがず

善悟名知凶器也   善く名知(名誉と知識)の凶器なるを悟り

欠伸気息任風調   欠伸(あくび)の気息、風の調ふに任す

          (下平声 二蕭)

<解説>

 ひなたぼっこの猫を描いたものです。
 わたしは猫の、無関心で、妙に悟り澄ましたかのような表情にいつも心ひかれています。
 転句の「名知」は、名誉と知識は人間にとって凶器であると述べた荘子(人間世篇)の次の言葉を踏まえています。

名也者相札也、知也者争之器也。
二者凶器、非所以尽行也。

 名誉というものは互いを傷つけあうものであるし、知識というものは争いのための道具である。
 名誉と知識との二つは凶器であって、人の行為を完全にするためのものではない。

(金谷 治先生訳)


<感想>

 北宋の詩人である梅堯臣に、『祭猫(猫を祭る)』という五言古詩があります。
 「五白」という名の愛猫の死を悼んだ詩ですが、そこに、元気だった頃の猫を描写した部分があります。前半だけを引用しましょう。

   自有五白猫   五白の猫を有してより
   鼠不侵我書   鼠 我が書を侵さず
   今朝五白死   今朝 五白死し
   祭与飯与魚   祭りて飯と魚とを与ふ
   送之于中河   之を中河に送り
   呪爾非爾疎   爾(なんぢ)を呪するは爾を疎にするに非ず
   昔爾齧一鼠   昔 爾 一鼠を齧み
   銜鳴遶庭除   銜(くわ)え鳴きて庭除を遶(めぐ)れり
   欲使衆鼠驚   衆鼠をして驚かしめんと欲し
   意将清我廬   意は将に我が廬を清めんとす


 冬の寒い頃には日溜まりの中で眠り続けていた我が家の猫も、散歩のおみやげに蜥蜴を銜えてきた初夏の侯も過ぎた最近は、涼しげなソファの上で終日寝てばかりいます。
 彼女(雌です。名前は「ポコ」と言います)もまだ若かった頃は、寝ていても決して気を弛めることはなく、うかつに手を出そうものなら誰でも手入れの行き届いた爪牙の犠牲になったもの。 「さすがに猫は気位の高いお姫様だぜ!」と、感心しきりだったものですが、近頃はすっかり無防備になり、口を開けて腹を出したまま眠っている姿をよく見るようになりました。
 とろけるような、という表現がありますが、まさにそんな風情の我が家の猫の寝顔を見ていると、鮟鱇さんのような哲学的な感想はとても浮かんでは来ません。
 トホホ。

1999. 6.20                 by junji