[10月の推薦漢詩(寒露)]

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  子夜呉歌 其三        李白 

長安一片月   長安 一片の月

萬戸擣衣聲   万戸 衣を擣(う)つの声

秋風吹不盡   秋風 吹きて尽きず

総是玉関情   総て是れ 玉関の情

何日平胡虜   何れの日にか 胡虜を平らげ

良人罷遠征   良人 遠征を罷めん

          (下平声「八庚」の押韻)

<通釈と解説>

 秋分の日を過ぎて以来、一気に秋も深まっていく気配ですね。そろそろ冬着の用意を始めなくては、と思います。
冬服の支度ということで言えば、思い出すのは「砧」の音、そうですね、今回は李白の名歌で行きましょう。

[口語訳]
 長安の空には満月ひとつ
 どの家もどの家も、衣を打つ砧の音。
 秋風は吹いてやまないが、
 これらは全て 遠く玉門関に出征している夫への気持ちをかきたてる。
 一体いつになったら 敵をやっつけて
 私のあの人は帰ってくるのだろうか

 視覚((一片月)・聴覚(擣衣聲)・触覚(秋風)と、五感に強く訴えかけて、それを一気に遠くの夫への気持ちへと凝縮する。
 「玉関情」をさらに具体的な言葉として後半二句で表出したところに、この詩の持つ切なさがよく表れていると思います。「平胡虜」という力強い言葉、それと対照的な妻の悲しみ、戦時の心がこの二句に籠められています。

 九月のテロ事件以来、世界中がきな臭くなってきて、軍事関係がにわかに色めきたっています。湾岸戦争の二の舞を踏んではならないと政府は焦って、アメリカの軍事行動の後方支援を勝手に申し出たようです。しかし、世界の人々が最も望んでいるのは、同じ二の舞を避けるにしても、武力行使という最悪のシナリオを回避することではないでしょうか。
 ましてや、憲法を踏みにじる権限を何時の間に首相個人が持つようになったのか、私は言いようのない怒りと寂しさに包まれてしまいます。
 李白が詠った妻の心情は類型的なものだとは言えますが、それだけに、多くの時代、多くの人民が味わってきた思いだとも言えます。こうした辛い思いを後代の人々に残さないために、私たちは平和や民社主義社会を守ってきたのではないでしょうか。
 そうした一人一人の心の声はいつになったら世を満たすのでしょう。

























[10月の推薦漢詩(霜降)]

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  江上        王士禎

呉頭楚尾路如何   呉頭 楚尾 路如何(いかん)

烟雨秋深暗白波   烟雨 秋深くして白波暗し

晩趁寒潮渡江去   晩(くれ)に寒潮を趁(お)うて 江を渡って去る

滿林黄葉雁聲多   満林の黄葉 雁声多し

              (下平声「五歌」の押韻)

<通釈と解説>

 まもなく11月の声を聞く頃になると、一気に秋も深まっていく気配ですね。そろそろ冬着が必要かと準備をすると、やけに汗ばむ日だったりもして、季候の良い時とは言いながらも体調を整えるのには苦労しますね。
 世界の大事件に目を奪われているうちに、いつの間にか日本シリーズも終わってしまいました。21世紀最初の年も残すところ、あと2ヶ月。早いものですね。時の流れに巻き込まれて時代の変化を見逃さないようにしないと、日々の生活の危うさが目前に迫っているように感じます。

 さて、晩秋の節季は、清の王士禎の「江上」で、黄葉を楽しみましょう。

[口語訳]
   呉から楚へと渡っていく路はどうであろうか。
   霧雨はたちこめ、秋は深く、白波は暗くさざめく。
   夕暮れに、寒々とした流れに乗って大江を渡ると
   辺り一面 林には黄葉が満ち、雁の声がしきり。

 漁洋山人、清の初めの詩宗と仰がれた詩人です。この詩は彼が二十七歳、南京に赴く時の詩だと言われます。
 「呉」から「楚」への路はどうだろうか、とまず呼びかけておいて、あとは一気に晩秋の景物を呈示し、締めくくりは「雁聲」の聴覚に利かせて余韻を深めるという、まさに詩人の術中にはまることも快感と言えるような展開は、素晴らしいですね。

 初めにも書きましたが、秋は駆け足で走り抜け、気がつくと一年も終わりそう。どうやら長い冬が来そうですね。皆さんも身体に気を付けて下さい。
























[11月の推薦漢詩(立冬)]

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  早冬        白居易

十月江南天氣好   十月 江南 天気好し

可憐冬景似春華   可憐の冬景 春華に似たり

霜輕未殺萋萋草   霜は軽く 未だ殺(か)らさず 萋萋たる草を

日暖初乾漠漠沙   日は暖かく 初めて乾く 漠漠たる沙

老柘葉黄如嫩樹   老柘 葉は黄にして 嫩樹の如し

寒櫻枝白是狂花   寒桜 枝は白くして 是れ狂花

此時却羨閑人醉   此の時 却って羨む 閑人の酔うを

五馬無由入酒家   五馬 酒家に入る由も無し

              (下平声「六麻」の押韻)

<通釈と解説>

 季節としてはもう冬に入り、私の住む愛知でも朝晩ゾクッと冷え込む日が数日ありましたが、北からの風が収まれば、ポカポカとのどかな日もあります。まさに「小春日和」の陽気で、こんな天気の日にはついいつもよりも多めに散歩をしてしまいます。
 近頃は自宅から車で三十分ほどのところ、東海市の聚楽園という所にある公園に妻と出かけます。そこはコンクリート製の大仏が丘の頂にデンと建てられていて、その大仏さんもさることながら、麓から一帯を公園として整備し、池巡りの遊歩道も整っているため、足の弱い私でもゆったりと歩けます。歩き疲れたら隣接の温水プールとジャグジー風呂に漬かり、小さな幸せを感じている次第です。

 先日行ったのはまさに小春日和の一日、さすがに「桜」は花開いてはいませんでしたが、新聞では「狂い咲き」のニュースもちらほら。ということで、今回のお薦めは、白居易の「早冬」の詩で、「小春日和」の景色を味わいましょう。

[口語訳]
   十月の江南の地は天気も好い。
   冬なのにまるで春の景色のようで、まことによろしい。
   霜は軽く、青々とした草を枯らすこともしないし、
   日差しは暖かくて、砂原も乾いたばかりのようだ。
   老いた桑の木は葉を色づかせ、まるで若い柔らかな木のようだ。
   冬の桜桃の枝に白く見えるのは、これは季節外れに開いた花。
   こんな時には、暇そうな酔っぱらいがうらやましいことだ。
   私は五頭立ての馬車に乗る身分、酒屋にはちょっと入れやしない。

 「早冬」というあまり耳慣れない言葉ですが、この時季にはぴったりですね。
 白居易はこの時、杭州刺史という役目に就いていたということですが、穏やかな言葉を使いながら、穏やかな江南の風景を描いていますね。
 こんな陽気の日にはどうにも仕事をする気になれない、てなことを思うのは、古今を問わず人類共通の感情。そこで仕事を放り出さないところが、やはり白居易の白居易たる所以でしょう。これが盛唐の詩人達では、きっと「ちょっと一杯のつもりで飲んで」しまい、「いつの間にやらハシゴ酒」となるのがおちでしょうから。
























[11月の推薦漢詩(小雪)]

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  魯山山行      魯山の山行  梅堯臣

適與野情   適(まさ)しく 野情と(かな)

千山高復低   千山 高く復た低し

好峰随處改   好峰 随処に改まり

幽径獨行迷   幽径 独り行きて迷う

霜落熊升樹   霜落ちて 熊は樹に升(のぼ)

林空鹿飲溪   林空しく 鹿は渓に飲む

人家在何許   人家 何許(いづこ)にか在る

雲外一聲鷄   雲外 一声の鶏

              (上平声「八斉」の押韻)

<通釈と解説>

 小雪を迎えましたが、何故か拍子抜けするほどの好天気。こんなに暖かくていいかしら、というくらいの陽気ですね。
 三連休の初日、勤労感謝の日には、私は奈良に行き、薬師寺や唐招提寺の境内を歩いてきましたが、汗が額に浮かぶほど。鮮やかな紅葉が眼に痛いほどでした。
 そう言えば、このあいだの獅子座流星群の時も絶好の快晴だったと思いますから、あれからずっと高気圧の中に入りっぱなしということでしょうかね。
 でも、天気予報によれば、すぐに北からの寒気団が降りてきて、気温も一気に下がるとか。体調を崩さないように気をつけなくてはいけませんね。

 さて、冬にどっぷりと入る前の一時、今日は梅堯臣の名作、『魯山山行』を読みましょう。

[口語訳]
    野に埋もれたいという私の気持ちとぴったり、
    山また山は高く低く
    良い形の峰はあちこちで形を変え
    道は細く奥深く 一人で行くと道に迷うほど。
    霜の降りた頃合い、熊は樹に上り
    林には誰も居なくて 鹿が谷川の水を飲んでいる。
    人家はどこにあるのだろう、と思っていたら
    雲の向こうから鶏の鳴き声が一声聞こえてきたよ

 山の中を一歩一歩進んでいるように、聯を読み進めるにつれ視界が少しずつ変化していき、はやりのバーチャルリアリティの映像をみているような感覚ですね。淡々と展開する描き方は、梅堯臣の詩の特徴です。
 今年のお薦め漢詩では大暑の時に紹介しましたが、翁巻『處州 蒼嶺』の中にも、山中を歩いた情景が描かれていて、やはり「遠くからの鶏の声」が効果的に使われていました。

 梅堯臣の詩を初めて読んだのは、私は『詩癖』の一節でした。
     人間詩癖勝銭癖     人間 詩癖は銭癖に勝る
     捜索肝脾過幾春     肝脾を捜索して 幾春か過ぎし

 この第一句は、「この世での詩への私の執着は金銭への執着よりも強い」という意味なのですが、私は初め「人間」の意味を間違えていて、「人間というものは、銭の欲よりも詩への欲が強いものだ」と言う風に一般論として捉えていました。
 そして、結論を出すのが難しいことを、すっきりと言い切る作者の態度に共感を覚えていました。実は今でも、この一般論の読み方の方が好きなので、時々意図的に使ったりもしています。「そうなんだよ!」という共感と「そうでありたい!」という願望との両方で・・・・
























[12月の推薦漢詩(大雪)]

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  寒雀        楊万里(南宋)

百千寒雀下空庭   百千の寒雀 空庭に下り

小集梅梢話晩晴   梅梢に小集して 晩晴を話す

特地作団喧殺我   特地に団を作して 我を喧殺す

忽然驚散寂無声   忽然として驚き散じ 寂として声無し

              (下平声「九青」・下平声「八庚」の押韻)

<通釈と解説>

 12月のボーナスの季節になると、外の寒さと懐の寒さが身に沁みる感じがしますね。
でも、家の中にこもってばかりいては、見えるものも見えなくなってしまいますから、少しは外に出て冬の風景を眺めるのも必要でしょうね。
 今回は、8月にも紹介しました南宋の楊万里の作品を読みましょう。前作と同じく、日常の風景を描きながら、きらりと光る鋭い感性が魅力ですね。

[口語訳]
  沢山の冬の雀が 誰もいない庭に下りてきて
  梅の梢にちょっと集まっては 夕方の晴れ間を喜んで話している。
  とりわけ群れを作っては私をうるさがらせるが
  突然 何かに驚いたように飛び去って あとは静かに物音もしない・・・

 この詩で私が好きなのは、承句の表現です。梅の梢で雀が集まっている様子も、またその雀たちがチュンチュンとやかましくさえずる様子もさりながら、話の内容が「晩晴」と来て、のどかに今日の天気や明日の天気を話しているわけで、何となく、時代劇で見る長屋の奥さん達の会話のようで、ほっとしますね。
 ただ、それを気持ちよく聞くかどうかはその人次第ですから、楊万里にはうるさかったようで、「喧殺我」というのでしょう。
 結句も展開がテンポよく、「寂無声」のもたらす余韻の深さは、これはもう納得!「喧殺」との対比で、一層意味が深くなっていますよね。
 詩全体としては、「だから何なんだ!」という所もあるでしょうが、唐詩とは異なった、日常の細やかな観察観が溢れる宋詩の特徴を表した佳作ではないでしょうか。
























[12月の推薦漢詩(冬至)]

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玉關寄長安李主簿    玉関にて長安の李主簿に寄す  岑參

東去長安萬里餘   東 長安を去ること 万里の余

故人那惜一行書   故人那(なん)ぞ惜しむ 一行の書

玉關西望腸堪斷   玉関西望すれば 腸断つに堪えたり

況復明朝是歳除   況(いわ)んや 復た明朝 是れ歳除なるをや

              (上平声「六魚」の押韻)

<通釈と解説>

 年末の慌ただしいなか、みなさんいかがお過ごしですか?
最近は大晦日よりもクリスマスの方が国民的行事という感もありますが、でも、やはりしみじみと一年を振り返るのはジングルベルよりも除夜の鐘でしょうね。
 その大切な一日を故郷から遠く離れて一人で過ごす寂しさを切々と詠ったのが、盛唐の辺塞詩人である岑参です。彼の「玉關門寄長安李主簿」を本年最後の推薦詩として読みましょう。

[口語訳]
  東の方角の長安から はるか万里余も離れた所にいる私なのに、
  昔なじみの君よ、どうしてたった一行でも手紙を出し渋るのかい?
  玉門関から西の前途を望めば、腸もちぎれるような想いだ。
  ましてや明日の朝と言えば、大晦日であるというのに・・・・。

 岑参の辺塞詩と言えば、真っ先に浮かぶのは、「磧中作」ですね。以前は高校の教科書にも必ず出ていましたが、最近はちょっとご無沙汰気味。
 この詩は、「磧中作」の中の「平沙万里絶人煙」の句ほどには砂漠の荒涼たる状況は具体的には描かれていませんが、反対に「玉關西望腸堪斷」に見られるような、抑えきれない寂寥の想いがひしひしと伝わってきます。
 また、その寂しさをもう一点、承句の「故人那惜一行書」と手紙の来ないことに託して表したところが、非常に完成度の高い詩にしていると思います。
 結句は抑揚形の文で、「普段でもそうだが、ましてや今日は・・・・」という気持ちがよく出ています。余韻の残る表現ですね。

 さて、いよいよ今年も終わりが近づきました。前半はずっと 「この国はどうなるのだろう?」とばかり思っていましたが、後半には「今後の世界はどうなるのだろう?」という思いに押されっぱなしでした。
 ようやく今、毎年恒例の年末テレビ番組を見たり、正月の準備やらをし始めて、少し落ち着きを取り戻したかな、と自分では思っていますが。
 そう言えば、「映画のような」という言葉もよく耳にしました。現実がフィクションを追いかけて行くのは古来からのことですが、願わくば「より良い社会」を目指して進んでいって欲しいものです。
 「今年こそは・・・・」という初詣の願いも、切実なものとなってしまいそうですね。

 遅くなりましたが、皆さん、一年間ホームページ及び主宰者へのご支援、ありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。