作品番号 2001-136
臨文化祭偶將迎颱風十五號 文化祭に臨み偶々将に颱風十五号を迎えんとす
颱近飛雲速 颱近くして 雲を飛ばすこと速く
風芳過野寥 風芳しくして 野を過ぐること寥し
孤鳶囘塞去 孤鳶 塞を回りて去り
山霧上林消 山霧 林に上りて消ゆ
臨祭樓燈白 祭に臨みて 楼灯白く
圖善人噪囂 善を図りて 人噪囂し
何憂時已暮 何ぞ憂えん 時已に暮にして
秋雨益蕭蕭 秋雨の益々蕭蕭たるを
<解説>
学校祭の前日にできた二首目の律詩です。前日ということで遅くまで学校に残って準備をしている人もいましたが、その日は颱風15号が接近していた関係で朝から雨模様の天気でした。結局、学校祭は全日程が一日延期されました。
<感想>
文化祭のシーズンになりましたね。高校では9月頃にもう実施してしまうところが多く、年輩の方は「え、そんなに早くやってしまうのか!」と驚かれるかもしれませんね。
私の勤務する愛知県では、大学入試に共通一次試験が導入された頃から、進学希望者を多くかかえる高校では文化祭の時期を早める傾向が出てきました。それまで3月に実施されていた国公立大学の入試が、一次試験とは言え2ヶ月も早く行われるわけで、少しでも早く「お祭り」は終わらせて勉強させなくてはいけない!と危機感を持ったわけです。
生徒の方はそんなに危機感はありませんから、学校側の「配慮」もどれだけ効果があったかは分からないのですが・・・・。
しかし、時期が近づくと生徒たちは熱心に取り組みます。日頃の授業中の姿とは一転した彼らの眼差しを見るのが、私は何より好きです。この時期が、若者を見て「日本の未来は明るいぞ!」と確信の持てる貴重な時でもありますね、はい。
舜隱さんも文化祭に取り組んでいらっしゃるようで、雨や台風もまた貴重な思い出になることでしょう。
律詩第二作ということですが、今回はいくつか疑問点がありますね。
一番に大きい問題は、各句の頭が全て平声ということです。これは古詩の時代から嫌われていることで、感覚的にも音調が単調になることが分かると思います。
もう一つは、五・六句、つまり頸聯の対句ですが、「善」の字の平仄を間違えていませんか。この字は「上声 十六銑」に属し、つまり仄声です。
また、「臨祭」ですが、「祭」は漢文での用法では「死者をまつる・先祖をまつる」の意味ですので、やや無理があるでしょう。神社などの秋祭りとかならば「秋社」とも言いますが、文化祭では少し違いますね。現代語では、そのまま「文化節」と言いますので、使うとすればその辺りでしょうか。
「図善」も分かりにくい表現ですし、頸聯を作り直してみたらどうでしょうか。
その他の部分は良いと思います。
2001.10. 8 by junji
作品番号 2001-137
老紅梅(再改訂)
梅樹經千歳 梅樹 千歳を経るも
春回復點脂 春回(かえ)らば復た 脂(べに)を点ず
風吹揺古木 風吹いて 古木を揺らし
花散似紅絲 花散って 紅絲に似る
墜地行成土 地に墜ちて 行くゆく土と成るも
遺香猶満籬 香遺って猶 籬に満つ
老来千里意 老い来るも千里の意(おもい)あり
衰耄愧騏 衰耄騏に愧ず
<解説>
頷聯起句の「摩」を「揺」に戻し、落句の「落」を「散」に変えた他は、先の改訂と同じです。
頚聯までの意味は先の改訂と変わりません。
尾聯は曹操の「歩出東西門行」から「老騏伏櫪/志在千里」に借りました。
老い来るも駿馬は千里を馳す気概を失わないが、
耄碌した私はこの白黒斑の老騏に対して愧じる想いでいっぱいだ。
[語釈]
「」:黒毛に白の斑の馬と辞書にあります。梅の古木の黒い木肌に白い蘚苔の模様を思い浮かべてこの字を使いました。
<感想>
今回の感想は、謝斧さんにお願いしました。
大変好くなったと思います。一段と先生の詩らしくなりました。読み下しは、老い来たる千里の意(こころ)で好いと思います。
「は黒毛に白い斑毛の馬を指すと辞書にあります」と書かれていますが、「」は詩句としては、熟さないと感じています。恐らくは読者は辞書を見ないとおもいます。
また、「梅の古木の幹は黒い木肌に白い粉をふいているので、この字を使いました。」とのことですが、普通に「駑」を使われた方が好いとおもいます。使用するに何か抵抗があったのでしょうか。詠物にこだわったのでしょうか。
梅を馬に擬するのは無理があるとおもいます。詠物にこだわらずに題をかえたほうが好いと思います。
確かに前半6句と後半2句の文脈のつながりという点では、弱いような感じもうけますが、題をかえれば、このままで十分と考えています。
自分を古梅に擬して志しを言うという内容にすればよいとおもいますが。
2001.10. 8 by 謝斧
作品番号 2001-138
海
鶴鶴江上鷺 鶴鶴たる江上の鷺
飛揚尽遠瀛 飛揚して遠瀛に尽く
風吹遊水上 風吹いて水上に遊び
惟聴静波声 惟聴く静波の声を
<解説>
[語釈]
「鶴鶴」:白い様子
<感想>
これは夏の海でのんびりと過ごしたような景色ですね。杜甫の「絶句」の前半の海岸版といった感じでしょうか。
五絶らしい簡潔な描写が写生画のような自然の切り取りに成功していると思います。
転句以降の主語は「鷺」のままではなくて人間(作者)にしたいところ、そう思って読むと、波間に自分が漂っているような気持ちになれます。
難点を言えば、起句の「鶴鶴」の語は、「鷺」を形容するには鳥同士ですので、私としては面白みが少なく感じます。何かまったく別のものと組み合わせた方が印象が鮮明になると思います。
2001.10. 8 by junji
作品番号 2001-139
神風特別攻撃隊
天兵愛國張鵬翼, 天兵、國を愛して鵬翼を張り,
血肉化矛穿艦橋。 血肉、矛(ほこ)と化して艦橋を穿つ。
大義古來輕死命, 大義は古來、死命を輕んじ,
老煽少斃瘴烟高。 老いたるは煽り 少(わか)きは斃れて瘴烟高し。
<解説>
ニューヨークの世界貿易センタービルで亡くなった多くの方々、とてもつらい思いがあります。あのような非道に対し、胸が張り裂ける思いです。しかし、ひとりの日本人として、怒りの前にまず悲しみがあります。ビルに突っ込む航空機の光景は、わたしたちの父や兄の特攻とあまりに似ています。
もちろん、わたしたちの父や兄とテロリストの所業は、同じではありません。わたしたちの父や兄は国を愛して戦い、テロリストはジハードのためとはいえイスラム教徒の大半が認めない狂信的な戦術をとっています。
わたしたちの父や兄が戦ったのは武器を持つ軍隊に対してであり、無実の市民を道連れにするような戦い方はしていません。しかし、わが身を犠牲にして戦うということ、また、世界の自由と民主主義に敵対して戦ったという点は、同じです。
ニューヨークの惨事の責任は、自由と民主主義に対する非道な戦争指導に求められるべきです。そこで、わが国も自衛隊を海外に派遣します。わたしたちは、平和憲法のもとでの自衛のために自衛隊に就職した若いみなさんに、遠い海外で汗を流してもらわなければなりません。しかし、それは、湾岸戦争の恥をそそぐとか、世界有数の大国として世界に遅れをとらないようにするとか、要するに世界のなかでの日本の国際的な地位を維持するためであってはなりません。国益のためではなく、国際社会における自由と民主主義を守るためであると固く信じなければなりません。
しかし、自由と民主主義を守るためには、これに敵対して戦ったわたしたちの父や兄たちの行為も、きちんと乗り越えて行かなければならない。自由と民主主義を守るために、アメリカが選択した原爆も許容しなければならないかもしれません。これらはともに、とても悲しいが、乗り越えなければならない道です。自衛隊を、遠い海外に派遣するのであるのなら。
七絶・時 局
爲何自衛隊員征, 何がために自衛隊員は征き,
渡海天涯證血誠? 海を渡って天涯に血誠を証せんとするのか?
但願自由民主士, ただに願う、自由と民主の士,
莫歸靖国作英靈。 靖国に帰りて英霊となるなかれと
[語釈]
「死命」:生命
<感想>
あまりに悲しい出来事を眼にして、本当にどういう感想を言えるのか、私はただテレビで繰り返される激突のシーンを呆然と見ていました。
どのような思想であれ、このような行為を正当化できるものはない。ニューヨークでのテロ事件の後、私は地元の漢詩の勉強会に行きました。年輩の方が多くいらっしゃるのですが、皆さんがこの事件から衝撃を受けていらっしゃるのがよく分かりました。ご自身の戦争時の体験をよみがえらせた方、これからの世界がどう動いていくのかに不安を抱いておられる方、みなさんが本当に切なそうに、悲しそうな表情をしていらっしゃり、「戦争」という言葉が生々しいものとして私に迫ってきました。
「大義古來輕死命」、この転句の重さは、歴史からの教訓を血肉にできない私たちの「知恵」のもろさ、はかなさ、胸にしみます。
2001.10. 8 by junji
作品番号 2001-140
秋夜逍遙
暝天空豁嶺逾巍 暝天空豁にして嶺は逾々巍く
一陣朔風穿布衣 一陣の朔風 布衣を穿つ
迷入深叢交蟋蟀 迷いて深い叢に入れば蟋蟀に交わる
茫茫導客只淸輝 茫茫たるに客を導くは只清輝のみ
<解説>
ある夜、外出先から帰るときに畑の広がる中で、偶々知らない道に迷い込みました。尤も、普段から自分の知らないところに「迷い込む」というスリルを楽しむようなことはあるのですが…。
その近くに家は少なく、更に不運なことに自転車のライトが故障していて殆ど「清輝」のみをたよりに、蟋蟀の声に満たされた、「茫茫」とした「深い叢」の中を何とか足元を確認しながら進む有様でした。
ふと立ち止まって空を見ると、雲一つなく深く澄んだ夜空に、遠くに横たわる山は稜線もくっきりと黒く、そして「逾々巍く」感じられました。
そのような光景とはどんな田舎かと思われるかも知れませんが、そこは町の中にぽっかりと開けたように畑の広がっている一画です。実際はすぐ近くまで人家が迫っているのですが、その一帯は視界を遮るものがなく、私は個人的に気に入っております。
また、その叢にしても「茫茫」などとは程遠い小さなものですが、前述のとおりの明かりの殆どない中で見たときにはそう感じられたのでしょう。
<感想>
今回の詩は、言葉が何となく釣り合いが取れてないようで、落ち着かないですね。
例えば、「朔風」は北風、冬の風ですが、一般的には寒さを伴って強く吹き荒れるものです。「一陣」という「さっと吹き抜けていく」形容とは合いません。
また、「深叢」と「茫茫」という形容も矛盾していませんか。
展開としては、起句と承句のつながりが唐突の印象ですね。つまり、作者の視点や動きに読者が付いていくのが苦しく、何とも息が切れそうです。
この場所のどこのどんな点に興趣をかき立てられているのか、そこをもう少し絞り込むと、整ってくるのではないでしょうか。
2001.10. 9 by junji
作品番号 2001-141
秋前歌
山木蕭蕭人屋幽 山木蕭蕭 人屋幽なり
沼湖潭瀞柳枝浮 沼湖潭瀞 柳枝浮かぶ
星如燭影光蟾暈 星は燭影の如く 蟾暈に光り
秋近螽斯荐喞啾 秋近くして螽斯荐りに喞啾す
<解説>
[語釈]
「蟾暈」:蟾は月の異名、月のまわりに現れる薄い光の輪
「螽斯」:きりぎりす
<感想>
落ち着いた雰囲気がよく出ている詩になっていますね。起句の書き出しなどは、宋詩の風格も感じます。
承句は何故「柳枝」なのかが分かりませんが、こうして限定したのは何か意図があるのでしょうか。
結句の「螽斯」はよく見つけましたね。ただ、あまり詩での用例は私は覚えていません。一般的な「蟋蟀」や、「鳴蛩」・「秋蛩」とした方が詩としては落ち着くのではないでしょうか。
2001.10. 9 by junji
作品番号 2001-142
賀五万人突破
談論講課熱情真 談論 講課 熱情は真
蒙受師恩五万人 師恩 蒙り受ける 五万人
網絡接通無遠近 網絡 接通すれば 遠近無く
遍期詩友頁更新 遍く期す 詩友 頁(ページ)の更新
<解説>
本当にすごいことです。先生の情熱にはいつも感動いたします。
パソコンなんて、と思っていましたが、いまではすっかりインターネットの恩恵に浴しています。距離(遠近)をものともしないのはありがたいことです。
先生も今後お身体だけには気をつけてください、と言いながら本日もページの更新を期待しているのは私だけではありますまい。
<感想>
いや、本当にありがたいことです。
ニャースさんのおっしゃる通りで、私もインターネットの持つ広範囲の伝播能力を、このホームページを始めるまでは過小評価していました。しかし、地域の広がりだけではなく、今一番感じているのは、年齢の広がりです。
インターネットを通じて、中学生の徐庶さん、高校生の舜隱さんという若い漢詩仲間と知り合うことができましたし、謝斧さんや鮟鱇さん、真瑞庵さんを始めとした経験豊富な皆さん、幅の広い年齢の方々から教えられることはとても多く、本当に楽しい思いをさせていただいています。
ホームページを主宰している私自身が何よりも恩恵を蒙っており、誰よりも楽しんでいるというのが本心です。
でも、ニャースさんの結句は胸にグサッと来ましたので、更新を急ぐようにこれからは努力いたします。
本当に、皆さん、ありがとうございます。
2001.10. 9 by junji
作品番号 2001-143
閑居田舎
閑居田舎覚心平 田舎に閑居すれば 心の平かなるを覚え
逢道村翁話弄晴 道に村翁に逢えば 晴を弄するを話す
笑口雜來諧謔好 笑口を雜え來って 諧謔好く
愁眉開去俚言軽 愁眉を開き去って 俚言軽し
路傍捨杖賽祠屋 路傍に杖を捨てて 祠屋を賽し
林下借牀眠竹棚 林下に牀を借って 竹棚に眠る
與世齟齬今若此 世と齟齬しては 今此の若くなるも
楽天知命了残生 天を楽しみ 命を知りて 残生を了す
<解説>
世の中の人とは、自分は容れられることがすくなくて、果たして今の有り様です。こうなっては、故郷に老て、天の命ずるままに、自分の運命に甘んじて、残生をたのしみむことにします。
同工異曲で、全くの悪詩、投稿することにいくらかは、ためらったのですが、許して下さい。七律の難しさを痛感しております。
<感想>
今年になってから「閑居」を主題にした作品を皆さんから送っていただき、その都度楽しく読ませていただいています。
田園での長閑な生活というのは、陶潜の時代から人々のあこがれ、どれだけ詠っても詠い尽くすことはないのでしょう。新味がなくてはならない趣旨の詩ではなく、読んで落ち着くことも大切な要素だと思います。
各聯の展開も無理がなく、私は読んで、まさに「閑居」の機微を感じました。
配するに「村翁」を持ってくるのは、常套の手法でしょうが、尾聯の「楽天知命」の語と呼応して、安定感があると思います。
2001.10.11 by junji
作品番号 2001-144
初秋書懐 初秋懐いを書す
風起天高季節廻 風起ち 天高くして季節廻り、
曾遊長渚獨徘徊 曾遊の長渚 独り徘徊す
古人不詠長贏去 古人は詠ぜす 長贏の去るを
詞客常歌秋気来 詞客常に歌う 秋気来ると
<解説>
旧作ばかりでは気がひけるので秋の来ることをテーマに作ってみました。
『秋来る』という題でもいいかな。
最初の発想は、以前から思っていたこと、「日本の古典和歌では「秋が来る」「春が立つ」「春が過ぎる」と詠んでも、「夏が過ぎる」「冬が去る」というようには言わないなあ…」というものです。
(「逝く夏の歌」という中原中也の詩があったような。高村光太郎だと思ったけど、「きっぱりと冬が来た」と言う詩句もありますね。春・秋中心の季節感からはなれたところに近代感覚がある?)
詩語集から「長贏」(ナツノコト、と注記があった)という平字の語を見つけて転結を決め、前半は秋らしいものを配置。
なんで渚が出てくるのかといえば、今の感覚だと夏と秋の境目は「夏に砂浜で遊んだことを思い出す」というような「バカンス追懐詩」になるだろうから、そうした連想を生むようにです。
「海村の松韻、客情を催す」のようにもう一息、秋の景物を入れるほうがいいかもしれませんが。
<感想>
この詩は、具体的な秋の景物は描かれていないわけで、知的な発見の面白さを詠みあげた作品ですね。
仰るとおりで、夏の暑さには古人もうんざりで、早く秋が来て欲しいという気持ちが、きっと「夏去」という表現を忘れさせたのでしょうね。
難しいのは、作者の新しい発見・感覚がどこから来たかを読者にどう納得させるか、でしょうね。「曾遊長渚」で、「夏が終わった!」ということを伝え切れているかどうか、です。起句が漫然としていますから、ここにもう少し具体的な景色、まあ、一般的には「誰も居ない海」の点景などが描かれていますと、後半の説得力が増すと思います。
転句結句は内容が重複していますが、前半に具体性が出ると、まとめとしての効果が出てくるように思います。
2001.10.11 by junji
作品番号 2001-145
行路歌(一)
左右田園眺 左右田園の眺め
途前小洫梁 途前小洫の梁(はし)
鳥声和馬足 鳥声馬足に和し
高嶺頂明陽 高嶺明陽を頂く
細細塵煙土 細細たる塵煙の土
芬芬茗宴香 芬芬たる茗宴の香
再聞涓水響 再び聞く涓水の響き
直到邃渓堂 直ちに到らん邃渓の堂
<感想>
対句のことで見ますと、「鳥声」:「高嶺」、「馬足」:「明陽」が熟語の構成から見ると、対にはなりにくいと思います。
漢字の熟語は語の関係からいくつかのグループに分けられます。
①主語と述語の関係 :例 「日没」・「地震」・「年少」・「性善」等
②述語と目的語の関係 :例 「読書」・「決心」・「即位」・「閉会」等
③修飾・被修飾の関係 :例 「善人」・「明月」・「城門」・「最大」等
④類似した二字の並列 :例 「灯火」・「身体」・「迅速」・「打撃」等
⑤同類の二字を並列 :例 「山河」・「飲食」・「牛馬」・「見聞」等
⑥対立した二字の結合 :例 「新旧」・「貧富」・「利害」・「生死」等
この他にも、「双声」・「畳韻」・「重言」などがありますが、対句の場合には特に重要になるのが、③の修飾関係です。
修飾関係の中もいくつかに分類できるのですが、
a.連用修飾(述語を修飾):例 「快走」・「厚遇」・「熟読」等
b.連体修飾(体言を修飾):
ア.体言で体言を修飾 :例 「樹下」・「春風」・「山気」等
イ.形容(動)詞で修飾:例 「涼風」・「白髪」・「苦戦」等
今、徐庶さんの対句で問題にしているのは、この⑥のaとb、あるいはbのアとイにおける対応です。
具体的には、
「鳥声」は⑥のbのア、「高嶺」は⑥のbのイになります。
「馬足」は⑥のbのア、「明陽」は⑥のbのイという組み合わせですので、対応が一致しないということです。
その辺りを考えてみるのも、面白いでしょう。
ただし、対句にはもう一つの面、取り合わせの妙と言いますか、以前の徐庶さんの言い方でいけば、「発想」の面白さというのも大切です。何と何を対にして考えるか、その点では非常に楽しい詩だと言えます。
四句目の「高嶺頂明陽」の「頂」は、「戴」の方が良いでしょう。
2001.10.18 by junji
作品番号 2001-146
行路歌(2)
徒歌舟子声 徒に歌う舟子の声
坐見遠天城 坐に見る遠天の城
波浪游魚鼈 波浪魚鼈に游び
白泡飛眼睛 白泡眼睛に飛ぶ
独舟雷影速 独舟雷影の速さ
鳶鳥下艀驚 鳶鳥下艀の驚き
川上追船艇 川上船艇を追い
終悠競捷軽 終悠捷軽を競う
<感想>
この詩も、対句のことで言えば、「波浪」が同じ意味のもの、「白泡」が修飾・被修飾の関係で、対としては弱いですね。そういう点で見ていくと、頷聯・頸聯ともに対句としてはそれぞれにやや瑕がある、という感じでしょうか。
首聯の取り合わせは視野も大きく、面白いと思います。後半は表現としては大げさで(「独舟」が「雷影」の速さでは、実体から離れすぎていて、そこまで言う必要はここでは無いでしょう)、作り物という感じが強くなってしまいます。
2001.10.18 by junji
作品番号 2001-147
行路歌(3)
幽寂涓泉水 幽寂たる涓泉の水
遅遅僻地虫 遅遅たる僻地の虫
小蹊無足跡 小蹊には足跡無く
孤馬有涼風 孤馬には涼風有り
樹韻聞関戸 樹韻関戸に聞こえ
星茫照遠穹 星茫遠穹に照る
茸茸黄木奥 茸茸たる黄木の奥
閑如寺堂空 閑如として寺堂空し
<解説>
連作のつもりだったんですが・・・・訳解らなくなってしまいました。
テスト前の勉強の息抜きに作ろうと思っていたのですが、全然上手く作れなかったのでついに勉強はそっちのけに。
<感想>
頸聯は、今のままですと、前句の主語は作者自身、後句の主語は「星茫」となり対応が悪いですから、前句の「聞」を「響」にした方が良いでしょう。
「茸茸」は、「草が生い茂っている」状態を言う言葉ですので、その後の「黄木奥」と合うでしょうか。
2001.10.18 by junji
作品番号 2001-148
偶成
老妻発熱夏深時 老妻熱を発す 夏深き時
沈鬱探因豈得知 沈鬱 因を探りて豈に知るを得ん
醫院驅車爲客早 医院 車を駆って 客と為ること早く
病窗分手到家遲 病窓 手を分って 家に到ること遅し
新牀私泣空欹枕 新牀 私に泣く 空しく枕を欹(そばだ)て
淡粥何堪獨落匙 淡粥 何ぞ堪えん 独り匙を落すを
凄切前途能幾許 凄切たり 前途 能く幾許ぞ
人生畢竟只多悲 人生 畢竟 只悲しみ多し
<解説>
謝斧です。
長岡瀬風氏の詩を、また紹介します。
題材は卑近なせいか、格調というには乏しいが、夫婦の情愛が出て、申し分のない作品で、佳作だと思います。
現在の漢詩作家で、七律でこれだけのものを作れる人は恐らくはいないとおもいます。真瑞庵先生には、参考になる作品だと思っています。特に後半4句が好いと思います。
「爲客早」は「病客と為って、入院した」との意味です。
<感想>
第一句の「老妻発熱夏深時」という、飾りの無いぶっきらぼうな書き出しが、詩全体の率直さや誠実さをよく象徴していると思います。第二句へ流れて、「探因豈得知」も、緊迫感が有ります。
謝斧さんの仰るとおり、後半の四句は胸に迫るものがあり、心に残ります。頸聯は、病室での奥さんの姿を思い描いた表現でしょうが、同時に夫である作者の姿も投影しており、その辺りを簡潔に、かつ重層的に表現した良い句だと思います。
尾聯は、私はまだまだ詠みきれない境地ですが、老熟した夫婦の姿を見せてもらったように感じます。
用語も力みがなく、バランスの取れた仕上がりではないでしょうか。
2001.10.18 by junji
作品番号 2001-149
颱風至北海道、不能進、三日留於尾岱沼 颱風北海道に至り、進む能わず、三日尾岱沼に留まる
潦雨三宵滞北辺 潦雨 三宵 北辺に滞まる
風揺天幕未能眠 風は天幕を揺らして 未だ眠る能わず
我旅齟齬似身世 我が旅の齟齬たる 身世に似たり
尚期明旦快哉天 尚期す 明旦 快哉の天
<解説>
北海道を自転車旅行しているとき、ちょうど台風に出くわし、三日テントに閉じこめられました。その時の感想です。
平仄が綺麗に合わせられなくて、全部反法になってしまいました。「快哉」は蘇軾の「一点浩然氣 千里快哉風」からの流用です。
<感想>
失礼ながら、つい禿羊さんの年齢を確認してしまいました。お元気ですね、北海道自転車旅行ですか。しかも、テントでの宿泊!!!うーん、見習わなくてはいけませんね。
雨に降り込められた中での、尚かつ「明日こそは・・・・」という気持ちがよく表れていて、まとまりのある詩になっていると思います。旅中吟としては、申し分ないのではないでしょうか。
反法なのは仕方がないとしても、転句は「旅」が仄声ですので、不都合です。「旅心」とか、「旅夢」「旅程」などでしょうか。「旅」の字を使わない語もありますから、考えてみてはどうでしょう。
でも、この旅中吟、まだまだ続編が出来そうですね。楽しみです。
2001.10.19 by junji
鈴木先生この間はご指導有難う御座いました。
次の詩を、と思いつつ苦吟すれども中々浮かんできませんでした。
先日、月の明るさに誘われて散歩したとき一詩できました。
我ながら、韻字を下においた語彙に乏しくて四苦八苦です。
今後とも宜しくお願いいたします。
作品番号 2001-150
秋夜
乱蛩如雨寓居前 乱蛩雨の如し 寓居の前
一穂青灯思入玄 一穂の青灯 思い玄に入る
閑扱詩書門外出 閑かに詩書を扱(おさ)めて 門外に出づれば
月明金桂馥籬辺 月明らかにして 金桂の籬辺に馥る
<解説>
10月になり一段と虫の声もかまびすしくなりました。
秋灯下に先哲の書を紐解くと思いは益々深まるばかりです。
今日は十六夜、乱帙を静かにかたづけて外に出てみれば、月は高く上り、金木犀のキラキラした花びらがあたり一面に良い香りを放っていました。
約18年ほど前に自治会の役員をしていた時、金木犀の幼木を沢山植えました。今ではすっかり大きくなって10月になると辺り一面良い香りに包まれます。
<感想>
お手紙ありがとうございます。一首作るためには相当多くの言葉を辞書で調べたりもすることと思います。最終的に使った語句は限られても、創作の過程で得た語彙は心から消えないもの、どんどん作っていきましょう。
起句については、「乱蛩」が「如雨」という比喩が分かりません。「雨のように続く」ということでしょうか、「雨が降り出したような音だった」ということでしょうか、どちらにしてもあまりピンと来ないですね。
承句の「思入玄」は「心が奥深い境地に至った」ということでしょうが、ここで心情を出してしまっては、後半の「明月金桂」の好景が甘くなってしまいます。心情語はできるだけ抑えた作詩がよいでしょう。
転句の「門外出」ですが、「出」たことは分かりますから、出てどうしたか、歩いたのか吟詠したのか、ここは拙い表現でしたね。
結句は、「金桂」の花を明るさの中に出した点が新鮮なところです。香りというと、どうしても嗅覚ですので、視覚を抑えるために「闇夜に香る」というような設定が多くなります。そこに、月明かりの中の金色の花という視覚を全面に出したところが面白いと思います。
2001.10.19 by junji