鋤禾日当午 禾(いね)を鋤いて 日 午に当たる
汗滴禾下土 汗 禾下の土に滴る
誰知盤中餐 誰か知らん 盤中の餐
粒粒皆辛苦 粒粒 皆辛苦なるを
<通釈と解説>
「粒粒辛苦」の語源となった李紳の『憫農』を今回はお薦めします。
七月七日は七夕でもありますから、それにちなんだものも考えましたが、漢詩では七夕は秋の景。新暦ではどうもピンとこないものが多いようですから、旧暦の頃に思い出しましょう。
稲の畑を鋤いていると、陽は真上にのぼる
汗は滴りおちる 稲の根もとの土の下
誰が分かろうか、茶碗の中のご飯の
一粒一粒が、皆、こうした苦労の結実であることを
子供の頃、ご飯茶碗に飯粒がへばりついていたりすると、必ず祖母に叱られたものです。曰く、
「このご飯の一粒一粒には全部、仏様が宿っていらっしゃるのだから、一粒たりと捨ててはいけないのだよ。もっと丁寧に食べなさい」と。
仏様をモグモグと歯で噛んだりして罰が当たらないだろうか、と心配する程に幼くはありませんでしたが、流し場に残った米粒を手ですくって、雀の餌にと庭にまいていた祖母の姿は、食物を大切にする、という理念を具体的に教えてくれていました。
稲を作るのは太陽との戦い、その太陽は真夏の陽射し、農薬も機械も無かった時代の農家の人達の苦労がよく伝わる詩です。
李紳は宰相にまで出世した人物だそうですが、農民の心をこんなに理解している人でしたら、安心ですよね。
三伏閉門披一衲 三伏 門を閉ざして
兼無松竹蔭房廊 兼ねて松竹の房廊を蔭(おお)う無し
安禅不必須山水 安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
滅却心頭火自涼 心頭を滅却すれば火も自ら涼し
<通釈と解説>
ようやく梅雨開けが来ました。夏の暑さもいよいよ本番。
結句が有名なこの詩、杜牧の末子とも言われていますが、晩唐の杜荀鶴の作です。
暑い三伏の時でも、戸を閉め切って僧衣を着ている。
その上に、松や竹が部屋や廊下に影を落とすことも無い。
しかし、禅の境地は、必ずしも静かな山や川を必要とはしない。
心中の雑念を消し去ってしまえば、火でさえも涼しく感じるものだ。
夏至の後の三番目の庚の日を「初伏」、四番目の庚の日を「中伏」、立秋後の最初の庚の日を「末伏」と言いますので、この三つの「伏」を「三伏」を言います。暑さの一番厳しい頃ですね。
杜荀鶴という人物は、『三体詩』にも四首選ばれている詩人ですが、政治家としては傲慢な振る舞いが多く、人に憎まれた人であったようです。
しかし、悟空上人の修行に励む姿を描いたこの詩は、精神の気高さというものを強く感じさせ、作者がただの軽薄才子ではないことを教えてくれるように思います。
結句は、禅の世界でよく知られ、「滅却心頭火亦涼」として使われていますね。
試験が終わって夏休み前の午後の授業とか、九月新学期早々の授業では、暑さに負けて背骨が溶けて消えたようにグダーッとしている生徒が多いのですが、彼らに、
「心頭滅却すれば火も亦た涼し!」
と諭すことはよくあります。
しかし、最近は、こちらが大きな声でいくら言っても、生徒の方は「?????」という表情、心頭滅却の意味が通じないようで、そうなると、これも死語の仲間入りをするのか、とゾクッとこちらが涼しくなります。
私たちは、この手の言葉を、特に意識して勉強したわけでもないのによく覚えているのは、そして現代の高校生達が逆に全く言葉を知らないのは、何故なのでしょうね。「今後絶滅を危ぶまれる日本語」という『レッドデータブック』を誰か作ってくれないものでしょうか。
沢国江山入戦図 沢国 江山 戦図に入る
生民何計楽樵蘇 生民 何の計ありてか樵蘇を楽しまん
憑君莫話封侯事 君に憑る 話す莫かれ封侯の事
一将功成万骨枯 一将功成って万骨枯る
<通釈と解説>
八月は様々な形で戦争について考えさせられる月です。新聞は毎年のように特集を組んで、原爆や終戦に関しての記事を載せていますが、今年は特に平和への思いを強く持っています。
ガイドライン法案、盗聴法案、そして国旗国歌法案の審議などを見ていると、こんなに政治が国民から乖離したのはこれまで無かったのではないか、と思われるこの頃です。国民から期待されない政治家、その政治家の無責任を追及しない国民、そして何よりも、「戦争放棄・基本的人権の尊重・主権在民」という、戦後の私たちが何よりも大切だと信じてきたことがらが、十分な議論の時間も無いままに変わっていく、そのことへの不安と苛立ちが止みません。
今回は、結句が非常に有名ですが、晩唐の曹松の詩を読み、もう一度、戦争と平和の問題を考えてみましょう。
この美しい水郷の国、川も山も、今や戦場に組み込まれてしまった。
人民達は、どうやって薪を取ったり草を刈ったりすることができようか。
君にお願いしたい。どうか、論功行賞などの話をしないでくれ。
一人の将軍の手柄の陰には、万人の兵士の死があるのだから。
何処秋風至 何れの処よりか秋風至り
蕭蕭送雁群 蕭蕭として雁群を送る
朝来入庭樹 朝来 庭樹に入り
孤客最先聞 孤客 最も先に聞く
<通釈と解説>
今年は例年と違って、太平洋高気圧の勢力が弱いそうです。先月から大雨の被害が各地で起きていますが、それらも異常な気圧配置の影響が大きいとか。
そのせいばかりでもないでしょうが、朝晩の風の思わぬ冷たさに、びっくりすることが多くあります。
今回は、中唐の劉禹錫の名高い「秋風引」を読みましょう。
どこからだろうか、秋風が吹いてくる。
もの寂しい音を響かせて、雁の群を送っている。
今朝がた、庭の木々の間に吹き入ったのを
ひとりぼっちの旅人の身が、誰よりも先に聞きつけたのだよ
我が国の詩人、藤原敏行の有名な和歌、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞ驚かれぬる
も連想させられる詩ですね。
どうやら季節は確実に秋に向かっているようです。
私は新学期を迎える準備をそろそろ始めます。
洛陽城裏見秋風 洛陽城裏 秋風を見る
欲作家書意万重 家書を作らんと欲して 意(おもい)万重
復恐怱怱説不尽 復た恐る 怱怱にして説き尽くさざるを
行人臨発又開封 行人 発するに望んで 又封を開く
<通釈と解説>
この「お薦め漢詩」で1月の時、韓愈の『早春、水部張十八員外に呈す』でも紹介しました「張十八」の張籍の作品です。
前回のお薦め漢詩と同じく、秋を風の到来によって知るという趣旨ですが、起句の「秋風を見る」の表現が秀逸ですね。
洛陽の町の中、秋風が吹き抜けていくのを見た。
故郷の家族への手紙を書こうとすると、
あれもこれもと心に浮かんで来る。
慌てて書いて、気持ちを全て言い尽くせないのが心配だ。
手紙を託す旅人が出発するに際して、
また気になって封を開いて見てしまうことよ。
張籍は、師である韓愈からは勿論、白居易からもその才を認められた人物です。
秋風を作者に感じさせた(見せた)のが何であったのか。それは、この詩からは窺えませんが、描かれていない分だけ、読者により鮮明に見せてくれているように思います。
私がこの詩で一番好きなのは、でも、結句の「又開封」です。封を閉じても、またもう一度開いてしまう、何度も書き直したであろうに、更にもう一度見直さずにいられない。故郷を離れた旅人の寂しく切ない心情が本当によく表れていると思います。
そうして、人をそうした気持ちにさせるのはまさに「秋風」なのですね。
前半が晋の張翰の故事を踏まえたものだとは、よく指摘されることですが、後半の心情は作者の実感に裏打ちされた表現だと思われます。しみじみとした味わいの作品です。
夏以来、やや疲れが体に残る毎日ですが、先を行く季節を追いかけるのが人の心なのでしょうね。
銀台金闕夕沈沈 銀台金闕 夕沈沈
獨直相思在翰林 獨直 相思うて翰林に在り
三五夜中新月色 三五夜中 新月の色
二千里外故人心 二千里外 故人の心
渚宮東面煙波冷 渚宮の東面は煙波冷ややかに
浴殿西頭鐘漏深 浴殿の西頭は鐘漏深し
猶恐清光不同見 猶ほ恐る 清光同じく見えざらんことを
江陵卑湿足秋陰 江陵は卑湿にして秋陰足る
<通釈と解説>
23日は「秋分の日」でしたが、九州に上陸した台風18号の影響でしょうか、一日中すっきりしない天気でした。
翌24日、今日ですが、私の学校でもいつ暴風警報がでるかと朝から生徒達が落ち着かない状態、本来ならば中秋の名月の筈なのに、台風の騒ぎで私も月見などはすっかりあきらめて、忘れてもいました。
ところが、風も収まった夜、妻と二人で愛犬の散歩に出かけたましたら、台風一過、雲が払われた空には、まん丸のお月さまがポッカリ。暫し見入ってしまいました。
ということで、急遽、今回のお薦め漢詩は白居易になりました。
[口語訳]
宮中の金や銀の立派な建物に、夜は静かに更けて行く。
私はただ一人で宿直して、君を思いながら翰林院に居る。
十五夜の今夜、出たばかりの月の光
二千里の遠く、昔ながらの友である君は何を想っているだろうか。
君の居る渚宮の東面、煙る波が冷たげに池の面を覆っていよう。
私の居る浴殿の西辺、鐘が時を告げて深く響いていく。
やはり気にかかる、この清らかな月光を同じには見えないのではないか。
君の居る江陵は低地で湿っぽく、秋は曇りの日が多いそうだから。
あまりにも有名な一首ですから、そんなに解説も要らないと思います。
対句の美しさ、彼我の状況の対比、そして友を切々といたわる深い愛情、どれも心に残るものばかりですね。
白居易は、平安初期の漢詩文全盛の時期(和歌にとっては「暗黒時代」と言われていますが)に丁度活躍していましたから、当時の日本の人々から見ると本場の最先端の詩人だったのでしょう。
政治には厳しく、下層の人々には優しく、表現は平明でわかりやすい。しかも、才能も地位も不足はない、ということですから、人気のあるのも尤もでしょうか。
テレビや新聞では災害の報道が続き、被災の現場を目の当たりにします。40年前の伊勢湾台風の日も間もなくです。そして、月は1000年前と変わらぬ光を注いでくれている。自己がふと浮遊するような喪失感、これも月の持つルナーテックな魔力でしょうか。