[4月の推薦漢詩(清明)]

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  襄邑道中        陳與義

飛花兩岸照船紅   飛花 両岸に船を照らして紅し

百里楡堤半日風   百里の楡堤 半日の風

臥看滿天雲不動   臥して看る 満天の雲の動かざるを

不知雲與我倶東   知らず 雲と我と倶に東するを

              (上平声「一東」の押韻)

<通釈と解説>

 桜の花便りがあちこちから聞こえてきます。長野県阿智村、園原地区にある樹齢千数百年と言われる桜を見に行きました。
 その桜は「義経駒つなぎの桜」と呼ばれているように、源義経が東山道を通って奥州に逃げた折、馬をつないだと言い伝えのある老木です。開花の時期が短いため見逃してしまうことが多かったのですが、今年はhpで確認をし、「よし、明日はOK!」と見定めての旅になりました。
 大きく拡がった樹枝にたわわに開いた桜の花、それは見事なものでした。この桜だけでも見に来る価値はある、と思いつつ、辺りにふと目を遣ると、既に開き始めた桃の花。いくつかの枝を紅白鮮やかに飾っています。
 白一色の桜の世界から一気にカラーの世界に入ったような感じで、ま、ある面では「桃源郷」に入り込んだ心境とも言えるでしょうかね。

 今年度から転勤で勤務先が変わり、慣れない中で忙しさに追われて、気がついたらいつの間にか清明の節気を随分過ぎてしまいました。
 大慌てで文章を書いていますが、詩そのものはもう選んでありました。南宋の陳與義の「襄邑道中」を読んでいただきましょう。

[口語訳]
   両岸を乱れ飛ぶ花は船を真っ赤に照らすようだ。
   百里も続く楡並木の堤沿いに風に乗って半日で過ぎる。
   寝転がって見ていると空いっぱいの雲はちっとも動かないのだが、
   それは実は、雲と私が一緒に東行していることが分からなかったのだ。

 穏やかな春の一日、のどかな船旅の様子が前半によく表れていますね。承句の「百里楡堤半日風」は、李白『早発白帝城』の名句、「千里江陵一日還」を連想させます。

 後半は謎解きのような発想の面白さに、つい口元が緩んでしまいます。
春ももうあと少しとなってきました。
























[4月の推薦漢詩(穀雨)]

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  鍾山即事        王安石

澗水無聲繞竹流   澗水 声無く 竹を繞って流れ

竹西花草弄春柔   竹西の花草 春柔を弄す。

茅檐相對坐終日   茅檐に相対して坐すること終日

一鳥不鳴山更幽   一鳥鳴かず 山更に幽なり

              (下平声「十一尤」の押韻)

<通釈と解説>

 例年よりも早く訪れた春は、過ぎ去るのもいつもよりも早かったようです。春を惜しむ気持ちを味わう暇もなく、あっという間に初夏の気候になってしまった感じですね。
 初夏の雰囲気も漂う詩をということで、今回は北宋の王安石の名作『鍾山即事』を読みましょう。

[口語訳]
   谷川の水は静かに竹の林を繞って流れ
   竹林の西には花や草が春の柔らかな日差しにたわむれている。
   茅ぶきの檐(のき)の下、山に向かって坐すこと終日
   一羽の鳥も鳴かず、山はますます静かである。


 鳥も鳴かず物音一つしない方が静かなのか、芭蕉「古池や蛙飛び込む水の音」のように微かな物音があった方が静かなのか、表現の問題としては以前から議論されてきたところですが、でも、王安石のこの詩は文句無く静かさを言い尽くした作品ですね。
 王維の名作、『鹿柴』でも、

  空山不見人     空山 人を見ず
  但聞人語響     但だ 人語の響きを聞くのみ
  返景入深林     返景 深林に入り
  復照青苔上     復た照らす 青苔の上


と描かれて、こちらは逆に「人語響」が一層静かさを強調していますね。そうした比較も面白いものですね。

 王安石のこの詩は、視覚と聴覚をくすぐられるような何とも言えない快感があって、ふと口に出てくる程私にとっては愛好する詩です。

























[5月の推薦漢詩(立夏)]

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  郷村四月        翁巻

緑遍山原白滿川   緑は山原に遍く 白は川に満つ

子規聲裏雨如煙   子規声裏 雨 煙の如し

郷村四月閑人少   郷村四月 閑人少(まれ)なり

纔了蚕桑又挿田   纔(はじ)めて蚕桑を了(おわ)りて 又た挿田

              (下平声「一先」の押韻)

<通釈と解説>

 春が早かった分だけ夏も早く来るようで、五月の立夏を迎えたとたん、じめじめと蒸し暑くて、梅雨入りしたような気候が続きます。阪神タイガースの勢いはどこまで続くのか、これも今年の異変(?)でしょうか。おっと、こんなことを書くとタイガースファンから叱られそうですね。
 更新が遅れがちですみません。一つ遅れると、次の節季がすぐに来てしまい、推薦しても掲載できるのが短くて、だからちょっと長く載せようと思うとまた遅れてしまう、恐ろしい悪循環にはまりそうですが、でも、気を入れて今回の推薦詩です。
 昨年も紹介だけはしましたが、南宋の翁巻の「郷村四月」を読みましょう。

[口語訳]
   山や野原には緑の新緑が一面、川は白く輝き
   ほととぎすの鳴き声が響く中、辺りは雨に煙る。

   初夏四月の農村には、閑な人は居ないものだ。
   蚕が終ったばかりだが、もう田植えが始まる。

 今年は当たり年だったのか、私の家の周りでもこの春はウグイスがしきりに鳴いていました。つい先日まで声が聞こえていたと思いますが、そのウグイスが去ればホトトギスが夏を知らせる。初夏の定番ですね。
 そうした自然界の季節の移ろいを描いた後、一気に場面は働く人々の姿へと展開します。農民の労働風景ですので、一般には風雅とは縁遠くなりますから、日本の平安貴族ではとてもできない発想かもしれません。
 閉ざされた社会の中の文学と、杜甫や白居易の社会詩の伝統を受け継ぐ文学の違い、あるいは人民への視点の違いかもしれません。
 王維の「新晴野望」と比べてみると、翁巻のこの詩は、特に結句の「纔」の一字によって時間的な広がりが生まれ、農人の忙しさが一層描かれていると言えるでしょうか。
























[5月の推薦漢詩(小満)]

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  端陽 相州道中        張 問陶(清)

杏子櫻桃次第圓   杏子 桜桃 次第に円かに

炎涼無定麥秋天   炎涼定まること無し 麦秋の天

馬蹄歩歩來時路   馬蹄 歩歩 来時の路

照眼榴花又一年   眼を照らす 榴花 又た一年

              (下平声「一先」の押韻)

<通釈と解説>

 今年は私は転勤で勤務校が遠くなり、毎朝40分から50分程車を運転して通っています。結構運転だけで疲れてしまい、到着しても仕事を始める前にしばらく一休みという、何ともロスの多い生活なのです。
 でも仕方ないことですから、となれば通勤に少しでも楽しみを見つけなくてはいけない、ということで、周りの景色を眺めながら(勿論、脇見運転にならないように気をつけていますよ)走っています。
 何と言っても運転中ですから、そんなにしっかりと見ることはできませんが、最近は、麦畑の中の道を走ることが多く、熟した麦の穂の鮮やかさに心惹かれています。1週間ほど前では、まだ秀穂も黄色かったのが、しっかり熟したのか、焦げた茶色が深くなり、まさに「小麦色」に波打っています。
 住居のある知多半島では、あまり麦は栽培していないので、この時期は見渡しても田植えの終った稲田ばかり。気候の関係か、地質や地理の関係か、橋を一つ越えると随分景色が違います。

 さて、今回のお薦め漢詩は、清の張問陶(船山)「端陽 相州道中」です。

[口語訳]
   アンズもサクランボもだんだんと丸くなってきた。
   暑いのか涼しいのか、今日の天気も分からない麦秋の頃の空模様。
   馬のひずめは、来た道を一歩一歩と帰って行く。
   眼に痛いほどのザクロの花、また一年が過ぎたのだなぁ

 題名の「端陽」は、五月五日(旧暦)端午の日のことです。少し早いのですが、でも気候的にはこの詩に描かれた場面が今にふさわしいように思えますので、今回の推薦としました。
 朝家を出る時、今日は半袖にするか、上着は要るか、なかなか悩ましい季節です。そんな気持ちが承句ですっきりと表してくれています。

 作詩の状況としては、科挙の都での試験に落第した時のものだそうですから、そうなると転句のややくどいような描写も心情を示していると言えるのでしょう。
 ただ、あまりに状況を限定してしまうと、詩としての面白さも薄れてしまいます。「照眼榴花」と言うように、眼に突き刺さるようなザクロの花の鮮やかさ、それを「落第したから尚更眼にしみるのだ」とわざわざ読まねばならない、というわけではありません。詩のふくらみということでいけば、どのような状況を想定しても良いのでしょう。
 「李白の再来」と言われ、作詩においては性情を重んじた作者の、寂寞とした雰囲気のあふれる、余韻の深い詩ですね。

























[6月の推薦漢詩(芒種)]

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  夏初雨後尋愚溪        柳 宗元

悠悠雨初霽   悠悠 雨初めて霽れ

獨繞清溪曲   独り繞る 清渓の曲

引杖試荒泉   杖を引きて 荒泉を試み

解帶圍新竹   帯を解きて 新竹を囲む

沈吟亦何事   沈吟 亦た何をか事とせん

寂寞固所欲   寂寞 固より欲する所なり

幸此息營營   幸いに此に営営を息む

嘯歌靜炎燠   嘯歌して 炎燠を静めん

              (去声「二沃」の押韻)

<通釈と解説>

 日中は日ごとに夏の暑さが感じられるようになり、夜はワールドカップのサッカーについつい釘付けになり、どうにも身体の調子が狂ってしまっています。
 ただ、以前のワールドカップの時と比べると、中継が早朝とか真夜中ということがないので、少しは楽でしょうか。前回、前々回などでは、学校で授業をしていても、ボーと目が虚ろな生徒が多かったものでした。

 気象関係では、そろそろ入梅だとか、雨と暑さとで嫌な毎日が始まる気がして、なんともウンザリしてしまいます。
 今回は、柳宗元の夏の雨上がりの詩を読みましょう。

[口語訳]
   長い長い雨が晴れたばかり
   一人で清らかな谷川のほとりを歩き回る。
   杖をたてて荒れた泉の深さを試したり、
   帯を解いて新しい竹の周りを計ってみたりする。
   沈み考え込んでどうしようというのだろうか。
   静かな孤独は元来希望していたことじゃないか。
   幸い、ここで世間の煩わしさを逃れることができた。
   歌をのどかに吟じ、この炎暑を静めることにしよう。

 柳宗元は湖南省に左遷させられましたが、瀟川に注ぐ谷川を愛し、近辺の土地を買って家を建てました。名もない谷川が世を益することのないことを自分になぞらえ、「愚渓」と名付けたそうです。

 頸聯の自省の言葉が奥行きを与え、心に残る詩になっていると思います。憂悶を昇華した心境と見るか、漏れ出た本音ととらえるか、それは読み手の側の心の有り様によるのかもしれませんが、ただ、暑さを乗り越えるために「嘯歌」するという一節には勇気を与えられますね。
























[6月の推薦漢詩(夏至)]

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  北固晩眺        竇常

水国芒種後   水国 芒種の後

梅天風雨涼   梅天 風雨涼し

露蚕開晩簇   露蚕 晩簇を開き

江燕語危檣   江燕 危檣に語る

山址北来固   山址 北来して固く

潮頭西去長   潮頭 西去して長かなり

年年此登眺   年年 此に登眺するに

人事幾銷亡   人事 幾くか銷亡せし

              (下平声「七陽」の押韻)

<通釈と解説>

 梅雨入りしたしばらくは暑い日が続きましたが、この数日は「梅雨冷え」だそうで、日中でも肌寒いくらいです。風邪を引かないように気を付けなくては、と思いつつ、ついつい風呂上がりに薄着をして鼻がぐすぐすし始めたり、喉が痛くなったりとだらしのない生活をしています。
 今回は中唐の竇常の名作、「北固晩眺」を読みましょう。

[口語訳]
   水辺の国では芒種の季節も過ぎ、
   梅の熟する時節の空は風も雨も涼しい。
   路地飼いの蚕は日暮れに簀をひろげるし、
   川の燕は高い帆柱に羽を休める。
   山の根は北へと連なり固く
   潮の流れは西へとはるかに行く
   毎年毎年 ここに登ってきて眺めるが
   人の世はどのくらい滅んでいったことだろう。

 この詩は、前節の「芒種」の時に紹介しようと思ったのですが、もう少し夏らしさ、梅雨らしさを感じるようになってからと、一つ延ばしました。
 梅雨と言えば私達はすぐに「蒸し暑い」という言葉を連想しますが、この詩では、「風雨涼」と爽やかさを出してきます。村上哲見氏は『三体詩』(朝日新聞社・中国古典選)で、

   五月(芒種)は夏だから「涼」というのは普通ではない。
   「水国」であり「梅天」だから、五月とはいえ「涼しい」というのである。


 と書いておられます。
 自然の永遠性と人事のはかなさを対比して描くのは古来よく使われますが、前半の叙景の格調高さがこの詩の独自性を際だたせていますね。