一年始有一年春 一年始めて一年の春有り
百歳曾無百歳人 百歳曾(かつ)て百歳の人無し
能向花前幾回酔 能く花前に向(おい)て幾回か酔わん
十千沽酒莫辞貧 十千もて酒を沽う 貧と辞すること莫かれ
<通釈と解説>
今年は例年よりも一週間程は桜の開花が早まっているそうで、もう既に満開を迎えている所も多いようですね。世の中は不景気だと言われていますが、花見客も例年よりは少ないそうです。
私の家の近くにも桜見物で毎年にぎわう公園がありますが、先日妻と夜の散歩の折に寄ったところ、出店の屋台のお兄さん達が暇そうにして、「どうも売り上げがよくない」ということを話していました。私は花冷えの中、屋台を出しているお兄さんが気の毒で、ついイカ焼きの一つでも買っていこうかと思ったのですが、食べ物に弱い私の性格を見抜いている妻が横でじっと見張っていましたので、残念ながら素通りしてきてしまいました。ごめんね。
さて、今日は清明、万物がみずみずしく輝く季節ですが、春もいよいよフィナーレに向かう時でもあります。花に酔いしれ、名残が尽きない感興とともに、忍び寄る寂しさも抜けやらないもの。
こんな季節にふさわしい盛唐の崔敏童の詩を読みましょう。この一首しか残っていないようですが、『唐詩選』を読み進めていくと、七絶の最後の方に兄弟(崔敏童、こちらが弟です。兄は崔恵童)で載っていて、印象深い詩です。
[口語訳]
一年たてば、そこではじめて、その年の春が来る。
だが、そのようにして百年過ぎても、百歳まで生きる人は一人もいないのだ。
花の前で一生にいったい何度酔うことができようか。(だから、今日は飲もう)
一万の銭で酒を買ってくるのを、貧乏だからなどと言って断るなよ。
数字の取り合わせが面白く、 「一年」「百歳」「千」「万」 と積み重ねていく表現は、李白にも負けない機知の妙ですね。内容は別に新奇なものは特に無く、春の花を楽しむ、時を惜しむ心情は他にもありますが、言葉のセンスが際立って光っている詩なんでしょうね。
次回は兄の同題の詩を読むことにしましょう。
一月主人笑幾回 一月 主人笑ふこと幾回ぞ
相逢相値且銜杯 相逢ひ相値ふ 且(しばら)く杯を銜まん
眼看春色如流水 眼のあたり看る 春色 流水の如きを
今日残花昨日開 今日の残花は昨日開きしなり
<通釈と解説>
前回の時に予告しましたように、今回は崔恵童の詩です。
行く春を惜しむ、という気持ちは古今を問わず、そして日本でも多くの詩を産み出す源です。百花繚乱、春爛漫に酔い痴れれば酔う程に、晩春は寂しさがつのるもの。その寂しさを何に託して表現するかが、詩人の腕の見せ所でもありますね。
[口語訳]
一月の間にこの別荘の主人が笑うことは何回あるだろうか。
私と君とがこうして逢ったからには、まあ、ともかく一杯飲もう。
目の前を春の景色が流れる水のように過ぎ去っていく。
今日の枝に残る僅かな花は、昨日開いたばかりのものなのに・・・・
起句の「一月主人笑幾回」は、どの本を読んでも『荘子』の「盗跖篇」から導かれたものとされていますので、引用しておきましょう。
人、上寿百歳、中寿八十、下寿六十、病痩死喪憂患を除けば、この一文は、晩唐の杜牧の重陽の名作、『九月斉山登高』の中の一句、
其の中、口を開いて笑ふ者、一月の中、未だ四五日に過ぎざるのみ
塵世難逢開口笑 塵世 口を開いて笑ふに逢ひ難しにも引かれていますので、よく目にするのではないでしょうか。
菊花須挿満頭帰 菊花 須らく満頭に挿して帰るべし
薫風何処来 薫風 何処よりか来たる
吹我庭前樹 我が庭前の樹を吹く
啼鳥愛繁陰 啼鳥 繁陰を愛し
飛来不飛去 飛び来たりて飛び去らず
<通釈と解説>
大型連休のこの時期を、皆さんはどう過ごされましたか。
私は休みの前半は、顧問をしているハンドボール部の大会に出かけ、後半の3日4日の二日間、南信州の阿智村に行ってきました。
「この辺りは5月の連休の頃に、桜と桃が丁度盛りになるから、是非見においで」と、昨年の秋の病気療養でお世話になった民宿のご主人から誘われていたので、妻の運転で、姉夫婦も誘って出かけたのです。
樹齢1000年と言われる有名な桜は残念ながら今年はもう散っていたのですが、桃の花の見事さにただ圧倒されて来ました。一面の桃の花、という光景は実は初めてだったのです。桃の花はどちらかというと庭に一本二本と咲いているという印象でしたので、川沿いに咲き並ぶ姿や庭一面を覆うような赤白の花群を見て、息も詰まるような感動でした。
桜と桃の優劣を競うわけではありませんが、中国の方が桃の花に心を惹かれるのがよく分かりました。本当に、目も心も洗われたような気持ちで、楽しい旅行になりました。
気候の方は肌寒かった日があれば、汗ばんだ日が来たりで、どうも身体がついていかないのですが、いつの間にかもう夏になってしまうようです。今季は、明の于謙の詩、『偶題』を読みましょう。
[口語訳]
かんばしい初夏の風は何処から来るのだろうか。
私の家の庭先の木々の間を吹き抜けてゆく。
啼く鳥は茂った木陰を愛して、
飛んで来たらもう飛び去ろうとはしない
起句は、劉禹錫の『秋風引』の冒頭、「何処秋風至」を連想させる表現ですね。
季節の推移を庭前の樹間を抜ける風から感じ取るという内容ですが、身近なものをじっくりと眺めて詠みあげるという表現は、現代の私たちから実は最も遠くなってしまった詩境かもしれません。自分の日常を見れば見るほどに季節感が抜け落ちていく。逆に言えば、季節を感じようと思えば非日常の世界に出かけて行くしかないという私たちの生活は、考えてみるといかにも悲しいことですよね。
新晴原野曠 新たに晴れて 原野は曠く
極目無氛垢 目を極むれども 氛垢無し
郭門臨渡頭 郭門は渡頭に臨み
村樹連渓口 村樹は渓口に連なる
白水明田外 白水 田外に明るくし
碧峰出山後 碧峰 山後に出づ
農月無閑人 農月に 閑人無く
傾家事南畝 家を傾けて 南畝に事(つと)む
<通釈と解説>
掲載が遅くなりまして、すみません。
作物が少しずつ実っていくと言われる「小満」の節気を迎えました。この時季は、初夏の爽やかさとともに、一足早い盛夏の暑さとが混じり合い、しかも梅雨の先駆けの湿気たっぷりの風が吹いたりと、何かと気候としては慌ただしく感じます。身体の方も、忙しい上に気候の変化の大きさに打たれて、どうも疲れが抜けません。
でも、昔からこの季節は忙しく働くべきもの、1年でも一番仕事が多い時季でもあったようです。泣き言は言わないで、では、今回は久しぶりに王維の『新晴野望』を読みましょう。
[口語訳]
雨が上がって今晴れたばかり、野も原もずーと広々として、
目をこらして眺めるけれど 靄も埃も見えやしない。
村の入り口の門は川の渡し場のちょいとこちら、
村の目印の桃の木ときたら、あっちの渓の入り口までさ。
川の水はキラキラキラキラ、田の向こうで輝いてるし、
碧したたる山の峰は、山また山、顔をひょっこり。
この農月には 閑にしている奴なんて居ないよ。
一家みんなで南の田圃で、しっかり仕事に励むのさ。
南宋の翁巻もその詩「郷村四月」の中で(范成大の作だとも言われてますが)、
緑遍山原白満川
子規声裏雨如煙
郷村四月閑人少
纔了蚕桑又挿田
と詠っています。
一年での大切な働くべき時、それを堅実に行おうという気持ちが心に沁みてきます。
今の私たちはともすれば「楽して儲けよう」とか、「真面目に働くことはバカらしい」というような雰囲気に流されてしまっていて、地道に、そして誠実に働くことから遠い毎日を送っているように思います。汗も流さずに頭の使い方ひとつで金もうけができる、なんて甘い言葉にはバブルで懲りた筈なのに、またぞろ「ネット」という新しい媒体に群がる亡者が目についてしまいます。
でも、ほんの少し前までは、私たちも<「農月無閑人/傾家事南畝」という光景を日常的に眺めていたのですよね。
もう一度、汗を流す労働の喜びや、「精一杯」とか「しっかり」という言葉を胸に刻むためにも、この詩を読み直してみたくなったのです。
訳もちょっと元気が出るようにしてみましたが、どうでしょうか。
菱透浮萍緑錦池 菱は浮萍を透す 緑錦の池
夏鶯千囀弄薔薇 夏鶯千囀して 薔薇を弄す
尽日無人看微雨 尽日人無く 微雨を看れば
鴛鴦相対浴紅衣 鴛鴦相対して 紅衣に浴す
<通釈と解説>
今年は例年よりも少し早く、「梅雨入り」の宣言が出されました。
「芒種」のこの季節は、稲(芒:ノギ。穀物の一番先の突起)を「種」える時季ですが、雨も多くなり、ジトジトジメジメとしてきますね。
そんな季節にもそれぞれの良さを見つけて楽しむことが、古来からの詩人のあり方。今回は久しぶりに杜牧に登場してもらい、雨の日ゆえのゆったりとした景色を味わいましょう。
[口語訳]
浮き草が錦を織ったような池の緑に、真っ白の菱がいくつも鮮やか、
赤い薔薇のまわりで、夏の鶯がしきりに鳴いている。
今日は一日誰も来ず、しっとりとした雨を眺め続けていると
鴛鴦が向かい合いながら 紅い蓮の花の中に浮かんでいる。
鮮やかな色彩感と、そして何とも言えない穏やかな時間の流れ。
描かれた素材は、もう「これでもか!」てな感じで、惜しげもなくたっぷり、けれどもじゃあゲップが出るかと言うとそうでもなく、さわやかな読後感はこれは何料理みたいだと言えば良いでしょうかね。
雨の日に一日外を眺めるなんて「ぜいたく」はなかなかできませんが、我が家では、愛猫がその特権階級を満喫しています。彼女は今年11歳、最近はめっきり風格も出てきて、過ごしてきた人生(猫生)の重みと落ち着きを感じさせてくれるのですが、雨降りの日は、外に出るでもなく庭をじっと見つめています。
何考えてるんだろう?と尋ねてみたいのですが、ひょっとして詩情を味わってるのかもしれないとつい遠慮しています。
斉安郡は黄州の別名。杜牧は四十歳の時に赴任しました。長江中流域のおだやかな町の風景が浮かぶような詩ですね。
黄梅時節家家雨 黄梅の時節 家家の雨
青草池塘處處蛙 青草の池塘 処処の蛙
有約不來過夜半 約有れども来たらず 夜半を過ぐ
閑敲碁子落燈花 閑かに碁子を敲てば 灯花落つ
<通釈と解説>
一年で最も昼が長いとされる夏至を迎えましたが、折しも梅雨の真っ最中、今年は日本全国「梅雨前線」に覆われて水害の心配をしなくてはいけない程。
雨に降りこめられたままでなく、少しの晴れ間には外に出て散歩したり、たまには傘をさしてのんびりと歩くのも、梅雨の積極的な楽しみ方でしょうね。
今日は私は、雨上がりのひと時、庭の梅の実を収穫しました。あまり手入れもしないのに、毎年春先には花を咲かせて楽しませてくれる健気な紅梅ですが、更に実までもつけてくれるという、まったく親孝行(?)な木です。
風呂場の体重計(!)で計ってみたら、なんと4.5kgの収穫でした。うーん、「放っておいても子は育つ」という感じですね。梅干しにしようか、梅酒にしようか、まだまだ楽しませてくれそうです。
さて、夏至の漢詩は、南宋の趙師秀、霊秀と号して、永嘉四霊の一人とされる詩人です。五言律詩を得意とするのですが、今回は絶句を味わいましょう。
前対格で初句は韻の踏み落としですね。
[口語訳]
梅が黄色く熟するこの頃、あの家この家みな雨の中、
池の堤にゃ青い草、あちらこちらで蛙の声。
約束したのにあ奴は来ない、とっくに夜半を過ぎたのに。
待ちくたびれて一人で碁を打ちゃ、はずみで灯心ポトンと落ちた。
雨の中の客を待つ長い一日、でもそこにいらだちなどは感じさせず、穏やかに時間が流れて行くようです。無駄のない、凝縮された描写ですね。
結句の「碁石を打ったら灯心が落ちた」という表現は、因果関係は無いながらも、でもつながって見てしまうところが面白く、正岡子規の「柿食へば鍾が鳴るなり法隆寺」の句と似たような心の動きを感じます。
子規の句は、接続助詞「ば」の「偶然条件」の用法としてよく説明されるところです。他にも已然形接続の「ば」には、「原因理由」(「〜なので」と訳します)と、「恒時条件」(「〜する時はいつも」と訳します)があるのですが、因果関係を持ってはおかしい時にこの「偶然条件」を持ってくるわけで、子規の句は勿論、因果関係があっては大変なことになる例です。
しかし、私は心情的には、子規の句には、「柿を食ったことと鍾が鳴ったことはたまたま一緒になった」だけではない、ある種の、子規の得意げな顔が見えるような気がします。曰く、「オレが食ったから鍾が鳴ったんだ」とでも自慢しているような、そんな理屈に合わないけれど満足する気持ちってのはありますよね。
もちろん、授業ではこんな混乱の元になるようなことは言いませんが・・・・