作品番号 1998-30
歳月空流不待吾 歳月空しく流れ 吾(われ)を待たず、
光陰如箭旧年徂 光陰箭の如く 旧年徂(い)く
功虚路遠陽西暮 功 虚しく 路遠く 陽は西に暮れ、
滴水当穿尚有途 滴水当に穿(うが)つべし 尚、途は有り。
<解説>
「箭」=矢のこと。
「光陰如箭」で、「光陰矢の如し」。
「徂」=いく。
「滴水当穿」=中国語にある「滴水穿石」という四字成語からとりました。ポタポタと落ちる水でも、長年かければ石に穴をあけることができるという意味。
敢えて言うなら「塵もつもれば山となる」。で、「当」をつけることで、意味を強めています。「塵もつもれば、山となるはずだ!!」
意味は、「長年、勉強していてもちっとも成果がない。このまま、今年も過ぎていくのか。とほほ。でも、ちょっとづつでも続けていけば、きっといつかは成果が上がるはず。だから、『塵をつもらせて、山にしてやるぜ!!』きっと…。」
一応、前半暗くて、後半明るい、という「蘇東坡パターン」を狙っています。
が、見事に失敗しているようです(^_^;。
1999. 1.15
作品番号 1998-28
男児四海可為家,
何必依依恋京華。
但信従今君北去,
新天地里好開花。
作品番号 1998-29
今日請無命作詩,
作詩難免費神思。
何当傾耳張君語,
北地怎生作老師。
1999. 1.15
作品番号 1998-27
寒江月照促氷凍 寒江、月照りて氷凍を促し
漫漫騰騰帰釣翁 漫漫騰騰として釣翁帰る
終日垂鈎費芳餌 終日、鈎を垂れて芳餌を費し
残暉回棹運軽籠 残暉に回棹して軽き籠を運ぶ
年年歳歳魚鱗散 年年歳歳、魚鱗散じ
歳歳年年家口窮 歳歳年年、家口窮まる
一酌一肴労労苦 一酌一肴、労苦を労うも
団欒今夜暗風中 団欒、今夜は暗風中
<解説>
(訳)
寒々とした河、月が照っていまにも凍りそうである。
漫漫騰騰(トボトボ)と老いた漁師が帰っていく。
一日中、針をたれてよい餌をついやし、
夕方、船をめぐらして(魚のあまりはいっていない)軽い籠を運ぶ
年々歳々、魚は少なくなり
歳々年々、家族は貧窮
わずかな酒とわずかな肴があれば、苦労も労われるが
家族の団欒も、今夜は暗い風のなかだ
入門編今月のお題にそって作りました。
本当は五言絶句をめざしましたが、長くなりました。
第3句および第7句は「挟み平」のつもりですが、濫用しすぎかもしれません。
<感想>
劉庭芝の『代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代る)』の有名な一節「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」を引用しながら、でもどこかユーモラスな雰囲気をかもしだした作になっていると思います。
私も一時期、魚釣りに夢中になり、早朝に堤防に出勤前に出かけ、帰宅後にまた夜釣りに出かける、という生活を送ったことがありました。その頃はまだ、魚も多かったのですが(と言っても他の人が釣っている魚が多いという意味であり、私自身の釣果は微々たるものでした)、近頃はたまに海に行っても、餌で海を汚しているだけのような状態です。魚が減ったのか、彼らがグルメになったのか、寂しいものです。
「解説」の中での「挟み平」は、目次の「漢詩の基礎知識」3−Cの「平仄のきまり」のページに説明をしましたので、そちらを参考に見て下さい。
作品番号 1998-26
星辰運不順 星辰の運び順ならず
寓士任雌伏 寓士雌伏に任ず
恬泰事研精 恬泰として研精を事とし
悠悠待祉福 悠々として祉福を待つ
<解説>
現在失業中。
失業した原因はつまるところ運が悪かったとしか言えません。(政府関係機関との期間契約の仕事ですが、リストラでポストの削減が始まり、再契約は公募という形を取りながら事実上コネや人脈で決まってしまう特殊な世界なのです)
失業のみならず、数え42の厄年を迎え、やることなすこと全て裏目裏目に出るので少々まいっているところです。
しかし老陰は陽に転ずという如く、落ちるところまで落ちればそれ以上は落ちようもない。今は雌伏の時と心して、この期に研鑽を積み実力を蓄えておけば、そのうち幸運も巡って来るだろう、という開き直った心情を詠んだものです。
<感想>
景気も人心も厳しい現代、下手な激励は無用だと言われるでしょうが、それでも一言。
先ずは身体をいたわって下さい。「健全な身体に健全な魂」が本当かどうか知りませんが、病気になれば必ず精神が弱ります。ガツガツと食べていれば、前に進む気力が湧いて来ますが、私は先日入院した折は、考えることは弱気なことばかり、ろくなことは頭に浮かびませんでした。
開き直るのか、どうするのかはお考え次第でしょうが、体力を蓄えて下さい。
作品番号 1998-25
古木未紅落 古木未だ紅ならずして落ち、
群星不尽流 群星尽きずして流るる。
転蓬何倚処 転蓬何の倚る処ぞ、
太一已三秋 太一已(すで)に三秋
<解説>
「未紅」いまだくれないならずして。
「転蓬」枯れたよもぎが丸くなって風に転がる状態。
「倚」よる。
「何倚処」何の倚るところぞ。
「太一」原初。また山名。
「三秋」秋たけなわ。
<感想>
先日の獅子座流星群では、私は結局一つも見ることが出来ませんでした。頑張って一度は目を覚ましたのですが、空は薄雲に覆われていて、「これは無理だ」と早々に布団に戻ることにしてしまったのです。皆さんはいかがでしたか。
天文関係には中学の頃(もう30年も前ですね)から興味があって、地域の科学館で天体観測の勉強をしたこともあったのです。うーん、その頃なら午前2時でも3時でも平気だったのですが、最近は全く弱くなりましたね。
梅足さんの詩の感想に戻りますと、起句と転句のやや近い視野、承句と結句の雄大なスケールの視野のバランスが取れて、奥行きのよく表れた詩ですね。先日、授業で俳句を教えたのですが、
高浜虚子の
「遠山に日の当たりたる枯野かな」や、
あるいは飯田蛇笏の
「芋の露連山影を正しうす」の句に見られる遠近感を生徒に説明しました。
季節は梅足さんの詩とは合いませんが(蛇笏の句は秋の初めでしょうね)、対比や取り合わせの巧みさは共通していますね。
「古木」「群星」「転蓬」の語が晩秋の寂寥を一層深め、人生の重みまでも暗示しているように思われます。
作品番号 1998-23
詩思何恐大家裁 詩思、何(なん)ぞ大家の裁を恐れんや
景在月光情古苔 景は月光に在り情は古苔
万衆千心励押韻 万衆の千心、押韻に励まば
数篇将敵楽天才 数篇、将(まさ)に楽天の才に敵さん
<解説>
本ページに投稿なさった落塵さんの流麗な詩を拝見し、思うところを書いたものです。
漢詩は、わたしたち大衆(万衆)には、李白や杜甫やばかり(たとえば本屋で漢詩の本をながると)が目に入って李白や杜甫や以外には、いい詩はないと思いがちです。
また、私が落塵さんの詩をすばらしいといえば、おまえはそこまでしか詩がわかっていないのかと人から侮られやしないかといったゲスなオモンパカリも感じるもの。そこで日本人は、コンサートで
はいつもブラボーですし、李白や杜甫は褒めても、他は見向きもしないのが普通です。
しかし、わたしは、あの詩はとてもすばらしいと思います。わたしのような凡人にも、その美しさがわかるからです。
わたしが、落塵さんの詩のすばらしい詩情を味わうには、その道の大家がどういうかは関係ありません。(起句)
詩情は解説ではなく、歌われている中身にあり (承句)
たくさんの人が詩を作れば、そのなかのいくつかは、過去の天才の才能に匹敵する (転句、結句)
上記の詩は、そんな気持ちを歌っています。
なお、結句「楽天の才」は、大衆にもわかる詩作りに励んだという白楽天を意識しましたが、落塵さんの詩が、白楽天の詩のどれかに似ているという意味ではありません。
「天を楽しむの才」ぐらいの意味にとっていただければ幸いです。
<感想>
落塵さんは、漢詩を投稿して以来、寝る前に漢詩を読む習慣がついた(戻った?)そうです。石倉さんのこの詩はきっと大きな励みになると思います。
詩については、結句の「将」ですが、強い推量を表す「當:まさに・・・すべし(きっと・・・だろう)」の方が、「将:まさに・・・せんとす(いまにも・・・しようとしている・将来きっと・・・だろう)」よりもこの場合意味が合うと思いますが、どうでしょうか。
1998.12.12
作品番号 1998-22
北京禁裏空房雪 北京禁裏空房の雪
聞道燕棲南海穴 聞道(きくなら)く燕は棲む南海の穴
千里飛翔五十年 千里飛翔して五十年
何當魂魄一相結 いつか当(まさ)に魂魄一つに相結ぶべし
<解説>
先日台北の故宮博物院に行きました。展示してあるのはほんの一部で70万点の文物の大部分は博物院に続くトンネルに保管されていると聞きました。去年の北京の故宮に思いを馳せ久々に作ってみました。
ご無沙汰してました。新たな旅が詩心を揺り動かすようです。一旅一句でしょうか。
鈴木先生、賞を取られたそうでおめでとうございます。着想のユニークさと地道な活動が評価されたことに敬意を表します。
<感想>
「ホームページ作者からの挨拶」で、12月になって受賞の報告をしましたが、以来何人もの方々からお祝いの言葉(メール)をいただきました。ありがとうございます。改めて「挨拶」を書きましたので、そちらもご覧下さい。
さて、風塵翁さんの漢詩の感想ですが、まず仄韻であることが目につきました。
私たちは漢詩を書き下しで読みますから、押韻と言っても結局は規則としての理解であり、ならば「平韻でも仄韻でも要は韻が揃っていれば良い」となりそうな気がします。しかし、実際に作ってみると、日本語では分からない筈なのに、仄声の何となく詰まったような韻は避けて、平韻で作ることが多くなります(仄韻で作ってはダメ、と言うテキストもあります)。
でも、この詩を見ていると、歴史に遮られた魂魄の嘆声が聞こえるようで、それはまさにこの仄韻から来ているのではないか、と思わざるを得ません。あらためて感動を深くしました。
表現としては、結句の「何」を「いつか」と読むのは難しいと思います。私は最初、「なんぞ」と反語形で読み、「???」という感想を持ちました。「何当」の2文字だけ、再考をお願いします。
作品番号 1998-21
遠離家国万里遥,
相聚猶能忘寂寥。
但願諸君多保重,
来年再会飯田橋。
<解説>
昨年末、東京近辺の幾つかの大学で教鞭を執っております何人かの中国人仲間で、中央線飯田橋駅近くで忘年会を行いました。「多保重」は「元気で、健康で」という別れの挨拶です。
<感想>
この冬は、私は体調の関係もあり、忘年会とは今のところ無縁な日々を送っています。と言って、それが寂しいという程ではなく、お酒を飲む機会が減り、身体には良いかな、と逆に思っています。ただ、親しい人達と1年をゆっくり振り返り、自分を見つめ直す意味での「忘年会」は欲しいなぁと思いますよね。
1998.12.12 by junji
この河東さんの『忘年会』につきましては、鮟鱇さんからも感想が寄せられましたので、河東さんに転送しました。
さすが漢字を母国語となさっている方の詩で、わたしたち日本人にはとても及ばないという思いが最初にあります。漢字は、わたしたち日本人にとってもすでに母国語であり、漢字なしには思うところを述べることはとてもできないのですが、貴兄の詩を拝見し、それでもなおまだまだ血肉にはなっていないとの思いを新たにしました。
わたしたちは、李白や王維の詩を見よう見まねで漢詩を作りますが、そうしたおりに何を詩にうたうかをとかく忘れがちです。貴兄の詩のように、毎日の生活に根ざした詩はなかなか作れません。私は、今日この時代の生活を歌わなければいけないと日ごろ思いながらも、なかなかそれができません。
「青島出差」「忘年会」は、平易な言葉のなかに河さんの生活を通じて人間のぬくもりのようなものが歌われているように私には思え、漢字を母国語とする貴兄を大変うらやましく思いました。
次に、韻・平仄について思うところがあります。
わたしたち日本人は、今から千年も前にこの世を去った李白や杜甫に見てもらうつもりで詩を作っているわけではないのですが、他にルールを知りませんから宋の時代に整理された韻と平仄を頼りに詩を作ります。韻・平仄をきちんと踏まえていればひと安心で、現代中国語で読んだ場合の矛盾に気がつかないことが多々あります。
旋律を考えれば多分、今日の第一声、第二声を「平」とし、第3声、第4声を「仄」とし、平と仄がそれぞれあまり長く続かないように作詩すれば響きがいいのかと思っていますが、そうと思いきることもできなくて最後は宋の時代に整理された「平仄」をたよりにします。
この結果、現代中国の皆さんの目からみれば、我々の意図に反して、第一声、第二声ばかりが続く句を作ることになりますし、特に絶句で平声の韻を用いながら第三句の最後で調子はずれの第二声を使うといったことにもなります。悩ましいところです。
ところで「忘年会」の第一句ですが、くだんの平仄に従えば、「国」は仄韻ですので、わたしたち日本人であれば、多少の意味の違いは犠牲にして、たぶん迷わず
「遠離家国万里遥」ではなく、
「遠離家郷万里遥」とします。
国は現代中国語では第二声ですから、リズムは同じであるわけですが、平仄のルールを遵守して、「郷」を使うことになります。
そこで、質問させてください。
「家国」と「家郷 」では、意味のうえで多分大きな開きがあるのだと思いますが、「郷」とする場合と、「国」とする場合との違いをお教えいただければ幸いです。
98.12.14 by鮟鱇
河東さんからは次のような鮟鱇さん宛の返事を頂きました。
拙作にわざわざコメントして下さいまして、大変嬉しく、ありがたく思い、返事させていただきます。
小生が詩を作るとき、即興的に作るのが多く、あまり推敲しないため、ルールからはずれることがよくあります。「忘年会」の家国についても平仄から言えば、ご指摘の通り、家郷の方がよいです。ただ意味的に家国の方を使いたいです。家郷と祖国の両方の意味が含まれているからです。
ところで、鈴木様のHPに掲載されている貴下の詩を拝見させていただきました。「意境」にしても、リズムにしても、いずれも傑作で、私なんかとても貴下の足元にも及びません。新作がありましたら又是非拝読させて下さい。
韻は中国人にとっても難しい時があります。漢詩の韻はいわゆる古音の韻で、現代中国語の韻と一致するとは限りません。例えば、池、期、時は現代詩では同じ韻になりませんが、古詩では同じ韻です。古韻を知っていない人でないと、韻が踏まれているとは思えません。方言には沢山の古音古韻が残っています。上記の例も私の田舎の方言では韻が同じです。
日本人の方の漢詩の作り方や楽しみ方に大変興味を持っておりますので、今後教えていただければ幸甚です。
98.12.16 by河東
作品番号 1998-20
秋風颯颯気閑閑 秋風は颯颯、気は閑閑たり
楼上遙観富士山 楼上、遙かに富士山を観る
暮色欲収如舞扇 暮色、収まらんと欲して舞扇の如く
今夕天人踊星間 今夕、天人、星間に踊らん
<解説>
偶作です。
「天人」は、ここでは天女のつもりです。
本当は暮れなずむ夕映えに浮かぶ富士山の山影を「舞扇」にたとえたいのですが、うまくいかず、夕映えを扇にしています。
<感想>
この鮟鱇さんの詩に、私は次のような返信をしました。
前半の2句はとてもリズムも良く、納得です。
転句は「欲」「如」と一句の中に虚字が二つ入るのは落ち着かないと思います。「如」を避けてはっきりと言いきった方が良いでしょう。
結句は「踊星間」が私には気になります。「星間」は夜のイメージなのですが、そうすると「今夕」と合いません。時間の流れを表すとしたら、無理があるような。「舞扇」から「天人」への連想でしょうか。前半に比べて言葉よりも心が走り過ぎた印象ですね。
鮟鱇さんからは次のように詩を修正する連絡を頂きました。
先生からのご指摘と(中国人の友人からの意見も)あわせ、転句を「暮色欲収如舞扇」から「暮色欲収緋扇舞」と直したいのですが、いかがでしょうか。結句は「今夜」にすればいかがでしょう。それでも飛躍はありますが。
あえて修正前の詩を掲載しましたのは、鮟鱇さんから「他の皆さんの参考にもなるでしょうから、そのままで」との言葉があったからですが、皆さんのご感想はいかがでしょうか。
作品番号 1998-19
安求午枕緑陰風 安(いずく)にぞ午枕を求めん、緑陰の風
瞻仰藤花満碧空 瞻仰すれば、藤花、碧空に満つ
万物応愉隆運夏 万物応(まさに)隆運の夏を愉(たの)しむべし
少年宜立学書功 少年宜(よろ)しく学書の功を立つるべし
欲窮一日銘千語 一日を窮め千語を銘ぜんと欲し
更悟無謀紛異同 更に無謀を悟り異同を紛ず
睡意元来喜仙境 睡意は元来仙境にあるを喜ぶ
明朝考試任天公 明朝の考試、天公に任せん
<解説>
どこで昼寝をしようか、緑陰の風が気持ちがよい。
仰ぎ見れば藤の花が咲いて、青空にいっぱいだ。
万物は、今まさに元気いっぱいの夏を楽しもうとしている。
しかし、少年(私)は、よろしく学問の功を立てなければならない。
一日あれば千語ぐらいは覚えたいと思ったが。
また、みずからの無謀を悟り、あれとこれの区別がつかなくなった。
明日の試験のことは、天の神様にまかせておこう。
この詩は半田東高校の皆さんとダンシングチームさんのみずみずしい詩を拝見して私みずからの十代に思いがゆき、鈴木先生の平仄・韻検索システムを使って作りました。
請願寛容詩思貧。
<感想>
石川Y木の名歌
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
をふと思い出しました。
考えてみると、鮟鱇さんが言われているように、若い頃は無謀なことも平気で実行しようとして、最後はなりゆきまかせ、ということが多かったような気がします。同じ神頼みでも、「人事を尽くして天命を待つ」の態度とは随分違いますよね。
作品番号 1998-18
<書き下し>
参星(しんせい)冷冽として、南天に上り
耿耿(こうこう)たる燈光は机前に揺れる
筆を執り、詩を尋ぬれば懐逸興
疎鐘雪を擁して又新年
<解説>
寒い夜(除夜の詩)
見上げれば寒々とオリオンの星々が南の空にのぼり、
転じては、あかあかとともし火が机の前で揺れている。
詩を作ろうと句を尋ねれば、心境はますます俗を離れ澄んでいく。
折しも降り始めた雪の中をかすかに除夜の鐘が響き、ああ、また無為に年をとったなあと
思うのであった。
<感想>
学生時代に作った詩だとのことですが、起句の「参星冷冽」の語句がとても生きていて、除夜の空気の冷たさと、その中での若者の鋭い気迫がよく表れていると思いますよ。
落塵さんも「この詩が20年ぶりに日の目を見たような気がして」と書かれていましたが、自分の作品はそれを作った時の心や状況までも織り込まれていて、懐かしい、というより、大切な記録ですよね。
最新作にも是非挑戦して下さい。
作品番号 1998-17
東南西北人 東南西北の人
春夏秋冬酒 春夏秋冬の酒
四海産八珍 四海は八珍を産し
九天慈一寿 九天、一寿を慈しむ
<解説>
仄声押韻の詩です。
みんなと毎日お酒が飲めて美味しいものが食べ長生きできれば幸せだという気持ちを歌っています。
結句「慈」を「裁」に変えるバリエーションがあります。この場合、こんな生活をしているとそのうち天罰が下らないかという結びになります。
詩情貧苦おわびします
<感想>
仄韻の詩はあまり皆さん作りませんが、この詩の場合は初句と転句も同韻(「人・珍」上平声 十一眞)になっていて、微妙なバランスを保っていますね。漢字に向かう楽しさがあふれているように感じます。
鮟鱇さんのホームページのURLを『漢詩のリンク集』に掲載しましたので、他の詩も是非見て下さい。
作品番号 1998-16
晴嵐遼繞捲征袍 晴嵐は遼繞(りょうじょう) 征袍を捲き
柱状懸崖弄怒濤 柱状の懸崖 怒濤を弄す
白亜灯台侵碧落 白亜灯台 碧落を侵し
四望絶景勢周遭 四望絶景 勢周遭
<解説>
海のない県に住んでいる私たちには、潮のかおりと灯台は、旅情をかき立てる物だ。晩秋の一日を妻と二人で訪ねた。石積灯台としては東洋一の高さを誇り、柱状節理の海岸線と相まって素晴らしい。はるばる出雲半島までやってきて、この感激を記憶に残しておきたいと思い詩を創った。
<感想>
京祥さんが「解説」に書かれたように、旅行に行ったりして、忘れがたい風景や忘れたくない景色に出会うこともしばしばあります。そんな時、絵や写真、俳句や短歌などの尋常の手段ではどうも迫力不足の気がして、特に雄大な自然の景観を見た時には、感動を漢詩で書き残したいと思います。
誰もが簡単に漢詩が創れるわけではありませんが、機会ある度に挑戦して行きたいですね。
京祥さんのこの詩には、まさに「絶景」が目に浮かぶようで、勢いがよく表れていると思います。
結句の「勢周遭」が、何の詩で見たのかなかなか思い出せませんでしたが、中唐の劉禹錫の『石頭城』に入っていましたね。私が忘れないために引用しておきますと、
「周遭」は「ぐるりと取り囲む」意味。この『石頭城』の詩は、特に承句の表現を白居易が激賞したことで有名です(と言いつつ、起句を私が忘れていたのですから、いけませんね)。揚子江沿岸の風景をしみじみと表現しつつ、「空城」(人の気のない町、ここでは荒れ果てた町)と「旧時」の二語で一気に時を遡らせた、美しい詩です。
作品番号 1998-15
皆皆集塾来 皆皆塾に集まり来たる
近近試験秋 近近試験の秋(とき)
黙黙励勉学 黙黙として勉学に励み
日日疲似幽 日日疲れて幽に似る
<解説>
テストがとても嫌!!
どうしてテストばっかりなんだーという気持ち。
<感想>
そうですね。私は試験を作る方なので、決して「テストが嫌いだー!」とは言いませんが、でも、気持ちはとてもよく分かります。
試験になると必ず、本が読みたくなったり、友達と話したくなったり、何となくやけに心が優しくなったりして、やっかいで困ったものですが、でも懐かしいものでもありますね。二度と繰り返したくはないけれど、でも思い出すと胸が熱くなる、以前に野坂昭如が「青春」について同じ様なことを言ってたように覚えていますが、テストの苦しみも、「青春の一こま」でしょうか。
こんな形で漢詩を創って、気分転換してみるのも、かなりハイレベルな息抜きですよね。