「冒韻についての私の考え」・・ 謝斧 さん(12/1)

 冒韻についてわたしの考えを述べさしていただきます。

 上村売剣先生は先生の著作のなかで、「冒韻というのは誰が言い出したのか詳らかではないが、同韻の字を句頭と句尾に置くのは聲律の上より忌むのは当然の事と考えられる」、又、「古人の例は、句頭の冒韻は左ほどには見当たらないが句中の冒韻は随分見受けられる」といわれて居ます。
 しかし、「やかましく咎める必要はないが、避けることができれば避けた方がよいという程度だ」ともいわれています。

 わたくしは、冒韻に関してはあまり気にしていません。唯、句頭に使われる場合には回避しております。
 その理由は、韻が句と句につながれば、聲律的に重韻で連続しているように感じるからです。
      ●●○○●●◎休◎○●●●○◎
 また、6字目の冒韻は却って重韻となって聲律的に優れて居ると考えています。そういった理由で押韻句以外でも避けるようにしています。(この点に関しては上村売剣先生とは考えを異にして居ます)

 結論として、句頭の冒韻は避けるが句中の冒韻は内容を優先にする、としています






















「新奇なことを詠う」・・ 逸爾散士 さん(11/3)

 鮟鱇先生に和した詩に丁重な感想を頂きました。過褒と思えるお言葉にお礼を申し上げたいところですが、創作漢詩ページに重ねるのも煩しく感じられるので、このページに、漢詩の新しい素材について思いを書いてお返事にかえます。

 1980年代のいつ頃からか山陽吟社で指導を受けていたのですが、同人は詩吟をなさっている方、書道が本領の方が多いようでした。私のように字は鳥の足跡から進化していない線を書き連ね、剣舞の類は復古調でに苦手だなあという者には少々違和感がありました。
 年配と思われる方が多く、叙勲を祝ったり楠公の事跡に思いをはせる詩も見受けられました。そういうのを読むたびに、あまり今までの漢詩らしくない題材の詩を寄稿したら、年配の方はどう思うかと茶目っ気がおきます。
 また、この古い形式と語彙の文芸で新味を出そうとすれば、ものの見方も新奇なものを打ち出すのが早道です。
 そこで手塚治虫さんの追悼とか富田靖子ちゃんのブロマイドに書き付けた趣きの詩とか、皇居前広場の楠木正成像を詠んで「南朝の忠臣が北朝の末裔を守っている」とか、中国はお師匠さんだったのに侵略をして仇をなしたとか、昔なら絶対にないと思われる詩を作ってみました。

 『朝鮮出兵』はそうしたものの一つです。
 現代の思想をあくまで漢詩文の表現力に信頼を寄せながら書こうとしたもので、対句などは我ながら子どもの積み木細工のように感じられますが、漢詩でなければ表現できないものを志向しました。
 そういう古人が書かない、余人は思わないことを詠おうというのは、「語の人を驚かせずんんば死すとも已まない」文学意識と言いたいところですが、私の場合は吟社の年配の方を唖然とさせたいといういたずら心というほうが正確でしょう。

 まあ、新奇なことを言いたいのは表現者の本質ともいえるでしょう。杜牧之が好んで歴史のifを言いたがるのも常識を覆そうとしているようです。名句には人の意表に出でて従来の観念を打ち壊すものも少なくない。
 中で私が「先を越された」と思ったのは王安石「明妃曲」の二番目の詩。(私の読んだのは朝日文庫版「中国古典選33 宋詩選(上):入谷仙介」でです)
 七言古詩の七聯目、「漢恩自浅胡自深、人生楽在心相知」という句は凄いなと驚きました。
 王昭君が画家に醜く描かれたため、匈奴のもとに降嫁させられた故事が題材です。私も、賄賂をとるような邪まな人間は匈奴にはいないから、異郷の地でも王昭君は結構幸せだったかもと言う趣向の詩を作ろうかと漠として思っていたので、宋代に自らを相対化したようなこの詩句には驚かされました。
 愛情の普遍を捉えたその精神の自由さとともに、新奇なことを詠おうという表現者の気骨も感じました。

 漢詩を作ることとは、自己表現でもありますが、私の場合それ以上に漢詩を作ってきた先人への共感の表明と、漢字文化に連なっている日本人としての自己確認です。
 好んで現代のことを詠おうというのは、変わったことを言って年配者の目を白黒させたい、器用に言葉を操って受けを狙いたいという狂言綺語への欲求もありますが、漢詩の表現力への信頼もあります。

 もとよりなかなか実際の作はできません。「国家安康」に難癖をつけた歴史上の悪役、金地院崇伝建立の寺に行って、「名僧は衆生の財を集めるけど、政僧は権力者の富を善用する」と書きたいとか、『なごり雪』の中のフレーズを「璃窓、朱唇動く、将に恐れる別語を発するを」と翻案するとか、仕掛け品はたまる一方です。
 いつか投げ込み寺、浄閑寺に行って「遊女達は我が母、祖母なのだ」と詠う詩は是非作りたい。
 このホームページには斬新な作を寄せる人が多い。そうして新奇な詩想を書くことで、漢詩が現代に生きている文芸形式だと言うのを実証する企図に小さな一片をくわえたいと思っています。























「鮟鱇さんとY.Tさんのお手紙」・・ (10/29)

 今年度の投稿コーナーでの、Y.Tさんの「林彪」と、鮟鱇さんの「蝉」の二作、お互いの詩への感想をお手紙で交換なさったのですが、お二人の許可を得て、ご紹介させていただきます。
 相手の詩への感想から、自作への思いまで、皆さんの参考になると思います。




Y.Tさんから鮟鱇さんへの感想です。

 鮟鱇 先生 Y.T.です。

 先生の今回の玉作 「蝉 其一」大変面白く読ませて戴きました。一読、李清照「聲聲慢」を想い浮かべました。
 しかも先生は畳字を使って単に意味だけでなく音まで表現していらっしゃる。これは凄いと感心しました。
 此までも先生の機知あふれる作品に感嘆していましたが、大体、私自身が畳字好きなので今回の詩は特に面白く拝読しました。

 これからも、是非、こうした作品を読ませて下さい。

2002.9.16                    by Y.T





鮟鱇さんから、Y.Tさんへのお返事です。

 Y.T先生
 鮟鱇です。拙作にご感想を寄せていただきながら、御礼、大変遅くなりました。
おわびいたします。

 小生、ご感想をいただき、大変勇気付けられております。とりわけ李清照に触れていただいたことには、私も「声声慢」のファンでありますので、同好の方に出会った喜びがあります。
 作詩の動機は、ミンミン蝉の声を音写してみようと思ったのが最初ですが、ほぼ同時に「声声慢」のことが頭にありました。
 そして、詩想の深さでは「声声慢」にはとてもかなわないから、「声声慢」ではなく絶句で書くことにしました。
 単なる思い付きで書くことと、李清照の孤独の深さとの違いがあります。

 さて、先生の玉作「林彪」、詠史の詩に佳作がないなかで秀眉のものと小生は思っています。  とりわけ、冒頭の4句、「建国元勲遍災禍,獣盡良狗竟亨也。林彪蓋識先制人,欲抜一毛簒天下。」は、単に登場人物の歴史的事実化したことがらの凡庸な解釈に留まるのではなく、権力のなかで生きることの恐怖や欲望が洞察されて書かれており、ノンフィクションを読むがごとき迫力があります。

 「欲抜一毛簒天下」。この句の魅力は、詠史が陥りがちな客観写実の三人称的世界から、人間らしい感情を帯びた一人称的世界への深化に成功していることにあるように思えます。

 古詩の作法をめぐっては議論もあるようですが、読者はそういうことよりも書かれた内容そのものを読むものと思います。
 ただ、韻を換えれば当然書かれる内容も変わるでしょうから、それが詩の深化に及ぶのであれば書き直しの意味もあると思います。
 また、さらに長い詩に書き加えた場合に同じ韻目の繰り返しの効果も変化していくと思います。たとえば、さらに一連を加えて冒頭と同じ韻(上声二十「煤v、二一「馬」の通韻と下平声六「麻」の押韻)にしたらどうなるのか、など小生なりに勉強させていただいております。

 小生は、古詩は4句ごとに換韻するのが基本、ぐらいのことしか知りません。しかし、玉作は、宋詞や元曲の韻の分類法に照らしとても興味深いものです。
 宋詞でも元曲でも、上声二十「煤v、二一「馬」と下平声六「麻」、上声四「紙」と上平声四「支」とは、同じ韻目に属しています。同じ韻目に属したうえで、平仄を別にしています。
 そして、特に元曲では、その平仄を同韻として扱う傾向が顕著です。とすると、玉作は4句ひとくくりではなく、8句ひとくくりの構造になっているように見えてきます。
 古詩でこれを試みられることは、小生には新しいことで、先生がこれを今後どのように発展させていかれるのか、とても興味があります。

  今後ともよろしくお願いいたします。

2002.10.14                 by 鮟鱇




Y.Tさんからのお返事です。

 鮟鱇先生
 Y.Tです。

 拙作「林彪」の押韻に就いて、丁重なご教示を頂き、有難う御座いました。また御過褒にも預かり恐縮しております。
 「欲抜一毛簒天下」に良い所があれば、それは総て楊朱の言葉にある訳で、相変わらずの借句癖、お恥ずかしい限りです。

 詩・詞に止まらず、元曲にまで亙る先生の蘊蓄の深さ、博さには何時も只、驚嘆です。
 元曲や宋詞では上声と平声も通韻したとの事は大変興味深く思いました。

 長い古詩、例えば「長恨歌」は、冒頭の八句を入声十三(職)で押韻し、次の八句は平声ですが、上平声四(支)と下平声二(蕭)で換韻しています。
 更に中程の、「歸來池苑皆依舊/太液芙蓉未央柳」 は二句で換韻ですが、「舊」は去声(宥)、「柳」は上声(有)です。これらも唐代では通韻していたのでしょうか?
 それとも、長い詩なので、中程でわざと調子を乱して面白くしようとした・・・?
 そんな事を考え、また、古詩に興味を募らせています。

 「声声慢」は無論、古今の傑作ですが、「蝉」も先生ならではの機知に富んだ佳作であると感心しました。
 「悶悶亦綿綿」からは蝉の鳴き声と共に、遺る瀬ない夏の午後の蒸し暑さが、よく表されています。
 李清照は私も最も好きな詞人です。生来、怠け者で未だ試みてはいませんが、何時かは「如夢令」くらい書いてみたいと思っております。

 今後とも宜しくお願い致します。

2002.10.29                  by Y.T






















「読者からの質問二つ」・・ Tさん Mさん(10/5)

ホームページ宛に質問が二編届きました。
もしご承知の方がいましたら、お教え下さい。

        手紙はこちらを  クリックして下さい。

****************** 鳥取県のTさんのご質問 *************

先日、月見のお茶会で「秋月照清輝」という掛け軸を飾りました。
ところが誰も読むことが出来ませんでした。

どなたか、この漢文の読み方をお教えいただければ幸いです。
また、もし有名な漢詩の一節でありましたらその事についてもお教え下さい。

うーん、これは何から取ったのでしょうね。
いくつか調べましたが、思い浮かびませんでした。すみません。

 「秋月照清輝」の読み方については、普通ならば「秋月 清輝を照らす」だろうと思います。ただ、「清輝」は普通月の光のことですので(杜甫の「月夜」が有名ですね)、そうなると、「秋の月が月光を照らす」と変なことになります。
 「清輝」を月光ととらないで、文字通りの「清く輝く」と解釈すれば、「秋月 照りて 清く輝く」と読めますが、あまり漢文的ではないと思います。「秋 月照(月の光の意味) 清く輝く」とも読めないことはないですが、これも無理矢理という感じですね。

 もう一つの解釈は、「清輝」を月の光ではなく、「露」と理解して、「秋の月が清く輝く露を照らしている」とすることは可能です。

 詩全体の中の一節であるならば解釈は限定されてきますが、このような一句だけという場合には確定が難しいですね。


      (主宰よりTさんに送った手紙の部分です。どなたかご存じの方、教えて下さい)

****************** 愛知県のMさんのご質問 *************

「昔人対月汲」で始まる漢詩の作者と題を教えてください。





















「古詩の換韻の規則は」・・ Y.T さん(9/8)

 2002年の投稿詩141作目のY.Tさんの林彪(追加)で、換韻したけれど同じ韻目であるという点について、作者のY.Tさんから質問がありました。
 私の分からない部分もありますので、謝斧さんに助けていただきました。質問とお答えを載せておきましょう。

****************** Y.Tさんのご質問 *************

 古詩の韻が分かりませんのでご教示下さい。

 @同じ韻を繰り返すのはいけないのでしょうか?長い古詩では同じ韻がよく出ますが?

 A亦、古詩では二句で換韻している例がよくありますが、それにはどんなきまりがあるのでしょうか?

 B又、古詩では平韻一解の次に更に平韻で換韻する(仄韻でも同じ)例もよく見ますが、これは如何でしょうか?

 C尚、古詩では屡々通韻が使われますが、BA□Aの外に、BB□AやAB□Aとする場合がありますが、此の二つも通韻でよいのでしょうか?
 更に一歩進めてCB□Aと言う通韻も使ってよいのでしょうか?

****************** 私の考えるところでは **************

 謝斧さんも感想で書かれていますが、離れた解で同韻となるのは例はいくつもあると思います。しかし、今回のように連続して二解を同韻というのはどうなのでしょう。
 ただ、古詩の場合には、一つの解の句数も不定のようですから、二解同韻と見ずに長い一解と考えることもできるかもしれませんが・・・・

 また、Aについては、これも解の長さのことだと思いますが、私の印象では「きまり」は無いと思いますし、Bのご質問のような、平韻の次は仄韻と交互に使うというような決まりは無いと思っています。

****************** 謝斧さんのお答えは **************

 押韻が第二解と同じというのはどうなんでしょう。私もよくわかりません。
 同じ詩でも、長編ならば同じ韻を繰り返し押韻した例もありますが、その場合でも、連続して使用した例は知りません。

 私の考えでは、普通は韻を換るようにして作りますが、歌行の面から考えますと、描写の対象、背景或いは、感情が激動し気分が変化するときの転換としての効果などは、前韻がすでに違っていますので、問題なく、大過はないと考えます。
 然し敢えて同じ韻を使用しても、効果は無いようにおもえますし、韻を換えた方が調子がより複雑になるとおもいます。敢えて韻を換えた方が無難なようにおもえます。
    (ここまでの部分は、投稿詩への感想として9月15日付けで、既に掲載しました。)

 Aについては、七古換韻は正格ですので、いろんな方法があるようです。
 逐次換韻型も大別して 章で換えるものや、解でかえるもの(逐解換韻型)と段で換えるもの(逐段換韻型)があります。
 「兵車行」などは、新歌行と称して平韻を連続して押韻しています。「蜀道難」もおなじです。

 2句で換韻 (立部肢 白楽天)
 3句で換韻 (走馬川行奉送封 岑参)
 排律型換韻 (送孔巣父謝病 杜甫)

などがあります。
 以上の型を混用しても可(琵琶行 白楽天) なので、逐次換韻型では自由に作るべきと考えます。
 韻も平水韻だけでなく、通韻は 東冬江 だけですが、 叶韻では 東陽庚蒸語宋絳江 、紐韻では 東菫送屋 なども通韻としています。
 これに現代韻を加えている人もいますが、そうすればなお作りやすくなります。

 私は七句の定形で平仄を交互にする、四句で換える、逐解換韻型だけを使用することにしています。韻は平水韻だけとしています。平仄や粘転は意識せず、自由につくることにしています。
 (老婆心ながら、七古の六句形式などの短詩形は、三四句を対句にするなどが必要で、半律でかなりの力量を有するものでないと作るべきではないとかんがえています。
 その形に見合う内容にしなければなりません、今体の声律に合わせて、古詩の音節をとるところは、七絶の仄韻詩に難しい所はにていますが三四句を対句にしなければなりません。)

2002. 9.20                by 謝斧






















「『忠言逆於耳而利於行』についての質問」・・ Fujii さん(9/9)

**************************** Fujiiさんからのお手紙 **************************

 私は71歳の田舎の老人です。
 漢詩を独学で勉強しています。度々壁に突き当たります。
 そこで全くの初歩の質問で申し訳ありませんがお答えいただければ勇気百倍人生が明るくなると思います。宜しくお願い致します。

[質問]
「忠言逆於耳而利於行」(忠言は耳に逆らへども行ひに利あり)という文章の中で「利あり」について文法的に説明をお願いします。

 例えば、「杜甫詩聖」という文があります。
 この文は、杜甫(名詞) 詩聖(名詞)と、何れも名詞ですが、漢文には「名詞+助動詞(なり)」で述語として使うことが出来る句法があり、「杜甫は詩聖なり」と読んで一応納得できると思います。
 そこで、先の「利あり」についてですが、これは「名詞+自動詞」と思いますがそのような句法がありましょうか?
 もし無いのならば「利す」と呼んでもかまいませんか?

**************************** 私からの返事です **********************************

 今晩は
 漢詩ホームページ主宰の鈴木淳次です。

ご質問の件ですが、私も中国語の専門家ではありませんので、そうした方面からの答はできません。日本人としての漢文への対応と言うことで答えさせていただきます。

 まずお尋ねになった例文ですが、文の構造から見れば、次のようになります。
    忠言=逆於耳
       =利於行

 つまり、対句になっているわけで、となれば、「逆」「利」も文法的な役割は同じでなくてはなりません。
 「逆」「利」も名詞としての用法もありますが、ここでは用言(述語としての役割)と見ることになるでしょう。

 どのように読むかを考えるときに、仰るような「名詞+自動詞」という見方よりも、文の中での役割を考えるべきだと思います。
 つまり、動詞として読むべき時には、それに適するヤマトコトバを当てはめるわけですし、形容詞としての役割をしているのならば、それに適する読み方を探す、そのようにして漢文の読み方は決まってきたのだと思います。

 「杜甫詩聖」についても、「詩聖」を「名詞+助動詞」として読んでいると言うよりも、主語+補語(述語)として読むためには、「なり」をつけるのが適当と判断したからです。
 ですからこの文は、(内容の真偽は問わないでいけば)「杜甫は詩聖たり」「杜甫が詩聖ならむ」「杜甫も詩聖ぞ」「杜甫こそ詩聖」と様々な読み方が可能になります。もっと極端にすれば、「杜甫は詩聖たらしむ」のような使役形に読んでもよいわけです。
 その可能性の中から、最適なもの、事実関係で間違いのないものを選ぶのが読み方の基本でしょう。

 例えば、「天雨」という二文字を読むのに、単なる熟語と見れば「天の雨」とも読めますが、一つの文として「天」を主語、「雨」を述語と見る時には、「雨」を動詞として読まなくてはならず、その時には、「アメフル」とする例(韓非子だったでしょうか)もあります。

 さて、問題の、「利す」と読めるのか、ということになりますが、他動詞用法である「利す」という読み方は「行いを利する」とすれば可能ですが、「於」の助字にそのような目的語を示す役割があるかどうかが鍵になります。ひとまず辞書を調べたところではよさそうですから許されそうです。
 次に考えるのは、文の中での役割になります。対句になっていた「逆於耳」を、他動詞的に「耳を」と読もうとすると、「逆」をどう読むべきでしょう。「サカシマニス」くらいが想定されます。
 ま、それでも良いわけですから、本文を読めば、「忠言は、耳を逆しまにし、行を利す」となります。どうしても読みたければ構いませんが、分かりにくい日本語になります。
 わざわざそうする必要はあるでしょうか。
 つまり、「文法的に可能」ということだけではなく、「解釈に無理がない」ことと、「読み下しやすさ」も読み方を決定する要素として大きいと思っています。

 「利」「利あり」と読む句法はあるのか、という点では、確かに意味としては「有利」とすべきでしょうが、「有」が省かれたと考えれば句法としては認められるものでしょう。


2002. 9.15              by junji























「父の遺墨について」・・ 房徐齢 さん(8/2)

八月に房徐齢さんからお尋ねがあったのですが、私には分かりませんでしたので、皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

***************** 房徐齢さんのお手紙です *********************

 房徐齢です。  八月になったので、それらしい亡父の遺墨を飾ることにしました。

   AB空緑C
   流水古松間
   山僧茶三畝
   漁父竹一竿

 というのですが、A、B、Cが読めません。
多分それぞれ「経」「都」「裏」 のように見えますが、
それでは意味が通じません。
 この詩の出典と読み方をもしご存知でしたら教えてください。


**************************************************


 ということですので、この詩をご存じの方、ABCが推測できる方はお手紙を下さい。


       手紙はこちらを  クリックして下さい。






















「蘇軾の『春江晩景』について質問」・・ T.T さん(7/29)

7月末にお手紙をいただきましたので、私の返事と一緒にご紹介します。

*************** T.Tさんからのお手紙です *********************

 突然失礼ですが、今下記の漢詩に意味が分からなくて、困っています。
 蘇東坡の詩に「竹外桃花三両枝,春江水暖鴨先知」がありますが、それが少しは分かりますが、
もしお時間がございましたならば、是非教えていただきたいと存じます。


**************** 以下が私からの返事です *******************


 漢詩ホームページ主宰の鈴木淳次です。

 お尋ねの詩ですが、蘇軾(蘇東坡)『恵崇春江晩景』(恵崇の春江晩景)という詩の前半です。恵崇は宋の画家ですが、彼の描いた「春江晩景」という画に添えた詩ですね。

   竹外桃花三両枝    竹外の桃花 三両の枝
   春江水暖鴨先知    春江 水暖かにして 鴨先ず知る
   蔞蒿満地蘆芽短    (ろう)蒿 地に満ちて 蘆芽短し
   正是河豚欲上時    正に是 河豚(ふぐ)の上らんとするの時

 意味は、
   竹やぶのそとに、桃花の三本二本と出ている
   春の川は水もぬるんで、鴨が真っ先にそれを知ることだろう。
   しろよもぎは岸辺を覆い、芦の芽も短く生えだした。
   ちょうど今は 河豚が揚子江に上ってくる時期であるよ。

というもので、季節感とそれを示すに結句の「ふぐ」の遡上を詠った点で、面白い作品です。特に前半の情景描写が有名ですね。

****************** お返事もいただきました *********************

 蘇軾の漢詩に関する先生のご返事が頂きまして、先生の漢詩に関する博識に感服しております。
今まで意味がわからなかった詩がやっと意味がハッキリとわかるようになりまして、大変嬉しくおもっております。
 有り難う、御座います。























「四時読書楽の訳」・・ W.I さん(6/1)

 先月の初めのことでしたが、川崎市の方からお手紙をいただきました。それは、
  朱熹の「四時読書楽」の全体の訳を教えてほしい
というものでした。
 朱熹「四時読書楽」は、春夏秋冬と四部からなるのですが、日本で紹介されている本などを見ても春の部が訳されているくらいで、全体を読む機会は少ないかもしれません。でも、こういう場合にはいつも、どうして読みたいのか理由を尋ねたくなるのが私の常、質問の手紙を送りました。
 いただいたお返事は次のようでした。


 ワガママなお願いで本当に申し訳ございません。

 実は私の小学校時代の恩師(福岡在住、82歳)から、扁額に書かれたこの漢詩の意味を調べて欲しいとの依頼と受けました。私(44歳)が小学生時代ということはもう30年以上も前の恩師です。
 この先生は長崎鉄脇先生といい、生徒を成績等で差別せず、指導は厳しかったものの非常に人気のあった先生です。
 担任だったのは4年〜5年生でした。本当は6年生までこの先生が担任の予定でしたが、私の方が6年生になる直前に父の転勤のため、鹿児島に転校しました。しかし、これで縁は切れずに不思議なことに今日まで続いています。
 現在も学級通信ならぬ「徹玄だより」というものをハガキに小さい字でビッシリ書いて、月に一回程度送ってきます。
 また、夫婦で教師をやっていらっしゃって、奥さん先生は私の姉の担任でした。

 2月の「徹玄だより」に扁額に書かれたこの漢詩のことが触れてありました。
 この扁額は昭和15年に小学校の図書館を建てた時に、篤志家が寄付されて、その後、図書館を建てた当時の校長先生が譲り受けたそうです。その校長先生がお亡くなりになった時に、私の恩師が未亡人から「遺言です」と譲り受けたそうです。

 インターネットを駆使して?いろいろ調べてみたのですが、これ以上調べる手だてがないのでお願いした次第です。

 「四時読書楽」は、日本では朱熹の作とされているようですが、中国(台湾)のホームページを見てみると宋の翁森の作となっています。
 春、夏、秋、冬と4番まであるのですが、1番は日本のホームページで調べて意味はわかりましたが2番以降が分かりません。2番(第2首)以降の意味がわかればありがたいのですが。

 お忙しい中、ワガママなお願いで申し訳ございませんが、私の老恩師のためによろしくお願いします。

 ということですので、「老恩師のため」と言われては頑張らなくてはいけません。それに、読む機会の少ない方もおられるでしょうから、紹介のためにも訳してみようかと思いました。

 W.Iさんに送りましたのは、以下のものです。題名をクリックしていただければ表示されます。訳には今回はやや不安もありますので、間違いなどがありましたら、是非ご指摘下さい。

     四時読書楽

 尚、作者についてですが、この詩は朱熹の全集に載せられていないということから、翁森(おうしん、字は秀郷)の作ではないかとも言われています。






















「Shigin」・・マヨっちさん(4/23)

 「桐山堂」No.40で教えていただいたマヨっちさんの英語弁論大会での原稿を送っていただきました。
 英文のまま、皆さんにもご披露しましょう。

『Shigin』

 Let me introduce to a part of Japanese culture. Do you know about Shigin? Perhaps, this is the first time you've heard the word, because many Japanese people don't know about it. I heard of six years ago.
 Shigin is a kind of song, which has been sung in Japan for a long time. It's similar to folk songs and to the canzone style from Italy. When I first heard of it, I thought, "How wonderful it is! I didn't know humans could sing this loud!"
 When we sing in chorus, we are told to use our head voices. The way to sing sigin is very different from this. We have to sing each word loudly from our diaphragm, down in our stomach. Maybe it's equivalent to doing sit-ups over again. I began to practice this style of singing. At first it was very hard for me. After singing only one song, I wasn't able to sing the next day because my voice changed so drastically and was tired. I thought, "I want to give up. I don't want to sing another shigin ever again."
 However there are many benefits from singing shigin. For example, many older people are happy when I sing it for them. Sometimes I go to nursing homes to sing shigin. Second, singing shigin can give us longer life. Most of the people who sing this style are more than 80 years old. Sixty and Seventy year old people look like high school students. How would I look? Anyway, I think I'll keep on singing shigin, and I want to live to be 120 years old.
 As a matter of fact, shigin is kanshi, a Chinese poem, which has been translated into Japanese and put to Japanese rhythm. The best I've sung shigin since 1996, when I started, was at school last year. I wrote one shigin, as my project for our General Studies class at school. Making it was very difficult. I thought, "Why does kanshi have so many rules? I don't know how to do it !!!"
 I was worried at that time because if I didn't use the rules, I wouldn't be able to create a good kanshi. However, when it was completed I was very happy, and I sang it in public. Many Omura Junior High School students who heard it then didn't know about shigin. I'll never forget this experience! Allow me to sing a bit for you.



2002. 4.23                  by まよっち






















「マヨっちさんからの近況大報告」・・マヨっちさん(3/15)

高校受験を迎えていたマヨっちさんから、お手紙をいただきましたよ。

 お久しぶりです。マヨっちです。
 希望の高校(学科)に推薦入学できました!!

 やっと漢詩が作れる・・・ということで、今度作って送信します。
 しかし、ひとつ不安があります。漢詩を投稿する方々は、私では読み方さえ知らない漢字を使っておられます。それに比べ私の漢詩ときたら・・・。今までの詩の作り方でオーケーなのでしょうか?ちょっとした詩語集は持っているのですが、本格的なものは、どうしても手に入りません。

 話は変わりますが、先日、英語の弁論大会で、詩吟&漢詩について弁論し、ついでに詩吟を吟じて優勝しました。これからは国際化の時代だから、これからはこういう変わった形で詩吟や漢詩を日本人や外国の人たちに伝えていくことが出来たらなーと思っています。

 春からは、理系の学科に通うことになりますが、漢詩も作り続け、junji先生にこれからもお世話になろうと思っていますので、宜しくお願いします。

2002. 3.15                 by マヨっち





というおめでたいお手紙をいただき、私が送った返事です。

今晩は
漢詩ホームページ主宰の桐山人です。

おめでとうございます!!
 実は、そろそろかな?、まだかな?と吉報を待ち望んでおりました。うれしいですね。がんばりやのマヨっちさんだから、きっと大丈夫だろうと思ってはいましたよ。
 では、これからジャンジャンと漢詩が送られてくるのだろうと、期待をしますが、でも、勉強の方もしっかりやって、りっぱなお医者さんになってください。

 さて、合格祝いということで、では、私から漢詩の「詩語集」をプレゼントしましょうか。河井酔荻編集の「詩語辞典」が使いやすいと思いますので、今度送りましょう。
 でも、漢詩は難しい漢字を使うことが良いわけではありません。できるならば誰にも見てすぐに分かる漢字で書ければ一番良いと思います。ただ、どうしてもあることを表現するのに必要な漢字というのがあるわけで、そういう場合には頑固になっても構いません。
 自分が知っている字はついつい使いたくなるもの、それでも自分がよく知らないような字は使うべきではないと思っていますよ。だから、マヨっちさんはマヨっちさんの作り方で十分良いものが作れますし、実際良い詩だと思います。
 マヨっちさんがこれから漢詩や詩吟を勉強していって、漢字についても沢山のことを知っていった中で、自分もこの字を使ってみたいと思った時に使ってみれば良いと思います。
 詩語集は、そうした語彙を増やすための勉強道具だと思っていると良いですよ。

 英語の弁論大会の話はすごいですね。まさに日本に於ける国際化を象徴するようなこと、弁論大会の原稿があったら是非読ませて下さい。皆さんも読みたいという方は多いと思いますよ。

2002.3.16                 by 桐山人