2004年の投稿漢詩 第121作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-121

  寄害膝友     膝を害せる友に寄す  

青青樹葉映澄空   青青たる樹葉 澄空に映じ

頻憶倶遊嫩緑中   頻りに憶う 倶に嫩緑の中に遊びしを

遙慮頃来君害膝   遙かに慮う 頃来 君が膝を害せるを

何吾独可楽香風   何ぞ吾が独り香風を楽しむべけんや

          (上平声「一東」の押韻)

<感想>

 時間的な流れがつかみにくいのですが、
ふと見ると、木々の葉も青々として、空も澄んでいる
頻りに思い出すのは(昔)一緒に芽生えの春に遊んだこと
あなたがこの頃膝を痛めたとのこと、遠く離れていても気に掛かります。
どうして私一人が、春の風を楽しむことができましょうか
 という意味でしょうか。

 分かりにくくさせている原因は、承句の「嫩緑中」でしょう。この「嫩緑中」がかつての景色なのか現在の景色なのか、作者としては連想として整理できていても、読者には分かりません。
 書き下しのように、昔遊んだ頃が「嫩緑中」だとしても、ここで書く必要は無いでしょう。「憶」と書くだけでも意味は十分伝わるはずですから、現在の風景に限定した方が良いでしょう。

 承句と転句では書き出しが「頻憶」「遙慮」と文構造が同じですので、変化が欲しいところでしょう。

 結句は、まず「吾」の一人称は不要です。また、「可」も、可能の意味を入れない方が良いでしょう。
 それよりも、承句の関わりで行けば、爽やかな空の下、昔楽しんだことを思い出している作者は現在の景色を既に楽しんでいるように思えます。ここは、「私一人が楽しんで申し訳ない」という結末に持って行く方が自然ですので、結句を練り直したらいかがでしょうか。

2004. 6.22                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第122作も 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-122

  緑雨後        

夜来雨過洒疎林   夜来の雨は疎林を洒(あら)いて過ぎ

草樹生生緑漸深   草樹生生として緑漸く深し

光彩葉間揺若躍   光彩は葉間に揺らいで躍るが若し

遍盈朝気動詩心   遍く朝気盈ちて詩心を動かす

          (下平声「十二侵」の押韻)

<感想>

 転句の「揺若躍」の比喩は、比喩としては面白くありません。「揺」「躍」とでは違いが明確ではなく、単に言い換えただけという感じですから、「若」を使うまでも無いように思います。
 もっと読者をドキッとさせるような比喩が欲しいですし、ここにこそ詩人の工夫のしどころがあるわけです。要のところをサラリとしてしまったので、全体的にもピントが甘く、「動詩心」に共感にまで進みにくくなっています。

 結句は「遍く朝気を盈たし」と読むべきでしょう。

 今回の詩は、全体的にバランスの取れた句の構成になっているのですが、「躍」一字が詩を軽くしてしまったように思います。

2004. 6.22                 by junji


坂本定洋さんから感想をいただきました。

拝啓。柳田先生。
 私が日ごろより目の仇にしている「基準の定かでない形容詞および副詞」の問題から入ります。
 先ず起句の「疎」ですが、これは間が空くにせよ、転句で「疎林」とはこのようなものであるとしっかり説明がなされています。
 承句「生生」「深」ですが、これには「香vと評価基準が与えられ、それをより深める働きをしています。
 つまる所、この攻め口からは私ごときが付け入る隙が無いことを申し上げておきます。どの形容詞も言いっ放しにはなっていません。

 鈴木先生は転句の比喩が面白くないとご指摘ですが、私はこれぐらい丁寧で誠実な書き方ならば、ドキリとさせるような比喩など必要無いと考えています。あえて比喩としようとしているから引っかかるのであって「揺亦躍」で十分かと思います。この風景の中にいつまでも浸っていたいと願う読者は少なくないはずです。私もその一人です。

 それだけに結句は残念です。誰も「詩心が動く」から詩を書くのであって、これは書くに値することなのでしょうか。鈴木先生が、これにつなげられる何かが欲しいと感じられたのはもっともと思います。
 しかし、私は転句でどのようなドキリとする比喩が与えられたところで無理だと思います。これが起句ならば「俺の勝手」と主張して良いことです。しかし、このような素晴らしい風景が示された後とあっては、作者でもそれを汚すことは許されないのです。
 とは言え、ここまで書いて後が続かないと言うのも無理のない話。こんな時にしばしば有効なのは起句と結句の転置なのですが、それも一筋縄でいきそうもなし。苦し紛れで私なら「値千金」とするのですが、やはりだめですね。

 とにもかくにも、よろしく再考お願い申し上げます。これで終わりになってしまっては本当に惜しいし、本当にくやしいのです。柳田先生の今後のご活躍、期待して止みません。

 敬具

2004. 6.24               by 坂本 定洋


柳田 周さんから推敲作を送っていただきました。


  緑雨後        

夜来雨過洒疎林   夜来の雨は疎林を洒(あら)いて過ぎ

草樹生生緑漸深   草樹生生として緑漸く深し

光彩葉間如散玉   光彩は葉間に玉(ぎょく)を散らせるが如し

朝氛願作小飛禽   朝氛願わくは小飛禽と作(な)らん























 2004年の投稿漢詩 第123作は山梨県の gao さん、40代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2004-123

  柳暗花明        

訪来禹域峡中天   訪ね来たる 禹域 峡中天

行盡匡廬墟里煙   行き盡くす 匡廬 墟里煙

山郭水村塵境外   山郭 水村 塵境外

桃紅柳緑菜黄鮮   桃紅 柳緑 菜黄 鮮やかなり

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 三峡下りから、廬山へ、さらに江南の好風景へと長江下りの旅は、楽しいものでしょう。

<感想>

 「柳暗花明」と言えば、宋の陸游の「遊山西村」ですね。春の祭りの頃合いの農村のおだやかな風景を描いた名作ですので、まずそのイメージが浮かびますね。

 「禹域」「中国」のことを指しますが、広い視野から「峡中天」、そして「匡廬」「墟里」と進んで、鳥瞰からズームアップしていくような遠近感がよく表れているでしょう。
 具体的な景観が目に映るのは転句からでしょうが、結句の「紅」「緑」「黄」の色彩の配置も面白く、ぐんぐんと引き込まれていくようなスピード感のある詩だと思います。
 最初に書きました「柳暗花明」が最後まで生きていて、統一した風格を保っていますね。

2004. 6.22                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第124作は 登龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-124

  初夏閑居        

一庭午景映窓紗   一庭の午景窓紗に映じ

新緑鮮妍勝萬花   新緑鮮妍萬花に勝る

最愛夏初沖澹景   最も愛す夏初沖澹の景

榻移竹裏試新茶   榻を竹裏に移して新茶を試む

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 庭の昼時の景色が薄絹を張った窓に映る
 新芽の緑が鮮やかで美しくすべての花に勝る
 最も愛す初夏のあっさりした景色
 腰掛を竹の陰に移動して新茶を試みる

<感想>

 初夏の午後、鮮やかな緑に囲まれた中での一時、目に浮かぶようですね。
ただ、「新緑」「萬花に勝る」というのは、どうでしょうかね。どんな花よりも、と言われるとちょっと抵抗があるように思います。

 もう1点は、「新緑」「新茶」に見られる「茶」の字の重複です。
 どちらの言葉も、詩の情趣を決定づける生きた言葉ですから難しいところなのですが、だから尚更重複は避けたいと思います。結句の方を、オーソドックスに行けば、「静煎茶」でしょうか、あるいは「一杯茶」に換えてみるとどうでしょうか。  転句の「沖澹」は、「言葉や趣があっさりとしている」という意味です。

2004. 6.22                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第125作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-125

  送故人        

長生必老髪鬆鬆,   長生きすれば必ず老いて髪は鬆鬆,

頻送故人墳地東。   頻に故人を送る 墳地の東。

血涙乾涸懷旧淡,   血涙乾涸して旧を懐うに淡にして,

無言戀慕落暉紅。   言なく恋慕す 落暉の紅きに。

          (普通話韵十七東の押韻)

<解説>

 普通話韵で書いています。
 転句「涸」は平水韻では仄声ですが、普通話韵では平声になります。
 結句「落暉紅」は、「夕陽紅」と書きたかったのですが、「夕陽紅」の声調は1声2声2声で、普通話韻では平声の下三連となってしまいます。
 「夕陽紅」はわたしの好きな詩語ですが、普通話韻の詩では使えません。こちらを立てればあちらが立たずです。

 さて拙作、「老い」をどう受け入れるか?をテーマにしています。
 わたし自身は、人は生き甲斐があって生きるにあらず、生かされて生きるものと考えています。そこで、命ある限り生きなければならない。ならば、できれば人より長生きをして、できるだけ多くの詩を書きたいと居直っていますが、その場合、わたしは、どんな老人になっているだろうかと夢想しながら書いたのがこの詩です。
 鈴木先生、この作は、まあそんなところのものです。

 [語釈]
 「髪鬆鬆」:頭髪がまばらなさま。

<感想>

 この作は、以前の鮟鱇さんの2004年第72作、「人踏影」の掲載の後、送られたものです。

 「老い」を考えた時に、「死」の現実性から離れることはできません。外見や病気などから知らされる肉体の衰え、そして精神活動の停滞による気力や心の衰え、これらは鮟鱇さんが今までも詩の主題として何度も書かれてこられたことですね。
 そして、だからこそどう生きるか、ということも詩の主題であると同時に私たちの人生の主題でもあります。「夕陽紅」の具体的なイメージは、夕陽がただ沈むのを待つだけの存在ではないことを示して、共感できますね。

 承句の「墳土東」は、どうして「東」なのか、ここは分かりませんでした。

2004. 6.24                 by junji


坂本定洋さんから感想をいただきました。

 形容詞および副詞の取り扱いは見事です。舌を巻きます。

 私は自分の詩に課している基準として「基準の定かでない」「形容詞」および「副詞」は七言絶句では「二語」までとしています。基準が定かでないのですから、度を過ぎた用い方をすれば、訳がわからないものになるのは自明の理です。
 鮟鱇先生のこの詩においては、「長」なれば「老」、また「長」にして「老」なれば「頻」と、論理的にしっかりと筋が通っています。さらに「老」に対して「髪鬆鬆」と程度を説明しています。
 これらの形容詞や副詞は並列でなく論理的に直列で置かれていると言えます。それでも基準の定かでないものは残りますが、これだけの数の形容詞、副詞を「一解」とみなすには十分と考えます。残りは転句の「淡」ですが、私の勝手な基準で申し訳ありませんが、(この点に関しては人並みより厳しいものです)許容範囲に収まっていると見ることができます。

 この論理的直列と言う見方は、私が鮟鱇先生のこの詩に接して初めて知ったことです。良い勉強になりました。ありがとうございました。

 鈴木先生ご指摘の「東」についてですが、名詩としての地位を不動にしている詩においても、単に韻の都合でこのように置いたとしか思えない例はいくらもあります。
 鮟鱇先生のこの詩は、作者の前に誰かの墓があって、その向こうに落日と言う構図が明らかに示されています。(落日は西にしかないのですから)なぜこの構図かと問われれば私には答える術もないのですが、私は随分良心的な書き方と受け止めています。

2004. 6.24               by 坂本 定洋

鮟鱇さんからお返事をいただきました。
坂本定洋さま

 鮟鱇です。
 作者にとってとてもありがたいご批評、ありがとうございます。
 「論理的直列」、わたし自身、明確にそのことを意識して「送故人」を書いたわけではありません。しかし、坂本さんに言われてみれば、わたしは、多くの場合、虚辞あるいは観念の論理的「直列」によって詩を書いていると思えます。しかし、その「直列」を明確に自覚していたわけではありません。作者のなかば無意識の書き癖を言語化する貴兄の明晰、それがわたしにとってとてもありがたいし、貴兄の言葉は、読者にとっての批評とは別に、作者にとってとても快い批評です。
 詩を書くにあたって明晰であること、あるいは明晰でありたいと思う願い、それだけは小生も日ごろ思っています。わたしの勝手な思い込みに過ぎないかも知れませんが、日本語には全部を言い切らないことを美徳とする美意識めいたものがあって、その隠された感性や言葉が削り取られた行間の余情に、詩情を覚える傾向があると思っています。
 そして、言葉を削り取ることと、言葉が足りないということは本来別のことなのですが、言葉が足りない状態の心のありように、「深い感動」の証左を見出そうとする美意識が、日本人にはあるように思えてなりません。日本人は深く感動すると、多くの場合、無言になります。そこで、詩を書いても、その無言の状態にできるだけ近い形で詩を書こうとします。俳句が多くの人に親しまれている由縁です。
 しかし、わたしは、それとは別の書き方をしようと思っています。わたしのなかの「無言」をできるだけ明確に言葉にしたい。言葉にすることによって、わたしのなかの「無言」を「わたし自身の言葉」で他者の耳にも具体的に存在するものとしたい、そう思っています。
 しかし、「わたし自身の言葉」、この言葉ほど嘘とまやかしで塗り固められた言葉はありません。なぜなら、「言葉」は、感性と天才に富んだ一個人に属するものではなく、万人の凡才に帰属するものだからです。万人の凡才に帰属言葉を用いるなかで、わたし個人に属する「無言」をどう表現するか。わたし自身の感性を信用できるか。私自身の「無言」が求める「わたしの言葉」を信用できるか。答えはノーです。そこで、感性ではなく理性で書く、言葉のハンドリングのうえで重要なのは論理的に明晰であることだろうと小生は思います。
 坂本さんの『「基準の定かでない」「形容詞」および「副詞」は七言絶句では「二語」まで』という言葉、なかば無意識の感性に従うのではなく、言葉の合理性を踏まえて詩を書く方法論のひとつに思え、小生、大いに共感しました。

 実はもう一点、坂本さんの言葉で小生、気がついたことがあります。
 詩を書くにあたって、それを一枚のスナップショットのように書くかビデオのように書くかという問題です。おそらく俳句はスナップショット、そして漢詩は、もちろんスナップショットでもよいが、ビデオのように書けるのではないかと思えます。
 空があり、山があり、川が流れ、鳥が鳴いているということを並列するだけでは、詩の全体は一枚のスナップに留まります。もちろんそういう書き方でも一枚の美しい絵葉書のような詩は書けるわけですが、空は空としてアップで切り取り、山は山として、川は川として、鳥は鳥としてそれぞれを孤立したもの、一枚の独立したスナップとして描いたうえで、その個々のスナップを一定の法則性をもって繋いでいく、そういう書き方をすれば、一編のビデオのような詩が書ける可能性があります。
 ただ、個々のスナップを一定の法則性を持たずに並べるだけでは、詩の全体はただバラバラな部分が雑多にあるだけのものになります。坂本さんのおっしゃる「直列」に心を配れば、それを克服でき、単なるスナップを連続性のあるビデオ画像のフレームの一枚一枚に変えることができ、繋ぐことができるのではないかと思えます。「一定の法則性」、ビデオ画像の場合、直前のフレームと直後のフレームは、ズレがあるがゆえに別ものではありますが、同じ対象を映しとっているという共通性があります。
 ズレと共通、貴兄がいう「論理的直列」とは、そういうものかなとも愚考しております。大いに「気付かされる」お言葉でした。
 ありがとうございました。

 最後に「墳地東」ですが、ご指摘のとおりここは単に韻の都合で書きました。墓場の東から夕陽を見れば、夕陽とわたしの間に墓場があることになるから、意味とか論理のうえでは一応許されるかなとは考えました。しかし、あえてそういうことを考えたということは、語感のうえで多少の違和感があってのことです。「東」という言葉には、「春」あるいは「朝」を連想させる語感があります。
 そこで、夕陽が出てくる場面の言葉としては、致命的にダメではなくとも、最適ではなかったかとも思います。
 最初に考えたのは「墳地風」。現代韻で「風」は「紅」「鬆」とは別韻(通用はできますが)ですので、「風」を「東」としたのですが、現代韻にこだわらずに、「風」にした方がよかったかも知れません。起句で「髪鬆鬆」といっているのですから、「墳地風」の方がなじんだかも知れません。

2004. 7. 7                    by 鮟鱇






















 2004年の投稿漢詩 第126作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-126

  清明掃墓        

倩女幽魂撫頭頂,   倩女幽魂 頭頂を撫でれば、

醉翁陰鬼吐春霞。   醉翁の陰鬼 春霞を吐く。

櫻雲盛涌風輕處,   櫻雲盛んに涌いて風 軽きところ、

墓地清明飛雪花。   墓地は清明にして雪花を飛ぶ。

          (普通話韵一麻 下平声六麻の押韻)

<解説>

 普通話韵で書いていますが「下平声六麻」押韻の詩としても通用するように書いています。
 起句は承句を対句としていますので押韻していません。

 さて、詩の内容ですが、墓地に咲く櫻の狂おしいまでの艶やかさを、わたしなりのイメージで絶句にしてみたものです。T.S.エリオットの「荒地」の一節を思い浮かべる方もおられるかとも思います。
 起句の「頭頂」は、醉翁の陰鬼の「頭頂」です。つまり、墓に眠る髑髏の頭のテッペンのつもりです。
 普通話韵に徹して書けば「頭頂」よりも「髑髏」の方がイメージが鮮明でよいのかも知れませんが、対句としての完成度を高めるため、また、平水韵としても通用するようにと考え、「頭頂」にしています。

 [語釈]
 「清明」:陽暦四月五日の頃。春分と穀雨の間。中国では、墓参りの時候。
 「掃墓」:墓参り
 「倩女幽魂」:美しい女性の死神
 「陰鬼」:死んだ人の靈魂

<感想>

 単なる桜の木ではなく、墓地の桜であることが鮟鱇さんを今回の詩に導いたわけですね。梶井基次郎が名作「桜の樹の下には」で示したのは、

 桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 この非常に鮮烈なイメージ、そしてエリオット「荒地」の、
四月はいちばん残酷な月
死んだ大地からライラックを育て
記憶と欲望を混ぜ合わせ
春の雨で鈍い根を掻き立てる。
冬は何でも忘れさせてくれる雪で地面を覆い
干からびた球根で小さい命を養いながら
わたしたちを暖かく保ってくれた。
 のイメージなどが重なる気がします。

 承句では、解説から見ると、髑髏が「春霞を吐く」というのは李賀ばりのある種の凄みを持っていて、鮟鱇さんならではの表現だと思います。
 対句の関係から見ると、「吐春霞」「払春霞」「掃春霞」でどうかな、と思いましたが、鮮烈な幻想を生かすには「吐春霞」がやはり良いですね。

 結句は、「雪花」「雪のように白い花」を目的語に置いていますので、読み方は「雪花を飛ばす」とすべきでしょう。

2004. 6.24                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第127作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-127

  賞嫩緑        

鶏犬競声妨晏眠   鶏犬声を競いて晏眠を妨ぐ

開窓遠樹帯春烟   窓を開けば遠樹春烟を帯ぶ

芳花時教人浮躁   芳花は時に人をして浮躁ならしむれども

嫩葉寧心正可憐   嫩葉の心を寧んずる 正に憐れむべし

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 結句の「可憐」は、日本の古語「あはれなり」と同じで、「心が強く動く」ことを表す言葉です。
 一般には、「あはれなり」「しみじみとした情趣がある」としますが、これは「もののあはれ」に類する意味です。語源的には「あはれ」は感動の言葉であり、「ああ!」と訳すのが正しく、その「ああ!」という状態であることを表すのが「あはれなり」です。
 したがって、訳語としても「すばらしい」「感動する」となり、良い場合にも悪い場合にも使われます。
 漢語でも「可憐」は、「なんとすばらしいことだ」とも「なんとかわいそうなことだ」とも使います。
 前者は白居易「長恨歌」「可憐光彩生門戸」として出ていますし、後者では劉廷芝「代悲白頭翁」「此翁白頭真可憐」として使われています。
 そしてもう一つ、李白「清平調詞」に用いられている「可憐飛燕倚新粧」で、これは現代の日本でもよく使われる「かわいらしい」の用法です。
 今回の詩では、「寧心」から見ると、最後に示した用法でしょうね。

 起句での「鶏犬」は、すぐに思い浮かぶのは老子陶潜の思い描いた理想郷で、そこでは両者の声は好ましいものとされていました。ここでは「競声妨晏眠」という形で喧騒の象徴として出されているのも面白いですね。
 その起句の日常性、生活感を承句がすぐに遠くの春霞で落ち着いた雰囲気に転換させ、更にまた転句では「人浮躁」と持ってくるわけで、これはややあわただしいですね。
 結句の「嫩葉寧心」を生かすのならば、承句も起句に揃えておいた方が良いと思います。

2004. 6.24                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第128作は 深溪 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-128

  苦吟        

大寒節裏可相親   大寒の節裏 相い親しむべし

小径疎梅破蕾新   小径 疎梅 蕾を破りて新たなり。

夢寐孤遊櫻樹下   夢寐 孤り遊ぶ 櫻樹の下、

卒然忘句賞芳辰   卒然 句を忘れて 芳辰を賞す。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 苦吟のあまり、夢に梅花を詠じているうちに、櫻の木の下に自分がいて、詩のことなど忘れて梅と桜の花と一緒に楽しんだというもの。

<感想>

 一粒で二度おいしい、というか、梅と桜の両方を楽しむというのはうらやましいかぎりですね。しかし、それが夢の中に訪れてくれたのは、「苦吟」を重ねられたからこそのこと。
 詩の神様の優しい心配りと言うべきでしょうね。

 詩としては、転句での「夢寐」が突然で、梅を見ながら寝てしまったのかと思いました。「夢裡」とでもすると、ワンクッション置かれるかもしれません。
 結句は「卒然忘句」は素直すぎて、夢の中のシチュエーションとしては面白くないですね。「卒然得句」の方がドラマチックのように思いました。

2004. 6.24                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第129作は 慵起 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-129

  旭川流烏城下     旭川烏城の下を流る   

雨余弦月対城楼   雨余の弦月 城楼に対す

岸闊江平一釣舟   岸闊く江平らかに 一釣舟

蛩蛬恨秋声喞喞   蛩蛬秋を恨み 声喞喞

旭河漁火已高秋   旭河 漁火 已に高秋

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 若いころ一年ほど、岡山市内の旭川のほとりに住んでいました。
 烏城(岡山城)に映える月の光景を想起しながら作りました。

<感想>

 眼前の景というより、かつての光景を思い出しての作ということで、素材も整理されてすっきりとした仕上がりの作品ですね。
 視覚から聴覚へと転句で移りますが、この擬人法も効果的だと思います。
 結句は「漁火」から「已高秋」への流れがよく分かりませんでした。「旭川では漁り火が見える、ああ、(だから)、もう已に高秋なんだなぁ」と理解したいのですが、地域の特色として、旭川では秋に漁火に関わる行事があるのでしょうか。
 「漁火」という言葉では、張継の「楓橋夜泊」での「江楓漁火対愁眠」が浮かびます。張継の詩では、「江楓」(前句の「霜満天」もですが)が季節を示していましたね。


2004. 6.24                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第130作は大阪市にお住まいの 趙孝紗 さん、十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 ホームページを見ての感想を書いて下さいました。
   私のような漢詩初心者に分かり易いホームページですね。なかなか楽しいです。

作品番号 2004-130

  登北京景山      北京の景山に登る  

登景山山頂   景山の山の頂に登る。

下望帝故宮   下に帝の故宮を望む。

故宮輝麗金   故宮は麗しく金に輝く。

下光輝王宮   下は光り輝く王宮だ。

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 北京の故宮の裏にある標高四五mの人工の山・「景山」から見た故宮を歌った詩です。
   景山の山頂に登った。
   下には昔の皇帝の住まい・故宮がある。
   故宮は全ての建物の屋根瓦が皇帝の象徴・黄金色なので、綺麗な金色に輝いている。
   下には光り輝く王の住まいがあるのだ。

ということです。
 皆さんも一度登ってください♪

<感想>

 漢詩の規則から見ますと、おや?と思う所はいくつかありますが、それは後で言いましょう。
 何よりも、この詩では勢いが生きています。「景山だぞ!故宮だぞ!きれいだぞ!」という感嘆の声がすぐそこから聞こえて来そうです。口から出た言葉がそのまま貼り付けられたような臨場感とでも言いましょうか。

 残念なのは、転句と結句がほぼ同じ内容だということです。お書きになった五言絶句は使うことの出来る字数がわずか二十字、表現できることがどうしても制限されます。
 そこで、漢詩ではできるだけ「同じ字は使わない」という規則もあります。句でも同じで、同じ内容を繰り返すと、その分、他に表現できることが削減されてしまいます。
 この詩の場合ですと、光り輝く故宮にカメラのレンズを絞りきったわけで、その分、初めに書きましたように勢いが生まれているのですが、その他の景色や作者の気持ち、輝き具合など、まだまだ説明できることは沢山あります。そうしたことを、最後の結句に入れるだけでも、詩のまとまりは随分違ってくると思いますよ。

 最後に、漢詩のきまりについてです。
 これから勉強を進めて行かれると思いますが、漢詩には色々な規則があります。それらを大きく分けるならば、「音声的に整えるための決まり」と「内容を整えるための決まり」と言えば良いでしょうか。「押韻」や「平仄」などは、耳で聞いた時の心地良さを求めての漢字の配列ですし、「起承転結」や「対句」などは主題や素材を適切に選択し配置するための工夫です。
 一度に全ての決まりを覚える必要はありません。今回は起承転結を重視してみよう、今回は平仄を揃えてみよう、そうやって自分で課題を設けては作詩をし、推敲をし、誰もが一つずつ経験を重ねて行くことです。
 さて、その上で今回の詩に戻るならば、まず「韻字」を整えることから始めましょう。第二句の「故宮」と第四句の「王宮」と、どちらも「宮」の字を用いて押韻しているわけですが、韻字は重複しないことが大切です。
 「宮」の属する「上平声一東」の韻目には
    翁窮宮弓空洪功公攻工紅終充崇滝衷沖忠虫通東筒銅同童風豊雄融
    隆衆中凍夢戎躬虹鴻聡桐瞳洞熊楓蒙朦籠・・・・

 などが入っています。この中から、適する字を探して使ってみて下さい。
 漢詩が漢詩である必須条件は押韻だと思っています。頑張って下さい。

2004. 7. 1                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第131作は 如泥 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-131

  晩春夜        

入夜幽庭不見花   夜に入りて幽庭に花を見ず

如非闇夜見花耶   如し闇夜に非ずんば花を見んや

休言昼漏香漂蕩   言うを休めよ昼漏に香漂蕩すと

飲涙飛觴漠漠家   涙を飲んで觴を飛ばさん漠々たる家に

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 二回目の投稿です。かなり間があいてしまいました。

<感想>

 如泥さんの前回の投稿は、2003年の12月ですので、半年ほど前になりますか。前回は五言絶句でしたが、今回は七言絶句での投稿ですね。

 いくつか気になるところがあります。
 起句承句の「見花」の重複は意図的に狙ったものでしょうから、ここは了承しておきますが、ただ、この起句から転句までで詩としてどういうことを言いたいのかがぼやっとしています。
 夜だから花が見えない。闇夜でなかったら花は見えるんだろうか。昼には香が一杯だったなんて言わないでくれ。涙ながらに酒を酌み交わそう、広々とした家で。
 という感じでしょうか。
 承句は「もし闇夜でなかったら花は見えるんだろうか」とありますから、仮定を解くならば、「今日は闇夜だから花は見えない」ということですね。そうなると、起句を裏から言っただけの役割にすぎません。句の存在意義が弱いということです。
 また、転句については、昼に「漂蕩」だった香は、夜になるとどうして消えてしまったのでしょう。普通ですと、「闇夜でも香だけで花の存在を知ることができた」となるように思います。
 いや、そうではなく、「もう十分に暗香を楽しんでいるんだ、だからこれ以上言わなくてもいいよ」という意味かもしれませんが、そうだとすると、次の「飲涙」につながりせんね。
 「花が見えなかった」ことで「飲涙」というのも過剰な表現の気がしますが、「漠漠家」も同じでしょう。「漠」はもともと「砂漠」を表す言葉ですので、「漠漠家」ですと、とんでもない広さの家を想像します。「寂しい」という雰囲気を出したかったのでしょうが、これは不適切な表現でしょう。

 以上、気が付いた点をいくつか書きましたので、厳しく感じられたかもしれませんが、推敲の参考にして下さい。
 漢詩は何も大きな感情の動きだけを詠むわけではありません。「花が見られなくて残念だった」というどちらかと言うと地味な、静かな気持ち、そうした感情を詩にすることは私たちにはとても大切なことです。
 唐詩風の激情とドラマチックな迫力、それも漢詩の魅力ですが、宋詩に見られるような、日常的な、身辺の細やかな感動を詠うこともやはり魅力です。
 如泥さんの今回の詩は、静かな感情の方なのですが、言葉がついつい激情風に走ってしまっている、そのために内容に齟齬が生じてしまったという印象です。

2004. 7. 4                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第132作は 佐竹丹鳳 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-132

  春日雑詠       

城中盡是艶陽姿   城中尽く是れ 艶陽姿

古樹新萠緑満枝   古樹新たに萠えて 緑枝に満つ

啼鳥廻簷清晝喜   啼鳥簷に廻りて 清昼を喜び

落花注砌暖風悲   落花砌に注いで 暖風を悲しむ

驚回午夢日遲遲   午夢驚き回って 日遅遅たり

喚起老愁人寂寂   老愁を喚び起こして 人寂寂たり

未到黄昏呼筆硯   未だ黄昏に到らず 筆硯を呼び

剪裁好景入新詩   好景を剪裁して 新詩に入らん

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 掲載が遅くなり、季節がずれてしまって申し訳ありません。
 さて、詩を拝見しますと、まず冒頭の一句、特に「盡是」が勢いを出して、印象深い表現になっていますね。
 頷聯も二つの句が視覚・聴覚、視線の高・低を対比させて、面白く出来ていると思います。
 頸聯は、「老愁」を喚起させたのが何なのか、そこが分かりにくいのでやや唐突な感じが残りました。「老」をここで敢えて出す必要があるのかどうか、もし使うならば尾聯での締めくくりに用いた方が効果的のように思いました。
 尾聯の最後は「新詩に入らん」ですが、「新詩に入ん」の方が客観的で良いように感じました。

2004. 7. 5                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第133作は台湾からの 蝶依 さんの作品です。
 

作品番号 2004-133

  愛國詩人迎慶節        

喧江聞激楚,   喧江に激楚を聞き

弔屈競舟先。   屈を弔ひて舟先を競ふ。

呵壁穹蒼問,   呵壁 穹蒼に問ひ

招魂寒水湲。   招魂 寒水湲たり。

長思悲楚客,   長思して 楚客たるを悲しみ

含涙賦騷篇。   涙を含みて 騷篇を賦す。

正氣留青史,   正氣 青史に留まり

吾人效大賢。   吾人 大賢に效ふ。

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 「世界漢詩同好會」でもいつもお世話になっています。汨羅江さんのサイトでお名前をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。今回は投稿もいただきました。ありがとうございます。

 端午の節句は、日本では新暦の関係で五月の連休中ということで、以前ほど意識されなくなりました。
 子供の頃に、銭湯に行くと菖蒲湯が用意されていたことを思い出しますが、最近はどうなのでしょう。少なくとも我が家では、もう何年も菖蒲湯に入っていませんね。
 竜船で豪快に競い合う行事は、東南アジアを中心に広く行われ起源も古いようですが、中国の戦国時代に悲劇的な死に到った屈原を弔う儀式と重ね合わさったものが現在の姿と言われています。

 蝶依さんの詩では、その屈原の故事を踏まえたものですね。

 語句の意味を少し説明しておきましょう。
 「激楚」「清らかな川の流れ」と「大漢和」には載っていますが、ここでは「勢いの良い櫂の音」でしょうか。
 「呵壁穹蒼問」は、屈原が楚の地をさまよった時に、壁の前に立ち天(穹蒼)に問うた(『楚辞』「天問」編)という故事を踏まえたものですね。

 次の七言律詩とも併せて読みましょう。

2004. 7. 7                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第134作も台湾の 蝶依 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-134

  端午節       

咚咚戰鼓競舟催,   咚咚たる戰鼓 競舟を催し、

兩岸翻騰噪似雷。   兩岸の翻騰 噪は雷に似る。

盪漾鱗波飛桂棹,   盪漾として 鱗波は桂棹に飛び

葳蕤艾草發牆隈。   葳蕤として よもぎ草は牆隈に發く。

九歌氣壯胸懷湧,   九歌 氣は壯にして 胸懷に湧き

五日詞雄志節恢。   五日 詞は雄にして 志節ひろ

弔屈招魂騷客涙,   屈を弔ふ招魂 騷客の涙

難描忠藎暗悲哀。   忠藎描き難く 暗たる悲哀

          (上平声「十灰」の押韻)

<感想>

 こちらの詩も、語句の意味を添えましょう。

 咚咚は、「太鼓がどんどんと鳴る音」を形容した言葉です。
 「葳蕤」「草が生え乱れる」ことを表しています。
 「九歌」「楚の国の朝廷音楽」「忠藎」「忠義な臣」のことです。



2004. 7. 7                 by junji


謝斧さんから感想をいただきました。
台湾端午節如看眼 真可知
首聯破題甚遒勁而高突 対聯援引典故尚無飣餖之跡 
尾聯能言志 以屈子吐赤心 頗有温柔敦厚之情 
先生技量工 自成功而使人心感 亦妙哉
2004. 7. 9                 by 謝斧


蝶衣さんからお返事をいただきました。

  謝謝△來信讚賞   (△=你+心)
  蝶詩一直在摸索中
  還望大家多加指點!
 蝶依 敬上

2004.7.15





















 2004年の投稿漢詩 第135作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-135

  讀菅廟吟社詩稿        

菅廟詩客文雄多   菅廟の詩客 文雄多く

就中瀬風詩風嘉   中ん就く 瀬風詩風嘉し

筆山能敵又高手   筆山能く敵せんとするも 又高手たり

技量伯仲誇詞華   技量は伯仲して 詞華を誇る

諸友親炙興趣好   諸友は親炙して 興趣好く

社中戦詩如相磨   社中詩を戦わせて 相磨するが如し

謝斧先生獨魯鈍   謝斧先生 独り魯鈍

毎苦詩債難如何   毎に詩債に苦みては 如何ともし難し

偶得険韻似遭冦   偶々険韻を得ては 冦に遭うに似たり

摘句遅遅恟詆訶   句を摘むこと遅遅としては 詆訶を恟る

四座諧謔譴我急   四座諧謔して 我を譴ること急に

願將浮白逃厳苛   願わくば 浮白を將って 厳苛を逃れん

          (下平声「六麻」の一韻到底格)

「瀬風」:長岡瀬風。「筆山」;村井筆山、共に菅廟吟社社員。

<感想>

 菅廟吟社につきましては、以前にも謝斧さんからご紹介いただきましたね。
 「文雄多」と書かれているように、詩作に堪能な方がおそろいで、まさに切磋琢磨、そしてそのことを楽しむという感じがよく表れていると思います。
 鍛えれば上達するというのは、ある程度のレベル以上になると誰にでも当てはまるというわけではないでしょうが、鍛えなければ上達しないということは間違いないことです。
 磨き合う場と磨き合う仲間が居るということに、羨ましいと思う方も多いのでは無いでしょうか。

 この詩では、一韻到底ですが、下三平や下三仄を用いて、リズムの多様性を狙っていますね。

2004. 7. 7                by junji