2004年の投稿漢詩 第61作は 藤原崎陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-61

  立春前夜        

疎影横斜無點埃   疎影横斜 埃を點じる無く

凌寒欲綻後庭梅   寒を凌び綻ばんと欲っす 後庭の梅

立春前夜追儺興   立春前夜 追儺の興

逐禍招幸撒豆回   禍を逐い幸を招いて 豆を撒いて回らん

          (上平声「十灰」の押韻)

<感想>

 落ち着いた風格の絶句ですね。
 林逋の「山園小梅」からの「疎影横斜」をまず頭に持ってきたことが、全体を引き締めているように思います。
 後半の、ややざわめくような節分の雰囲気とのバランスもよく取れていると思いますが、結句の最後の「撒豆回」が散文的に感じますがいかがでしょう。

2004. 3.29                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第62作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-62

  騒体短古習作        

風習習兮草暖   風習習として 草暖かに

水油油兮川平   水油油として 川平かなり

添思量而散策   思量を添えて 策を散じ

時流憩以聞鴬   時に流憩して 以って鴬を聞く

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 「兮」「而」「以」を用いて散文調にしました。

<感想>

 「騒体」は、あまり馴染みのない方もいるかもしれませんね。
 戦国の屈原の作った『離騒』の詩と形式を似せた詩のことになります。「離騒」という言葉自体は、「別離の悲しみ」「憂いに遭う」という意味なのですが、詩の内容はこだわる必要はないようですね。重要なのは、詩ではあるけれど散文的な表現が許されるということで、論理的な内容を述べる場合などに自由度が多いのでしょう。

 謝斧さんの習作、前半は対句と畳語で「騒体」の雰囲気が出ていますね。後半は細やかな描写が続きますが、「聞鶯」が眼目になるのでしょう。この言葉によって前半とのつながりが明白になっています。

2004. 3.29                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第63作は 舜隱 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-63

  孟春夕感        

孟春凍未解   孟春 凍未だ解けず

向夕坐空堂   夕べに向って 空堂に坐す

風入飜書數   風入って 書を翻すこと数々し

日斜執筆長   日斜にして 筆を執ること長し

屏中囀鶯谷   屏中 囀鴬の谷

吟裡臥龍崗   吟裡 臥龍の崗

淡靄月牙皎   淡靄に 月牙皎く

遙然懷暗香   遙然として 暗香を懐ふ

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 春の日暮れ、落ち着いた時間が流れていく様子がよく分かる詩ですね。
 「坐空堂」の三文字によって、視点を一気に「誰もいない室内」に持ってきたのは成功していると思います。その後、頸聯からまた外へと眼を移していくのも、自然な流れを感じます。
 頸聯の上句は、「中」「鶯」がどちらも平声ですので、ここだけは残念でした。
 尾聯の「懷暗香」も余韻を残す締めくくりになっていて、舜隱さんの落ち着いた心境が感じられる良い詩です。

2004. 3.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第64作は 藤原崎陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-64

  早春言志        

扶桑歳改望新生   扶桑歳改まり 新生を望むも

四海波荒天未明   四海波荒く 天未だ明けず

殘菊拂花叢寂寂   殘菊花を拂って 叢寂寂として

寒梅破蕾玉晶晶   寒梅蕾破って 玉晶晶たり

攘夷凶賊残虐極   夷を攘いし凶賊 残虐を極め

許国精兵救援征   国に許す精兵 救援に征んとす

庶幾三軍密連絡   庶幾三軍 連絡を密にし

排來障礙拓和平   障礙排し來って  和平を拓かん

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 「殘菊拂花叢寂寂 寒梅破蕾玉晶晶」が全編を示唆するような作詩方法をとらなければばならないのですが、推敲の余地があるようですが。

<感想>

 解説の文は謝斧さんがお書きになったものと思いますが、仰る通りだと私も思います。
 全編を通して、時事が明瞭に描かれているのですが、そこに入れた頷聯の役割の問題でしょう。この聯が冒頭にあるならば不自然ではないのでしょうが、「四海波荒天未明」を受けての句となると、ここの自然描写が浮いて来ますね。
 上句の「殘菊拂花叢寂寂」は世相を象徴しているようにも思えますが、下句の「寒梅破蕾玉晶晶」は象徴が明確でなく、次の「残虐極」の言葉を逆に薄めているのではないでしょうか。

2004. 3.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第65作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-65

  早春        

鴨鳧浮弄朔風池   鴨鳧は浮弄す 朔風の池

鳥雀喧啾枯木枝   鳥雀は喧啾 枯木の枝

粉蝶未飛陽燦燦   粉蝶未だ飛ばざるに 陽は燦燦

梅花数個発南籬   梅花数個 南籬に発す

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 鴨は北風の吹く池を浮泳し、雀は枯枝でやかましく鳴いて、まだ寒さが残っています。
 また、蝶が飛んで来ないのに、日光だけは燦燦と降り注ぐようになりました。そのため、却って寒気を感じることもあります。
 しかし、南側の生垣の辺に梅は数個花をつけ、春がやってくることを教えてくれました。

 [語釈]
 「浮弄」:浮びたわむれる  「喧啾」:鳥が騒がしく鳴く

<感想>

 各句の頭を見てみると、「鴨鳧」「鳥雀」「粉蝶」「梅花」と句の主語に当たる言葉が続いています。
 起句承句は対句のからみで分かるのですが、転句結句も同じように進むと、リズムがどうしても単調に感じますね。

 前半を対句で仕立てるならば、起句は押韻しない方が自然でしょう。
 また、結句の「数個」は俗っぽい感じがします。「一萼」「数点」「数朶」などを抑えておいて、更に面白い表現を模索するのも面白いと思います。

2004. 3.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第66作は長野県の 蜂翁 さん、六十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2004-66

  深山雪        

深山蕭寂寺鐘伝   深山 蕭寂として 寺鐘伝ふ

凍雀啄頻茅舎前   凍雀 啄ばむこと頻りなり 茅舎の前

復見埋庵三尺雪   復た見る 庵を埋む 三尺の雪

到春融否問寒天   春に到りて 融けるや否や 寒天に問う

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

  (故郷の生家の様子を詠んでみました)
山奥はひっそりとして、寺の鐘の音が聞こえてくる。
寒雀が茅葺きの家の前で、庭を頻りにつっついている。
あずま屋を埋めている三尺の雪を又眺めて、春になったら融けるかどうかと、寒空に聞いてみた。

<感想>

 蜂翁さんから最初にいただいた時には、結句が「到春融否向炉辺」となっていました。「到春融否」という問いかけに対して「向炉辺」では雪にそっぽを向いているようで、せっかくの「三尺雪」の迫力が弱まっていました。
 そこを直されたのが今回の作品です。積極的な姿勢が出て、まとまりがよくなったと思います。

 お手紙では、「まったくの素人です」とのことでしたが、用語や展開も無理がなく、冬の深山の情景がよく描かれていますね。
 どんどん作っていかれると楽しみですね。

 先日、私は家族で安曇野に行きました。「ちひろ美術館」が目的地でしたが、安曇野の自然を眺めて、疲れていた身体と心の緊張が解けていくのを感じました。真冬には行くこともできませんが、少しずつの春の喜びが雪の残る山々から伝わってくるように思いました。
 素晴らしい大自然に感謝、感謝でした。

2004. 3.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第67作は 遊風 さんからの作品です。
 遊風さんは新年漢詩でご紹介しましたが、城陽市にお住まいの方です。漢詩を作り始めてまだ一年足らずとのことですが、豊かな感受性が感じられる作品ですね。

作品番号 2004-67

  献道真公梅      道真公に梅を献げる  

水温破蕾雪晴天   水温み蕾を破る雪晴るるの天

黄鳥好文春色妍   黄鳥好文春色の妍なり

献道真公梅一朶   道真公に献ずる梅一朶

京都風與届香煙   京の都より風と與に香煙を届けん

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 水も温み鶯や梅の季節になりました。
 大宰府の道真公に梅を手向け、都の東風に乗せて梅の香りを届けましょう。
 大和の青谷の梅林ももうすぐ蕾を膨らませて、馥郁とした香りに満ちる事でしょう。

<感想>

 「好文(木)」は梅の別名です。これは晋の武帝の故事ですが、「晋武文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」ということから来た言葉です。
 ということで行きますと、承句の「好文」と転句の「梅」は同じもの。もっと見ていくと、起句の「蕾」、転句の「香煙」もやはり梅、これはポイントがぼやけてしまいます。転句結句の梅を引き立てるためには、起句承句では梅以外のもので抑えておくことが大切でしょう。

 結句は「風與」「與風」とすべきでしょう。「京都」は地名として使っているのですが、転句でも「道真公」と固有名詞を使っていますから、ここでは「古都」の方が落ち着くでしょうね。

2004. 3.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第68作は 拝唐 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-68

  送学徒卒業      学徒の卒業するを送る  

寒梅之蕾綻庭園   寒梅の蕾庭園に綻ぶ

鶯訪自渓鳴小軒   鶯渓より訪れて小軒に鳴く

学究離余今出舎   学究余を離れて今舎を出でんとす

風琴勿奏涙流繁   風琴奏でる勿かれ涙流るる繁し

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 卒業式のシーズンになりました。卒業生を送り出す、ちょっとセンチなものを作ってみました。
「風琴」は、この場合オルガンのことで、卒業式の伴奏をしているオルガンのつもりです。
 前回ご指摘いただいた四・三のかたちを考えて作ってみたつもりなのですが、如何でしょうか。

<感想>

 今回の詩は部分的に気になるところがいくつかあります。
@「之」「自」などは入れる必要が無く、散文的な印象がします。
A「渓を出て来た鶯」は山を歩いた時に使う表現です。校庭にずっと居たのに渓を出たのを知っていたというのは不自然でしょう。
B「離余」というのは、お気持ちは分かりますが、教育は職員集団で行うもの。「私から離れて」となると、「なんと、この私から離れて」という強調した表現になってしまいます。
C「風琴勿奏」は、町中で誰かが奏でているのならば良いでしょうが、卒業式ですからね。勝手に「演奏中止」というわけにはいきませんから、音色がどうなのか、というくらいにしておくと良いでしょう。

 四・三のリズムについては、今回のようにすれば大丈夫ですよ。

2004. 3.30                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第69作は中国 上海市の 蔵山子 さん、二十代の大学生の方からの投稿作品です。
 

作品番号 2004-69

  偶作        

心眼真幻地   心眼の真幻とは地

草木枯栄時   草木が枯れ栄えとは時

夢蝶或非蝶   蝶の夢は或は非蝶

相知実未知   知合いとは実に未知

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 中国人の学生です。偶然にもこのサイトが見付かりました。
嬉しく、最近作った拙作を発表します。

  心と眼と、どちらが真か、どちらが幻か、分からない。
  草木が枯れては栄え、枯れては栄えするまま、時は立ち去ってしまう。
  蝶が夢を見るのは必ずしも蝶でない(人間である)とは言えない。
  知合いの実に未知がある。


 このページをきっかけに自分の作品を発表する勇気が持てるようになり、感謝しています。

<感想>

 中国の方からの投稿ですので、平仄などはどうなのか、ひょっとして現代の普通話韻で書かれているのかもしれないと思い、鮟鱇さんにお伺いをしました。
 普通話韻ではなく古典韻で作られていますが、平仄の点から「五古絶句体」と見るのが良いでしょう、というお返事をいただきました。
また、「詩は、いかにも事物の対照性に美を見出す中国人らしい内容で、わたしは好きです」という感想も添えていただけました。

 「眼」で捉えた「草木枯栄」「心」で捉えた「夢蝶」を並列させることで起句を発展させ、結句でそれをまとめ上げる展開でしょう。
 「相知」「知人・友人」の意味でしょうか、私は「相」「お互いに」という意味ではなく、「相手(対象)を知る」という意味で、「既知」に近い表現と理解しました。その方が全体が締まるかな?という印象です。

 中国の若い方の作られた古典詩、色々な思いが浮かんで、楽しく読ませていただきました。
 尚、題名は「無題」として投稿いただきましたが、私の方で「偶作」と変えました。

2004. 4.15                 by junji


謝斧さんからの感想です。

 興味深く読ませていただきましたが、実際のところ、やや晦渋な気がします。よくわかりません。
「草木枯栄時」は、「短い浮世には、人人の関心事である栄枯盛衰等には、本当に何の意味があるでしょうか」
「夢蝶或非蝶」は、「荘周が、夢に蝶となったというが、蝶が夢みて荘周となったのでは」
「相知実未知」は、「社会的通念(或るいは皮相的)には理解していても、実際には物の本質を捉えてない」という意味でしょうか。

 詩というやりも偈に近い感じがします。晦渋な気がするのは四句だからだと思います。内容は寒山詩に似ているような気がします。五言二解ぐらいにして作られたほうがよいとおもいます。
 叙述にもう少し工夫がいるように感じました。
 しかし、詩作の経験が十年にも満たないとすれば、大変な出来だとおもいます。

2004. 4.17                 by 謝斧





















 2004年の投稿漢詩 第70作は 坂本 定洋 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-7

  春風        

休雨欲觀櫻   雨休んで櫻を観んと欲す

吹風絶乞情   風吹いて情を乞うを絶つ

南天雙燕到   南天雙燕到り

千里告清明   千里に清明を告ぐ

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 雨が止んだかと思えば無情の風。いつも花見は思うにまかせません。しかしその風に乗って今年も燕がやって来ます。春本番です。
 習い始めの頃の作に手を加えて投稿させていただきます。自分で言うのもどうかとは思いますが、意欲満々です。時に初心に帰るのも必要かと思っております。

<感想>

 五言絶句ですので、起句は押韻しないのが通例ですが、ここでは「櫻」も韻を踏むことで独特のリズムを作っていますね。
 承句は「吹風」はやや間延びしてしているようです。桜を散らせる風ということでしたら、もう一工夫できそうな気がしますね。読み下しでも「風吹いて」と読むには「風吹」と並べる必要がありますから、ここでは「吹く風」と読むでしょう。そうなると、わざわざ「吹」の字を付ける必要があるかどうか、ということです。
 転句は「南天」に燕を見たということでしょうか。「到」の字で季節の変化を出したいところですが、この句ですと、「南の空高くに燕が飛んできた」ということで、やや違和感があります。
 私の偏見だと言われるかもしれませんが、燕を私たちが認識するのは、もっと身近な所ではないかと思います。空高く飛んでいる二羽の鳥を見て、「あ、燕が来た」と分かるには、もう少し条件が必要ではないでしょうか。
 ここは「舞」くらいならば、燕を眼で追ったという意味が印象で無理がなくなり、実景るのではないでしょうか。

 以上の細かな二点を除けば、五言絶句の大らかさを感じさせる好詩だと思いました。

2004. 4.15                 by junji


定洋さんからお返事をいただきました。

 転句は、投稿直前にそっくり差し替えたものです。
 「天」と「燕」、「雙」と「到」、あるいは「天」と「到」(声母が類似、ほぼT音)と、語呂合せに拘泥し過ぎたようです。鈴木先生の言う通り、転句末は内容優先で「舞」が良いと思います。例によって頂戴します。

 承句頭については、確かに風が「吹く」のは当たり前すぎます。ここは「南風」としたいと思います。「南」を取られる形になる転句頭は「中天」なら、基準が定かでない嫌いはありますがつじつまは合うと思います。また時を置いて見直すつもりですが、とりあえずこれでいかがでしょうか。

 先生の評には「五言絶句のおおらかさ」とありました。これは私にとって、とても貴重なものでした。正直なところ、人様に見ていただくに足ると自分でも思えるような五言絶句は、これしか書けていません。この所、語数が少ない分、表現を切り詰め締め上げなければとばかり考えていました。「おおらかさ」も必要なのだと教えていただいた次第です。
 改めて御礼申し上げます。
2004. 4.20                 by 坂本 定洋





















 2004年の投稿漢詩 第71作は 勝風 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-71

  春色上八重岳      春色八重岳に上る  

争発櫻侵嶝   争い発き桜嶝を侵し

香風翻落紅   香風 落紅を翻す

翔禽幽谷裏   翔禽 幽谷の裏

疑是画図中   疑うらくは是画図の中かと

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 日本で最も早く桜の開花するここ南国沖縄の八重岳に行きました。
 一里はあるでしょうか、紅に燃える寒緋桜のトンネルの中を抜けて山頂にたどり着きました。山あり谷ありの道の途中、枝を飛び交う黄色い目白の姿が桜の美しさをかもし出しているように見受けました。


<感想>

 この勝風さんの詩も、随分以前に送っていただいたものが掲載が遅れてしまい、申し訳ありません。
 最も早い沖縄の桜の開花から、現在は東北地方から北海道に桜は移っていったようです。南北に長い日本の形状が、桜の便りを二ヶ月近く楽しませてくれますね。

 承句転句はまさに「画図」の景を描いていますね。実際には見えない風の動きを翻る落花で表すところまでは絵画の領域ですが、描くことのできない鳥の声までもが聞こえてくるような趣は、詩の面目躍如という感じです。
 強いて言うならば、承句の「翻」が平声ですので、「弄」とすれば平仄のバランスも落ち着くでしょう。

2004. 4.15                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第72作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-72

  人踏影        

誰思平晝日將沈,   誰か思わん 平昼に日はまさに沈まんとし、

片影随形歩歩伸。   片影随形に随いて歩歩に伸びるを。

夕暮何増情寂寞?   夕暮 なんぞ増さん 情の寂寞たるを?

白頭獨對黝黒人。   白頭 ひとり対す黝黒の人。

          (普通話韵「十五痕」の押韻)

<解説>

 普通話韵で書いています。
 起句の「沈」(平水韻下平十二侵)は「伸」「人」(同上平十一真)と同じ韻(普通話韵十五痕)、また結句の「黒」(同入声・仄)は平声です。

 人生を一日にたとえ、せまりくる「老い」を、正午を過ぎれば伸びてゆく自らの影に託した詩です。心の中で伸びていく影、あるいはふくらんでいく暗さ。。。。
 人生、さかりを過ぎれば、そういうものが次第に心を占めていくのですが、人は、多くの場合、夕方になるまでそのことに気がつきません。「人は」、というより、「わたしは」気が付きませんでした。
 そして、今、これから先、長いのか短いのか、実際のところはわかりませんが、心理的には、長い長い夕暮れをわたしは生きていくのだと思います。

 [語釈]
 「平昼」:真昼。正午
 「黝黒人」:黝黒は真っ黒。ここでは自分の影。

<感想>

 そうですね、私自身は「老い」を意識的に考えないようにしているところはありますが、実はそうしなければならないことにこそ「老い」が表れているのでしょうね。
 病気をしたせいでしょうが、私は楽天的に物事を考える癖がつきました。人生を一日に例えるならば、確かに落日を待つに等しい年齢になりましたが、でも現代ならば、アフターファイブに一層の楽しみがあるとも言えます。その気になれば、徹夜すればまた朝が来るのですし・・・・
 こんな図々しい考えは、古人は思いもしなかったものでしょうね。

 鮟鱇さんのこの詩では、結句の「黝黒人」「白頭」と対比し工夫されたところでしょうが、承句の「片影」と重なり、やや勢いがしぼんでいるように思いました。何か季節を表す言葉や景物、しかも「老い」を象徴するようなものを使うと面白いのではないでしょうか。

2004. 4.15                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第73作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-73

  覓句七年吟得一萬首詩詞        

搖吻七年詩一萬,   吻(くち)を揺らして七年 詩一萬、

聳肩三唱思無邪。   肩を聳やかして三唱すれば思いに邪なし。

好學雅韵都習作,   雅韵を好く学ぶもすべて習作なりと、

莫笑凡才吟不歇。   笑うなかれ 凡才の吟じて歇(や)まざるを。

          (普通話韵「四皆」の押韻)

<解説>

 普通話韵(現代韻)で書いています。「学」「習」「歇」は平水韻では入声すなわち仄声ですが、現代韻では平声になります。承句の「思無耶」は現代韻では下三連になりますので避けるべきですが、1声の三連ではない(思(1声)無(2声)邪(2声))ので、まあ許されるかと思っています。
 なお拙作、前対格の句作りで起句・承句を対にしていますので、起句は韻を踏んでいません。

 わたしが詩を書くようになって今年の4月でまる7年になりますが、これまでの作詩数、1万首になりました。詩は2000弱、詞曲が5000弱、漢俳が約1500、あとは中山新詩で、ともかく1万です。
 詩は数を書けばできのよい詩が書けるようになるものではないのでしょうが、韻・平仄に苦労することはほとんどなくなりました。あとは、詩想のよしあし、しかし、こればかりはこれまでわたしがこれまでどう生きてきたか、何を思い生きてきたかによることが大きく、いまさら自由にはなりません。わたしは凡庸に生きています。凡庸に生きるなかから、人の心を強く動かすような詩想が生まれてくると考えるよすがはありません。

 しかし、韻を学び平仄に慣れる、これはどのような凡人、わたしのごとき凡才にもできることです。その意味で「詩は誰にでも書ける」のです。わたしが書いた7年1万首の詩詞、その99%は韻を学び平仄に慣れるために、ともかくも書いたものです。つまりは習作です。
 1万の詩詞、その全てをわたしが読み返すことはこれから先、きっと無いでしょう。読み返すことはない、即興とはあるいはそういうものかとも思います。たとえば漢俳、1日に50首ぐらいは書けます。去年の12月には670首の詩詞・漢俳を書き、今年の1月は600首。そういう状況では、きのう書いた作を覚えてはいません。即興は忘却とともにあります。しかし、それはそれで、詩を書くよろこびの一面です。僭越ですが、詩を書いては湖に投げたという李白の所業、即興の楽しみが、いくらかわかるようになったと思えます。

<感想>

 七年間で一万首、もう陸游の作数の半分にたどり着いたのですね。以前、鮟鱇さんは陸游の数が目標だと仰っていましたが、何年かかるのかなぁと私は遠い先のことと思っていました。
 でも、どんどんペースアップしてるようですし、到達はそんなに遠くないような感じがしますね。

 以前にも書きましたが、詩の上達の要である「三多」は、「多読」「多作」「多商量」とされていますが、その「多作」が一万を超えるとやはり別世界が見えてくるのではないでしょうか。
 そうは思えどもでは自分は、となるとなかなか実際には取り組めないのが現状ですが、徹することのできる鮟鱇さんの快挙(ご本人はまだ旅の途中なのでしょうから、適切な言い方ではないかもしれませんが)にただただ祝意と敬意を払いたいと思います。

2004. 4.15                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第74作は 遊風 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-74

  早春醍醐寺        

尽日深閑歩坐人   尽日深閑として人坐に歩む

山門仁王暴風塵   山門の仁王風塵に暴さる

醍醐寺僅聞啼鳥   醍醐寺僅かに啼鳥を聞く

裸木桜冬芽趣春   桜の裸木に冬の芽春の趣き

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 冬の醍醐寺は深閑として人が散策しているに過ぎない。いかめしい山門の仁王様もいまは風に曝されている。醍醐寺には鶯の幼鳥の声も聞かれ、ちいさな桜の芽も春を告げている。早春の一日でした。

<感想>

 今回の詩では、句の切れ目で何カ所か気になるところがあります。
 七言の詩では、各句の構成は「○○ ○○ ○○○」(二・二・三)という形で、下三字をひとまとまり、上の四字については、基本的には二字+二字という形を取ることが原則です。そこを破ると、非常に読みにくく、誤解を受ける危険性が高くなります。

 この詩では、転句と結句に問題があるでしょう。
 転句では、下三字だけを見れば「聞啼鳥」と落ち着いているようですが、その前の「僅」「聞」を修飾しており、ここは二字でセットです。そうなると、句のリズムとしては、「醍醐寺 僅聞 啼鳥」という形で読むことになり、三・二・二という変則的なものになります。
 このままの語句を生かすなら、「僅聞 啼鳥 醍醐寺」とすべきでしょう。

 結句は、「裸木桜」がまず「桜の裸木」とは読めません。修飾語は被修飾語の上に来るのは鉄則です。ここはひとまず「裸木の桜」と読むことにしておいて、句のリズムを見てみましょう。切れ目を入れると、「裸木桜 冬芽 趣春」となります。やはり、三・二・二のリズムですから、ここも変則ですね。
 このままの句ですと、「裸木 桜冬 芽趣春」と読んでしまい、意味がとれませんね。

 あと、起句の「歩坐人」は読み下しのように「人坐ろに歩む」と読むのならば、順序は「人坐歩」と並べなくてはいけません。
 承句の「仁王」「王」は名詞としての用法では平声で、動詞用法の時は仄声ですので、この場合には平声、そうすると二四不同の規則から外れますので、注意が必要ですよ。

 形式のことを言いましたが、内容的には、承句から転句まで醍醐寺の春景の雰囲気をよく出していると思います。風格のある詩だと思いますので、先ほどの部分を修正されると好詩になるでしょう。

2004. 4.16                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第75作は 赤間幸風 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-75

  蝋梅        

暁寒指凍四辺霜   暁寒 指凍え 四辺霜なり

不識蝋梅破蕾黄   識らず 蝋梅 破蕾はらい黄なるを

遊目枝條何楚楚   遊目すれば 枝條何ぞ楚楚たる

魁春微動発清香   春に魁け 微動 清香を発つ

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 ある寒い冬の日の朝、近郊を散歩していたら、ある家の庭先で蝋梅が咲き初めているのを見かけ、珍しいのでしばらく見とれているうち、詩作をする気持ちになったものです。

 皆さんの作品がどれも素晴らしいので、いささか気が引けて、ここのところ詩作をさぼっていましたが、ちょっとまた閑ができたので、また詩作に励みたいと思っております。

<感想>

 せっかく詩作を再開していただいたのに、掲載が遅れて済みません。できるだけ急ぐようにしますので、是非これからも詩作に励んで下さい。

 平仄の点で、承句は「梅」四字目の孤平になっていますので、これは避けなければいけません。
 起句は「指凍」が働きのない言葉ですね。「指が凍えた」からどうなのか、ただ寒かったということを表すのなら、前後の「曉寒」「四辺霜」だけでも十分です。作者の感情がここで入り込むと、叙景の効果が薄れてしまいますね。
 転句の「楚楚」は色あざやかなことを表す言葉ですが、承句の「黄」を引きずる形になりますから、転句の位置づけが弱くなっているように思います。出来れば、転句では色を感じさせる言葉は抑えて、枝の形状とか、見上げた空の様子とか、風の気配などにしておくと、結句の「清香」がより効果的になるでしょう。

2004. 4.16                 by junji