第61作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2001-61

  守夜(通夜)        

祭壇遺影読経深   祭壇の遺影 読經深し

弔客相看涙不禁   弔客相看て 涙に禁(た)えず

燭暗香残風転急   燭暗く香残(うす)れ 風 轉た急

簾帷颯颯思難任   簾帷に颯颯として 思い任(た)え難し

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 昨年の暮れ、大学時代の同級生が急死しました。通夜の夜に感じてこの詩を作りました。
 承句の「涙に禁えず」、結句の「思い任え難し」は少しくどいですが、私の痛切な気分を表現したくて、涙湿襟とせず、同じ事を二度繰り返しました。
 相変わらず借句が多く進歩がありません。
 承句は、「座客相看涙如雨」(岑參の七絶:『酒泉太守・・・』)を意識しました。
 結句は、「簾帷颯颯秋聲」(李U:『烏夜啼』)と「思難任」(李U:『虞美人』)の二つの組み合わせです。

<感想>

 私も年齢とともに、だんだんと同級生の訃報を聞くことが多くなり、胸が詰まるような思いでY.Tさんの今回の詩を読ませていただきました。
 通夜の席での「悲しさ」、「虚脱感」、いた筈の人が居ないという「喪失感」、それらを「簾帷」を抜ける風によって表したところが、情趣を深めていると思います。
 唐が滅んだ後の「五代十国」の時代の「南唐」最後の君主である李Uの残したは、「しみじみとした人生の悲哀の情、無常感というものがあふれている」(岩波・中国詩人選集「李U」)と言われるように、悲劇を体験し、そして予感した詩人ならではの感覚をいうものを教えてくれます。お書きになった『烏夜啼』も感慨深いですし、同じく『烏夜啼』
  無言独上西楼
  月如鉤
  寂寞梧桐深院 鎖清秋

  翦不断
  理還乱
  是離愁
  別是一般滋味 在心頭

 は、私の愛唱する作品です。
 Y.Tさんがこの詩の句を李Uから得たというのは、なるほどと納得する次第です。

2001. 5.19                 by junji



謝斧さんから、感想をいただきました。

 久しぶりに先生の作を読ませていただきました。
 承句結句のくどさはないとおもいます。佳作ではないでしょうか。とくに転句は相変わらず先生の詩風がよくあらわれています。
 なにかを暗示するような句作りは申し分ありません。漢詩の作り方は、こういった方法で作らなければならないとおもいます。随分と勉強になりました。

2001. 5.20                 by 謝斧




















 第62作は 生 水 さんからの作品です。
 近況のお手紙もいただきましたので、ご紹介しましょう。

 鈴木淳次先生、大変長いことご無沙汰いたしました。
 今年の春から大和市の生涯学習センターの協賛で2日間、「当用漢字で漢詩を作ろう」というタイトルで、初歩の漢詩の講座を開きました。
 平仄は当初関係無く、押韻も通韻群は全部OK、従って30韻群を12韻群にして講座を開きましたところ、十数名の参加者がありました。
 その後、同好の人たちに『辞書を引かずに読める漢詩』のサークルを作っていただきました。
 ルールは「平仄は漢詩に慣れるまで無し」です。もちろん「二・四不同」、「二・六対」、「下三連」、「孤平」、「重出」、「冒韻」等の規則も一切無し。ただただ「韻を踏む」ことだけをルールで始めています。
 漢詩は難しいものという観念を何とか破りたいと思っていますが、中年以上になりますと、「いまさら漢文から」、とか、「今使用されていない漢字を使って」となると、10人のうち1人賛同してくれれば好いほうです。殆どが、「いまさら」と参加してくれません。
 次には平塚市でもと打診しています。


作品番号 2001-62

  憶桜花(排律)        

細雨潤花枝覆天   細雨花を潤し 枝天を覆う

樹齢蓋我亦比肩   樹齢蓋し我と 亦比肩ならん

倶知戦乱耐窮乏   倶に知る戦乱 窮乏に耐え

共酔和平忘敬虔   共に酔う和平 敬虔を忘する

木随時流伝性命   木は時流に随うて 性命を伝え

人韋原理壊自然   人は原理にそむき 自然を壊る

吾曹数此用年歳   吾が曹此れを数えるに 年歳を用い

宇宙程之以光年   宇宙は之をはかるに 光年を以ってす

逝水人生還一夢   逝水の人生 還た一夢

落華眇汎聴潺湲   落華眇汎し 潺湲を聴く

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 「年」・「人」の重出があります。近代的な詩の場合特殊な単語がどうしても必要なため仕方ないのでしょうか,最近のカタカタ文字はどうしたら良いのでしようか。

<感想>

 漢詩教室のこと、読みました。頑張っていらっしゃる生水さんに、熱いエールを贈りたいと思います。
 初心の方を対象にした講座で、漢詩の規則をどの程度まで厳しくしていくか、というのは、とても難しいと思います。参加している方々が皆、「漢詩をきちんと作れるようになりたい」という目的で一致しているのならば最初から厳密に始めるべきだと思いますが、そうでない場合には、対応が違うでしょう。ただ、大事なことは、生水さんが皆さんに漢詩について「どのようなことを伝えたいのか」ということだと思います。
 読み味わうために漢詩の規則を知る、という目的もあれば、自分が作るために勉強する、という目的もあるでしょう。講義形式の解釈中心の勉強会でもいいのです。生水さん自身はどんな楽しみを皆さんと共有したいか、そこから始まればよいのだと思います。
 「最近のカタカナ文字」についてですが、どうしても使う必要があるならば、現代中国語での言い方を使うしかないのだと思います。
 今回の排律もそうですが、生水さんは現代に生きる人間の心を描きたい、というお気持ちで書かれておられるわけですから、その場合には、現代中国語の単語の知識はどうしても必要になるでしょうね。

2001. 5.19                 by junji



 謝斧さんから、排律の形式としては不都合な点が目立つとご指摘を受けました。私が確認をしないままでしたので、すみませんでした。

 排律のことで説明します。
排律は概ね12句からなります。
1・2句 起聯、3・4句 頷聯、5・6句 頚聯、7・8句 腹聯、9・10句 後聯、11・12句 尾聯
これ以上の句を増やす場合は 腹聯 以降を対句を以て増やしていきます。
 平仄は律詩と同じです。韻の重出は不可なので、排律にむく韻とむかない韻があります。(若意有未尽、則可補加二句或四句)

細雨潤花枝覆天

樹齢蓋我亦比肩
   平仄が合いません。失声ではないですか

倶知戦乱耐窮乏

共酔和平忘敬虔

木随時流伝性命
   平仄が合いません。失声ではないですか

人韋原理壊自然   平仄が合いません。失声ではないですか

吾曹数此用年歳   「宇宙」と「吾曹」は対句にならないのでは

宇宙程之以光年   平仄が合いません。失声ではないですか

逝水人生還一夢

落華眇汎聴潺湲
   韻が違います。ここだけが、上平声「十五刪」となってます。

 もう少し推敲を重ねられることを期待します。

2001. 5.25                 by 謝斧

 最後の韻につきましては、辞書によっては下平声「一先」との両韻としているものもあります(大漢和など)が、どうでしょうか。





 中村逍雀さんからも排律についてのご意見をいただきました。

 何時も興味深く作品を拝見しています。
 さて、作品番号2001-62 『 憶桜花 排律 』の作品について参考までに幾点か申し上げます。
 先ず韵について、「簡便のために通韵を用いた」と有りますが、其れも一法とは思いますが、其れを為さるので有れば、現代中国で通用している「中華新韵16韵」「中國現代韵18韵」を用いた方が、国際通用性から言っても妥当かと存じます。ましてや他人様に教えるのでしたら、国際的に通用する方法を指導すべきと存じます。
 排律に付いて、七言排律は格律では存在しますが、現在の中国詩壇に於いて七言排律を作る者は、皆無ではありませんが滅多におりません。中国詩壇に於いて、七言排律の作品は無いと言うのが一般的認識です。
 余計なこととは存じますが、同好の一人として、一言申し上げます。

2001. 6. 1                  by 逍雀野叟



 「七言の排律はほとんど作られていない」ということにつきましては、謝斧さんからも次のような意見をいただいています。

 確に杜甫の作に七言の徘律は3首ほどありますが、この詩体は淘汰され殆どの漢詩作家は作ってはいません。
 構成上無理があり、佳作は出来ないようです。太刀掛先生も、こんな時代の推移を理解出来ない詩は言語道断だと叱られたことが、じつはあります。
 詩の本には、解説されたものがあります(律詩研究 徘律之研究 簡 明勇著 王世貞漁洋が言うところによると 七言徘律 創自老杜 然亦不得佳 束以偶聲 気力已盡又欲衍之使長 かりに 調高則難続而傷編 調卑則易見而傷句)
 これ以外にもいろいろ言われていますが、体が散漫になるということになると理解しています。

2001. 5.25                  by 謝斧






















 第63作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-63

  湖 辺        

滔滔湖景観   滔々たる湖の景観

只霧霧中覦   只霧霧の中に覦む

明眼裏星月   眼裏に星月明らか

霧今安在夫   霧今いずくにか在る

          (上平声「七虞」の押韻)

<感想>

 第二句の意味が分かりにくいのと、第三句の語順が苦しいですね。第三句はこのままでは「明眼の裏の星月」と読むことになります。平仄で見るなら、「眼裏明星月」とせめてしておきたいところです。
 内容的には、第四句で言わんとすることが何なのか、なかなか読み取れません。「時間が経って霧が晴れた」ということでしょうか、それとも、「心の中ではくっきりと見えている」ということでしょうか。
 構成に飛躍があるように感じます。どうしても五言の詩は、省略された、簡潔な表現が多くなるのですが、だからこそ意図が伝わるように細かい配慮が必要になります。俳句を読むことが参考になることが多いと思いますよ。
 今回は、「霧」の字の重複もありますし、もう一息の感がしますね。

2001. 5.19                 by junji





















 第64作も 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-64

  天 佑        

暮夕乍漂雲   暮夕乍ち雲漂い

不瞻三寸先   三寸先も瞻えず

霍然鶏止嚶   霍然鶏は嚶るを止め

虎獣止擒畋   虎獣擒畋を止む

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 昨日(5月10日)突然雨が降って来ました。その時、妹が喋るのを止め、母親が怒るのをやめたので、この詩にちょっと変えて入れてみました。
 もちろん、鶏=妹、虎獣=親・・・です。

<感想>

 面白い着想で、詩の表面の意味と、裏に隠された意味とがちゃんと照応していて、楽しんで作った詩という感じですね。
 ただ、親の比喩として「虎獣」というのが許されるかどうか、またまた親を怒らせるのでは・・・・と心配をしてしまいます。
 ま、それはさておいて、詩の形としては、四句共に末が平声となっていますし、冒韻(「先」「然」もあります。第一句の「漂雲」は、「雲漂い」とは読めません。「雲を漂わせ」と読むか、語順を「雲漂」とするか、どちらかが必要でしょう。
 発想としての面白さなど、詩としての要素は十分持っていますので、これを第一稿と思って、形を整理して行くと良いでしょう。この段階から推敲が始まる、と考えることが大切です。

2001. 5.19                 by junji





















 第65作は 逸爾散士 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-65

  刺個人情報保護法案  
        個人情報保護法案ヲ刺ス  

疑惑個人依律求   疑惑ノ個人、律二依リテ求ム

操觚者合示資料   操觚者ハマサニ資料ヲ示スベシト

取材報道遂行難   取材、報道、遂行スルコト難ク

汚吏貪官應竊笑   汚吏、貪官、マサニ竊笑セン

          (去声「十八嘯」の押韻)

<解説>

 以前に同人誌に載せたものです。旧作を送っていいのか、わからなかったので無理やり新作。今、一番気になっている、メディア法的規制問題について。
 個人情報保護法は名前だけ聞くといいように思えますが、行政機関の持つ個人情報ではなく、メディアを含む民間を規制するもの。特に「個人情報の本人開示」の原則によると、取材されている汚職疑惑議員は調べている記者・ライターに、自分に関する個人情報の開示を請求できる。そんなことになったら、調査報道はできなくなる、と法案の欠陥をそしったものです。
 ポエジーから遠いけど、漢詩は議論もできるから嬉しいですね。ただ「まさに」が二つもあるのは見苦しいかも。平字が思い浮かばなかったのです。
 初句は踏み落としました。「徼」や「要」に「もとめる」というよみがあったけど平用みたいだから。
 仄韻の詩は初心者は作るべきではないと本にあったので、殆ど作ったことはないのですが、結句を「笑顔」にするなどより「−笑」という言葉で結びたかった。
 ちなみに私は日本ジャーナリスト会議会員として、メディア法規制反対運動をしています。

 [訳]
  (国会に提出されている)「個人情報保護法案」をそしる

疑惑を持たれた個人は、この法律にもとづいて求めるだろう。
文筆業の者(ジャーナリスト)は、(その個人についての)資料を(本人に)示すべきだと。
(そんなことになったら)取材や報道を遂行することは難しい。
汚職役人や政治家は、ひそかに笑うことだろう。

<感想>

 抒情も叙事も勿論良いですが、こうした論理性などは漢詩の独壇場ですね。
 日本の伝統的な短歌、俳句に対して、明治の新体詩運動は「何らかのまとまった思想を伝えるには短すぎる」と断言したのですが、残念ながらまだそれに対する反証は出来ていないと思います。
 しかし、戦前の漢詩界が示すように、思想性については漢詩は十分に持ちこたえ得る骨の太さを持っていると同時に、それに叙情性の味付けさえもしてしまいます。幕末の志士たちが愛唱し、漢詩によって志気高揚をなしていたことなどはその表れです。だからこそ、私たちが気をつけなくてはいけないのは、@言葉の羅列にならないようにすること、A必要以上に情緒的に流れないこと、の二点のバランスだと思います。
 今回の逸爾散士さんのこの詩は、そういう意味では、言葉がこなれてなくて、各単語が勝手に置かれているように感じます。作者の「怒り」とか、「もどかしさ」といったものが出てないわけではないのですが、現状では「散文」との境目があいまいな感じですね。
 私たちが例えば杜甫や白居易の詩の中に社会性をつかみ取り、感動を覚えるのは、事実への厳しい視点とそれを伝える言葉の選択、そして過剰ではないが噴出する感情、これらのバランスに圧倒されるからでしょう。ここが難しいところですし、挑戦の甲斐のあるところですね。

 起句の踏み落としは、既に「仄韻詩」というところで、近体詩らしさを失っていますから、あまり気になりませんでした。でも、入れるのでしたら、「もとめる」という言葉では難しいでしょうから、いっそ「叫」くらいの強い言葉にしてみるのも面白いかもしれませんよ。

2001. 5.27                 by junji





















 第66作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-66

  白景        

雪景幽玄白   雪景は幽玄たる白

白中望独麋   白中に独麋を望む

白雲幽勝景   白雲は幽勝の景

天景望孤鴟   天景に孤鴟を望む

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 意図的にいくつかの字の重複を狙ったのでしょうが、意図は成功したでしょうか。
 私は、ややくどく、重いように感じました。特に「白」の重複は、既に題名に色が示されているわけで、更に詩の中で繰り返す必要性は全く無いでしょう。逆に、こうした題をつけたのですから、詩の中には「白」という字を使わないで白さを出すようなことを狙った方が、詩としては良いものになると思いますよ。


2001. 5.27                 by junji





















 第67作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-67

  遊江州朽木郷興聖寺、見藪椿老樹落花頻  
          江州朽木郷興聖寺に遊び、藪椿の老樹落花頻りなるを見る  

暮春山寺老椿稠   暮春 山寺 老椿稠る

千載生神霊気幽   千載 神を生じて 霊気幽なり

花落散紅青蘚上   花落ちて 紅を散らす 青蘚の上

葉揺映影白巖頭   葉揺れて 影を映す 白巖の頭

階前幾度陪遊宴   階前 幾度か 遊宴に陪し

樹下何時蔵髑髏   樹下 何時よりか 髑髏を蔵す

不識興亡多少恨   識らず 興亡 多少の恨

今春復遇落紅惆   今春 復た遇う 落紅の惆み

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 四月下旬、朽木氏庭園を訪れ、藪椿の見事さに見とれました。
 ツバキの漢字で悩みました。山茶などを使ってみたのですが、どうももう一つ元気が出ません。やはり日本人には、この花は「椿」の字とイメージがピッタリ重なっているようです。そこで日本ではツバキは椿の字を使うのだと開き直りました。
 初めの二句はどうもくどいようで、まだピッタリとした気がしません。
 後半は、椿の独白の形にしてみました。

<感想>

 こうした漢字に対してのイメージは抜けきるのが難しく、仰るように「入れてはみたがしっくり来ない」字も多くあるようですね。ただ、だからと言って自分の日頃の感覚だけで「開き直る」のもまずいですし、これはどうしたものでしょうね。どうしても「椿」の字を使うのでしたら、注くらいを添えて、「日本の椿」だとアピールする必要がありますね。
 首聯は別にくどくは感じませんでしたが、第五句の「遊」の字は韻字ですから、避けた方がよいですね。

2001. 5.27                 by junji



 謝斧さんから感想をいただきました。

 老婆心ながら、七言律詩は大変難しい詩形です。習作の時期では、手を出さない方が良いと思います。百害あっても、一利も得ません。
 色彩と「生神」・「霊気幽」・「髑髏」等の措辞で何か、李賀を意識するような詩ですね。

 内容は李商隠の詩のように、晦渋で分かりにくい詩です。
「生神」の「神」は神仏の神様でしょうか、少し和習のような感じがします。
 「花落散紅青蘚上 葉揺映影白巖頭」の対句は少しもの足りません。「花落散紅青蘚上 葉揺滴緑白巖頭」ではないでしょうか。
 「陪遊宴」「蔵髑髏」は対句になるでしょうか。また、誰が「陪遊宴」なのでしょうか、「蔵髑髏」とのかかわりはどうあるのでしょうか。
 一聯の対句は、出句と対句でひとつの意味を成立させます。例えば、右手(出句)と左手(対句)で拍手することにより音が鳴るたとえです。

 読者には、後半の四句が理解しがたく、「興聖寺」には、「陪遊宴」「蔵髑髏」「興亡多少恨」といった故事があるのでしょうか。
 作者は何を感じて、此の詩を作ったのか、詩作意図が理解出来ませんでした。

                 by 謝斧



 謝斧さんの感想への禿羊さんの返事です。

 謝斧先生、ご丁寧な感想ありがとうございました。一々納得のゆくご指摘です。

 「神」は老木の霊をイメージしたのですが、こういう詩になると詩語辞典があまり役に立たなくて、不安な点でした。
 前連に対するご指摘ももっともです。もともと合掌対臭いなと気が引けていた対句でした。

 後半に関しては、椿の独白として表現しました。起連でくどくどと「神」「霊」を使ったのはその伏線のつもりでした。このように人以外のものを主語にするのは、漢詩では異例でしょうか?
 後連「髑髏」と何が対になるのか、ちょっと判りませんでした。それで冒韻までしてしまったのですが。「筵宴」の方がよかったですかね?

 「興聖寺」は近江の小領主、朽木氏の館跡で、足利将軍が避難して来たりしましたので、この椿の前で宴会が開かれたでしょうし、またこの前の街道を浅井、朝倉に追われた信長軍が京へ逃げ帰ったりしたので、髑髏が埋まっていることもあるかと想像いたしました。
 まあこの椿は戦国の興亡を目撃したとしても不思議はないと、私の心象風景の中では浮かんできた次第です。

 今後とも、率直なご意見を賜れば幸甚です。

2001. 6.24              by 禿羊



 謝斧さんからのお返事です。

 先生の説明で好く分かりました。結構な対句だと、却って感心しています。前の対句との流れもあります。
 最後の句、「今春復遇落紅惆」が詩人の感慨を叙述しているような誤解があったので、前の句も詩人の感慨を述べたものと勘違いしました。失礼しました。
 ただ、人のあまり知られていない故事を対句にするのは、詩の内容を晦渋にするだけなので、最後の聯で、説明が欲しいのですが。七律の善し悪しは、最後の聯で決まります。
 内容が内容だけに、和臭はしかたないと思いますので、詩語の椿は許されると思っています。
冒韻に関しては気にせずに作られるべきだと考えています。自分の言いたい所が言えてないようです。読者の立場での感想は、隔靴掻痒の感があります。
 「今春復遇落紅惆」はどう解釈して読めばいいのでしょうか、前の対句とどう関連させて読めばいいのでしょうか。結局は、収束の仕方が悪いため、分かりにくくなっているものと思います。

2001. 6.27                  by 謝斧



禿羊さんから謝斧さんへのお手紙です。

 謝斧先生、有り難うございました。
 先生のご指摘をうけて、以前からもう一つ満足していなかった前聯をいろいろいじくり回して、推敲の楽しみを満喫しました。

 例えば、    散蕚青苔迎夏飾  宿枝黄鳥惜春謳
では、最後の句で花を散らすのを悲しみと表現したのと矛盾するとか、といって
   点蕚翠条迎夏飾 
では、季節感がぴったりこないなど、思い悩んで、とりあえず
   花落敷紅呉綾褥  葉揺響緑蜀魂謳
といたしました。平仄に難があり、また「響緑」が適切か自信がありませんが。

 本来ならば、歴史的背景と、椿に代わって作詩したということを簡単に題に記述すべきだったのですが、これは漢文に自信がありません。

   不識興亡多少恨 
も適切でなかったようです。
   遮莫人間盛衰恨 
のほうが、まだましでしょうか。

「今春復遇落紅惆」はどう解釈して読めばいいのでしょうかとのことですが、
 椿の身としては、眼前に見てきた多くの人の世の恨みなどは知ったことではない。毎年、花を落とすのが悲しいのだ。ということを、表現したかったのです。

 本当に作詩というのは、奥が深いなどというと烏滸がましいのですが、他の人の批正を受けなければ、独りよがりになるということを実感いたしました。
 最後に、初心者として律詩に挑戦するという冒険をしたわけですが、先生からいろいろご批判を受け大変勉強になり、結果としてはよかったと思っております。今後とも、率直なご意見を頂ければ幸甚です。
 有り難うございました。

2001. 6.30                   by 禿羊





















 第68作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-68

  自嘲        

徒画葫蘆甚苦辛   徒に葫蘆を画いては甚だ苦辛し (辛苦)

学詩李杜不求眞   詩を李杜に学ぶも眞を求めず

可憐世間風流士   憐む可し世間風流の士

即是渾侖呑棗人   即ち是れ 渾侖棗を呑む人

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 これは以前に作った詩です。新作ではありません。

 [訳]
無駄に、ぼんやりして 、よくわからない ような詩を作って苦労している人。
李白や杜甫の詩を読んでもその真意を理解出来ない人。
なんと気の毒な、世間では、風流人と云われている人よ。
丁度訳も分からないで、味も味あわないで、棗を丸呑み込むする人のようだ。

<感想>

 「自嘲」との題名がついていても、私は胸にズキリと来るような思いでした。勿論、私の場合には「風流士」などとは呼ばれませんが、でも、こうして漢詩関係のホームページを開いているからには、「やはりそれなりに漢詩への理解は持っていなくてはいけない、そのためにはもっと学問しなくてはいけない」、と心に常に思ってはいるものの、勉強不足を痛感する毎日です。
 謝斧さんのこの詩を見せていただいても、典拠を見つけられない言葉に実はとても苦労しました。図書館であれこれと漢籍を貪っていますがダメですね。「掲載が遅くなってもいけないし・・・」という言い訳を使って、あっさり降参した方がよいでしょう。
 でも、この詩のように、「可憐」と自己を対象化して見ることができるかどうか、が実は大切なことなんですよね。

 謝斧さんからは、詩を練ることについてのご意見もいただきました。平仄討論会のページに掲載しましたので、そちらもご覧下さい。

2001. 6.10                 by junji





















 第69作は 西川介山 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-69

  懷處世        

世情難耐羣名利   世情 耐え難し 名利に群がり

徒以諂言弄詭計   徒に諂言を以て 詭計を弄す

獨厭時流浮小桴   独り 時流を厭ては 小桴を浮かべ

積憂胸裡自難制   胸裏の積憂  自ら制し難し

          (去声「四ゥ」・「八霽」の押韻)

<感想>

 第二句は謝斧さんが直されて、孤平や下三仄などを用いて古詩の風を感じさせる句になっていますね。
 ご指摘のように、第三句の「浮小桴」は、『論語』から引かれた言葉ですね。

 子曰、「道不行、乗桴浮于海。従我者其由与」子路聞之喜。子曰、「由也好勇過我。無所取材」
   子曰く、「道行はれず、桴に乗りて海に浮かばん。我に従ふ者は、其れ由か」と。子路之を聞きて喜ぶ。
   子曰く、「由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無し」と。


 孔子としては珍しく現世逃避を望むような発言ですが、ふと口を衝いて出てしまったこの言葉に込めた孔子の痛切な心情を読み取るべきでしょうね。そこで「一緒に行くのはお前だろう」と言われて喜んでしまう子路は本当にかわいい人柄だと思います。
 介山さんのこの詩は起句の「難耐(安耐)」と結句の「難制」の言葉が重なっている分、感情が強く出ていますね。他の用語も、「羣名利」・「諂言」・「詭計」も強い表現ですから、作者の胸の憤懣が迸るようで、それを転句「浮小桴」の引用によって一呼吸、間を置くような効果が出ているように思います。

2001. 6.10                 by junji





















 第70作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-70

  四年吟得三千首題        

覓句三千都習作,   句を覓めて三千、すべて習作にして

驚天一兩是狂吟。   天を驚かす一兩、すなわち狂吟。

不論巧拙遵平仄,   巧拙は論ぜず平仄を遵(まも)り

七歩凡才鼓俗心。   七歩して凡才、俗心を鼓す。

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 [語釈]
「一兩」
    「ひとつふたつ」の意。わたしがこれまでに書いた三千の詩詞のなかの一二の意味です。
「七歩凡才」
    「七歩の才」をもじっています。ただ詩を書くのが早いだけの凡才のつもりです。
「鼓俗心」
    わたしには俗情をうまく詩にまとめたいという野心があります。

 漢詩を作り始めて4年と1か月、2年ほど前に目標とした作詩填詞3000首をクリアしました。
 2年前、鈴木先生が企画なさった「平仄討論会」、平仄を十分に自分のものとしていないのに論ばかり先行している自分自身にもどかしさを覚えながら、3000作ったらどの程度平仄から自由になるかと思いました。そこで、「平仄を覚えるために」詩を作ろうと思いました。詩ばかりでは飽きると思い、宋詞・元曲にも手を出しました。詞と曲は、まず平声から覚えることにし、100ほどの平韻の詞牌を詞韻第1部から14部までひととおり作りました。詞と曲は、詩よりも押韻個所が多いので、韻・平仄を覚えるのに向いています。そこで、詩よりも詞・曲を多く書きました。そうやってこの2年間でほぼ2000、通算3000を超えました。2000のうち、絶句・律詞は200ぐらい、残りは詞・曲です。
 こういう数ばかりの話、不快に思われる方が多いことは承知しています。しかし、詩詞は、作ってみなければわからないことがあります。とくに凡才は、作ってみなければわからない。この2年間で凡才の小生にわかったこと、紹介させていただきます。

1.3000程度の作詩では平仄を自由に使いこなすまでには至らない。(3000程度の作詩経験では詩語辞典,漢和辞典なしに詩を書くことはできない。)ただし、絶句1首に最初は2週間かかったものが、30分程度でできるようになる。

2.詩は志であるという。この観点から平仄は、自分が伝えたい思いの前に立ちふさがる壁に思えます。
 しかし、実際に書いてみると、平仄や押韻をしない漢語の句を作ることは、もっとむずかしい。凡才には溢れる叙情とか霊感とか、いわゆる詩情を、自分ひとりの力では生み出すことができないからです。しかし、平仄や韻の制約があれば、その範囲のなかで詩情をいだくことができる。
 自由に絵を描きなさいといわれる小学生は何を描いたらよいかわからないが、花を描きなさいといわれれば花を書くことができる。平仄と韻は、その「花」のようなものです。われわれ凡才が天才と対等に(また、われわれ外国人が中国人と対等に)詩詞を書けるのは韻・平仄のおかげである。
 凡才にとって詩は、ただ「志」を述べることではなく、韻と平仄が求めるものに耳を傾けるなかで、自分のささやかな感想を短文にまとめることに似ています。

3.よい詩を書こうと思うなら、詩は作り放しではなく、推敲をした方がよい。
 しかし、凡才は何をどう推敲したらよいかがわからない。そこで、無闇に見当違いの推敲をするということも起こる。自分の浅はかな考えという主観のなかで推敲するのではなく、平仄という客観的な制約のなかで言葉を吟味する方がよい。そういう推敲なら凡才にもできる。

4.絶句・律詩だけではよくわからないが、詞・曲を含めて中国古典詩を通覧すれば、韻よりも平仄にこそ中国古典詩の醍醐味があることがよくわかる。長短句を織りまぜながら一見自由詩のように見えもする詞・曲の数多くの詩形が、定型詩として定着するのは「平仄」があればこそのことです。

<感想>

 鮟鱇さんの精力的な創作活動は、勿論その作品数の多さだけではなく、絶句・律詩・詞・曲、時事的な問題から抒情性に富んだ恋愛詩、回文詩などまでの守備範囲の広さ、いつも読ませていただくことを楽しみにしています。
 初めの頃から鮟鱇さんの詩作に一貫しているのは、同じ興趣を語るにしてもご自分の目で見たことを、心中を描く場合でも(漢詩という)型にはめずに言葉にする、ということだったように思います。普通の人がそうした表現をすれば、構成が雑になったり、用語が野卑になったりするものですが、鮟鱇さんの場合には、決してそんなことはありません。
 言葉遊びとご自身はおっしゃる「回文詩」も、非常に格調高く、言葉を使う楽しさを感じさせてくださるものばかりです。
 それは、詩作のバックボーンとして、鮟鱇さんが様々な文学・芸術への感動体験をお持ちになっていらっしゃることから来ているものだと思っています。
 言葉として使ってしまうと最近は疎まれることも多いのですが、私は鮟鱇さんの作品を読む度に、良質の「教養」とはどういうものなのかを目の辺りに教えられる気がしています。
 ともあれ、3000首、おめでとうございます。以前仰っていた陸游の数を目標に、頑張って下さい。

 鮟鱇さんの今回の言葉は、「平仄討論会」にも載せさせていただきました。

2001. 6.10                 by junji





















 第71作は 三耕 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-71

 昨今の「米百俵」に見る「深謀遠慮」の政は大いに結構であるが、
一日一日が死活の境にある者もある事を忘れては困る。


  路傍草        

路傍草渇枯   路傍の草 渇枯し

樹下種孵育   樹下の種 孵育さる

万骨千里計   万骨 千里の計

蒼生一命宿   蒼生 一命の宿

          (入声「一屋」の押韻。古体詩)

<解説>

 語句の意味は以下の通りです。
 [語釈]
「種」:たね。
「孵」:はぐくむ。
「万骨」:曹松『己亥歳』「一将功成萬骨枯」
「千里計」
       漢の高祖の名軍師”張良子房”は、高祖をして
      「夫れ籌策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房(張良)に如かず。」
       と言わしめた。  「史記」『高祖』「決勝於千里之外」
「蒼生」:草民。

<感想>

 異様なほどの支持率に、実は一番とまどっているのは小泉総理かもしれませんが、最近の国会中継を見ていると、その支持率にひたすら迎合するかのようなやり取りが目立ち、議論とは程遠い景色に不安を感じる方も多いのではないでしょうか。
 具体的に何をどうするのか、が分からないまま、パフォーマンスに終始せざるを得ないのは、次なる選挙をひとまず乗り切るまでは安定しない基盤ゆえのものだとしても、そうした政治日程的な問題で日を過ごす内にも生活に窮している人は数知れずいるわけで、その辺りの視点を失わない三耕さんはさすがですね。
 転句の引用は、私には「万骨」よりも、「一将千里計」の方が主旨に合うように思うのですが、どうでしょうか。

2001. 6.10                 by junji





















 第72作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-72

  梅雨(其一)        

潸潸滂沱響   潸潸たる滂沱の響き

瀰瀰潦水涓   瀰瀰たり潦水の涓れ

庭桑風力戦   庭桑風力に戦ぎ

滴画雫翩翩   滴雫を画き翩翩す

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 雫は、滴が弧を描いて滴る様子です。
今日、雨が降って遊びに行けなかったので、わざわざ雨の形容に潸潸を使いました。
再び駄作ですが・・・

<感想>

 結句の「雫」は、日本だけで通用する漢字、一般に国字と言われる字です。これは漢詩では何よりも禁忌、使ってはならない字です。日本人が作る詩で、日本人が読む詩だから良いのではないか、となると「平仄討論会」の議題になりそうですが、「国字を使わない」ことは議論以前、「漢詩を作ろう」という人が守るべき礼儀だと私は思っています。
 「滴」の字で既に「したたる」様子は出ていますし、結句は語順もおかしいですから、ここは使うのはやめましょう。
 その他では、「潸潸」「滂沱」「瀰瀰(びび)」までは、水の流れの多いことを表す言葉ですが、「涓」は「水のチョロチョロ流れる様」を表す言葉ですから、承句は意味がぶつかっていますね。
 梅雨の嫌な天気にも、探せば好景はいくつもあるものですね。そう言えば、私も子どもの頃には、半日窓ガラス越しに雨の風景を眺めていたような記憶があります。いつからそうした時間の流れを失ってしまったのでしょうか。

2001. 6.10                 by junji





















 第73作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2001-73

  芝離宮        

離宮松樹正蒼然   離宮の松樹正に蒼然

橋上青苔幾十年   橋上の青苔 幾十年

転向双眼啼鳥処   双眼転じて向かう鳥の啼きつる処

高楼多少競摩天   高楼 多少 競いて天を摩す。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 家族で浜松町の芝離宮に行きました。
 典型的な日本庭園で、築山あり、池ありで非常に良いところでした。
ただ、近くは新幹線が走り、ビルは林立しております。その対比を表してみようと思いました。

<感想>

 身近なところで、思いもかけず伝統的な美に出会う、それが東京の良いところかな、と詩を読みながら思いました。
 起句承句は離宮の風景をうまく描いていると思いますが、次の摩天楼への展開を考えると、「橋上青苔」は視野が少し狭すぎるように思います。もう少し離宮全体を眺める姿勢を保っておいた方が、次の逆転が生きてくるでしょう。
 「青苔」はどうしても目線が低く、部分的な視野になりやすく、意識が集中しすぎるように思います。逆にそうした点を生かした王維の『鹿柴』の詩などは、結句に持ってきたことによって、凝集が成功している例でしょう。
 転句はこのままでは書き下し文のようには読めませんし、四字目の「眼」は仄字ですから、「二四不同」に反します。「転向双眼」と大げさな表現をしなくても、「偶見」「遣目」などの言葉で意味は通じるでしょうから、転句は推敲された方がよいでしょう。

2001. 6.17                 by junji





















 第74作は 俊成 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-74

  訪友人      友人を訪ねて  

溪聲深處訪同人   溪聲深き處 同人を訪う

退職忘情離世塵   職を退き情を忘れて 世塵を離るる

樹色留風青欲滴   樹色風を留めて 青滴らんと欲す

山花含涙思頻頻   山花涙を含んで 思い頻頻

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 昨夜寝付かれず「漢詩一日一首」を読んでいて、おぼろげに湧いてきたので一気に作詩しました。ついつい朝の4時半になってしまいました。
 詩の大意は次の通りです。

  先年友人から、妻が亡くなったし子供も独立したので、
     故郷に帰り老母と暮らしているとの手紙をいただいた。
  山また山の溪深き處の友人を訪ねてみると、
  友は定年三年を残して退職、同僚部下との交情をも絶ち、
     今までの一切のしがらみをも断っている。
  そこは薫風さやかに木々の青が今にも滴り落ちてくるようだ。
  今まで会社の仕事優先で、亡妻に苦労かけっぱなしだった事を悔い、
     今頃になって写経をしたり、あと何年も生きない老母に孝行している。

  そんな話を思い出しながら帰路に就いた。

<感想>

 一海知義先生の「漢詩一日一首」は、詩の幅も広く、話題の発展が楽しく、愛読しています。
 詩の内容としては、承句までは「尋隠者」の風格で、整っていると思いますが、転句の「青」「欲滴」という表現はここでは、やや主観的すぎるのではないでしょうか。
 結句の「山花含涙」は、突然の転調。友人と別れた涙と解するのなら分かりますが、解説にお書きになったようなことまでも含ませようとすると、この詩だけでは難しいですね。
 余韻の残る詩になっていると思います。

2001. 6.17                 by junji





















 第75作は 中山逍雀 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-75

  口占        

半生黄梁夢,   

雄心年少時。   

頭上撒子,   

昨昔背時宜。   

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 [語釈]
 「 : 虱

<感想>

 題名の「口占」は、口から出たまま、という意味で、即興的な詩のことです。
 戦後のこの五〇年を振り返った時に、「黄梁夢」の思いを抱く方は多いでしょうね。私は戦後の生まれなので、虱に苦しんだ経験はありませんが、中山さんが詩に描かれた思いはよくわかります。

2001. 6.17                 by junji



 中山逍雀さんから、字の重複があったということで結句を作り直した作品と、私の解釈の間違いを教えていただきました。
改めて、掲載します。


作品番号 2001-75-2

  口 占(改)        

半生黄梁夢,   

雄心年少時。   

頭上撒子,   

昨昔得意遅。   

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 [語釈]
 「頭上撒子」 :
    頭に虱を撒いて酷い目に遭う;余計な事をして酷い目に遭う「歇後語」
    日本語で言うところの、薩摩の守−−−忠度 に相当する。

 虱には関係有りません。転句は、余計なことをして酷い目に遭う と言う意味です。

詩の意味は、
  半生、あっという間に過ぎてしまい、雄雄しい心も少年の時の事。
  余計なことをしては酷い目に遭い、この頃思うようには行かぬ。

2001. 6.18                 by 中山逍雀