第151作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-151

  閑居書懐        

耳順頻嫌世事   耳順 頻リニ嫌ウ 世事ノ煩

寄身茅屋度頭   身ヲ茅屋ニ寄ス 度頭ノ村

荷風習習払愁意   荷風習習トシテ 愁意ヲ払イ

泉水潺潺慰老   泉水潺潺トシテ 老魂ヲ慰ム

雨日南檐娯染筆   雨日 南檐 筆ヲ染ムルヲ娯シミ

晴天東圃楽鋤   晴天 東圃 園ヲ鋤クヲ楽シム

寧須齷齪求名利   寧ゾ須イン 齷齪シテ 名利ヲ求ムルヲ

知是人間泥上   知ルハ是 人間 泥上ノ痕ナルヲ

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 先日テレビ番組で60歳の再挑戦?を放送していました。
 其の番組では、培った知識と経験を自分の趣味に生かして数千万の年収を得ている人、不慣れな消臭材の営業に挑戦して将来を夢見ている人、パソコンの知識を生かしてネットカフェを始めたものの採算が取れない人、それぞれの挑戦を描いていました。
 其の番組を身ながら自分自身は如何なのかなぁーと考えてしまいました。

 こんな詩を作っているようじゃ駄目ですね。

<感想>

 「晴耕雨読」の生活が彷彿とする、穏やかな詩ですね。
 耳順は六十歳、「何を聞いても素直に理解できる」ことが語源ですので、「頻嫌世事煩」とは内容が逆、でも、それがかえって強調の効果が出ていてようです。そう思ってみると読み下しも、「耳順」「頻リニ嫌ウ 世事ノ煩」の間の空白(スペース)に逆接の意味が込められているようで、とても面白く感じました。
 頷聯がこの詩では私は一番心に残りました。
 頸聯は対がぴったりですが、やや付きすぎでしょうか。でも、明快で、詩全体で見ると整った構成に思います。
 尾聯の「泥上痕」は、荘子の「泥亀」の故事からの引用でしょうか。これもバランスよく使ってあると思います。

2001.10.23                 by junji




謝斧さんから感想をいただきました。

 今回は辛口になりますが、真瑞庵先生の作なので、敢えて、遠慮なく感想を述べさせて頂きます。

 措辞はさすがだなと感服しましたが、全体的にこじんまりして、感興に乏しいようです。最近の先生の作は同じような趣意のものが多いように感じています。
 対句は型にはまった、合掌対になっています。全編平板で新味をあまり感じません。

 「耳順」は、誰もが知っている『論語』の言葉ですが、今回の詩の内容からは、ただ単に六十を云うのに、耳順と断る必要はないとおもうのですが。
 最後の「知是人間泥上痕」がよく分かりません。鈴木先生の云うとうり、荘子からきているのであれば語をなさないとおもいます。もし荘子を生かすならば
   寧須齷齪求名利  曳尾泥中真意存
となるのではないでしょうか。

2001.10.25                 by 謝斧




 真瑞庵さんからお手紙をいただきました。

 拙詩『閑居書懐』の「泥上痕」「飛鴻雪泥」を意識したものです。
   知是人間似飛鴻留指爪痕雪泥上
 と云った意味合いです。
 荘子の「曳尾塗中」を意識してはいません。

 この場をお借りしてですが、
 謝斧先生には何時も適切な御意見、批正を頂き大変感謝致しております。せっかくの御意見、批正に対して何時も何らかのご返事をと思っていすが、何分小生、浅学非才適切な言葉を見出せないままに失礼を重ねております。お許し下さい。今後も御指導下さいますようお願い申し上げます。

 鈴木先生のホームページが益々楽しく、そして漢詩愛好家の輪が大きく広がる事を祈念致します。
 これから寒さに向かいます。十分ご健康にご留意されん事を。

2001.11. 3                 by 真瑞庵



 謝斧さんからお手紙です。

 11月3日の真瑞庵先生のお手紙を拝見し、先生の作詩意図がわかりました。
此の詩により詩人の心情も窺えます。

 但、典故の「飛鴻雪泥」を用いるのは大変結構ですし、また、典故は用いた事が判らないように作るのがよいとされていますが、典故を知っている人が読んでも、それと覚ることが出来ないのは、叙述に問題があると感じています。
 此の場合は、「泥上」ではなく、「雪泥」をもってくるべきだとおもいます。
(私の理解力が無かったかもしれませんが、これも一つの意見として聴いて下さい)

 私ならば、

    寧須齷齪求名利  知是雪泥留爪痕 

としますが。

「求名利」は少し稚拙だと感じます。「追名利」としたほうが、より具体的で詩的表現に勝っているのではないでしょうか。

2001.11. 7                   by 謝斧





















 第152作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-152

  中間考査一日目朝        

寒朝寝裏煙中雨   寒朝寝裏 煙中の雨

虫鳥不鳴聞小   虫鳥鳴かずして 小城に聞こゆ

靉靆灰雲連遠阜   靉靆たる灰雲 遠阜に連なり

涼風落葉悉秋   涼風落葉 悉く秋声

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 題そのままです。
 一句目の韻は踏み落としていますが、そのままにしてあります。

<感想>

 起句の「寝裏」は、「牀裏」の方が落ち着きますね。「煙中雨」も分かりにくいですね。「煙雨中」ならば一般的ですが。
 承句は内容が矛盾していませんか。
 私は題名と内容のつながりを一生懸命考えました。「虫鳥不鳴」ということが何か「試験中」の気持ちを暗示しているのかな、とか、雲が重苦しそうに連なるのは今日のテストへの不安の表れかな、とか。
 どうもよく分かりませんから、強いつながりは無さそうですね。となると、自分の記録としては良いですが、他人に見せる時には題名を変更した方がよいでしょう。

2001.10.23                 by junji





















 第153作は京都の 楚 雀 さん、大学生の方からの初めての投稿作品です。
 いただきましたお手紙をご紹介します。
 はじめまして。
京都で大学生をやっております楚雀と申します。

 大学に入ってから漢詩を書き始めて、そろそろ半年になります。
いつまでも独学というのも寂しいので、最近知人を集って漢詩サークルのようなものを結成するに到りました。私も含めて初心者ばかりの集まりなので不安も多いですが、とりあえず漢詩の創作に興味を持ってくれる人をある程度集められたというだけでも嬉しいものです。

 鈴木先生のホームページには漢詩を独習し始めたころからお世話になっていますが、特に多くの方々の詩に触れられる 投稿コーナーは作詩の励みになること頻りです。
 これからは自作詩の投稿も含めてますます恩恵に預かっていこうかと思いますので、よろしくご指導のほどをお願いいたします。

作品番号 2001-153

  夕 景        

落日遲遲就嶂   落日 遅遅として 嶂頭に就き,

山雲江水帶紅   山雲 江水 紅を帯びて流る。

歸鳥相呼聲一叫   帰鳥 相呼ぶの声一叫,

洛中洛外鎖清   洛中洛外 清秋を鎖す。

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 京都の夕景を詠んだもので、承句の「江水」は鴨川のつもりです。

 それから投稿用の雅号(?)として一応「楚雀」とつけてみましたが、古人の号と被っていないかどうかイマイチ自信がありません。
 何か調べる方法はないものでしょうか。

<感想>

 新しい仲間を心から歓迎します。
 それにしても、作り始めて半年ですか。いかにも古都の雰囲気がよく表れた詩になっていると思います。結句の「清秋」はどちらかと言うと秋の中頃までを言う言葉ですので、承句の「江水帶紅流」の晩秋と少しずれるようにも思いますが、許容範囲でしょう。
 四句とも叙景に徹した詩は、ともすると客観的になり過ぎて淡泊な印象を与えますが、転句の「相呼」の二字が生命の息遣いを感じさせて、うまく整っていると思います。

 読みながら、ふと感じたのは、私の作る詩と雰囲気がとてもよく似ていることですね。感性に近いものがあるのかも。私はうれしい限りですが、楚雀さんはどうか知りません。

 雅号についてですが、調べる方法は「大漢和辞典」で探すことくらいしか、私にも分かりません。「大漢和」に載っていないのなら古人の方面では使っても不都合は無いと考えても良いと思いますし、現代の人と仮に一致してしまったならば(別に著作権にからむことではありませんから)、同じ気持ちの人が居たと喜べばいいのではないでしょうか。「私は京都の楚雀、あなたは愛知の楚雀」てな感じで両存していけますよ。

 漢詩のサークルを作ったというバイタリティに敬意を表します。活動の様子などもまた、「桐山堂」の方で教えて下さい。メンバーの方の投稿、楚雀さんの次作投稿も楽しみにしています。

2001.10.23                 by junji




 謝斧さんから感想をいただきました。

 謝斧です

 半年でこれだけ作れるとは信じられません。新たに同学の士を得れたことにうれしく思っています。遠慮なく感想を述べさせて頂きますので、寛恕されたくおもいます。

「落日遲遲就嶂頭」: 「就」は気に入りません。もう少し具体的な表現を用いた方がよいとおもいます。たとえば「残日遲遲落嶂頭」ではどうでしょうか。

「山雲江水帶紅流」: 落日(夕陽)を帯びてでしょうか、起句を承けて無理がありません。

「歸鳥相呼聲一叫」: 転句は明白に詩意を転換させます。

「洛中洛外鎖清秋」: 結句の収束も平凡ではありません。「鎖清秋」の意味がやや晦渋のような感じがしますが、「鎖」は此の句の詩眼です。どこもかしこも秋景色という意味でしょう。「満清秋」より余程好いと思います。

 修辞的には問題がありません。内容はやや平板のきらいがあります。詩人の詩意がみえてきません。言葉にとらわれて、内容がおろそかになっていまるようです。
 かなり作詩経験のある人の作と比較しても遜色はありません。驚いています。誰かに批正を乞うたのでしょうか。

 [追記]
 今此の作を見るに、老練な漢詩作家の作品のようです、
 修辞叙述は巧みだが、少し感興に乏しいようにおもえます。これは、転句の陳套な句によるものと感じています。転句を変えていろいろ推敲すれば、詩がどのように変わってゆくか、それを試していてはいかがでしょうか。

2001.10.26                  by 謝斧




 楚雀さんからのお返事です。

 <鈴木先生に>

 先生の詩と「雰囲気がよく似ている」とのことですが、鈴木先生の詩は、読みやすい表現を使ってあっさり仕上げている雰囲気がとても好きです。私も絶句については和歌・俳句に通じるあっさり感を目指しておりますので、その辺りの趣向が合うのかもしれません。


 <謝斧先生に>

ご講評、ありがとうございます。

 起句の「就」は、最初「依」「懸」を使いたくて迷った所です。(孤仄まで気にする事はないのかもしれませんけど、一応。)
 仰る通り「落」を使うか、普通に「倚」でもよかったかもしれません。

 結句の「鎖清秋」は李Uの「烏夜啼」から借りたもので、「鎖」の字は山に囲まれた京都の生活実感を意識してみたものです。

 転句は最後に付けたのですが、起句承句で視覚を使ったのでセオリー通り聴覚を配してみました。ちょっと安易に済ませてしまった感じはします。

 「かなり作詩経験のある人の作と比較しても遜色はありません。驚いています。誰かに批正を乞うたのでしょうか。」と仰っていただけましたが、今のところ独学ですので、まだ批正を請うべき師は得られていません。
 ただ今回漢詩初投稿ということで、堅実・無難な路線を狙って句を練ってみましたので、そう思って下さったのならば、意図は成功です。

2001.11. 3                   by 楚雀





















 第154作は 中山逍雀 さんから、詞の作品の投稿です。
 

作品番号 2001-154

  洞庭春色・游岱廟和泰山      岱廟と泰山に游ぶ  

岱廟泰山,千閣龍祠,萬丈雲巓。

恍然天下勝,正陽天睨,門門殿殿,古樹冲天。

初次旅游,窺前看左,貨貨人人大道邊。

神威厳,鬱鬱柏籟起,深邃幽玄。

羊腸危路三千。

銘刻詞詩顕己世上,衆山無大樹,更無渓水,崔嵬累累,醒不成眠。

摩字懐賢,冒寒憐我,漸漸紅紅満澗煙。

恩波洽,眼前迎旭日,幽境迴旋。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 この作品は「詞」と云われる詩歌で、定型の数は二千余あり、中國詩歌の主流を為す定型詩歌です。
 この作品は、前段と後段の二部構成です。 「洞庭春色」が詞牌名です。

[前段]
    岱廟泰山,千閣龍祠,萬丈の雲巓。
    恍然たり天下の勝,正陽門、門,天睨,殿、殿,古樹は天を冲く。
    初次の旅游,前を窺い左を看(前後左右を窺看の意),
            貨貨人人(沢山の物貨と沢山の人の意)大道の邊。
    神威は厳たり,鬱鬱として柏籟は起り,深邃幽玄。

[後段]
    羊腸の危路三千。
    詞詩を銘刻し己を世上に顕し,衆山に大樹無く,更に渓水無し,
            崔嵬累累たり,醒めて眠を成さず。
    字を摩して賢を懐い,寒を冒して我を憐れむ,
            漸漸紅紅として澗に煙(日本語の霞の意)は満つ。
    恩波洽く,眼前に旭日を迎へ,幽境迴旋す。

<感想>

 詞の投稿も久しぶりですね。
「洞庭春色」という詞牌は私の手元の漢文大系には見つけることが出来ませんでしたので、区切りなどはこれで良いのか少し不安ですが、もし正しくなかったらお許しを。

 前半の「正陽天睨,門門殿殿」は私は不案内でよく分かりません。どなたか教えてください。
 泰山は、秦の始皇帝以来の聖地ですが、李白が憧れた仙境の地でもありますね。そうした伝統を踏まえた上で、スケールの大きさを伝える詞だと思います。楽しく読ませていただきました。

2001.10.25                 by junji



 「正陽天睨,門門殿殿」につきまして、さっそく作者の中山さんから解説をいただきました。

 「詞」洞庭春色・の「門門殿殿」の意味は、正陽門、配天門、仁安門などの門を云います。殿殿は天睨殿、后寝殿、漢柏殿などの宮殿を云います。

とのことです。





















 第155作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-155

  偶成        

茅舎絶無敲門客   茅舎絶えて無し 門を敲く客

嚢中少有沽花銭   嚢中少しく有り 花を沽う銭

此生何物過慵裏   此生何物か 慵裏に過ぐる

獨対氷姿殊可憐   独り氷姿に対せば 殊に憐れむ可し

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

  我を尋ねる人も無く
  花を買って、いくらか淋しさをまぎらわせたいのですが。
  振り返りみれば我が人生はなんだったのか、ただ、だらし無く過ごしてきただけなのか。
  買ってきた菊の花に対せば、ただただ独り憐れむばかりだ。
  菊は霜に冒されても、耐えて花をつけているのに、自分はどうだろう。


<感想>

 謝斧さんの今回の詩は、前半の対句も面白く、私はいろいろなイメージが広がり、楽しく読みました。
 承句は賀知章「題袁氏別業」からの言葉でしょうが、「沽酒」の語を「沽花」としたところに、
私は石川啄木

   友がみな我よりえらく見ゆる日よ
   花を買ひ来て
   妻としたしむ


の歌を連想しました。

 同じような連想で行けば、結聯の「氷姿殊可憐」では、水原秋桜子

   冬菊のまとふはおのがひかりのみ

の句が浮かびますね。

 冬菊の漢詩では、私は白居易「菊花」が好きです。

     菊 花
   一夜新霜著瓦軽      一夜 新霜 瓦に著いて軽し
   芭蕉新折敗荷傾      芭蕉 新たに折れ 敗荷は傾く
   耐寒唯有東籬菊      寒に耐うるは 唯だ東籬の菊のみ有りて
   金粟花開曉更清      金粟の花は開きて 暁 更に清し


 結聯の「殊可憐」は、「殊自憐」ではくどいでしょうか。「可」の意味がよく掴めないのですが。

2001.10.28                 by junji



 謝斧さんからお手紙をいただきました。

 「可」の意味がよく掴めないという点については、これは私の日本語訳のまちがいです。
 買ってきた菊の花に対せば、けなげにも霜に冒されて、耐えて花をつけている姿が殊に愛らしく感じられます。ただ、おおせの如くの「獨対氷姿殊自憐」では、少しくどく感じます。「対氷姿殊可憐」のほうが、悲しみて傷らず(論語)の感があり、すぐれているとおもいます。

 石川啄木の
   友がみな我よりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ
 を思い浮かべということでは、私の作詩意図は此の石川啄木の歌にあります。まさに知音を得た喜びがあります。

 ここで問題の提起があります。これは、私の発明によるもので、少しばかげたことかも知れませんが。
 漢詩では、「獨対氷姿」のほうが一般的で、「妻としたしむ」という表現は恐らくはありません。然し詩の内容では、はるかに啄木の歌の方が叙情的な表現はまさっています。そういうことであれば、詩形の特性では、短歌のほうがまさっているのでしょうか、どんなものでしょうか。

2001.10.30                  by 謝斧



 謝斧さんの問題提起については、私なりに考えてみました。皆さんもご意見がありましたら、「桐山堂」に投稿いただけるとありがたいですね。

 「妻としたしむ」という種類の心情表現が漢詩に無いのか、という点では、確かに日常の辛さを妻に語りかけることで癒すというような叙情性を詠った詩は漢詩には少ないと思います。
 また、自分で作詩する場合にも、漢詩の詩形で作ろうとした時には、どうしても自分の心情を先人の表現と重ねようとするために、ややもすると類型化しがちで、啄木の詩のようなたゆとうような微妙な心情を表現しきれないもどかしさはあります。無理に作ってみると、どうも自分の慣れ親しんだ漢詩とはずれていて、しっくりしない違和感を感じてしまいます。
 さらに、漢文という論理性が明確な言語の特徴もあるかもしれません。
 そういう点から考えると、短歌の方が日本人の微妙な心情を詠った場合には、漢詩よりも短歌の方が好詩が多いとは言えます。

 しかし、それは私は適性の問題だと思います。俳句と短歌を比べた時にも、俳句が適した心情もあれば短歌の方が良い場合もあるはずです。短歌だからこそ成功している詩もあれば、俳句でなければ表現できないものもあります。同じように、漢詩の方がふさわしい心情もあるわけで、それぞれが得意不得意を持っているのではないでしょうか。

 ここからは私の考えなので、もし違っていたらご指摘いただきたいと思いますが、短歌や俳句は明治以降、幾度も改革の風に吹かれて、それぞれの時代に求められた表現を吸収して発展してきた歴史を持っています。
 一方、漢詩の方は新しい素材や新しい心情を表現する要求を抑えて、出来るだけ古典にすり合わせるようにしてきた、つまり守旧の姿勢を保ち続けてきたと言えます。
 したがって、漢詩といった場合には、すでに定着したイメージが強く、独創的な新奇な表現に出会うと私たちは詩として鑑賞するよりも先に、自分のイメージとの食い違いのために違和感を出してしまうのではないでしょうか。
 もちろん、独自の鑑賞眼で詩を眺めることの出来る人もいるわけですが、一般的には先述のような反応の人の方が多いのではないでしょうか。

 私自身はどちらかと言うとイメージにしばられる方だったと思います。(これも偏見かもしれませんが、教員はつい先人の解釈に頼ってしまって生徒に教えるために、「これが正しいのだ!」と言いがちです。反省!)しかしながら、このウェブページで皆さんの漢詩を拝見して、それまでの思いこみが修正されていくのを実感しています。
 私たちが長い歴史の中で培ってきた漢詩のイメージを破ることはどなたも思っていません。それは大切に守りながら、なおかつ自分の今目の前の感情を表そうとしている、皆さんの漢詩への真摯なお気持ちが本当によく伝わってきます。私は、それが漢詩の新しい「発展」だと思っています。
 明治の短歌界に「明星」を中心とした与謝野晶子や石川啄木といった天才詩人が浪漫の新風を巻き起こしたように、平成の時代の漢詩界にも新星が登場し、漢詩の伝統に立脚しつつ新しい叙情性を創出してくれるかもしれない、そんなことを考えるのも楽しいことではないでしょうか。

2001.11. 1                    by junji

      この意見は桐山堂にも転載しました。






















 第156作は長崎県の中学3年生、 マヨっち さんからの初めての作品です。
 お手紙には、
  易しく面白い言葉で書かれてあって、とても私の目を引き付けました。
  漢詩創作のときも横に平仄・韻検索がついてあって、
 もう すーーーーーーっごく助かりました。(本当に)
  又、漢詩をいっぱい見ることが出来るので嬉しいです。
と、ホームページへの感想も書いてくれました。
 ありがとうございます。私の方こそ「すーーーーーーーっごく」嬉しいですよ。

作品番号 2001-156

  秋夜管絃        

夜空雲不在   夜空雲在らず

我吟月明中   我吟ずる月明かりの中

虫管絃遠聞   虫の管絃遠くに聞こゆ

集皆音楽秋   集え皆音楽の秋

          

<解説>

  中学3年生です。
 この作品私の第一号なんですよ!すごく嬉しいです。
 学校の総合学習の時間に、各自テーマは自由ということで、いろいろなことを調べたり、挑戦したりしているのですが、私は、小学校から詩吟を習っているので、<詩吟を創作しよう>と始めたのです。
 だけどここに至るまでとても大変でした。しかし、まだまだです。(転句なんて転句らしくない)
 漢詩の創作を教えてくれる方がいないので、辛い批評をお願いします。

・・・漢詩創作るってとってもおもしろいですね!また投稿します。

<感想>

 初めての漢詩ということですが、詩吟を習っていらっしゃるからでしょうね、言葉の使い方、並び方に無理が無く、素直に書かれていると思います。
 特に、結句(第四句)は、発想と言い、表現と言い、とても面白いと思います。漢詩というとどうしても難しい言葉を使いがちですが、作者の年齢にぴったりの良い表現というのもあります。(絵とか詩では、こういうことはよく言われますよ)この結句は、そう言う意味では、ちょっと頭の固くなりかけた私には、とにかく新鮮で、すごく感動しました。
 全体の構成も、起承転結の形になっていて、場面も目に浮かぶ作品になっていますね。

 注意事項としては、押韻が不備ですので、その点は気を付けましょう。五言絶句の場合には、承句(第二句)と結句(第四句)には、同じ韻目の字を入れる約束です。漢詩では、どんな形式であれ、最低限、押韻だけは守らないといけません。
 この詩では、承句の末字が「中」、これは「上平声一東」に属する字です。結句の末字は「秋」、これは「下平声十一尤」に属しますから、韻目が異なっています。日本語で読むと、「ちゅう」と「しゅう」ですから似ているように思いますけどね。ここは、どちらかにそろえましょう。

 平仄については、あまり気にし過ぎて、詩を作るのが面倒になってはいけませんが、参考のために少し説明をしましょう。。
 この詩の平仄を、〇は平声、●は仄声で書くと次のようになります。

     夜空雲不在      ●○○●●
     我吟月明中      ●●○○
     虫管絃遠聞      ○●○●○
     集皆音楽秋      ●○○●○

 赤い色で平仄を書いたところが、本来は逆でないといけないところです。理想的には、承句は○●●○○、転句は○●○○●となると良いわけですが、この規則は、「二四不同」「反法・粘法」と言われています。私のページでは、漢詩のきまりのところに書いてありますので、見て下さい。
 マヨっちさんの言葉を生かして、平仄と押韻をそろえていくと、こんな感じになるでしょうか。
     夜天雲何処
     独嘯月明丘
     虫奏管弦響
     集皆音楽秋

 参考にしてみて下さい。

2001.10.28                 by junji



 咆泉さんから感想をいただきました。

 諸先輩の素晴らしい詩も感激しますが、今日の中学生の投稿で「集皆音楽秋」という表現にも、若さというのは良いものだと感心しました。
 動物達の森の音楽会という唱歌を連想しました。

2001.10.29                 by 咆泉





















 第157作は 西川介山 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-157

  山行        

清溪一道夏衣輕   清渓一道 夏衣軽く

水曲乘涼背澗聲   水曲 涼に乗じて 澗声を背にす

迫切巉巉担途少   迫切 巉々 担途少なく

松根箕踞野風清   松根に箕踞すれば 野風清し

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 夏の山歩きの爽やかさがよく感じられる詩ですね。

 転句の「担途」「坦途」ですよね。そうでないと平仄(挟み平)が合いませんし、意味も分からないでしょう。
 結句は「箕踞」は、箕の形に似て膝を伸ばして坐るという意味ですから、山行の一休みとしてはピッタリの言葉ですね。そこに「野風」が来るわけですから、身体の奥まで吹き抜けるような爽快な構図が眼に浮かびます。
 起句から段々と山を登り詰めていく展開は現実感があり、転句の「巉巉」の畳語も緊張感が出ていて良いと思います。
 結句の「根」は実景でしょうが、これだけがやけにリアルで、やや浮いているように感じますが。

2001.10.30                 by junji





















 第158作は 藤原鷲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-158

  新涼読書        

蟋蟀吟庭月半床   蟋蟀庭に吟じて 月半床

宵風嫋嫋送新涼   宵風嫋嫋 新涼を送る

幽齋机上詩書足   幽斎机上 詩書足り

灯火親來夜未央   灯火親しみ来って夜未だ央ならず

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 起句の素晴らしさに圧倒されました。承句は普通の句だと思いますが、起句とつながることで非常に風格のある句に変わっています。
 これは何が起きるのだろうという期待は、後半になって、ややしぼんでしまうような感があります。
 詩の展開としては、季候も良し! 机の上も準備万端!! 夜はまだまだ長いよ!!!という高揚感が出ていて、詩としてはまとまった佳詩だとは思います。しかし、前半の秀抜な二句を後半が受け止めかねているように感じます。
 李白風のふっとんだようなスケールの大きな比喩とか、意表をつく転句の展開とか、そんなくらいしないと、なかなかバランスはとれないんじゃないでしょうか。

2001.10.30                 by junji





















 第159作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-159

  遊庭        

朝日高昂鳥未聞   朝日高く昂れど 鳥未だ聞かず

蛩声朗朗遏浮雲   蛩声朗朗として 浮雲を遏む

天明草下無光映   天明るかれど 草下光映無し

湿湿庭坤虫作群   湿湿たる庭坤 虫は群を作す

          (上平声「十二文」の押韻)

<解説>

 朝、草むしりをした時を歌ったものです。
 日は高く昇っていたのですが、草の沢山繁ってるところはコオロギが鳴いていました。
茎をかき分けていくと、ジメジメした場所に集まっていました。
 少し気持ち悪かったですが。

 [語釈]
 「遏浮雲」:秦青の故事より(列子)

<感想>

 今回の詩は、言葉が幾つも重複しています。
 例えば、「朝日高昂」とあるからには「天明」は言わなくても分かります。ま、ここは次の「草下無光映」との対応で、あらためて言っておいた強調として理解は出来ますが、「蛩声朗朗」とあるからには虫が集まっていることは分かるわけですが、「虫作群」と来るのはどうでしょうか。
 また、「鳥未聞」は「鳥声未聞」の意味でしょうが、だからどういうことが言いたいのかが伝わりません。代わりに「蛩声」が聞こえたというのなら、「蛩声朗朗」は重複でしょう。「草下無光映」も(「草下」も言葉としては「叢裏」くらいの方が良いでしょうが)次の「湿湿」を既に暗示してくどいように感じます。
 承句の「遏浮雲」は、故事も全く意味をなさないと思います。これでは庭の「蛩声」と秦青が同じになってしまいます。「林木を振るわせ、行雲を遏めた」とされる秦青には心外この上ないことと思います。
 今回の詩は、如庶さんが何に感動しての詩なのかが伝わりませんし、用語にも疑問の多い作品になってしまいましたね。

2001.11. 3                 by junji





















 第160作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-160

  流人行        

朱門良狗食美肉   朱門の良狗 美肉を食らい

陋巷流人飽残菽   陋巷の流人 残菽に飽く

蒼天有耳聴我言   蒼天 耳有らば、我が言を聴け

浮生有分何須哭   浮生に分有れば、何んぞ哭するを須いんや


身纏繿褸茫履穿   身は繿褸を纏い、茫履穿ち

面痩塗垢苦寒天   面は痩せ、垢に塗れて寒天に苦しむ

飢腸扶病窺残肴   飢腸病を扶けては、残肴を窺い

抱膝拊寒陋巷眠   膝を抱き、寒を拊て陋巷に眠る


壮夫視我嗔且哂   壮夫我を視ては、嗔り且つ哂い

児婦瞥我侮卻憫   児婦我を瞥しては、侮り、卻って憫れむ

長安少年衆婁羅   長安の少年衆婁羅

夜組徒党逼蠢蠢   夜、徒党を組んで、逼る事蠢蠢


静夜忽聴哀叫聲   静夜忽ち聴く哀叫の声

惨状未解怖且驚   惨状未だ解せず、怖れ且つ驚く

魂神飛逝疑我目   魂神は飛逝して、我目を疑う

阿鼻叫喚栗膚生   阿鼻叫喚 栗膚生ず


畏竄路傍懼扼困   路傍に畏竄して扼困を懼る

朋輩惶遽無由遁   朋輩惶遽するも 遁るに由無し

竟擒驕児忍詈罵   竟に驕児に擒られて、詈罵を忍ぶ

頻愬病躯偏哀願   頻に病躯を愬えては、偏に哀願す


殴打掴衽曳老躯   殴打 衽を掴んでは老躯曳き

欲逃足頻恐諛   逃れんとするも足はして、頻に恐諛するも

驕児無情當掩目   驕児情無く當に目を掩わん

酸嘶嘔泄看此愉   酸嘶嘔泄 此を看て愉しむ


横行白日鬧城市   「白日に横行して城市を鬧がし

盗食嚇婦豈免死   食を盗み婦を嚇しては豈を死を免れんや

不許腥汚遊處   許さず腥の遊處を汚すを

流人非人如螻蟻   流人は人に非ず螻蟻の如し」


我聞此言獨激昂   我此言を聞いては獨り激昂し

怒気極來一惻傷   怒気極り來って一に惻傷す

我曹無家無所望   「我曹家無き、望に所無き

陋巷側身亦何妨   陋巷に身を側てては、亦何ぞ妨げんや


遭俗眼白易摧敗   俗の眼の白きに遭っては摧敗し易く

獨懷故郷毎嘆喟   獨り故郷を懷っては、毎に嘆喟す

草間流離渡残年   草間に流離して残年を渡り

嘆身鄙賎盡衰憊   身の鄙賎を嘆いては衰憊す。


天明忍見慘死多   天明忍び見る慘死の多きを

老眼天公知奈何   老眼の天公知る奈何

如此非道恨何深   此の如き非道、恨何ぞ深き

欷歔為発悲憤歌   欷歔し為に発す悲憤歌を」


          (換韻)

<解説>

 長い詩で申し訳ありません。
 此の作は、私が三十代の頃作ったものです。私は長編の作を好んで作っていましたが、年をとるにつれ、根気がなくなり、今は作っておりません。
 此の作を、若い徐庶先生や楚雀先生に読んで欲しく投稿しました。
 どうしても短詩形で表現すると、隔靴掻痒になりがちです。日本人の作家は七絶などにこだわりすぎて、自由に詩を作れていないようです。こういった長編にも挑戦してくれますよう、鈴木先生の趣旨にはそむきますが投稿させていただきました。
 鮟鱇先生等は詩風にあっているものとおもいますが。

<感想>

 この詩をいただいたメールの副題に、「楚雀さんに読んでいただきたく」とありましたので、よろしければ、感想は楚雀さんに是非書いていただきたいところです。

 謝斧さんの三十代ということですから、今から二十年以上も前のことになるのでしょうか。どんなことをきっかけにこの詩を作られたのかなぁと、私は思って読みました。

2001.11. 3                 by junji



 謝斧さんからお手紙をいただきました。

 「流人行」はいまから20年まえに横浜で、ホームレスの人達(流人行)が、少年等のチンピラ(衆婁羅)に集団暴行をうけた事件がありました。
 此の詩は、この時のことで、ホームレスの人に代わって詠じました。

 時事をとりあげたものは短詩形では、どうしても隔靴掻痒になりますので、逐次改韻型の長編にしました。

2001.11. 4                 by 謝斧



楚雀さんから感想をいただきました。

 ご指名をいただきまして恐縮です。
『流人行』拝読しました。

 20年以上前の作ということですが、テーマとしてはむしろここ数年の世情とあまりに合致してしまっているため、全く時差を感じません。やはり「憤りを発して世に憂を陳ぶ」といった内容となると、絶句や律詩の及ばないところ、長編詩の醍醐味を堪能させていただきました。

 冒頭部の「蒼天有耳聴我言,浮生有分何須哭」のくだりでは、『楚辞』「忠に非ずして之を言う所あらば、蒼天を指して以って正と為さん。」(惜誦)のような言い回しを思い出します。
 散文で言えばすこし大言壮語に過ぎるような表現ですが、たぶん常套の句として確立されているのでしょう。
 なかなかストレートに物事を述べることが難しい世上にあって、こうした表現も許されているところなども長編詩の魅力の一つだと思いました。

 また後半、「我曹無家無所望,陋巷側身亦何妨」以下の独白部分は圧巻です。原文のリズムはもとより、訓読の調子も素晴らしいので、口に出して読み返してしまいました。発憤を伝える手段としての韻文の有効性を改めて感じます。

 さて私の場合、そもそも漢詩に興味を持ったきっかけが上記の『楚辞』であったり『長恨歌』であったりしますので、長編詩の作詩はもとより目指す所ではあるのですが、七絶の辻褄を合わせるのにすら難儀している現状ではなかなか難しいものがあります。
 ただ、いずれ絶句や律詩では不自由を感じるような詩題に出くわした際は、是非とも長編に挑戦してみたいものです。

2001.11. 7                   by 楚雀



 鮟鱇さんからも感想をいただきました。

 謝斧先生
 鮟鱇です。「流人行」拝読しました。大作だと思います。

 どうしても短詩形で表現すると、隔靴掻痒になりがちです。
日本人の作家は七絶などにこだわりすぎて、自由に詩を作れていないようです。
 こういった長編にも挑戦してくれますよう、鈴木先生の趣旨にはそむきますが投稿させていただきました。
 七絶云々は小生も同感です。隔靴掻痒、目に映る自然を描くだけの作は、作者のメッセージが読み取れず小生も隔靴掻痒に思うことが多い。

 鮟鱇先生等は詩風にあっているものとおもいますが。
 これは小生にはわかりません。このたぐいのことは、自分自身にはわからないことです。
 ただわかるのは、小生は平仄をナビゲーション変わりにしておりますので、長い詩を書く場合は宋詩にするだろう、ということ。古詩は書けません。どれだけの長さにするのか、自分で決めなければならない、そういう難しさが古詩にはあります。その力量は小生にはありません。
 宋詩の最長は「鶯啼序」240字。小生が書いたのは1作、小生がいくらか試みたものは長くても100字−160字程です。謝斧先生の280字には及びません。

 そのうえで、玉作につきいささか不満もあります。
 詩は長くなると歴史的・叙事的になります。歴史的:なにも天下国家のことだけはなく、個人のレベルにおいても歴史的になります。玉作、小生には杜甫の古詩を読むような感がありました。杜甫の古詩、そこではわたしたちは、杜甫が書いたことではなく、それを書いた杜甫自身を読みます。
 桐山人先生の感想に、

  謝斧さんの三十代ということですから、今から二十年以上も前のことになるのでしょうか。どんなことをきっかけにこの詩を作られたのかなぁと、私は思って読みました。

 とありましたが、小生も同感です。謝斧先生が、この詩を書いた背景がわからない。つまり、小生も桐山人先生も、謝斧先生を読もうとしているから、そういうことが気になるのです。

 書かれていることは、今でいう「オヤジ狩り」でしょうか。それを狩られる立場から書いている。
 しかし、狩られる立場の叫びは書かれているが、何が「狩られた」のかがよくわからない。狩られた「朋友」と主人公が仲間であるらしいことはわかりますが、どういう仲間だったのか、単に襤褸をまとう流人仲間だけでは不十分です、たとえばたがいに詩の仲間であったとか、あるいは、ともに残飯を分け合った仲間であったのか、あるいは、残飯を日々争った仲間であったとか。。。。
 つまり、「長安の驕児」にいたぶられる「朋友」と主人公の関係が小生には希薄で、単に貧乏のどん底にある人間が、人間としての扱いを受けていない、ということがわかるだけです。しかし、この場合の「人間」はまだまだ抽象的です。大作であるだけに惜しまれます。

 小生の名前がありましたのであえてひとこと、分を超えました。お許しください。

2001.11. 7                    by 鮟鱇





















 第161作は 舜隱 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-161

  秋暮        

夕霞寒雨歇   夕霞 寒雨歇み

煙渚走流來   煙渚 走流来る

發氣蓬茅冷   気を発して 蓬茅冷やかに

竭聲蟋蟀哀   声を竭くして 蟋蟀哀し

C輝蝮公塞   清輝 蝮公の塞

狂嘯腐儒臺   狂嘯 腐儒の台

俄覺凄風切   俄に凄風の切なるを覚え

空聞小鐸催   空しく小鐸の催すを聞く

          (上平声「十灰」の押韻)

<解説>

 以前の「孟秋」の詩と内容のかぶっている部分がありますが、今回「哀しい」のは蟋蟀です。日々川辺の叢から立ち昇る空気は冷たくなり、その中の虫の声も哀しみを帯びてきました。  なお、「蝮公塞」は「マムシ」とあだ名された齋藤道三の居城、すなわち岐阜城、そして「腐儒臺」は我が家のベランダです。

<感想>

 随分律詩の風格が出てきたように思います。全体に統一のとれた情緒があります。
 頷聯の「發氣」「蓬茅冷」とのつながりがよく分かりませんが。
 頸聯の「C輝蝮公塞/狂嘯腐儒臺」は、言葉の取り合わせが面白く、楽しめました。但し、「蝮公」は平仄が合っていませんから、残念ですね。
 一首ごとに詩がまとまっていくような感じがして、楽しみですね。

2001.11. 3                 by junji





















 第162作は 楚雀 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-162

  夜遊宮        

旌旗東去幾年經   旌旗東に去りて幾年か経る,

既絶笙歌寂禁庭   既に笙歌絶えて禁庭寂し。

斜月朧光相照處   斜月の朧光相照らす処,

衞兵牽馬影零丁   衛兵馬を牽いて影零丁。

          (下平声「九青」の押韻)

<解説>

 京都御所をモデルにしたものです。
 御所では昼夜を問わずパトカーらしき車が巡視を続けていて、場所が場所だけにそれなりの警備が敷かれているわけですが、既に主が去ってしまった庭を守りつづけるその姿にはなにか物寂しいものが感じられてなりません。

 [語釈]
 「夜遊宮」:同名の宋詞牌がありますが特に関係無く、御所の夜歩きくらいの意味で付けました。
 「旌 旗」:天皇の旗指物。起句は李白詩「六竜西幸万人歓」から半分頂きました。
 「零 丁」:独りとぼとぼ行く様子

<感想>

 
 用語の点で難点を言えば、承句の「寂」が余分ということでしょう。詩全体で十分「寂」の雰囲気は出ているのに、さらに敢えて言う必要は無いでしょう。「空禁庭」の方が安定します。

 しかし今回は、結句による収束に疑問があります。楚雀さんが実際に「衞兵牽馬影零丁」の光景を見たというのなら良いのですが−−私は夜の御所の警備の様子を知りませんので間違っていたらすみません−−なぜこんな時代がかった表現をしたのかが私には分かりません。
 百年程昔の人が作ったというのなら実際に馬も居たでしょうから理解できるのですが、現代人の楚雀さんが作ったというのでは、現実味が薄く、観念だけの描写になってませんか。もしそうであるならば、私はこうした詩は作るべきではないと思います。自分の今の気持ちを言葉で定着するために詩人は努力する(或いは苦しむ)わけですが、その時に現実に存在しない物でも作者の都合で創り出してしまえば、それは小手先で詩を作るに等しくなります。
 楚雀さんの力量や感性に秀抜なものを感じるゆえに敢えて言わせていただきました。

 で、「衞兵牽馬影零丁」が実際の光景だとした場合にはどうなのか、ということですが、その時は用語のバランスの取れた、余韻の残る結句だと言えます。江戸漢詩の中に入れたいくらいですよね。

2001.11. 3                 by junji



 謝斧さんからも感想をいただきました。

 詩を読ませていただきました。
おどろいています。ただ半年位の経験というのではなく、詩自体大変出来のよいものです。

 東京遷都を「旌旗東去」と詩的表現をしたのは流石だとおもいます。

   「しかし今回は、結句による収束に疑問があります。楚雀さんが実際に「衞兵牽馬影零丁」の光景を見たというのなら良いのですが」 と鈴木先生はおっしゃいますが、私はとくに転結句は、佳句だとおもっています。気に入っています。
 梁川星巌の「吉野懐古」の例は、いいわけにはなりませんでしょうか、よくわかりませんが。

「余韻の残る結句」ということについては、まさにその通りだと感心しています。

2001.11. 4                  by 謝斧



 楚雀さんからは補足のお手紙をいただきました。

 御所の警備ですが、もちろん馬はいません。
 どこか別の世界の話ということに出来ないものかと思って「御所をモデルにした」という解説にしてみたですが、やはり苦しいようです。

 現実に存在しないものを詠んでよいものか、あるいは詩にどの程度の虚構を持ちこむべきなのかは今の私には判断しかねます。
 ただ今回の作に関しては、中途半端に現実と妄想が混同しているのがまずいところだと思います。

2001,11, 7                   by 楚雀





















 第163作は 舜隱 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-163

  五丈原        

夙夜懷追志   夙夜志を追わんことを懐い

出師已數年   師を出だすも已に数年

風過戰塵野   風は過る 戦塵の野

星落晩秋天   星は落つ 晩秋の天

早慮敵兵逼   早に敵兵の逼らんことを慮り

更疑帥首全   更に帥の首の全からんことを疑わしむ

授人將大計   人に授くるに大計を将ってするも

遺産只桑田   産を遺すは只桑田のみ

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 中国のドラマ、「三国演義」を観ていて浮かびました。
 (わかり難いかも知れませんので念のため、)頸聯は「死ゥ葛走生仲達」のことで、司馬懿が死んだ筈のゥ葛亮の姿を見、慌てて退却した後に「我有頭否?!」と問うたという話です。

<感想>

 今回の詩は、舞台設定も本場中国ということで、用語も無理が無く、楽しく読みました。
 丸聯の対句も、十分古典を意識してのもので、取り合わせも面白いと思いましたが、頸聯は特に展開もすぐれ、秀抜の出来だと思います。
 尾聯も、ゥ葛亮の人柄を偲ばせて余韻が深く、良い終わり方ではないでしょうか。
舜隱さんの力量がよくうかがわれる作品です。

2001.11. 9                 by junji





















 第164作は 佐竹丹鳳 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-164

  初秋吟        

曾住街衢秋動時   曾って街衢に住む 秋動くの時

四顧意遲遲   を停め 四顧すれば 意遅遅たり

胡枝花亂含風露   胡枝花は乱れ 風露を含み

空屋吟殘促織悲   空屋に吟残して促織悲し

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 秋の気配を感じる時、以前住んでいた街を再び訪れました。
 なつかしさのあまり、足を止めて、辺りを見回したら、わたしの心はゆっくりと落ち着きます。
 旧の家にたどり着き、ふと胡枝花に目をやれば、花は乱れ咲き、風露含んで、なにか悲しげでした。
 更に、主のいない家には、秋の虫が鳴いて、私の心をなんともなしに悲しくさせます。


<感想>

 「街衢は妥かではないと感じています」と謝斧さんは仰っておられましたが、私も同感です。
 起句の歌い出しが説明的で、ここで必要なのは「曾住」、それなら「旧宅」なり「故里」で十分でしょう。ことさらに「街衢」と言われると、そのことに何か深い意味があるのかと考えてしまいました。
 後半は、丹鳳さんの繊細な言葉遣いに、まさにため息の出る思いで、切々とした感情がよく伝わってきます。特に「空屋吟殘」は余情豊かな言葉です。

 そういう意味では、起句の足取りの重さは、やはり全体としても違和感の残る句と言えます。

2001.11. 9                 by junji





















 第165作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2001-165

  野球        

左翼飛球大   左翼飛球大きく

昂昂不得拿   昂り昂って拿るを得ず

遠庭隕草奥   遠庭草奥に隕つ

誰摸怖翁家   誰か摸(さが)さん怖翁の家

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 狭い公園で野球をやったときの歌です。

<感想>

 これは、少年時代を思い出させてくれる楽しい詩ですね。
 承句の表現は面白く、子どもたちの「バーック!バーック!」と叫ぶ声が聞こえてきそうです。転句での突然の転調も生きていて、一気に地面の暗さに目が行きます。
 結句の「怖翁家」は、本来ならば「怖翁庭」であるべきでしょうね。わざわざ恐いおじいさんの家を探すことはないでしょうから。
 でも、最近はこういう、大声で叱りつけてくれるおじいさんはいなくなりましたね。その分、大声で騒ぐ若者が増えましたが・・・・

2001.11. 9                 by junji