作品番号 2018-121
尋春
山嶽迢遙帶淡霞 山岳迢遥として淡霞を帯び
小橋淺水路三叉 小橋 浅水 路三叉
餘寒惻惻梅花瘦 余寒惻惻として梅花痩せ
春意猶遲情亦加 春意なお遅く情また加はる
<解説>
梅が痩せると云う表現を誤解しているかも知れぬと思っております。
寒くてまだ開ききらぬことを以て痩せると云うか、咲き尽して花期が過ぎつつあることを以て痩せると唱えるか。
<感想>
前半はよく情景が出ていると思います。
ただ、「帶淡霞」「淺水」は春が来たことを視覚的に捉えた表現ですので、転句で「餘寒」と来ると季節が一つ戻った感じになります。
また、「餘寒惻惻」と結句の「春意猶遲」も意味としては重なっていますので、どちらかに絞りたいですね。
風などを持ってきて、「東風吹過梅花痩」とか、「寒林數點梅花蕾」のようにしてはどうでしょう。
結句は「情亦加」ですが、「猶遲」ですと「まだ来ない」という否定的な気持ちが強く、どんな「情」が「加」わるのかがピンと来ません。
同じ「遲」でも「遲遲」とすれば作者の感情が薄れて「春がゆっくりと来る」(それが)「味わい深い」というような形で早春の趣が出てきます。
疑問としておられた「梅花痩」は、早春で梅がまだ十分に開かない場面にも、梅が満開を終えてしぼんだ場面にも使います。また、梅の木は枯れた老木のように見えるので、その形容としても使うようです。
2018. 4. 8 by 桐山人
作品番号 2018-122
和春
起行曳杖趁朝晴 起行し杖を曳き朝の晴を趁ふ
弱柳搖搖照眼明 弱柳揺揺と眼を照して明るし
雪解水溫花初發 雪解け水温み花初めて発く
東風過後一鶯鳴 東風過ぎて後 一鶯鳴く
<解説>
「曳杖」とは老人のようで厭な詩語の一つと感じておりますが、それも誤解やも知れず、老若問わずスタイルとして詩人は杖を引くものらしいと察せられもします。
<感想>
確かに「曳杖」は漢詩の常套句で、作者を登場させるには便利な言葉ですが、三斗さんのようにお若い方が使うと違和感があります。
作者以外の登場人物を誰か指しているのかと思います。
題画のように、何か場面があって描くならば良いですが。
「春日」とかも考えられますが、次の柳につなげるには「村巷」「幽巷」と場所を表す形が良いでしょうかね。
承句の「照眼」はどんな意図でしょうか。「弱柳揺揺」と「明」をつなげる言葉が欲しいですので、「翠樹」などで色を出してはどうでしょう。
結句は「東風過後」が時間経過を表して、良い表現です。
2018. 4. 8 by 桐山人
作品番号 2018-123
早春
空庭細雨驟寒生 空庭 細雨 驟寒を生ず
芳信未聞吟不成 芳信 未だ聞かず 吟成らず
雲散春光天地好 雲散じ 春光 天地好し
新鶯蝶舞暖風軽 新鶯 蝶舞ひ 暖風軽し
<感想>
前半は春まだ浅き風情で、これはこれでわかります。後半は晴れた空の下、春の陽気が伝わりますので、これもわかります。
ただ、前半と後半をつなげると、冬から一気に春へ移るようで、同じ場面の詩とは思えません。
その変化の激しさが「早春」だという意図としても、唐突感は残りますので、措辞の面で丁寧さが必要になります。
起句の「驟寒」は突然訪れる寒さ、三月四月の「寒の戻り」に該当する言葉で、「早春」ですとやや早すぎる感があります。「曉寒」と朝方に限定してはどうでしょう。
承句は「未聞」と「吟不成」が単調で、「既聞」(この場合には逆接で「既に聞くも」とします)とか、「芳信一月吟未成」などの表現も面白いでしょう。
転句は「雲散」に「春光」では説明調なのと、下三字へのつながりが弱いので、「雲散忽知天地好」とまとめた形や「日午雲消」と時間を表す形も考えられますね。
結句は上々です。
2018. 4. 8 by 桐山人
作品番号 2018-124
早曉偶成
早曉東風敲茆扃 早曉の東風 茆扃を敲き
梅花亂發賑荒庭 梅花亂れ發き 荒庭を賑す
若鶯囀語朝來興 若鶯の囀語 朝來の興
春到郊墟一草亭 春は郊墟の一草亭に到る
<解説>
早朝、近所の粗末な「あずまや」で休み、春を身近に感じました。
<感想>
二月にいただいた詩ですので、「梅花亂發」や「若鶯囀語」も実景で、春を実感された思いの詩でしょうね。
全体の情景がよく目に浮かびます。
起句の「曉」と転句の「朝」が重なります。
また、「朝來」は時間の長さを含んで「朝から」ということですが、今が「曉」だとすると、いつの「朝から」なのか悩ましいですね。
題名が「早曉」ですので、転句の「朝來」を直すことになります。
「數鶯囀語遷烟樹」でしょうか。
結句は「茆扃」「荒庭」と来て更に「郊墟」「草亭」と来ると、謙遜し過ぎで、「梅花」や「若鶯」がそぐわない印象になります。
ここは、良い風景に遭遇したという感じで収めた方が良いでしょうね。
下三字を「萬草青」だけでも良いし、あるいは全体を「滿地春光草色青」のようにしても良いでしょう。
2018. 4. 10 by 桐山人
作品番号 2018-125
称宇野羽生
平昌氷上舞金銀 平昌 氷上 金銀舞ふ
宇野羽生感更新 宇野 羽生 感更に新たなり
落落人生余力在 落落たる人生 余力在り
縦横記得是青春 縦横 記し得たり 是れ青春
<解説>
「平昌」: 韓国五輪会場
「宇野」: 宇野昌磨、銀メダル受賞
「羽生」: 羽生弓弦、金メダル受賞
「落落」: 大きいさま
「縦横」: 東西南北・住自在
「記得」: 世界に冠たるを記した
。
<感想>
冬季五輪は色々な話題がありましたが、やはり何と言っても羽生君と宇野君の金銀ダブル受賞は嬉しかったですね。
特に怪我に打ち勝った羽生君が、「傷めた右脚(が持ちこたえてくれたこと)に感謝したい」と語ったことは、私たちは出場すら心配していたわけで、そうした人々へのメッセージなのだと思いました。
承句は「感」では弱いので、「歓」が良いでしょうね。
転句の「落落」は「大きい」という意味もありますが、「人生」の形容としてはマイナスになる用例もあり、誤解されるかもしれません。
「精励」などを用いてはどうでしょうか。
2018. 4.13 by 桐山人
作品番号 2018-126
憶漢詩樂会
白社迎師寄此身 白社 師を迎へ此に身を寄て
武州調布一閑人 武州 調布の 一閑人
忘年今夕杯觴会 年を忘れ 今夕 杯觴の会
承訓桐山未足珍 桐山に訓を承り 未だ珍とするに足らず
<解説>
先日の詩会で、結句の「承訓桐山未足珍」は名前を呼び捨ての感があって、如何かと…声あり。
<感想>
こちらの詩は、調布の「漢詩を楽しむ会」でのことを書かれたものですね。
一月に私がお伺いした折で、漢詩→お酒→カラオケとフルコースを楽しませていただきました。
「呼び捨て」の件は、私自身のことで言えば別に気にしないので何でも良いのですが、一般的な観点で言えば、本名を呼び捨てはだめですが、雅号で呼ぶのならば余程大丈夫だと思います。
結句の「未足珍」は「まだまだ力不足だ」という意味で、蘇軾の詩の「退筆如山未足珍 読書萬巻始通神」がよく知られていますね。
2018. 4.13 by 桐山人
作品番号 2018-127
早春偶成
季冬經轉變 季冬 経に転変
迅疾物華移 迅疾 物華移る
燧海輕波舞 燧海(すいかい) 軽波舞ひ
靈山遍路姿 霊山は遍路の姿
草芽萌動節 草芽 萌動の節
志士躍如時 志士 躍如の時
四望候春序 四望 候 春序
高吟李杜詩 高吟す 李杜の詩
<解説>
「季冬」:冬の末
「霊山」:四国八十八カ所第六十五番札所三角寺
「燧海」:瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)
<感想>
四国のお遍路、まだ冬の終わりの季節ですと、寒さも厳しかったことでしょうね。
五言律詩の対句ということで見ますと、頷聯は『海」と「山」を対比させて分かりやすくなっていますね。
「燧海」と固有名詞を出したので、下句も固有名詞があるともっと対が生きたかもしれません。
頸聯の「志士」は坂本龍馬でしょうか。「草芽」との対として見ていくと、突然という印象です。「志士」がこの部分で難の役割を果たしているのか、その必要性も疑問です。
その流れのまま尾聯に行くので、「高吟李杜詩」も中途半端で、全体の流れも、四国の風景、歴史的な感懷、李杜詩の高吟となり、結局、この詩では感動がどこにあるのかが分からない状態です。
私の読み方が足りないかもしれませんが、頸聯で「志士」を取りあえず削って、聯自体を作者の近くの風景とすると、視点が集まってきて読みやすくなるでしょう。
2018. 4.13 by 桐山人
作品番号 2018-128
残冬閑居
山阿白屋一灯紅 山阿の白屋 一灯紅なり
待曙耽吟寒夜中 曙を待ちて耽吟す 寒夜の中
詩友無音幾年月 詩友音無し 幾年月
書淫屈指願春風 書淫 指を屈して 春風を願ふ
<解説>
山奥のあばら家で灯りを一つ灯しています。
夜明けを待ちつつ寒夜の中詩を作ります。
詩友とは何年も音沙汰が有りません。
狂的本好きは仕方なく指折り数えて春風が吹くのを願います。
<感想>
起句の「白屋」は実際に白い色というわけではありませんが、文字の上で末字の「紅」と対応して、句としての面白みが出ていますね。
承句は「待曙」ですと、通常は夜明け前を想定しますので、そんな時間帯で「耽吟」、つまり声を出すわけで、いくら山奥とは言え、不自然ですね。
逆に言えば、「待曙」という状況説明が必要かどうか、を考える方が良いかもしれません。
「閑居」という設定ですので、穏やかな気持ちが伝わるように、「煮茗耽吟」となれば落ち着きますね。
結句の「書淫」は「讀書に耽ること」ですので、承句の「耽吟」と重なって「耽る」ものが多くなります。
作者が書をなさるかどうかはわかりませんが、例えば「対書」として「呵筆」とつなげてはいかがでしょうか。
あるいは、「呵指」でも良いでしょう。
2018. 4.20 by 桐山人
作品番号 2018-129
安土城址
石磴半崩叢莽囲 石磴半ば崩れ 叢莽囲む
羊腸危蹊履蹤稀 羊腸の危蹊 履蹤稀なり
黄金天守今如夢 黄金の天守 今や夢の如し
城址只存残照微 城址 只在り 残照微(わず)か
<感想>
安土城址に行きましたのは、もう何年も前のことになります。
城址自体は変わらないでしょうが、周囲の景色などは随分変わったかもしれませんね。
前半は城山に登る道を描いたものでしょうが、承句の「羊腸」は城山にはやや大げさで、特に安土城は道が広く直線的なことが特徴ですので、どうでしょうか。
「蹊」は平声でもありますから、これを上に持ってきて、「危蹊屈曲」などが考えられます。
結句は「只存」と「残照微」が対応して、余韻の残る句になっていますね。
2018. 4.21 by 桐山人
作品番号 2018-130
平昌五輪偶感
九漢祥光清月宜 九漢の祥光 清月宜し
五輪祭典萬民嬉 五輪の祭典 万民 嬉む
國家分斷無情極 国家の分断 無情の極
南北融和高亢時 南北の融和 高亢(こうこう)の時
「九漢」: 空
「高亢」: 志を高く持って時勢や権力に屈しない
<解説>
政治的には色々意見の交されるところですが、民族の分断は大国のエゴの歴史かと?
<感想>
平昌五輪を機に、南北の対話、米朝会談の設定など、北朝鮮が国際政治の話題の中心になるニュースが続きます。
岳城さんが仰るように、政治的な駆け引きなどが(お互いの国で)窺われる面はありますが、対話が継続するように願いたいですね。
岳城さんはオリンピック関連での詩を幾つかお作りになったようで、この詩は全体のまとめのものでしょう。
欲を言えば、冬季五輪ですので、「清月」よりも「雪」とか「氷」が入ると良かったかなと思います。
2018. 4.21 by 桐山人
作品番号 2018-131
樂平昌五輪(女子五百速度滑氷)
平昌五輪を楽しむ(女子五百スピードスケート)
十年苦節勝機巡 十年の苦節 勝機 巡る
滑氷場中緊迫辰 滑氷場中 緊迫の辰
女王小平金字塔 女王小平 金字塔
歡騰記録五輪新 歓騰の記録 五輪新
「滑氷場中」: スピードスケート場内
「歓騰」: 湧き上がる喜び
<感想>
岳城さんの冬季五輪関連、スピードスケートの小平選手の金メダル、銀メダルの韓国選手との交流にも胸を打たれましたね。
その感動が先に出たのか、今回は承句と転句で平仄が違いますね。
承句の「氷」は平声、「號砲氷場緊迫辰」など。
転句の「王」は名詞用法は平声、動詞用法は仄声、ここは名詞用法ですからいけませんので「日本小平」としてはどうでしょう。
いただいた題名は「欒平昌五輪」でしたが、「樂」かと思い、変更しました。
2018. 4.22 by 桐山人
作品番号 2018-132
平昌冬季奥運會 其一(半管競技)
圓周滑雪躍天霄 円周 滑雪して天霄に躍る
筋斗破顔雄亦飄 筋斗 破顔 雄また飄
自覺翻翔危骨折 翻翔 骨折の危あるを自覚し
精魂凝集刹那腰 精魂凝集す 刹那の腰に
<解説>
「奥運會」: 奥林比克運動會(オリンピック競技会)の略称
「筋斗」: 宙返り・トンボ返り
スポーツというよりも曲芸を観る楽しさ。
それにしても、骨折治癒間もない二人の、金銀を争う演技の大胆なこと。
<感想>
常春さんからも、平昌冬季五輪関連の詩を二首いただきました。
こちらは「半管競技」ですので、「ハーフパイプ」の競技ですね。
平野君が、一年前でしたか、大怪我して、しかしその恐怖心を克服しての「大胆な」演技、おしくも金を逃しましたが、素晴らしいものでした。
前回のソチの大会に比べると、随分大人になったなぁという印象でしたね。
2018. 4.22 by 桐山人
作品番号 2018-133
平昌冬季奥運會 其二(花式溜氷)
優雅滑氷身體弓 優雅な滑氷 身体弓にし
四周旋轉一跳窮 旋轉四周 一跳に窮める
快心舞踏乗歌曲 快心の舞踏 歌曲に乗じ
終了發揚嬉笑瞳 終了発揚す 嬉笑の瞳
<解説>
バレーの優雅、滑走のスピード感、そしてより高く、より多くと発展する旋回。
選手の飽くなき向上心に、ただただ拍手。
<感想>
こちらはフィギュアスケートの演技ですね。
フィギュアスケートは、男子では四回転ジャンプ(「四周旋轉」)を何回跳ぶかが重要なポイントになってきているようで、そういう意味では他の種目と同様、フィジカルな面も鍛えていかなくてはならず、更に「優雅」と音楽に合わせたリズム感など、観ていると本当に色々な要素を備えた種目だと感じますね。
身体と音楽と技術を用いての芸術、人気のあるのも納得ですね。
結句は、ホッとしたのと充実感に満ちた羽生選手の笑顔、私も一緒になって喜びました。
2018. 4.22 by 桐山人
作品番号 2018-134
讃冬季奥林比克羽生選手
平昌祭典極寒眞 平昌 祭典 極寒真たり
選手登場加勢頻 選手登場 加勢頻り
美技如龍氷上舞 美技 龍の如し 氷上の舞
剛強努力最高人 剛強 努力 最高の人
<解説>
オリンピックの映像を見ていて、その美しい技、美しく凜々しい姿に感動しました。
<感想>
承句は、羽生選手が登場して、応援のボルテージが上がったということでしょうね。
「加勢」とあると、応援よりも手助け、という意味合いが強いです。
また、応援だとしても、ここではあまり羽生選手を中心にした視点よりも会場全体を眺めるようにした方が転句への発展が生きてきますので、「熱気新」とすると良いでしょう。
転句は「如龍」の比喩と「美技」が合うのか、ちょっと悩ましいところですね。
結句は「剛強」と「努力」は、ここではあまり変化が無いように感じます。
技術や能力については転句で描きましたので、結句では、羽生選手の容姿や人柄を出して「凜然努力最高人」のような方向が良いでしょう。
あまり顔だけ強調すると、ミーハーっぽくなり過ぎるかもしれません。
2018. 4.22 by 桐山人
作品番号 2018-135
頃日有感
狂喜近時文武榮 狂喜す 近時 文武の栄
琢磨妙技素情C 琢磨妙技 素情清し
休言俗諺今年少 言ふを休めよ 俗諺 今の年少はと
野老安心日本行 野老安心 日本の行
「文武」: 五輪や将棋等での若者の活躍
<解説>
此のところ、オリンピックや囲碁将棋等で若者が大活躍して、嬉しくかつ頼もしく思っております。
あまり良い報道も無い中で、日本もまだまだ大丈夫だと、独り合点して喜んでいます。
そこで、詩を作ってみました。
<感想>
そうですね、将棋の藤井君は愛知県在住、身内びいきだけでなく、実力も本物で、すごいなぁとひたすら感嘆、東山さんの起句「狂喜」はややオーバーな表現とも思いますが、でも納得できちゃいます。
「素情清」も、これまた納得、落ち着いた飾らない人柄は羽生君も同じ、この二人を見ていると、確かに幸せな気持ちになりますし、日本の未来も捨てたものじゃないと思いますね。
結句は「野老」ではこの詩に合いませんので、「孤老」としておくと良いですね。
2018. 4.22 by 桐山人
作品番号 2018-136
初吟会遇作
初歳華筵瑞気廻 初歳の華筵 瑞気廻り
師朋藹藹祝杯囘 師朋藹藹として 祝杯回る
雖山険阻羊腸遠 山は険阻にして 羊腸遠しと雖も
一歩歩高吟興開 一歩 歩高うして 吟興開く
<解説>
こちらの詩は、参加している詩吟の会の「初吟会」での詩です。
<感想>
同じ志の仲間、まさに「朋」との楽しい宴の趣が伝わって来るようですね。
承句の「祝杯」は「賀杯」ではないですか。
後半は新年らしい決意が籠もっていて、良いですね。
2018. 4.22 by 桐山人
作品番号 2018-137
共生被爆牛 被爆牛と共に生きる
食草牛群被爆原 草を食む 牛の群れ 被爆の原
何為飼育転私論 何爲れぞ 飼育 転(めぐ)る 私論
縦令矛盾不容殺 縦令(たと)ひ矛盾ありとも 殺すを容(ゆる)さず
流煦真情子愛温 流煦する 真情 子愛の温(ぬくも)り
<解説>
福島県第一原発から20キロ圏内にいる家畜は殺処分するように言われた。
ほとんどの農家は 涙を呑んで処分した。しかしそれに納得できずに被爆した牛と共に生きている農民がいる。
何故売り物にもならない牛を飼っているのか 自問自答しつつ生きている。
たとえ矛盾があろうとも 人間の勝手な理屈で 元気に生き残っている牛まで殺すことはできない。
家族のように思って育ててきた牛への熱い思いがある。牛飼いたちの意地がある。
この活動は ボランティアの方たちにも支えられているそうだ。
私はそれはできないが、せめて牛飼いたちの思いに寄り添っていきたいと思う。
<感想>
殺「処分」という言葉自体がとても重く、インフルエンザウィルスに感染した鷄が大量に埋められる映像などを見ても心が痛みます。
しかし、この被爆牛については、明らかに「人間の勝手な理屈」、誤った技術文明による被害で、牛農家の方々にとってはやりきれない思いが深いと思います。
そうした状況が今でも続いていることに向きあおうとする茜峰さんの視点は、まさに現代の詩を詠むことに繋がっていますね。
起句は「群牛」の語順の方が「牛」の姿がよく浮かびます。
承句は「私論」は「自分の胸の中で語る意見」という意味で、「自問自答」という訳がよく分かりますね。
転句の「矛盾」は疑問で、そもそもの「矛盾」は、この生きている牛たちを「処分」しなくてはならない状況なのであり、農家の方に「矛盾」があるわけではないと思います。
承句の「私論」にひきづられた感じですね。「縦令」も含めて上四字を直すのが良いでしょう。
結句は「子愛」は聞き慣れない言葉ですので、「慈愛」でどうでしょうか。
2018. 5. 3 by 桐山人
作品番号 2018-138
雑詩
近来淫酒佳期移 近来 酒に淫し 佳期移る
今我向春情感時 今我 春に向かって情感の時
遥想桜花欲酔臥 遥かに想ふ 桜花 酔臥を欲す
夢中清暁詠為詩 夢中の清暁 詩を為し詠ずる
<解説>
近ごろ、酒に淫れて楽しい日々が過ぎる
今わたしは、春に向かって心が動いている時である
遥かに想いやる桜の花 酒に酔って寝転びたいものだ
夢の中のさわやかな明け方、詩を作って詠おうではないか
<感想>
こちらの詩も掲載が遅れてすみません。
作詩の意図は、「酒」「花」「詩」ということで素材も選んでありますが、場面構成が複雑で、言いたいことと表現がかみ合っていないように感じますね。
起句は、そのまま読むと、季節の変化も気付かないほど酒におぼれているということかと思いますね。
しかし、それでは承句へとつながりませんので、上四字を「近頃は酒がおいしくて」というくらいの意味合いでとらえて、下三字も「季節の移り変わりを楽しむ」と読むのでしょう。
しかし、「佳期移」では「良い季節が過ぎ去る」と解しますし、ここは「下三平」、「期」は上平声四支韻の字でもありますので、「楽佳期」と肯定的な表現にしておくと良いでしょう。
承句の「我」の一人称、詩は基本的に自分の感情を述べるわけですから本来は不要な言葉、使う場合には「他の人と違って私ひとりだけは」という強調の意味が加わります。
「今我」の二字分、何か言葉を入れることができますね。
転句は「遥想桜花」と「欲酔臥」が並立の形で、「桜の花を思い浮かべ、その次は酔って寝転がりたい」となります。
動詞(動作)を二つ並べたのですが、そうなると「酔臥」が起句と重なってしつこいですね。
「遥想桜雲花下酔」として、特別に「桜の下の酒」を望むとした方がすっきりしますね。
結句は、詩を作るのに何故「夢中」となるのか、よくわかりません。これは、転句の「遥想」から流れてきちゃったのでしょうかね。
全体に見ると、どの句も上二字に余分な言葉が載っている印象で、試みに(失礼ながら)上二字を削って五言詩として読んでみると、詩の意味が通じるようになります。
これは、一句に思いを籠め過ぎた結果で、「あのことも、このことも」とか「これを加えた方が良い」と考えて行くと、結局、一句のまとまりや、詩全体のまとまりが崩れてしまうことが出て来ます。
転句などはその例で、桜のことを思い描くならそれだけに集中、酒はまた別に結句で出すくらいのつもりで、まずは一句一句でまとまるようにしていくと良いと思います。
2018. 5. 5 by 桐山人
作品番号 2018-139
雪余望雄山
二月雪余皆暫安 二月の雪余 皆と暫く安んず
天晴雲散北風寒 天晴れ雲散じ北風寒し
山光積雪遥疑逼 山光 雪を積み遥かなるも逼るかと疑ふ
感慨万峰雄大看 感慨 万峰 雄大に看ゆ
<解説>
二月に大雪が降ったあと、みんなとしばらくは雪も止んでやすらかだった
空が晴れ雲が散り、北風は寒い
山が太陽の光を浴びて明るく、山に雪が積もり真っ白な山々が遥かにせまってくるかと思うほどだ
身に染みて深く感じる たくさんの峰々は大きく堂々と見えた
<感想>
冠雪の山は青空の下、白と青の色彩が鮮やかに対比され、一層雄大に見えたのでしょうね。
その雄大感を言葉でどう表現するか、国士さんが工夫されたのは転句の「遥疑逼」でしょうね。
「遥」は遠方、「逼」は近づくわけで、言葉としては矛盾しているのですが、実感が浮かんできます。
「雪」の字が重出しているのと、主語である「山」が述語と離れているので、「白銀山色遥疑逼」と述語と近づけてるような形で考えてはどうでしょうね。
起句は「皆」が落ち着きませんね。「万物」という意味合いでしょうが、あまり必要性を感じない言葉になっています。
「暫」も表現がストレートですので、「纔靜安」と言い換えるのが良いでしょう。
承句は、句としては通じますが、起句の「安」からの流れから見た時に「北風寒」とするのが適切か、疑問は残ります。
結句は「感慨」、こうした心情形容語は無駄です。
「感動した!」という気持ちは、いつ何をどのように見たかで異なります。ここでのこの景色や出来事という、他には無い特別な感動を、素材を用いて言葉で表し、具体的な共感を得るのが詩です。
「感動した!」と言葉で言ってしまうと、それ以上読者は入り込めず、内容が平板で薄くなってしまいます。
少々大げさでも見た印象を出すようにして、例えば「千嶺万峰」「碧落万峰」など、「雄大」さを感じさせる表現を探してみましょう。
2018. 5. 6 by 桐山人
作品番号 2018-140
櫻隄
日月光輝失 日月 光輝 失せ
爰忠犬共痡 爰(ここ)に 忠犬共に痡(や)む
曷踰哉彼岸 曷(いつ)か 踰(わた)らんや 彼の岸
花誘爺嬢都 花は誘ふ 爺嬢の都
<解説>
体調は何とか回復しました。二キロくらいの道のりなら歩くことは苦にならないけど、それを過ぎると左の脚腰が重苦しく、犬との散歩が面倒になります。
その老犬も会陰ヘルニアを患い、緊急手術で命をとりとめたばかりです。
ふたりして余生を淵につなぎ止めての老後を送っています。
いつまで投稿できるか解りませんが、続くかぎり頑張ってみます。
<感想>
哲山さんもこの一、二年、体調がすぐれず、ご苦労なさっているようですね。
五言絶句の短い詩型ですが、いろいろな思いが籠もっているからでしょう、それ以上の深みが感じられます。
あるいは逆に、五言絶句だからこそ、このお気持ちを包含できたのかもしれませんね。
題名から桜が満開の堤防を思い描いていたら、起句から頭をガーンと叩かれるような感じで、桜の花を見ながら作者は何を考えているのだろうかと神妙な気持ちになりました。
インパクトの強い句ですね。
承句はやや読みにくい点はありますが、「爰」の語が、場所と時間を意識させて働いていると思います。
転句の「曷」は「なんぞ」と読むことが多いですが、「いつ」と読んで、「いつになったら」ということで願望を含んだ疑問を表す字ですね。
その願望を受けて、「爺嬢都」は作者のお父さん、お母さんの居る都、天国(極楽)を表したのですが、ここでようやく登場した「花」が「散るを急ぐ」桜であるのが、これまたハッとさせられるところですね。
作者の意識の流れは多分逆で、桜を見ているからこそ人生のはかなさを感じたのでしょうが、詩としてはこの形が良いですね。
余韻の残る詩ですね。
2018. 5. 9 by 桐山人
作品番号 2018-141
訪郡山図書館
後身我有戴安道
自是風流不遇君
遥想甲寅耶誕節
開君生日古新聞
<解説>
むかし作った短歌を漢詩に改作することから作詩を始めました。
そして、調べものをしているうちにこのホームページに出会いました。
25年前の18歳の時に作った短歌
われひとり学校を抜け出て図書館に君生(あ)れし日の新聞を見る
これを漢詩風に改作したものです。
漢詩はあくまで漢詩であり、短歌を漢詩に改作することは駄目なのでしょうか。
「新聞」は詩語として不適切でしょうか。
この場合の「君」の冒韻は不可なのでしょうか。
そもそもこの詩は漢詩になっていますでしょうか。
わたしは福島県在住でして、福島県には平成5年までは確実に福島県漢詩協会が存在していたようなのですが、現在はありません。
漢詩結社で指導を受けてみたいと思っているのですが福島県には無いようです。
どうぞ無学の初心者にご示教お願いいたします。
更にもう一つ伺います。
中国には飲酒の詩はたくさんありますが喫煙の詩は存在するのでしょうか。
わたしは愛煙家なので将来、喫煙の漢詩を作りたいと思っています。
酒に酔うように、煙草に酔うことを外国語の漢詩にしてもいいものなのか、是非こちらもご示教お願いいたします。
<感想>
短歌と漢詩の両道、これは平安時代の文人が取り組んでいたことで、王道に乗った文化活動ですので、自信を持ってお進みください。
ただ、短歌はやはり「日本語三十一音」という短詩形の定型詩で、表現し尽くせない部分がどうしてもあり、それをどう伝えるか、余韻の工夫とともに先人が苦労してきた部分でもあり、魅力の部分でもあります。
対して漢詩は、漢字自体が意味を持ち、音数の近い七言絶句二十八字でも表現できるもの(素材)は格段に多くなります。
私自身は直接短歌や俳句に深く取り組んだ経験はありませんが、以前、短歌を楽しんでいらっしゃった方が「短歌は概ね七言の二句分くらいの感覚」と仰っていました。
そうなると、短歌を直訳しただけでは漢詩(絶句四句)にはならないわけで、同じ情緒を伝えるにしても、更に二句分は情報を加えないといけません。
短歌が描いた世界に更に何を補うか、逆に言えば「短歌の世界を更に発展させる」可能性を持っているわけで、単に説明が詳しくできるということだけではありませんね。
そういう観点で作品を拝見しました。
まず、「これは漢詩になっているか」とのご質問ですが、唐代に確立した近体詩のルールから言えば、「君」の同字重出は別にして、平仄も勉強なさっておられるようで、十分漢詩になっています。
これを基にして、用語、重出などを検討するのが「推敲作業」になりますが、一番大事なことは、自分の思いがしっかり伝わる表現になっているかどうかです。
第一句(起句)から「君」と出て来ますが、これが誰を指すのかは置いておき、句意は「君は戴安道の生まれ変わりだろう」となります。
第二句(承句)の「自昔」は「昔から」ということでしょうか、文法的には良いですが、実際には「従来」「従前」「古来」などの言葉の方が分かりやすいです。平仄が合いませんので、ここは「千古」「千歳」という言葉に置き換えることになります。
下三字は「君を見ず」と読みますが、漢詩では語順を替えて「君見ずや」と読むこともできます。「君」は起句に出て来た「君」と同じだと通常考えますが、そうなると、「君」は戴安道と同じような優れた画才を持っていた筈なのに、風雅が分からない人となります。
それでは「戴安道」を持ってきた意味がありませんし、作者のお気持ちとは違っていると思います。
この前半と後半をどうつなぐかが、漢詩のポイントです。
後半が短歌の部分ですね。
「甲寅」ですが、25年前ですと平成6年が「甲戌」、「甲寅」だったのは昭和49年で45年ほど前になります。
大雑把に「かつての昔」ではなく具体的な「甲寅」としたのは何か意味があるのでしょうが、読者には伝わりません。
それがクリスマスだった、ということも、詩の内容とは関わらないことなので、どちらの言葉も必然性、必要性に疑問があります。
実はこのあたりが漢詩の特徴になる点で、日本の短歌や俳句に慣れた方は、極端に言うと、名詞に自分の想いを凝縮させてポンと放り込み読者に想像してもらうような所がありますが、漢詩は情報が多い分だけ読者にきちんと伝えようとします。
どうして「甲寅」か、どうして「耶誕節」なのかが、多少なりとも分かるような事情を描く、描かないなら書かないという思い切りになります。
もう一つは、「遥想」のは現在の自分、「甲寅耶誕節」は若い頃、「君生日」は更にそれより過去と時間軸が何層にもなっていること、簡単に言えば、お作りになった短歌の「われひとり学校を抜け出て図書館に君生れし日の新聞を見る」出来事を25年後の自分が思い出す、という複雑さ、「耶誕節」と「君生日」と二つの誕生日が登場している(一緒なのでしょうか)のも複雑さを増しています。
「遥想」を削って、自分自身を一旦過去に戻して、タイムスリップしたような感じで若い頃の気持ちになって作詩をする、具体的にはこの句で「図書館に来て新聞を見た」ということを述べると、展開がわかりやすくなります。
第四句の「新聞」は日本語ですので、漢詩では基本的に使いません。漢詩で書くならば「報紙」と中国語での言い方をします。昔の新聞なら「旧報紙」です。使っていけないことはありませんが、当然古典詩には登場しない素材ですので、現代詩として使われるものです。
色々と書きましたが、前半と後半のつながりをつけて考えてみました。
旧報紙
前身猶是戴安道 前身猶ほ是れ 戴安道
琴画風流翻絳裙 琴画 風流 絳裙を翻す
窃看生年天報紙 窃かに看る 生年天の報紙
正耶誕節久懐君 正に耶誕節 久しく君を思ふ
題名は「訪郡山図書館」ですと、またまた時間軸が複雑になりますので仮題を付けておきましたので、こちらもまたご検討されると良いでしょう。
2018. 5.18 by 桐山人
鈴木淳次先生
こんな私の為に先生の大切なお時間を割いて頂き本当にありがとうございます。
この詩は小林太市郎の子猷訪戴の解説を読んだ時に私の中で、昔作った短歌と「子猷訪戴」とが重なって作りましたが、やはり駄目だったと今思っています。
私はこのようなつもりでした。
「君は戴安道の生まれ変わりだ。本当の風流は君に直接会ってはいけない。会ってしまったらそれはありきたりな逸話にしかならない。わたしは、昭和49年12月25日の君の生まれ日に発行された新聞を見て、想像の世界で楽しんで、また悲しんでそして興尽きて自宅に帰った」
子猷キドリで作りましたが力足らずで他人には解らない自分だけの論理の詩になってしまったと先生のご示教を拝見しまして痛感しました。
風流と言う言葉は小林太市郎が解説の中で引いたこの詩から取りました。
子猷訪戴 來梓
四山揺玉夜光浮
一舸玻璃凝不流
若使過門相見了
千年風致一時休
この著書のなかで小林太市郎が子猷訪戴の故事を詠んだ中国歴代の詩人の詩を集めようとしたが途中で断念したと記しているのを見て、自分で集めようと思いたったのが私のより深い漢詩との出会いです。
論理が厳しい漢詩を極めたいと思っています。文法を一から学びたいです。
喫煙の詩につきましては、ヤフー奇摩で喫煙とか色々と検索していたらこの詩を見つけました。
陽歴除夕獨坐抽菸 潘樂樂
破悶無方坐喫菸 破悶 方無し 坐して菸(エン・たばこ)を喫う
鐘聲嘀嗒伴無眠 鐘聲 嘀嗒たり 伴うに眠りなし
絲絲夜吐輕如繭 絲絲 夜に吐く 輕きこと繭の如し
裹我幽懷又一年 裹まん 我が幽懷の又一年を
潘樂樂さんは私よりひとつ年上で他の詩も共感できそうです。
唐宋詩は私の圧倒的知識不足で理解するのに骨が折れますが、同年代の中国人の旧詩のほうがまだ親しめる気がします。
初めて漢詩の手解きを受けることができ、新めて漢詩への情熱が湧いてきました。
もっともっと勉強します。
鈴木淳次先生に心から感謝いたします。 2018. 5.25 by 吾妻
作品番号 2018-142
游無錫三國城
悠悠東逝水 悠悠たり 東逝の水
三國此東呉 三国 此れ東呉
最似小喬美 最も似るは小喬の美
微風吹太湖 微風 太湖を吹く
<解説>
悠々とす東へ逝く水
三国の時代に此処は東呉であった
最も小喬の美しさに似っているのは
この微風が吹く太湖
<感想>
陳興さんからは昨年沢山詩をいただいたのですが、なかなか紹介できずにすみません。
上海から蘇州にかけてのツアーに行きますと、この太湖とテレビドラマ『三国志』で「赤壁の戦い」の撮影を行ったセットが殘る「三国城」が定番コースですね。
私も何年か前に行きましたが、太湖の悠遠な景観は素晴らしかったですね。日本の浜名湖の景色が近いかもしれません。
「三国」「東呉」「小喬」と歴史を繙いてきて、最後に「太湖」で収めた展開は、テンポも良く、分かりやすい詩になっていると思いました。
2018. 5. 19 by 桐山人
作品番号 2018-143
待春
冬日陰晴光凜然 冬日陰晴 光 凜然たり
草萎樹縮泬寥天 草萎え 樹縮む 泬寥の天
山容皓皓雲開處 山容 皓皓 雲開く處
柳影疎疎霧罩邉 柳影 疎疎 霧罩(こ)むる辺
毳褐重衣暖老軀 毳(ぜい)褐 衣を重ね 老躯を暖め
風爐煮茗樂香煙 風爐 茗を煮て 香煙を楽しむ
村中村外遠春意 村中 村外 春意遠きも
旋作耘耕三畝田 旋(やが)て作す 耘耕 三畝の田
<感想>
真瑞庵さんからの作品も、季節遅れになりすみません。
立春前のまだ寒さも厳しい頃、身体も縮こまって春の到来を待ち望む詩ですね。
前半が外界の景色、頸聯から室内の作者の姿という展開もすっきりしていると思います。
「泬寥」は「雲も無く、からりとした空」を言います。「秋の空」で使うことが多いのですが、晩唐の趙嘏の「東望」の詩では「寒食」の季節でも用いています。
「毳褐」は毛織りの粗末な服、暖炉の前でチャンチャンコを羽織り、お茶を飲んで煙草を一服、穏やかな生活がそのまま浮かび上がってきますね。
最後の「旋」は、ぐるりと廻って変化する意味から「やがて」と時間経過を表す用法ですが、長いものでなく「まもなく」という感覚ですね。
2018. 5.21 by 桐山人
作品番号 2018-144
拙宅春景
淑気育詩霊 淑気 詩霊を育み、
南窓夢箱庭 南窓 夢の箱庭。
固知風在趣 固より知らん 風 趣に在るを、
可見影随形 見るべし 影 形に随ふを。
歳月行花送 歳月 行くゆく花送り、
陰陽日草青 陰陽 日々草青し。
萌芽春予感 萌芽 春の予感、
忙詠切時経 忙しく詠む 切に時の経るを。
<解説>
一日9〜13時間も仕事で拘束されている身の上なので、そのうえ検定試験などあり、一月中は多忙でした。
今年もちょぼちょぼ投稿したいと思いますのでよろしくお願いします。
漢詩を書いていると、一時間二時間はすぐに経ってしまいます。忙しい中、心が荒まないのも漢詩の効能かな。
ただ単に時間が無い事を嘆いている様な詩になってしまいましたが。
<感想>
書き出しの一句がインパクトの強いですね。この句だけで気持ちが浮き浮きしてくるような気がします。
次の句も第一句を受けてのものですが、平仄が違うのが残念ですね。
「夢」を動詞に用いて「▲庭を夢む」という形が良いでしょうか。「夢紫庭」のような。
頷聯の対句は面白いですが、下句の「可」はもう少し意味のはっきりした言葉、再読文字の「将」「須」「当」などを置くと感情が籠められると思います。
頸聯は「花送」は本来語順が逆、それで「草青」と対句にするのは良くないので、「花」を主語にして末字を検討してはどうでしょう。
尾聯は最後がやや慌ただしく、季節の巡りを喜んでいるのか、悲しんでいるのか、バタバタと終る印象です。
2018. 5.24 by 桐山人
作品番号 2018-145
経春
一望遼山白雪残 一望する遼山 白雪残り、
春光溶水閃渓瀾 春光 水に溶け 渓の瀾に閃く。
東風渡巷紅花解 東風 巷を渡り 紅花解き、
素手表風白腕寒 素手 風に現れ 白腕寒し。
春夜愁多仍楽酒 春夜 愁い多くして しばしば酒を楽しむ、
病身詩少乃辞官 病身 詩少なく 乃ち官を辞す。
年年春去如流水 年年 春去ること 流水の如し、
只見辺辺日爛漫 只見る 辺辺 日に日に爛漫たるを。
<解説>
未だ二十代の頃漢詩を勉強し始めた頃の詩です。
初めて七言律詩に挑戦したものです。
今振り返ると「春」「白」「風」等反復の字が多く「素手」も日本風に何も持っていないの意味に解釈する方がいいかな〜
今のようにインターネットも普及してない時でしたので、書き上げてみて、ひとりで悶悶としていたのを思い出します。
「見」ですが、この詩の場合、「目に入る」くらいの意味で使ってみたのですがどうでしょうか?
私の漢詩の原点のような詩でした。
懐かしく振り返りながら投稿してみました。
<感想>
初めて律詩に取り組んだ時の作品ということですね。
仰る通り、同字重出や和習のこと、四句目は本文の「表」か読み下しの「現」なのか、どちらにしても「孤平」なのと句意がどうも通じない点、尾聯の「年年」と「辺辺」の同韻の畳語を続けることも疑問ではあります。
しかし、それらのことは現在の凌雲さんでしたら改めて推敲することも可能なこと、原作のままに送ってこられたのは、単に「記念」とか「思い出」というだけではなく、逆に手を入れたくない、入れられないということだと思います。
凌雲さんが「原点」と仰るように、この詩には、七言律詩五十六字でも言い足りないような情緒の豊かさ、それを起承転結に収める構成力、「春は流水の如く去る」というような感覚と表現力が感じられますし、何よりも若々しさ、勢いがあります。
推敲すれば漢詩としてはもっと完成された作品になるでしょうが、それは別の作品となってしまう、原本はそのままにしたい、そんな気持ちが感じられます。
音楽でも、昔の楽曲を現代風に編曲して歌っているのを聞きます。オリジナルは確かに荒っぽさとか稚拙さが感じられる部分があって、新しいアレンジはオシャレだなぁと思うこともありますが、でも、カラオケで歌う時にはやっぱりオリジナルの方ですよね。
ちょっと話が違いますかね?
2018. 5.25 by 桐山人
作品番号 2018-146
梅林春早來
風冷晩秋霜葉飛, 風冷たき晩秋 霜葉飛び,
空林散策轉含悲。 空林の散策 轉た悲しみを含む。
偶聽琴韻如天樂, 偶(たまた)ま聽く琴韻 天樂の如く,
艷遇仙娥展柳眉。 艷に遇へる仙娥 柳眉を展ばす。
高手更彈青眼笑, 高手 更に彈いて青眼笑まば,
清漣相應碧池輝。 清漣 相ひ應じて碧池輝かん。
花精夢醒冬眠短, 花の精 夢より醒めて冬眠短かく,
破蕾爭先作早梅。 蕾を破り先を爭って早梅となる。
<解説>
拙作は寒い冬は厭だ、春よ早く来いという思いを詠んだものですが、頷聯(第3・4句)の「天樂」と「柳眉」については、対語として甘い、緩いとのご指正があるかも知れません。
しかし、作者としては、対語について考えたうえでのことですので、その点を説明させていただきます。
対が甘いか甘くないかは律詩を評価する場合によく聞く言葉で、私も詩友の作に対してよく口にします。
しかし、その判断は、多くの場合曖昧。私の場合、文法構造が同じであるかどうかを指摘するに留まります。
ということは私は、文法構造が同じであれば対になる、と考えていることになるかと思います。
対語は伝統的には、
天文部、時令部、地理部、人倫部、動物部、植物部・・・
といった部門に言葉を分類することをもとにしていると考えられます。
そして、同部門内の対語(同類対)は対として緊密であり、異なる部門間の対語(異類対)は対として緩い、ということになるかと思います。
しかし、言葉で森羅万象を分類することは人為的な営みであり、その分類が、自然界にア・プリオリに存在するわけではありません。
自然界には対語は存在せず、何と何が対になるかという詩人の判断は、その詩人の自然観、人生観、世界観、文化観、つまりは哲学に関係することになります。
そこで、伝統的な部門観があり、同部門内の対語(同類対)は対として緊密であるとされているにも拘わらず、同類対はあまり詠まれず、古人の詩を見ても、異類対が圧倒的に多い ということになります。
詩において同類対がなぜ少ないかといえば、同類対は、詩的感興を削ぐことが多いからだと考えます。
同類対は、何と何が対になるかをめぐって世人が常識とするところを、ただなぞるだけとなりがちです。
読者から見れば、すでに知っていることを改めて読まされるだけ、発想が乏しく、詩としての新鮮味が乏しく、詩的感興を覚えることが難しい作品を生むことになりがちです。
そこで 多くの詩人の直観は、同類対に基づく発想を嫌い、新しい対の可能性を探り続け、その結果、異類対を詠むことが多くなるのだと思えます。
異類対は、詩人の哲学が直観的に生む森羅万象の再構成であると思います。そこで、その再構成が読者に受け入れられるかどうかという問題があり、つまりは、異類対には、何によって対仗であることが担保されるのか、という問題があります。
私たちは、そこを曖昧にしたまま、個人的な経験や語感だけをたよりに、対として緊密であるとか緩いとかを論じがちです。
詩人による森羅万象の再構成がなんとなく受け入れられない評者は、対として緩い、ということをなんとなく口にします。
その曖昧さは、そう簡単には排除できません。そこで私は、少々乱暴ですが、出句と落句の文法構造が同じであれば詩における対仗として成立する、と考えることにしています。
句のなかの語と語が対語となる要件としては、そのふたつの語の文法構造が同じであればよく、その共通項にさらに対比の美が加われば、その対語がより生きる、と考えます。
そのように考え、私は、「天樂」と「柳眉」を対語として使いました。
「天樂」は天は伝統的には天文部、樂は音楽部、「柳眉」は柳は植物部、眉は人体部に分類され、字義の上では異類の語が対語を構成していると言えます。
そこで「天樂」と「柳眉」は対語として甘い、と評される恐れはあります。
しかし、「天樂」と「柳眉」は、名詞が名詞を修飾するという文法構造が同じであり、また、二つの語には美しいものという共通項があります。
そして、一方は聴覚に訴え、他方は視覚に訴えるという対比があります。
そこで私は、「天樂」と「柳眉」は対語として使えるとしました。
「柳眉」の別案で「月眉」とすることも考えましたが、天と月がともに天文部であることで対になると安心するよりは、第五句以降の秋→春への展開の伏線として、月よりも柳がよい とした次第です。
<感想>
鮟鱇さんにも、掲載が遲くなってすみませんとまず謝らなくてはいけませんね。
鮟鱇さんは「html」の形で、ホームページにすぐ掲載できるようにして送って下さるのですが、私が余分な感想を添える分、掲載が遅くなってしまいます。
配慮していただいているのに、二重にすみません。
対語についてのご説明は、私は感覚的には「眉」という形のある「物」と「樂」という形の無い「音」の対は面白いと思いました。
逆に、ここでは「如」が「展」に対して弱いかな?という印象です。
尾聯の「花精」が「早梅」となるという発想と、「爭先」という描写が、梅の枝で蕾が我先にと競っている光景を浮かばせ、孫に絵本を読んであげているような、楽しく優しい気持ちで読み終えました。
2018. 5.25 by 桐山人
作品番号 2018-147
北陸豪雪有感
三冬豪雪近年稀 三冬の豪雪 近年 稀なり
北陸驚騒積素囲 北陸驚騒す 積素の囲み
常住難堪寒徹骨 常住 堪え難し 寒は骨に徹す
空知人智正微微 空く知る 人智は正に微微たり
<解説>
雪の降る北陸地方ではありますが、この冬のような豪雪は珍しいとか
南国育ちの私にはとても暮らして行けそうにありません。
<感想>
今年は本当に厳しい雪だということを、立春を過ぎた二月になってもよく耳にしましたね。
転句の「難堪」、「住むのに耐えがたい」というのは他人事のような印象があります。
「寒さに耐えがたい」とか「雪の中で苦労が多い」という表現に方が適切でしょう。
2018. 5.26 by 桐山人
作品番号 2018-148
初春偶成
今知陋屋紙窓貧 今知る陋屋 紙窓貧なるを
窶記閑吟風少新 窶しくも記し 閑吟す 風少し新なり
雪上知不変遷兆 雪上知るや不や 変遷の兆し
寒中驚世突然春 寒中世を驚かす 突然の春
<解説>
紙窓を見て貧であることに気付きました。
窶しくても詩は書き歌います。そういえば風がわずかに変わった様です。
雪上の人々はこの変遷の兆しに感付いたでしょうか.(此処は狭平格です)
まだ寒い季節に世を驚かすように突然の春の日がありました。
<感想>
承句で「風少新」は作者が見つけた春の気配。
世間の人々はまだ気づいていないことに先に気がつく、それは詩人の観察眼であり、その変化を教えてくれた原因が起句の「紙窓貧」であることが遡って理解できます。
ただ、ここで「新」と出してしまうと、後半の春の訪れに驚く、という場面がゆるくなってしまいますので、やや考えところでしょうか。
前半は冬の寒さでまとめておき、「新」を結句に置いてみるのも。印象が変わるでしょうね。
転句の「雪上」と結句の「寒中」は役割が同じで面白くありません。どちらかにすべきでしょう。
2018. 6. 9 by 桐山人
作品番号 2018-149
新年休暇
麗日街頭旗影颺 麗日の街頭に旗影颺(あが)り
五雲靉靆太平光 五雲靉靆として太平の光
獨吾至樂春風底 独り吾が至楽は春風の底に
書册一行又一行 書冊の一行また一行
<解説>
この新年、格別何処かへ出向いたわけでもございませんが、元旦は早起きして初日を拝しました。
真冬の夜明けの外にずっとおりますと凍えて凍えて、命からがら帰宅したものでございました。
<感想>
三斗さんのこちらの詩は「新年漢詩」の中に紛れていて、掲載を落とすところでした。
すみません。
解説を拝見すると、この詩は初日の出を見た後、「命からがら」帰ってほっと一息、という気持ちでしょうか。
前半のお正月の好景に対して、後半は背を向けているような印象がありますが、転句の「春風底」が効いていて、新年の休暇を読書三昧に使えることが嬉しい!という気持ちが感じられますね。
転句の頭を「獨」ではなく、「更」と替えてみると、意図に合うのではないでしょうか。
2018. 6.11 by 桐山人
作品番号 2018-150
春雨
雨脚如絲不少停 雨脚糸の如く 少しも停らず
池蛙聲冷隔簾聽 池蛙の声冷きを 簾を隔て聴く
依然懶出春空往 依然出づるに懶く 春空しく往き
愁恨濛濛占一庭 愁恨 濛濛と一庭を占む
<解説>
春雨は、余りに湿っぽくなり過ぎか。
「曳杖」のことに再び引っ掛けますと、詩語集に「春空老」とあるのを、自分が老いるのでなく春が老いるのだがそれにしても老の字は如何。と、「春空往」としてみたものでございます。
<感想>
「曳杖」の話は三斗さんの 「和春」 でのこと、まだ杖を曳く年齢でもないのに詩語としての「曳杖」を使うのはどうなのか、というお気持ちを述べられていましたね。
ここでの「春風老」は語感として「春」が「老いる」ということに違和感があるのでしょうが、前回とはちょっと事情が違うように思います。
『詩韻含英』でここと同じ意味での「老」で終る三字を見てみますと、「秋色老」「風情老」「江樹老」「紅顔老」などが出ています。『佩文韻府』で見ると更に「萬物老」「樹色老」「春竹老」「菖蒲老」「青楓老」「木葉老」など、こうして見ていくとだんだん「違和感」が消えていくように思いますがどうでしょう。
詩は「春雨」に「愁恨」を重ねるのは自然で、選んだ言葉も齟齬なく、きれいに収まっています。
ぜいたくな言い方になりますが、収まりが良い分、詩の独自性、個性が薄くなったようにも思います。
転句の「依然」をもう少し強くすると良いでしょう。
2018. 6.12 by 桐山人