2018年の投稿詩 第301作は 遥峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-301

  春近        

忽然処処凍雲同   忽然 処処に 凍雲同まり

春雪朔風天已蒙   春雪 朔風 天已に蒙し

郷苑孟春古来例   郷苑 孟春 古来の例

菜花未発此橋東   菜花 未だ発かず 此橋の東

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 福井では暦は春でも、急な積雪となることがあります。
 季節の天候はその土地ごとの定めでしょう。

 岡山から福井へ移住して来られた書道の先輩が、この地の天候の悪さを嘆くので、「もうすぐ菜の花が咲きますよ」と慰めたのですが。

<感想>

 北陸福井の春は遅い、ということでしょうか。
 愛知県のテレビでは、夕方NHKですと、東海北陸の天気予報として各県の予報が出されますが、東海と北陸では、いつも天候が随分違うことを感じます。
 太平洋側と日本海側での違い、それとも中部の山岳地帯で気候が分けられるのでしょうかね。

 さて、その福井の遅い春を描いた詩ですが、前半は臨場感のある表現になっていると思います。
 起句は「凍雲空」も考えられますが、承句の「天已蒙」とありますし、動きを表す言葉の方が良いので、これが良いですね。

 それで行くと、承句の「春雪」ですと穏やかなイメージがあり、起句の緊迫感とずれる気がします。この字は転句にもあります(「同字重出」)ので、ここは「回雪」など勢いのある語が良いでしょう。

 転句は「孟春」とありますが、題名は「春近」。二つの春は意味が違って、転句は季節としての「春」ですが、題名の方は「体感、実感としての春」と言えば良いでしょうか。
 しかしながら、題名を見てから詩を読むと「あれ!」という感じはあります。
 転句を「逢春」「迎浅」などとして、題名を「越前春景」のようにしてはどうでしょう。

 結句は「未発」として、やがて花が開くという意味合いを出したのでしょう。しかし、「春が来ていない」という否定形であることは間違いなく、そうなると前半の描写と大差なくなります。
 お書きになったように、「慰め」という気持ちを出すならば、ここを「旬日」として、「十日もすれば」という期待を持った表現にしてはどうでしょうね。



2018. 9.20                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第302作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-302

  時事(南北会談)        

六十餘年分斷中   六十余年 分断の中

非情歳月國民空   非情の歳月 国民 空し

巨星雙對將融解   巨星 双対 将に融解せんとす

世界関心注極東   世界の関心 極東に注がる

          (上平声「一東」の押韻)


「巨星」:文大統領と金委員長

<感想>

 岳城さんのこちらの詩は最初の南北会談を経てのもので、掲載が遅れましたが、その後も何とか継続しているようでホッとしています。
 私が2012年に韓国に行った時は、板門店の見学も(オプションでしたが)できたのですが、その旅行の直後に竹島問題で日韓関係が緊張、北朝鮮の核実験により板門店も封鎖され、遠い風景になっていました。
 今回、また板門店が会談の場所としてクローズアップされ、軍事境界線を飛び越える映像もあり、びっくりしました。

 その折の私が書いた文章がありましたので、見直してみました。

 (板門店見学の)日本人対象のコースには30人ほどの参加者がいました。
 軍事境界線と呼ばれる場所では兵士が銃を持って立ち、緊張感を出していました。

 板門店では解説のビデオ上映がありましたが、日本語での解説ながら、内容は「北朝鮮の人々はどんなに貧しく辛い生活を送っているか」「悪の元凶は金一族だ」ということが繰り返され、もう少し歴史的な説明があるかと思った私は肩すかしに会いました。
 ツアーで来た日本人にまで、こんなに煽るようなビデオを見せてくれなくてもよいのに、と心中で思った次第です。

 そのビデオはともかくとして、朝鮮半島が政治的に南北に分断され、一つの民族が離ればなれになっているという事実は、観光コースとしての見学ではありましたが、平和な生活にどっぷりと浸った日本の日常とは全く異なる世界を見る思いでした。

 私の話ばかりになりましたが、岳城さんの詩は両国への思いがよく表れていて、時事の詩ですが、共感を深くするものだと思いました。



2018. 9.27                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第303作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-303

  拝聽節談説教        

告刻鐘声淨域寧   刻を告げる鐘声 浄域寧し

幢幡搖曳草花馨   幢幡 揺曳 草花馨る

節談説教尼僧勢   節談説教 尼僧の勢

聽衆感銘円覺經   聴衆 感銘 円覚の経

          (下平声「九青」の押韻)


「幢幡」: 仏堂に飾るのぼりばた
「揺曳」: 揺れて棚引くさま
「節談説教(ふしだんせっきょう)」: 真宗の教えに節を付けて説く
「円覚経」: 円かな如来の悟り



<感想>

 起句の「告刻」は「説教」の始まりの時刻ということでしょうか。それとも、通常の報時の鐘でしょうか、そこが曖昧ですね。

 承句の「草花」は、「馨」の韻字のため「香花」を避けたのかもしれませんが、部屋の中で「草」は気になります。

 後半は、転句の「尼僧勢」が何を言いたいのか、分かりません。直接目の前でご覧になっている作者にはそのまま通じるのでしょうが、読者には通じるでしょうか。




2018. 9.27                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第304作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-304

  晩夏双輪行        

黄穂漸低残暑疇   黄穂 漸く低る 残暑の疇

双輪自在恣飄遊   双輪 自在 飄遊を恣にす

力登急坂三千尺   力登す 急坂 三千尺

風渡高原万頃秋   風は高原を渡りて 万頃秋なり

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 8月下旬、東北地方をサイクリングしてきました。
 もう季節の上では秋なのでしょうが、東北とはいえ、気分の上ではまだ夏といった感じでした。
 しかし、標高1000mを超えると流石に涼風が吹き渡っていました。

<感想>

 毎朝BSで朝ドラを観ていますが、「半分青い」が終ると火野正平が自転車で走る「日本縦断こころ旅」が始まります。
 今回は北海道から静岡までというコースですが、やんちゃ坊主のイメージがある火野正平が一緒に走るメンバーや町の人々にあたたかい言葉や思いやりを漂わせていて、走っている爽快さとともに人との出会いという旅の楽しさを感じさせてくれます。

 承句は「恣飄遊」の言葉もそうですが、アウトドアを楽しんでいらっしゃる禿羊さんならではの句ですね。
 軽快に走っていらっしゃる姿が髣髴とすると同時に、初秋の広々とした山景もしっかり描かれていて、身体を抜けて行く風も感じられる良い詩ですね。

 題名が「晩夏」、結句に「万頃秋」とあるので読んだ後に「あれ?」という気持ちになります。
 結句だけでなく詩を読めば季節はすぐにわかりますので、わざわざ題名に書く必要は無いでしょう。どこを走ったかが分かるように地名などを入れた方が良いでしょうね。



2018. 9.28                  by 桐山人



禿羊さんからお返事をいただきました。

   鈴木先生、丁寧な御批考ありがとうございました。

   晩夏と残暑ではご指摘の通り季節が異なります。軽率でした。
   「奥州双輪行」と題を変更したいと思います。


2018.10. 5                  by 禿羊
























 2018年の投稿詩 第305作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-305

  螢        

渓響潺潺送晩涼   渓響 潺潺 晩涼を送り

流螢点滅一絲長   流螢 点滅して 一絲長し

夏宵幻化佳人魄   夏宵 幻化す 佳人の魄

千歳幽飛慕庾郎   千歳 幽かに飛んで 庾郎を慕ふ

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 和泉式部の歌、
 男に忘られて侍りけるころ、貴船にまゐりて、みたらし川に螢のとび侍りけるを見て詠める

   物思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

 から連想しました。
 螢を詠んだ和歌としてはまさに絶唱ですね。

 藤原保昌と庾信はどちらも風采は立派だったでしょうが、なぞらえるのはちょっと不適当かも知れません。

<感想>

 和泉式部の歌は、おっしゃる通りの「螢の絶唱」ですね。螢が死者の魂が飛んでいる、という見立ては中国に古くからあり、日本でも同様の発想があったようですが、これを恋の歌に詠み込むというのは和泉式部ならでは、という気がします。

 藤原保昌はその和泉式部の夫、藤原道長の四天王に数えられるようなりっぱな武士でもありました。庾信は中国南北朝の梁の国の文人、宮体詩で名を知られましたが、国が亡んでその後に他国に高位で仕えますが、望郷の思いを消せなかったようです。
 さて、禿羊さんの詩の方は、書き出しが良いですね。螢が飛ぶのにふさわしい場面が描かれ、承句で一気に螢に視線を集中させる。
 転句からは和泉式部の歌を下敷きにして、この歌を書いたことで、式部の魂は永遠に恋人を慕い続けているものとして残っていく(いる)、という結びまで、小さな螢から雄大な時の流れへの広がりがロマンを感じます。

 夫である藤原保昌と庾信のどこに共通点を見つけて喩えたのか、が私にはつかめなかったのですが、宮体詩の中でしょうか。
 庾信の詩で螢を描いた句では「月光如粉白 秋露似珠圓 絡緯無機織 流螢帶火寒」が私は好きです。
 その他に「擬詠懷詩二十七首 其十八」にも出ています。
 現代語訳も添えておきましたので、ご参考に。





2018. 9.28                  by 桐山人



禿羊さんからお返事をいただきました。

「螢」の詩では、韻府より単に「郎」で適当な字を探しただけで、それほど深く考えたわけではありませんでした。
 先生に要らぬ推求を煩わせて、汗顔の至りです。

 そこで改めて、調べてみたのですが、平仄に乱れがでますが「蕭郎」がここでは最も適切なようです。

 「蕭郎」:愛する男子の称。また夫(広漢和辞典) 語源は幾つかあるようですが、
 一種説法縁于漢代劉向《列仙傳》講述的故事:
 蕭史者,秦穆公(嬴姓)時人也,善吹簫,能致白孔雀于庭。
 穆公有女字弄玉,好之。公遂以女妻焉。日教弄玉作鳳鳴,居數年,吹似鳳聲,鳳凰來止其屋,公為作鳳臺。
 夫婦止其上,不下數年,一日皆隨鳳凰飛去。
 故秦人為作鳳女祠于雍宮中,時有簫聲而已。
 后遂用“弄玉”泛指美女或仙女;用“蕭史”借指情郎或佳偶,又稱“蕭郎”。
 今後とも、ご指導よろしくお願い申し上げます。


2018.10. 5              by 禿羊























 2018年の投稿詩 第306作は大阪府にお住まいの 紫雪 さん、女性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2018-306

  「桐壺更衣」 −読源氏物語桐壺巻−        

寵愛偏因内裏隅   寵愛 偏(いちず)に因(よすが)とす 内裏の隅(すみ)

麗人自使後宮孤   麗人 自ずから  後宮に孤たらしむ

難遺幼眼恨天命   遺し難きは 幼(いとけな)き眼(まなざし)にして 天命を恨み

花鈿静揺輿別徂   花鈿 静かに揺れて 輿は別れ徂(ゆ)く

          (上平声「七虞」の押韻)


「内裏隅」: 身分の低い更衣に与えられた局は、内裏の隅にあった。
「麗人」: 更衣の美しい容貌。
「後宮孤」: 更衣は後宮の多くの女たちから嫉妬され、様々な仕打ちを受けた。
「難遺幼眼」: 更衣は桐壺帝との間に光源氏を産むが、間もなく心労から衰弱死する。
「恨天命」: 更衣は辞世に「限りとて わかるる道の かなしきに いかまほしきは 命なりけり」という歌を詠む。
      また、桐壺帝は、「更衣をこれほど愛したのは、きっと薄命の定めがあったからだろう。」と悲しむ。
「花鈿」: 『長恨歌』は楊貴妃の死を、「宛転蛾眉場前死 花鈿委地無人収」と詠んでいる。
「輿別徂」: 御所では「死」を忌み嫌うため、衰弱して死に瀕した更衣は里へ帰ることになった。
      本来、更衣の身分では許されないが、桐壺帝は特別に輿車を用意して泣く泣く見送った。
      しかし、その日の夜に更衣は力尽きて亡くなった。


<感想>

 新しい仲間を迎え、大変嬉しく思います。
 意欲的に作詩に取り組んでいらっしゃるようで、これからも楽しみですね。
 よろしくお願いします。

 紫雪さんは『源氏物語』がお好きだそうで、雅号の「紫雪」も源氏との関わりでおつけになったのでしょうね。

 さて、「桐壺巻」の物語を七言絶句にまとめる、という意欲は素晴らしいことですね。
 『源氏物語』を愛読なさっているからこその作品で、「桐壺の巻」全体がしっかりと要約されていると思います。構成の点で少し気になるところがありますので、今後の推敲の参考にしてください。

 まずは、二十八字という制約がありますので、必要な言葉を選び抜くことと、余分な言葉を削ることが大切です。
 今回の作品で言えば、後半のクライマックスが慌ただしく、やや言葉足らずな印象があります。
 逆に、起句で「内裏隅」、承句で「後宮」と場所を表す言葉が二つあるのは、丁寧な描写かもしれませんが、重複感がありますし、更衣が孤立していたという説明に二句使うのはどうでしょうか。
 内容的にも、起句の「偏因」と承句の「孤」は重なる部分がありますので、例えば起句を「寵愛一身宮掖隅」とすると、二句をまとめることができます。
 その分、更衣の状況や心情をもう少し語ることができるようになります。転句で「難遺幼眼」と更衣の思いへと進むためにも、「心労」にあたることを承句に入れると、流れが良くなると思います。

 結句は『長恨歌』からの言葉を持ってきましたが、これは良い表現ですね。
 『源氏物語』そのものも『長恨歌』の影響が大きいわけで、「花鈿」とあれば、それは単なる「花鈿」ではなく、「『長恨歌』の花鈿」と理解ができます。
 典故で、詩そのものの奥行きが深くなりますね。
 これは、日本の和歌で言う「本歌取り」の用法でもあり、短詩型の作品の描かれた世界を重層化する効果があります。
 伝統的な手法で『長恨歌』まで含ませていますから、紫式部も喜んでいる(?)と思います。

 最後の「輿別徂」「別」「徂」も同じ役割ですので、「揺」「別」「徂」と動詞を三つ並べるのは煩わしい気がします。
 『源氏物語』では帝が「輦車の宣旨」を命じたとありますので、「輿輦徂」とするのはどうでしょうか。



2018. 9.30                  by 桐山人



紫雪さんからお返事をいただきました。

 桐山堂先生
 とても丁寧な御批正をいただき、大変感激いたしました!
 ありがとうございます!

 桐山堂先生の御批正に従って訂正し、更に承句を推敲してみました。
また、承句に「怨」を用いましたので、転句の同意語「恨」は「噎」に改めてみたのですが、如何でしょうか?
 お忙しい中お手数をおかけしますが、また御批正をよろしくお願いいたします。

    「桐壺更衣」 −読源氏物語桐壺巻−
  寵愛一身宮掖隅   寵愛 一身 宮掖の隅
  三千讐怨不能扶   三千の讐怨 扶(たす)くることあたはず
  難遺幼眼噎天命   遺し難きは 幼き眼にして 天命に噎(むせ)び
  花鈿静揺輿輦徂   花鈿 静かに揺れて 輿輦徂く

「宮掖隅」:  身分の低い更衣に与えられた局は、内裏の北東の隅にあった。
「三千讐怨」: 更衣は後宮の多くの女たちから嫉妬され、様々な仕打ちを受けた。
        また、『長恨歌』では、後宮の女たちを「後宮佳麗三千人」と表現している。
「不能扶」:  桐壺帝は、後宮の女たちの怨讐から更衣を守りぬくことができなかった。
「難遺幼眼」: 更衣は桐壺帝との間に光源氏を産むが、間もなく心労から衰弱死する。
「噎天命」:  更衣は辞世に「限りとて わかるる道の かなしきに いかまほしきは 命なりけり」という歌を詠む。
        また、後に桐壺帝は、「更衣をこれほど愛したのは、きっと薄命の定めがあったからだろう。」と悲しむ。
       「噎」については、『詩経』国風「黍離」に、「中心如噎」(中心噎(むせ)ぶが如し:心中は咽ぶようにつらい)とある。
「花鈿」:  『長恨歌』は楊貴妃の死を、「宛転蛾眉場前死 花鈿委地無人収」と詠んでいる。
「輿輦徂」:  御所では「死」を忌み嫌うため、衰弱して死に瀕した更衣は里へ帰ることになった。
      本来、更衣の身分では許されないが、桐壺帝は特別に輿車を用意して泣く泣く見送った。
      しかし、その日の夜に更衣は力尽きて亡くなった。


2018.10. 5          by 紫雪























 2018年の投稿詩 第307作は 酔竹 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-307

  大足蛇車祭        

周知號砲響天空   周知の号砲 天空に響き

絢爛蛇車巡巷中   絢爛の蛇車 巷中を巡る

壯勇勵聲攘苦熱   壮勇 声を励まし 苦熱を攘ひ

麗姝吹管召涼風   麗姝 管を吹いて 涼風を召く

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 毎年7月中旬に行われる、地元武豊町大足地区の祭礼 『蛇車まつり』の様子を描きました。

 「蛇車」という最上部に龍のからくりが乗った山車が地区内を曳き廻されます。
 今年も我が家の前を大勢の人に曳かれて通りました。

<感想>

 題名は「大足」だけでは分かりません。「蛇車」が「大足?」なのかと思いました。
地名は無くても良いようにも思いますが、入れるなら「知多郡大足蛇車祭」と少し丁寧にした方が良いでしょうね。

 起句の「周知」は「祭りを知らせる」ということかと思いますが、「周知」は「広く知れ渡っている」という意味ですので、そうなると「みんなが知っている号砲」となります。
 毎年のことだから「恒例の」くらいの意味かな、とかなり無理して解しましたが、読者には通じない表現でしょう。

 また、次の「絢爛」と対にするならば対応が悪いので、ここは「号砲」の音の形容にすべきです。
 下三字については、対句にした場合には上句は押韻しないのが正しい形ですので、「天外」の方が良いです。

 後半の方が対句としては整っていますね。
 最後の「召」も、「招」は手で呼ぶのに対して「召」は口で呼ぶわけで、この場合にはより適切な語の選択になっています。
 酔竹さんがよく勉強なさっていることが伝わってきますね。



2018. 9.30                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第308作は 酔竹 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-308

  早朝釣行        

列座釣人清暁濱   列座の釣人 清暁の濱

嬉輝笑貌躍銀鱗   嬉輝の笑貌 躍る銀鱗

揚揚輕歩魚籃重   揚揚の輕歩 魚籃重し

沽酒今宵聚比隣   酒を沽ひ 今宵 比隣を聚めん

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 地元では6月末になると鯯(さっぱ・このしろ)が沢山釣れ、日の出と共に多くの釣人が竿を並べます。
 小さい魚ですが塩焼きにしても旨く、酢漬けにしたママカリは酒の肴にピッタリです。

<感想>

 詩としては、後半の満足感を強調するには承句までは釣り場の情景だけにしておいた方が面白くなります。
 つまり、承句の「嬉輝笑貌」が後半のネタばらしになっているわけで、ここを情景描写に持って行く形です。
 その場合には起句も「釣人」よりも「釣竿」が良いですね。
 あるいは、季節を出しても良いし(季節感が無いので)、海の様子を描いても良いと思います。

 後半はよく出来ていると思います。



2018. 9.30                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第309作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2018-309

  桐山堂懇親会        

門人輩出誉詩才、   

慶事清秋喜宴開、   

佳作相知人初見、   

風雅談起自傾杯。   

          (上平声「十灰」の押韻)



<解説>

 当日 参加できて本当に楽しかったです。

 皆さんの漢詩に対する熱い思いに触れることができ、刺激をいただきました。

<感想>

 四月に中国でのご勤務を終えられ帰国されたニャースさん、桐山堂の懇親会にご参加いただいたのは初めてでしたが、桐山堂サイトの当初からの漢詩仲間、二十周年の記念で鮟鱇さんや深渓さんとも歓談いただけたようですね。

 転句の「佳作相知人初見」がこの詩の焦点、ネットでの作品交流で良く知っているのだけれど、実際に顏を合わせるのは初めて、という桐山堂懇親会の本筋が分かりますね。
 また、機会を作って、「再見」といきましょう。



2018.10.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第310作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-310

  桐山堂二十周年懇親會偶成        

爽涼白露滿江都   爽涼 白露 江都に満つ

今夜清筵好企圖   今夜 清筵 企図するに好し

已見東西搜韻客   已に見る 東西 捜韻の客

更迎老若詠風徒   更に迎ふ 老若 詠風の徒

廿年師友來相集   廿年の師友 来って相集ひ

千代田城下自愉   千代田城下 自ら愉し

遮莫新詩言未遂   遮莫(さもあらばあれ)新詩 言未だ遂げざるも

宴酣雅興尚中途   宴酣(たけなは)にして 雅興 尚ほ中途なり

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 秋は白露のさわやかさ 東京じゅうにあふれてる
 今夜宜しき一席を 企てるのにふさわしい
 すでにお見えの方々も 続々お越しの皆様も
 老いも若きも全国の 漢詩を愛する仲間たち
 師たり友たり二十年 こうして集い寄るところ
 千代田の城のお膝元 愉しい気分になってくる
 書き出した詩が最後まで まとまらなくてもそれはそれ
 宴も酣まだ半ば 風雅の興もこれからさ



<感想>

 桐山堂懇親会では一番の若手、観水さんがこの二十周年懇親会の座を取りまとめてくださいました。
 参加者の近況報告というか自己紹介だけで、やはり漢詩を作っている仲間ですので話が長くなり、全員の挨拶が終るともう終了時刻が近いというような、まあ、それはそれで、楽しい宴でした。
 色々とご手配、ありがとうございました。



2018.10.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第311作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-311

  清集口吟 奉贈桐山先生        

二十年來網上師   二十年来 網上の師

孤吟客各學愉詩   孤吟の客は各(おのおの) 詩を愉しむことを学ぶ

今宵盛宴須深謝   今宵 盛宴 須く深謝すべし

懇唱彌榮呈一卮   懇に弥栄(いやさか)を唱へて 一卮を呈せん

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 思えばすでに二十年 ネットのなかの大先生
 孤独な漢詩愛好家 創る愉しさ教わった
 今夜のうたげ是が非でも 感謝の気持ち伝えなきゃ
 桐山堂の弥栄を 祈って一杯差し上げん



<感想>

 こちらは懇親会でなく、桐山堂が二十周年を迎えたことへの祝詩ですが、漢詩を創ることでこんなに多くの友人が出来たこと、沢山の先輩や後輩に囲まれて、私はいつもありがたいと思っています。

 これからも粘り強く続けて行く元気、と言うかビタミン、を与えて下さる漢詩仲間に、私の方こそ感謝の献杯です。



2018.10.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第312作は静岡県磐田市にお住まいの 春燕 さん、二十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2018-312

  九月廿四日夜        

唱歌声裏坐更深   唱歌の声裏 更深に坐し

欲看佳人惜寸陰   佳人を看んと欲して 寸陰を惜しむ

燈下案頭眠不得   燈下 案頭 眠り得ず

無人知道月斜臨   人の 月斜めに臨むを知道するは無し

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

 初めましてこの度初めて投稿致します。

 初心者故至らないことが多いと思いますが、拙作の御指導のほどよろしくお願い申し上げます。
 ある方のインターネット配信をPCにて拝見していた時に作った詩です。非常に楽しい配信でしたので明け方近くまで見てしまったことを念頭にこの詩を作りました。

<感想>

 新しい漢詩仲間を歓迎します。
 漢詩をお作りになって半年程、とのことですが、平仄も整って勉強なさっていますね。

 素材や用語などを拝見すると現代中国の方が作った詩のように感じます。中国にお詳しいのでしょうか。
 承句と結句に「人」の字が重複していますので、ここだけは検討が必要ですね。

 今後の作詩のご参考に、順に見ていきましょう。

 まず、題名ですが、例えば菅原道真の「九月十日」、上杉謙信の「九月十三夜」などの日付けがあるのは、「重陽の翌日」とか「十三夜の月」など、慣習として日付けを見るだけで「ああ、あの日だね」と分かる場合に用います。
 今年は中秋の明月が九月二十四日でしたからそういうお積もりでしょうが、旧暦でなく新暦での表記ですので月の動きが見えません。結果、何の日なのかがわかりません。
 「九月廿四日中秋」と一言添えるだけで伝わりますので、その辺りの読者への配慮は必要でしょう。

 起句は難はありませんが、「坐更深」は「更深まで起きている」という意味ですので、時間の長さが承句の「惜寸陰」と違和感があります。
 簡単に言えば、「真夜中まで起きているなら、寸暇を惜しまなくても、時間はたっぷりあるだろう」ということですが、まあ、これは「夢中になって」ということで解釈すれば理解可能ですが、どちらかを検討してもよいと思います。

 また、「坐更深」の後に「眠不得」が来ると、同じような意味の重複に感じます。
 そうなると、起句の「坐更深」を、歌声の説明などにした方がまとまりがうまれるかもしれませんね。

 結句は、(新暦の)九月二十四日ですと「月斜臨」は明け方、それを見るのは朝まで起きている人、そんな人は自分以外には居ないだろう、というのが句意ですね。
 つまり、ここでの「人」は作者以外の人物、ただ、それが分かりにくいのが難点です。
 「誰」を用いて反語形で持って行くのが、強調表現になって良いと思いますので、検討して下さい。




2018.10.15                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第313作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-313

  閑居雑詩        

晴天好日出衡門   晴天 好日 衡門を出で

曳杖郊坰隔世喧   杖曳く郊坰 世喧を隔つ

偏愛風催梅蕾綻   偏に愛す 風の梅蕾の綻ぶを催がすを

可憐水映藕花媛   憐れむべし 水の藕花の媛なるを映ずるを

路傍叢菊香含露   路傍の叢菊 香 露を含み

雪裡孤鴻聲帯怨   雪裡 孤鴻 聲 怨みを帯ぶ

能得閑居四時興   能く閑居四時の興を得て

匏身一個老寒村   匏身一個 寒村に老ゆ

          (上平声「十三元」の押韻)

<感想>

 中二聯で春夏秋冬を描き、素材も「春の梅」「夏の蓮」「秋の菊」「冬の雪」と無理の無いものを配置されて、誰もが納得できるものを、しっかりと選択されていると思います。
 スタンダードであることは奇抜さを削ることでもあり、せっかくの対句の二聯を「見慣れた風景」として軽く読み過ごされてしまう危険もあります。
 そういう意味では、「雪裡孤鴻」で蘇軾の句(「和子由澠池懷舊」)のような典故が入ることで、変化が生まれているかと思います。

 一首の中で四季を描くと、どうしてもそれぞれの季節の代表格を出さざるを得ず、その分実景の感が弱くなります。
 首聯に具体的な地名(例えば「木曽川の堤畔」など)が入ると、中二聯もそこからの景色となり、作者が一年を通して眺め続けたものとなりますので、同じ風物でも趣が変わってくるのではないでしょうか。



2018.10.16                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第314作は 太白山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-314

  初秋散策        

漸収霖雨小池辺   漸く 霖雨収まる 小池の辺

汀草珠光映水妍   汀草の珠光 水に映じて妍なり

覓句待晴臨郊外   句を覓め 晴れるを待ちて 郊外に臨めば

初看愁雁夕陽天   初めて看る 愁雁 夕陽の天に

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 起句は次第に長雨がやんだ池のほとり、という場面設定で、よく分かります。

 承句は二つの点で疑問があります。
 一つは、「珠」、これは「(真珠のように)美しい」という露の常套表現ですが、そうなると末字の「妍」が邪魔です。
 つまり「美しい露の光が(水に映じて)美しい」と言ってるわけで、形容詞の重複です。
 直接、「草露映陽」と書き出してはどうでしょう。

 もう一つは、露という「水」で出来た小さなものが「水に映じ」と見えるのか、という疑問です。
 水面がキラキラと光るならばそれは波ではないかと思いますし、仮に見えたとして、それを「妍」と形容できるほど見えるのか、言葉の上では美しい景色ですが、リアリティの面で弱いように思います。

 転句は平仄が合いません。下三字は「平平仄」で、このままでは「二六対」になっていません。「郊」の字の平仄を間違えたでしょうか、「挟平格」にもなりませんので、ここは直す必要があります。

 また、「待晴」は起句で「漸収」と言っていますので、やや違和感がありますが、ただ雨が上がるだけではなく「晴」を待って、ということで、結句の「夕陽」へのつなぎでしょうか。
 ただ、「覓」「待」「臨」と動詞が重なりますし、この中二字は作者の感情や状態を表す形容の言葉を入れた方が良いでしょう。

 結句は「初見」は、恐らく「今年になって初めて」ということでしょうが、説明的で煩わしい印象です。
 「愁雁」はあまり見ない語ですが、「哀雁」と似たような表現でしょうか。それとも「秋雁」か。
 「愁」にしろ「哀」にしろ、そう表す根拠が欲しいところ、鳴き声が一番良いでしょうね。
 「一声哀雁」などで考えてはどうでしょう。



2018.10.16                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第315作は 国士 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-315

  庭中鴨跖草        

花間淡淡風   花間 淡淡の風

玉蕊閑庭看   玉蕊 閑庭に看る

梅雨鬱伊晴   梅雨 鬱伊晴れ

今朝紫艶歓   今朝 紫艶の歓

          (上平声「十四寒」の押韻)



<解説>

 紫露草が咲く花の中にかすかにわたる風
 美しい花を静かな庭で見る
 雨季の晴々しない心が晴れて
 今朝は艶やかな紫で歓んだ

 ちょっと季節は、ずれてますが自宅の庭のムラサキツユクサを詠んだものです。

<感想>

 「何となく自信が無い」とお書きになっていましたが、五言絶句として体裁が落ち着かないからでしょうね。
 押韻は「上平声十四寒」の平声ですので、近体詩では起句と転句の末字は仄字にしないといけません。(逆に仄韻の詩ならば起句転句はこれでも良いのですが)
 現時点では、全部の句末が平声ですので、全体に間延びした印象になります。

 承句は「閑」「庭」「看」が平声、つまり「下三平」になっていますので、これも近体詩では禁忌です。
 仄韻の詩にして、承句の下三字は「閑庭潜」、結句の下三字を「歓紫艶」とすれば、ひとまずは平仄の問題は解決します。

 また、「玉蕊」と起句の「花」は同じもののように思えますので、重複していませんか。
 五言絶句という短詩型ですので、こうした重なりはもったいないので、起句を「閑庭淡淡風」、承句を「玉蕊籬辺潜」などにしてはどうですか。

 転句の「鬱伊晴」は「沈み込んだ気持ちが晴れる」ということ。しかし、「梅雨の鬱伊」とするのは難しく、どうしてもこの句は「梅雨空の下、鬱伊が晴れた」と「梅雨」と「鬱伊」は分断して読みます。
 「雨歇鬱伊晴」とすれば「雨のための鬱伊」だとわかりますので、意図は伝わるのではないでしょうか。

 



2018.10.20                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第316作は 遥峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-316

  新秋        

孤蛩初聞竹簾中   孤蛩 初めて聞く 竹簾の中

皎皎清光在梧桐   皎々たる 清光 梧桐に在り

熾日乍過秋信早   熾日 乍ち過ぎて 秋信早く

此生方得笑顔翁   此の生 方に得たりと 笑顔の翁

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 今年の夏の暑さにはまいりました。
 コオロギの声を聞き、月を眺めて、やっと秋の訪れを感じ、まさに生き返った気がします。

<感想>

 そうですね、虫の音は秋の訪れと共に鳴いていたのかもしれませんが、人間の方が熱帯夜に負けて冷房の部屋に籠もりきりだったり、出歩くのが億劫だったりして気付くのが遲くなったのかもしれません。
 おっしゃる通りで、月を眺める涼しさというかホッとした気分というか、そんな状態でこそ聞き取れるものかもしれませんね。

 さて、作品の方ですが、起句の「聞」は書き間違いでしょうね、この字は動詞としては平声ですので、ここは仄字にしないといけません。
 両韻字の「聴」としておきましょう。意味的には、「ふと聞こえて来た」というニュアンスよりも「意識して聴いた」という形になりますので、ちょっと違うということでしたら「覚」などでしょうか。

 承句は秋の趣が漂う良い句ですね。

 転句は今年の夏で言えば「乍過秋信早」というのには「そうかな?」という気持ちですが、まあ、今年の夏が記録的な暑さだったようですから、一般的な感覚で言えばこれでも良いでしょう。
 今年バージョンで行くなら、「熾日宛延秋纔至」という気持ちですね。

 結句は詩のまとめですので、「此生」とするよりも、はっきりと「安舒」「安閑」と示した方が良いでしょう。



2018.10.20                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第317作は 羽沢典子 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-317

  大学卒業        

帰郷途上想青春   帰郷の途上 青春を想ふ、

満面笑顔車席巡   満面の笑顔 車席を巡る。

卒業証書携彼手   卒業証書 彼の手に携へ、

風姿秀麗欲誇親   風姿は秀麗にして 親に誇らんと欲す

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 最近忙しくて、漢詩もなかなか出来ませんでしたが、春に大学卒業の人を見て「ああ、私もこうだったなぁ」と思い起こした詩です。
 親に卒業証書を見せようとワクワクして帰りました。

<感想>

 これは作者が帰郷した折の車中での光景、卒業式からの帰りでしょう、華やかに着飾った若者たちが笑顔いっぱいに電車に乗ってきて、その晴れやかな自信に溢れた姿を見て、ご自身の「青春」を思い出し、重ねて眺めたというものと解釈しました。

 この場合には、「帰郷」「想青春」のつながりにかなり無理がありますね。
 もう少し言えば、「帰郷途上」である必然性が感じられず、「春分時節」とか「春分車上」くらいの方がわかりやすくなるかもしれません。

 一方、起句の「帰郷途上」も思い出のこと、とも取れますが、そうすると承句以降も作者の行動となります。
 そちらの方が作者の書きたかったことかもしれませんが、「想青春」となったきっかけが何も無い形になり、現実感が弱くなりますし、逆に「想青春」は題に持ってきて、その当時のことに画面を揃えた方がすっきりするでしょう。

 承句以降が丁寧に出来上がっていますので、起句で場面設定がすっきりするように工夫されると良いでしょうね。もう一息という感じですよ。



2018.10.28                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第318作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-318

  中秋名月        

中秋舂餅兎   中秋 餅を舂く兎、

白露風靡芒   白露 風に靡ぐ芒。

対影虫声静   影に対して 虫声静かに、

重杯月夜長   杯を重ね 月夜長し。

星間無相語   星間 相語る無く、

空局有余光   空局 余光有り。

濁世頻流転   濁世 頻りに流転するも、

乗興為故郷   興に乗じて 故郷と為さん。

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 去年の九月頃に書いて出しそびれていた詩です。机の引出しにありました。


<感想>

 首聯は「舂餅兎」を出しましたので、下句はできれば「月」を持ってきたいですね。
 第二句を「月夜風靡芒」とするだけでも流れが良くなるはずです。

 頸聯は「星間」「空局」の対応が悪いように思いますので、下句目線があまり上下しないように検討されると良いかと思います。

 第八句の「興」は仄字ですので、ここは変更が必要ですね。



2018.10.28                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第319作は 历山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-319

  足利市牛頭天王須佐之男命見大祭        

二神同日昼天寧   二神同日 昼天寧し

覓句逍遥孤向坰   句を覓めて逍遥し 孤り坰に向かう

嫌会野人帰早早   野人に会ふを嫌ひて 早早に帰る

夢中明滅百灯熒   夢中明滅す 百灯熒たり

          (下平声「九青」の押韻)



<解説>

  足利市の須佐之男命と牛頭天王の大祭を見る
 二神の祭りは同じ日ですが天気は無事晴れました。
 漢詩のネタを覓めて逍遥しながら一人祭りが行われる町はずれに向かいます。
 野卑な人に会うのを嫌って夕方に早々に帰りました。
 帰って夢の中で明滅する数々の屋台の灯りがきれいなのを見ました。


<感想>

 掲載が遅くなりすみません、ついつい目の前の仕事に追われてしまって、「明日こそ、明日こそ」と思いながらの日々です。
 皆さんが待っていてくださることについつい甘えているのでしょう、反省しています。

 さて、今回の詩ですが、まず題名ですが、「足利市牛頭天王須佐之男命見大祭」のままですと、二神が「大祭」を見たことになります。述語が目的語の上に来なくてはいけませんので、「見足利牛頭天王與須佐之男命大祭」となりますが、目的語が長いですから、「見」は省いても良いでしょうね。

 大祭は町から外れた場所で催されるのですね。一般には、祭りは街中の賑やかな場所というイメージがありますので、「坰」(町から遠く離れた場所)に「孤」で向かった作者は「祭りを避けている」かと思います。
 なお、「孤」については「ひとりぼっち(の)」という意味が基本ですので「独」の方が良いですね。
 「逍遙」も祭り見物とは合わない言葉ですし、承句はばっさりと書き換えてはどうですか。
 実際の様子は知りませんが、「鉦」「鼓」などの音や人々の喧噪など、ここでは祭りらしい雰囲気を出す形が良いと思います。

 転句は「野人」を謙遜で使うのは良いですが、他人に使うのは考えもの、この句は「得句野人帰早早」と自分自身のこととするのが良いでしょう。
 「帰早早」は本来は「早早帰」としたいところ、読み方は「帰ること早早」としておくべきでしょう。

 転句が「句が浮かんだので急いで帰った」となれば、結句も「夢の中でしか見られなくて残念だ」という気持ちが出て来て、それほど浮いた感じは無くなりますね。



2018.11. 4                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第320作は 历山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-320

  坐山中        

山斎避俗宿縁軽   山斎 俗を避く 宿縁軽し

導引瞑瞑坐四更   導引瞑瞑 四更に坐す

朝夕餐霞聖胎創   朝夕餐霞 聖胎創る

卅年修業達人萌   卅年 修業 達人の萌し

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 世俗を避けるため山中の憩いの書斎にこもっています。俗世の因縁など見くびっています。
 神仙修業の呼吸法で目もはっきり見えない程専心すると、気が付くと坐したまま深夜二時になっていました。
 朝焼けと夕焼けの赤い色そのものを吸い込んで養分とし、胎に女性のように仙人になる時のための霊的体を練り上げます。
 こんな修業を卅年も続けたらせめて達人のきざしぐらいは見えるでしょうか。


<感想>

 仙人になるためのマニュアル、という感じですね。
 「一番書きたかったテーマ」とお手紙には書かれていましたが、気合いの入り方が強いですね。お気持ちが伝わります。

 「導引」「朝夕餐霞」は知っていますが、「聖胎」は初めて知りました。
 蝉のように「脱皮」して、生まれ変わるということなのでしょうね。

 起句は「避俗」と言えばもう「宿縁軽」は不要で、逆にわざわざ書いてあると「宿縁」にこだわっている印象が出ます。
 「山斎」の様子や周りの景観を描いた方が良いでしょう。

 承句は「導引」への集中度を「瞑瞑」「四更」で表したのですが、直接のつながりが無いのでバラバラの感じですね。
 解説にお書きになったような「専心」のような言葉が良いでしょう。

 転句は、直前に「四更」という時刻を表す言葉がありますので、意図から外れるかもしれませんが「日日」とした方が詩としては収まりが良くなります。

 結句は「修業」で「技を身につける訓練」ということですね。三十年でもまだ「萌」というのが、喜びなのか嘆きなのか、と思いましたが、よく考えると現代でも退職を六十歳とすれば三十年で九十歳、確かに「仙人」にはなれなくても、その風格は出るかもしれませんね。



2018.11. 4                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第321作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-321

  山亭初夏        

幽荘夏日緑煙囲   幽荘 夏日 緑煙に囲まる

眼下渓流水鳥飛   眼下の渓流 水鳥飛ぶ

窓際風鈴心気爽   窓際の風鈴 心気爽やかなり

閑人静坐暑蒸微   閑人 静座すれば 暑蒸微(おとろ)ふ

          (上平声「五微」の押韻)

<感想>

 山荘での涼しい暮らしがよく出ていると思います。

 起句は「緑煙囲」ですが、「緑煙囲む」と読んだ方が自然です。

 その「緑煙」を始め、「渓流」「風鈴」と大道具、小道具が揃いますので、もう「心気爽」は蛇足ですね。
 風鈴の音色とか、風鈴を鳴らす風の音や気配、そうした事象を描いた方が良く、心情は要らないでしょう。

 結句も同様で、わざわざ「静座」するまでもなく涼しいことは十分に伝わっています。
 この句は、本来は「暑い、暑い、暑い」と言ってきて、最後に逆転を狙う時に使うべきもの。
 「閑人静座」と言うならば、「静座して何をしているのか」ということを、やはり心情を出さずに語る方が、余韻も出て良いでしょうね。



2018.11.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第322作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-322

  詠四時山        

春山醉客夜桜筵   春は山に酔客 夜桜の筵

夏岳攀登究絶巓   夏は岳に攀じ登り 絶巓を究む

秋嶺夕陰揺落暮   秋は嶺の夕陰 揺落の暮れ

冬峰雪映凍雲天   冬は峯の雪映え 凍雲の天

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 こちらは、平成三十年度 大垣市文芸祭で賞を受けられた作品とのこと、おめでとうございます。

 四季を句頭に織り込む詩は、緑風さんからは「詠四時酒」を以前いただきましたね。
 前回は「酒」をテーマにした四季、今回は「山」がテーマですね。
 「酒」の方では、それぞれの季節、どんな酒を、どんな場所で飲むかという構成になっていましたが、今回は同じ「山」でも、「山」「岳」「嶺」「峰」と表現を変え、それは漢字の違いだけではもちろんありませんから、其れによって描く景色が変化し、美しいスライド写真を見ているような気持になります。

 前作と違うのは、句頭の季節名の後に名詞が来ていること、この形ですと「春山」は「春は山」とは読まずに「春山」「春の山」と二字でのまとまりを強くして読みます。
 「夏岳」「秋嶺」「冬峰」も同様で、つまり、例えば起句は「春の山は酔客(が居て)」、結句は「冬の峰は雪映え」と読まれるので、四季よりも山が主眼になりますが、それは覚悟しなくてはいけませんね。




2018.11.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第323作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-323

  避暑偶作        

碧天忽怒火雲張   碧天 忽ち怒る 火雲張る

雨洗幽居又不妨   雨は洗ふ 幽居 又妨げず

忘暑陶然風頼爽   暑を忘れ 陶然 風頼爽やかなり

詩心執筆是仙郷   詩心筆を執る 是れ仙郷

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 夕立の涼しさを詠んだ詩に見えますが、題名は「避暑」となっていて、どうも不釣り合いです。
 簡単に言えば、避暑で涼しいはずなのに、夕立を入れたために、涼しさの原因がどっちつかずになってしまったわけです。

 「この幽居は高原の別荘とかではなく、自宅に居て夕立があり涼しくなり、仙郷のように感じた」ということなら、転地を表す「避」ではなく詩中の「忘暑」がふさわしいです。
 「避暑」のままで、ということでしたら、前半を作り直すべきでしょう。

 承句の「又不妨」は、何を「不妨」なのか、また、何に対して「又」なのかがはっきりしません。
 作者には分かっていても、言葉として表さないと通じない場面がありますので、時間を経てから見直すと良いですね。





2018.11.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第324作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-324

  客中偶成        

江頭流水坐澄心   江頭 流水 坐ろに心澄む

客舎無聊午景深   客舎 無聊 午景深し

幽懐欲枯情不耐   幽懐枯れんと欲す 情に耐へず

何堪辛苦独研尋   何ぞ堪へん 辛苦 独り研尋す

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 旅に出た折の思いをまとめられたものですね。

 気になったのは、起句の「澄心」(心を澄ますと読んだ方が良いです)とありますから、この場所に居れば心を澄ませることができるわけですが、そうすると、転句の「幽懐欲枯」と矛盾しませんか。
 「江頭」では澄んでいた心が「客舎」にいると「無聊」だから枯れてしまう、というのは、それも変ですしね。

 前半の穏やかさと後半の苦悶がどう整合するのか、もう少し言葉による説明が欲しいですね。
 その意味では、転句に「不耐」とあり、結句にも「何堪」と同じ言葉がありますので、ここを検討されてはいかがでしょう。



2018.11.11                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第325作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-325

  送夏        

気蒸夜半覚難眠   気は蒸す 夜半 覚めて眠り難く

坐対一燈徒黙然   坐して對す一燈 徒だ黙然

敧耳早蛬衾枕下   耳を敧(そばだ)つれば 早蛬 衾枕の下

掲簾細菊堵墻邊   簾を掲げれば 細菊 堵墻の邊

月留素影涵松杪   月は素影を留めて 松杪を涵(ひた)し

風送新涼度暁天   風は新涼を送って 暁天を度る

老去能堪炎暑節   老去 能く堪へたり 炎暑の節

逢秋又数幾残年   秋に逢うて 又数ふ 幾残年

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 掲載が遅れて季節が随分ずれてしまいました。すみません。

 今回の詩は木曽川江畔にお出かけにならず、部屋の中にじっとしていらっしゃるお姿、その分(?)細やかな描写と抒情がひたひたと迫ってくるようですね。

 第一句の「夜半」から枕辺、窓外へと景が移る中、やがて第六句で「暁天」が来るので、この間に刻が過ぎたことが伝わります。
 「難眠」という状況を表すのに工夫されていると思います。

 頷聯、頸聯の対は初秋の趣を伝えて、それが聴覚、視覚、そして皮膚感覚と流れて、作者の鋭敏な感性が浮き上がります。
 ただ、これだけ中二聯が巧みですと、第一句の「気蒸」が適切かどうか、「熱帯夜が続き寝苦しい中、ふと秋を知った」のか「微涼を感じて目覚めて見回した」のか、どちらが良いか悩ましいところです。
 第七句に「炎暑」がありますので、冒頭は控えておいても良いでしょうね。

 尾聯は「今年の夏は老体に厳しかった」という実感が籠もったもので、単なる季節の変化のみに終らず、余韻の残る佳作だと思います。



2018.11.17                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第326作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-326

  緑塘        

緑塘風颯颯   緑塘 風 颯颯

童子叫呼聲   童子 叫呼の聲

駆一輪車競   一輪車を駆って競ふ

空時鳥野蜻   空は時鳥 野は蜻

          



<感想>

 初夏の爽やかな堤防沿いの道を歩いた時の光景でしょうね。

 「聲」は「下平声八庚」、「蜻]は「下平声九青」ですので、韻が合っていません。
 また、結句の「蜻」は一文字だけで蜻蛉を表すことができるかは疑問ですね。

 内容的には、承句と転句で子ども達の姿を描いて、のどかな昼下がりでしょうか。
 五言絶句ですので素材を目に付いたままに並べたという印象ですが、構成としては承句と結句は入れ替えて、子供の声が響いて終る方が余韻が残りますね。

 以下の詩でもそうですが、「聲」のように正字がところどころに入っています。
 正字で行くか、常用の表記で行くか、統一した方が良いでしょうね。




2018.11.22                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第327作も 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-327

  佛前        

四運回帰結了無   四運 回帰 結了無く

人間生死重来無   人間 生死 重来無し

何為朝夕祈神佛   何為れぞ 朝夕 神佛に祈る

唯視形無聴聲無   唯 形無きを視 聲無きを聴くのみ

          (上平声「七虞」の押韻)

<感想>

 この詩は韻字が全て「無」ですので、意図してのものでしょうが、漢詩としてはどうでしょう。

 また、「無」は一般に補語の上に来ますので、例えば結句などは「無形」「無聲」とならないと読み下しが混乱しますね。

 内容としては、仏前で亡き人を偲びながら、ご自身の心を省察するというもので、哲山さんのお気持ちは出ていますので、形の整わないのが残念ですね。  結句は平仄も乱れていますので、せっかくですので、整えてはどうでしょう。



2018.11.22                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第328作も 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-328

  炎暑        

爍石焚衰老   爍石 衰老を焚(あぶ)り

蝉聲汗若珠   蝉聲 汗 珠の若し

心頭滅却底   心頭滅却の底

烈日競髯鬚   烈日 髯鬚を競はす

          (上平声「七虞」の押韻)

<感想>

 起句の「爍石」は炎天下の道を歩いている状況でしょうね。

 承句は「蝉聲」「汗若珠」ではつながらないですね。
 蝉は結句に動いてもらって、ここは「驕陽」としておいた方が話がまとまりますね。

 結句は「蝉噪弄髯鬚」としておく形でしょうか。



2018.11.22                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第329作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-329

  母十三回忌偶感         

浸肌烈暑想當年   肌を浸す烈暑 当年を想ふ

慈母生前農事先   慈母の生前 農事 先んず

春夏秋冬茅舎外   春夏秋冬 茅舎の外

十三回忌憶黄泉   十三回忌 黄泉を憶ふ

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 葬儀の時と同じように肌が痛いほどの強い日差し
 生前の母親は農作業の仕事 仕事の毎日
 母親の十三回忌 今頃はあの世とやらでどうしているのか
 憶いにふけっている。

<感想>

 お母さまの十三回忌とのこと、思い出すと働きづめのお姿。
 「生前」「春夏秋冬」と言い換え、「農事先」「茅舎外」と言い換えたわけですが、お気持ちがよく伝わる形になっていると思います。

 起句に「想」があり、結句にも「憶」が来ていますので、ここが勿体ないところです。
 起句は承句と転句への導入になりますので生かして、結句の「憶黄泉」が全体からは離れていますので、こちらを検討してはどうでしょうか。



2018.11.27                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第330作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-330

  憂七月西日本集中豪雨災害        

山崩含雨襲人家   山は雨を含みて崩れ人家を襲ひ

川化濁流決壊坡   川は濁流と化して坡を決壊す

二百餘名無念死   二百余名 無念の死

天災恨殺曠滂沱   天災 恨殺して曠(むな)しく滂沱す

          (下平声「六麻」・下平声「五歌」の通韻)

「恨殺」: 深く恨む
「滂沱」: 涙がとめどなく溢れる

<感想>

 今年の夏は猛暑とともに、大雨の災害が各地で続きました。
 亡くなられた多くの方々の人生への思いが、転句と結句に表れていると思いました。

 起句は読み下しのようにするなら「山含雨崩」の語順でないといけません。
 現行ですと、「山は崩れ 雨を含み」と読むことになります。

 承句は「四字目の孤平」になっていますので、ここは直す必要がありますね。



2018.11.27                  by 桐山人