2018年の投稿詩 第151作は 三斗 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-151

  白亜堂        

春光暖氣午時鐘   春光 暖気 午時の鐘

風軟雲流樹影濃   風軟かく雲流れ樹影濃し

天主ヘ堂今日集   天主教堂 今日の集ひ

C閑知得洗塵胸   清閑 知り得たり塵胸を洗ふを

          (上平声「二冬」の押韻)



<解説>

 白亜堂は、過日、漢詩とは別のブンガクテキ活動(俳句ですが)にて、真っ白な教会の一室を借りての会がございましたので。

<感想>

 全体に春の穏やかな趣が溢れて、まさに「洗塵胸」という言葉がしっくりと来ますね。

 詩語の選択も問題無いですが、物足りないのは「白亜堂」と題した教会の描写が無いことですね。
 題名に入れたからもう要らないと思ったのかもしれませんが、作者の「洗塵胸」という心境に「白亜」という景観も影響していると思います。
 「天主教堂」だけでは場所の説明、「白亜聖堂」というくらいでも良いと思います。
 そうすると、逆に「ブンガクテキ活動」による心境が全く削られてしまって「今日集」の意味が薄れるということでしたら、題名の方にそれを入れて、例えば「二月句會天主教堂」のようにしておくと良いでしょう。



2018. 6.15                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第152作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-152

  憂草津白根山噴火        

白銀山頂黒煙騰   白銀の山頂 黒煙 騰り

滑雪場中吊車崩   滑雪場中 吊車 崩る

自衛隊員噴石雨   自衛隊員 噴石の雨

豫知確立識無能   予知の確立 無能を識る

          (上平声「十蒸」の押韻)



<解説>

「滑雪場中」: スキー場
「吊車」: ロープウェイ


<感想>

 岳城さんから2月にいただいた作品です。

 起句の「白銀」「黒煙」の対比は、色彩だけでなく、静と動も描かれて、印象に残る句になっていると思います。

 「ロープウェイ」や「自衛隊員」などの言葉は、現代ならではの用語ですが、臨場感が出ています。

 結句の「識無能」は厳しい言葉で、被害を最小限に抑えるための努力は続けていかなければならない、と思います。
 ただ、表現としては、「豫知」と「識無」が対応していて、面白い対にはなっていると感じました。



2018. 6.15                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第153作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-153

  訪灘黒岩水仙ク        

淡路南端黒岩ク   淡路の南端 黒岩の郷

雪中花苑這青陽   雪中花苑 青陽を這(むか)ふ

幾千萬本芳香散   幾千万本 芳香を散じ

海峡旋渦潮色光   海峡の旋渦 潮色光る

          (上平声「七陽」の押韻)



<解説>

「雪中花苑」: 水仙公園
「青陽」: 春
「旋渦」: 渦潮

<感想>

 水仙の花は、まだ寒い中、庭の一隅で春の訪れをいち早く伝えてくれます。
 宋代の詩人が雪の中で梅と水仙を見て「三白を得た」と三首書いています。

 「幾千万」もの水仙の咲き並ぶ様は、香りも含めて、素晴らしいでしょうね。

 「淡路」から「(灘)黒岩郷」、そして「水仙公園」と視点を移して、転句で終結と思いきや、結句で「旋渦」に戻るという構成で、公園から鳴門海峡の海が見えたのかもしれませんし、あるいは帰り道の光景かもしれません。
 しかし、これは水仙群生の感動をそのままで終らせず、余韻を深める効果もあります。
 例えると、おいしいご馳走を食べた時、その味わいを口の中に残して「この幸せにひたり続けたい」という気持ちになることがありますが、その時に、まったく風味の異なるコーヒーやお茶を飲むと、快感が記憶になり、味わいが余韻に変わる、そんな感じでしょうかね。

 承句の「青」は五行の「春」に対応する色ですので、直接色を表しているわけではありませんが、それでも字としてあるとイメージは残ります。
 せっかくの「雪中花苑」と白のイメージを出していますから、余分な色は出さないで、「春陽」と素直に表した方が良いでしょう。

 結句は「潮色」とぼかすよりも「潮浪」と具体性を強めた方がよいかと思います。



2018. 6.16                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第154作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-154

  閑居        

七十七翁孤住人   七十七翁 孤住の人

深居不狎世間塵   深きに居して狎まず 世間の塵

時吹竹管虚空曲   時に吹く竹管 虚空の曲

月下花前慰老身   月下 花前 老身を慰む

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 真瑞庵さんの七言絶句は、いつもの七言律詩の半分の字数なので、凝縮されている感じがしますね。
 結句などは対句で一聯作れそうですが、グッと我慢というところかもしれません。

 内容も屋内の場面ということで、すっきりとして、「口占」のような滑らかさがあります。

 部分的なことになりますが、承句は「深く居して」と読むところ。また、前半の叙述から行けば、結句は「慰」ではなく「愉」の方が合うでしょう。



2018. 6.16                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第155作も 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-155

  木蓮        

野滿青煙水放光   野は青煙に満ち 水は光を放ち

白花千朶帶春陽   白花 千朶 春陽を帯ぶ

又惜今夜風聲切   又 惜しむ 今夜風声切に

樹下明朝展素裳   樹下 明朝 素裳を展ずるを

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 前半の穏やかな早春の景に対して、転句からは落花を惜しむ情へと展開しています。
 風雨によって散る花を惜しむというのは昔からの詩人が好んだ感情ですが、真瑞庵さんは「展素裳」と比喩を置いたところが工夫ですね。
 承句で出しておいた「白」がここで生きてくるわけですが(「素」も白色)、「樹下」は単に場所を表すより、「裳(スカート)」に合わせて「江樹」と擬人化してはどうでしょうね。仄頭も避けられますし。



2018. 6.18                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第156作は 秀涯 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-156

  四月呑川櫻花爛漫        

鎮里河川大海流   鎮里の河川大海に流る

堤中水面一双鷗   堤中の水面に一双の鴎

人狂喜喜三旬盡   人は狂じて喜喜として三旬に尽く

風舞櫻花萬感留   風に舞ふ桜花は万感を留む

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 鎮里(区内を縦断する)呑川は、東京湾へと流れる
 堤中の水面には、一双の鴎が浮かぶ。
 人は狂じて喜喜として、(桜は)三旬に尽く
 風に舞う桜花は萬感(悲喜こもごもの人の思いをとどめる様に)を留めているようである。

<感想>

 秀涯さんからの投稿はお久しぶりですね。
 詩吟の会を地元で立ち上げたというお便りもいただきましたので、お元気で活躍なさっていらっしゃるのですね。

 作品は「桜花爛漫」、今年は桜が随分と早かったですが、四月ということで花が散り急ぐという場面を描かれたものです。

 前半はお住まいの「呑川」の景色を描いたものですが、桜のことが書かれていないため、転句の「人狂」は何を喜んでいるのか、が伝わりませんね。
 できれば、「鷗」を出す代わりに「桜」を入れるように(「鷗」を結句に持ってくるのも良いでしょう)か、転句で桜をしっかり出すと、作者の意図が分かりやすくなりますね。

 起句の「大海流」は「大海(が)流る」と読み、「大海に流る」は苦しいですね。押韻のために文法を破ることはありますが、文意が通じなくなってはいけません。
 意図から外れるかもしれませんが、「大海悠」とか、踏み落として「望大海」とするところでしょう。
 「河川」はせっかくですから、名前を入れて「呑川」で良いと思います。

 後半の転句は、先に言いましたように、桜が前半に無いため、このままですと「人々が三旬に尽く」と物騒な話になります。
 「三旬盡」の主語が「桜花」であることを示す形で上四字を「櫻花乱舞」として、結句に花に酔う人々の姿を持って行くと、詩全体の流れが良くなると思います。



2018. 6.18                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第157作は 楊川 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-157

  小田原城春景        

櫻雲風軟浴春光   桜雲風軟らかに春光に浴し

古址城邉苔磴蒼   古址の城辺 苔磴蒼し

殘壘壕頭今尚在   残塁壕頭 今尚在りて

北條五世憶興亡   北条五世の興亡を憶ふ

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 穏やかな春景色を「櫻雲」「苔磴蒼」と軟らかく描いていますね。
 春を迎えた作者の穏やかな視線が浮かんできます。

 結句が北条五代の話で終るのは、「小田原城」という題なら良いですが「春景」としてありますので、やはり終わりは春らしくしたいところ。
 起句と転句を結句に合わせて、「壕頭殘壘浴春光」で終るようにすると良いですね。

 そうなると、転句は「五代北條興廃地」という感じ、起句の下三字は叙景をもう一つ入れてみてください。



2018. 6.22                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第158作は埼玉県三郷市にお住まいの 楓葉仁 さん、六十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2018-158

  大都昌平        

旭日照天地   旭日天地を照らし

瑞雲満皇城   瑞雲皇城に満てり

鳳凰自西来   鳳凰西より来たりて

湖海楽太平   湖海太平を楽しむ

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 三月の北京旅行、紫禁城訪問の思い出を歌にしました。
平仄式は無視しました。
形式上は承句と結句の脚韻にだけ注意しました。

はじめての試作です。よろしくお願いします。

[現代語訳]
 王都の泰平 朝日が天地を照らし
 吉兆を告げる雲が宮城を包む
 鳳凰が西方の崑崙山から飛来し
 世の民は平和の治世を満喫する

「鳳凰」とは、優れた国王、名君の出現を予告するという伝説上の吉鳥。崑崙山に住むとされる。この山は中国北西にあるとされた伝説の神山である。鳳凰とともに多くの仙人の住居となっている。

<感想>

 初めまして、新しい漢詩の仲間を迎えて、とても嬉しく思います。

 五言絶句の中に、「旭日」「瑞雲」「鳳凰」「太平」とめでたい言葉が並び、リズム良くあっという間に読んでしまいます。
 私も何度か行きましたが、こんなにスケールの大きな気持ちはとても持てませんでした。
 明や清の時代の中国の官僚が正月に詠んだ詩と言っても、内容的には納得されるかもしれませんね。

 起句・承句・結句の下三字が皆、「一字の動詞+二字の名詞」、つまり「述語+目的語」という構造になっています。上二字も全て二字の熟語になっていますので、これは変化が乏しく単調になります。
 平仄は無視したとのことですが、今後の参考に、リズムの変化と平仄合わせを試みますと、

  旭日照天地
  祥雲紫禁城
  西来鳳凰舞
  湖海楽昌平

 という感じでしょうか。

 言いたいことを変えずに、整えていくのが推敲の面白さでもあります。

 次回の作品も楽しみにしています。



2018. 6.22                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第159作は 地球人 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-159

  観桜        

清明一路訪花行   清明 一路 花を訪に行く

明媚江山野趣盈   明媚なる江山 野趣に盈つ

旅況遅遅宵色暗   旅況 遅遅として 宵色暗し

一輪相照一園桜   一輪 相照らす 一園桜

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 花見に行こうとして、途中でぐずぐずしているうちに夕方になってしまいましたが、
幸いにも、夜桜を楽しめたといった状況を表現してみました。

<感想>

 結句が印象に残る句になりましたね。
 ただ、この「一輪」「訪花」と最初に言っているので「花が一輪」かと思い、「相照」でようやく月のことだと分かるという点が、せっかくの好句で残念です。
 逆算する形で、起句の「訪花」を「早春行」とするとか、結句そのものを「一輪清影一園桜」とするか、でしょう。
 初めの一言の影響が大きいわけですね。

 転句は「旅況」は言い訳臭く、本来は自己責任として「痩脚遅遅」とでも言うべきところ。「旅況」となったのは、ひょっとしたら自動車で行ったから他人事のような言い方になったのでしょうかね。




2018. 6.23                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第160作は 地球人 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-160

  苦熱        

些涼忘夏臥松風   些涼 夏を忘れ 松風に臥す

東旦窓前落月弓   東旦 窓前 落月の弓

日出炎氛眠正醒   日出でて 炎氛 眠り正に醒む

祝融焦土燎長空   祝融 土を焦し 長空を燎く

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 夜は涼しく、よく眠れたが、夜が明けて暑くて憂鬱な夏の一日が始まるといった状況を描いてみました。

<感想>

 今回は季節を先取りという感じでしょうか。

 前半の朝の涼しさ、後半の日が昇った後の暑さ、一見すると転句からの展開が急激な気もしますが、それが夏の朝の日射しの強さを表しているとも言えますね。

 結句の「祝融」は「夏の神様」、それは良いですが、「焦土」「燎長空」は真昼の暑さ、転句の「日出」とはややずれます。
 もう少し、穏やかな変化が良いでしょうね。



2018. 6.23                  by 桐山人



地球人さんから推敲作をいただきました。

推敲した結果報告いたします。

    苦熱(推敲作)
  些涼忘夏臥松風   些涼 夏を忘れ 松風に臥す
  東旦窓前落月弓   東旦 窓前 落月の弓
  日出炎氛眠正醒   日出て 炎氛 眠正に醒める
  解衣揮汗仰蒼穹   衣を解き 汗を揮ひ 蒼穹を仰ぐ

 結句の暑さの表現を穏やかにしました。

2018. 6.30              by 地球人























 2018年の投稿詩 第161作は 楊川 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-161

  湘南消夏        

柬瀛極目正滄茫   東瀛極目すれば 正に滄茫たり

汀渚白沙何鮮煌   汀渚の白沙 何ぞ鮮かに煌めく

避暑松陰無限好   暑を避ける松陰 限り無く好し

潮聲萬里海風涼   潮声万里 海風涼し

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 一面に広がる青青とした海、渚の砂の鮮やかにきらめく沙浜、松を渡る風、潮騒のとどろき、湘南の夏の風景を描く素材が十分に散りばめられていて、読者も涼しい避暑の気持ちになれますね。

 素材がこれだけ揃っていると、料理人も腕の揮いがいがありますので、ついつい表現が大げさになるのが難しいところです。
 起句の「極目」、転句の「無限」、結句の「萬里」、どれも程度の甚だしいことを表す言葉ですので、あまり繰り返されると鼻につきます。

 例えば、転句の「無限好」はどのように「好」なのか、結句は「萬里」と言わずに音で表すとか、それぞれを作者の感じた言葉で表してみると、実景としてよく伝わると思います。  転句は「涼瀝瀝」、結句「沄沄(うんうん)潮浪」などが考えられますね。

 承句の「鮮」は「まれ・すくない」ですと仄声ですが、「あざやか」ですと平字になります。下三平ですので、仄字の「炫」をひとまず入れておきましょうか。



2018. 6.24                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第162作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2018-162

  入梅        

重湧陰雲強在家、   重ねて湧く陰雲 家に在るを強(うなが)す

求糧遇雨湿烏鴉、   糧を求めて雨に遇ひ 烏鴉湿る

閑愁解悶無須酒、   閑愁 悶を解くに酒を須ふる無し

可愛門前幾朶花。   愛すべし 門前 幾朶の花

          (下平声「六麻」の押韻)



<感想>

 長い間中国の上海にいらっしゃったニャースさん、今年日本にお帰りになったそうです。
 この桐山堂ホームページ開設の頃からの仲間ですが、9年前に大連でお勤めになっていた時、お会いできました。
 その後に上海に転勤されて、現地からのお便りも毎年いただいていました。一度会いに行きたいと思いつつ、「まあ、上海に行けばまた逢えるから」と気楽に考えていましたが、そうですね、日本に戻る日があったのですね。
 長い間の中国勤務、若干うらやましくもありますが、お疲れ様でした。これからはお目にかかるのも東京でとなりますね。

 さて、いただきましたのは最新作ですが、読み下しは私がつけました。

 「梅雨に降り籠められ、外を見るとカラスが濡れそぼつている。心淋しくなるものだが、門前の紫陽花を見れば心が慰められ、酒など要らないよ。」という内容ですが、「入梅」という題にふさわしい、しっとりとした情趣が感じられますね。
 上海時代とはまた違った詩境が開かれているように思いました。



2018. 6.24                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第163作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-163

  春遊(二)        

水村山郭春色深   水村 山郭 春色 深し

百囀流鶯遶緑林   百囀の流鶯 緑林を遶る

櫻白桃紅花萬片   桜白 桃紅 花 万片

韶華盈滿淨人心   韶華 盈満 人心を浄む

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

「韶華」: 春の美しい景色
「盈満」: 満ち溢れる

<感想>

 起句は六字目の平仄が違いますので、ここは直す必要がありますね。
 「春色深」にこだわるならば、仄起式に変更して、他の句を修正することになりますが、他の句はきれいに仕上がっていますので、下三字を検討した方が良いでしょう。

 転句は「櫻」「桃」と重ねて「萬片」でまとめたのは納得できる表現だと思います。
 結句も「淨」が散文的ですので、「滌」と持ってきてはどうでしょう。



2018. 6.25                  by 桐山人



岳城さんからお返事をいただきました。

    春遊(二)推敲作
  水村山郭有清音   水村 山郭 清音 有り
  百囀流鶯遶緑林   百囀の流鶯 緑林を遶る
  櫻白桃紅花萬片   桜白 桃紅 花 万片
  韶華盈滿滌人心   韶華 盈満 人心を滌ふ
          (上平声十二侵韻)



2018. 6.29              by 岳城























 2018年の投稿詩 第164作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-164

  春日偶成        

落盡櫻花嫩緑春   桜花 落ち尽して嫩緑の春

春禽聒聒四時頻   春禽 聒聒 四時 頻なり

流光急速如新筍   流光 急速 新筍の如し

変貌青年老境身   青年 変貌して老境の身

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

「嫩緑」: 若葉 若菜の緑
「聒聒」: 鳥の鳴くさま
「流光」: 過ぎ行く歳月

<感想>

 こちらの詩はやや結論の「老境」に持って行くのに焦った感がありますね。

 承句の「四時」は「季節の移り変わり」という意味合いでしょうか。「四時」そのものは「四季」と同じですので、「頻」と来るのは意味が通じないことと、次の「流光」との違いがはっきりしませんね。

 転句の比喩はどうして「新筍」を出したのか、先例もあまり無いと思います。
 「季節の変化」も「タケノコが伸びる」のも「早い」ということでは共通していても、タケノコが変化するわけではないのでズレている感じです。

 結句の「老境」を季節の推移から連想するのはオーソドックスな手法ですが、それを導くために「流光急速」と言ってしまっては「見え見え」で、強引に持って行こうという印象すら感じます。
 転句を再考して、この句まで叙景にしても十分に結句に流れると思います。

 なお、起句と結句の読み下しは無理がありますので、「落ち尽くす桜花」「変貌する青年」としなくてはいけませんね。



2018. 6.25                  by 桐山人



岳城さんからお返事をいただきました。

    春日偶成(推敲作)
  落盡櫻花嫩緑春   落ち尽す桜花 嫩緑の春
  春禽聒聒草堂前   春禽 聒聒 草堂の前
  家山不動千霜態   家山 動かず千霜の態
  変貌青年老境身   変貌す青年 老境の身

          (上平声十一真韻) 「家山」: 故郷の山

2018. 6.29              by 岳城
























 2018年の投稿詩 第165作は 吾妻 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-165

  冬夜抽烟之後睡覚(次韻郭祥正)        

夢中相遇覚何早   夢中に相遇ふに覚むること何ぞ早し

臥室臭煙消未了   臥室の臭煙 消ゆること未だ了らず

但願吾心不成灰   但だ願うは吾が心 灰成らざるを

世人尚忌相思草   世人は尚 忌む 相思草

          (「早・草」が上声十九皓、「了」が上声十七篠の押韻)



<解説>

 ある冬の夜、ゴロワーズカポラルを一服して眠る
 夢の中でまた会えたのにやはり朝は直ぐに来てしまうものだ
 ふと昨夜の黒煙草の臭いが微かに残っていることに気づいた
 私の願いはただ自分の心が灰にならなければいいと思うだけ
 どんなに世界中の人々が煙巻の害を叫んで相思草を嫌うとも

 同字重出を避け「遇会」を考えましたが「相遇」のままにしました。

「相思草」は揖斐高注『霞舟吟巻』の注釈欄で、清の沈穆の『本草洞詮』に「煙草一名相思草 言人食之 則時時思想 不能離也 」と有り。ということから使いました。

 次韻した郭祥正の詩は次のものです。

    雲居山拈香
   覚地相逢一何早   覚地に相逢うは 一に何ぞ早し
   鶻臭布衫今脱了   鶻臭 布衫より 今 脱し了る
   要識雲居一句玄   識るを要す 雲居 一句の玄
   珍重後園驢喫草   珍重するは後園の驢喫草



<感想>

 吾妻さんは前回の詩で、煙草が好きで煙草の詩を作りたい、と仰っていました。
 今回はその実現ですね。

 「煙草」を「相思草」と呼ぶということを見つけるのは、探そうとして見つけたというよりも、心に引っかかっていたから、そのアンテナに反応したということでしょう。いつも思い続ける(「時時思想 不能離也」)と自然に見えてくることがありますね。

 詩の方は、平仄について転句の六字目、ここは仄字でないといけない所ですので、「作」としておくのが良いでしょう。

 同字重出については、次韻をした郭祥正の詩にも「一」の重複がありますので、「まあ、いいか」ということかもしれませんが、「相」の用法が全く同じですので、直さなくてはいけません。
 ちなみに、郭祥正の詩は起句の「一」は副詞として用い、転句の「一」は数詞として用いていますので、意味が異なる場合には許容されます。
 ただ、その「意味が異なる」をどの程度まで広げるかは難しいところで、平仄まで異なる(例えば「重い」なら仄字、「重なる」なら平字のような場合)ならば問題ありませんが、漢和辞典を引けば大抵の漢字には平仄が変わらなくても複数の意味が書かれていますので、広げれば果てがありません。
 まあ、基本的には「見落とし」と判断されるような同字重出は避けるべきだと思いますし、今回でも何故「遇会」ではなく「相遇」の方にしたのかはよくわかりません。

 全体の流れとしては、承句の「煙草の香りが残っている」ということと結句の「世間の人は煙草が嫌い」ということは繋がりがわかりますが、その間である転句の「吾心が灰にならないよう願う」は前後の繋がりがありません。
 これは「煙草を吸うと心が灰にならない」、つまり「煙草は私の心の栄養源」ということが作者の意識の中には隠れているのでしょうが、読者にはそんな思いはありませんので、結果として浮いてしまうわけです。

 煙草は、きれいな言葉で表せば「香煙(烟)」が現代中国でも使われていますし、江戸の詩人も「香烟」を用いていますね。



2018. 6.26                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第166作は中国広東省深圳にお住まいの 東ベルリンの吟遊詩人 さん、二十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2018-166

  午前青龍寺御花見        

鶯時遊人滿梵刹   鶯時 遊人 梵刹に満つ

弥生月半笑語嘩   弥生月の半ば 笑語嘩し

新枝初綻驚黄雀   新枝初めて綻(ほころ)び 黄雀驚く

古池吹雪嘆青蛙   古池の吹雪 青蛙は嘆く

河津綺麗似雲錦   河津(桜)は綺麗 雲錦の似(ごと)し

彼岸軽盈若彩霞   彼岸(桜)は軽盈 彩霞の若(ごと)し

試問扶桑僧空海   試みに問ふ 扶桑の僧空海

洛城何日見桜花   洛城 何日 桜花を見ん

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 皆様,こんにちは!私は中国人です。広東深圳で小学校の中華伝統文化の教員をしています。大学の法律修士の院生でもあります。

 日本語は自分で勉強しました。でも、まだ苦手です。

 この漢詩は私が西安青龍寺に遊んだ時に書きました。
 日本文化と仏教の故事、松尾芭蕉の俳句にも触れました。
 私は中国の漢詩愛好者、日本には「桐山堂」というサイトがあると聞き、投稿しました。

 中国と日本は昔から本当に友好関係にあります。これからもずっと友好関係を続けたいと思います。
 皆さんの仲間になれて嬉しいです。
 よろしくお願いします。

<感想>

 東ベルリンの吟遊詩人さん、ペンネームでまずびっくりしました。
 普段からこのお名前をお使いなのでしょうか。どんな思いがおありなのか、つい考えてしまいますね。

 ま、それはさておき、まず、日本語を自分で勉強したとのこと、掲載にあたり、解説本文と読み下し文は私の方でお勉強になるかと思い、直させていただきましたので、ご了解ください。

 さて、作品の感想ですが、不思議な話で、日本の方が作ったような印象で、中国の方の作詩に対して「和習」のことを言うのは妙なものですね。
 しかし、それだけ日本の文化について詳しく知っていらっしゃることを嬉しく思います。

 七言古詩という形で、気のついた点を順に書かせていただきます。

 第二句の「弥生月」は日本だけの用語ですが、日本ではこうした用語・用法を「和習」と呼び、漢詩では伝統的に使わないようにしています。
 その「和習」は別にしても、ここで三月半ば、つまり晩春だと季節を示しているわけですが、実は季節については第一句の「鶯時」ですでに示されています。
 そうなると、第一句の「鶯が鳴く春ですよ」から第二句でより細かく説明を加える形になりますが、そのように分割して描く効果はあるでしょうか。
 最初から、「桜の花が開く季節になった」と述べておき、その桜を求めて、「鶯」も来れば「遊人」も集まる、という流れの方が、読者は入りやすいでしょうね。

 第三句と第四句は対句になっていますが、「初綻」「吹雪」は文法構造が違いますので、対としては苦しいですね。「更雪(さらにゆきふり)」とすれば対になります。

 第五句の「河津」「彼岸」の言葉自体は和語ではありませんが、「河津桜」「彼岸桜」を表したとなると、これも日本語用法の「和習」になります。
 固有名詞だということで、「河津(桜)」「彼岸(桜)」と注の形で説明をつければ良いかもしれません。

 第七句、第八句になって、「青龍寺」らしさが出て来て、ここで前聯の「河津(桜)」「彼岸(桜)」が日本から寄贈された桜のことだったのかとわかります。
 ただ、この桜が寄贈されたのは近代になってからのこと(?)でしょうから、空海の時代とは随分離れていますので、読者は「桜の話なのに、何故ここで空海さんが来るの?」と疑問に思うでしょう。
 また、「何日見」という質問も、空海さんが何故「花」を見られないのか、もう少し誘導がないと伝わらないように思います。

 いくつか書きましたが、日中の文化交流の歴史を踏まえて、それを詩で表そうとしたお気持ちはとても強く伝わりました。
 日本に住む人間として、こうした温かみのある詩を書いていただけたことに感謝と嬉しさの気持ちでいっぱいです。

 ありがとうございました。是非、次回作もお送りください。楽しみに待っています。



2018. 6.26                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第167作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-167

  春日尋小籠包        

出門疑欲雨,   門を出づれば、疑ふらくは雨(あめふ)らんと欲す、

尋覓小籠包。   小籠包を尋(たず)ね覓(もと)む。

滿地皆潮濕,   滿地皆な潮濕(うるお)ひ、

雷聲傳遠郊。   雷声遠郊に伝(つた)はる。

          (下平声「三肴」の押韻)

<感想>

 上海の陳興さんからいただきました小籠包の詩です。

 数日前から上海に遊びに来ていまして、久しぶりにお会いできるかと思いましたが、お仕事で残念ながら会えませんでした。
一昨日の夜、陳興さんはわざわざ現地のガイドさんの携帯電話に連絡くださり、テレビ電話でお話ができました。ありがとうございました。

 翌日の夜、無錫での即吟の詩をメールで送りましたら、早速次韻をしてくださいました。後日、改めてご紹介しましょう。

 さて、詩を拝見しました。
 起句から承句、どうして「小籠包」が浮かんできたのか、というところが悩み所です。
 中国の小籠包は上海豫園にあるお店が有名ですが、太湖の近く、無錫も本場とされています。
 となると、逆に流れを追うと、陳興さんの気持ちがよく分かります。

 雷の音が遠く聞こえ、一面の水煙に覆われた太湖、雨が降りそうで行楽に出かけるのもどうか、そうそうここは無錫の地だ、名物料理の小籠包でも食べに行くか、という感じでしょうか。

 前半の軽快な表現は陳興さんの心の軽快さ、それが後半の叙景、春の訪れ(春水春雷)によってもたらされていて、まるで謎解きのように全体が余韻深く読める構成は楽しいですね。



2018. 6.26                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第168作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-168

  惜春        

花落柴門憐不拾   花は 柴門に落ち 憐れんで拾はず

蝶遊芳草愛無追   蝶は芳草に遊び 愛でて 追うこと無し

幽庭明媚闥笳ァ   幽庭 明媚 閑(しば)し立ち停まらん

林藪鶯聲囁我思   林藪の鶯聲 我が思ひ囁く

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 自分の気持ちを鶯が語ってくれるというところに気持ちを籠められた詩だと思います。
 残念なのは、起句で「憐」、承句で「愛」と既に作者の感情が表出されていますので、では結句では更にどんな気持ちを出しているのか、がはっきりしないことです。
 「思」の字も、名詞用法では仄字になりますので、ここは書き直すべきでしょう。

 「憐」「愛」を削って結句に感情を凝縮するか、結句は叙景に徹して余韻を残すようにするか、どちらかの方向で検討してはいかがでしょう。



2018. 7.10                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第169作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-169

  詠四時酒        

春楽醞釃芳草堤   春は 醞釃(うんり)を楽しむ 芳草の堤

夏歓麦酒納涼篷   夏は麦酒を歓ぶ 納涼の船

秋斟濁醸白川社   秋は濁酒(どぶろく)を斟む 白川の社

冬酌醇醲火閤中   冬は醇醲(じゅんじょう)を酌す 火閤(こたつ)の中

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 四季それぞれに酒の楽しみがある、ということを詠ったもの、起句の「醞釃」は出来たばかりの薄い酒、逆に結句の「醇醲」は熟成した濃い酒、対比が良く出ていますね。

 せっかく工夫されて四季の風物を出していますので、それぞれの句頭の「春・夏・秋・冬」は無駄で、読めば「ああ、この句は春だな」とか「こちらは冬」かと感じさせた方が詩としては面白くなります。

 また、転句の下三字、「白川社」はお住まいの近くの白川郷でしょうか、ここだけ地名が入るのも疑問ですね。
 全体に地名を入れるか、この転句も一般的な描写(例えば「豊年社」とか)にするか、統一が必要ですね。



2018. 7.10                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第170作は 茜峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-170

  再開黌        

輝赫双瞳再起黌   輝赫の双瞳 再起の黌

窮荒校舎棘更生   窮荒の校舎 棘(いばら)の更生

戦傷追想重吾世   戦傷の追想 吾が世に重なる

排斥復讐超愛情   復讐を排斥し 愛情で超えん

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 イラクの第2都市モスルでは、ISから解放された後、昨年10月に3年ぶりに学校が再開されたということで、学習風景の写真が新聞に出ていた。
 それはまさしく我が世代が70年前に学んだ風景と重なる。
 町も学校も荒れたままで、まだまだ復興までは遠い道だが、それでも子供たちの眼は輝いている。
 親を殺されたり凄惨な体験をした子供たちは仇をとりたいということもあるらしいが、復讐ではなく愛情をもって乗り超えなければ真の平和につながらない。

<感想>

 戦地の子ども達のうつろな目、悲しい瞳を見る度に、胸が痛みます。
 モスルがISから解放されて一年、学校が再開されたということは、喪失した未来が子ども達に戻ってきたことを象徴しているように思えます。
 茜峰さんのご自身の体験からの平和への思いが伝わってくる詩です。

 承句の「校舎」が建物が「学校」を象徴することも多く、起句の「黌」と重なる印象があります。
 ここは建物だとはっきり分かるように「屋舎」とするか、起句の「再起黌」を変えるか、思案だと思います。

 結句の「超愛情」は「愛情を超える」となりますので意味が逆になります。「将愛情(愛情を将ってせん)」が良いでしょう。




2018. 7.11                  by 桐山人


茜峰さんから早速にお返事をいただきました。

  いつも ご指導ありがとうございます。
  ご指導に従って「再開黌」を以下のように補整しました。


      再開黌
     輝赫双瞳再起黌
     窮荒屋舎棘更生
     戦傷追想重吾世
     排斥復讐将愛情



2018. 7.14                 by 茜峰























 2018年の投稿詩 第171作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-171

  佐賀櫻馬拉松     佐賀桜マラソン   

櫻花破蕾仲春途   桜花蕾を破る 仲春の途

中斷三年再擧愉   中断三年 再挙の愉しみ

豈計半程疋不動   豈計らんや 半程 疋動かず

自憐壯氣笑衰軀   自ら壮気を憐れみ 衰躯を笑ふ

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 3月18日に佐賀にて行われた、「佐賀さくらマラソン」に三年ぶりに出場しましたが、練習不足が祟り33km地点の関門が通過できず、リタイヤでした。残念。

 昔は三時間台で走っていましたが、もうマラソンは止め、ウオークにします。

<感想>

 気持ちだけは若いけれど体力が追いついてこない、というお気持ちが結句ににじみでていますね。
 私は東山さんと同年ですので、もう納得納得の一句です。

 二、三年前までは、孫と早朝の散歩をしていて、電信棒ダッシュ(電信柱から電信柱までを駆け足で競争する)をしても、途中で手を抜いて走るだけの余裕がありましたが、最近は相手に体力が着いたこともあるでしょうが、もう息が切れてしまい、負けてしまいます。体力の衰えを認めざると得ない状況です。

 東山さんの詩でも、きっと二年前くらいなら、走っている時に見える風景をもう少し楽しむような描写になったのでしょうが、今回はそんな余裕もなく、「走れない〜」という悲嘆が詩の主題になっていますね。
 再度マラソンに挑戦することは諦めたように書かれていますが、お互いに、体力は別にして自然を楽しむ感性は衰えさせないようにしましょう。



2018. 7.13                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第172作も 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-172

  外孫誕生即事        

三鼓報知何事驚   三鼓の報知 何事かと驚く

未邀臨月外孫生   未だ臨月を邀へざるに 外孫生ると

媼翁喜看器中貌   媼翁喜び看る 器中の貌

捜母嬰兒泣上聲   母を捜す嬰児 泣いて声を上ぐ

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 また、4月13日夜12時前に、待望の初孫(外孫)が生れました。
 予定より約1ケ月も早く生まれ、体重が2300gしかなかったため、病院での初対面の時は「保育器」の中でした。
 今は我家にて、お産介抱中です。可愛いものですね。

 「器中」は「保育器の中」ということです。

<感想>

 お孫さんのお誕生、おめでとうございます。
 一ヶ月早いと、現代の医療は進んでいるとは言え、ご心配もあったと思います。
 その不安感は起句の「三鼓報知」という「真夜中の電話」から始まって承句まで緊張感が続きますが、転句からは「喜看」という気持ちに変わっていますが、このテンポの速さが不安を一蹴していて、読者もホッとします。

 「器中」は保育器ということで、事実を記録したいという思いでしょうが、「器中」と「貌」は違和感が強いですので、ここは「袍」と一般的な表現にしておいた方が穏当ですね。

 結句は「泣上聲」と事実を描くだけの描写よりも、「強(逞)泣聲」のようにお孫さんの声が元気いっぱいだったと持って行った方が、「媼翁」のジジババの気持ちに添うでしょうね。



2018. 7.13                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第173作は 調布T.N さんからの作品です。
 

作品番号 2018-173

  消夏雜詩        

溪陰老屋阻驕陽   渓陰の老屋 驕陽を阻む

獨領C風昼亦涼   独り清風を領し 昼も亦涼し

山色水光人境外   山色水光 人境の外

新茶一啜世塵忘   新茶一啜 世塵を忘る

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 今年は特に猛暑、都下八王子恩方にある友人の別荘で避暑しました。

<感想>

 避暑の趣がよく出ていて、バランスの良い詩語が配置してあると思います。

 起句の「阻驕陽」は別荘の涼しげな様子が出ていますね。「逐驕陽」「去驕陽」などの用例が先人にありますが、これは大半が雨が降ってきたことに対応して使われます。
 「老屋」は、せっかくの別荘ですので、「幽屋」でしょうか。

 承句は「亦」は厳密には「他にも有る」ことを表しますので、「(夜は当然だが)昼もまた涼しい」というニュアンスを含みます。
 これはこれで良いでしょう。

 全体にまとまっているのですが、きれいに描かれている分、インパクトが弱いのが難点です。
 ここまで丁寧に描くことが出来ていますので、もう一歩冒険して、この土地の趣とか作者の気持ち、そうした点に個性を出せると面白い詩になると思います。
 例えば、承句の頭「獨領」、これも悪くは無いのですが、ここでの「風」が他の場所と異なるような意味合い、もうひと味加えるような語を入れてみるなど、推敲を愉しんではどうでしょう。
 例えば私でしたら、「翠樹風清」などと欲張ってみます。



2018. 7.17                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第174作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-174

  憶生誕        

篆刻彫蟲雖學遅   篆刻 彫蟲 學ぶこと遅しと雖も

積重貧稿有誰知   貧稿を積重せしは 誰か有て知らん

九旬遐算一樽酒   九旬の遐算 一樽の酒

更詠千篇却老詩   更に詠ぜん 千篇 却老の詩

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 桐山堂の詩会に入会・今春4月、齢九旬を迎えたり。
 下手な作詩も千篇近くなるも、未だ幼稚な蕪詩駄作の域を出ず。

<感想>

 九十歳、おめでとうございます。
 桐山堂のホームページを開設して以来のお付き合い、調布の漢詩会にお邪魔する時はいつも宿泊までさせていただき、ありがたく思っています。
 今度は7月28日(土)にお伺いして、お話をさせていただきますが、また、お会いできるのが楽しみです。

 今回の詩は転句がとても良いですね。
 「遐算」は「遐齢」としてよく使われますが、はるか長い年月、長寿を表します。
 「九旬」「一樽」の対比が良く生きていると思います。

 その上での、結句の「千篇」、深渓さんの積み重ねてこられた実績としても素晴らしいのですが、数詞が働いて、ご自身の励みの詩になっていると感じます。



2018. 7.20                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第175作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-175

  感慨        

白頭何計是生涯   白頭 何ぞ計らん 是れ生涯

日日光陰心転佳   日々 光陰 心転た佳し

過已青春蓬髪亂   已に過ぐ 青春 蓬髪亂る

含情許我十年懐   情を含み 我に許せ 十年の懐

          (上平声「九佳」の押韻)

<感想>

 こちらの詩は、内容がやや不統一です。
 起句では「白髪頭を眺めると年を取ったと感じる」ということで、「白頭」が「老い」を描いています。対して転句では「蓬髪」と若い頃を思い出していますが、どちらも髪の毛で象徴しているのは、これは前半に対句で置いたり、句中対に用いるならば良いですが、前半と後半でそれぞれ大きな役割を与えると、変化が乏しく感じます。

 また、承句で「心転佳」と言っているので、老いた(失礼)現状を肯定的に捉えているわけで、後半の感懷とのつながりがどうかという思いです。
 結句の「十年懐」は杜牧の「遣懐」の「十年一覚揚州夢」をつい連想してしまうので、それが私の読み間違いかもしれませんが。



2018. 7.20                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第176作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-176

  野川櫻        

看花両岸水浮紅   看花の両岸 水に浮び紅なり

三里長堤午下翁   三里の長堤 午下の翁

歩歩閑行詩未造   歩歩閑行 詩未だ造らず

風流客眺隔西東   風流な客は眺む 西と東に隔てて

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 起句は落ち着きが悪いですね。「看花」と動作を出すよりも、「櫻花」とした方が叙景の句になって良いでしょう。
下三字の読み下しも「水は紅を浮かぶ」としておきましょう。

 結句の「風流客」は花見客のことでしょうか、直前まで作者の行為でしたので、やや違和感がありますね。
 「春風」くらいを登場させて、下三字と関連づけてはどうでしょうね。



2018. 7.22                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第177作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-177

  寒中問答        

底事春暄未可期   底事(なにごと)ぞ 春暄 未だ期すべからざるに

佳人獨自露氷肌   佳人 独自(ひとり) 氷肌を露すは

若無妾敢侵風雪   若し妾の敢へて風雪を侵す無くんば

夫子當窮題此詩   夫子 当に窮すべし 此の詩を題するに

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

  「春のぽかぽか陽気など ずいぶん先のことなのに
  あなたお一人玉の肌 どうして見せてくれるのか」
  「わざわざワタシが雪のなか 堪えて出てきてやらなけりゃ
  先生この詩を作るにも 困っていたんじやないのかい」

 ふだん作詩用に使っているノートが、そろそろ1冊終わりそうです。
 使い始めのころは、使えそうな詩語をいくつもメモしたり、ああでもない、こうでもないと思いついた句を書き連ねたりと、1首を完成させるまでに何ページも費やしていたのですが、後半になると、だいぶ作詩に慣れ、そういった作業もほとんど携帯端末(「スマホ」と思ってください)上で済ませるようになっているせいか、逆に1ページに何首も書き込み、その後に多かれ少なかれ推敲の痕跡が残るくらいになっています。

 さて、最初のページを見ると、2003年1月の日付で、「看梅」と題した七絶が書かれています。
    看梅
  凛冽朔風春信遲
  寒梅那事獨先披
  若無予敢侵霜雪
  夫子何能得小詩

 きちんと師匠について学んでいるわけではない私にとっては、未来の自分自身が、いちばん身近な添削者です。
 1年でも、1か月でも、少しずつ成長した、進歩した目で、自分の作品を見直すことができます。
 で、この15年前の作品を見直してみた結果が、今回の作品というわけです。

 実は、ノートの同じページ内にも当時の推敲の痕跡があるのですが、
※初稿?
    看梅
  凛冽寒風春信遲
  早梅底事獨先披
  若無予敢侵霜雪
  騷客何由賦小詩

 「寒風」→「朔風」、「寒梅」→「早梅」、「底事」→「那事」、「騷客」→「夫子」、「何由」→「何能」、「賦小詩」→「得小詩」――と改められている様子ですが、詩の内容にほとんど影響はなく、たぶん、その時それぞれ理由があったにしても、どちらかというと、気分で? 何となく? いじってみた疑いも濃厚です。

 今の私は、昔よりも推敲上手(のはず)ですから、せっかくなので、推敲の経過を大まかに書き残しておこうというのが、今回の投稿の趣旨です。

 もとの詩、全体として、我ながら、そう悪い詩ではないでしょうし、梅花との問答形式という趣向もおもしろい。それでも、順々に見ていくと……、

(起句)「凛冽朔風」の4字が全体の軽妙な感じと合わない。ここで寒さ厳しいことを描出しても、結局、生きてこない。「春信遅」も、早咲きの梅の花と問答していることと矛盾していないか?
(承句)ここで句頭に、わざわざ「寒梅」と置くことに意味はあるのか? 相手が梅花であることは自明のはず。
(転結句)この詩の要部なので動かし難いが、本当にこれでいい? 「何能」も承句の「那事」と重なって落ち着きが悪い。

――という感じで、改めた結果が、

(推敲作)
    問梅花
  解凍春風未可期
  寒中何意獨先披
  若無予敢侵霜雪
  夫子當窮賦小詩

 起句、「解凍春風」は「凛冽朔風」と同じくらい平凡ですけれど、下3字と合わせて、「まだ春の陽気は期待できない」という設定にします。承句は、詩中から「梅」の字を除いて、素直に「寒いのにどうして」という感じで。結句の「何能」も承句で「何」字を使ったので、そもそも疑問・反語形を止めて「当窮」「賦」(当然、詩を作るのに困るでしょう)という具合に。詩題も、「問梅花」に変えます。

 ――でも、まだまだ良くできそう。

 特に承句に不満が残ります。「寒中」に改めた句頭も芸がないですし、直さなかった「獨先披」も、よく見ると「先」字が効いていないように思われます(この梅花だけが咲いている、ということがポイントで、他の花に比べて先に、という順序に関することはそれほど重要ではない)。
 そこで、いっそのこと詩中での梅花の擬人化をさらに進めて、承句は「佳人独自露氷肌」に。承句から「なんで?」という疑問の語が消えてしまったので、起句の最初に「底事」を復活、「肌を露わにするには、まだ早い」ということで、起句の残り5字も「春暄未可期」とします。

 問答の相手が「佳人」と定まったことで、転句の「予」も「妾」に改めます。起句から「風」が消えたので、「侵霜雪」も「侵風雪」に変更できます(ここでは「霜」より「風」のほうが雪との組み合わせに良いと思います)。ついでに、結句の下3字も「題此詩」としてより具体的な「答」としてみます。
 最後に、詩題を「寒中問答」に。詩中からも詩題からも「梅」の字が消えたことで、詩そのものがなぞなぞっぽくなって面白いかな、と。

 これにて、今回は完成とします。→投稿作品。

<感想>

 さて、丁寧な解説、楽しく拝見しました。
 一読して、梅との会話という設定の仕方、自分の客観視、そして何よりも俳諧味というか遊び心、このあたりからはどことなく鮟鱇さんの詩境に近いものを感じました。

 詩を作ることは目的ではなく、自己表現の手段だと私は思っていますが、そう自覚するためには詩作の経験度も必要で、そのためには「目的としての作詩」の期間も必要ということになります。
 観水さんご自身もそうした期間が当然あったのだと思いますが、日常的な詩作への取り組みの中で、その段階をもう越えて、詩作自体を楽しむ姿になってるのだなぁと思います。

 さて、完成作を拝見しますと、承句の「佳人」は、これで梅と分かるだろうか、というのがポイントですね。
 推敲過程で「寒梅」が消えたのですが、これは起句の他の表現から見ても確かに「寒」の字は邪魔でしょう。
 しかし、そこから「梅」が消えたのは、問答形式にはまりこんだような印象。読者に通じるか、というとやや親切さが足りないように思います。
 起句の「未可期」「底事」で始めた割りに弱いので、末字に「枝」を持ってくるような形で、「佳人」から(梅)花を導けるような導入などが考えられませんかね。

 後半も「若」「敢」「當」と副詞が続くのですが、前半も含めて虚字が目立つので、「當」くらいは削っても良いと思いました。



2018. 7.23                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第178作も 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-178

  太白吟        

翰林太白謫仙人   翰林の太白は謫仙人

太白星明是美神   太白星の明らかなるは是れ美神

空想交歡何太白   空想す 何れの太白と交歓せんかと

傾斯太白問天眞   斯の太白を傾けて天真に問はん

          (上平声「十一真」の押韻)


「太白」: 李白の字(起句)、金星(承句)、大杯(結句)



<解説>

  文雅の世界の太白は ご存じ我らが李謫仙
  そらに輝く太白星 美をつかさどるヴィーナスよ
  さてはどちらの太白と 遊ぼうものかと夢想する
  この太白を飲み干して わが本性にたずねよう

 通常、畳語は除き、同字重出や同語反復は避けるように作詩していますが、この詩は、むしろ積極的に繰り返すことを試みて作ってみた詩のうちのひとつです。
 暮れ方、宵の明星を眺めながら、ひといきに結句まで構想し、結句の太白は漢和辞典から得ました。

<感想>

 変な感想になりますが、「太白」の字が句毎に色々な場所に出てくるのは、平仄の関係も勿論でしょうが、図柄的な面白さもあって、楽しいですね。
 これが「太白」でなくて、画数の多い重そうな字ですと、こうは明るくならないでしょうね。

 さてさて、同語の反復は詩のルールとしては禁忌とされますが、このように意図的に楽しみを見いだしてのことならば、全然オッケーです。
 細かいことは抜きにして、この発想や字面のイメージの楽しさに、まさに乾杯ですね。

 何よりも、金星と遊ぼうか、李白と遊ぼうか、という贅沢極まり無いスケールの大きな選択、雄大さが良いです。




2018. 7.23                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第179作は 銅脈 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-179

  冬日山寺        

秩父寒風野趣長   秩父の寒風 野趣長く

曳筇険路訪禅房   筇を険路に曳いて 禅房を訪ふ

両三巡礼賽人影   両三の巡礼 賽人の影

読誦経文対本堂   経文読誦して 本堂に対す

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 去年8月に親友が43歳の若さで病死してしまい、残された友人と去年、親友の好きだった秩父の札所を回る巡礼の旅を始めて今、十七ヶ寺の御朱印を頂きました。

 そのどこのお寺というか、車中で考えていた詩をのちにまとめた1首。
 そして、去年漢詩をやる方に随筆をまとめて欲しいということをご連絡いただき、実は準備を進めて先ほど、十七ヶ寺については漢詩にしました。
 残り半分を6月からまた再開しようという計画でおります。

 漢詩とはそういう時役に立つのか?という意味において深く考えさせられたものです。
 しかし、人生というのはいつどうなるかわからないというのを去年の当日に実感しました。
 勤務から帰宅して何か漢詩でも読もうといった日常を全て覆すということで、あまりの出来事で、いつ死んでもいいようにやりたいことはどんどん挑戦していこうという決意が出来た次第です。
 彼は生前「海」のような人間でしたので、自分もそうありたいと願うのですが、人間なかなか仲良く出来ず。元来の性格なのか?今、猛省しておる次第です。


<感想>

 銅脈さんも、お久しぶりですね。
 ご友人への悼詩ということですが、落ち着いた趣のある詩になっていると思います。

 承句は山寺への冬の行路の険しさ、転句はその山寺の静かな様子、ということで、どこのお寺かはわかりませんが、画面がよく伝わってきます。

 結句は「対本堂」が何を言わんとしているのか、確定できないので、詩の結びとしては転句までの好句を受け止め切れていないように感じました。
 ここは作者の心情を出しても良いところかなと思います。



2018. 7.25                  by 桐山人
























 2018年の投稿詩 第180作は 銅脈 さんからの作品です。
 

作品番号 2018-180

  春日郊行        

閑人一里出村居   閑人一里 村居を出づ

郊外園林塵事疎   郊外の園林 塵事疎なり

帰路数輪香袋発   帰路数輪 香袋発き

東風春色杏花初   東風春色 杏花の初め

          (上平声「六魚」の押韻)



<解説>

 これは勤務から帰宅途上に通る県道から見える花やそこから発しているだろういい香りが想像され、会社での労働から解放された気分から出たもので、少し真面目過ぎる気がしますが、作詩しました。
 何か書くにあたり、四季雑詠が基本になるというのがあります。
 何か詩を一つというとテーマが尽ると結局のところ地域のことを写生して見ることかもしれないということです。
 思うに、そんなに部屋の中に居ただけでは詩語は拾えません(笑)

 ある意味何か行き詰るということは、書けない打開策を検討するきっかけでもあるし、そのために詩書を積んでもダメだということです。
 ここ数ヶ月、江戸時代の漢詩三昧でした。大きく影響したことは間違いないのですが、まだ読み足りないという気持ちがあります。
 しかし、詩語を得てもどこかで書かないことには私は意味がないので、作詩をまた今年も勤務の傍にやって行きたいとこう思います。
 江戸時代の漢詩集はアンソロジーなものを実感します。平成時代も末期、私には力がないのですが、どなたか「平成○○家絶句」なんての編纂しないですかね?
 あれ戦前で終わった文化なんでしょうか?
 尽きぬ漢詩への興味、今現在もですか。
 よろしくお願いします。

<感想>

 こちらの詩は、起句で悩みました。
 「一里」は漢詩では唐代の450メートルくらいを基本に考えますので、相当短い距離になります。「田舎の家を500メートルほど出た」ら「郊外園林」が有って、世俗から離れている環境だ、というのは、よく分かりません。
 日本の単位として約4キロと考えると、まあ納得できますが、わざわざ「一里」と書く必要があるのか疑問で、ここは作詩の意図が伝わりません。

 転句は「帰路」と加えたのは何故でしょうか。
 往きには発いていなかった花が帰りには発いた、という解釈では現実的でないですね。
 そうなると、次に考えられるのは、往きには気付かなかったけれど帰りには気がついた、ということ、では何故帰りには気付いたのか、作者の心が何らかの変化をしたのでしょう、うーん、鍵になりそうなのは「塵事疎」くらいで、作者の心が洗われた、だから花にも目が向くようになった、という感じでしょうか。
 自信の無い謎解きをしているような印象で、これは「帰路」が明らかに詩を難解にさせていて、不必要な言葉ではないでしょうか。
 「小径」「細路」と場所を狭めたり、「已覚」「忽識」と時間経過を示したり、「帰路」を削れば別の情報が入れられるように思いますが、いかがでしょうか。




2018. 7.25                  by 桐山人