作品番号 2016-331
秋山風光
雨霽嵩山秋暮天 雨霽れて 嵩山 秋暮の天
風強半月九輪巓 風強くして 半月 九輪の巓
鐘鳴漏盡以何応 鐘鳴漏盡 以て何をか応ふ
面壁只千五百年 面壁 只 千五百年
<感想>
世界漢詩同好會の詩題ですが、期限に間に合わなかったとのことで、後日いただきました。
結句の「只」は仄字ですので、「惟」とするのが良いですね。
転句の下三字は「何以応」としたかったのを平仄のために「以何応」としたそうですが、この読み方にすれば可能でしょう。
嵩山少林寺で達磨大師が九年「面壁」してから千五百年、長い時を感じさせる山の面目を表した詩になりましたね。
2016.11.16 by 桐山人
作品番号 2016-332
秋山風光(集唐應鈴木先生命)
儀形見山立,一望一蒼然。
漸老知身累,頻游任履穿。
尋雲策藤杖,倚石聽流泉。
好是東歸日,城秋月正圓。
<解説>
依次集自:
劉禹錫《奉和司空裴相公中書即事通簡舊僚之作》、杜荀鶴《秋夜》。
劉長卿《初到碧澗招明契上人》、杜甫《春日江村五首其二》。
許渾《送惟素上人歸新安》、李白《尋雍尊師隱居》。
鄭谷《賀進士駱用錫登第》、崔《送單于裴都護赴西河》。
<感想>
こちらの詩も世界漢詩同好會に送っていただいたものですが、集句(先人の詩句を集めて詩を作ること)は、世界漢詩同好會の趣旨である「創作詩の交流」とは異なり、一般投稿に回させていただきました。
せっかくの参加でしたのに申し訳なかったですが、ここで紹介をさせていただきます。
熊東遨さんは陳興さんのご紹介で、陳興さんからの詩もいただきましたので、掲載しておきます。
贈熊東遨老師詩 陳興
紅葉清流嫌太美
老村新樹尚多微
東遨秋詠集唐句
開向桐山詩巻飛
2016.11.16 by 桐山人
作品番号 2016-333
秋日山行
清涼一路楽漫遊 清涼 一路 漫遊を楽しむ
石径紅楓万感稠 石径の紅楓 万感稠(しげ)し
草野暗蛩声切切 草野の暗蛩 声 切切
天空鷹渡正中秋 天空 鷹の渡り 正に中秋
<感想>
秋の爽やかな空が目に浮かぶようで、「万感稠」という言葉が実感されますね。
詩の調としては、全体に明るい昼の景で、ここに転句の重く暗い雰囲気がどうして出てくるのかが疑問です。
前半に作者の心情と秋景を出してしまったので、転句に何を書くかが難しいところですが、心情に関わる「暗」とか「切切」の語を削って叙景に徹する方向が良いでしょう。
そうですね、私でしたら「草裏虫声風颯颯」とするところでしょうか。
2016.11.16 by 桐山人
作品番号 2016-334
與朋終日興手談
久離朋友笑相迎 久離の朋友 笑うて相迎ふ
即刻傳心意氣盛 即刻の傳心 意氣盛ん
早早囲棋窗日下 早早に 棋を囲む 窓日の下
勝欣負悔到深更 勝ちて欣び 負けて悔い 深更に到る
<解説>
<感想>
題名は「終日與朋興手談」の語順が良いですが、こうやって見ると、「終日」が余分なことが分かります。
もう一つは「興」は詩の内容に関わってしまいますので、この場合には削った方が良いでしょう。
題名ですので、すっと読者に分かるように、「手談」も「囲碁」の方が良いとは思いますが、これは作者の気持ちも関わりますので、参考意見ということで。
起句は「久離」という言葉がどれだけ大事か、ということですが、このままですと「久しぶりなので冷たくされるかと心配したが、友は笑って迎えてくれた」となります。
下三字を「約相迎」(約して相迎ふ)とするか、「長年朋友」という感じでしょうか。
承句の「盛」は、「盛る」で平声、「盛ん」では仄声になりますので、韻違いになります。「盈」「明」とするところでしょうね。
転句の「囲棋」でも良いですが、題をもし変えるなら、ここに「手談」を入れても良いでしょう。
結句は気持ちが素直に出た用語ですが、ややつたない印象です。
「勝ち負け」ということですと「輸贏(ゆえい・しゅえい)」、「輸贏幾局」「輸贏不極」というところでしょうか。
酔竹さんは、私の地元半田での漢詩講座にお見えになっていらっしゃいますので、私の感想を先日差し上げましたら、早速推敲作をくださいました。
與朋囲棋(推敲作)
久離朋友約相迎 久離の朋友 約して相迎ふ
即刻傳心意氣盈 即刻 伝心 意気は盈つ
早早手談窗日下 早早に手談す 窓日の下
輸贏幾局到深更 輸贏幾局 深更に到る
結句の「輸贏幾局」は、「勝ったり負けたり、どれ位の局数を打っただろうか?」と疑問で読み、そこから「数多く」という意味に解釈をします。
「多少」が「どのくらい」でもあり「たくさん」とも解釈するのと同じです。
「幾」は反語ではないか、と心配されていましたが、無理に反語に読まない限りは大丈夫です。
勿論、別案の「輸贏累局」でも問題ありません。
2016.11.16 by 桐山人
作品番号 2016-335
冬一日遊於網代温泉 冬の一日 網代温泉に遊ぶ
旭日染雲天際遥 旭日雲を染め 天際遥か
風波幽韻更凄寥 風波の幽韻 更に凄寥
温泉溢溢連洋面 温泉溢溢として 洋面に連なる
暢適宛然横暖潮 暢適す 宛然たり暖潮に横たふ
<解説>
昨年の2月に網代温泉に遊び、朝焼けの空と水平線を眺めながら、露天温泉でのんびりとした気分に浸った時の様子を詩にしました。
帰宅しすぐに作詩に掛かったのですが、なかなか平仄が合わず、放置していましたが、やっと何とか成ったと思いましたので、宜しくご指導お願い致します。
<感想>
起句は良いですね。
承句の「凄寥」は、他の句とそぐわない語で、どうしてここで「波の音がさびしい」と言う必要があるのか、悩みますね。
ここで重苦しくしておいて、次の温泉ですっきりとしたいというなら、起句の「旭日」も直して、「夕日」として前半を統一するような形が良いと思います。
転句の「連洋面」は温泉から海がすぐ近くに見えたということでしょうが、「洋面」が苦し紛れという感じですね。
「蒼海」とか「平海」と置き換えた方が自然です。「眼前海」という表現も気持ちに近いでしょうね。
結句の「暢適」は「のんびりとした心境」ということですが、あまり使われない言葉ですね。「舒暢」「怡暢」の方が一般的でしょうか。
2016.11.16 by 桐山人
以下の通リ修正致しましたので宜しくお願い申し上げます。
この詩で描きたかった情景は、次の通りです。
早朝、爽やかな天候だがやはり冬の海、人影も無く寒々しく寂しげだが。
露天風呂に身を沈め、低い視線で海を眺めると湯面が水平線まで連なって見え、
まるで夏の温かい海に浸っている様でゆったりとした気分だ。
冬一日遊於網代温泉(推敲作)
旭日染雲天際遥 旭日 雲を染め 天際遥か
投舟足下隻浮漂 投舟 足下に 隻つ 浮漂
温泉溢溢連平海 温泉 溢溢として 平海に連なる
独楽宛然横暖潮 独り楽しむ 宛然たり暖潮に横たふ
2016.11.18 by 酔竹
作詩意図では、結局、爽やかな朝の景色は否定されて、冬の寂しげな海が目に残ったということのようですが、そうすると、「爽やかな朝景色(起句)」・「(しかし)寂しげな冬の海(承句)」・「(しかし)広々とした温泉(転句)」・「のんびりと海に浸っているようだ(結句)」という構成を狙ったのですね。
並べてみるとやはり、起句から承句が逆接、承句から転句が逆接で、読者にとっては何を主として言いたいのかがはっきりしませんね。
起句と承句を合わせる形で、色調をそろえると、後半からの伸びやかさが生きてくると思います。
一案として、前半を冬の景にして、後半から温泉の暖かさを描く形、
二案として、前半も爽やかな景色、その中でのんびりと過ごす心境を描く形
どちらかにすべきでしょうね。
修正箇所では、承句は画面がよく分からないのですが、「投舟」は「泊めた舟」でしょうか。
「隻浮漂」は舟が一つ浮かんでいるということかと思いますが、じゃあ「足下」は何でしょう?
この句も再考が必要だと思います。
2016.11.27 by 桐山人
以下の通リ修正致しましたので宜しくお願い申し上げます。
遊於網代温泉
旭日染雲天際遥 旭日 雲を染め 天際遥か
融風万里冱寒消 融風 万里 冱寒消ゆ
温泉溢溢連平海 温泉 溢溢として 平海に連なる
怡暢宛然横暖潮 怡暢す 宛然たり暖潮に横たふ
※第2句の変更については
1. 融風万里を融風習習とも考えましたが、第一句の天際遥に対応して万里としました。
2.第一句の旭日を踏まえ
釣舟返照任波揺 (釣舟 返照 波に任せて揺る)
も考えましたが、季節を明らかにするため上記の様に致しましたが、如何でしょうか?
2016.12. 6 by 酔竹
まず題名については、場所を表す「於」の字は、ここでは不要ですから、「遊網代温泉」で良いですね。
承句は良い句ですが、「万里」が広がりを生む言葉、実は起句で「天際遥」ともう広げています。
「天際」まで見ておいて「万里」は屋上屋ですし、視点を変化させるためにも代案の方が良いのではないでしょうか。
2016.12.14 by 桐山人
作品番号 2016-336
残魂
残魂徊暗夜 残魂暗夜を徊(さまよ)ひ
昏忘襲衰軀 昏忘 衰躯を襲ふ
投筆生当止 投筆 生 当に止むべし
雁去月照湖 雁去って月照らすの湖
<感想>
題名の「残魂」は「生き残っている命」ということで、もう少し軟らかく言えば「余生」というところですね。
最近の哲山さんの作品は、老いを意識したものが多いのですが、これも同じ思いが述べられているものですね。
人生の思索を深くしていらっしゃることが感じられます。
承句の「昏忘」は、頭の働きが弱くなったことを表しているのでしょうね。あまり見ない言葉ですが、意図は通じます。
結句は平仄が合いませんので、「雁征」「雁行」としておくと良いでしょう。
全体に引き締まった、五言絶句らしい詩だと思います。
2016.11.16 by 桐山人
作品番号 2016-337
玉女三千驚聽老叟吟
醉揮禿筆走詩箋, 醉って揮ふ禿筆(ちびた筆) 詩箋を走り,
雷歯絡s飛洞天。 雷歯絡sのごとく洞天へ飛ぶ。
玉女三千驚老叟, 玉女三千 驚くに老叟,
吟聲朗朗若鳴弦。 吟聲朗朗として鳴弦のごとし。
<解説>
「雷歯絡s」という四字成語があり、雷のように猛烈に台風のように速いことをいい、一般には嚴格迅速に政令を執行することをいいます。
この作はその字面の意をもとに、洞天すなわち仙界へ電光のごとく、また疾風のごとく飛んでいって、自作を朗誦できたら という願望を詠んだものです。
<感想>
「雷歯絡s」という四字成語は日本ではあまり使われませんが、出典は韓愈の詩のようですね。
自分で使わないので申し訳ないですが、「氏vは厳しい、激しいという意味ですので、「洞天」にきっと随分騒がしく入って行ったのだろうなと思います。
「俺は鮟鱇だ!」と大声で叫んで歩けば、きっと仙女もびっくり、待望の李白も酒屋から酔顔をのぞかせるかもしれませんね。
2016.11.18 by 桐山人
作品番号 2016-338
卜算子・美女三千捧腹呵呵笑
醉夢作風人, 醉夢に風人(詩人)となり,
春晝遊蓬島。 春の昼に蓬島(仙界の島)に遊ぶ。
悦目山光展箋紙, 悦目の山光 箋紙に展(ひろ)がり,
詩眼輝如豹。 詩眼 輝いて豹のごとし。
○
清唱上天堂, 清唱しつつ天堂に上れば,
聽衆皆花貌。 聽衆はみな花の貌(かんばせ)。
美女三千輕韻致, 美女三千 韻致を軽んじ,
捧腹呵呵笑。 腹を捧(かか)えて呵呵と笑ふ。
<解説>
私は詩人だ ということで、漢俳などの短いものは朗読もしますが、家族や親しい友人からは笑われます。
拙作はそのあたりの事情をもとに、空想したものです。
なお、「卜算子」は詞で、『欽定詞譜』所載のその詞譜は次のとおりです。
卜算子 詞譜・雙調44字,前後段各四句,兩仄韻 蘇軾
▲▲▲△○,▲●○○仄。△●○○▲▲△,▲●○○仄。
△▲▲△○,▲●○○仄。▲●○○▲▲△,●●○○仄。
○:平声。●:仄声。
△:平声が望ましいが仄声でもよい。▲:仄声が望ましいが平声でもよい。
仄:仄声の押韻。(拙作は中華新韻六豪)
<感想>
前段から後段の前半まで、詩人の面目ここにあり、という趣でうっとりと読んでいきました。
しかし、最後にどんでん返し、夢から覚めたというところでしょうか。
この「卜算子」は五言の句が多くて、見慣れた感覚で読めますね。
2016.11.18 by 桐山人
作品番号 2016-239
流血三千里
非才不靈巧, 非才は不靈巧(不器用)にして,
刀筆弄傷多。 刀筆 弄傷(傷つける)こと多し。
流血三千里, 血を流すこと三千里,
苦吟如鬧魔。 苦吟 鬧魔(哭きやまない子供)のごとし。
<解説>
題の「流血千里」は四字成語で、死傷者がすこぶる多く,血が遍く大地に流れることを形容する言葉です。
そのような悲惨な光景を私は幸い目にしておらず、「流血千里」の原義にそった作詩はできそうにありません。
ただ、私の作詩四万首は詩魔との悪戦苦闘ともいえ、個々の作品はその戦いで戦死したものの遺骸であるように思えます。
そう思えば、「流血千里」を詩に読む資格は私にもあると思え、この作はその「流血千里」の「千里」を「三千里」に変えて平仄を合わせ、五言絶句にしてみました。
<感想>
うーん、すさまじい内容ですね。
「四万首」というレベルは「多作」の域を超えて、そこにどんな苦しみがあるのか私には想像もできません。
しかし、鮟鱇さんの詩作を拝見していると、口から流れるが如く「一斗百篇」ということではなく、一首一首に詩味と新味を勘案し、心血を注いで作っておられることが分かります。
累々たる三千里の屍を乗り越えて、流れた血がやがて「土中碧」として鮟鱇さんの詩を輝かせるというイメージが浮かぶ詩でした。
2016.11.18 by 桐山人
作品番号 2016-340
山寺遊歩
山腰深院起茶煙 山腰の深院 茶煙起き
石徑鐘樓落照邊 石径 鐘楼 落照の辺
綺樹閑庭看不盡 綺樹の閑庭 看れども尽きず
紅黄名木競秋妍 紅黄の名木 秋妍を競ふ
<解説>
過日 近くの四国八十八カ所霊場を散策しました。
時間的にお遍路さんもいなくて 静かな境内 紅葉・黄葉を楽しみました。
<感想>
前の「四国遍路偶感」の続編というか、同時期の作ですね。
秋の山寺の趣がよく表れていると思います。
後半は「綺樹」が結句の先読みのような印象です。
「名木」ですので「綺樹の中でも特に美しい」というイメージがあるのかもしれませんが、実際の「名木」を読者は目にしていないわけですので、「美しい木だろう」くらいにしか思えません。
転句を「名木紅黄看不盡」とまとめた方がインパクトも強くなるでしょう。
結句は「閑庭」で書き始めて、全体をまとめるような方向が良いでしょうね。
2016.11.18 by 桐山人
お世話になっております。
「山寺遊歩」 ご指導ありがとうございました。
推敲致しました。
よろしくお願いします。
山寺遊歩(推敲作)
山腰深院起茶煙 山腰の深院 茶煙起こる
石徑鐘樓落照邊 石径 鐘楼 落照の辺
名木紅黄看不盡 名木の紅黄 看れども尽きず
閑庭趣致出塵縁 閑庭の趣致 塵縁を出づ
「趣致」: おもむき
2016.11.20 by 岳城
全体の収まりが良くなりましたね。
結句の下三字の「塵煙」がまとまりを生んでいるかもしれません。「出」を「隔」とした方が意図が鮮明になるでしょうね。
2016.11.24 by 桐山人
作品番号 2016-341
偶作(一)
人生五十古人言 人生 五十 古人の言
已過三旬白髪繁 已に過ぐ 三旬 白髪繁し
甚矣疲羸我衰也 甚しいかな 疲羸 我衰へたるや
任他敲句戰吟魂 任他 句を敲き 吟魂を戦はさん
「甚矣」「我衰也」: 『論語』述而5「子曰、甚矣、吾衰也、久矣、吾不復夢見周公也。」
秋風や挽歌に飽きて演歌聴く
<感想>
起句の「人生五十」は細川頼之の「海南行」からでしょうか。
織田信長で有名な「敦盛」でも「人間五十年 下天の内に較ぶれば 夢幻のごとくなり」と語りますね。
(もっとも、この幸若舞の方は、「人間の五十年などは、下天での一昼夜に過ぎず、はかない夢幻のようなものだ」と解するようですが、
信長の一生とリンクして、人生は五十年と解釈していますね)
承句の「已」は「又」「更」が意味としては適していると思います。
結句は「任他」の用法ですが、基本的にはこの語の下を受ける形になります。
そうやって解釈すると、ここでは「年を取って衰えてしまった。もう詩を作ることなどどうでもよい」となります。書き下しを見ると「戦はさん」と意思の表現になっていますので、ちょっと異なるように思います。
読み下しを変更しても良いですが、「任他」を他の言葉にしても良いでしょうね。
私には、「澄心」「一朝」「暫時」などありきたりの語しか浮かびませんので、兼山さんの素晴らしい発想を期待します。
2016.11.18 by 桐山人
作品番号 2016-342
偶作(二)寄安西冬衛之詩
老耋膏肓志未移 老耋 膏肓 志未だ移らず
孤雲野鶴向天涯 孤雲野鶴 天涯に向ふ
間宮海峡渡胡蝶 間宮海峡 胡蝶渡る
不識前途神矣知 前途識らず 神のみぞ知る
「間宮海峡渡胡蝶」: 安西冬衛詩集『軍艦茉莉』 てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
天涯の何処へ行くか渡り鳥
<感想>
起句は、「年老いぼけて(老耋) 身体も不調(膏肓)」という意味でしょうかね。
承句の「孤雲野鶴」は「世を離れた隠棲の人」の比喩で使われますが、ここでは作者自身を表すでしょう。
転句は安西冬衛の句ですが、満州から樺太を眺めて詠んだと言われています。「韃靼海峡」は「間宮海峡」ですが、満州からの視点でこう表現したのだろうと思われます。
兼山さんは日本からの目で眺めた形で、こうした表現になったのでしょうね。
「野鶴」と「胡蝶」を対比させ、最後の「前途」へと導いていく形になります。
結句の「矣」は限定の「のみ」として使っていますが、この字は文末に置く字ですので、分かりにくい文になっています。
下三字は検討されると良いでしょう。
2016.11.19 by 桐山人
作品番号 2016-343
頭毛一落三千丈
天堂老叟醉雲間, 天堂の老叟 雲間に酔ひ,
磨墨裁詩轉等閑。 墨を磨き詩を裁くも ますます等閑(なおざり)。
聲病十吟八九個, 声病 十吟ずれば八九個,
丹誠沮喪作蒼顏。 丹誠 阻喪して蒼顔と作(な)る。
神魂一落三千丈, 神魂 一たび落ちれば三千丈,
白髪剥離飛碧山。 白髪 剥離して碧山に飛ぶ。
酒醒光頭仰明月, 酒醒めて光る頭 明月を仰ぎ,
茫然目送夢魔還。 茫然として目送(見送)る 夢魔の還(かえ)るを。
<解説>
「一落千丈」という四字成語があり、もとは琴の音がばったりと止むことをいいますが、転じて声誉、地位あるいは経済状况が急劇に下降することを形容します。
この作はその「千丈」を「三千丈」にして平仄を調え、空想したものです。
なお、拙作は、七言律詩ですが、頷聯と頸聯の対句は、次のように隔句對にしています。
聲病十吟八九個,丹誠沮喪作蒼顏。
神魂一落三千丈,白髪剥離飛碧山。
<感想>
「千丈」を「三千丈」に変えた時点で、李白の「白髪三千丈」が浮かんでいたのかもしれませんね。
更には仙境から転落という設定自体も「謫仙人」のイメージがあったのでしょうか。
最後の「光頭」が頸聯を受けて、収まりがストンと腑に落ちました。
2016.11.19 by 桐山人
作品番号 2016-344
股價日落三千丈
享受母親遺産豐, 母親の遺産の豊かなるを享受するも,
金秋股價若山崩。 金秋の股價(株価)山の崩るるごとし。
家財日落三千丈, 家財 日に落つること三千丈,
決意清貧立朔風。 清貧を決意し朔風(北風)に立つ。
<解説>
「日落千丈」という四字成語があり、景況の急劇なる下降を形容します。
この作はその「千丈」を「三千丈」にして平仄を調え、空想したものです。
<感想>
内容はなかなか厳しい状況を描いていると思いますが、結句の悲壮な姿が逆に滑稽味を生んでいて、「まあ、色々あるけどそれも人生だね」という印象です。
結句は高浜虚子の「春風や闘志いだきて丘に立つ」の句を押さえたものでしょうか。俳壇復帰の決意を表した虚子の句も、「春風」が「朔風」に変わると厳しさが増すようですね。
2016.11.19 by 桐山人
鈴木先生
いつも丁寧に読んでいただきご感想、ありがとうございます。
拙作『股價日落三千丈』の結句、「決意清貧立朔風。」についてですが、
>結句は高浜虚子の句を押さえたものでしょうか。 先生にお読みいただいたとおり、高浜虚子の句を踏まえております。
ただ、何かを決意をするとしても小生の場合は「清貧」ぐらいですので、そんなものを決意しても、ということで、
虚子句とは異なり、俳諧味を楽しむことにしました。
2016.11.22 by 鮟鱇
虚子の句は高校の授業でもよく扱う作品ですが、仰る通り「決意」にも色々とありそうですね。
「春風」を「はるかぜ」と読むか「しゅんぷう」と読むかで議論させたりもしますが、虚子の作詩状況(俳壇復帰)にこだわり過ぎて、ついつい「しゅんぷう」に持って行こうとしてしまいます。
生徒の発想を限定してしまっているかも知れないと反省しました。
「はるかぜ」と読んで、軽くして理解するのも味わい方ですね。
勉強になりました。
2016.11.24 by 桐山人
作品番号 2016-345
西部劇
明眸惜別送少年 明眸 惜別 送る少年、
不銃農園実直民 不銃 農園 実直な民。
荒野西風蓬轉轉 荒野の西風 蓬 転転、
幌車疾走馬乾乾 幌車の疾走 馬 乾乾。
厚顔悪漢短扉外 厚顔の悪漢 短扉の外、
無頼英雄決闘前 無頼の英雄 決闘の前。
正義弾音追尾想 正義の弾音 追尾の想ひ、
孤高曳影夕陽辺 孤高の曳影 夕陽の辺。
<解説>
仕事の合間に書いたので不出来かもしれませんが、これはこれで面白いかな・・・・と思い投稿します。
<感想>
西部劇と言うと、「荒野」「幌馬車」「悪漢」「英雄」「拳銃」などがすぐに目に浮かびますね。
更に「少年」とか「短扉」(バーの入り口の扉でしょうね)、そして「夕陽」と、申し分の無い素材が並んでいます。
「これはこれで面白いかな」とのお言葉通り、スピーディな展開で、懐かしく、また楽しく読みました。
頷聯、頸聯の対句が弱いのは、多分凌雲さんの心の中に映像がどんどん浮かんできて、筆の方が追いつかなかったのかもしれませんね。
第一句の平仄が違っているのと、第二句の「民」は「上平声十一真」ですので韻目が異なります。この二点は修正が必要です。
2016.11.25 by 桐山人
作品番号 2016-346
消夏雜詩
高原風快拂炎塵 高原の風快 炎塵を払ふ
閑聽幽禽避暑人 閑かに聴く幽禽 避暑の人
丹嶂靈峯映湖上 直面す 霊峰 湖上に映ず
宿泉水滑氣申申 宿泉水滑らかにして 気は申申
<感想>
転句は「嶂」と「峯」がかぶりますので、ここが対のようになっています。その時に、「丹」と「靈」では「丹」が弱くて、ここが説明に過ぎないという印象が出るのは確かです。
この辺りの感覚が大切ですね。
もうひとつ考えることは、今見ている富士は、本物なのか、水に映った姿なのか、水に映った姿と見た時に色まで説明することが必要かどうかです。
「夕照」「光背」「金色」のように夕陽を持ってきたり、昼間なら「蒼昊」「碧昊」と空と富士にするのもあります。
少し遊ぶなら、「不二」として、二つと無いものが湖にもう一つ見えたという面白さもありますが、これはちょっと「わざとらしさ」が目立つでしょうか。
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-347
初秋吟
梧桐落葉報秋初 梧桐の落葉 秋を報ずる初め
茅屋籬邉蟲韻疏 茅屋の籬辺 虫韻疎なり
小雨一過殘暑退 小雨 一過 殘暑退き
涼宵耽讀古人書 涼宵 耽読す 古人の書
<感想>
起句は「梧桐一落報秋初」とした方が俳句の趣を出すでしょう。
承句は「疏」と「疎」は別字ですので、「疎」で統一しましょう。
転句の「殘暑退」で「涼」は出ていますので、「好宵」くらいでどうでしょう。
「尻すぼみになって結句に続いている」との自己評価でしたが、詩だけで見ると、まとまった展開になっていると思いますよ。
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-348
蘇堤漫歩
堤畔平蕪一徑通 堤畔の平蕪 一径通ず
告天囀囀舞乘風 告天 囀囀として 風に乗じて舞ふ
江樓絶頂登階級 江楼の絶頂 階級を登れば
御嶽噴煙浮碧空 御嶽の噴煙 碧空に浮かぶ
<感想>
承句の下三字は読み下しは苦しく、これでしたら、「舞ひて風に乗ず」となります。
意味的にはこの読み下しでも良いと思います。
御嶽の噴煙を持ってきたのは面白いですので、そうなると、転句の下三字が説明だけになり、結句の感動が薄い印象です。
「回首」「回頭」くらいで収めておくと良いと思います。
遊山さんのこの作品は三敲作で、その前の二敲作は次のようでした。
蘇堤漫歩(二敲作)
堤畔平蕪細雨中 堤畔の平蕪 細雨の中
告天百囀入虛空 告天 百囀して 虚空に入る
江樓絶頂抜雲氣 江楼の絶頂 雲気を抜く
欲陟回梯矍鑠翁 回梯を陟らんと欲す 矍鑠たる翁
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-349
夏日水村
漁者江頭獨投竿 漁者 江頭 独り投竿す
出雲雨下水漫漫 雲を出で雨下り 水漫漫
午風亭上無炎暑 午風 亭上 炎暑無く
涼氣來遊酒客歡 涼気来遊して 酒客歓ぶ
<感想>
起句の「漁者」は「漁老」とすると味が出ます。
承句は、まだ雨が降っている状況ですので、それですと後半の景と合いにくくなります。
一旦雨が止んで、その後に風が吹くということで、「無炎暑」「涼気」が出てくると思います。
そういう意味で、ここは「雲流雨歇(雲流れ雨歇(や)み」としておきましょう。
転句は「午風」では緩いので、「一風」が良いです。
結句は「涼気」は転句の繰り返しになりますし、「涼気が来遊」というのも妙ですね。
題名の「夏日水村」を生かす形で、「夏日郷村」「夏日逍遥」などがどうでしょうね。
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-350
夏日
青山倒影映清流 青山 影を倒にして 清流に映じ
樹木蟬吟不暫休 樹木の蝉吟 暫くも休まず
年老二人談古意 年老いた二人 古意を談ず
子孫長夏水悠悠 子孫は長夏 水悠悠
<感想>
起句はスケールの大きな景ですが、現実感がありません。川の水が辺りの樹木で青色に染まるというならばわかりますが、流れる水に山の姿が映るでしょうか。
「溪山青色映清流」というところ。
承句は、場面は良いですが、「樹木の蝉」では単なる説明になります。
「樹樹」とすれば、周囲の沢山の木々で蝉が鳴いているとなりますので、こちらの方が良いですね。
後半は「談古意」と結句が通じません。また、「年老いた二人」というのもまるっと日本語で「二老」と書けば済むところです。
そこで中二字に入れる言葉を考えることになります。
「談古意」も何を話しているのかよく分からないのですが、昔話でもしているのでしょうか。
それなら、「二老坐苔談舊事」でしょうか。
結句は転句を受けるようにして、年寄りは昔話、子ども達は元気に遊ぶ、という趣向ですね。
それならば、「児孫戯水喜長遊」とし、転句の「二老」も「翁媼」とすれば対句になりますね。
「水悠悠」を残すなら子ども達は出さないで、「静閑長夏水悠悠」とすれば収まりが良くなります。
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-351
夏日出遊
旅宿開窗潮氣香 旅宿 窓開けば 潮気香る
曙光赫灼海中央 曙光 赫灼 海中央
温泉獨浴龍宮似 朝入る炎液 竜宮に似たり
夏日濤聲塵世忘 夏日 涛声 塵世忘る
<感想>
承句は「海中央」と読まず、「海の中央」とすると、朝日が海の真ん中から出てきたという感じになりますね。
転句は「竜宮似」は今一なので、「竜宮の趣」とすると良いでしょう。
ひとまず直すべきはこのぐらいですが、作者自身が「なんだかさえない」ということを仰っていましたのでもう一歩考えてみますと、結句で「晩夏」「濤声」「塵世」がそれぞればらばらなのが原因でしょうかね。
「塵世忘」をもたらしたものをもう少し掘り起こすと、句の意味が明瞭になって「さえない」雰囲気が薄れるかもしれません。
あるいは、上四字を「濤韻(響)悠悠」「濤韻滔滔」とか「悠響濤声」など、波の音のゆったりした雰囲気を出すと落ち着くかもしれませんね。
この作品は再敲作で、初案は次の形でした。
夏日出遊(初案)
旅宿開窗潮気香 旅宿 窓開けば 潮気香る
曙光赫灼水天同 曙光 赫灼 水天同じ
入朝炎液龍宮似 朝入る炎液 竜宮に似たり
晩夏濤聲世情忘 晩夏の涛声 世情忘る
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-352
吉田山
京洛長天月一輪 京洛、長天に月一輪
秋風千載晒清真 秋風、千載、清真を晒す
逍遥院院初紅葉 逍遥、院院の初紅葉
楓樹風光日日新 楓樹、風光、日々新たなり
<解説>
先日、学生時代を過ごした京都に久しぶりに宿泊する機会があり、夜間、ゆっくりと吉田山界隈を散歩してみました。
日中の観光客であふれる様子が嘘のように、真如堂など昔通りの静かな空気を味わうことができました。
思い出に詩作してみた次第です。
ご指導、よろしくお願いします。
京都の秋の澄んだ空に綺麗な月が輝いている。
遠い昔より、澄んだ秋風は全てのものの飾りを散らし、清らかな姿を晒してくれるようだ。
夜、吉田山の寺々を歩いてみると、いたるところの紅葉が色づき始めている。
楓も、空気もすべてのものが毎日新しく変わっていくことが感じられる。
<感想>
楽宙さんからの投稿は、今年の新年漢詩以来ですので、お久しぶりですね。
先日の京都での漢詩大会に参加した折に、久しぶりに京都に行きましたが、仰る通りで観光客の多さに圧倒されました。
タクシーの運転手さんもここ数年の増加に、ありがたいことだけれど、観光客が多すぎて右折も左折も時間が掛かり、結局渋滞が日常的になってしまったのが困ったことと言っていました。確かに、駅近辺の高層ビルと歩道に溢れて行き交う人々を見ていると、東京都心に居るような錯覚がしました。
しかし、時刻と場所を替えれば、楽宙さんの仰るような古都の趣を味わうことができるようですね。
詩の前半は、空間的にも時間的にも広がりがあり、目の中にも心の中にも秋の爽やかな風が吹き抜けるような印象です。
この二句を受けての後半はどう展開するかが難しいところ、楽宙さんは抑えておいた「紅葉」を出してきましたね。
これは良い配置だと思いますが、前半がモノトーンに近いので、できればもう少し色彩を鮮やかにしたいところ。現時点では「紅葉」は、季節の変化を感じさせたという結句につなげる小道具になっていて、存在感が弱くなっています。
夜の月明かりの中に浮かぶ深紅の紅葉、この素材自体の美しさに目を向けなくては、結句が小理屈になってしまうように思います。
2016.11.28 by 桐山人
作品番号 2016-353
北國春 一
故郷春景映空 故郷の春景 青空に映じ
邱上辛夷發凱風 邱上の辛夷 凱風に発く
慈母思吾時節果 慈母 吾を思ふ 時節の果
歸歸日夜客心窮 帰りなん帰りなん 日夜 客心窮る
<解説>
先日、当地の漢詩勉強会にて、講師の方が漢詩の起承転結を、「北国の春」を例にとって説明をされました。
そこで、「北国の春」を翻案してみましたが、如何でしょうか。
<感想>
千昌夫の名曲、いまでもカラオケで人気の曲である「北国の春」ですね。
歌詞を読み直してみました。そのままコピーすると著作権で問題がありそうですので、概略を確認しますと、
三番までありますが、どれも前半で故郷である春の北国の様子を述べていますね。
後半、つまりサビから「おふくろの小さな包み」(一番)、「別れたあの娘の面影」(二番)、「兄や父親が酒を飲んでいる様子」(三番)と望郷の思いを募らせる物や思い出、場面を描いて、
最後に「あの故郷に帰ろかな 帰ろかな」とまとめるということで、確かに起承転結で構成されていますね。
この辺りの古典的な構成が、中国でも人気である理由かもしれないと思いました。
さて、その「北国の春」を漢詩にしてみようというのが東山さんのチャレンジですね。
絶句と律詩をいただきましたが、この絶句の方は、歌詞の一番を翻案したもの、「青空」「南風」「こぶし」「丘」と素材を無理なく並べていますね。
「凱風」は一般には南風で初夏ですが、本家の歌詞が「南風」と言ってますので、微妙なところですね。
そこを吹っ切れば「暖風」というところでしょうか。
結句も歌詞の「あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな」のリフレインを受けて「帰帰」と重ねたのですね。
ただ、これで「帰りなん帰りなん」とするのはどうでしょうか。古典的な「帰兮」とした方が詩としてはすっきりすると思います。
全体には歌詞の翻訳ということですが、転句では「小包」を「時節果」として内容まで語った辺りに、東山さんの独自性が主張されていると言えます。特に「果」が具体的で良いですね。
起承転結の構成も分かりやすいと思います。
2016.12. 6 by 桐山人
作品番号 2016-354
北國春 二
故郷春景轉鮮明 故郷の春景 転た鮮明
才雪釋懷山野菁 才かに雪釋けて 山野の菁なるを懐ふ
白樺辛夷風習習 白樺辛夷 風習習
水車略彴水CC 水車略彴 水清清
家慈齎我四時果 家慈 我に齎す 四時の果
異客詒君一意情 異客 君に詒る 一意の情
京國五年心不樂 京国五年 心楽しまず
歸歸日夜舊園聲 帰りなん帰りなん 日夜 旧園の声
「略彴」: 丸木橋
<感想>
こちらは、一番から三番までの内容を勘案した形ですが、律詩ということで、まずは対句に歌詞の言葉を入れたのでしょう。
しかし、頸聯は「四時果」とか「詒君一意情」というように、翻案以上の踏み込みがあり、生き生きとした詩になっていると思います。
第二句はごちゃごちゃして読みづらいですね。
「才雪釋」の語順は「雪才釋」となるところを平仄合わせでしょうか、「懷」も邪魔ですし、「菁」は一字では使いにくい字ですね。
この句がすんなりと読めると、全体も流れが良くなると思います。
2016.12. 6 by 桐山人
作品番号 2016-355
過圓正寺
秋陽晴朗静如禅 秋陽晴朗にして静かなること禅の如し
朝聴経声避俗縁 朝に経声を聴いて俗縁を避く
古刹風光無変態 古刹の風光は変態無く
遊人独歩自玄然 遊人の独歩自ら玄然たり
<解説>
秋の朝は静かで坐禅にはいいもの。
坐禅を終えて般若心経を唱え聴き、俗な世界から離れる。
古刹の風光は変わりなく、遊人の一人歩き玄然とする。
※圓正寺というのは近所の曹洞宗のお寺であります。
2014年の秋から近所のお寺の坐禅会に参加して、自らの生活を反省すべき点はないか?というのを確認するための生活を現在送っています。
気がつくと漢詩歴は随分経つが、実は何も上達してない。歴史だけ積み重ねているだけで、内容が精神的なことから宗教が混ざるようになり、そこだけが変化かもしれないというのはあります。
一時期漢詩も書けない時もありました。忙しいとか暇がないとかそういうことではないのですが。書くものがなくなったというのが実際です。
作詩をする際に何を詠じるか?という着目点でいうなら漢詩サイトを拝見させていただくのですが、実際何かここ数年違うものを見ていたように思いました。
漢詩を読むのも書くのも体力知力気力。3力が必要だなというのは今回の作まで実感致しました。
ここ数年4首程度しか書いてないのです。
私の所属する地区連盟の機関紙に投稿する分だけでした。
漢字を見るのもそういう意味で遠ざかりと。ここ2ヶ月で3首。
詩語表を見て、「さぁやるぞ」という時に、現代人は何を考えて創作するのか?というのがこのサイトへ行くとわかります。
そういう意味で休んでいた間に雰囲気が変わりましたし、なくなった方ももう体力的に難しいという方も。
いろいろですが、また愚痴愚痴の漢詩ですが、どうぞ少しずつですが、作詩して行きたいと思いますので、どうかひとつよろしくお願いします。
<感想>
銅脈さんからは久しぶりの投稿をいただきました。
色々とお悩みの中、漢詩から遠ざかっていらっしゃるのかと心配していましたが、会報への投稿しているとのことで、年に何首であろうが作詩を続けていらっしゃることを嬉しく思います。
漢詩について考えると、私の時間のかなりの部分が占拠されているのは事実ですが、生活の一部とは考えてはいません。しかし、心の一部であることは確かで、平安を保つために大切なものだと思っています。
折に触れ、また、作品を読ませていただけると嬉しいですね。
今回の詩を拝見すると、落ち着いた心境が感じられるようです。
手慣れた作風と言えますが、いつもの銅脈さんならではのキラリ(ギラリかな?)としたものが隠れていることがやや寂しく、そこをどう考えるかですね。
2016.12. 6 by 桐山人
作品番号 2016-356
百舌
残菊烟燼夕 残菊 烟燼の夕
日没北風休 日没して 北風 休む
静寂如寒沁 静寂 寒 沁むが如し
鳴響更妙幽 鳴響 更に妙幽
<感想>
五言絶句らしく、簡潔に場面を切り抜いている詩ですね。
素材配置は整っているので、平仄が合わないのが残念です。
○●○●●
●●●○◎
●●○○●
○●●●○
この形になっていますので、起句と結句の二字目を平声にするだけで収まると思いますから、「残菊」を「菊残」(菊残われて)とするか、「野烟残菊夕」としてはどうですか。
結句の方は「鳥声」とすれば良いですが「二字目の孤平」になりますので「鳴禽」「禽声」などでしょうか。
転句の下三字も「如寒沁」は「寒如沁」と語順を替える方が良いですね。
2016.12. 7 by 桐山人
作品番号 2016-357
古寺看菊
寂静梵城霜気侵 寂静の梵城 霜気 侵す
整斉甃砌月光臨 整斉の甃砌の月光 臨む
大輪正是四君子 大輪 正に是 四君子
畳玉菊花香転深 玉を畳む菊花 香 転た深し
「甃砌」: 石畳
「四君子」: 梅 菊 蘭 竹の総称
<感想>
前半を対句とする(前対格)ならば、承句の読み下しも「整斉の甃砌 月光 臨む」とした方が良いですね。
ただ、詠い出しで「寂静」と来ると、「静かだぞ!」という作者の感覚が強く出て、押しつけがましく、後に続く素材が生きて来ない印象です。
「古色」「古里」「暮邑」など、それとなく寂しさを感じるような表現を探った方が良いと思います。
転句は菊ということが出ないと「大輪だから四君子」という感じで分かりにくいです。「大輪秀菊正君子」というところでしょうか。
結句の中二字はそれに合わせて、花の色などを入れると、最後の「香」が浮き上がって「香もまた深い」となるように思います。
2016.12. 7 by 桐山人
作品番号 2016-358
見絡新婦
晴日卜居郊樹頭 晴日 居を卜す 郊樹の頭
碧空結網獨優游 碧空 網を結んで 独り優游
女郎何事金絲裏 女郎 何事ぞ 金糸の裏
占斷酣紅爛紫秋 酣紅爛紫の秋を占断するは
<解説>
よく晴れた日に見定めた 街のはずれの木のあいだ
青空のした網掛けて ひとり優雅な暮らしぶり
姐さんどんなおつもりで 黄金の糸をめぐらせて
赤や紫秋の色 我が物顔に絡め取る
秋も深まる時節、木々の間に大きなジョロウグモの網が張られていることが目につきます。
枝の間ばかりでなく、大きいものになると、歩道の頭上、数メートルの道幅いっぱいに糸を掛けており、場所によっては幾つもの網の下をくぐりながら散歩することになります。
なお、転句の「女郎」は、和名の「女郎蜘蛛」を意識しないわけではありませんが、直接には、絡新婦の「婦」からの連想で「女郎」と呼びかけているものです。
<感想>
この歳になって言うのは恥ずかしいですが、私は子供の頃に便所でしゃがんだ時に目の前に手のひらくらいの大きな蜘蛛を見てすくんで以来、蜘蛛が大の苦手で、大きさを問わずいまだに発見すると背筋が冷たくなります。
蜘蛛の巣が身体に着こうものなら、網で捕らえられたような恐怖を感じて、大急ぎでふりほどきます。
ということで、観水さんの今回の詩はあまり冷静に読めない部分はありますが、心を強くして拝見しました。
なるほど、普通(?)の方は蜘蛛の巣を見て、「ジョロウグモだ」と判別もするし、ひょっとして「きれいな色だなぁ」などと思っているのかもしれないと思いました。
後半の二句に流れる表現も、色彩が豊かで、観水さんの詩情が感じられますね。
しかし、すみませんが、このくらいで勘弁してもらって、他の方の感想をいただきたいところです。m(..)m
2016.12. 7 by 桐山人
観水さんの「見絡新婦」に寄せる感想
不躾に感想をお送りしますご無礼おゆるしのほど。と同時に、桐山人先生におかれましては、直近に、嫌いなものとは知らず、これまた蜘蛛をモチーフにした詩を送りつけまして大変失礼いたしました。※投稿359作のことです(桐山堂注)
ドイツの諺だったと思いますが「運命の老女神が糸を紡いでいる天気」というのがあったと思います(運命の歯車は糸車なんでしょうかね)。
この諺は「蜘蛛が巣を作りをはじめるぐらい秋めいた麗らかさ」を表現するときに使うものでして「まさしくこの作品は!」と、目から鱗が落ちました。
字面の卜と占(もっとも仄韻のほうの義ですが)からも、なんとなく「運命」が想い起こされるのがまた一興でございました。
それを下地に、都々逸で「姐さん」と読んだときの衝撃ときたら、なんと艶やかな運命の女神ができあがったことか。金、紅、紫、まるで花魁道中を表したような艶詩のようにも感ぜられて、叩頭しきりにございました。
それでいながら、天高い秋のさわやかさが、ずっと視点が高いところにあることで、いや増していて、魂が震える思いがいたしました。
一読で三つも四つも味が染み出てくる美味しい詩にございました。
2016.12. 9 by 酪釜
鮟鱇です。
欣賞佳作。
玉作は、女郎蜘蛛が独り優游と色彩豊かな秋を楽しんでいるということを詠んでいる詩であるわけですが、転結の句で描かれた秋はとても美しく、しかし、それを楽しんでいるのは蜘蛛であって私ではない、というところに妙味がある詩です。
観水さんは、蜘蛛であれば楽しめる秋を、人間であるがために楽しむことができない、とまでは言っていませんが、「おまえはいいよな」というかのように蜘蛛に語りかけています。
そういう作者がいるわけで、孤愁とでも呼ぶべき心情が詠まれているように思います。
また、蜘蛛を「女郎」と呼んでいるので、「女性はいいよな、男は・・・」と読んでもいいのかも知れません。
しかし、孤愁にしても男であることの悲哀にしても、それは読者の勝手読みで、作者、観水さんはそれらしきことは一言も言っていません。
その婉約が玉作を読みごたえのある佳作にしていると思います。
2016.12.12 by 鮟鱇
作品番号 2016-359
蟄居
雨過秋景岳生嵐 雨過の秋景 岳は嵐を生じ
晨起蜘蛛巣草庵 晨起の蜘蛛 草庵に巣かく。
共紡糸辞成為孰 共に紡ぐ 糸辞 孰れが為に成すや
霜風同志奉茶甘 霜風の同志へ 奉茶甘しを。
<解説>
ご無沙汰しております。
霜烈に詩情を興して一首。
せせこましい矮小な世界観に、突拍子もない物狂いをまぜこぜるのが私の悪癖でありますが、今回は特に、上から下に読んで行っても、絵を思い描けないような作りで歯がゆさが残りました。
また、日本語で考えていると言葉も紡ぐものなのでありますが、どうも怪しげな感じで、同韻「糸辞」という不思議な造語が入り込みました。
雨が止んで、秋めかしい気が岳に生じている。
早起きの蜘蛛は、いおりの端に巣をかけ出した。
一緒に紡ごうか、糸と言葉と、誰のためでもなく。
寒い風のなかの同志よ、甘い茶を奉りたいものだ。
余談ですが、初稿は
第2句:晨起知朱巣草庵 晨起の知朱 草庵に巣かく。
第3句:共紡履霜氷至矣 共に紡ぐ 履霜は氷に至れるかな
第4句:侏糸儒語寂然談 侏糸 儒語 寂然と談ず。
と、朱と儒を取り込んでみたり、履霜の戒(易)を取り込んでみたり、主張のある警句のようになったのですが、主題としては「もろともにあわれと思え」「行き場のない物寂しさ」のなかに、何か安堵して、何か焚き付けられたような思いのほうが優先されるような気がして、前述のようになりました。
<感想>
先の観水さんの詩に続いて拝見し、きっと、私とは見えてる世界が違うのだろうと思いました。
蜘蛛がいたら、目を合わせたらどうしようと脅えるしかない私には、「同志」という発想は決して浮かばないものです。
もちろん、自分には見えないものを別の人は見ているという疎外感自体は、詩に限らずしばしば生まれるもので、だから何とか共感して少しでも近づきたいと普段なら前に進めるのですが、蜘蛛は駄目ですね。
これは鑑賞者としてはだらしないことだと自覚していますが、そうそう観水さんの時のように「誰か助けて」とばかりも言ってられないので、よし、頑張ります。
起句の「秋景」「岳生嵐」の大きな景から承句の「蜘蛛」は小さすぎて(大きな蜘蛛だったら・・・・)、目の動きがややきついですね。
「草庵」にもう少し近いもの、「林」とか「庭」あたりが目に入ると、流れが良くなるかと思います。
あるいは、「蜘蛛」を出すのをここでは我慢して、承句は草庵の近くの風物を描いておくのも一案でしょう。
転句と結句が似た感情を表していますし、「成為孰」も読みにくく、「奉茶甘」は何か故事からでしょうか、現実感が弱く感じます。
転句から「蜘蛛」を登場させれば句も充実し、最後の感情が生きてくるかと思いました。
2016.12.15 by 桐山人
まず、糸を紡ぐ蜘蛛と言葉を紡ぐ詩人とを結びつけるセンス、さらに「霜風の同志」と呼びかけ、甘い茶を奉りたいという発想には、素晴らしいものがあると思います。
他方、その部分(蜘蛛と詩人の対比・共感)を詩の主要素として読むと、起句の叙景が、そこだけどうにも座りの悪い感じがします。酪釜さん自身でも「絵を思い描けないような」、「歯がゆさが残り」と書かれていますが、全体として言葉の紡ぎように不満があるばかりでなく、構成上のバランスにも難が残っていることも一因ではないでしょうか。
私の一方的な想像ですが、初稿からも改めることがなかったこの具体的な起句は、詩の中でも最も事実に即した句であって、作者自身が実際に雨上がりに、「草庵」の窓越しに、あるいは庭先くらいから山に秋の気が生ずるのを見、その流れのなかで軒端の蜘蛛に思いがいたったということではないでしょうか
(もしかしたら山中に蟄居中の誰か歴史上の人物を想定しての作品という可能性もありますが)。
思い切って起句を改める方向で詩の構成を考えなおすとすれば、たとえば転句では句中で対にして蜘蛛と詩人との対比をはっきりとしたかたちで示し(「爾紡銀糸吾綺語」とか。「紡」は「吐」とどっちがいいでしょうか)、さらには技巧に過ぎるかもしれませんが、起承句も対句に仕立てる(「秋深磨墨望山嵐/晨起蜘蛛巣草庵」とか、「蜘蛛」は「知朱」の音義を借りて対に。あるいは、平仄は変わりますが「絡婦」/「騒人」の対を軸にしても作りやすいかもしれません)などすれば、外形的にはよく整った感じになるのではないかと思います。
そうでなければ、起句と結句を入れ替えて、
起:寒い風の中の同志に甘い茶を奉りたい、
承:(その「同志」とは)軒端に巣をかける蜘蛛、お前のことだ。
転:お前は糸を紡ぎ、私は言葉を紡ぐ。
結:(その言葉でもって写すのは、又は言葉のなかで)秋の気が山に生じていることだ。
――というようなストーリーに紡ぐのも面白い方向性ではないでしょうか。
以上、余計な口出しだったかもしれませんが、同じ詩人として、良い発想を詩にまとめるにどうしたらいいだろうか、自分だったらどういう方法があるだろうか、という観点ではこんなふうに読んでいる、ということで、お納めいただければ幸いです。
P.S 酪釜さんとは世代も近く(私より4、5年ほど若いくらいでしょうか)、投稿作品には、いつも注目しています。
2016.12.18 by 観水
感想ありがとうございます。
どうにも距離感がない、指摘されてようやく「ああ、これは映画で撮ったらピンぼけして、しかもオープニングに意味がない」というようなことを思いました。
桐山人先生にはいつもお世話になっておりますが、今回はお嫌いな題材で、手直しをさせてしまうことになりまして、まことに申し訳ありませんでした。
さらには尊敬する観水さまより感想たまわり、少々まいあがっております。
去年のハロウィンの詩だと記憶していますが、友人たちと大いに談笑の話題にさせていただきましたし、このたびの漱石記念漢詩大会の詩(問猫)は、個人的に吟譜にして、詠いこんだりしております。
拙作についてですが、ご想像通りでありまして、見直してみても、前半は見えたものをようやく言葉に変換した、というだけのものになっており、構成もなにもあったもんじゃありませんね。
思い切って構成をひっくり返すなど、大いに参考になるご意見をたまわり、本当にありがとうございます。
詩にたまわったご意見は今まで全て記録し、一生を賭けてでも自分が納得する形にしたいと考えますので、とにかくここからの推敲が途方もなく時間がかかるのですが、精一杯探究していこうと思う所存です。
2016.12.24 by 酪釜
作品番号 2016-360
老樵墓参兼吟行会
霜月初旬塋域尋 霜月初旬 塋域を尋ぬ
老樵門下寂寥禁 老樵門下 寂寥禁へず
耽詩日日先人志 詩に耽る日々 先人の志
往矣吟行郷土森 往けよや 吟行 郷土の森
<解説>
「老樵」は、「調布市漢詩を楽しむ会」の前講師、富樫翠雲先生の雅号
先生の一周忌の墓参を済ませ、府中郷土の森博物館周辺の公園で吟行会を行う。
<感想>
起句と承句の下三字は表記のように読み下せるか、というご質問がありましたが、起句の「塋域尋」の方は文法的には破格ですが、詩では読めないことはありません。
同様に承句も行けますが、「禁(た)へず」とするためには「不禁」でないといけません。「墓上寂寥深」でしょうか。
転句の「先人」は「昔の人々」ということでしょうか、富樫先生を指すならば「先師訓」の方が誤解が無いと思います。
結句は勢いのある、先師への感謝の思いが籠もった良い句ですね。
2016.12.15 by 桐山人