作品番号 2016-271
偶感(一)一雨去來
炎炎溽暑噪殘蟬 炎炎たる 溽暑 残蝉噪ぐ
大地當枯處處田 大地 當に枯れんとす 処々の田
一雨去來霑萬物 一雨 去來して 万物を霑す
龍王殷殷是天然 竜王 殷々 是れ天然
万物涸れ一雨欲しき夏日かな
<感想>
今年は台風が何度も上陸し、東北や北海道での大きな被害が報道されていますが、九州の方も何度も襲来を受けていますね。
しかし、夏の時には、雨が少なくて苦しんでいましたね。
兼山さんのこちらの詩は、その夏の日照りが続いた頃のものですね。
起句の「噪残蝉」は、酷暑の中、誰もがぐったりしている中で蝉の声だけが響いている情景で、不気味な静けさが引き立ちます。
その起句を受けますので、承句の枯れ果てた田の窮状が印象深く残りますね。
その分、転句から恵みの雨が降ってきたことを歓ぶ気持ちが強調され、結句のやや大げさな表現が自然に納得できる構成になっていると思います。
2016.10. 5 by 桐山人
作品番号 2016-272
偶感(二)寄藤原敏行和歌「秋來」
殘暑連綿夏日長 残暑 連綿として 夏日長し
秋來誰賦好思量 秋來ぬと 誰か賦す 好し思量せん
山川草木吟情淡 山川 草木 吟情淡なり
只聽風聲自覺涼 只聴く 風声 自から涼を覚ゆ
異常気象と言へど何やら秋の風
<感想>
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」の和歌を受けての承句ですね。
藤原敏行は、風の音にかすかな自然の変化をつかみ取ったもので、「さやか」というア音を重ねた語感が生きて、まさに名句だと思います。
中唐の劉禹錫の「秋風引」との連関もよく言われますね。
結びは、「自覚涼」まで来るとちょっとストレート過ぎるかと思いますので、「佇夕陽」のような作者の行為を持ってきてはどうでしょう。
2016.10. 4 by 桐山人
作品番号 2016-273
近隣謝機縁
老生登校気安全 老生 登校 安全を気する
壮歳車乗衢路辺 壮歳 車乗 衢路の辺(あたり)
想起通勤請活力 通勤を 想起し 活力を請く
隣交親近謝機縁 隣交の 親近 機縁を謝す
<解説>
自分の住む地域の老人会の活動の一つとして 週1回 街角に立ち 小学生の安全を見守っている。
そこはもちろん 勤務に急ぐ人、散歩の人、車等が行き交う場所である。
自分の通勤していた頃を思い出し 活力をもらっているような気分になる。
近所の人たちとも親近感を増し この機会を与えてもらったことに感謝している。
<感想>
私も町内の当番で、何年か前に近所の通学路の交差点で子ども達の横断の手伝いをしました。
仕事柄、大きな声で子ども達に朝の挨拶をすることには慣れていますが、高校生と違って小学生達は元気よく返事をしてくれます。
それだけでも、子ども達に何かをしてあげる、のではなく、こちらの方がホッと救われた気持になったことを覚えています。
茜峰さんは老人会の活動ということですが、地域の人々のつながりという意味でも、意義があること、結句のお気持ちがよく分かります。
詩は、年齢を重ねた自分の姿と、仕事に勤しむ人々の姿を重ねて、かつての日々を思い出すということですが、その比較が老いの悲哀を導くのではなく、逆に「請活力」と来ているところが、読んでいて気持ちが良いですね。
読んでいるこちらも活力をもらう気がします。
起句は「気」は動詞用法ですか、「配」の方が意味としては合うでしょう。
「登校」も「老生が登校する」わけではありませんので、妙な句です。
「老生街巷配安全」のようにして、承句では通学する子ども達の姿を描かないと、結局何をしているのかがわかりません。
逆に言えば、承句が急ぎすぎで、対比される働いている世代の姿は転句に持ってくる方が良いでしょう。
その場合、「請活力」ことと「謝機縁」の両方を描くのか、そのあたりが決断のところですね。
2016.10. 5 by 桐山人
鈴木先生
以前ご指導いただいた「近隣謝機縁」を下記のように推敲しました。
老生街巷配安全
登校児童和睦辺
壮歳車乗興活力
隣交親近謝機縁
2016.10.20 by 茜峰
作品番号 2016-274
八月偶感
一片高雲日午天 一片の高雲 日午の天
繁枝庭樹噪殘蟬 繁枝の庭樹 残蝉 噪ぐ
条風嫋嫋微簾動 条風 嫋嫋 微に簾 動く
晩夏幽居只愛眠 晩夏の幽居 只 眠を愛す
<感想>
起句は立体感のある表現ですね。
「高雲」は、例えば「白雲」として承句を「緑樹」、色を対比させたい気持ちになりますが、どちらも色を表す語を入れないことで、逆に色彩が浮かび上がってくるようです。
転句の下三字は「簾微動」とした方が自然です。
結句もこれで良いのですが、下三字の結びが平凡で、詩全体に個性が出てきません。
どの句も流れは良く、スイスイと読めるのですが、その分印象が弱いということですので、この結びの三字に勝負をかけるという気持ちで推敲すると良いでしょうね。
「下平声一先」は韻字も多いですので、色々とチャレンジもできると思いますよ。
2016.10. 6 by 桐山人
作品番号 2016-275
驟雨
夏日碧空猶可望 夏日 碧空 猶ほ望むべきも
飄風卷地氣淒涼 飄風 地を巻いて 気 淒涼
億千銀箭沛然雨 億千の銀箭 沛然の雨
前路奈何簷下郎 前路 奈何せん 簷下の郎
<解説>
夕立に雨宿りを余儀なくされての1首。
まだ晴れ間が見えているのに、急に突風が吹いて気温が下がり、程なく激しい雨が降ってきた――と平たく書いてしまえば、我ながら面白くも何ともないと思ってしまいますが、結句の作者の様子で滑稽味を出してみたつもりです。
また、承句に関連して、気象の用語では「ガストフロント」と言うそうですが、激しく雨を降らせている積乱雲からの冷たい下降気流が地表にぶつかり、水平方向に転ずることで前線が発生するのだということです。
この前線の通過により、突風と急な気温低下が生じ、その後、激しい雨になるというわけです。
蘇軾の「望湖楼酔書」では「巻地」の風は雨を吹き散らすものでしたが、詩的効果は別として、一般的な気象現象としてはどうなのでしょうか。
青い空にはお日様も まだ見ることができるのに
びゅうっと風が吹きわたり 空気も冷え冷えしてきたぞ
億千本の銀の箭の 雨はざあざあ降りかかる
さてはどうしたものかなと 途方にくれる軒の下
<感想>
そうですね、体験的に言えば、急に空が暗くなり、周りの空気が冷たくなってくると夕立の雨が降り出す、という感じですので、観水さんの仰る通りでしょう。
黒い雲が通り過ぎた後にからりと晴れ渡り、空に虹が架かる時には、風も吹いていないですね。
ただ、台風ではありませんが、激しい雨が降ってその後にまだ風が残り、湿った空気が一掃されるような場面はあり得るように思いますので、蘇軾の詩を読んだ時には全く違和感を感じなかったのが正直なところです。
観水さんの今回の詩は、起承で夕立に向けての気象変化を出し、転句で前も見えないような雨が降り出し、途方に暮れる作者の姿を結句に出して「さて、さて、困ったなぁ」という形で余韻を残したのが、仰るところの「滑稽味」でしょう。
俳諧で言う「取り合わせ」で、素材の選択としては叙景と人事という、実は伝統的な配置ですね。
2016.10. 6 by 桐山人
作品番号 2016-276
恋人岬写真
五月遊湯旅 五月 遊湯の旅、
人塵昨雨洗 人塵 昨雨洗へり。
公園皆相愛 公園 皆相愛、
眼下小荷船 眼下 小なる荷船。
偶訪繁期後 偶訪 繁期の後、
写真絶景前 写真 絶景の前。
洋洋遥海碧 洋洋 遥かに海碧く、
灼灼遍花燃 灼灼 遍く花燃える。
並座高薫草 並び座すれば高薫の草、
抱寄直髪肩 抱き寄する直髪の肩。
鳥歌歓喜満 鳥は歌ふ 歓喜満ち、
画収笑顔連 画は収む 笑顔連ぬ。
恋隷弄吹笛 恋隷 吹笛を弄し、
東風奏管弦 東風 管弦を奏す。
浮雲迎夏意 浮雲 夏を迎ふるの意、
伸手宙穹円 手を伸ばせば 宙穹円かなり。
<解説>
一昨年のゴールデンウイーク明けに西伊豆に旅行に行った時に立ち寄った恋人岬の写真を見ながら、思い出に浸って書いたものです。
単純な言葉の配列になってしまった感がありますが・・・・・・
<感想>
「写真を見ながら思い出に浸って」ということですので、言葉の羅列と言っても、場面が次々に思い浮かんできたと解釈すれば、句のつながりが弱くてもそれほど気にはなりませんね。
逆に、こんなに色々と思い出したんだと感心したくらいです。
恋人岬とか恋路浜という名前のつく場所は結構あちこちにあるようで、私などはそうした幸せそうなカップルを「見る」のが楽しみな年齢になりました。
二句目の「洗」は仄字で、通韻にもなりませんので、この句だけは検討が必要です。
2016.10. 6 by 桐山人
投稿した「恋人岬写真」の第二句を変更します。
「人塵昨雨洗。」を「人塵雨掃然。」に変更したいと思います。
よろしくお願いします。
2016.10.12 by 凌雲
作品番号 2016-277
秋夜(一)寄李白「哭晁卿衡」
深夜相觀月半輪 深夜 相観る 月半輪
坐想唐國謫仙人 坐ろに想ふ 唐國の 謫仙人
日本晁卿沈碧海 日本の 晁卿 碧海に沈み
白雲愁色聽難眞 白雲 愁色 聴けども眞なり難し
半輪の月観れば想ふ李白の詩
<感想>
李白の「哭晁卿衡」は、遣唐使の阿倍仲麻呂(中国名が晁衡、または朝衡)が日本に帰る途中で船が難破したことを聞いた時に詠んだ詩です。
哭晁卿衡
日本晁卿辭帝都
征帆一片遶蓬壺
明月不歸沈碧海
白雲愁色滿蒼梧
この詩だけでなく、秋で「半輪月」とくれば、同じく李白の「峨眉山月歌」も意識してのものですね。
詩を見ていくと、「半輪の月」を見て李白を思い、そこから「哭晁卿衡」の詩を浮かべたという流れのように読めます。
ただ、李白からどうして仲麻呂を連想したのか、仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の和歌にある「月」だけのつながりでは、やや弱いですね。
仲麻呂の見た月が「半輪」ならば良いですが、満月と考えるのが一般的でしょう。
そうなると、兼山さんのこの詩は、まず「哭晁卿衡」の詩があって、外を見たら丁度半輪の月がかかっていて、李白の詩がつながったということでしょうか。
さて、では結局、詩で言いたいことは何なのか、李白と仲麻呂の交友関係を言いたいということならば、そもそも「謫仙人」という世俗を超越した存在としての登場は場違いですし、せめて結句で交友への感慨を入れるべきでしょうね。
2016.10. 7 by 桐山人
作品番号 2016-278
秋夜(二)寄仲麻呂和歌「天原」
何處在哉三笠山 何處に 在り哉 三笠山
甲乙論難伯仲間 甲乙 論難 伯仲の間
筑前春日望海路 筑前 春日 海路を望み
大和邑城秋月閑 大和 邑城 秋月閑なり
春日なる三笠の山の月何処
<感想>
阿倍仲麻呂の和歌に対しての漢詩訳が、西安の興慶宮の記念碑に彫られています。
私が行った時の写真は「阿倍仲麻呂記念碑」として載せてありますが、読みにくいです。
望郷詩
翹首望東天 首(かうべ)を翹(あ)げて東天を望み
神馳奈良邊 神(こころ)は馳(は)す 奈良の邊
三笠山頂上 三笠 山頂の上
想又皎月圓 想ふ 又 皎月(かうげつ) 圓(まどか)ならんを
この漢詩訳が誰の作なのか、については、西安の金中さんが以前調べておられましたが、そもそも仲麻呂の漢詩があって和歌がそれを邦訳したとか、和歌が誰かの作だとか、色々な説があるようです。
承句の「甲乙論難伯仲間」がその辺りを指しているのか、詩だけで見ると、「三笠の山がどこに存在するか、諸説がある」と解してしまうのですが、どうなのでしょう。
後半は意図的でしょうが、「筑前」「春日」「大和」と地名を並べ、更に「春日」と「秋月」の語の対比など、色々と狙いがあるようですね。
2016.10. 7 by 桐山人
作品番号 2016-279
秋近
柳堤荷圃緑浮浮 柳堤 荷圃 緑 浮浮トシテ
夏日西傾暑漸休 夏日 西ニ傾キ 暑 漸イニ休ム
夜気含涼竹簾動 夜気 涼ヲ含ミ 竹簾 動キ
階前蟲語僅知秋 階前ノ蟲語 僅カニ 秋ヲ知ル
<感想>
真瑞庵さんとは同じ愛知県、昨年は機会があり、数度お会いしました。
京都での懇親会では、「最近、真瑞庵さんはどうしてるのか?」と投稿を楽しみにしていらっしゃる方もおられましたよ。
何首かいただきましたので、順次ご紹介していきますね。
「秋近」という、季節が変化する候の景を描かれた作で、飾り気の無い素直な表現は変わりませんね。
いつも作っていらっしゃる律詩ですと、時間や景の変化もゆったりと描けますが、絶句になると、やや急ぎがちになりますね。
今回の詩で言えば、前半は郊外の広々とした夕方の景だったのですが、後半は庭の中で夜、起承転結の流れとして理解できる範囲ですが、多少せわしない印象があります。
また、承句の「夏日西傾」は、夏そのものが終わることを暗示していますが、ここで「夏」字があると、結句の「知秋」が屋上屋を重ねる感じで、インパクトが弱くなります。
季節のことはどちらかにして、例えば結句を「引新愁」のような作者の心情を出す方向はどうでしょうね。
2016.10. 7 by 桐山人
作品番号 2016-280
野夫閑日
疲足倦身開竹門 疲足 倦身 竹門ヲ開キ
倚笻漫歩藕蕖村 笻ニ倚リ 漫歩ス 藕蕖ノ村
野鴉飛影高還下 野鴉ノ飛影 高ク 還タ 下クク
河岸浮煙明亦昏 河岸ノ浮煙 明 亦タ 昏
風動紅荷香自起 風 動キ 紅荷ノ香 自ズカラ起キ
雨来翠蓋露随翻 雨 来ッテ 翠蓋ノ露 随ッテ 翻ル
夕陽欲落尚姑止 夕陽 落チント欲シテ 尚 姑ラク 止マリ
閑日悠悠忘老煩 閑日 悠悠 老煩ヲ忘ル
<感想>
七言律詩の情報豊かな描写が生きている詩ですね。
首聯で「藕蕖」が出ましたので、頸聯とのつながりが強く、あれ、また戻ったのかという気がします。
内容的には頷聯と頸聯が入れ換わった方が自然ですね。
語句としては、第二句の「漫歩」と第八句の「閑日」を交換すると、「悠悠」が生きてくると思います。
2016.10. 7 by 桐山人
作品番号 2016-281
残暑
炎風簾動響檐鈴 炎風 簾動かして 檐鈴響く
永昼傾觴酒一瓶 永昼 觴を傾け 酒一瓶
何晩消亡三伏熱 何晩か 三伏熱 消亡
屢思涼気庭中満 屡ば思ふ 涼気の庭中に満つるを
<解説>
お盆明けたのにまだ残暑厳しい。
酒をのんでもこの暑さはしのげず、いい加減涼しくならないかな
といったイメージを描いてみました。
<感想>
結句の下三字は勘違いでしょうか、読み下しのままに書いてしまったようですね。
ただ、単純に入れ替えるわけにはいきませんので、「満階庭」とするところでしょう。
承句の「永昼」は「永日」が春の日ですので、イメージとしては「夏午」「長日」の方が良いですね。
転句の「何晩」は「何日」を夜に持ってきたのでしょう。
虚字を使おうという狙いで作られたようですが、「何晩」は結句までを含んで、「いつになったら三伏の暑さは消え、庭に涼気が満ちるだろうか」と解釈でき、間に入る「屡思」は「何晩」と意味が重複していると思います。
別の見方をすれば、「三伏の熱が消亡する」ことと「涼気が庭中に満ちる」ことが重複しているとも言えます。
そういう意味で、結句で何を言うかを推敲されると良いと思いますよ。
2016.10.14 by 桐山人
推敲しましたので報告いたします。
炎風簾動響檐鈴
夏午傾觴酒一瓶
何晩消亡三伏熱
微茫虫語酔中聴
2016.10.24 by 地球人
作品番号 2016-282
宮本武蔵
磨劍二天獨不眠 剣を磨く二天独り眠らず
難行修錬自相憐 難行修錬し自ら相鞭つ
苦心洞窟五輪卷 苦心する洞窟五輪の巻
居士英霊萬世傳 居士の英霊万世に伝ふ
<感想>
宮本武蔵は外国人観光客にも人気の人物だと、先日のテレビで見ました。
剣の道もそうですが、彼の人生そのものへの敬慕が感じられましたが、「剣術」を「剣道」へと変え、心の修練を伝えた人物だと言えますね。
南芳さんもそうした面を浮き上がらせようという狙いからの詩ですね。
平仄の点で二ヶ所、起句が「○●●○●●◎」となっていて「四字目の孤平の禁」を破っていること、承句の「行」は修行の意味の時は仄声になります。
起句は下三字を「誰得眠」、承句は「難行」を「難艱」くらいにすれば意図と合うでしょうか。
転句の「苦心」の言葉は、前半で十分に出ていますので、「洞窟」の描写とか、「五輪書」の形容とか、何か別の言葉を考えてはどうでしょうね。
2016.10.14 by 桐山人
作品番号 2016-283
初秋偶成
漫歩新涼緑樹中 漫歩す 新涼 緑樹の中
啾啾喞喞妙於絃 啾啾 喞喞 絃より妙なり
野花結実凋零憫 野花は実を結び 凋零あわれ
季節変遷吟味豊 季節の変遷 興味豊かなり
<解説>
厳しかった真夏日もいつか過ぎ去り、外歩きを始めました。
近くの小高い山林を散歩した時の感想です。
<感想>
何度もの台風の襲来や、観測史上最も遅い真夏日が来たりで、なかなか秋の深まりを感じることができない日々が続きましたが、ようやく朝晩に肌寒さを感じるようになりましたね。
緑風さんのこの詩は「初秋」ですが、起句は確かに「初秋」をイメージしていますが、だんだんと秋が深まっているような気がしますね。
時間軸が少しぶれているような気がします。
題名を「秋日偶成」として、起句の「新涼」を「清涼」としておくと、全体がまとまるように思います。
あと、結句は本文が「吟味」、読み下しが「興味」ですが、「四字目の孤平」のことを考えると本文が正しいでしょうね。
2016.10.14 by 桐山人
作品番号 2016-284
京之雨 寄桐山堂懇親会(一)
千年都邑雨煙中 千年の 都邑 雨煙の中
底事車窓佳景空 底事ぞ 車窓 佳景空し
十四師朋詩酒會 十四の 師朋 詩酒の會
交歡契濶醉無窮 交歡 契濶 醉窮まり無し
秋雨に煙る祇園の紅い灯よ
<感想>
9月の漢詩大会終了後に、京都駅前で桐山堂懇親会を開きました。
福岡の兼山さん、東京調布の深渓さん、静岡の常春さん、兵庫の謝斧さん、奈良の禿羊さん、岐阜の緑風さん、滋賀の芳原さん、博多の忍冬さん、調布の楊川さん、熊本漢詩連盟の瓊泉さん、刈谷桐山堂の眞海、遊山、小園の3名、そして私桐山人の合計14名の参加でした。
全国の仲間との交流と、途中の最新作の発表とミニ合評会、一年ぶりの再会、あるいは初めての顔合わせ、ネットの中だけではないリアル出会いで、私はただただ嬉しくて、感涙を抑えるのにとても苦労していました。
来年は名古屋ですので、是非、皆さんこぞっておいでください。
決して「嫌われ町」ではありませんよ。
2016.10.14 by 桐山人
作品番号 2016-285
京之宴 寄桐山堂懇親会(二)
巨大驛舎驚鬼神 巨大 駅舎 鬼神を驚かし
内裝造作隔仙塵 内裝 造作 仙塵を隔す
師朋十四催詩興 師朋 十四 詩興を催ほし
酒味忘歸感慨新 酒味 忘帰 感慨新なり
秋雨や古都駅亭の詩酒の宴
<感想>
会場は京都駅ビルの2階でしたが、兼山さんが仰る通り「巨大なビル」で、当日新幹線で京都に着いた時に場所を確認しようとしたのですが、たどり着くまでに随分時間が掛かりました。
しかし、その現代的なビルからお店の中に入ると和風の粧い、京都らしさを感じました。
そのあたりが兼山さんの描かれたところ、私もお店に入ってビックリしました。
起句の「舎」は平仄が合いませんので、「樓」としておくと良いですね。
2016.10.14 by 桐山人
作品番号 2016-286
京師吟遊会
千古京坊騒客來 千古の京坊 騒客來る
園林秋雨踏青苔 園林の秋雨 青苔を踏み
桐山師弟微醺好 桐山の師弟 微醺好し
参会交情一美哉 参会の交情 一に美かな
「京坊」: 京の街。
「園林」: 中国古代の庭園をいう、と。
<解説>
漢詩大会の懇親会を解散後、京都駅ビルにて桐山堂友の懇親会和やかに為す。
京都ではお世話様になりました。
会友和やかな詩酒の会でした。
来年は名古屋とのこと楽しみにしています。
<感想>
京都大会は、翌日の吟行会は雨でした。
私は勤務がありましたので、朝早く、まだホテルの朝食もできてなく、駅の売店も開いていない時刻に新幹線に乗りました。
ホテルから駅まで歩き始めたら雨が強くなってきましたが、前日の観光客で溢れていた街はまだひっそり、地元の方が散歩がてらお寺さんを拝んでいて、思いがけず京都の風情に触れた気持ちがしました。
吟行会に出られずに残念な気持ちも、少し慰められて帰れました。
2016.10.14 by 桐山人
作品番号 2016-287
全漢連渉成園吟行会
群賢入洛雨来時 群賢入洛し雨来たる時
吟屐院庭臨碧池 院庭を吟屐し碧池を臨む
大帝曾遊安坐処 大帝曾遊され安坐の処
怡怡騒客賦佳詩 怡怡として騒客佳詩を賦したり
<解説>
詩界の諸賢の方々が、京都のこの、かつて明治天皇もこられた当院に集い、詩人達は楽しく佳い詩を賦しました。
<感想>
九月の全日本漢詩大会の翌日、渉成園にて大会参加者の吟行会が開かれました。
私は例年、日曜が勤務日のため吟行会には出られず、皆さんのお話を聞くだけで残念です。
楊川さんのこの詩は、当日の様子がよく分かる内容ですね。
こうした記録の詩ですので、いつ、どこで、どんな内容で、ということが分かるようにすると良いです。
ここでは承句に入れて、「吟屐秋庭臨碧池」と一文字入れておくと、バランスが良くなりますね。
2016.10.31 by 桐山人
作品番号 2016-288
自祝快癒 自ら快癒を祝す
快哉老耄藥煙功 快なる哉 老耄 薬煙功あり
今日身心氣力充 今日 身心 気力に充つ
現代醫方燈一穗 現代の 医方 一穂の灯
餘生不識喜無窮 余生は 識らず 喜び窮まり無し
夏の陽や九死の生命賜りぬ
<解説>
桐山堂懇親会の当日、自己紹介を兼ねて自作「自祝快癒」を吟詠・披露させて戴きました。
席上、謝斧さんから、転句の「現代醫方」に関して「見代」が良いとの御指摘がありました。
帰宅後、漢和辞典を開くと、確かに「見代=現代」とあり、朱の側線が施されています。
何れの時かの記憶は有りませんが、何かの自詩作時での書き込みでしょう。
「見代=現代」と言う二つの選択肢の内で、「見代の方がいい」と言う選択眼が、漢詩人の詩人たる力量なのであろうか?そんな事を考えさせられました。
<感想>
兼山さんは八月に体調を崩されて、九月の大会には参加できるかどうか心配をしていましたが、お元気なお姿を見て安心しました。
「見代」は「現」の偏の「玉」が落ちた形で用いられているので意味としては同じだと思いますが、「現代」ならばまさに「この時代」となりますし、「見代」ですと「代を見る」ということで「時代を見てみれば」というニュアンスになるでしょうか。
その辺りの語感が関わっているのでしょうね。
2016.10.31 by 桐山人
作品番号 2016-289
寄義兄七回忌
都樓礎石此來傳 都楼の礎石 此に来たり伝ふ
富貴死生偕在天 富貴 死生 偕に在天
虛子靜雲俳諧寺 虚子 静雲の俳諧寺
相聞眷屬法燈前 相聞す 眷属 法灯の前(*2)
(下平声「一先」の押韻)
「死生有命 富貴在天」: 『論語』「顔淵」
「相聞」: 互いに相手の安否を問う
]
行く秋や縁者の消息尋ね聞く
<解説>
以前の「憶義兄(亡義兄三回忌)」【2012-252】から、4年後の7回忌です。
菩提寺の「佛心寺」は「都府楼址」の東隣、月山に在ります。
<感想>
兼山さんのこちらの詩は、世界漢詩同好會への参加詩として送っていただきましたが、内容的に一般投稿とした方が良いかと判断したものです。
転句の「仏心寺」は俳句をやっていらっしゃる方には有名ですが、少し説明を加えれば、「虚子静雲」は、この仏心寺を戦後開山、俳人でもあった河野静雲氏と、彼が師事した高浜虚子を表しているところ、寺名の「花鳥山仏心寺」も虚子の命名です。
虚子自身も太宰府の地を愛したことも知られています。
結句の「相聞」が、法事で親族が集まった折の雰囲気を表したところで、効果的な言葉になっていますね。
起句の「此來傳」と結句の「法燈前」の下三字がやや甘いので、どちらかに季節感のある言葉を入れると締まりが出ると思います。
2016.10.31 by 桐山人
作品番号 2016-290
秋思
陰陽催日短 陰陽 日ノ短キヲ催シ
窓見景纔秋 窓ニ見ル 景 纔カニ秋ナルヲ
朝露階前冷 朝露 階前ニ冷ヤヤカニ
菊花籬下幽 菊花 籬下ニ幽タリ
繁霜愈更白 繁霜 愈 更ニ白ク
老病毎多愁 老病 毎ニ愁イ多シ
残年焉得算 残年 焉ンゾ算ウルヲ得ン
又可止時流 又 時ノ流ルルヲ止メルベケンヤ
<感想>
真瑞庵さんの五言詩は珍しいですね。
五言句になると、言葉がつい足らずに私はいつも苦しむのですが、真瑞庵さんはさすがですね、虚字がやや多いかなという印象ですが、起承転結もうまく収まっていると思います。
尾聯は平仄が逆で、上句が仄句、下句が平句と本来はなるところですね。
2016.10.31 by 桐山人
作品番号 2016-291
七十四翁又逢秋
聞道魂浮又魄沈 聞ク道ラク 魂ハ浮キ 又 魄ハ沈ムト
重年重老思千尋 年ヲ重ネ 老ヲ重ネテ 思ヒ千尋
風來帳動寝牀下 風來ッテ 帳ハ動ク 寝牀ノ下
臥聴告秋蟲一吟 臥シテ聴ク 秋ヲ告グ 蟲一吟
<感想>
こちらの詩は、前半の言葉使いに意を用いた詩ですね。
七十を過ぎ、「老」を感じるのはまさに「年」を重ねたもの、「思千尋」という表現も意図がよく伝わります。
その思いを後半の叙景で象徴させる表現も調和していると思います。
一点、結句の「臥」は直前の「寝牀下」で伝わりますので、「獨」のような作者の状態を表す言葉が良いかと思います。
2016.10.31 by 桐山人
作品番号 2016-292
秋旅行
索居風物憶秋千 索居 風物 秋千を憶ふ
山水澄神断俗縁 山水 神を澄まし 俗縁を断つ
旅館宴遊乗興飲 旅館 宴遊 興に乗じて飲み
酒醒清暁気如仙 酒醒 清暁 気は仙の如し
<解説>
ストレス解消に旅行に出かけた状況を描いてみました。
<感想>
起句の「索居」は人から離れてのわび住まい、そこで寂しくて旅に出たということでしょうね。
ただ、「憶秋千」は何でしょうね。「秋千」と言われると「ブランコ」と読んでしまうのですが、他の用法があるのか、それとも子どもの頃に遊んだ思い出でしょうか。
意味としては「秋旅」というところですので、用例を教えて頂ければと思います。
承句以降はよくまとまっていますので、起句だけ、意図が伝わりやすいように検討されてはどうでしょう。
2016.11. 8 by 桐山人
鈴木様
ご指摘ありがとうございます。
仰せのとおり、「憶秋千」ではおかしいですね。秋千の意味を勘違いしていました。
感想で述べられたように、秋の雰囲気を出したくて、詩語表の中で秋のある単語に思わず飛びついてしまいました。(笑)
今後しっかり意味を確認するように注意致します。
起句を見直しましたので報告いたします。
索居風物弄秋妍
山水澄神断俗縁
旅館宴遊乗興飲
酒醒清暁気如仙
2016.11.12 by 地球人
作品番号 2016-293
石倉十八字令・謫仙人
謫仙 謫仙
茲見 茲に見(あらは)る
詩詞十萬篇 詩詞十万篇なり
上天 上天
應羨 応に羨むべし
行吟醉夢邊 行(ゆくゆく)酔夢の辺に吟ずるを
<解説>
随分以前、鮟鱇さんに、「詞(ツー)はやらないの?」と言われたことがあります。
正直なところ、細々と詩を続けているだけで精一杯で、とても手を広げる余裕はないと思っているのですが、詞のことも、いつも頭のどこかに残っている感じです。
余裕がないというのも、結局は自分自身に対する言い訳であって、いちど「やるぞ」と決めてかかれば、漢詩に取り組み始めたころがそうであったように、存外、ハードルは低いのかもしれません。
さらに言い訳を重ねると、将来の楽しみとしてとっておいてあるので今は手を付けないようにしている、ともなるでしょうか。今回は、そんな気持ちのなかでの、言わば「つまみ食い」みたいにしてできた作品です。
普通話の発音も中華新韻も私はさっぱりなので、平水韻で作り、わからないなりに一応は現代音も考慮して押韻したつもりです。
あえて名前は入れていませんが、詞の「謫仙人」のモデルは自明と思います。平仄・押韻を自在に操り、毎年何千という作品をものされるなんて、私からすれば別世界からの謫仙人です。詩詞十万というのも誇張ではなく、いつか現実の数字となるのではないでしょうか。
私が一生涯のうちに書けるのが、たぶん千から二千首だろうと見込んでいます。ですから、百倍の詩豪です。
実は、このモチーフでは、ずっと一首作りたいと思っていました。ようやく出来ました。
謫仙人 あらわれて ものしたる詩詞は十万
神様も うらやまん 吟(うた)うのは酔って夢みて
<感想>
観水さんから鮟鱇さんの提唱された「十八字令」の詞を送っていただきました。
これは本家の鮟鱇さんに感想を書いていただく方が良いと思い、お願いしました。
作品番号 2016-294
石倉十八字令・言志
詩吟 詩は吟じ
酒飮 酒は飲み
愛無絃素琴 無絃の素琴を愛す
知音 知音
所品 品する所
光風霽月心 光風霽月の心と
<解説>
こちらは自分に関して。ささやかな希望です。
最初の二句は、気持ちとしては「詩あらば吟じ、酒あらば飲し」といったところ。常套陳腐な用字ですが、押韻の都合で変則的な並びになっていること、次の句に淵明ゆかりの無絃素琴を持ち込んだことで、多少は妙味が出るようにしたつもりです。
後半、「光風霽月」は、最近のお気に入りの言葉です。心の中で唱え、そんな生き方、心の在り方ができるよう願っています。
詩は吟(うた)い 酒は飲み 愛するは絃のない琴
友だちの 評判は その心「光風霽月」
<感想>
こちらも鮟鱇さんの感想です。
作品番号 2016-295
賦後北条五代
洛陽戦火燎原秋 洛陽の戦火 燎原の秋
深慮遠謀平八州 深慮遠謀 八州を平ぐ
可惜兒孫井蛙闘 惜むべし 兒孫 井蛙の闘
長蛇不避映双眸 長蛇双眸に映ずるを避けず
<解説>
小田原の清閑亭十五夜漢詩吟詠会を聴講して賦す。
戦国初め、京都の戦火が諸国に拡がる時に、後北条氏に名将が3代(早雲、氏綱、氏康)続き、関東八ケ国を勢力下に収めた。
しかし、四代(氏政)、五代(氏直)と天下の大勢が読めず、長蛇(大敵関白秀吉)に飲まれ滅亡。
<感想>
起句の「秋」は「とき」と読みますね。
「洛陽」でも良いですが、次の「燎原」と対するならば、「都城」とするのが良いでしょう。
結句の「長蛇」は転句の「井蛙」を受けての用語ですが、「長蛇が避けず」となりますので、この二字を検討してはどうでしょうね。
「長蛇爛爛凝双眸」なども面白いかもしれません。
2016.11. 8 by 桐山人
作品番号 2016-296
四国遍路偶感
八十八番靈意棲 八十八番 霊意 棲む
同行大師此相攜 同行の大師 此に相携ふ
阿州山徑急登喘 阿州の山径 急登に喘ぎ
土佐道中遠路啼 土佐の道中 遠路に啼く
念佛陰陰流淨域 念仏 陰陰 浄域に流れ
鐘聲脈脈度深溪 鐘声 脈脈 深溪を度る
觀空伊豫讃岐寺 空を観る伊予 讃岐の寺
千里嚴程未拂迷 千里の厳程 未だ迷ひを払へず
「観空」: 道を悟る
<感想>
初めての律詩とのこと、対句が大変だったと思いますが、工夫をされていますね。
第二句の「同行大師」は、お遍路の時には弘法大師が常に一緒に居てくれるということで、「同行二人(どうぎょうににん)」と言えば弘法大師と二人ずれということになります。
下三字の「此相携」はその意味では「二人」を表しているのでしょうね。
やや重複感はありますが、意図は分かる句です。
ただ、「師」は平字用法ですので、難しいですね。例えば、「大師打札此相携」でしょうか。
頷聯は地名を入れて対句を作っていますが、「徑」「登」「道」「路」と同じものを表す字が続きますので、場面が小さくなっていますね。
特に下句は「四字目の孤平」にもなっていますので直す必要があります。私は実際にお遍路を経験してませんので申し訳ありませんが、例えば「土佐江津遠路啼」とか。
頸聯の上二字は修飾語+名詞という構造ですので、「念佛」を「経韻」とすると対が良くなりますが、どちらも音で変化が乏しく感じます。
下三字の対は「淨域」と「深溪」、語の構造上は合っていますが、内容的に「淨域」、つまりお寺と溪では不釣り合いですので、他のものを配置するような形で考えてはどうでしょう。
最後の「未拂迷」は、「千里厳程」でお遍路を巡ってもまだ迷いが消えないとなると、どうにもお先真っ暗で、この先どうにもならないという感じになります。
多少なりとも仏と親しくなれたような結末にしてほしいですね。
2016.11.10 by 桐山人
作品番号 2016-297
秋高
蟬吟炎夏已乖離 蝉吟の炎夏 已に乖離し
金桂群英馥郁弥 金桂の群英 馥郁と弥(あまね)し
過七十餘好日否 過ぐる七十餘 好日や否や
秋高無礙復何疑 秋高無礙 復た何ぞ疑する
<感想>
起句の「乖離」は夏が過ぎ去ったということを言いたいのでしょうが、私の解釈では「乖離」はくっついていた物が離れる時に使う言葉ですので、逆に、夏が何とくっついていたのかと悩みます。
ここで「乖離」が適切かどうか、ご検討ください。
転句は「下三平」と「四字目の孤平」になっていますので、下三字を直す必要がありますね。
結句は上二字の「秋高」とその下の五字のつながりが無いので、何を言わんとしているのかがボケますね。
また、ここでは「復何疑」としているのに、転句の「好日否」の疑問形はつじつまが合いません。
その辺りの整合性、論理性が推敲の目標になりますね。
2016.11.10 by 桐山人
作品番号 2016-298
間花
朝陽堤岸往来頻 朝陽の堤岸 往来 頻り
緑翠叢中百合純 緑翠の叢中 百合 純なり
潭影間花将詠跌 潭影の間花 将に詠まんとして跌く
推敲終日畢窮醇 推敲 終日 畢ひに醇に窮まる
<感想>
すっきりとした詩で、どの句も無理が無い表現になっていると思います。
起句と承句にやや飛躍があるようで、「往来頻」なのと「叢中百合純」がどうつながるのかがわかりません。
言い換えれば、「往来頻」と述べた意図が不明瞭で、作者自身の行動を描いた方が落ち着くでしょう。
後半はどちらも下三字が各々の字が独立していて読みにくく、どちらかを「一・二」あるいは「二・一」の構成にすると良いでしょうね。
2016.11.10 by 桐山人
作品番号 2016-299
九月十三夜(一)無月之夜
西東南北満秋聲 西東 南北 秋声に満つ
独坐待期知幾更 独坐して 待期す 知んぬ幾更ぞ
九月十三無月夜 九月十三 無月の夜
仰天何恨小詩成 天を仰ぎ 何ぞ恨まん 小詩成る
天上の月は何処か十三夜
<感想>
待ち構えていた十三夜の月が雲に隠れて残念、しかし、それでも詩ができたから良しとしようか、ということですが、月が無くても「十三夜」というだけで心の中に明月の光が浮かんでくるというのが詩心ですね。
承句と結句に作者の行為が出てきますので、本来なら承句と転句の内容を入れ替えて述べる方が話の筋は通りやすくなります。
しかし、承句で「何を待って夜更かしをしているのだろうか」と読者に疑問を与えておいて、「今日は九月十三夜」だと種明かし、更に実は「無月」だったと予想を裏切る展開は、二転三転の面白さが出ていますね。
ただ、ドラマチックな展開に対して、結句はややおとなしく終わりすぎるかな、という印象はありますね。
2016.11.13 by 桐山人
作品番号 2016-300
九月十三夜(二)寄廣瀬淡窓之詩
南山無月夜沈沈 南山 無月 夜沈沈
多少酒肴吟興深 多少の酒肴 吟興深し
誰語今宵十年夢 誰と語らん 今宵 十年の夢
屈陶故事淡窓心 屈陶の故事 淡窓の心
「十年夢」: 対汝空談十年夢 屈醒陶醉宴吾廬(廣瀬淡窓「九月十三夜有感示柳宗僊」)
淡窓が詠みし屈陶十三夜
<感想>
ここでの広瀬淡窓の詩は私は読んでいませんので、すみません。
兼山さんが注として添えていただいた部分を読みますと、広瀬淡窓が屈原や陶潜と一緒に月見の宴を開いたという空談をしたということですが、「故事」が何なのか、分かりませんでした。
ご教示いただけるとありがたいです。
承句の「多少」はいただいた原稿では「多小」となっていましたが、それでは意味が通じないので「多少」に直しました。
ただ、漢詩では杜牧の「多少樓臺烟雨中」(『江南春』)のように数が多いことを表す場合と、孟浩然の「花落知多少」(『春暁』)のように疑問詞で用いる場合が多く、そこから行くと、ここはたっぷりと酒を飲んだ雰囲気になりますね。
2016.11.13 by 桐山人