2011年の投稿詩 第271作は 桃羊野人 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-271

  病中偶成        

養痾煮粥復何求   痾を養ひ 粥を煮る 復た何をか求めん

自是悠悠閑可偸   自づから是れ悠々 閑偸しむべし

散歩西郊三里許   散歩する西郊三里許(ばか)り

帰鴉目送月如鉤   帰鴉目送すれば 月鉤の如し

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 十月初め、下痢を患い休暇を得た、その合間に


<感想>

 私も五年ほど前、下痢に苦しんで病院に行ったら、キャンピロバクターによる食中毒だと分かり、一週間ほど入院をしました。三月下旬、丁度年度末の一番忙しい時でしたので、困ったなぁと当初は思いましたが、まあ、病院であれこれ仕事をするわけにもいかないので、開き直って養生しました。
 病気になってようやく休暇が取れた、なんていうのは本来良くないのですが、気持ちの中では多少の解放感もありました。

 桃羊野人さんは、もうすっかり快復されたのでしょうか。
 詩を拝見すると、どうやら私と同じようなお気持ちかもしれないと思いますね。

 承句の「自是」は、恐らく「自適」も考慮した上での措辞かと思いますが、こちらの方が作者自身の心情が伝わるようで、良いですね。

 転句は「三里」は、「病中」というにはちょっと元気すぎませんか。いくらか快復してからのことだとする時間経過はここでは不要で、「半里」くらいが適当で、それで詩趣が変わるとは思いません。
 平仄の関係も含めて、「里」の字を句末に置けば、もう少し表現の自由度が上がると思います。

 結句は、詩題にもよく合っていると思います。



2011.12. 6                 by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第272作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-272

  立秋漫述        

時節雖秋暑不平   時節ハ秋ト雖モ 暑平ラカナラズ

慢慆茅屋閉柴荊   慢慆ニシテ 茅屋 柴荊ヲ閉ヅ

盆中白鷺含涼動   盆中 白鷺 涼ヲ含ンデ動キ

樹裡残蝉誘睡鳴   樹裡 残蝉 睡ヲ誘ウテ鳴ク

染筆賦詩惟苦役   筆ヲ染メテ 詩ヲ賦スハ 惟苦役

忘機酣臥又人生   機ヲ忘レテ 臥ヲ酣ニスルモ 又人生

五風十雨江村上   五風十雨 江村ノ上

日日拮据田圃耕   日日 拮据セン 田圃ノ耕

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 晴耕雨読の生活が希望、という声を最近よく聞くようになってきました。私も還暦に近づき、同じくらいの年齢の方たちの話を聞く機会が増えたからかもしれません。

 真瑞庵さんもてっきりそんな生活かと思い込んでいましたが、おやおや、面白い言葉を出してこられましたね。
 「五風十雨」は「五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降る」ということで、穏やかで安定した日が続き、作物がよく育ち、結果として平和で安定した生活が続くことを表します。
 となると、雨読の日がぐんと少ないわけですので、「染筆賦詩惟苦役」というのもうべなるかな、というところですね。
 しかし、逆に「詩がちっとも作れない」というところを楽しんでいることがよく伝わる詩ですね。



2011.12. 7                 by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第273作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-273

  秋夜偶作        

與父寡言年少時   父と 寡言 年少の時

與児同復不多辭   児と 同じく復た 辞多からず

四圍静寂坐無月   四囲 静寂 無月に坐す

秋夜三更酒一巵   秋夜 三更 酒一巵

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 職人堅気の父は寡言だった。子供の頃だけでなく、大人になってからも、父と交わした会話を思い出す事は多くない。
 血筋は争そえず、二児の父親となった自分も決して多言ではない。

 二人の娘が二人とも息子であったとしても、父と子は多くを語らず、酒を飲みながら、秋の夜長を過ごす事だろう。


     父と子と言葉少なき無月かな


<感想>

 よく言われる「昔の父親」のイメージそのままのお父様だったのですね。そして、兼山さんもまた。

 血筋と言うよりも、兼山さんが持っている「父親像」というのがあり、それはきっとご自身の体験の中で培われたもので、なかなかそこから抜け出せないのが人間なのだと思います。
 女性が父親に似通った雰囲気の男性を夫に選ぶ、男性が母親の面影の似通う女性を妻にする、そんな話をよく聞きますが、姿や顔の類似ではなく、家族という集団の中での父親のイメージ、母親のイメージが残っていて、家族集団の中でのそれぞれの役割にふさわしい人物を築きたいという思いが出ているのかもしれませんね。

 起句と承句の句頭を揃えることで対比的に表したのでしょうね。意図としては「児と辞多からず」なのでしょうが、間に「同復」を置いたために「児と同じ」としか読めません。
 「與」に代えて「対」とか「向」にして、下三字も「辞を多くせず」と読めば、起句と承句の主語が同じになり、本来の意図に近づくのではないでしょうか。



2011.12. 7                 by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第274作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-274

  仲秋名月        

李白擧杯成酒仙   李白 杯を擧げて 酒仙と成り

晁衡翹首望東天   晁衡 首を翹げて 東天を望む

扶桑山上仰明月   扶桑 山上 明月を仰ぐ

如此清光千萬年   清光 此の如し 千萬年

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 今年の十五夜は実に見事な名月であった。
 李白や仲麻呂が唐の長安で見た名月(*)が、今夜、(日本の)我が家の裏山に上っている。
 時空を越えた宇宙の不思議を改めて思う。


(参考)

   月下独酌  李白
  花間一壺酒
  独酌無相親
  挙杯邀明月
  対影成三人


   望月望ク  晁衡(阿倍仲麻呂)
  翹首望東天
  神馳奈良邊
  三笠山頂上
  想又皓月圓


<感想>

 何処の地でも見える月は同じで、しかも毎月同じ満ち欠けを繰り返し、同じ姿できちんと上がってくる。はるか遠く離れた人とも同じ月を見ることができる。不思議でもあり、また、美しさもありますから、地上の人間を魅了して「千万年」という感動はとても共感できますね。

 ただ、疑問なのは「中秋名月」を題として、詩中に引用してきたのが李白の『月下独酌』、これは春の詩なので違和感がありますね。
 もちろん、兼山さんの句だけで見れば「挙杯」の二字だけですから、直ちに『月下独酌』へとつながるわけではなく、一般的な李白像と読むことはできます。
 ひょっとして、春も含めることで、四季それぞれの月光としたかったか、それは題名から見てもあまり無いように思いますので、ここは千年の古人である李白を持ってくるのが狙いでしょう。
 しかし、李白の詩、ということでも、『静夜思』や『子夜呉歌』などが浮かびますし、杜甫の『月夜』も月を詠んだ名作ですね。『月下独酌』よりもこれらの詩を使う方が、読者には「清光千万年」の意図が分かりやすいと思います。

 また、阿倍仲麻呂に関しても、この『望月望郷』の詩は平仄も整っていませんので、仲麻呂の「天の原・・・」の歌を後代の人が中国語訳したものかと言われています。(西安興景宮にある「阿倍仲麻呂記念碑」の側面に彫ってある漢詩もこれでしたね。)
 阿倍仲麻呂に関連する詩ということならば良いですが、仲麻呂の漢詩とすると、疑問の声が出るでしょう。
 その時に承句でまるっと五字を引用するのはどうでしょうか。

 仲麻呂に関しては、望郷の想いは重要だと思いますので、そのあたりの語を入れてみてはどうでしょうか。



2011.12. 7                 by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第275作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-275

  再生日本        

惨禍故郷不可忘   惨禍の故郷 忘るべからず

傾心再興又何妨   傾心再興 又何ぞ妨げん

耐寒自作風雲斂   寒に耐へ自ら作さば 風雲斂まる

家国滄桑向艶陽   家国 滄桑 艶陽に向ふ

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 東日本大震災からすでに九ヶ月が過ぎました。
 復興への手助けを少しでもしたい、被災地の方々が一歩でも前に進む元気を持ってほしい、という思いを全国の方が持ってきました。
 政治の世界は何とも見苦しく、一致団結してまとまるよりも、とにかく混乱させようとしているとしか見えず、政治家の求めているものが国民とどれだけ乖離しているかを思い知らされる有り様だったのですが、それでも、未来に向けて希望を持ち続けたいという思いを忘れてはいません。
 これから寒さが厳しくなる中だからこそ、被災地の人に激励を送りたいという仲泉さんのお気持ちがよく分かります。

 起句は「四字目の孤平」になっていますので、「故郷」を「郷村」というところでしょうか。
 また、承句の「興」は、「おきる、たつ」の意味では平声ですので、「二四不同」が崩れています。こちらは「再建」としておきましょうか。

 ひとまず平仄を修正した形で「東日本大震災」のコーナーに転載させていただきます。




2011.12.10                  by 桐山人



仲泉さんからお返事をいただきました。

ご指導いただいた部分に留意して、作りなおしてみました。

  惨禍家郷非可忘   惨禍の家郷忘るべくも非ず
  傾心興復又何妨   傾心興復 又何ぞ妨げむ
  自彊不息災妖斂   自彊息まざれば 災妖斂り
  邦土滄桑向艶陽   邦土滄桑 艶陽に向かはむ

2011.12.19                by 仲泉






















 2011年の投稿詩 第276作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-276

  子供望        

愛息含情絶妙詞   

勉強特訓事堪為   

臥薪嘗胆十年業   

上進軒昂心自怡   

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 子供が(38歳)酔った勢いなのか。中学、高校での受験勉強の苦しかったことを吐露した。でも、ありがとうの言葉が返って来た。

<感想>

 二十年以上も昔のことでも、ご本人にとっては忘れられない思い出だったのですね。でも、苦しかった想い出を語れるのは、酔った勢いだけではなく、生意気な言い方を許していただけるならば、勉強することの意味やその価値について、しっかりと理解できるようになったからだと思います。

 そうした息子さんのお気持ちを詩の方でどこまで表現できるか、ですね。

 起句の「絶妙詞」は、承句以降のどこまでを指すのか、その範囲によって詩の雰囲気も変わってくるので、微妙なところですね。

 転句の「臥薪嘗胆」もやや苦しいところ。
 一般には「目的のために自身をむち打つように努力する」とされますので、受験勉強に対して「頑張った」とも取れますが、語源である「恨みを忘れないため」という要素を考えると勉強とは合いませんから、これは仕事を十年頑張ってきた、と取るべきでしょうね。
 ただ、息子さん自身は「臥薪嘗胆」と思っていたかどうか、もう少し違う言葉を探してみてもよいのではないでしょうか。

 結句は、「上進」は地位が上がったことでしょうが、結びの「心自怡」に直結して誤解を与えやすく、息子さんの思いを出すためにも別の言葉にした方が良いでしょう。



2011.12.16                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第277作は 洋宏 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-277

  門前雀        

探求珍宝操帆船   珍宝を探求して 帆船を操り

奔走東西五十年   東西に奔走して 五十年

既已成功在郷里   既に功成り 郷里に在り

門前雀囀枕書眠   門前 雀囀り 書を枕に眠る

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 広辞苑を繰っている時、たまたま”門前雀羅を張る”を見つけました。面白い言葉だと思いました。
 史記にある言葉で、意味は「尋ねてくる人が居ないので門前に雀を捕らえる網を張ることが出来るほど寂しい、寂れている」のたとえとあります。
 それを私なりに解釈、退職してやっとのんびりできた時を思って作りました。

<感想>

 仕事に情熱を燃やして五十年、その様子が前半に描かれているわけですが、「操帆船」はどこから思い描いたのでしょう。洋宏さんはそういうお仕事をしていらっしゃったのでしょうか。そうだとすると、面白い句になっていると思います。
 ただ、「操」は動詞用法では平字ですので、下三平になっています。平仄両用の「駆」あたりでしょうか。

 「門前雀羅」はよく「門前市をなす」と勘違いし、全く逆の「にぎわっている」という意味で誤用されることがありますが、洋宏さんがお書きになったように、「雀以外には誰も訪れが無い」というものです。
 転句の「成功」は「てがらをあげた」と解釈すると、結句の「門前雀羅」に行くのが苦しくなります。「功を成して故郷に帰ったにもかかわらず訪問客は誰も来ない」と逆接のニュアンスが入って、「枕書眠」もふてくされたように取れてしまいます。
 ここは「成功」を「仕事をやりとげる」くらいの意味に取っておかないといけないですね。



2011.12.17                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第278作は 桃羊野人 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-278

  晩秋感傷        

奈此人生不易求   いかんせん此の人生求むること易からず

寸心尚有背時流   寸心尚有るも時流に背く

虫声尽処帰心切   虫声尽くる処 帰心切なり

遠樹斜懸月一鉤   遠樹斜めに懸かる 月一鉤

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 今年も成すところ不十分なまま晩秋とはなりました。これからどうするか。そんな気分です。

<感想>

 晩秋に抱く思いは、やはり人生を考えることが多いですね。
 桃羊野人さんの書かれた思いもよく分かるのですが、転句の「帰心」だけは気になります。
 旅での詩というわけではありませんので、作者は故郷を遠く離れて暮らしているということでしょうが、前半からの流れで行くと、「希望も実現しないし、時流とも離れている」から「故郷に帰りたい」というつながりになってしまいます。
 辛いから故郷に逃げるような感じで、前半の思いが矮小化されてしまう気がします。「寂寥」くらいで、この時の思いを描いた方がまだ良いと思います。「心」の字も承句と重複していますので、変更してください。

 承句の「寸心」も、もう少しどんな心なのかを描いた方が良いですね。「恒心」「石心」「雄心」など、色々考えられます。大雑把に「心」ではなく、作者ご自身の気持ちが一番出るものを探すようにすると、表現がしっかりしてくるでしょう。



2011.12.17                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第279作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-279

  晩秋即事        

紅尽空林落葉情   紅尽き 空林 落葉の情

孤村影冷早寒生   孤村の影冷やかに 早寒生ず

風声瑟瑟秋将暮   風声瑟瑟 秋将に暮れんとす

誰慰残蛩露底鳴   誰か慰めん 残蛩露底に鳴くを

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 晩秋の趣を「落葉」「孤村」「早寒」「風声瑟瑟」「残蛩」「露底」などの素材を組み合わせて描こうという意図がよく伝わってきます。

 ただ、それらをつなぐ言葉に、やや不明瞭なものが入ります。

 例えば、起句の「落葉情」は、落葉を見ている私の心なのか、落葉のような心情なのか、どちらにしろ、とにかくどういう心情なのかはっきりせず、作者には分かっても読者には伝わらない表現です。

 また、承句の「孤村影冷」の「影」も、「孤村の影!!」で行き詰まります。「月」とか「樹木」とかの形の明解なものなら良いですが、村という規模の大きなものをまとめて「影」と言われても困ってしまいます。
 この句は、「影冷」「早寒」の重なりも気になります。


 その辺りを直されれば破綻の無い良い詩になると思います。



2011.12.19                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第280作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-280

  七尾城挽歌        

城頭日落又鐘声   城頭 日落ちて又鐘声

松韻伝今覧古情   松韻 今に伝ふ覧古の情

鬼哭啾啾傾斗柄   鬼哭 啾啾 斗柄傾ぐ

半輪秋月悼長征   半輪の秋月 長征を悼む

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 七尾は我が揺籃の地 六十年前、少年時代の私は放課後よく城山に上ったものです。
一将功なって英気颯爽、その陰に悲運に倒れた無数の草むす屍
幾度となく繰り返された戦争の不条理を思うにつけ、その生死の由って来る所以に心が沈むのであります。

<感想>

 七尾城と言うと、あの上杉謙信の「九月十三夜、陣中作」の舞台になった地ですね。
 「越山併得能州景」という句は、まさに七尾城落城を詠んだものです。

 芳原さんの生まれ故郷ということですので、思いも深く、詩情も味わいのあるものになっていますね。

 起句の末に「鐘声」があって、承句ですぐに「松韻」が来るのは、音声が続いてどうでしょうか。
 また、「伝今」「覧古情」を現代まで伝えているということでしょうが、分かりにくいので、「猶残」くらいが良いでしょう。

 転句の「斗柄」は北斗七星の柄の部分の三つ星、夜が深まったことを感じさせます。

 結句は、この句だけが過去の時制になっているようで、作者の視点が移動しています。全体を現代の眼から見続けた方が良いでしょうから、「悼長征」を検討されてはいかがでしょう。



2011.12.19                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第281作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-281

  遊書写円教寺(起二句一転格)        

書写名刹幽翠中   

三堂森列俗埃空   

坐軒聞雨生涼味   

青楓當目足山気   

暫忘塵縁有髪僧   

遊目可堪勝情慰   

          (上平声「一東」・去声「五未」の押韻)



<解説>

 換韻の六句形式は大変力量が要り、樂府の名残が濃厚で作りにくいものといわれてます。

拙詩の内容は六句に堪えられなく破綻しています。習作ですのでご容赦ください。

三四句は最初対句にしましたが
  坐軒聞雨生涼味
  依縁臨風足山気

合掌対になり、六句形式の場合破格になるのではないかと思い、やめました。

起二句一転格の用例は

    烏夜啼  李白(樂府題)
  黄雲城辺烏欲棲 (○平斉韻)
  帰飛唖亜枝上啼 (○平斉韻)
  機中織錦秦川女 (●仄語韻)
  碧紗如煙隔窓語 (●仄語韻)
  停梭悵然憶遠人 (平踏落)
  独宿弧房涙如雨 (●仄語韻)

起二句一転格は、最初の一解二句は破題、情景を描いて中心内容になっています。
後四句は複偶句韻

  (斉藤荊園博士 『漢詩入門』より)

<感想>

 李白の「烏夜啼」は唐詩選にも載っていますが、最後の句は「独宿房涙如雨」となっていますが、どうでしょうか。「弧房」ですと、意味がよく分からないので、入力ミスでしょうか。

 古詩になりますので、換韻ですし、平仄も乱す形で仕上げておられるのですね。
 二句目の「俗埃空」と五句目の「忘塵縁」が重なり、その分、後半の締まりがゆるく、冗長な感じがしますが、そのあたりはどうでしょう。



2011.12.21                  by 桐山人



謝斧さんからお返事をいただきました。

 「俗埃空」と「忘塵縁」については、先生の御教示通り、すこしくどいように感じます。
 詩意としては、「俗埃空」は書写山をいい、「忘塵縁」は自分の心情を叙述したつもりですが、軽疵になりますか。
推敲してみます。

斉藤荊園博士の解説は先生の謂われる通りです。

「独宿弧房涙如雨」は複写ミスをしました。
 私も知らなかったのですが、他のhpでしらべましたら「独宿弧房涙如雨」も有るようです。
「独宿弧房」は「独宿孤房」ならわかるのです。

 私も納得はいきませんが、「孤」も「弧」と同意に使われていたのでしょうか。

 因みに「有髪僧」は自分自身のことです。
 にわか在家になったという意味で、用例もあります。



2011.12.23              by 謝斧


 そうですね、「有髪僧」は作者自身のことは分かります。「忘塵縁」という作者の気持ちと同趣旨の言葉が前半に出ているために、後半の感動が薄くなってしまうと私は感じました。

 「弧房」については、他のhpがどなたか知りませんので失礼ながら、入力間違いではないでしょうか。
 李白の「烏夜亭」については、『唐詩選』では「独宿空房」、『全唐詩』では「独宿孤房」となっています。ちなみに、「弧房」で『全唐詩』を検索しますと、一例も出てきません。

 字が似ているので模写の段階で書き間違いもあるでしょうが、だからといって、「弧房」という意味の通じない言葉は使うべきではないですね。



2012. 1. 3             by 桐山人





















 2011年の投稿詩 第282作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-282

  列座菩提寺住職繼職奉告法要呈賀  
    菩提寺住職の継職奉告法要に列座して賀を呈す   

法燈未絶梵王宮   法燈未だ絶えず梵王宮

僧侶門徒念佛同   僧侶門徒 念仏同じうす

繡袴錦衣猊下儼   繡袴錦衣(しゅうこきんい)猊下(げいか)儼(おごそ)かに

真宗威徳繼承崇   真宗の威徳 継承崇(たか)し

          (上平声「一東」の押韻)




<解説>

 先代住職逝去により、平成23年5月、新たに眷属より若き住職を迎えお披露目の法要が行われた。
 既に4月ご内室との間に男子も誕生し、二重のご慶事に菩提寺のますますの繁栄を祈る。



<感想>

 転句の「猊下」は「高僧」を表す言葉ですので、転句は「繡袴錦衣のお坊様はおごそかだ」となりますね。
 「猊下」が誰を指すかですが、法要の主役である新住職と考えないと、作詩の意図からも外れてしまうでしょう。

 サラリーマン金太郎さんのお手紙では、「猊下令」として京都の本山からの任命書の意味を出すことも考えられたようです。継職奉告の法要という、儀式の記録的な意味を出そうという意図でしょうが、「繡袴錦衣」と「(令」はつながらず、句の意味が分かりにくくなりますね。
 「猊下儼」とすれば、眼前のご住職に対しての賞賛の表現となり、臨場感も高くなると思います。
 祝詩ですので良いとは思いますが、若い新住職に「猊下」と表すことが気になるようでしたら、私ならば「猊座儼」と法要全体を誉めておく形にするところでしょう。



2011.12.21                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第283作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-283

  秋夜海村        

秋宵醒醉歩埠頭,   良夜 酔ひを醒まさんと埠頭を歩き、

波靜溟海月華浮。   波は静かなる溟海 月華 浮かぶ。

幾望畫舫泊小港,   幾たびか画舫を望みて小港に泊まり、

巧結錦纜固係留。   巧みに錦纜を結びて固く係留せり。

嗚呼萬事雖得處,   嗚呼 万事 処を得ると雖も、

萬感失處似汎舟。   万感 処を失ふこと汎舟に似たり。

嗚呼望天茲有光,   嗚呼 天を望めば茲に光 有り、

今宵圓月君見不。   今宵の円月 君 見るや不や。

遍照四海猶皓皓,   遍く四海を照らして猶も皓々として、

遙看南方只悠悠。   遙に南方を看れば只だ悠々たり。


佳人嬌容窺明鏡,   佳人の嬌容を明鏡に窺ひ、

天上嫦娥胸裏映。   天上の嫦娥 胸裏に映る。

忽醒微醉在一室,   忽ち微酔を醒まして一室に在り、

慕情託文掲短檠。   慕情 文に託さんと短檠を掲ぐ。

寄信幾千既多言,   信を寄すること幾千にして既に言多きも、

案句幾百復新詠。   句を案ずること幾百 復た新たに詠ぜん。

幾耐夜寒身冷灰,   幾たびか夜寒に耐へて身は冷灰なるも、

一看盈月心清淨。   一たび盈月を看れば心は清浄たり。

曾聞月精盗丹液,   曾て聞く 月精の丹液を盗むを、

切望求此以重聘。   切に望みて 此を求むるに重聘を以てせんとす。

如今無術乞仙藥,   如今 仙薬を乞ふに術 無ければ、

須努向上努養病。   須らく向上に努めて養病に努めん。

君擬仙女在天上,   君を仙女の天上に在るに擬すは、

我因恋情與愛敬。   我の恋情と愛敬に由る。

以此情愛茲再誓,   此の情愛を以て茲に再び誓わん、

爲君幸福竭我命。   君の幸福の為に我が命を竭さんと。




<解説>

 七言古詩の換韻格です。前半と後半で韻を換えています。



「嫦娥」(じょうが)は月に住んでいるという天女で、不老不死の薬を盗んだという伝説があります。
別名を「月精(げっせい)」といいます。
 秋の夜に月を眺めて、夜に輝く満月、その明るさと、その中に嫦娥(じょうが)、あるいは月精(げっせい)という天女を恋人に重ね合わせて心の中に思い浮かべる、そういう情景を詠んでみました。
 

<感想>

 古詩の押韻は私も詳しくは無いのですが、到底格であれ換韻格であれ、韻を踏まない句の末字は韻字とは別の「声(平上去入)」にするのが決まりです。
 その観点から言えば、前半は「下平声十一尤」の押韻ですので、七句目の「光」が「下平声七陽」なのがひっかかります。
 また、後半の最後の出句の「誓」も、「去声二十四敬」の押韻に対して「去声八霽」ですので同声ですね。

 古詩ではとにかく押韻だけは注意せよ、と言われますが、それでも許容範囲に広さがあります。
 今回のこの二例が許容されるかどうかは分かりませんが、直せるならばそれに越したことはありませんね。

 内容としては、二解に分けていますが、前半は屋外、後半は室内という設定でしょう。
 換韻があると場面転換があるぞ、というシグナルになり、読み手にとっての理解の手助けになります。作者の作詩の意図が伝わる効果もあります。
 玄齋さんのこの詩でも、もう少し換韻をして変化を出してもよいかと思います。特に七言ですので、冗長な感じが強くなります。
 表現する面白さ、表現力や語彙力が充実してきた時期かと思いますので、どんどんチャレンジをしていくのが良いと思います。
がんばってください。



2011.12.26                  by 桐山人



玄齋さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、ご指導ありがとうございます。

 押韻は韻を踏む句だけにしか気をつけていませんでした。
韻を踏まない句もきちんと考えていきます。

 「嗚呼望天茲有光,   嗚呼 天を望めば茲に光 有り、」は、
 「嗚呼望天素光在,   嗚呼 天を望めば 素光 在り、」

 「以此情愛茲再誓,   此の情愛を以て茲に再び誓わん、」は
 「以此情愛茲新盟,   此の情愛を以て茲に新たに盟(ちか)わん、」とします。



2011.12.27               by 玄齋


謝斧さんから感想をいただきました。

 七言古詩を拝見しました。
 七言古詩改韻格は新しい詩形なので、内容的には古調を帯びるような作詩法は要求されず、自由に作れますので、作りやすい詩形かと思います。

 貴君の七言古詩は声律的に破綻しているように思えます。

 私見ですが、改韻格は、短い句数を平韻仄韻の繰り返しで、調子の平板になるのを回避したものと考えています。
 一解の句数が長くなると一韻到底格のようになり、調子が単調になり、各句中で工夫をしなければ為りません。

 たとえば四字目を仄にして五字目を平にするか、あるいは四仄三平にするかです。     ×××●○×◎ 四仄五平    ●●●●○○◎ 四仄三平

 古詩の詳しい解説は 斉藤荊園博士 『漢詩入門』あります。一度お読みになってください。
 他に、森槐南の古詩平仄法(図書館で借りることができます)・宮崎鉄城(図書館にもなく承風先生にコピしたものをもらいました)などがあります。
 四仄五平は太刀掛呂山先生の書に詳しく解説されています。



2011.12.28                  by 謝斧





















 2011年の投稿詩 第284作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-284

  我人生        

古稀間近愧無夢   古稀間近く 夢無きを愧づるも

子孫軒昂度恵風   子孫軒昂たり 恵風度る

惟喜閑来詩興湧   惟喜ぶ 閑来りて 詩興湧くを

人生回顧意何窮   人生の回顧 意何ぞ窮まらん

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 古稀近くになっても夢が持てない人生を少々不満も有るも、孫らは元気でそれぞれの道を歩んでいる。
 暇も出来、詩興も湧き、スポーツに汗を流している。
 でも、私の人生はどうだったのか、という意は尽きることがありません

<感想>

 南芳さんの真摯に人生に向き合う姿勢が感じられますね。

 ただ、詩としては、全体の構成をまず考える必要があります。
 作者が「良い」と思っていることと「物足りない」と思っていることに分けてみると、承句と転句は「良い」こと、起句と結句は「物足りない」こと。
 そうすると、作者の気持ちは、「物足りない。けれど、良いこともある。もう一つ良いこともある。けれど物足りない」という形で、逆接が二度使われている形です。
 これは日常の会話でもそうですが、真面目に聞いてくれればくれるほど、「結局、どっちなの?」と相手を混乱させてしまいます。作者の思考の流れをそのまま描くのではなく、一旦整理して、
 @前半に「良い」こと、後半に「物足りない」とする(この場合は現状に不満がある)
 A前半に「物足りない」こと、後半に「良い」こととする(こちらは、現状に満足している)
のどちらかを選ぶ必要があるでしょう。
 「満足はしているけれども、物足りない面もある」、という微妙なお気持ちは分かるのですが、その微妙さをストレートに要求されても読者は混乱します。句を入れ替えた上で、どう微妙さを感じさせるかが作詩の工夫するところです。

 用語の点でも、今回の詩は、思ったことがそのまま言葉になっている感じがあります。
 例えば、起句の「夢」は、現代の日本での用例、つまり「希望」とか「志」というような意味で使われていると思います。漢詩では「眠った時に見る夢」として使うのが通例です。

 この用法のことでは、以前「桐山堂」のコーナーで、「夢は希望?」というテーマで数回にわたって、Y.Tさんや謝斧さん、鮟鱇さんが話し合われましたので、是非ご覧ください。
 今回気になっているのは、和習かどうか、ではなく、「古稀近くになってもが持てない」と書かれている「夢」とは何なのか、ということです。年を取ったのに持っていないことが恥ずかしい、逆に言うと、年を取れば持つのが当然だと思われる「夢」、考えるとわからなくなります。孔子の言った「天命」のようなものでしょうか。
 南芳さんの思っている内容と「夢」という言葉との間にずれがあり、そのずれをそのまま句に持ち込んでしまった、そんな印象です。「古稀近くになってもまだ持てないもの」というイメージを言葉によって定着させる、別の言葉を探してみることが良いでしょう。

 転句で「惟喜」とあると「閑来詩興湧」だけが喜ばしいわけで、となると承句の「子孫軒昂」は喜ばしいことではなかったのか、となってしまいます。
 「惟」の字を替えれば解消することで、この一字が不用意だと言われても仕方がないでしょう。

 結句の「意何窮」は「満足できない」という意図かと思いますが、この言葉で通じるか疑問です。「意が窮す」と考えれば「心が行き詰まりになる」、それを反語で打ち消せば「心がどこまでも広がっていく」という解放感になるわけで、「満たされない」という気持ちとは異なると思います。
 何か用例を見られたのでしょうか。私はこの言葉は読み辛いと思いました。

 読者の立場で読んでみる、それが詩を見直す上で大切ですし、そこで推敲することが自己の姿や思いを客観的に見つめ直すことにもつながります。
 詩を創ることは、そういう楽しさ(苦しさ?)でもありますから、頑張って推敲してください。



2011.12.27                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第285作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。

作品番号 2011-285

  賀奥州平泉中尊寺之世界遺産登録認定        

佛都千載襲眞宗   仏都千載 真宗をうけつ

陸續賽人祥氣恭   陸續たる賽人 祥気うやうや

齊仰須弥壇上儼   ひとしく仰ぐ須弥壇上おごそかに

餘韻傳得中尊鐘   餘韻伝へ得たり 中尊の鐘

          (上平声「二冬」の押韻)



<解説>

 平成23年6月26日、中尊寺が世界遺産認定となりました。長い運動がようやく実を結び、地元の方は特に喜びひとしおと存じ、慶祝漢詩を呈します。
 なお結句下三字が平字続きになっています。鈴木先生に妙案は、おありでしょうか?


世界遺産に 中尊寺、観光客でにぎわう 」(日テレNEWS24)

関山 中尊寺



<感想>

 中尊寺は随分昔、もう三十年近く前に行ったきり、最近の様子もわかりませんが、鬱蒼とした木々に囲まれた鞘堂の厳かさをよく覚えています。
 もちろん、まだ世界文化遺産というようなことも無かった頃ですので、境内はそれほど人が多いわけではなく、落ち着いた雰囲気で参観できました。毛越寺でも、確か時刻が遅かったからでしょうが、あの庭園を独り占めするという贅沢を味わったのは、貴重な思い出ですね。

 現在はサラリーマン金太郎さんが書かれたように、「賽人」「陸續」という状態なんでしょうね。

 さて、サラリーマン金太郎さんに課題を出されましたが、「妙案」と言われると難しいですね。
 その結句ですが、下三平は確かに気になります。下の方の平声の多さとバランスを取るためでしょうか、二字目が仄声でもありますので、ここも直しましょう。
 そうやって考えると、転句の「斉仰」も今の形ですとやや間延びした感がありますので、「転句もついでに」と欲が出てしまいますが、少し考えてみましょうか。

 「中尊」の名前は残し、韻字はそのままを前提に考えますと、入るのは結句の上二字、あるいは転句の中二字が位置としては候補です。でも、転句は「須弥壇」がせっかく入っていますので、やはり、結句の頭に置く方向になりますね。
 「中尊」に続く中二字は、そのまま「寺」を用いても良いですし、寺を表す言葉にしても良いでしょう。

 ということで、私でしたら「中尊浄界響霊鐘」でしょうか。
 転句はせっかくの金色堂ですので、色を出して「金色須弥壇上儼」あるいは「斉仰須弥金色像」ということでいかがでしょうか。

  佛都千載襲眞宗
  陸續賽人祥氣恭
  金色須弥壇上儼
  中尊浄界響霊鐘

 



2011.12.28                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第286作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-286

  賀松尾新調大屋臺~靈入魂式        

~輿新調迓齋庭   神輿新調して 斎庭ゆにわむか

金碧朱欄籠地靈   金碧朱欄 地霊を籠む

山車共擔喚聲裏   山車さんしゃ共に坦いで喚声のうち

鉦鼓鼕鼕燭影熒   鉦鼓 鼕鼕とうとう 燭影かがや

          (下平声「九青」の押韻・拗体)



<解説>

 平成21年10月、私が奉仕している松尾神社の屋台(だんじり)が完成し、産土神(地霊)を松尾神社より請い招き、屋台に御霊をお遷しする神事や、お披露目の式典、もちまき、試しがきが行われました。
 その記念の慶祝漢詩です。

 詩語として「神輿」と「山車」は、共に新調松尾大屋台です。


   「入魂式の模様・拙ホームページ・ブログ

<感想>

 華やかさとめでたさがよく表れていると思います。浮き浮きした気持ちが伝わってきます。

 起句の「調」は「ととのえる」の意味で平声ではないでしょうか。「新造」でも山車屋台ならば良いと思います。

 承句は起句から流して、「神輿」「金碧朱欄」であり、「地霊」を籠めたのも「神輿」だと理解します。

 後半はにぎやかで良いのですが、「喚声」が響き、「鉦鼓鼕鼕」と重なるのは分かりますが、この部分がひとまとめになると、ただでさえ時間的にもつながりの弱い「燭影熒」が浮いてしまいます。「音」を転句でひとまとまりにする、のも考えられます。

 と言うのは、この詩はお書きになっているように拗体で、粘法が破られていることと関係します。
 それぞれの句が律句(二四不同や二六対の平仄が守られている句)であれば、拗体という形で許容されるわけですが、こうした記念の詩やお祝いの詩、贈答の詩など、漢詩にそれほど詳しくない人でも目にする可能性がある詩については、私個人としては、規則に厳格であるべきだと思っています。
 サラリーマン金太郎さんの基準では何も問題ないことなのに、とご不満もあるかもしれませんが、以下は参考までにということでお読み下さい。

 詩情を優先させるから絶対に無理、というなら仕方ありませんが、今回で言えば、転句は上四字の語順を「共擔山車」としても意味は同じですし、結句も「燭影」にこだわらなければ同じような入れ替えで行けるでしょう。
 先ほど言いましたように、転句に「音」を揃えるのが構成的にも良いと思いますが、その場合は、結句の上四字を持ってきて「鉦鼓鼕鼕喚聲裏」とする形です。
 そうなれば、結句は「山車共擔燭光熒」として、一応は収まるわけで、細かい語句の修正はそこからでも良いと思います。



2011.12.28                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第287作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-287

  探紅葉尋湖東三山        

細雨時来濡磴道   細雨 時に来たって 磴道を濡らし

楓林半染接僧房   楓林 半ば染まりて 僧房に接す

湖東三寺静閑裡   湖東の三寺 静閑の裡

何処梵鐘余韻長   何処の梵鐘ぞ 余韻の長きは

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 「湖東三山」は、百済寺、金剛輪寺、西明寺を指しますが、紅葉は特にみごとですね。

 真瑞庵さんは「楓林半染」とのことですので、時期としては少し早かったのでしょうか。
 しかも、雨模様というわけですが、でも、その分だけ観光客も少なかったことが想像され、詩の後半の静かな落ち着きへと自然に導かれます。
 結句の鐘の音もよく雰囲気を高めていて効果的だと思います。

 転句に固有名詞を置き、結句では聴覚を出して変化を持たせるということで、構成も整った佳詩ですが、気になると言えば、結句の「何処」でしょうか。
 承句の「僧房」、転句の「湖東三寺」と来れば、作者は寺に居ると誰もが思いますが、まるで無関係のように「どこの寺の鐘か?」と書かれると、今どこに居るのかが分からなくなります。
 転句がせめて「三」となれば、山を眺める形で作者の立ち位置が寺から離れて理解しやすくなるので、その方向で平仄を合わせてみてはいかがでしょうか。
 あるいは、結句の「梵鐘」だけでも、例えば「暮鐘」として「寺」を表す「梵」を削ると変化が生きると思います。
 



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第288作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-288

  冬日小遊        

滿山正是入初冬   滿山 正に是れ 初冬に入り

落寞林間客恨重   落寞たる 林間 客恨重なる

七十億餘人不語   七十億餘 人 語らず

悠然獨歩尚留蹤   悠然 獨歩 尚 蹤を留む

          (上平声「二冬」の押韻)



    冬木立歩けば木靈響くなり


<感想>

 世界の人口が七十億を超えたのは十一月一日でしたね。三十年程前には五十億人だと言っていた気がしますので、随分とスピードが速くなっているのでしょう。
 その世界の人口を相手にして、「七十億餘人不語」と持ってきたのは、まさに「世界中の誰の声も聞こえない」というわけで、まるで李白の詩を読んでいるようなスケールの大きさがあります。
 しかも、誰の声も聞こえないと言いながら、その静寂の向こうに「世界」を意識しているわけですから、隠棲を決め込んだわけではない現実感が感じられます。
 兼山さんの余韻の深さが感じられる詩ですね。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第289作は 青山 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-289

  思震災復興     震災復興に思ふ   

光陰如矢過   光陰 矢の如く過ぐ

原發未看功   原発 未だ功を看ず

期待平安拓   期待せん 平安の拓くを

歸ク再起風   郷に帰る 再起の風

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 3月11日の大震災、それでも時の過ぎるのは早い。原発の影響で故郷をはなれ、何時のなったら郷に帰れるのか、再び立ち上がる再起の声が聞こえる。

<感想>

 被災地の方々にとって、この九ヶ月の時の流れは速かったのか、遅かったのか。
 ただ、復興という観点だけで考えれば、政治の側からの実行力は明らかに遅々としたものに感じられることと思います。
 そうした気持ちが「未看功」に凝縮されているのだと思います。

 結句は、「帰郷」がまず「再起」につながることを端的に語っていて、五言句の短い中で意味の深いものになっていますね。




2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第290作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-290

  秋夢擅韵事        

夢逢仙女擅瓊姿,   夢に逢ふ仙女 瓊姿を擅(ほしいまま)にし,

搖蕩花唇號繆斯。   花の唇を搖蕩(ゆら)して繆斯(ミューズ)と號す。

對飲離亭立霞洞,   對飲する離亭 霞洞に立ち,

共汲硯水涌瑤池。   共に汲む硯水 瑤池に涌く。

眉開眼笑磨香墨,   眉は開き眼は笑って香墨を磨き,

口誦心惟詠律詩。   口に誦み心に惟(おも)って律詩を詠む。

乘興飛聲忘歸處,   興に乘り聲を飛ばして歸るを忘るる處(ところ),

秋宵酒美月明時。   秋宵 酒美(うま)く月明の時。
          (中華新韻「十三支」平声の押韻)





<解説>

「離亭」: はなれ。
「硯水」: 硯に使う水。
「霞洞・瑤池」: ともに仙人のいるところ。


 最近私はこれを詩に詠もうと思うことがあまりありません。
 私の作詩数、十五年で三万五千を超えようとしていますが、その濫作に詩想がなかなか浮かばない原因があるのかも知れません。

 しかし、濫作のおかげで平仄と押韻の能力は鍛えられ、経験に言葉を寄り添わすのではなく、平仄と押韻の必然的な働きによって、言葉が生み出す経験、とでも呼ぶべき作詩体験ができるようになりました。
 詩の言葉は日常の言葉と違って、個人の経験をなぞるためにあるのではなく、個人の詩的経験を生みだすためにある、そのようにも思います。
 この考え、どれだけ普遍性があるかわかりませんが、そう考えることで、詩の作り方は変わります。詩的感興を覚えたからそれを詩にするのではなく、詩を作ることで詩的感興を覚えることができるようになるからです。詩的感興を体験したものとしてではなく、創造するものとして詩を作ることになるからです。

 さて、上記を拙作に即していささか申し述べるなら、拙作は 「口」という語を使って律詩を作ろう、ということを動機としています。「口」という語に何らかの感興があったわけではなく、「口」という語を使って私が詩を作ることは、一個の純粋な偶然です。
 そして口から「口誦心惟」という四字成語を選んだのは、その成語が平仄に適っていて、詩句の一部に使えるという一個の必然によります。
 また、「口誦心惟」から、「口誦心惟詠律詩」という句が生まれたのも、意味が通り、平仄に適っている、という一個の必然。
 「口誦心惟」から「眉開眼笑」を思いつくのも、律詩を作ろうという意思のもとで、対句の規則と平仄の規則が生む一個の必然です。「詠律詩」に対し「磨香墨」も、然り。
 そして、「墨」から「硯水」連想、「水」と韵字の「詩」から「池」、池から「瑤池」、「瑤池」から「霞洞」という言葉が、言葉の連鎖として頭に浮かべば、「詩」という語が最初に韵字となったから「繆斯(ミューズ)」も登場することになります。
 ここまで来れば、詩全体のストーリーが見えてきます。詩全体のストーリー、すなわち一個の詩的経験がそこに生まれることになります。

 詩的感興はいたるところにあります。そこで、自らの経験を詩に作ることは、それはそれでよいと思います。
 しかし、自ら見たり聞いたり思ったりした経験だけが詩の源泉だとは思わない方がよいと思います。日本の詩歌は規律が緩く、言葉が言葉を生む機能、あるいはシステムが詩歌の構造に組み込まれていませんが、漢詩には、言葉が詩的経験を創造するに到るシステム、あるいは方程式があります。それを生かすことも、漢詩作りの妙味だと思うからです。



<感想>

 三万五千首も作られた鮟鱇さんの境地はなかなか窺い知ることはできませんが、詩語が詩情を生むというのはよく理解できます。

 過激に捉えすぎると、詩想がないまま詩を作るということで、機械的、テクニカルな作詩をイメージしてしまいます。しかし、本当に機械的なものであったら、鮟鱇さんの詩にこんなに共感したり、面白く感じることはないですね。

 言葉を先に並べ、そこで作られた場面で詩情を構築するというのは、実際のこととしては、「詩を読む」ことに通じていると思います。
 古典の詩作品を読んだりする時、あるいはもっと簡単に言えば、私が皆さんの投稿詩を読む時、ほとんどの場合、あらかじめ何らかの思いがあって読むわけではありません。しかし、読むことで、作者の心情に共感を覚え、私自身の中に擬似的ではあるが、同じような詩的な体験が生まれます。
 共感できる作品に沢山触れた人ほど、詩的な体験も多いというわけですが、それは別の話で、鮟鱇さんのお話に戻って、極めて簡単に言ってしまえば、鮟鱇さんが仰るような、自分で言葉を並べて場面を構築し、そこから詩情を生み出すこともあれば、読書のように、他人の並べた言葉で作られた場面から詩想を掴み取ることもあるわけです。

 書き出した時は、ほんの些細な思いでしかなかったけれど、書き進めて行くにつれて、自分の気持ちや考えが整理され発展していく経験、自分の感情までもがコントロールされ昇華されていく経験は、恐らく実際に創作に携わった方なら誰でも持っているでしょう。
 同じような整理発展、昇華のプロセスは、古人や他人の作品を読むという場でも同様に起こっていることだという風に、私は理解をしました。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第291作は 謝斧 さんから、連作の作品です。

 僕輩少小 読孔孟之書大喜 而後 学儒 非才即多難解
 本知夏域起儒教 孟軻亦生稟於夏域 孟軻説惻隠之心
  曰書、「孺子将入井 雖盗跖助孺子 此人情也」。
 今人孟軻裔孫不能救 不似盗跖 為作連作七絶三首 書憤

作品番号 2011-291

  書憤其之一        

女児瀕死不堪悲   女児死に瀕しては悲みに堪へず

傍者等関無恵慈   傍者等関にして 慈恵無く

惻隠仁心棄如土   惻隠の仁心 棄てること土の如し

徒労子與足嘆咨   徒労たり子與 嘆咨足(おお)し

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 謝斧さんの連作は、十月下旬に中国の広東省で起きた「幼女ひき逃げ事件」を題材にしたものですね。

 二歳の女の子が車に轢かれ、瀕死の状態になっている姿を、通行人が皆、見て見ぬふりをして無視し続けたという事件です。監視カメラには、通行人は十八人居たそうですが、誰も少女に駆け寄ろうとしなかった様子が記録されていて、大きなショックを受けました。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第292作も 謝斧 さんからの連作の作品です。
 

作品番号 2011-292

  書憤其之二        

小齋書憤怒難禁   小齋に憤を書して怒り禁へ難し

幼女轢車傷害深   幼女車に轢かれて 傷害深し

路上人過誰得救   路上人過ぎるも誰が救ひ得ん

孟軻徒説四端心   孟軻徒に説く 四端の心

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 孟子は「人の本性は善であり、それは水が高いところから低いところに流れるように自然なもの」と考え、「性善説」を主張しました。
 誰もが「仁・義・礼・智」の心を本来持っており、それが表れるきっかけを「四端(惻隠、羞悪、辞譲、是非)」と呼びました。

 井戸に落ちそうな子どもがいれば、誰でも助けようと自然に思う、それが「惻隠之情」です。
 相手が決して否定できない例を挙げて、そこから自説へと導いていくのが孟子の論理展開の常ですので、この「惻隠之情」も孟子としては、まず百パーセント誰でも納得する話だと自信のあったことでしょう。
 私も授業で孟子を教える時には、生徒は当然同意するものと考えて話を進めます。

 その大前提を疑わうような話が、孟子の生まれた中国で起きたということが、謝斧さんの「憤」につながっているのですね。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第293作は 謝斧 さんからの連作の作品です。
 

作品番号 2011-293

  書憤其之三        

昨今夏域義方衰   昨今の夏域 義方衰へ

如此無情吾耳疑   此の如き無情に吾耳を疑はん

孔孟奇書何益乎   孔孟の奇書 何んの益か

女児竟死涙空垂   女児竟に死して涙空く垂る

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 「夏」は中国最古の王朝とされていますので、「夏域」も「中国」と広い意味で使われているのでしょうか。

 謝斧さんの連作三首を通して読みますと、事件の全体の概容、詳しい内容、そして「書憤」たるべき作者の感懐という展開で、「嘆き」「憤り」への強い共感が生まれます。
 と同時に、「とまどい」というべきか、自分自身の心への問いかけも求められます。

 孟子は性善説で、誰でも「惻隠之情」を持っているとしつつも、それは「意識して」育てていかなくてはならないとも説いています。さもなければ、「放心」、すなわち本来の心を見失い、しかも探そうともしない状態になることを危惧するわけですが、現代という時代そのものが「放心」になっていないか、考えさせられます。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第294作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-294

  辛卯立秋鑑賞木下大雑技團松山公演        

客誘秋風向廣園   客は秋風に誘はれ 広園に向かふ

翩翻旗幟管弦喧   翩翻へんぽんたり 旗幟きし 管弦かまびす

鞦韆渡宙咸輕妙   しゅうせん宙を渡り ことごとく軽妙

猛獣藝人琢磨魂   猛獣藝人 琢磨の魂

          (上平声「十三元」の押韻)



<解説>

 平成23年(2011)8月12日(金)、松山城三之丸堀之内城山公園にて木下大サーカスを鑑賞しました。
 数年前にも来松されましたが、その時は都合が合わず、今回は小学生の時以来実に三十五年ぶりの鑑賞でした。
 二時間ほどの公演でしたが、横板を渡しただけの簡素な座席は中年にはきつく、お尻が痛かったです。小学生のころは何ともなく無心に妙技に見入っていた記憶だけなのに、人間を長いことやっているといろいろ雑念や体力の衰えを感じるものですね。

 内容はもちろん素晴らしかったです。それにしても猛暑の夏休み期間中、大勢の愛媛県民が訪れましたが、長期にわたり連日身体の鍛錬や気迫の持続、ライオンや象や縞馬、麒麟など動物の飼育管理など、関係者各位のプロ根性には頭が下がりました。


「鞦韆渡宙」: サーカスの花形といえば、やっぱり空中ブランコ

関連サイト

   「木下サーカス公式サイト【トップページ】


<感想>

 サーカスという言葉を聞くだけで、何となく懐かしい気持ちになるのは、子供の頃の思い出と誰もがつながっているのでしょう。
 私の住んでいる町でも、まだほんの小さな頃にサーカスが駅前の空き地にテントを張っていたのを覚えています。

 そうしたワクワク感をどう表すか、また空中ブランコやらピエロやら、そうしたサーカス独特のものを表現しないわけにはいかないし、そこをどうするかが作詩のポイントですね。

 起句は皆がサーカスに向かう場面ですが、「秋風」は季節を言うために入れたのでしょうね。ただ、「客」は「旅人」というイメージが強く、そこに秋風ですので、ますます寂しげな趣がでているように感じます。
 人がわんさかと押し寄せてにぎわっている、千客万来というような陽気な感じが欲しいところですので、せめて「秋天」としたいところです。

 結句は四字目の孤平、また六字目の「磨」は「みがく」の意味では平声です。意味的には「藝人」はわかりますが、「猛獣」にも「琢磨魂」は苦しいかな、という気がしますので、結句は再考されるのが良いと思います。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第295作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-295

  新秋坐赤穂城大手隅櫓有感        

一天過雨洗新秋   一天の過雨 新秋を洗ふ

曾誓忠誠城閣樓   曽て忠誠を誓ひし城閣の楼

何耐藩侯千古恨   何ぞ耐へん 藩侯千古の恨

辛酸同志得能酬   辛酸同志 能く酬い得たり

          (下平声「十一尤」の押韻)

<感想>

 サラリーマン金太郎さんの忠臣蔵シリーズの第二弾ですね。

 起句は爽やかな新秋の日を表していて、すっきりした句です。
 そのまま情景が続くのかと思ったら、承句で一気に本題へと入ります。ここは、赤穂城の様子を描いて、現在の様子で前半は揃えた方が良いでしょう。内容的にも、「曾誓忠誠」は結句と重なる気がしますし。
 あと、「城閣」「楼」はあきらかに意味が重なっていますので、下三字も含めて、承句全体を検討されてはどうでしょう。

 転句は「千古恨」は表現が違う気がします。「遠い昔」でも変だし、「いつまでも続く」というのも、恨みを晴らしたわけですから妙です。恨みの内容や、程度を表す言葉の方が良いでしょう。

 結句は「辛酸」「同志」のつながりがやや気になりますが、言いたい意味はよく分かる、これは忠臣蔵を知っているからかもしれませんね。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第296作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-296

  偶成・二十六韻        

早朝求爽気,   早朝の爽気を求め,

未明醒安眠。   未明 安眠より醒む。

一刻勤學時,   一刻 学に勤むるの時,

攜書坐燈邊。   書を携へて燈辺に坐す。

詩歌作幾首,   詩歌 幾首をか作り,

箴言写何篇。   箴言 何篇をか写す。

夢中似三昧,   夢中なること三昧に似たるも,

宿志保幾年。   宿志 幾年をか保たん。

羞未得寸職,   未だ寸職を得ざるを羞じ,

憶此窮愁牽。   此を憶へば 窮愁 牽かる。

愁緒惜寸陰,   愁緒に寸陰を惜しみ,

只管尋先賢。   只管に先賢に尋ねんとす。

論語一讀罷,   論語 一読して罷み,

志學忽動顛。   志学 忽ち動顛す。

韓非泥法術,   韓非の法術に泥み,

老荘溺三玄。   老荘の三玄に溺る。

機心常盈襟,   機心 常に襟に盈ち,

妄想欲窺仙。   妄想 仙を窺わんと欲す。

於佛亦不異,   仏に於ても亦た異ならず,

唯覺煩悩纏。   唯だ煩悩の纏わるを覚ゆ。

不解一切空,   一切の空なるを解せず,

万事怖如烟。   万事 烟の如くなるを怖る。

公案一無得,   公案 一つも得る無きも,

漫弄野孤禅。   漫りに野孤禅を弄す。

浅學如此拙,   浅学なること此の如く拙なるも,

解迷先儒編。   迷ひを先儒の編に解けり。

終生苦學人,   終生 苦学の人,

宋儒程伊川。   宋儒の程伊川なり。

求道却作敵,   道を求むれば却って敵を作り,

多敵志學堅。   敵多きも学を志すこと堅なり。

七十窮途死,   七十 窮途に死し,

可慕不恨天。   天を恨まざるを慕ふべし。

易理足持節,   易理 節を持するに足りて,

志著易傳宣。   志を易伝を著して宣ぶ。

學傳已忘憂,   易(伝か?)を学べば已に憂ひを忘れ,

終日得乾乾。   終日 乾乾たるを得たり。

道心僅知得,   道心 僅に知るを得て,

存心欲無遷。   心を存して遷ること無からんと欲す。

呻吟病躯裏,   呻吟する病躯の裏,

佳人在眼前。   佳人 眼前に在り。

慕情恒念頭,   慕情 恒に念頭,

戀戀其嬋妍。   其の嬋妍たるに恋々たり。

喜迎相思時,   喜びて迎える相思の時,

應深此奇縁。   応に此の奇縁を深めるべし。

詠詩境地新,   詩を詠ずれば境地 新たに,

慈愛胸裡鮮。   慈愛 胸裡に鮮やかなり。

道心有衣食,   道心に衣食有り,

此語俄豁然。   此の語 俄かに豁然たり。

勤學想人後,   学に勤めて人を想ふの後,

憂鬱漸少痊。   憂鬱 漸く少しく痊ゆ。

願是更盡心,   願はくは是れ更に心を尽くして,

養生両健全。   生を養ひて両つながら健全ならんことを。

          (下平声「一先」の押韻)





<解説>

 こんどは平声の韻の一韻到底格で五言古詩を作りました。
これからもきちんと頑張っていこうという気持ちを詠んでみました。
これからも長い古詩に挑戦していきたいなと思います。


「程伊川」: 宋の時代の儒学者の程頤(ていい)のことです。
    伊川(いせん)は彼の敬称です。兄の程(ていこう)とともに二程(にてい)と呼ばれ、
    後の朱子学の大成者の朱熹に大きな影響を与えました。
    そのために朱子学の別名を「程朱(ていしゅ)の学」と呼ぶこともあります。

「道心有衣食」: 天台宗の開祖である最澄の言葉です。
    正確には「道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし」というものです。
    道理を求めて真剣に修行をしていれば、他の身の回りのことは何とかなる、という意味の言葉です。

<感想>

 古詩の韻字以外の句の平仄違えについては、先回の「秋夜海村」で申し上げましたので、省きます。

 二十六韻の一韻到底格、計五十二句あるわけですが、内容的には三から四の解(段落)に分けられると思います。
 後半に「佳人」が登場するまでは作者の内面が続きます。
 玄齋さんの日頃の思いがよく分かり、興味深いのですが、画面にあまり変化がありません。五言ですのでリズム良くは読めますが、やはり長さを感じます。
 一韻到底格でも、場面の転換で場所や時間などに動きを出すと、随分変わると思います。



2011.12.31                  by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

 詩の中で一番洗煉陶冶された 詩型は五古でしょうか、作詩は七古一韻到底格と同じく大変難しく、習作ではつくりますが、僕輩等は容易に筆を下せません。
 内容は蒼古逎勁でなければならないとよくいわれます。措辞にも古意を含んだものを用いなければならないとおもいます。生硬な詩句は用いてはなりません。
 たとえば「羞未得寸職」は妥かではありません。羞未得寸廩(僅かな俸禄)か羞未得恒産(孟子)等にすべきとおもいます。
 古詩詩作は改韻格から作るべきだと思います。
 呂師も古詩の二解を作るべきでこれも案外難しいものだといってました。



2012. 1. 7               by 謝斧























 2011年の投稿詩 第297作は 青山 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-297

  晩秋閑居        

秋光八岳早寒生   秋光の八ヶ岳 早寒生ず

颯颯西風落葉聲   颯々たり西風 落葉の声

白露晶晶知晩節   白露 晶々として 晩節を知る

庭陰可惜菊花情   庭陰 可惜 菊花の情

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 遠景から近景へと視点を移し、立体感のある詩になっていますね。

 起句の「早寒」「落葉」がやや季節感にズレがあるかもと思いますが、八ヶ岳でしたら「さもありなん」と納得しました。
 そういう意味では、題名は「閑居」よりも「山居」の方が良いかと思います。

 結句は「可惜」と読み下していますので、「惜しむべし」と読むのではなく「あたら」と読もうという意図でしょうか。
 この場合には「(もったいないと思うくらい)素晴らしい」という意味でしょうね。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第298作は 茜峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-298

  遊南米山     南米の山に遊ぶ   

岩壁英華伐   岩壁に 英華は伐(ほこ)る

深遠紺碧穹   深遠なる 紺碧の穹

星楡煌雪嶺   星楡は 雪嶺に煌(かがや)く

想念昔蹤中   想念す 昔蹤の中(うち)

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 六月に 南米アンデスのブランカ山群をトレッキングした。
 4500mの岩壁にはリマリマという華麗な花が咲き誇っていた。
 乾季で深く黒味を帯びたような空の色に吸い込まれるようだった。
 夜は南十字星や他の星々が6000mの雪山の上に輝いていた。
 この道はプレインカ道の一部に重なる。
 この道を切り開いてくれた古人に思いを馳せながら佇み、また歩いた。


「英華」: 華麗なる花
「星楡」: 多くの星。楡の木が天上に植えられているような様。
「昔蹤」: 遺跡

<感想>

 アンデスでトレッキングですか、素晴らしい風景を堪能されたことでしょうね。

 山のこと、そこに咲いてた花のこと、空の色、星と雪山などと感動した物を書き並べようとすると、五言絶句ではちょっと短いように思います。
 五言絶句で行くならば、内容をもう少し絞る必要があるでしょう。

 構成の点では、承句で空、転句で星と並べたのは、昼から夜へと展開し、山中の一日を描こうという意図でしょうが、二つの句で天空を画面に置いたのに対して起句の「英華」が釣り合うかが疑問です。
 岩壁の花が印象に残ったのは分かりますが、後の二句とのバランスを考えれば、ここは大きな山景、あるいは岩壁そのものを描いた方が釣り合いが良いでしょう。
 花をどうしても入れたい、ということでしたら、結句に置いて、逆にもっと重要な役割を果たしてもらった方が良いと思います。

 承句は「遠」は仄声ですので、平仄が合いません。「遥遥」というところでしょうか。

 結句は収まりが悪いですね。
 「昔蹤中」「想念」したとなれば、「古人(時)に思いを馳せた」ともちろん理解はできますが、実は「昔蹤中」だけでも十分に意図は伝わるわけで、「想念」が不要な言葉です。
 前三句とのつながりを考えて、つい説明的な言葉が入ってしまったのかと思います。
 実際の場所が合うかは分かりませんが、例えば、ここに花を持ってくると結句が一気に引き立つと思います。



2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第299作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-299

  皆師        

人生如夢間前程   人生夢の如く 前程を間つ

眼下山川先学兄   眼下の山川 先学の兄

奈此開愁何処是   奈ん此に愁ひを開く 何処ぞ是れ

黄昏未老気縦横   黄昏未だ老いず 気は縦横

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 私は宮本武蔵のように目前のものすべて師だと思っています。少しでも宮本武蔵の心境に成りたい

<感想>

 書き下しが書かれていませんでしたので私の方で添えましたが、もし違っていたらすみません。

 起句は、「間」を仄声で読んで「へだてる」という意味で取ると、「人生は夢のようなもので、将来を予測しても現実は異なるものだ」ということでしょうか。
 結句へと直接つながる句なのでしょうね。

 承句は「解説」で書かれたことですが、起句からどういう脈絡でこの言葉が出てくるのか、申し訳ないながら、私には分かり難いところでした。
 「今現在の目の前のことが大切だ」ということでしょうか。

 転句も難解ですね。「奈」「何処」と疑問詞が二つありますので、訳しにくいところです。ひとまず、「何とかしてこの愁いを解きたいが、それはどこであろうか(いや、ここしかない)」と前後の句とつないで読みました。

 結句の「黄昏」は時間的なものではなく、人生の「黄昏」という意味も籠めていて、まだまだこれからだという気持ちを示されたのでしょう。

 言外の意図を読み取らないと分かりづらいのは、全体的に抽象的な表現が多く、作者の姿がなかなか具体的に見えてこないからだと思います。
 転句をまず修正して、全体の意図を伝えやすくすると良いでしょうね。




2011.12.31                  by 桐山人






















 2011年の投稿詩 第300作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2011-300

  辛卯歳晩偶成        

七十八齢懷古催   七十八齢 懷古催す

一年如此亂書堆   一年 此の如く 亂書堆し

海嘯招呼原發禍   海嘯 招呼す 原發禍

人知不及愧凡才   人知 及ばず 凡才を愧づ

          (上平声「十灰」の押韻)



    鎮魂の観世音寺の除夜の鐘

<感想>

 この一年を振り返ると、どうしても大震災や原発事故のことを考えずにはいられません。
 自然災害や原子力、そうしたものは「人知」が及ばないものなのだ、と改めて感じた方も多いことと思います。
 そういう意味では、「乱書堆」と承句で言いながら、結句で「人知不及」と突き放す部分が、この一年の無力感を象徴的に表しています。

 そういう読み方で行けば、全体の構成も練られている詩だと思いますが、その場合には「懐古催」が一年を振り返ってという点では大きすぎるかと思います。



2011.12.31                  by 桐山人