「五万人突破---桐山人先生の鑑賞・批評について・所感」(10/26)

 批評にはおおむねふたつのやりかたがあります。
 ひとつには自らのめざすところのものを守り主張するために他の欠点を論うやり方、ふたつには、自ら愛する作品や作者を人々と共有するためにそのよいところを強調するやり方。。。。
 はじめの批評はおおむね論外で好ましいものとはなりませんが、後者は、ひろく行われていて、漢詩では好きな先人の詩やその作者をめぐって論を起こし、自らの鑑賞を文にまとめることによって自らの美意識を高める効果があったり、少し冷静に書けば、それらの解説文というようなものとなって、後学にとってのよい指針となります。
 しかし、このふたつにも共通するところがあって、たいていは自分に都合のよい作品や作者が選ばれます。けなすにしろ褒めるにしろ、選ぶ。特に後者の批評の場合は、先人の作品に向けられることが多く、特に中国古典詩詞では、千年を越える風雪に耐えた陶潜、李白、杜甫の詩、千年になんなんとする柳永、蘇軾の詞、馬致遠の散曲など、鑑賞の対象となる作品は天の星の数ほどもあり、その作者の数たるや枚挙にいとまがない。

 鑑賞の名手、ということをときおり考えます。けなすにしろ褒めるにしろ、選ぶ、ということは誰にでもできます。そうではなくて、手あたり次第に鑑賞し、あるいは批評する、それができる名手。桐山人先生の鑑賞・批評は、単に先人の佳作の周辺を巡るだけでなく、わたしたち現代の書き手の凡作にも鑑賞の眼を向けています。

 人は花壇を営もうとすれば雑草を抜きます。選ぶ、ということはそういうことです。
 しかし、鑑賞の名手は、雑草にも花が咲くことを知っています。
 そこで、雑草が花をつけようとしなければ、肥料を施す。ただし、肥料はほどほどが肝心、合わない肥料をやれば枯れるのがオチだからです。今年咲かないなら、来年咲けばよい、そして、小生のようないささかセイタカアダチソウのごとき舶来種には、はびこることがないようにと、以心伝心のメッセージを送る。
 以心伝心、というのは、直接小生の作に対する先生の言葉からではなく、ともに先生の指正を仰ぐ仲間のみなさんに向けられた先生の言葉から感じられることです。

 最後に本題に触れます。小生がいいたいことは、そういう形で雑草を花壇で養うのはとてもむずかしいということです。先生の鑑賞・批評はそれをみごとに実現しているわけですが、どうむずかしいかというと、詩を書くことよりもむずかしい。
 また、詩を書くみずからの喜びを時間的にも心理的にも犠牲にしなければできない。小生にはそれがわかります。
 詩は、平仄と韻さえ整えれば書けるが、雑草に花を咲かせる鑑賞・批評は、肥料のサジ加減が絶妙でなければならないからです。

 5万人突破のお祝いは、お礼でなければなりません。

2001.10.26                 by 鮟鱇






















「10/26の鮟鱇さんのお手紙に」

 ありがとうございます。こんなに言っていただくと、何とも恥ずかしい・・・・。
 確かに私自身、詩を作ることが少なくなって来ていて、反省しきりです。(むむむ、鮟鱇さんはやはり鋭い!)でも、それは時間的なことよりも、どう考えても私の気の持ちようなだけのように思います。
 うーん、サボっているのとは少し違うかな?
どう言えばいいのかちょっと分からないのですが、今は作ることよりも実は読むことに心が惹かれているのです。皆さんの投稿詩を見ながら、「ああ、もっと勉強しなくっちゃ!」と思ったのがきっかけですが、「唐詩選」「三体詩」「古文真宝」と読み返し始めたら、全く際限が無いですね。以前には分からなかったところとか、面白くなかったところなどが、今回はグングンと惹きつけられて、深みにはまっていく感じで今居ます。
 ここで蓄積しておいて、近々一気に創作へと向かうぞ!、と心の中では思っています。
ということで、拙作の紹介がこの頃無いのは、決して批評に時間が取られているからではありません。ご心配を掛けています。
 そういえば、「主宰者からのあいさつ」のコーナーもしばらく更新していませんでした。またまた、叱られてしまいますかね・・・・

2001.10.28                 by 桐山人






















「現代中国語韻による作詩(2)・・鮟鱇さん(10/29)」

現代韻(普韻)で古典詩詞を書くことについて


 鮟鱇です。謝斧先生が提起されたことについて書かせていただきます。

 現代韻(普韻)による作詩について、小生、浅学ではありますが、承知している点をまず述べます。
絶句・律詩:現代韻(普韻)による定型詩の作詩は、主に中国北部の詩人によってさかんに行われていますが、古典韻(平水韻)で書く場合の方がはるかに多いと思います。また、普韻で書かれた場合は、詩詞誌の場合ですが、「普韻」と明記れています。
宋詞・元曲:つぶさには承知しておりませんが、「普韻」と明記されている宋詞を見たことがあります。
漢俳・漢歌:昨年開催された「迎接新世紀中日短詩交流会」で漢俳の大家でもある林林先生から伺った話では、漢俳の場合、文語(古典韻)と口語(現代韻)ほぼ半々で書かれているということです。なお、漢俳・漢歌は、20世紀に始まった定型詩で、平仄は不問です。不問ということは、しかし、平仄を踏まえてもよい、ということです。
曄歌・坤歌・瀛歌・偲歌:葛飾吟社の中山先生が提唱し中国詩詞学会で承認された新短詩です。韻については漢俳・漢歌と同じ。句の区切りが3字あるいは4字と短くもあり平仄を論じることはあまり意味がありません。

 次に、小生の思うところを書かせていただきます。
 古典韻による作詩に長い伝統がある一方、普韻による作詩はまだまだ歴史がありません。そこで、「普韻」で作詩をする詩人は、普通話と地元の方言に乖離の少ない中国北部を除けば、まだまだ少ないのは当然であると思います。
 また、作詩が盛んで南宋の伝統の色濃く残っている浙江省・江蘇省など江南の詩人たちが、近い将来、普韻による作詩を始めるようになるとも思えません。現代日本人にとっては「三(覃韻)」は「サン」で「山(刪韻)」と同音ですが、古くは「三」は「サム」、「山」は「サン」でした。広東語では「三」は「サム」です。中国南方では、唐の時代に近い発音が日常生活のなかにまだまだ残っているのだとしたら、彼らが「普韻」で作詩をする必要はありません。

 しかし、小生は「普韻」に魅力を感じています。
 詩詞を書くとき、どうしても声がでます。これは日本語で詩を書く場合も同じだと思います。小生の場合、中国語の学習のつもりで漢詩を始めましたので、下手くそではあり我流ではありますが、普通話の発音をなぞって書いています。そうしますと、「三」が「サン」であり、「山」が「シャン」で同韻となる「普韻」の方が「平水韻」よりも、矛盾が少ないように思ってしまうのです。
 また、宋詞は、「詞韻」で書くのが古典的なルールです。そして、「詞韻」は、「三」と「山」が同韻でない点は「平水韻」と同じですが、「普韻」との共通項が多く、韻のハンドリングが絶句や律詩よりもはるかに楽です。そして、元曲になると、韻の体系が「普韻」にもっと近づく。
 小生は元曲の韻書を最近手に入れたばかりで詳細はわかりませんが、これまで作品を読んだ限りでは、「普韻」との矛盾を感じたことはありません。

 「平水韻」から「普韻」へ移る過程で、いちばん大きく変わったのは入声です。入声は韻尾の「クフツキ」を失う過程で、「普韻」の平声(一声、二声)に組み込まれたものが少なくなく、「平水韻」では仄声だったものが「普韻」では平声になってしまう場合がある。
 「独」「国」「蝶」「一」「白」「黒」などなど。
 そして、この変化が本格化するのは元の時代でしょうが、宋の時代にもすでに始まっていたようです。宋詞の平仄は、平声を上声・去声・入声と区別する点では唐詩と同じですが、平声の語をあてるべきところに入声をあて、さらには上声をあてる場合もあり、平声・上声・入声を平韻とし、去声のみを仄声として扱うべきとする考えもあったようです。「詞韻」では、上声・去声は通韻でき、平声と入声はそれぞれ独用とされていますが、特に仄声押韻の場合は上声の使用を避けるべきだという論もあったようです、上声・去声は通韻できるとされているのに、です。
 しかし、そのように言葉が動いていた時代の詩人たちも、絶句・律詩を書く場合は、「平水韻」を用いています。そして、思い切り白話体で元曲を書いた時代の詩人たちも、絶句・律詩を書く場合は「平水韻」で書いた。

 少々長くなりましたが、ここまで来れば、絶句・律詩を書く以上は「平水韻」で書くべきとお思いになる方が多いと思います。小生にも、その方が安全のように思えます。「平水韻」で書けば中国全土に通用するし、世界に通用します。
 ただ、ここで注意すべきは、「普韻」に絶句・律詩を書く市民権を与えるかどうかで、あまり狭く考えない方がよい。中国で「普韻」で絶句・律詩を書く運動を進めている人々は、普通話の普及を踏まえ、「平水韻」を排除し駆逐しようとしているとは思えません。「詞韻」「平水韻」が併存した国ですから、彼らはその両立を図っていくと思います。

 また、「普韻」で絶句・律詩を書く試みは、むしろわが国でこそ、積極的に行われてもよいように思います。
 小生が学生だったころは、外国語といえば、一に英語、二にフランス語でした。今は英語、そして中国語の普通話です。わたしは、彼らにも漢詩作りの仲間になってほしい。そうなれば、いずれは滅びるかもしれないわが国の漢詩作りの伝統を、将来に向けてさらに延ばし広げていくことができると思うからです。
 日本人が中国語の勉強で苦労するのは、文法ではありません、四声です。そして四声の勉強には、平仄完備の絶句作りが最適です。わが国の漢詩作りがさかんだった時代は、奈良・平安時代であり、江戸時代でしたが、いずれの時代も中国へ向けて門戸が開かれていた時代でした。
 「普韻」による詩作りがどこまで行われるか小生にはわかりませんが、少なくとも日本の漢詩界が、中国語を学ぶ若い人たちに門戸を開き寛容であってほしいと願っています。

2001.10.29                     by 鮟鱇






















「現代中国語韻による作詩(3)・・中山逍雀さん(10/29)」

 現代中国語による作詩、謝斧先生の記事を拝見し、一文を送信します。

 中華民族の詩歌は、韻と平仄の格律より形成されています。と云われては居ますが、これも見方によっては随分と不確実な部分を擁しているのです。
 何故ならば中國は建国僅か50年の國で、50余の民族から成る共和国です。言葉もまちまちで、地域によって日本語と英語ほどの違いがあるのです。一概に現代中国語と言っても、これが全国土に通用する訳ではないのです。共産党の国家政策として、学生には普通話を標準語として教えていますから、小中学生には通用するようです。

 さて韻表に付いてですが、古代の科挙をご存じと思いますが、国家の統一には、言語の統一が重要な要素となります。其の一貫として、皇帝の権威により詩詞韻の統一が為されたのです。ですから必然的に制定詩詞韻と現実の韻とは齟齬の有ることは否めません。
 建国50年の中國では、共産党の権威によって、言語の統一を押し進めています。然し僅か建国50年では、前述の如く言語は統一されていません。依ってどんな韻を制定使用しようとも現実社会では必ず齟齬があるのです。

 中国人は自国語だから韻は簡単だ!と言う言葉を聞きますが、これはあながち正しいとは言えません。同じ中国人を名乗っていても、文字は同じでも発音や言い回しが全く違うのでは、日本人の感覚と殆ど同じと言っても過言ではない人々も多いのです。

 これらのことを踏まえて、制定韻に付いて考慮すると、どの韻を用いても、現実との齟齬は有るのです。ですからどれが良くてどれが不都合とは言えないのです。中國では現在3ッの韻が用いられています。即ち平水韻、現代韻、中華新韻の3ッです。

 下記は、以前記載した文面ですが、一部を紹介します。

[中華新韵 (主旨抜粋)]

 漢詩詞に於ける「詩韵」について、日本では一般に平水韻が云われているが、現在の中国詩詞壇に於いては、既に若者の間に普通話が普及して居るので、平水韻は過去の文化と成りつつある。
 ではどういう詩韵が有るかと云えば、古典韵の「平水韻」があり、次に上海古籍出版社が出版する「現代韵」が有る。亦次に黒竜江省佳木斯市東風詩社の重陽先生の提唱する、「中華新韵」がある。

 詩韵の数から云うと、平韻だけの分類でも、「平水韻」が30韵である。同じく「現代韵」が大分減って18韵と成る。更に「中華新韵」は16韵である。

 さて本論の「中華新韵」に入ると、「中華新韵」の特徴は現在の中国語(普通話)の母音と一致している事である。

 これにより日本人にはとても対応し易いという現実がある。(日本人が詩韵に馴染めない理由の一つに、中国語辞書の発音と韻表の発音分類とが必ずしも一致していない事にある。)「平水韻」を用いていれば、韵表に頼らざるを得ない(中国人も多少とも使っている現実がある)のだが、辞書の発音と韻分類が同一なら、既に韻表は不要となる。外国人である日本人でも、多少中国語を嗜んだ人なら、中国語辞書だけで十分に対応できる。
 中国語辞書をお持ちの方には既に不要なことであるが、取り敢えず韻分類を示しておこう。表示に不都合があるが、ピンインがWebに対応できないので、その点をご理解を戴きたい。

     01-依i  02-讀u  03-律u  04-大a  05-活o  06-寫e  07-詩hi  08-改ai  09-對ui
     10-好ao  11-粘an  12-新in  13-偶ou  14-放ang  15-声eng  16-総ong

    新韵歌(含16韵)

07詩 01依 03律 02讀 12新 15声 06寫 10好
14放 05活 16総 09對 04大 08改 11粘 13偶

2001.10.29                  by 中山逍雀






















「七言絶句の平仄の美しさについて・・鮟鱇さん(10/29)」

 鮟鱇です。七言絶句の平仄の美しさ(形式美)について書きます。

 日本語は美しい言語ではあるのでしょうが、欧米や中国の人々がやってきたように、押韻や決まった音数の句の繰り返しによって、言葉の美しい響きを見出すことが、とてもむずかしい言語です。つまり日本語では定型詩を書くことがとてもむずかしく、欧米人や中国人がふつうに「詩」として理解できるものは日本にはない。
 そこで、われわれが詩とは何かを理解しようとするとき、どうしても「詩情」に頼ることになります。詩とは、あえて詩情とでも呼ぶべき高い感動を、作者に、また読者に、呼び起こす言葉の連なりであるとすることにして、われわれが日常使う「散文」と区別します。つまり、わが国には、「詩情」はあっても「詩」は存在しない。
 わが国の先人たちはおそらくそのあたりの事情をよく熟知していました。そこで、和歌や俳句という名を編み出す際に「詩」という言葉を使うことはしなかったのです。つまり、「和詩」とか「俳詩」とか。。。
 しかし、現代ではその境界があいまいになってしまいました。わたしたちは、和歌も俳句も現代詩も「詩」だと理解している。そして、漢詩も、統一されるべき「詩」概念(=詩情)のひとつに組み込まれています。押韻に間違いがなく平仄がどんなに整った絶句や律詩であっても、詩情に乏しいものは漢詩ではないという人々が多い。

 日本人であれば、漢詩をはじめて書いてみようとするときに、必ずつきあたる疑問があります。二・六同・二・四不同、孤平の忌避などの平仄をめぐる規律や、絶句・律詩における反法・粘法がそれです。
 わたしたちは、詩情が詩だと思っている、そこで、ひとつひとつの言葉をその声調(高低のアクセント)によって平声と仄声に分類し、コントロールすることが、詩情の発露にとって、どれだけ意味があるというのか、という疑問です。そして、この疑問に対して見出しうる最初の答えは、先人たちはそこに読誦の音楽的な美を見出していたのだから、それに従えというものです。外国語の学習ではではまず慣れろといいます。ほとんどこれと同じ答え。
 この答えは、わかったようでわからない。そこで、発露すべき詩情に重きを置いて、平仄はほとんど無視するに等しい書き手も出てきます。

 わたしなりの考えですが、どれほどのものかわからないわたし自身の詩情にあいまいな形で拘泥するより、絶句・律詩の平仄そのものの面白さをきちんと認識して、その形式美を楽しんだ方がよいとわたしは思うときがあります。
 自然をうまく取り込んだ日本庭園の散策ではなく、人の手が加えられたことが露骨に主張されていて左右対称、円と方の均整を重んじるフランスもしくは中国の庭園に遊ぶ、漢詩にはそういう楽しみ方もあるのではないかと思うです。

 この観点から、たとえば七言絶句の平仄を見てみますと、その人工美に感嘆します。以下に七言の詩譜(平起式)を二つ示します。

        I          II

 起句  △○▲●●○◎,   △○▲●●○◎,
 承句  ▲●○○▲●◎。   ▲●○○▲●◎。
 転句  ▲●△○○●●,   ○●▲○○●●,
 結句  △○▲●●○◎。   ○○●●●○◎。

                        ○平声 ●仄声 △応平可仄 ▲応仄可平 ◎平声押韻

 この似たようなふたつの詩譜は、転句・結句が若干違っています。Iは小生が頭の記憶している詩譜をそのまま書きました。そしてIIは、Iを承句の末尾まで書き、転句からは承句の末尾から起句の頭へ平仄を逆にたどっています。ただし、転句の1字目は◎→○に7字目は▲→●に、結句の1字目は◎→○に、7字目は△→◎に修正しています。そうしないと、絶句にならないからです。
 次に、平仄のみを問題とし、韻の表示、△▲(いずれも平仄どちらでも可)を明示した絶句の詩譜の一例を示します。そして、これを上記I,IIにならい、展開してみます。

        V          W

 起句  ○○●●●○○,   ○○●●●○○,
 承句  ●●○○●●○。   ●●○○●●○。
 転句  ○●●○○●●,   ○●●○○●●,
 結句  ○○●●●○○。   ○○●●●○○。

 上記をご覧いただければ、小生の言いたいこと、もうお分かりいただけると思います。つまり、絶句の詩譜=平仄の配置には、起句承句で展開された平仄の律動を、転句結句でそのまま逆に展開しているという構造があるのです。右手で相手の左頬を右から左にはたき、返す手の甲で右頬を左から右にはたき上げる、そういうリズムでしょうか。

 ここから、絶句作りの決まりについてのいくつかの謎が、 解けます。

1.起句・承句の平仄をなぜ反法(両句の二・四・六字目の平仄を同じにしない。たとえば起句二字目が平声なら、承句二字目は仄声とする)にしなければならないのか。
 そのようにしないと、四句全部の二・四・六の平仄の配置がすべて同じになります。そうなると、右から左、左から右、上から下、下から上という「折り返し」の動きが表現できません。

2.承句・転句はなぜ粘法(反法とは対称的に両句の二・四・六字目の平仄と同じにする)にしなければならないのか。
 承句の平仄を末尾から逆にたどれば必然的に粘法になります。

3.なぜ転句の末尾は押韻しないのか。
 一般にはそうしないと単調になることを避けるためとされていますが、上記の「折り返し」と関連付ければ、かりに押韻すればすべて平頭の絶句になるおそれがあります。
 また、平起式七絶の場合、理想的には起句の句頭は○○、承句は●●であるわけですが、そういう句作りをすれば上記「折り返し」により転句末が●になるのが必然です。

4.転句では起・承句に付かず離れず転じ、結句では起・承句に戻るのがよいというようなことが言われていますが、上記「折り返し」の構造と関係があるようにも思えてきます。

 いずれにしろ、このような七言絶句の平仄の持つ形式美について、みなさんはどうお考えなのでしょう。

2001.10.30                  by 鮟鱇






















「現代中国語韻による作詩(4)・・謝斧さん(10/30)」

 斎藤博士が説かれますように、漢詩とは、文語体で書かれた、漢土で創造された、一定の形式を持つ、古典詩形であります。

 現代の事を詠ずる為に、無理に現代中国語や和製漢語、新造語を含んだ漢詩作を考えますと抵抗を感じます。
 詩人はどんな詩形でも案出して自由な詩想を盛り込むことが出来ます。それもまた好いかもしれませんが、然し我々はそういったものは望んではいません。そういったものを作りたければ、現代の日本人が一番自由に使いこなせる口語体で作るのが近道だとおもいます。何を好んで、漢詩と称して、漢字ばかりをならべた詩形をえらぶのか理解に苦しみます。
 とはいえ、我々は漢詩を作っていますが、決して昔の詩人が作った古い詩の形式を真似て似たような詩を作っているわけではありません。自己の感情を吐露するのに好都合だからです。
 唐詩の風趣を慕い、唐時代の音声韻律を大事にして、千年二千年の間に洗練された詩語や用事を用いた上で、詩に新味をもたして創作してこそ、漢詩を作るといえます。

 ではなぜ唐時代の音声韻律に従わねばならないのか、
 音声の調和は六朝時代から強く意識されてきましたが、隋唐時代には殆ど完全な標準が創造されました。そして、地方的時代的にそれぞれ違った音声に従って、自然発生的に調和を発生させるとか、人間各自が主観的に美しい韻律を工夫するとかいうばかりでなく、一定の標準によって発音の統一を企て、それが最も優秀なものであったために、一流の詩人が此れに拠って競って最高の作品を創造した結果、後世もこれに準拠する結果となったのです。
 隋の陸法言が「切韻五巻」を出し、唐の孫べんが切韻を刊正して「唐韻五巻」を著わした。これが今で言う平水韻の起こりであります。隋唐以来音韻の標準が出来たので、時代と共に移り行く口語の変遷に拘わりなく一定の標準発音が固定して続いたのであって、その理想は唐詩の発音に置かれました。
 時代の変化をも越えて持続する標準発音が千年以上も尊重されて、実施されたことになります。我々は唐詩の真価を深く尊重すると同時に自ら詩を作るにあたっても超時間的標準語を尊重することによって文化の担い手になれます。
 現代中国語の華音は唐時代の標準発音とは大変相違してます。(前に投稿掲載)現在の中国語で唐詩を読んでも、原音の調子の充分な理解は困難です。

 中国でも魯迅や郁達夫等の新しい文学者と認められている人は漢詩(古典詩形)で作っています。けっして現代中国語をならべたようなものではありません。
 もし、棚橋先生に代表されるような、現代中国語での作詩をお考えであれば、現代の日本人が、中国人と詩を通して友好を図ることを目的というのであれば、これもひとつの方法だとおもいます。然し漢詩とは一線を画すべきだと思っています。
 漢詩も和歌も俳句も詩のひとつのジャンルに他なりません。別なジャンルの新しい詩形と認識しています。日本人が現代中国語に精通して、白話詩で詩を作ることができたら、こういった中途半端な詩形は必要なくなることと思っています。

2001.10.30                     by 謝斧






















「古典韵と現代韵の関係について」・・中山逍雀さん(10/31)

 「韵」とは単に文字の発音分類を指すのであって、古典韵とは、古代に制定された分類を云い、現代韵は現代に於いて制定された分類を云うのです。
 同じ文字、同じ言葉でも、大昔と現在とでは発音が違うのは当たり前のことです。発音が違ったから意味内容が変わったと云う事はありません。更に文字の発音や言葉の発音は、年月の推移だけではなく地域によっても変わるのです。年月と地域によって多少のニュアンスの相違はありますが、基本的な部分は不変です。これは日本の漢和辞典と、中国の漢漢辞典と比べても、その意味内容が殆ど同じ事で実証されます。
 これは何処の国民でも言えることですが、幼児から年寄りまで総ての国民は、現在の発音で読み書きしているのです。現在の発音と言う事は現在の「韵」と言う事です。
 現代韵を用いると、口語体に成るような勘違いを為されている方が居られるようですが、これは大きな間違いです。漢字は凡そ五萬字有りますが、総てに現在通用する発音があるのです。現在の中國には、口語体、口語文語混成体、文語体の三っの文章法があります。これは日本と同じです。

 追伸

 「一衣帯水」誌に付いて書かれていましたが、当該誌は「日中友好漢詩協会」の季刊誌の名称で、主宰は京都在住の棚橋氏です。彼は中國文化人との交流実績に於いて、又漢文学の認識に於いて、現在、彼の右に出る者は居りません。
 棚橋氏の作品が現代中国語で作られていることは事実です。現代の中国語と言うことは、現在通用する言葉と文字と云う意味でしょう。現在通用する言葉は白話(口語体)で有るとは言えません。口語体、口語文語混成体、文語体の三っの文章法があります。

2001.10.31                 by 中山逍雀






















「漢詩と短歌の叙情性について」・・桐山人(11/1)

 2001年の投稿詩の155作目、謝斧さんの「偶成」で、謝斧さんから漢詩と短歌の叙情性についての問題提起をいただきました。

 謝斧さんの問題提起は、
 今回の詩「偶成」
     茅舎絶無敲門客
     嚢中少有沽花銭
     此生何物過慵裏
     獨対氷姿殊可憐
は、石川啄木の
   友がみな我よりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ
 を思い浮かべながら作ったのですが、
 漢詩では、「獨対氷姿」のほうが一般的で、「妻としたしむ」という表現は恐らくはありません。然し詩の内容では、はるかに啄木の歌の方が叙情的な表現はまさっています。そういうことであれば、詩形の特性では、短歌のほうがまさっているのでしょうか、どんなものでしょうか。
 というものでした。以下は私の意見です。

 謝斧さんの問題提起については、私なりに考えてみました。皆さんもご意見がありましたら、「桐山堂」に投稿いただけるとありがたいですね。

 「妻としたしむ」という種類の心情表現が漢詩に無いのか、という点では、確かに日常の辛さを妻に語りかけることで癒すというような叙情性を詠った詩は漢詩には少ないと思います。
 また、自分で作詩する場合にも、漢詩の詩形で作ろうとした時には、どうしても自分の心情を先人の表現と重ねようとするために、ややもすると類型化しがちで、啄木の詩のようなたゆとうような微妙な心情を表現しきれないもどかしさはあります。無理に作ってみると、どうも自分の慣れ親しんだ漢詩とはずれていて、しっくりしない違和感を感じてしまいます。
 さらに、漢文という論理性が明確な言語の特徴もあるかもしれません。
 そういう点から考えると、短歌の方が日本人の微妙な心情を詠った場合には、漢詩よりも短歌の方が好詩が多いとは言えます。

 しかし、それは私は適性の問題だと思います。俳句と短歌を比べた時にも、俳句が適した心情もあれば短歌の方が良い場合もあるはずです。短歌だからこそ成功している詩もあれば、俳句でなければ表現できないものもあります。同じように、漢詩の方がふさわしい心情もあるわけで、それぞれが得意不得意を持っているのではないでしょうか。

 ここからは私の考えなので、もし違っていたらご指摘いただきたいと思いますが、短歌や俳句は明治以降、幾度も改革の風に吹かれて、それぞれの時代に求められた表現を吸収して発展してきた歴史を持っています。
 一方、漢詩の方は新しい素材や新しい心情を表現する要求を抑えて、出来るだけ古典にすり合わせるようにしてきた、つまり守旧の姿勢を保ち続けてきたと言えます。
 したがって、漢詩といった場合には、すでに定着したイメージが強く、独創的な新奇な表現に出会うと私たちは詩として鑑賞するよりも先に、自分のイメージとの食い違いのために違和感を出してしまうのではないでしょうか。
 もちろん、独自の鑑賞眼で詩を眺めることの出来る人もいるわけですが、一般的には先述のような反応の人の方が多いのではないでしょうか。

 私自身はどちらかと言うとイメージにしばられる方だったと思います。(これも偏見かもしれませんが、教員はつい先人の解釈に頼ってしまって生徒に教えるために、「これが正しいのだ!」と言いがちです。反省!)しかしながら、このウェブページで皆さんの漢詩を拝見して、それまでの思いこみが修正されていくのを実感しています。
 私たちが長い歴史の中で培ってきた漢詩のイメージを破ることはどなたも思っていません。それは大切に守りながら、なおかつ今の自分の目の前の感情を表そうとしている、皆さんの漢詩への真摯なお気持ちが本当によく伝わってきます。私は、それが漢詩の新しい「発展」だと思っています。
 明治の短歌界に「明星」を中心とした与謝野晶子や石川啄木といった天才詩人が浪漫の新風を巻き起こしたように、平成の時代の漢詩界にも新星が登場し、漢詩の伝統に立脚しつつ新しい叙情性を創出してくれるかもしれない、そんなことを考えるのも楽しいことではないでしょうか。

2001.11. 1                    by 桐山人






















「漢詩と短歌の叙情性について(2)」・・鮟鱇さん(11/3)

 もし漢語を使って和歌・短歌のように書きたいなら、「和漢朗詠集」のように書いてみたらいかがでしょう。つまり、無理に絶句にする必要はない。漢語28字ではなく14文字でよい。余情を書くには漢語28字は情報量が多過ぎます。漢語28字でも桐山人先生の「園原道中(作品番号 2001-30)」のように余情を醸せる場合もありますが、情報量が多過ぎては日本的余情を醸すことは難しい。
 さらに、おそらく平仄は踏まえた方がよいし、できるなら、押韻しない方がよい。つまり、転句・結句だけを書けばよいでしょう。そうすれば余情が書けるように思います。

2001.11. 3                      by 鮟鱇