2004年の投稿漢詩 第196作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-196

  偶成        

墻角治郎生育増   墻角の治郎 生育増すは

炎涼無定火雲升   炎涼 定なること無く 火雲升るに

誦詩矮屋忘三伏   矮屋に詩を誦し 三伏を忘れ

秋熟天公願歳登   天公に秋熟 歳の登るを願わん

          (下平声「十蒸」の押韻)

<解説>

 屋敷の隅、治郎柿が日増しに丸く育っていく情景を観察しての詠懐で、植物の生長は夏の暑さが育むと心得たり。

<感想>

 今回の詩は、全体に統一がとれていないように思います。

 「治郎」は明らかに不適切ですが、それ以外でも、細かなことを突っつくようですが、例えば、起句の「柿の実が育った」ことと承句の「夏の暑さが厳しい」はどうつながるのでしょうか。読者は起句承句の順に読みます。これでは、「柿が育ったから、夏が暑い」ということになります。せめて、内容的には前半の二句の順序は入れ替えるべきでしょう。

 承句で厳しい暑さを言っていたのに、転句で急に「忘三伏」と来るのも納得しにくい書き方です。「誦詩」で暑さが消えるのなら、承句の描写は大げさだと言えます。また、「矮屋」は場所を言いたかったのでしょうが、その必要性があるかどうか、です。他の三句は屋外の景を述べているのに、どうしてわざわざ室内に居ることを述べる必要があるのか、作者は今どこにいるのか、それが分からなくなります。

 更に、結句で秋の実りを願うという気持ちも、つながりません。転句で既に季節感を失っているにもかかわらず、ここで秋を思うということは、現在も「三伏」を忘れてはいないということです。となると、作者は結局何を思っているのか、夏の暑さの中でも秋の実りの準備が柿の実に表れていることに感動したのか、暑い中でも詩を読むとすっと爽やかになることを言いたいのか、転句で「誦詩」を入れて欲張ったために、全体が崩れてしまったのではないでしょうか。

 恐らく、深渓さんの心には、この詩に書かれたことが実際に浮かんでいたのでしょうし、実感を籠めて書かれたのでしょうが、詩としてまとまるためには、もう一度客観的に、描くべきことを配列も含めて整理し直すことが必要だと思いました。

2004.10.12                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第197作は 坂本 定洋 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-197

  蜜柑收穫詩        

満籠橘子重千金   満籠の橘子、重きこと千金。

日見朝霞亦夕深   日に見る朝霞、亦夕べの深きを。

寸試勝冬黄果味   寸試す。冬に勝ゆ黄果の味。

知哉此味可尋禽   知る哉。此の味禽に尋ぬるべし。

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 和歌山県の蜜柑は、それぞれの主力とする品種によって幅があるのですが、10月中旬から年内一杯が収穫期です。この間農家は朝早くから夜遅く、そして休みなしになります。雨の日でも大抵は選果、出荷の作業に追われます。一年で最も厳しい季節です。
 和歌山県の場合、山の急斜面を切り拓いた段段畑の割合が多く、さすがに昔のように上から下まで天秤棒でということはありませんが、機械の来る所まで足元の悪い所を、びっしり伸びた枝をかわしながらの運び出しは、実際の重さ以上に堪える作業です。
 家内が農家の出身で、私も11月に入ってから年内一杯は、土日の休日には雨の日以外は余さず手伝いに行きます。始めは良い運動などと言っておれますが、寒くなると身に堪えはじめます。南国の事とは言え、日がな一日外にいるのですから。
 悪いことばかりではありません。作業の合間に食べる取りたての蜜柑は、私にとって鉄人、道場六三郎の料理(一度食べました)と同列に置くべき忘れ得ぬ味なのです。そして下手でもこのように一首できました。このようなことを心に刻んで今年のシーズンに臨むことにします。

 結句はおいしい実のなっている木ほどたくさん鳥が突ついていくことも表しています。鳥だけでなく、狸もですが。
 同字重出は、今回は田植え歌風の素朴さを主張すると言うことにしておきます。初めは気にならなくとも、一年も置いてみると大抵は嫌になるものですが、今回はそうでもありませんので。
 蜜柑農家だからどうなのだと言うことは書き得ていません。しかし、農家のみなさんに対する敬意は、いくらかは伝え得ると思っております。

<感想>

 食べる私たちは、「あそこのミカンはおいしい」だの「ここは今いちだ」とか勝手なことを言っていますが、作っておられる農家の方達への視点はなかなか持てません。実は、私の住んでいる愛知県の知多半島もミカンの栽培が盛んな土地です。ミカン狩りにも多くの人が訪れます。そういう土地に住む人間としては、知識が少なくて申し訳ないくらいです。

 起句は実感の伴った良い句だと思います。承句は、「日見」がくどいように思います。解説にお書きになった「日がな一日外にいる」ことを書かれたのでしょうが、「朝」と「夕」を出せば十分です。
 それよりも、「見」の内容を「朝霞」「夕深」と並べたのは、前が名詞、後が形容詞で対応が悪く、句としては四字目で切れる感じが残ります。特に、「夕の深いのを見る」というのは、何を見るというのか具体性が不足しているでしょう。

 「味」の重複は、「素朴さの主張」とのことですが、内容的には変ですね。転句では「寸試」の主語がよく分かりません。普通で言えば作者自身が試みるのでしょうが、それなら「可尋禽」の意味がありません。
 結句は、ほのぼのとした印象で、自然と一体化した農家の雰囲気をよく出していると思いますので、その分、転句に実態のない曖昧さが残りますね。

2004.10.12                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第198作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-198

  颶風前        

黒雲行疾颶風前   黒雲行くこと疾し颶風の前

群鳥騒騒廻樹辺   群鳥騒騒として樹辺を廻る

気象異常多近歳   気象の異常なること近歳に多し

人知不及是当天   人知の及ばざるは是当に天なるべし

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 台風10号の近づいていた日、勤務先の二階ガラス張り食堂で夕食を摂りながら見た景によって前半二句を、帰途に後半二句を得ました。

<感想>

 ほんの数日前にも、今年いくつめかもう忘れてしまいましたが、台風が日本列島に上陸し、被害を出して行きました。太平洋の海水温が例年に比べて高いのが台風の多さの理由だと聞いても、じゃあ、どうして海水温は高いのか、という点では、「異常気象」ということでしかなく、素人の私たちはただただ、不安におびえるばかりです。
 特に今年は同じ様なコースを辿る台風が多く、同じ地域で何度も被害が出るという点で、大変な年だと思います。

 前半では、承句の「群鳥」が、もう少し工夫できると思います。台風前の不穏な空の様子を象徴的に示す恰好の素材だったわけですから、「乱鳥」あたりのほうが雰囲気が合うでしょう。
 結句は、「天」一字で締めくくるのは無理があります。意図としては「天意」ということでしょうが、だから作者はどう考えているのか、ということが出てきません。「天意だから仕方がない」というのでしょうか。作者のスタンスが出ていないのは、転句が役割が薄いからでしょう。
 私の印象では、結句の内容を転句に置き、「だから私はこう思う」ということを結句で描くと、深い内容の詩になると思います。

2004.10.12                 by junji


坂本 定洋さんから感想をいただきました。

拝啓。柳田先生。

 これは技術屋にありがちな性癖なのですが、主観による結論を押し付けられるのは好みません。思うことがあるのならば、だれもがそう思う事象を提示してみせる事。それが表現の王道なのだと考えている節があります。それが簡単にできれば、だれも苦労などしないのですが。

 柳田先生の、この詩の後半は、いろいろな見方もあるでしょうが、私はこれぐらいの加減がちょうど良いと思います。どの道、後は読者に預けるほかないものと思います。いかにも同業という感じ方ですが、ものを書く姿勢としては、十分にニーズがあるものと思います。読者の受け止め方に自由度を残しておいた方が、より受け容れられやすいと考えます。

 好みで言えば、また前半と後半の内容の入れ替えです。今の起句が結句には良いように思います。客観的な事象に物を言わせるという事です。柳田先生の意図はどうあれ、現時点で起句頭にある「黒雲」は、これが結句頭ならばもっと破壊的に効くはずです。
 今、目の前にある雲の動きは、私たちの日ごろの行いも含めたさまざまな因果のはてにあるものなのだというイメージは、もっと伝え得るものと思います。このようなことが言えるのは、この詩は私に対しては十分成功していると言うことなのです。しかし、柳田先生ならば、もっとできるはずです。

 詩の前半と後半の順序が不自然なのではないでしょうか。詩の後半のような、いわゆる「感慨」は、柳田先生が台風に遭って初めて持ったものとは思えません(これ自体、何も悪くはないのですが)。大層な言い方をすれば、「恐れていたことが遂に起こってしまった、起ころうとしている。」と言いたいのではありませんか?
 私の感じ方が正しいならばですが、それなら前半と後半の順序は逆です。鈴木先生が詩の後半に対して「しっかりした考えがない」と感じるのもわかる気がします。

 非常に唐突かつ失礼な言い方で申し訳ありませんが、日頃は石頭の組織の中でがんじがらめなのでしょうか。同業となればピンとくるものもあるのです。
 詩においては思う事を伝え得た者の勝ちです。そのためには何でもありです(鈴木先生に叱られそうですが)。お仕事においてはどうあれ、詩においては前後の構成はもっと柔軟にもっと自由に考えるようにしてください。詩の楽しみ方はずっと増えるはずです。そうすれば詩は、柳田先生にとって楽しみとか詩の出来とか以上の、もっと有意義なものになっていくものと確信しております。

2004.10.16                by 坂本定洋






















 2004年の投稿漢詩 第199作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-199

  聞食少児        

地旱土痩北朝鮮   地は旱り土は痩し北朝鮮

屡値洪水不鋤田   屡々洪水に値って田を鋤かず

久無収穫生無術   久く収穫無く 生きるに術無し

見路殍餓人平然   路に殍餓を見ても 人平然たり

可哀児子喪父母   哀む可し児子 父母を喪い

常苦飢凍空俯首   常に飢凍に苦んでは 空しく首を俯す

無身袴襦風切膚   身に袴襦無く 風は膚を切り

少児何有満餌口   少児何んぞ餌口を満す有らんや

拾路粱粒飢難忘   路に粱粒を拾うも飢忘れ難く

両手皸裂両脚傷   両手皸裂し 両脚傷つく

逢人叩頭指口泣   人に逢っては叩頭し口を指して泣く

却値打擲辛酸嘗   却って打擲に値っては 辛酸嘗む

求庇欲随少年輩   庇を求め随わんと欲す 少年の輩

少年苦飢心凶悖   少年飢に苦しんで 心は凶悖し

馘首割肉食少児   首を馘り肉を割いて少児を食う

寒夜可耐餒難耐   寒夜耐うべし 餒耐え難し

世論報道殍餓多   世論報道す殍餓多しを

急送糧資可如何   急ぎ糧資を送るも 如何す可し

群蟻付羶不救餓   群蟻羶に付いては 餓を救わず

却以資糧換干戈   却って糧資を以って 干戈に換う

老夫難解自癡性   老夫解し難き 自ずから癡性なり

天公何事容虐政   天公 何事ぞ 虐政を容さんを

飢児前世作罪乎   飢児前世罪を作せしか

本知死生委天命   本り知る 死生は天命に委しを


<解説>

 国家の不幸は詩人の幸せといいます。
時事を詠ずることは、詩人の責務だと考えています。
こういった詩は、ただ事実を報告するとか、声高にスローガンを叙述するようになり、冗長がちになります。措辞も妥かでありません。そういったことを避けるように工夫したのですが、どうもうまくいけません。
 毎度おなじような手法だと笑われそうです。内容も散文に近く、以前に読んだような気がするといわれそうです。進歩がありません。これが限界なのかもしれません。

<感想>

 北朝鮮の惨状は、情報が正確に伝わらない分だけ、人々がどんな暮らしをしているのか気がかりです。
 時事を詠ずるのは、とりわけ用語が難しく、現代の諸相を古典語の中で描く工夫は大変なことです。そういう意味での「限界」はあるのかもしれない、と思っています。
 でも、今回の謝斧さんの詩を読みますと、まだまだ言葉や表現の可能性は尽きないと感じます。もし、「進歩がなく、限界なのかも」と感じたとしたら、それは詩人の側の問題ではなく、対象に対する情報不足が原因ではないでしょうか。
 叙情の詩ならばどれだけでも作者が想像、夢想、推測しても構いませんが、時事に関しては、無責任な憶測では書けません。そのために、どうしても散文的になったり、冗長になるのではないでしょうか。今回の詩でも、解ごとの展開の流れに歯切れの悪さが残る感がありますが、原因はその辺りにあるのではないでしょうか。

2004.10.19                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第200作は 坂本 定洋 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-200

  寄白熊        

凌雪全身極北雄   凌雪の全身極北の雄

縱横泳戯石池中   縱横泳ぎ戯むる石池の中

幼兒歡喜爾今悦   幼兒の歡喜爾の今の悦び

上野動物園白熊   上野動物園白熊

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 ある日、何年か前に見た上野動物園の元気一杯の白熊を思い出しました。それが、どうしようもない書かずにはおれない衝動に変わりました。異形のものであることは承知しております。
「これで良いのか白熊君。」などと言っても何の救いにもなりません。ここは人に何と言われようと徹底的にトボケてしまうほかない。それが私なりの結論です。
 初稿から一年置いて頭を冷やし、リフレッシュもして考え直しました。しかし、これはこれという考え方については変わりません。ここは見切るべきものと思います。
 十年も経てば考えは変わるかも知れません。恥ずかしくなって破り捨てたくなるかも知れません。しかし今は今の段階のものとして、みなさんに見ていただきたいと思っています。
 実の所、私の勤め先では大規模なリストラがあり、今回ばかりは私もダメかと思いました。その前夜の作で、何とも言えない閉塞感があった憶えがあります。そのように読めば、あるいは興味深いものかも知れません。
 この白熊じゃあるまいし。檻を出てはもはや生きられないと言うものでもなかったろうに。こんな思いも胸の内には残っています。

<感想>

 白熊という新しい素材を描こうという定洋さんの意気込みが強く感じられる詩ですね。
 参考にする詩語が見つからないので苦労なさったのではないかと思います。そういう意味では結句に物足りなさが残りますね。この内容ならば詩題で済むことです。詩の中に描くと言うことは、「上野動物園」がどうしても不可欠な条件な場合でしょう。詩から判断する限りでは、他の動物園の白熊でも同じように思います(違っていたらごめんなさい)。
 白熊に何を見ているのか、お書きになったような「閉塞感」ということで見るならば、そこを感じさせるような状況を結句に書かれた方が良いでしょう。「動物園」というだけで共感を求めるのは、やはり厳しいでしょうね。

2004.10.19                 by junji


観水さんから感想をいただきました。

 長く悩んだ末、結句を「上野動物園白熊」としたのか、自身の体験から一句が自然と生じてきたものか、判断はつきかねますが、どちらにせよ、少なくとも私にとっては、この七字によって、作品が魅力的なものとなっています。

 起句承句、北極の海を泳ぎ回るシロクマがイメージされるも、「石池中」にいたって、これは何だろう? と。さらに転句を読んで頭の中の疑問符を増やしておいて、結句で全てが明らかに。この意外性・面白味が好きです。
 また、最後に「上野動物園」と明らかにされることによって、転句「幼兒歡喜……」が改めて活きてくるように思います。ここで、シロクマに限定されることなく、読者それぞれ動物園の思い出が思い起こされるのではないでしょうか。

たまたま私が一年ほど前に上野動物園を訪れたばかりであって、おぼろげながら白熊の記憶もあったということもあるのかもしれませんが、上野動物園がおそらくは日本で最も有名な動物園である以上、さほど例外的な感想ではないように思います。
 大層なことは言えないのですが、作品を読んで動物園の賑いが思い出されたもので、少しばかり感想を綴ってみた次第です。

2004.10.27                  by 観水























 2004年の投稿漢詩 第201作は 逸爾散士 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-201

  初秋桜樹        

連連桜樹稷稷繁   連連たる桜樹、稷稷として繁し

濃葉緑中黄葉翻   濃葉緑中、黄葉翻る

過日賞花遊歩路   過日、花を賞で、遊歩せし路に

秋風督促暮蝉喧   秋風、督促して暮蝉喧し

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 題材を見つけるのに苦労して、よくある詩材を普通の詩と季節を変えたらどうかと思いつきました。王士モフ「秋柳」という詩を思い出したのです。そこで、近所の桜並木を通った時に、しげしげと葉っぱを見て作りました。9月のことだから、「オーシン、ツクツク」という蝉の声もしてたけど、詩が出来上がってみれば、実感より景物の異例な取り合わせが趣向という感じかもしれません。
 「秋立つや、桜並木の蝉時雨」じゃ俗すぎて句にもならないけど。

 最初は起承を、「桜樹枝張緑葉繁、緑中点々黄葉翻」としたのですが、承句、転句の平仄が揃わないので変えて、「枝張繁」では平三連になるなあ、とか苦労して、「稷稷」は木の高きさまと詩語集で見つけ、ようよう作りました。
 前半が句中対になっているのは、最初からの狙いではなく専ら「言葉の都合」です。
 迷っているのは詩題もです。「初秋看桜」というように動詞を入れるほうが収まりがいい感じがする。「秋柳」にならって「秋桜」じゃコスモスみたいでどんなものか。コスモスとよむ方が和臭だと言ってもねえ。

 桜は花の頃にのみ詠むものかは、という思いはあるのだけど、ちょっとわざとらしいかも。公園などで他の季節に桜の幹のはだを見て、「桜の木は花の季節でないと、単にああ木があるぐらいにしか思わないものだなあ」と感じたことはあって、そんな感想のほうが蝉を鳴かすより温柔敦厚かもしれません。

<感想>

 仰る通りで、秋の桜というのは目新しい着想ですね。どう処理するかが難しいところでしょう。

 拝見した印象では、前半の桜から後半がはっきりと区別されていて、その隔絶感が強すぎるように思いました。特に、「暮蝉喧」は転句の春の景を見てからですと、やや理に走ったような感じがします。「督促」がいけないかもしれませんね。
 前半にわざわざ「桜」と書きましたから、もう少しつながるように、「秋風が枝を繞って」とか「枝を揺らして」とか、何か樹木に視点を戻すような方向性が欲しいと思います。

 起句の「稷稷」は難しい言葉ですね。詩語集に載っていましたか?平仄のこともありますし、承句の句中対を生かすにも、ここは畳語にしない方向が良いように思います。

2004.10.20                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第202作は 知秀 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-202

  秋夜吟        

桂花香裏浸虫声   桂花香裏虫声に浸さる

白露襟辺寒意生   白露襟辺寒意生ず

河漢横天人已静   河漢天に横たわって人已に静まる

半簾斜月向君傾   半簾の斜月君に向って傾く

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 この知秀さんの詩は、実は二稿です。初稿は次の形でいただきましたので、お手紙とともにご紹介します。

 いつも的確なご指摘・ご指導をいただきありがとうございます。
 先般掲載していただきました朋岳さんや恵香さん、また会員一同大変喜び、ともに勉強させていただいております。

  秋夜吟        

桂花香裏坐三更   桂花香裏三更に坐す

冷露侵肌寒気生   冷露肌を侵して寒気生ず

河漢西流千里夢   河漢西に流れて千里の夢

半簾斜月向君傾   半簾の斜月君に向って傾く


 この拙作は、観月の会(9/27)に提出予定です。

 実は私事ですが、家族の者が10月から仙台に行くことになりましたので、本当は銀河は東か、北のほうに流れてほしいのですが、そううまくはいきません。

以下大意です。

   木犀匂う 夜にゐて
   露が冷く 寒いほど
   銀河流れて 遠い夢
   月も傾く 貴君の方へ

 お手紙をいただいたのは、9月の中旬でしたので、私の方もひとまずお返事を差し上げました。(投稿作品の掲載が遅れていましたから・・・・)
 「秋夜吟」の投稿、ありがとうございます。
 「河漢西流」は私も同感です。親しい人が東国にいるならば、そのことを詩にする時には東に流れて欲しいところですが、そうはいかないのが辛いところです。
 でも、そこに工夫のし甲斐もあるところですね。

 一読の印象としては、承句の「冷露」「寒気」が重複しているように感じました。同じく、転句の「千里夢」と結句の「向君」も重複のように思います。
 その辺りについての作者の意図というか狙い、それがどうなのかという点が議論の種でしょうね。
 この後に推敲されたのが、202作として掲載したものです。
 あらためて推敲作への感想ということでは、転句の「人已静」「人」が出てくるところ、結句の「君」を生かすには、ここはまだ「人」を感じさせるものは控えたいところでしょうね。
 「夜」あたりが一番良いでしょうが、「風」でも落ち着くのではないでしょうか。

2004.10.19                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第203作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2004-203

  秋夜 懐故侶        

別離誰竟免   別離 誰か竟に免れん

流景似当時   流景 当(か)の時に似る

金桂発幽径   金桂 幽径に発き

清光漲翠池   清光 翠池に漲る

風來庭樹鬧   風 来たって 庭樹 鬧がしく

花蕩桂香滋   花 蕩らいで 桂香 滋し

故侶長難忘   故侶 長しえに忘れ難く

惨然双涙垂   惨然 双涙垂る

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 かつての友を思い出して忘れがたい気持ちは、私も年齢を重ねてくると、とてもよく分かるようになりました。
 今回の詩はY.Tさんが五律に挑戦ですね。全体としては、頷聯頸聯が浮いているような印象ですね。「当時」の場面と現在の場面を重ねたと思いますが、この場面が別離の哀しみとつながらないためでしょう。
 同じ景色であっても、作者に感情を喚起するだけの要素が何かあるはずですね。つまり、哀しみの誘因になったのは何なのか、現行ですと、景色が淡々と描いてあるようで、尾聯の感情の高揚が唐突な感じです。

 三句目と六句目に「桂」の字が重複していますが、これは訂正をいただきましたでしょうか?

2004.10.27                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第204作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2004-204

  秋夜 懐故侶        

人世誰能免別離   人世 誰か能く 別離を免かれんや

晩涼流景似当時   晩涼の流景 当(か)の時に似る

桂花馥郁発幽径   桂花 馥郁として 幽径に発き

玉兎嬋娟映翠池   玉兎 嬋娟として 翠池に映ず

颯颯哀風院裏鬧   颯颯として哀風 院裏に鬧がしく

啾啾蛩雨草間滋   啾啾として 蛩雨 草間に滋し

傷心故侶長難忘   傷心 故侶 長しえに忘れ難し

回首愴然双涙垂   回首して 愴然 双涙垂る

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 同じ素材で七律を作られたのですが、こちらの方が句のバランスは良いですね。七言の情報量の多さでしょうか、統一された感懐が安心して句を読み進めさせてくれます。
 五律では気になった尾聯の「惨然」の感情形容語も「回首」の語があると流れが自然に入れますね。

2004.10.27                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第205作は 登龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-205

  秋窗聽蟲        

月明天碧草堂幽   月明天碧にして草堂幽なり

白露@@暮色浮   白露@@暮色浮かぶ

嗚咽宛如絲竹調   嗚咽宛も絲竹調の如く

細聲猶在壁間愁   細聲猶壁間に愁ふ在り

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 月は明るく天は青くあばら屋は静かであり、
 光り輝く露がたくさん降りて夕暮れの景色となる。
 声を詰まらせながら鳴く細い声はさながら絲竹のような調子で、
 まだ壁間にあって悲しむのである。

<感想>

 前半の二句は、一日の時刻がはっきりしませんね。
起句は「月明」ですので、もうすでに夜になっているのかと思いましたが、承句に来ると「暮色浮」ですので、あれ、まだ夜ではないのか、という感じです。
 また、比喩の点でも考えさせられました。
転句の「嗚咽」はもうすでに虫声の比喩になっていますが、それが「絲竹調」のようだとなると、混乱します。「絲竹調」は音楽の調べですので、これが「嗚咽」と結びつくためには、もう少し説明が必要でしょうね。
 結句も「猶在」は転句の「宛如」と重複感が残ります。表現の上でも、「壁間愁」は結局比喩になりますので、転句から比喩が重なるとイメージがかえって分かりにくいのではないでしょうか。比喩は有効な表現技巧ですが、ここぞという所で使うようにしないと曖昧な句になってしまうことが多いと思っています。

2004.10.27                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第206作は 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-206

  秋燕        

離愁整列囀咬咬   離愁か 整列し 囀ること咬咬たり

直望遠翔雛児淆   直に遠翔に望むに 雛児淆じる。

万里風濤拠何憩   万里の風濤 何に拠ってか憩う

南薫発育待帰巣   南薫に発育し 帰巣するを待つ。

          (下平声「三肴」の押韻)

<解説>

 電線に燕が群れを成して並んでいる、離愁の情か?声が悲しげである
 もう直に飛び立つであろうに、まだ体の小さい雛がまじっている。
 風と波と戦う長い行程の間、どうやって休むのだろうか、
 南の温かい風を受けて大きく成長し、再び戻るのを待っているからな。


<感想>

 秋に残った燕が、今から南に旅立とうというところを描いた作品ですね。
 起句は、「離愁」を解説の様に理解するのは困難ですね。それぞれの言葉がつながりのないままに置かれている印象で、句として意味が取りにくいでしょう。
 承句も同じで、「雛児淆」は、だからどういうことが言いたいのかが伝わりません。
 転句での「旅の大変さ」を想像しておいて、結句で急に「南薫発育」と収まるのも私は展開が急な気がしますが、テンポ良く感じるという方もおられるでしょうか。

2004.10.31                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第207作は 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-207

  浜名湖花博遊覧        

駿国湖辺広大園   駿国の湖辺 広大の園

彩花奪目乍忘言   彩花目を奪い 乍ち言を忘る

万邦佳木珍奇草   万邦の佳木 珍奇の草

諸域名庭雅麗門   諸域の名庭 雅麗の門

戦火奄空歓絶莫   戦火空を奄い 歓び絶えて莫く

和光満地苦無存   和光地に満ち 苦しみ存する無し

人為天匠競誇巧   人為天匠 競って巧を誇り

一日遊観放鬱魂   一日の観遊 鬱魂を放つ

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 頸聯は解り難いが、戦乱に明け暮れて、楽しみの無い人々がいるが、此処は(日本も含めて)苦しみなど知らない平和を満喫できるところ。
 の意味である。

<感想>

 4月から始まった「浜名湖花博」も、この10月11日に545万近くの入場者で盛況のうちに終りましたね。読者の皆さんにも行かれた方は多いのではないでしょうか。
 私は、と言いますと、昨年の秋に開幕前準備中の浜名湖に出かけて、「ここに橋が架かるんだなぁ」とか「あそこが会場になるんだ」とか、工事現場を見ながら思っていました。で、結局行きそびれてしまいました。近いものだから、いつでも行けるからと安心していたのがいけなかったのでしょうね。枳亭さんの詩で、雰囲気を味わわせていただきます。

 さて、頸聯が分かりにくいとのお言葉ですが、そうですね。でも、この聯が無いと、花博の説明や印象に終始した詩になってしまいます。そういう詩が悪いというわけではありませんが、枳亭さんの場合には、花を見ながらもある種の哀しみがあるわけで、それならばこの聯に作者の気合いを籠めるべきでしょうね。
 解りにくい原因は、恐らく、「戦火掩空」と、それまで眼前の実景を描いていたのに突然に作者の想像の世界に引き込まれるからで、今私はどこにいるのか、という不安が先に来るからでしょう。また、上句と下句で違う場所を描いているということも説明が足りないでしょう。
 順序としては、「和光満地」を眼前の景を先に描き、それに対して外の世界では・・・・という形で読者を道案内して行くと良いと思います。

2004.10.31                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第208作は 欣獅 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-208

  暑秋        

世事多憂患   世事、憂患多し。

天機亦不康   天機また康からず。

須期山色変   須べからく山色の変ずるを期せば、

刹土到豊穣   刹土、豊穣に到らん。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 最近の世情はテロをはじめ、騒然たるものがあります。
 台風や地震といった自然界の災厄も多く、残暑も厳しくてなかなか秋らしくなってくれません。
しかし、ここはじっと耐えて、山の色が変じてくれるのを待てば、必ず大地は豊穣の時を迎え、人心も安らかになってくれるのではないかという私の希望を述べました。
 希望どおりいってくれればいいのですが・・・。

<感想>

 この詩をいただいた9月末、仰るとおりだと思って読ませていただきましたが、掲載までの1ヶ月の間に、台風の水害、新潟の地震で多数の方が被害に遭われ、更にイラクでは日本人人質事件の再発という、相次ぐ悲しいニュースに心が引き裂かれる思いのする今年の秋です。
 なおさら、欣獅さんの「希望」には祈りも含まれて来るように感じます。
 詩は分かりやすい良い詩だと思いますが、転句の「須」「すべからく」と再読文字で読むとすると「・・・・するのが当然だ。・・・・するはずだ」と強い意味が出ます。
 「須」はここでは「待つ」の意味で使った方が自然だと思います。その場合には、読み下しは、「期をち 山色変ずれば」となるでしょう。

2004.10.31                 by junji





















 2004年の投稿漢詩 第209作は 菊太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-209

  月下美人        

誰知半夜漸花開   誰か知らん 半夜 漸く花開くを

皎皎艶姿香気来   皎皎たる艶姿 香気来る

疑是嫦娥今夕到   疑うらくは 是 嫦娥の今夕到るかと

早晨忽去使人哀   早晨 忽ち去りて 人をして哀しましむ

          (上平声「十灰」の押韻)

<解説>

我が家に3年ぶりに「月下美人」が開花しました。
どなたが名付け親か知りませんが、ぴったりの命名です。
ゆっくりゆっくり開いて、明け方にはすっかり凋んでしまいます。
開花時に何回かシャッタ−を押しました。

<感想>

 菊太郎さんから、お写真も送っていただきました。

 月下美人は一晩だけの開花でしたね、私も一昨年でしたが、近くに住む義母から「今夜、月下美人が咲くから見においで」と言われ、妻と一緒に見に行きました。
 香りも強く、何か別の世界に変わったような印象でした。
 花も独特の姿で、菊太郎さんが月にいる美女の嫦娥が来たかと思ったと仰るのも納得できます。ちょっとこの世ならぬ雰囲気を持っていますものね。

 結句の「使人哀」はやや物足りないですね。ここで作者の感情が出てくるのはどうでしょう。転句ですでに作者は一度登場していますからね。
 全体の構成から見ると、承句のところで「香気」を使わないようにして、つまり前半は視覚にしぼり、この結句で「残された香りが哀しい」のように使うと、この「哀」は香りを表す言葉になりますから、随分印象も違ってきますね。
 そうした点で、推敲されると良いでしょう。

2004.10.31                 by junji

撮影日付: 2004/09/10 露出: F4 1/80秒 フラッシュ 発光 撮影日付: 2004/09/10 露出: F3.2 1/40秒 フラッシュ 発光
































 2004年の投稿漢詩 第210作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2004-210

  虎        

金眸炯炯不兢人   金眸 炯炯 人を兢(おそ)れず

山上成嗥對四鄰   山上 嗥を成して 四隣に対す

請看腰間無一劍   請う看よ 腰間 一剣 無くとも

雄強應足拂風塵   雄強 応に風塵を払うに足るべし

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 動物園の人気者は数多あれど、私は、猛獣の棲む一画を訪れては、
やっぱり格好いいんだなあ、とトラの檻の前で足を止めて見入ってしまいます。
 他の動物と比べて、かの堂々たる態度・姿勢は特段のものであると思っています。

 その風格? のようなものに思うところあって一詩にしたものですが、転句結句の感懐を導く上で、起句承句が十分に説得力のある表現となっているかといえば、ちょっと自分でも頼りないような……。

<感想>

 坂本定洋さんが書かれた「白熊」もそうですが、猛獣の中での人気者と言えば、ライオン、虎、白熊でしょうか。彼等に共通するのはまさに、「風格」というものですね。
 私たちは実際に(?)動物園で実物の虎を見た上で詩を作ることができますが、古代の人々は虎を頭の中で思い描いたのかもしれません。その分、イメージも大きく、勇壮なものになっていますね。
 「唐詩選」に載せた李白の五言古詩に「虎嘯」という言葉がありましたね。「虎がほえると雲が湧き、天地が鳴動する」という意味だったでしょうか。英雄が世に出て活躍することを指していましたが、初めに読んだ時には、虎が引き起こすイメージの大きさがとても印象に残りましたね。
 その印象から行きますと、起句の「不兢人」はちょっと弱々しいかもしれませんね。人間なんて相手じゃないよ、というたくましさの方がふさわしいでしょうし、承句も「百獣に王たる」虎を示していますからね。
 また、承句の「對」「向かう」だけでは弱いでしょうね。「壓四隣」「靡四隣」など、力を示す言葉が欲しいところでしょう。

2004.10.31                 by junji