2003年の投稿漢詩 第61作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-61

  陽関詞三首(其一) 次坡公「其之一」韻       

平生誤尽白頭郎   平生誤り尽す 白頭の郎

獨楽天全遯逸場   獨天の全ったきを楽しむ 遯逸の場

撥棄世累勿労苦   世累を撥棄しては 労苦する勿れ

籘榻尋他華胥郷   籘榻に尋んとす 他の華胥の郷

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 蘇東坡「陽関詞三首 其之一」は下のとおりです。

      受降城下紫髯郎
      ●○○●●○◎

      戲馬台南古戦場
      ●●○○上●◎

      恨君不取契丹首
      ●○●●入○上

      金甲牙旗帰故郷
      ○入○○○●◎

          右贈張繼愿


 「陽関詞」は四声が決められていますので案外難しく、物理的には苦労しませんが内容が平板に成り勝ちです。
 普通四声は仄として、作詩には気にしないせいかとおもいます。

 転句の入○上が煩わしく、非常に難しく何度もやめようかとおもいました。実際、四声の区別が分からない私が作っても無駄だと思います。
 ただ、東坡を慕うあまり作りました。

 前回の『次淵明飲酒韻二十首』東坡に倣って作りました。

 [語釈]
 「天全」:而況得全於天 荘子逹生
  無為自然の道を体得して精神を全く保つ

<感想>

 結句の「華胥郷」は、『列子』からの言葉で、黄帝が昼寝の中で訪れたという、無為自然で治まっている理想の国を指す言葉ですね。よく引用されます。
 この「胥」「上平声六魚」に属する平声だと私は思っていましたが、「華胥」の用法では仄声になるのでしょうか。服部南郭の詩でも同じように仄声になっていたように覚えているのですが、他にも用例があれば、教えていただきたいと思います。

 詩全体の意味は、「華胥郷」に全体が収束されるような、まとまりのある内容になっていると思います。

2003. 3.14                 by junji



謝斧さんからお手紙をいただきました。

 「華胥」の平仄については、気が付きませんでした。
 鈴木先生のご教示通り、「胥」は上平声六魚です。諸橋の「大漢和」では平仄両用になっており、服部承風先生の「韻別詩礎集成」では、「華胥郷」○●◎となっております。「佩文韻府」では、仄用の例はありません。
 同じく「佩文韻府」「華胥郷」平三連●○◎(華は仄用か)のように思われます。
 承風先生にお尋ねしようと思います。結論として、解りません。一時保留として下さい。

 ただ、好事家のように奇を衒って”いなや”を平仄に拘束されないにも拘わらず、否を用いないでことさらに”不”を用いるようなことで措辞をする、そういった悪意はありません。

2003. 3.24                  by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第62作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-62

  陽関詞(其二)      次坡公其之二韻 春日道中  

一望千里十分晴   一望す 千里の十分に晴るを

独歩山間旅装軽   独り山間に歩すれば 旅装軽し

啼鶯側耳渉渓水   啼鶯に耳を側てて 渓水を渉り

時觸春融林裏声   時に春融に觸るる 林裏声

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 蘇東坡「陽関詞三首 其之二」は下のとおりです。

      済南春好雪初晴
      ●○○●●○◎

      行到龍山馬足軽
      ○●○○上●◎

      使君莫忘霅渓女
      ●○●●入○上

      時作陽関腸断聲
      ○入○○○●◎

          右答李公択




<感想>

 こちらの詩は、起句の数詞の配列にまず弾んだ心のリズムが感じられ、承句の「旅装軽」までを一気に読ませます。この辺りは謝斧さんのお得意のところですね。

 転句の「側耳」と結句の「林裏声」が対応するとも言えるし、重複で煩雑だとも言えるでしょう。

2003. 3.14                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第63作は 謝斧 さんからの「陽関詞」です。
 

作品番号 2003-63

  陽関詞(其三)     次坡公其之三韻 冬日道中   

不堪霜気逼人寒   堪えず 霜気の人に逼りて寒く

行旅間関道屈盤   行旅間関 道屈盤たり

征夫倦歩数回首   征夫歩に倦て 数々首を回し

崎崛前途凝眼看   崎崛たりし前途に眼を凝して看る

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 蘇東坡「陽関詞三首 其之三」は下のとおりです。

      暮雲収盡溢清寒
      ●○○●●○◎

      銀漢無聲転玉盤
      ○●○○上●◎

      此生此夜不長好
      ●○●●入○上

      明月明年何處看
      ○入○○○●◎

          右中秋月




<感想>

 この詩は前作とは一転、重い句調で述べられる内容になっていますね。
 深い山に分け入っていったのでしょうか、「崎崛前途」は眼前の情景描写から抜け出て未来への絶望感すらただよわせています。
 そう考えると、直前の「数回首」は、「キョロキョロと辺りを見回した」というのではなく、「行こうか引き返そうかと逡巡する」気持ちを表しているのでしょう。
 ただ、そうなると結句の「凝眼看」は何を示唆しているのか、思いを深めさせてくれます。

2003. 3.14                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第64作は 謙岳 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-64

  見富士山戯作     富士山を見て戯れに作る   

雲外芙蓉正泰然   雲外の芙蓉 正に泰然として

~州無競麗姿妍   神州に競う無く 麗姿妍なり

丈山是賦知民衆   丈山 是を賦して 民衆に知らしむ

白扇倒懸東海天   白扇 倒に懸かる 東海の天なりと

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 東京に高層の建物が建ったとはいえ、まだ都内の各所から、霊峰富士の山を見ることが出来る。
首都高速道の湾岸線から富士山を見たとき、丈山翁の「富士山」を思い出して作った詩。

 結句をそのまま拝借したものですが、果たして良いやら悪いやら。評を待ちたいところです。
気になるのは、「扇」が果たして仄字として使えるか?でなければ、「扇」も「懸」も韻字となってしまう。

 [語釈]
 「丈山」:石川丈山。江戸初期の漢詩人。
「富士山」の七絶の詩が最も人口に膾炙している

<感想>

 そうですね、まずは疑問として書かれた点からいきましょう。

 「扇」の字は、名詞としての用法ならば仄声、動詞としての用法ならば平声となります。この詩の場合は当然名詞用法ですので、仄声となり、問題はありません。

 石川丈山の名作『富士山』は、次のような詩です。

    仙客來遊雲外巓   仙客來たり遊ぶ 雲外の巓(いただき)
    神龍栖老洞中淵   神龍栖み老ゆ 洞中の淵
    雪如紈素煙如柄   雪は紈素の如く 煙は柄の如く
    白扇倒懸東海天   白扇倒(さかしま)に懸かる 東海の天


 この詩が多くの人々に愛されているのは、まさに結句の卓抜した発想、「白扇倒懸」という比喩の巧みさにあるわけで、その最もおいしい所をそのまま持ってきたのでは品が無くなります。
 特に、一句まるごとということでは、丈山の詩を知っている人なら尚更に、この詩を良く評価することはまず無いでしょう。一部分を用いて、そこに自分の工夫を入れる、「換骨奪胎」の心だと思います。

 もう一点は、承句の「神州」はこの場合には「日本の国」という意味でしょうか。これは全くの和語、和臭になります。
 和臭の面以上に、戦前の国策漢詩の時代ではありませんから、意味が通じません。

 残念だったのは以上の点だけですね。起句や転句は表現もしっかりしていると思いますので、もう一息、推敲されると良いと思います。

2003. 3.14                 by junji



海山人さんから感想をいただきました。

 「和臭」の言葉がみえましたので余談ながらちょっと申し上げます。
 石川丈山の『富士山』は私も日本人を読者として書いた名作だと思います。
何故そう回りくどい表現をするかと申しますと「卓抜した発想」である「白扇倒懸」が将に「和臭」であるからです。

 中国の扇は「団扇」則ち丸い扇ですから、逆さまにしても「富士山」の形にはならない訳で、従いましてこの名作は日本人にしか通じないと従来から若干の批判を含みつつ言われて参りました。
 しかし、最初にも申し上げましたように本当に名作だと思いますし、私の詩作も丈山と同じく日本人を読者として書いております。と申しますかとりたてて中国しかも清や宋はたまた唐の人々に伝わらなければならないとは考えておりません。
 そうしますと謙岳さんの用いられた「~州」は、本家の受けた「和臭」批判を自らも甘んじて受けようという「継承の宣言」かもしれません。
 また、たかだか数十年前「戦前」の語彙であれば「中国しかも清、宋、唐の人々に伝わらなければならない」と考える方々よりは身近であると思いますが如何でしょう。

2003. 3.15                by 海山人





















 2003年の投稿漢詩 第65作は 五流先生 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-65

  冬兼六園      冬の兼六園  

雪樹添寒烈、   雪樹(せつじゅ) 寒烈を 添え、

園池総q然。   園池 総て q然(こうぜん)たり。

紅梅高古発、   紅梅 高古(こうこ)に 発(ひら)き、

不敢待春旋。   敢えては 春の旋(めぐ)るを 待たず。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 兼六園に 行ってきました。
 とにかく、寒い 寒いばかりでした。

梅の木は、清楚で 地味な花を 咲かせますが、白一色の中で紅梅が 元気良く 咲いていたのが とても 印象的でした。

 [語釈]
 「q然」:白いさま。
 「高古」:気高くて 古風なさま。
 「発」:花が 開く。

<感想>

 承句の「q」は、「潔白」を意味する字で、ここでは「清らかな白さ」を表していますね。
 雪に覆われた一面の純白の世界に適した言葉が使われていると思います。

 その分、実は転句の「高古」「高」の字とぶつかるわけですね。(見てみると「q」の右側は[高]、この旁の部分で「確かで気高い」ことを表している字です)
 どちらも工夫された部分でしょうが、推敲の余地はありそうですね。

 結句の「不敢」「自分からすすんでは行動しない」の意味です。この詩では、「積極的に春を待つことはしない」ということになりますので、少しニュアンスが違うかもしれませんね。

2003. 3.17                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第66作は 五流先生 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-66

  美国恐喝伊拉克     美国(アメリカ) 伊拉克(イラク)を 恐喝す  

秦肆咆哮六国啼。   秦 肆(ほしいまま)に咆哮して 六国 啼けり。

須臾壊滅永蒙詆。   須臾(しゅゆ)に壊滅して 永く 詆(そしり)を 蒙れり。

縦然美国強其意、   縦然(たとえ) 美国 其意を強(し)いるも、

終定知惟招混迷。   終(つい)には 定めて知らん 惟 混迷を 招くのみなるを。

          (上平声「齊韻」の押韻)

<解説>

 大国は 何でも出来て 良いもんですなあ!!
フセイン大統領は 兎も角、住民が 沢山いるんですよ!!
皆さん そうは 思いませんか?

 [語釈]
 「肆」:勝手 気ままに。
 「須臾」:少しの時間。
 「蒙」:こうむる。

<感想>

 イラクをめぐる情勢は日々緊迫していますが、国際的に高まる反戦の気運の中で、各国の政治の実状が見えてきますね。
 多くの国民の意思と政治の中枢人物の思いがずれている時に、政治家がどういう行動を取ろうとするか、は興味深い比較ができます。この1ヶ月ほど、私は日本人であることがとても恥ずかしいような思いで一杯なのですが・・・・

 秦と美国を並べるのは、これはかなり厳しい表現ですね。歴史が示すわけですから、「秦の如き国」と言われれば、これは最悪、短期間で必ず亡び、周りの国々から嫌われている、ということなんですからね。

2003. 3.17                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第67作は 音之 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-67

  喫煙        

白煙穿鼻孔   白い煙 鼻孔を穿ち、

黒肺臥虚渦   黒い肺 虚ろな渦に臥す。

随誘咬耽溺   誘われるままに 耽溺咬み、

侵身喫毒過   身を侵し 毒を喫し過ぎる。

          (下平声「五歌」の押韻)

<解説>

 タバコ。作ってみてちょっと怖いものになりましたか…。
 現時点では平仄の音感が全く味わえない?ので、絵文字としての漢字というイメージで作ってみましたが、自分でもビックリ奇怪な文字の羅列に。
 私はヘビースモーカーではないのですが、たまに喫煙するので自分をいさめる意味も込めて。そうして考えてみると、自分で意識する以上に、半ば強迫観念があるのを再認識しました。

 世間の流れは禁煙の方へ向っているのは間違いないと思いますが、もういくら正当化してみても煙草をポジティヴに受けとめる言葉が出てきませんでした。
 害のある発ガン性の煙や中毒、依存、麻薬性などを更に空気汚染と…。
 詩としては、抽象から抜け出ず、相変わらず起承転結のメリハリがイマイチのような… どうでしょうか。それにしてもやはりタバコ。やめなくてはいけませんね〜。

<感想>

 タバコの害は数え上げればきりがないようですが、喫煙者から見ればそれ以上の楽しみがあるのでしょう。
 音之さんが仰るように、確かに詩中の言葉はおぞましそうなものが並びますね。この詩を書いて、机の前にでも貼っておけば、恐怖心が湧くかもしれませんね。

 表現としては、承句の「黒肺臥」は、具体的にどういう状態を言おうとしているのでしょうか。イメージとしては何となく分かりますが、「肺が臥す」というのは理解しにくいですね。
 結句の「喫毒過」もどうでしょうか。特に「過」は主語(多分、作者か喫煙者自身でしょうが)も不明確ですし、「日々を過ごす」ということならばもう少し言葉を探した方が良いでしょう。

 戒めの詩としては、面白いでしょうね。

2003. 3.21                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第68作は 海山人 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-68

  立春梅発        

連日寒風旧   連日 寒風ふり

一朝暖気新   一朝 暖気新なり

昇陽初倚北   昇陽 ようやく北に倚りて

梅発庭前春   梅ひらく 庭前の春

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 [語釈]
 「発」:花ひらく。
 「旧」:ふる。
 「初」:ようやく
 「倚北」:日の出の位置が北に倚る。

<感想>

 転句が下三平になっていますので、「庭」の字だけ替えたらいかがでしょうか。

 起句承句での季節の変化は、「連」「一」「寒」「暖」、あるいは「旧」「新」の明確な対句によって劇的に表されていますね。
 ただ、あまりにも対句がぴったりの対応ですので、そこに物足りなさを感じる人もいるかもしれません。でも、私はあえて対応させた作者の意図は、ここでは内容と合っているように思いますから効果的だと思います。
 表現としては、起句の「連日」の掛かっていくところがポイントになるのではないでしょうか。
 「連日の寒風も今日は旧るくなり」というように「寒風」に掛かっていくと読むのか、「連日、寒風は旧るい」「旧」に掛かっていくとするのかですが、前者のように読まないとおかしいでしょうね。

2003. 3.21                 by junji



海山人さんからお手紙を頂きました。

 今晩は 海山人です。
貴重なお時間を割いて掲載頂きましてありがとうございます。

 また「庭」では下三連平になるとのご指摘ありがとうございます。
 最近古体によっておりまして平仄に無頓着になりがちで下三連平は気にしてはおりませんでしたが、結句のなにか落ち着きの無さは感じておりました。
 そこでご指摘を契機に再考して「眼」字に改めることにしました。
実景は「庭」の梅なのですが、句間の連携を一歩進めて転句の『目に見えて移る様』のイメージから「眼」を選びました。
 良い推敲の機会を与えて頂きましてありがとうございます。

 春はまた体調を崩し易い季節、ご自愛下さい。
それではまた、

2003. 3.23                   by 海山人





















 2003年の投稿漢詩 第69作は愛知県江南市の 永月芳乃 さん、二十代の女性の方からの初めての投稿作品です。

 いただいたお手紙は、
 大学で漢詩の講義を受講し、自分でもつくってみたい、と漠然と思っていたところに、こちらのHPを偶然に拝見させていただきました。
 そして、こちらの親切な創作指南や「平仄・韻検索」の素晴らしい機能に百万の味方を得たとばかりに、まずつくってみようと決心し、勇気を出して送らせていただきました。
 創作を発表できて意見を交換できる場、と言う暖かい雰囲気のこのHPが好きです。

作品番号 2003-69

  雪下椿落     雪下に椿落つ   

未散零英馥   未だ散らず 零英の馥

焉忘花想音   焉くんぞ忘るるや 花の想音

皚皚留雪下   皚皚として雪下に留まり

絳絳結牆陰   絳絳として牆陰に結ぶ

忽聞風雪響   忽ち聞くや風雪の響

竟遮氷凍深   竟には遮る氷凍の深

紅而非滅没   紅 しかれども滅没するにあらず

呀即厥我心   ああ即ち厥れ 我が心なりや

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 解説というか…。

  花びらは散っても薫りはまだ散っていません。
  花の声をどうして忘れられましょう。
  雪の白い下にぽつりと残っているのは花の紅。
  それは決して交じり合うことはないのです。
  たちまち風雪の足音が聞こえてきます。
  すると深い氷が全てを遮ってしまいます。
  けれども紅の色は消えることはありません。
  そう、それはまるで私の秘めた心のように。

…と言うような事を漢詩にしてみたくて初挑戦しましたが、韻・文法・表現・書き下し、どれをとっても難しくて、つくづく自分の語彙のなさを思い知らされました…。
 これが文法に沿っているのかどうかさえもわかりません、
書下し文でさえ微妙、という有様です…。

<感想>

 初めての創作、ということですが、繊細な感覚を詩に表現しようという思いがよく表れていて、言葉の奥をじっくりと読み進めたい気持ちになりました。

 ただ、全体に虚字である副詞、助動詞、接続詞などが多く(「未」「焉」「忽」「竟」「而」「呀」「即」)、詩句の流れを滞らせているように思います。
 分かりやすくしようと接続を明快にすることが、却って言葉を重くすることは多く、実字である名詞や形容詞、動詞などを並べただけの方がイメージも鮮明になる場合が多いようです。
 詩は極力「余分な言葉は削れるだけ削る」ことが大切だと思います。その上で、効果を自分で理解して、補う言葉を探す。冗舌や舌足らずを防ぐにはこの手順が良いでしょう。

 二句目の「花想音」は、花からのメッセージというくらいの意味に私は理解しましたが、ひょっとしたら全然違うかもしれません。でも、心に残るロマンチックな言葉で、「今度どこかで使ってみたいな」と秘かに思っている次第です。

 初めての作品が律詩ということで、平仄などでは手を入れなくてはいけないところ(後半は規則からかなり外れています)もありますが、でもチャレンジしようという意思がまずは大切。
 是非、二作目にも取り組んでいただくことを期待しています。

2003. 3.28                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第70作は 一 陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-70

  烟雨朝(修正版)       

早暁庭端佇   早暁 庭端に佇めば

夜来春雨烟   夜来の春雨は烟る

唯知群雀動   唯だ 群雀の動くを知るも

隣近尚深眠   隣近は 尚 深く眠る

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 前回掲載しました「烟雨朝」の修正版ということですが、平仄・用語ともに安定した気がします。

 転句に示された「動」と結句の「静」の表現の対応という構成はとても良いと思います。となると、転句はあまり作者の心情には入り込まず、客観的な描写に留めた方が効果的でしょう。「知」「聞」に替えるだけでも随分違うと思います。

2003. 3.28                 by junji



謝斧さんから感想をいただきました。

 「唯知群雀動」とした場合は、結句に知った理由を婉曲(遠回しに機知に富むように 読者に考えさせるように)に叙述したほうが良いとおもいます。
 「唯だ 群雀の動くを知るのみ」です。
 だって何々だもの成る程な というような手法ですが、結句の「隣近尚深眠」では面白くありません。
 「隣近尚深眠」とすれば、鈴木先生の言われるように、「唯聞群雀動」が良いとおもわれます。
 その場合は「群雀動」は詩的表現に欠けるように思えますので、「唯聞群雀囀」でしょうか。ただ、それでは、詩人の詩意に背くものとおもいますし、下三句が声律的に平板になっています。

 「佇」「佇立」など二字で意味をなしますが、「佇」だけで使用できるのでしょうか。
 良く分かりませんが、因に「彷」「彷」だけでは使えないように聞き及んでいます。さまようとすれば、「彷徨」とします。

2003.3.29                     by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第71作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2003-71

  於遠野感旅愁     遠野に於いて旅愁を感ず   

尋来遠野路凄涼   尋ね来る遠野 路は凄涼、

尚発江山万古香   尚発する江山 万古の香り。

若極旅愁人却願   若し旅愁極まれば人は却って願う、

河童雪女在身傍   河童 雪女 身傍らに在らんことを。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 釜石に出張に行った帰り道、遠野に寄りました。
 遠野自体は、中規模な町ですが、その周辺は柳田国男が訪れた時とさほど変わらないのでは、と思えるくらい自然が豊かですばらしかったです。

 また一人で歩いているとやはりもの寂しくなり、却って河童でも出てくれた方がうれしいかな、など思いました。柳田国男も遠野物語の序文で”日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑ひ児は走れどもなほ旅愁を奈何ともするあたはざりき”と印象を書いています。そんなことを思いながら詩作しました。 結句は和臭だらけでしょうが、遠野のイメージを大事にするつもりで、中国語にしませんでした。

<感想>

 遠野のイメージを生かしたいということで「河童」「雪女」を使ったとのことですが、和臭はこの際置いておくとして、「遠野」に直結するかどうかですね。

 その手がかりは、承句の「尚発江山万古香」ということでしょうね。ただ、この句はやや読み取りにくい、私は「川も山も昔のままの雰囲気を今でも漂わせている」と理解しましたが、「発」の主語を「江山」として読み切れるかどうか、ですね。
 その他では、結句の「在身傍」ですが、「身」は敢えて入れる必要はないでしょうし、転句の「人」も必然性は薄く感じますね。

2003. 3.29                 by junji



謝斧さんからの感想です。

 ニャース先生の詩風通りの警句を含んだ、おもしろい作品ですが、詩意は少し奇を衒いすぎかとおもいます。
 直置しすぎて余韻が乏しいようにおもわれますが。

2003. 4. 5                 by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第72作は 赤間幸風 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-72

  冬日郊行        

思詩案句従閑行   詩を思い句を案じて 閑行を従(ほしいまま)にす

荒径侵霜不問程   荒径 霜を侵し 程(てい)を問わず

微雪舞来双脚重   微雪舞い来たり 双脚重し

林丘葉落一鴉声   林丘 葉落ちて 一鴉(いちあ)の声

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 冬のある日の、ウオーキングの一こまです。
 結句の「葉落」を、「枯木」にしようかなとも思ったのですが・・・。

<感想>

 平仄の点では、起句が下三字が皆平字になっています。(下三連平の禁)

 もう一点は、各句の頭が皆平字であることですね。この平頭の規則は不問のところも多いようですが、一首全体のリズムに変化を付けるためには直せれば直した方が良いでしょう。

 結句の「葉落」「枯木」の選択ですが、私はこの二者の選択ならば、「枯木」の方を選びます。
このように言葉を選ぶときには、どう違いが出てくるのか、選んだ場合にはその理由を自分なりに明確にしておくことが大切です。
 こうした選択はどちらかと言えば主観的な要素が大きく、簡単に言えばフィーリング次第ということにはなるのですが、それでも「自分としては、これこれの理由があるから、こちらを選んだのだ!」と確認しておくことで、自分の感覚に対する客観性や論理性を磨くことができるわけです。
 その客観性や論理性は、次の創作に生きるのは勿論でしょうが、古典や他人の作品を読むときに生きてきます。
 「私とフィーリングの合う人だけが私の作品を読んでくれれば良い!」というのでは、詩人とは言えないと私は思っていますが、そうした点でも有効な手順です。

 さて、と言うからには私も理由を添えなければならないのでしょうね。
 起句承句転句ともに動作を表す言葉が使われています。結句にも実は省略されていますが、「一鴉声」「聞」という言葉が含まれているわけです。となると、更に「落」という動詞を用いるのはどうでしょうか。
 最後の句は叙景で抑えたい、というのが狙いですが・・・・。

2003. 3.31                 by junji



謝斧さんからの感想です。

 措辞や叙述的には何の問題もなく作りなれた方だとおもいます。
 私がトヤカク言うことはないのですが、鈴木先生のご教示とおり、私も「古木」の方がよいとおもいます。
 「林丘」「枯木」「一鴉声」も語の構造が同じで、吟ずるときも勿論ですが視覚的にもすぐれていると思います。
 更には、「林丘枯葉一鴉声(林の丘・枯れた葉・一鴉の声)の方が個人的には 良いと感じています。
 ただ、内容は少し平板のような気がします。景を叙して、情を述べる言外の言が大切ではないでしょうか、「一鴉声」が何かを示唆するような詩作り〔興 暗喩)が必要だと感じます。

2003. 4. 5                 by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第73作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-73

  春思        

四方山野恵風度   四方の山野 恵風度たり

千里江村春意披   千里 江村 春意披らく

鶯声禽語輾疎樹   鶯声 禽語 疎樹に輾じ

白蕊紅葩彩短籬   白蕊 紅葩 短籬を彩る

将酔花前三盞酒   将に酔うべし 花前 三盞の酒

且吟月下一篇詩   且つ吟ずべし 月下 一篇の詩

繁霜索杖閑居叟   繁霜 索杖 閑居の叟

此景茲情存幾時   此景 茲情 幾時か存らん

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 雨水、啓蟄と過ぎ、春の足音が間近かに聞こえてきます。
 やがて、野山の木々には色とりどりの花が咲き、鳥鳥が囀り始めることと思います。そんな心浮かれる春の景色を楽しむ一方、残る人生にあと何度この様な喜びを味わう事が出来ます事か。

<感想>

 掲載が遅れていて申し訳ありません。先月の初めに掲載しなくてはいけなかったのですが・・・

 早春と限定せずに春の季節全体を詠い込んだ詩として読ませていただきました。杜牧やら李白やらと何人かの詩人がこの詩の上に姿を表しては消えていく、そんな思いのする作品ですね。

 首聯の対句は、「千里江村」が上句で、「四方山野」が下句の方が内容的には落ち着くように思います。「江村千里恵風度  山野四方春意披」という感じでしょうか。
 ただ、詩の初めにどんな言葉を置くかには作者の意図があり、予想を裏切るところに面白さを出しているところなのでしょう。

 尾聯の情感も深く、味わい深い作品だと思いました。

2003. 4. 6                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第74作は 博菜 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-74

  春日郊行        

青青柳色雨絲絲   青青柳色 雨絲絲たり

一陣春風度水涯   一陣の春風 水涯をわたる

満地靄然多野興   満池靄然として 野興多し

夕陽欲暮映清池   夕陽暮れんと欲す 清池映ず

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 わが町に美しい江津湖があり、私はよく出かけます。
 温かい湧水の影響か、とても季節の変化があり、特に春が真っ先にやってきます。柳の芽吹きはすばらしく、よく漢詩の名句のように感激します。

<感想>

 起句は一句の中に重語が二つ(「青青」「絲絲」)使われているのは、狙いとしては面白いのですが、ややくどく感じます。もし使うならば、句中対のようにしたいところですね。

 結句は「夕陽が池に映じた」ということだと思いますが、「欲暮」の働きが分かりにくいように思います。
 「夕陽が暮れようとしている」というのもしっくり来ません。「夕陽が沈む」とか、「日が暮れる」ならば合うのですが。
 意味的には「暮れようとしている池の水面」という形で、一文字飛ばして掛かっていくと良いのですが、そのようには読みにくいわけで、ちょっと悩みますね。

2003. 4. 6                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第75作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-75

  酒店故事(改)        

春風好月好風春,   春風 好月 好風の春,

人弄花言花弄人。   人は花言を弄し花は人を弄ぶ。

酒國傾觴傾國酒,   酒國に傾觴するは傾國の酒,

脣浮媚笑媚浮脣。   脣は媚笑を浮かべ媚は脣に浮く。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 桐山人先生から拙作「酒店故事」の転句の「傾店」の語義がわからないとのご指摘がありました。
 「傾城」「傾國」という言葉があるので、「傾店」も許されるかと思ったのですが、やはり無理がありました。
 言葉遊びに無理は禁物。そこで「酒店」「酒國」に、「傾店」「傾國」に改めました。

 [語釈]
 「花言」:うわべだけで実のない言葉

<感想>

 「傾店」の言葉は、以前の鮟鱇さんのお話ですと、独特の思いが込められた言葉のようですから、そういった意味では「語注」を付けることで解決するかな、とも思っていました。

 「傾国」「傾城」については、私たちは白居易「長恨歌」の影響が大きくて、「国を滅ぼしてしまうような美女」「悪い女」というようなイメージを抱いてしまうのですが、美しさの形容として用いられるという程度の用法と見た方が良いように思っています。
 「国」やら「城」を傾けると言うならば比喩としての漠然としたイメージが生きるのですが、「傾店」となると、やや具体的な要素が多くなるのでしょうかね。

2003. 4. 6                 by junji