2003年の投稿漢詩 第31作は 東落 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-31

  会老友     老友に会う   

冬宵老友集旗亭   冬宵 老友旗亭に集う

笑語高歌忘馬齢   笑語高歌し馬齢を忘る

白首猶追若年夢   白首猶追う若年の夢

深更月落豈徒醒   深更月落ち豈に徒だ醒めるのみならんや

          (下平声「九青」の押韻)

<解説>

 昔いた会社の同期の友人と久し振りに会いました。
 酒が入ると忽ちにして昔日の交わりが蘇り、青年のように盛んに語り若い頃の唄を歌い、歳を忘れて深夜まで騒いでしまいました。
 髪に霜を置く年になりましたが、青春の志は今なお失わずにいたいものです。

 結句の「醒」は酒の酔いが醒めることと夢から醒めることの二つの意味を重ねたつもりですが、そう読めますでしょか?

<感想>

 私も毎年、大学時代の友人と顔を合わせる機会を作っていますが、会えば一気に時が戻ることを実感します。
 また、高校時代の同窓生も一昨年に「卒業三十周年」などというきっかけがあり、それ以後よく会うようになりました。それこそニックネームで呼び合ったり、名前を呼び捨てにしたりで、考えれば五十過ぎの相手に無礼この上ないのですが、そこはそれ、懐かしさの方が優るのですよね。
 一緒に仕事をした仲間、一緒に勉強した仲間、一緒に遊んだ仲間、それぞれに相手との関わり方は違うのですが、会うとその関係がそのまま復活するのは、自分の人生の財産の一つのようにも思えて、本当に嬉しいもの。
 東落さんの感懐は全く共感できます。

 転句の「夢」は、以前にも書きましたが、「将来への希望」とか、「あこがれの対象」の意味では漢文では使いません。「和臭」になってしまいます。
 漢文本来の用法で行くと、ここは「若い頃に共に寝た時に見た夢」となります。やはり、「若年日」としておくべきでしょう。

2003. 1.12                 by junji



東落さんからお返事をいただきました。

 鈴木様、いつもご指導頂きありがとうございます。

 迂闊にも「夢」は日本語の場合や英語の dream と同じに考えていました。
 漢語では「夢」はあくまで眠った時に見るもののことで、「理想」などの意味は含まないのですね。

 (「以前にも書きました」とあるので、過去の投稿漢詩を改めて捜すと、2000-70「君成母偶見」及び2001-132「観月」で鈴木先生が、また2001-172「嗤林彪(改訂)」で謝斧さんが、同様の指摘されていました。
 どうも初心者にありがちな誤りのようですね。)

 転句は「酔裏俄蘇若年日(酔裏俄かに蘇る若年の日)に変更したいと思います。

 浅学非才の駄作ばかりで本当に恐縮ですが、今後ともご指導・ご教示頂けきたく宜しくお願い致します。

2003. 1.18                  by 東落





















 2002年の投稿漢詩 第32作は 田中聴石 さんからの作品です。
 「当世風俗(平成十三年)」と書かれた連作ですので、ごゆっくりお楽しみ下さい。
尚、昨年の投稿詩127作目の 當世風俗 は、この連作の「二」に該当するそうです。

作品番号 2002-32

  當世風俗 其一        

眩燿街衢作黨臻   眩燿ナル街衢ニ 党ヲ作シテ臻(いた)

異裝驚衆衒文身   異装 衆ヲ驚カシ 文身ヲ衒ウ。

朱金燦爛染髦髪   朱金 燦爛ト 髦髪ヲ染メ

鐶珥搖揚穿鼻脣   鐶珥 搖揚ト 鼻脣ヲ穿ツ。

百鬼夜行淫溺處   百鬼夜行ス 淫溺ノ処

千鴉曉襲飽饕晨   千鴉 暁襲ス 飽饕ノ晨。

蕩兒無省逸依據   蕩児 省ル無シ 逸ノ依ル拠

父祖恪勤餘慶因   父祖 恪勤ノ 余慶ニ因ル。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 だいぶ見慣れたせいもあろうが、茶髪・金髪に対しての拒絶反応は全くなく、似合うか似合わないかだと思っているが、さすが鼻輪・唇輪には生理的な気味悪さを感じる。
 荀子の言っていた「乱世ノ徴」であろうか。 艱難辛苦された明治の先人や、敗戦後の祖国の復興に日夜努力された先輩方は、昨今のこの世相をいかがご覧じているだろうか。



 [語釈]
 「眩燿」:まばゆいほどに光りかがやく。
 「街衢」:ちまた。
 「文身」:いれずみ。
 「 衒 」:みせびらかす。
 「朱金」:朱色と金色。
 「燦爛」:あざやかにかがやく。
 「髦髪」:長い毛。
 「鐶珥」:みみわ、みみだま。
 「搖揚」:揺れあがる。
 「淫溺」:女色や物事に耽り溺れる
 「飽饕」:満腹する、むさぼり食う。
 「恪勤」:職分を忠実に勤める。
 「余慶」:祖先の善行のおかげで子孫に及ぶ幸福。
   積善ノ家 必ズ余慶有リ、 積不善ノ家 必ズ余殃有リ『易・文言』

<感想>

 聴石さんは「見慣れた」と仰っていますが、私はまだまだ慣れませんね。「親に貰った身体に傷をつける」という程の儒教的な感覚ではありませんが、みんながみんな、同じ様な眉毛で同じ様な髪の色で歩いていることに非常に違和感を覚えます。
 そんなことを言うと古くさい、と言うか時代遅れという印象ですね。勿論、面と向かって「君には似合わないよ!」というほどの勇気もありませんし、30年前に自分が「髪の毛を肩まで伸ばすのが自由の象徴だ!」と気負っていたことを思い返せば素直に受け入れるべきなのかもしれませんが・・・・
 サッカーのワールドカップを見ていた時に、髪の色が黒くないのがなぜか日本選手に多かったのに「???」と思った人も多いのではないでしょうか。

2003. 1.12                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第33作は 田中聴石 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-33

  當世風俗 其三        

民生逼迫使人疲   民生ノ逼迫ハ 人ヲシテ疲レシムモ

浮躁花顔如不知   浮躁セル花顔ハ 知ラザルガ如シ。

貪嗜豢芻趨百里   豢芻ヲ貪嗜セント 百里ヲ趨リ

飾粧容服競千姿   容服ヲ飾粧シテ 千姿ヲ競ウ。

惰夫既棄養親族   惰夫 既ニ棄ツ 親族ヲ養ウヲ

驕婦全忘育幼児   驕婦 全ク忘ル 幼児ヲ育ムヲ。

慨世頽風誰就此   慨世ノ頽風 誰カ 此レヲ就ス

西洋錢鬼我専私   西洋ノ銭鬼 我ガ専私。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 立派な若者はニュースにならないだけで大勢いる、と信じているが、世間の耳目に触れる姿は嘆かわしいものが多い。少年は制裁がないから無法を繰り返し、我々おとなは暴力による反発をおそれて見て見ぬ振り。
 人格の独立がない個人主義は個人勝手主義、未成熟人間の延長に過ぎない。
 見回り組や新撰組ができたら、・・・危険は承知で、応援したい。



 [語釈]
 「民生」:人民の生計。
 「逼迫」:さしせまる。
 「浮躁」:うわついて落ち着きがない。
 「花顔」:花のようにうるわしい顔、若者のこと。
 「豢芻」:穀物を食う犬豚と草を食う牛羊の類、ごちそうのこと。
 「貪嗜」:貪も嗜もむさぼる。
 「容服」:すがたと服装。
 「飾粧」:飾りよそおう。
 「惰夫」:怠け者の夫。
 「驕婦」:わがままな妻。
 「慨世」:世のありさまをうれえ歎く。
 「頽風」:くずれた風俗。
 「銭鬼」:拝銭思想の主宰。
 「専私」:私を専らにする。
  (自分の好きなときに好きなことをする。日本ではこれを許している。)
  銭鬼(qian-gui)先尾韻専私(zhuan-si)先支韻は音合せ。

<感想>

 昨年の重大事件は沢山あったが、自分の身の回りに冷たい風が忍び寄っているような思いをさせたのは、やはり母親による子どもへの虐待だったのではないでしょうか。
 私たちが人間として最も信頼していたものがいつの間にか形骸化し、崩壊しつつあること、それはもはや日本人が「生物」としても歪んだ存在になってしまったことを教えているように思います。

 聴石さんの視点は母性だけを責めているのではないことは分かるのですが、象徴として眺めてもあまりに悲しいことでした。

 「民生逼迫」がもたらしたものか、「銭鬼」がはびこったからなのか、取り返しのつかない惨状かもしれませんが、せめて一歩でも立ち戻るためにはどうすべきなのか、私たちは考えなくてはならない時に来ているのでしょう。

2002. 1.12                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第34作は 田中聴石 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-34

  當世風俗 其四        

往歳新人今庶氓   往歳ノ新人 今 庶氓

異常現象不禁驚   異常ナル現象ハ 驚キニ禁エズ。

殺傷尊屬非稀有   尊属ヲ殺傷スルハ 稀有ニ非ズ

虐待愛兒惟日生   愛児ヲ虐待スルハ 惟(コレ) 日ニ生ズ。

可慄風潮見歪世   慄ル可キ 風潮 歪メラレシ世

當憂影響被痕嬰   当ニ憂ウベキ 影響 痕(キズアト)ツケラレシ 嬰(ミドリゴ)

深慙父祖爲親責   深ク父祖ニ慙ズ 親為(タ)ルノ責

亡國濫觴於我萌   亡国ノ濫觴 我ニ於テ 萌ス。

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 たしかに「新人類」が誕生したころから、人類は質的に変化したと思う。
 若者への嘆き節は五百年も前から繰り返し聞かされているが、今回は人類の異常繁殖が根本原因で変化の途中なのだろうから、どう変わるかは当代の人間の意思次第。
 キリストか、シャカか、孔子か、ヒットラーか、(経済は勿論重要だが、前から力説しているように、それにも増して)偉大なる思想家の出現を心の底から待望する。
 (私は今の時代には、[公人としてなら孟子というが]荀子にこそ期待する。荀子は性悪説で有名だが、そればかりの人ではありません。)

 [語釈]
 「新人」:三十年前、新人類と称された若者のこと。
 「庶氓」:一般の人。
 「稀有」:ごくまれなこと。
 「風潮」:世の中のなりゆき。
 「濫觴」:盃を浮べる。物事のはじめ。大河も源は盃を浮べるほどの小流であるの意。

<感想>

 かつての新人類の世代の人も、いつの間にかそれぞれの立場を意識せざるを得ない年齢になってきて、改めて自己を問われているわけです。いつまでも「守拙」人もいれば、巧みに変革を果たす人もいるでしょう。
 恐らくいつの時代でも、若者はそうした過程を経て、「大人」になっていく。

 ただ、ちょっと待って欲しいのは、そのお定まりの過程を拒否したのが20年から30年前の若者達だったはず、なのに依然として「お定まり」であるとしたら、結局彼らは何も作り出せなかったということでしょう。
 「彼ら」などと他人事のように言いますが、勿論、私自身も含めてのことです。

2002. 1.12                 by junji



 謝斧さんから感想をいただいています。

 世情を風刺した面白い作品だとおもいます。作者の力量が窺い知れます。
 措辞も融通無碍で作詩経験のかなり豊富な方だとおもわれます。

 私のような才の薄いものが先生の詩をとやかくいうのは憚られますが、あえて思うところを述べさせていただきます。
 詩形にはそれぞれの特性があります。七言律詩は格律が甚だ厳しく、対句にしなければなりません。そうすれば、表現方法もかなりの技巧が必要です。
 直置な表現は余韻に乏しくなります。内容も格調の高さが要求されると考えています。片言を以て百意を明らかにし、坐馳を以て万頃を役すです。
 先生の詩は散文で落書のような詩かと感じています。こういった詩は自由に作れる古詩の換韻格で作られたらいかがでしょう。

2003. 1.13                by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第35作は 音之 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-35

  夜来香茗        

月光窓戸透   月光、窓戸を透かし、

幽響貝多芬   幽響、貝多芬。

到此嘗茶去   此に到り、嘗茶去、

然為来夜氛   然し為す、来夜氛。

          (上平声「十二文」の押韻)

<解説>

 題の「夜来香茗」の「夜来香」はチューベローズという多年草の芳香ある花の事ですが、ここでは中国福建省に産する武夷岩茶の一銘柄に限定。ミステリアスな香りがするといわれます。
 現在この銘柄のお茶に私は嵌っています(^^;

 「貝多芬」は、ベートーヴェンのことです。説明は不要でしょうが、ピアノ曲「月光」が有名です。

<感想>

 うーん、「ミステリアスな香り」などと言われると、それだけでも心惹かれるものがありますね。そうした雰囲気を感じさせる言葉が使われていて、作者の狙いはよく分かります。
 ただ、詩としてはよく分からない言葉が続きますね。「貝多芬」「嘗茶去」「来夜氛」、ベートーヴェンは注がありますので理解できましたが、あとの二つはそのまま音読みをしなさいということでしょうか。
 読者に理解してもらうには、まず読めるようにする。難しそうだと思ったら注を付ける、ということでしょうね。

 転句の「到此」や結句の「然為」は余分な言葉のように感じます。特に「然為」の方は意味も分かりにくいですから削ったらどうでしょうか。

2003. 1.18                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第36作も 音之 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-36

  安金総督求争乱     安んぞ 金総督 争乱を求むる   

旧年失快慰   旧年 快慰を失し

元日生愁心   元日 愁心を生ず

何以掃哀憤   何を以て 哀憤を掃はん

徒為詩独吟   徒だ詩を為りて 独り吟ずるのみ

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 前作のお茶の詩は少しキャッチコピーのようになってしまったでしょうか。
 戦争を予感させる最近の時勢は暗雲たち込めていますが、それを美味しいお茶一杯で一時忘れると詠めれば時勢にかなうのですが、今の私ではちょっと難しく、作ってみてはじめて杜甫らの先人の上手さを、改め実感しました。

<感想>

 平仄の点でまず見ますと、起句と承句はそれぞれ「下三仄」「下三平」ですし、また、起句の二字目「年」孤平ですね。

 読み下しについては、聴石さんの原稿には書かれていませんでしたので、私が付けました。結句の読みがひょっとしたら違うかもしれません。

 起句の「失快慰」は、一連の北朝鮮に関係する事件のことを指しているのだと思いますが、そうすると、どうして「元日」「生」じたのかが気になります。
 「昨年からずっと溜まってきたのだが、元日は一層憂いが深くなる」、という表現ならば分かりやすいのすが。直すならば直接「元日漸愁心」のように、「次第に」とか、「ますます」の意味が出るようにすると良いと思います。

 その他では、起句から順に「失快慰」「愁心」「哀憤」と感情を表す語が続く点が重複の感を抱かせ、作者の期待ほどには読者に訴えて来ないようです。
 こうした場合には、その感情を想像させる景色や事件などを描く必要があります。もし短歌などで同じ様な表現をしたらどう感じるかを想定してみると分かりやすいかもしれません。具体性が消えてしまうと、どうしても内容が浅く思われます。

 最後の「詩独吟」はちょっと弱すぎるかな、というのは私の印象ですが。

2003. 1.18                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第37作は 田中聴石 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-37

  當世風俗 其五        

劫後饑貧爭可忘   劫後ノ饑貧 争(イカデ)カ 忘ル可ケンニ

昨今鄙習歎無遑   昨今ノ鄙習ハ 歎クニ 遑(イトマ) 無シ。

車中混雜化粧室   車中 混雑セルモ 化粧ノ室

路上喧騒飲食場   路上 喧騒ナルモ 飲食ノ場。

未用貨貲汚芥變   未ダ用イザル貨貲ハ 汚芥ニ変ジ

欲爲富貴惡錢狂   富貴 為ラント欲シテ 悪銭ニ狂ウ。

獲財須有畏天意   財ヲ獲スルハ 須ラク 天ヲ畏ルノ意 有ルベシ

窮巧才知奈欠綱   巧ヲ窮メル才知 綱ヲ欠クヲ 奈(イカン)セン。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 国・社会によって守られていない庶民が頼るものはカネです(ユダヤ人・アルメニア人・フェニキアカルタゴ人・華僑がそうでした)。対象がはっきりすれば、才能をそこにかけ努力します。
 皆がそのことに気が付けば熾烈な競争になります。それがグローバルスタンダードなのでしょう。たぶん社会は殺伐たるものになるでしょう、「安心」を得られる違った構造・原理が皆から承認されない限りは。



 [語釈]
 「劫後」:兵火の後。戦後。
 「饑貧」:飢えと貧しさ。
 「鄙習」:品性が下品な風習。
 「貨貲」:商品。
 「汚芥」:汚いあくた、ごみ。
 「窮巧」:たくみをきわめる。
 「才知」:才能と知恵。
 「 綱 」:物事の根本となるもの、人の守るべき道。

<感想>

 「戦後」という言葉がある種のノスタルジーを伴って使われるようになったのはいつ頃からだったでしょうか。いつの間にか「歴史」の領域に入ってしまったのでしょうか。
 今では「饑貧」と呼び得るような経験を語る人が少なくなりましたが、戦後の貧しかった生活が自分の価値観の根幹になっていると思っている人はまだまだ多いのだと思います。
 そう、問題はまさに「語る人が少なくなった」ところにあるのです。
   こんな時代遅れのことを話しても、若い人には理解できないだろう
   昔のことばかり言うと老人の愚痴のように思われて嫌われるかもしれない
 こんなことばかりを考えて、どうやら私たちは自分から口を閉ざしているのでしょう。

2003. 1.18                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第38作は 田中 聴石 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-38

  當世風俗 其六        

平時安逸飽盤飧   平時ハ安逸 盤飧ニ飽クモ

一覺危機齊軌奔   一タビ 危機ニ覚ムレバ 軌ヲ齊エテ 奔ル。

徒手挺身翔萬里   徒手 身ヲ挺シテ 万里ヲ 翔ケ

空拳汗額救千門   空拳 額ニ汗シテ 千門ヲ 救ウ。

無償行動健兒志   無償ノ行動ハ 健児ノ志

不懼精神勇者魂   不懼ノ精神ハ 勇者ノ魂。

發露丹心搖世界   丹心ヲ発露シテ 世界ヲ 揺(ユリウゴ)カス

我邦前路望猶存   我邦ノ前路ニ 望 猶 存ス。

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 良いとなったら一斉にやるのが日本人の特色。報道されただけでも、危機に立ち向かう若い人たちの行動には頭が下がる。
 志を立てて広い視野から得た眼を以って、安逸をむさぼっている同輩や子供たちの眼を覚ましてやってほしい、彼等だって気がつけば動いてくれるし、その気になれば立派にやってしまうんだから。


 [語釈]
 「盤飧」:皿に盛った食物。
 「齊軌」:わだちをそろえる。
 「 奔 」:かけつける。奔走は忙しく走り回って人の用をする。
 「徒手」:手に何も持たないこと。
 「空拳」:こぶしだけで何も持たない。
 「千門」:多くの家。
 「無償」:報酬を当てにしない。
 「不懼」:おそれない。
 「丹心」:まごころ。


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<感想>

 寂しい気持ちになることが多い現代ですが、ほっと救われる想いのする時も確かにあります。ただ、まだ楽観するわけにはいかない、相手を見直し、相手から見直され、相互に信頼を重ねて行った時にこそ、新しい希望が持てるのでしょう。
 最後の句の「我邦前路望猶存」が余韻深く、連作を締めくくるにふさわしい(あ、ひょっとしたらまだ続くのかな?)収束になったと思います。

2003. 1.18                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第39作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-39

  洪水行        

不遭春旱肥田圃   春旱に遭わず 田圃肥え

盻盻何厭農事苦   盻盻何ぞ厭わん、農事を苦しむを

喜見野雲緑油油   喜び見る、野雲の緑油油たるを

不意             意わざりき

仰天太息飽霖雨   天を仰ぎ太息す、霖雨に飽きるを


霖雨無收溢堤塘   霖雨收まる無く、堤塘溢れ

忽変洪水壊石梁   忽ち洪水に変じて石梁壊す

更失川途呑田疇   更に川途を失って、田疇を呑む

抜木崩崖無留妨   木を抜き崖を崩し、留どめ妨ぐる無し


暴雨漸収見白日   暴雨漸く収りて白日を見れば

無奈泥汚浸雙膝   奈んともする無し泥汚の雙膝を浸すを

后土不乾泥土周   后土乾かず泥土周し

骨肉昏墊多相失   骨肉昏墊して多くは相失い


農夫向誰訴禍災   農夫誰に向ってか禍災を訴えん

悄然掩顔不堪哀   悄然 顔を掩いては 哀しむに堪えず

須知水可亡人国   須らく知るべし 水の人の国を亡す可きを

労力不報亦徒哉   労力 報われず、亦徒なる哉


朝鮮厳冬凍難耐   朝鮮の厳冬 凍耐え難く

剰苦飢餓摧肝肺   剰つさえ飢餓に苦みては 肝肺摧く

喰尽草根無術生   草根を喰い尽しては生きるに術無し

飢烏坐守窺兒輩   飢烏は坐守して 兒輩を窺う


君聞           君聞くや

餓親不忍食吾児   餓親吾児を食らうに忍びず

易子而食析骨炊   子を易えて而して食らわんとし 骨を析きて炊ぐ

又聞           又聞くや

慈親為児自縊死   慈親児の為に自から縊死し

即令割肉以療飢   即は肉を割き 以って飢を療さしめん


從此疲民尽餐飯   此れ從り疲民 餐飯尽き

毎年死者幾百万   毎年死する者 幾百万

哀哉路傍交餓殍   哀しい哉 路傍餓殍を交え

青燐鬼哭深怨恨   青燐 鬼哭 怨恨深し


眼見孤児怯饑寒   眼のあたりに見る 孤児饑寒に怯え

拾路粟粉療飢難   路に粟粉を拾いて 飢を療すこと難し

身無袴襦足無履   身には袴襦無く 足に履無し

死別怙恃苦辛惨   怙恃(両親)と死別しては 苦だ辛惨たり


朝鮮首領性刻薄   朝鮮の首領 性刻薄

常將残忍弄詐略   常に残忍を將って 詐略を弄す

不感痛痒強不関   痛痒を感ぜずんば 強いて関せず

人民窮迫苦苛虐   人民窮迫して 苛虐に苦む


只恐爪牙翻叛旗   只だ恐る 爪牙の叛旗を翻すを

多將賦斂充軍資   多くは賦斂を將って 軍資に充つ

不興産業国儲乏   産業興らず 国儲乏し

轍鮒將知国力衰   轍鮒(轍鮒之急)將に知る 国力衰ろえるを


為用巧詐国是変   為に巧詐を用て国是変じるも

蟷螂怒臂請救援   蟷螂臂を怒らしては、救援を請う

無奈近隣無国交   奈んともする無し、近隣に国交無く

無告何辜甘天譴   無告何の辜ありてか、天譴に甘んず


日本政府愍天殃   日本政府天殃を愍れみ

剰謝旧悪輸穀糧   為に旧悪を謝して穀糧を輸すも

不意穀糧換兵革   意わざりき 穀糧兵革に換え

群蟻付羶援無方   群蟻羶に付いて 援んとするも方無し



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<解説>

 平成七年秋 仄聞朝鮮人民遭厄禍 感慨不少為賦

 [語釈]
 「昏墊」:水害に遭って苦しむ事
    下民皆昏墊 書経 益禝 洪 浩方割人懷昏墊情
 「后土」:皇天淫溢兮秋霖兮后土何時而得乾 楚辞 宋玉
 「無告」:訴える事も出来ない 転じて人民のこと
 「水可亡人国」:知伯が、水が国を滅ぼし得るといった故事で 
    (史記魏世家)「易子而食析骨炊」もその時の事
 「蟷螂怒臂」:かまきりが自分の力も顧みずに敵に立向かう

<感想>

 北朝鮮の現状については、実態が隠されている分だけ私たちは様々な思いを深くせざるを得ません。
 特に年末からの核開発をめぐる彼の国の強硬な姿勢は、日本や世界全体の平和への不安とともに、北朝鮮国内の社会不安への危惧を一層大きく深いものにします。

 アメリカによるイラク攻撃中止を求める動きが世界に広がりつつある中、さながら20年も昔のような外交戦術を展開する北朝鮮が、更に孤立化を深めることに対して、悲しみを感じる方も多いのではないでしょうか。

 昨年の拉致被害者の方々の帰国以来、北朝鮮の現状が以前よりも細かく報道されるようになってきました。さすがに一時のような感情的な批判口調は収まってきたように思います。情報を冷静に分析することの大切さを感じます。

 多くの人の共通の思いは、北朝鮮の人々の食糧不足を始めとする生活や生命の危機、それを生み出している特殊とも言える北朝鮮の国内政治への不安にあると思います。謝斧さんのこの作品は、「平成七年秋」に作られたもののようですが、「七年を経ても何も解決されていない」というお気持ちで投稿されたのでしょう。
 そういう意味では、この詩の主題はまさに「平成七年秋・・・」という添題にこそ在ると言えるでしょう。

 結末が中途で切れたような印象を受けますが、これは結果的に「援助のはかなさ」を印象づける効果を出しているとも取れますね。

2003. 1.26                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第40作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-40

  次陶濳飲酒其六之韻     陶濳の「飲酒其六」の韻に次す   

道樞得環中   道樞 環中に得

方生彼與是   方び生ず彼と是と

淵明無弦曲   淵明が無弦の曲

兩行成與毀   兩行す成と毀と

斎物聞天籟   物と斎しくして、天籟を聞き

不入非人爾   人に非ざるに入らざるを爾となす

夫子休天鈞   夫子 天鈞に休う

何須從黄綺   何ぞ須いん 黄綺に從わんとするを

          (上声「四紙」の押韻)


<感想>

 陶潜「飲酒」の詩では、結廬在人境 而無車馬喧 (廬を結びて人境に在り 而も車馬の喧しき無し)」の句や採菊東籬下 悠然見南山 (菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る)」などの句で知られる 其五 が有名ですね。其六 もなかなか味わいのある詩です。

  飲酒(其六)   陶潜(東晋)

行止千万端   行止は千万端

誰知非与是   誰か非と是とを知らんや

是非苟相形   是非 苟(みだ)りに相形

雷同共誉毀   雷同して共に誉め毀る

三季多此事   三季より此の事多し

達士似不爾   達士のみ爾(しか)らざるに似たり。

咄咄俗中愚   咄咄 俗中の愚

且当従黄綺   且く当に黄綺に従うべし



 訳をご覧になりたい方は、其六の訳 をクリックして下さい。

 陶潜の詩では、「人間の出処進退などの是非は誰にも判断できないのに、世間の奴らはああだ、こうだとうるさいものだ。山に隠れて黄綺のように暮らそうか」という、恐らくは役人を辞めて故郷に帰ったことを世間の人々にあれこれ言われてうっとうしいなぁと洩らした、結構実感のこもった詩だと私は思っています。

 それを受けての謝斧さんの詩は、荘子からの典故の効果で、思想的な要素が強くなっていますね。
 「そもそもこの世のことは区別のつかないものであり、是非を超越して生きねばならない。聖人は「天鈞」、つまり自然の調和の中に生きるものだ」と話を進めるので、結論は「何須從黄綺」として、陶潜とは逆のものを以てこれらたのでしょう。

 先人の詩を発展させて行くという点で面白く読みましたが、典故が多いからでしょうか、実感が薄くなって理屈が先行しているような印象もあります。
 三句目の「淵明無弦曲」を奏でるのが「私」である、というようにもう少し現実に近寄せて作者の姿が見えるように書けると、陶潜の詩とのバランスが良くなるように思います。

2003. 1.26                 by junji



謝斧さんからお返事をいただきました。

 桐山先生の云われるとおり、詩意は大隠隠朝市(反招隠詩)です。
 どういった理解のされ方をされるのか、楽しんで、わざと説明はしませんでした。

 此の詩は自分の心情を詠じたものではありません。もちろん、夫子は私ではありません。ただ単に、荘子が言う万物斉同の境地、いわゆる天鈞(絶対的一の世界に休む 安住する)の説明です。其の説明に「道樞」「淵明無弦曲」を用いました。
 私の荘子を読んだ結論がこの詩です。
 「因是因非 因非因是 是以聖人。不由而照之于天(自然)。因是也。是亦彼也。彼亦是也。彼亦一是非。此亦一是非。果且無彼是乎哉。彼是莫得其偶。謂之道樞。樞始得環中。以應無窮。是亦一無窮。非亦一無窮也。」とあります。

 「方生彼與是」 彼と是とは相即的に成立する相対的な概念で、それに止まらず、不由而照之于天(自然) 天地間のあらゆる現象あらゆる価値判断についてもいえます。ロゴスとパドス生と死 方生方死、方生方死であって、生と死と分かつのは人間の偏見的分別にすぎません。

 「淵明無弦曲  兩行成與毀」 昭文は琴の名人でしたが、ある日突然に琴を弾くのをやめました。ひとつの音をだせば、その他の音が消えてしまうことに気が付いたからです。
 淵明も無弦の琴をを撫して曰く、「タダ琴中ノ趣ヲシルノミ、何ゾ弦上ノ声ニ労ワサレンヤ」とあります。淵明の表面的な意味は異なりますが、思想的な考えは同じです。

2003. 2. 3                     by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第41作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-41

  漢歌・看“箱根駅伝”        

粉雪舞霏霏,      粉雪 霏霏として舞い,

寒透老躯人到遅。   寒は老躯に透って人 到ること遅し。

無言等鳳姿,      言無く鳳姿を等(ま)てば,

君誇筋骨眼前飛,   君 筋骨を誇って眼前に飛び,

我発声援心裡馳。   我は声援を発して心裡に馳せる。

          (下平声「四支」「五微」通韻)

<解説>

 正月3日、遊びに行った先で箱根駅伝を観戦しました。
 小雪のなか、待つこと30分、応援できたのは15分ほど。選手のみなさんのまなじりを決して走る姿に感動。選手のみなさん、ご苦労さまでした。
 美しい姿を見せていただき、ありがとうございました。

 [語釈]
 「鳳姿」:ここでは駅伝の選手の走る姿のたとえ
 「到」:やってくる
 「心裡馳」:心の中で走る。わたしは年老いているので体は動かないが、心は選手とともに走る。


<感想>

 箱根駅伝は年中行事として定着し、正月の楽しみの一つになりましたね。私も一度は応援、というか、見物に出かけたいとは思っているのですが、なかなか行けません。
 でも実は、朝からお酒を飲みながらテレビで見る方が好きなのかもしれませんね。

 この漢歌は五七五七七の字数と、口語体を用いたことが特徴ですね。風情という要素は弱いと思いますが、その分、中国語で発音しながらゆっくりと読むと言葉に独特のリズムが出て、臨場感が増しているように感じました。

 本当に、選手の皆さん、ご苦労様でした。

2003. 1.26                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第42作は 中山逍雀 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-42

  長江勝遊        

旅興人若問,   旅興、人若し問はば,

相酌應舊歓。   相い酌みて舊歓に應えん。

吟情聊託酒,   吟情、聊か酒に託し,

拙句助清歓。   拙句は清歓を助く。

山磴方回首,   山磴、方に首を回せば,

低橋跨急湍。   低橋は急湍を跨ぐ。

鐵鯨千人客,   鐵鯨、千人の客,

嶂聳水天寛。   嶂は聳へ水天は寛し。(句中對)

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 貴詩詞壇のWebPageは時折拝見しています。詩友の石倉鮟鱇さんは時折投稿して居られるようですが、幸甚に存じます。
 この作品は、教材用に作ったのです。前虚後實として、過去の経験を相棒に話すと言う手法です。合聯落句を句中対としてみました。

 中華詩詞壇の大勢を占める現代韻を用い、詩法は前虚後實、流水隔句對と言う詩法です。
 流水隔句対はとても簡単にして創りやすい詩法です。先ず出句から書き下ろし、落句へその儘書き下ろします。その場合対句を意識する必要は有りません。ただ句意に前後の関係があります。出句が先で、落句が後の関係です。
 次の二句、後聯を前聯の対とします。これは句と句の対ではなく、章對章の対と成ります。お試し下さい。半分の手間で出来、即興などにはとても便利で、この手法なら律詩一句が20分も有れば出来ます。

<感想>

 中村逍雀のホームページ「葛飾吟社」には、この「漢詩を創ろう」のページをスタートさせた時から、教えていただくことが多く、本当にお世話になっています。
 初心者の方への指導コーナーを新たに開設なさったそうです。私も早速1作送らせていただきましたところ、懇切丁寧なご指導をいただきました。
 自分の作品に対しての他人からの批評を聞くことは、日頃の自分のやっていることとは反対で、とてもうれしい思いでした。

 詩の後半、逍雀さんの仰る「実」の部分は、私もこの夏に三峡を下りながら見た景色と重なり、思い出が深くなりました。  「鐵鯨」は、長江を行き来するフェリーのことでしょうか。先日NHK(?)が放送していた「三峡ダム」の特集でも、ダム建設による村の水没のために移住をすることになった人々を千人も乗せたような、大きなフェリーが何隻も映っていましたね。

 この詩は形としては五言律詩のようですが、平仄や対句がないことから、古詩になりますね。

2003. 2. 4                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第43作は 東落 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-43

  寒夜成子与食飲於餐館      寒夜 成子と餐館に食飲す  

餐館窓前夜雪飛   餐館の窓前に夜雪飛ぶ

珍肴美酒燭華輝   珍肴美酒 燭華輝く

更知父子交觴樂   更めて知る父子交觴の樂しみを

凍路酔顔懐暖帰   凍路酔顔 暖を懐いて帰る

          (上平声「五微」の押韻)

<解説>

 暖冬の予報は外れて先月半ばから寒さ増し、北国ならぬ当地でも年明けて三日続きの雪でした。
 妻娘偶々不在の三日夜、長子を誘い近在の小レストランに出かけ折のことを詩にしてみました。

日頃は気恥ずかさ故か息子と二人で話すことはあまりないのですが、そこは酒の効用、料理を賞味しつつ歓談。一刻楽しい時を過ごすことができ、何となく心暖かい気持ちで帰ってきました。

<感想>

 東落さんは私とほぼ同じ年齢ですので、きっと家族の年齢構成も似ているかもしれませんね。
 我が家の息子は酒を飲みませんので、たまに食事に出かけるともっぱら運転主となりますので、「父子交觴楽」というのはどうやら私には味わうことはできないようです。

 この詩は軽いタッチで書かれていて、つい今し方帰ったところで作ったような、そんな即興的な雰囲気を持っていますね。
 転句まではスムーズに読めますが、結句はやや気持ちが先走りでしょう。「酔顔」の役割が不明確です。「酔顔」「凍路」「懐暖」の関係は何なのでしょうか、結句を「凍路懐暖帰」と書いてみると分かりますが、不要な言葉でしょうね。却ってせっかくの感動を薄めてしまっているように感じます。
 「懐暖」も主観的な言葉で、「温かい気持ちで」とは言うのはかなり意識しないと理解しづらいでしょうが、ま、許容範囲でしょうね。

2003. 2. 4                 by junji




東落さんからお返事をいただきました。

 桐山人鈴木先生、いつも親切に御批正を頂きありがとうございます。

 結句は、初め「凍路酔脚」と浮かびましたが平仄が合いませんでした。
「酔脚」「酔顔」に変えて平仄は合いましたが、路⇒脚という自然な関係が崩れバラバラになってしまったようです。

 ご指摘を受けて、「凍路寒風抱暖帰(凍路寒風 暖を抱いて帰る)に変更したいと思います。

 今後ともご指導・ご教示頂けきたく宜しくお願い致します。

2003. 2.11                   by 東落





















 2003年の投稿漢詩 第44作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-44

  小寒雪日偶感        

独在空斎不出門   独り空斎に在って 門を出でず

小寒茅屋雪昏昏   小寒 茅屋 雪昏昏

簷梅一朶甲芽冷   簷梅一朶 甲芽冷たく

炉炭数茎炎色温   炉炭数茎 炎色温かし

静裡時聴沙雁語   静裡 時に聴く 沙雁の語

愁中暫酌濁醪樽   愁中 暫しば酌む 濁醪の樽

西田東圃無春事   西田東圃 春事無く

偏待索居風物暄   偏えに待つ索居 風物の暄なるを

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 寒の入りと伴に今年の雪が舞いました。毎年の事ながら雪の向こうに見える春が待ち遠しく感じます。雪の日の一日を詩にしてみました。

<感想>

 真瑞庵さんの詩は、分かりやすい言葉を用いつつ、折々の風景を切り取る視点の細やかさで、いつも眼前に景色がそのまま見えるような作品を読ませていただけます。
 今回の作品は、春にはまだもう一息という時候を、屋内の視座から悠然と眺めている作者の姿がよく窺えます。

 冒頭の「独在空斎不出門」は、私はとても良いと思いました。「独」「空(斎)」は、意味の上では重複になるのでしょうが、ここでは強調効果となって、次の句の「雪昏昏」へと連関を深めているように感じます。
 この二句は、つい口ずさんでしまうような滑らかさを持っていて、私は何度も詠んでしまいました。

 最後の「偏待索居風物暄」は、やや物足りなさを感じます。「偏待」が、その後の「索居」「人との交わりを避けた暮らし」という隠棲を思わせる言葉を生かしていないように思います。

2003. 2. 7                 by junji




謝斧さんから感想をいただきました。

 七言律詩のような難しい詩形に、何の瑕疵もなく作られて、申し分のない佳作ではないでしょうか。元韻も難しい韻ではなかったでしょうか。とても太刀打ち出来ないと、興味深く鑑賞させていただきました。

 「索居」の「人との交わりを避けた暮らし」という隠棲を思わせる言葉を生かしていないように思います。という鈴木先生の言葉ですが、結聯にかぎっては、鈴木先生とは考えは異なります。
 却って、詩意から「索居」について、隠棲のようなことは感じとられないのが好いとおもっています。田舎親父の侘び住まいぐらいでとらえています。(ただ茅屋と索居の重複は少し気になりますが)
 収束は詩人の春暖を待ち遠しく窓外を眺めている心情がよく感じられます。
 以前吉川幸次郎先生が、日本人の詩は愁いに沈んだ詩が多いというようなことを仰ってましたが。
 個人の好みもありますが、ここも「愁中」よりも、「閑中」ぐらいの方がよいのではないかと感じています。

 唯、物足りなく感じている処は古人(韓愈)がいうところの、「能く陳言を以てして、新意を発す」という点ですが、このことは大変難しいようです。

2003. 2.11               by 謝斧



海山人さんからも感想をいただいています。

 真瑞庵さんの詩を拝見するのは「晩秋夕景」以来でいつもながら佳作だと思います。
 冒頭の「独在空斎不出門」の重複は、私も畳みかけの効果があると感じます。

 ところで鈴木先生も謝斧さんも最後に「やや物足りない」と漏らされているところを考えてみました。
 お二人とも微妙に相違しているわけですが、謝斧さんの紹介された『古人(韓愈)が いうところの、「能く陳言を以てして、新意を発す」は至極名言だと思います。

 それもあるとして、前作「晩秋夕景」で謝斧さんが指摘された『対句は・・次の収束までの因果関係が読者にはよく分りません。』という点が本作にもあるように思います。「句間の連携」「仕込み」の部分です。
 真瑞庵さんの言われる「雪の向こうに見える春が待ち遠し」という”思い”はどう仕込まれているでしょうか。

 首聯、頷聯、及び尾聯は流石だと思います。頸聯の転じかたが若干解りにくいようです。
 頷聯が「(白い)梅の蕾の固さ」「(赤い)炉の炭の温さ」で、頸聯は「静かに聴く雁の声」「愁いに酌む濁り酒」
 奇数句が景物で偶数句が人事の構成ですね。「小寒(新暦1/5頃)」に「雁の声」はぴったりですから後を「静」に対する「動」で、且つ「春を待つ心」を添えて「正月の賑い(の後)」を詠み込んでは如何でしょう。
 すると尾聯「無春事」は意味深で、そのかわり結語「風物暄」は他の言葉に替えることになりましょうか。
 ただ、シンメトリックな対句を敢えて崩し、「濁醪樽」には上巳桃の節句の白酒を連想せしめ、其の節句までの農閑期を暫し過ごすお百姓さんを労いつつ、正月の賑いに独り世を愁いながら春を待つの図であるというなら脱帽です。

2003. 2.18                     by 海山人





















 2003年の投稿漢詩 第45作は 一陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-45

  烟雨朝        

早暁庭臨独   早暁の庭に独り臨めば

夜来霞雨烟   夜来の霞雨は烟る

僅知寒雀動   僅に寒雀の動くを知るも

隣近尚深眠   隣近は尚深く眠る

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 珍しく早起きをして庭に下りて眺めた寸描です。
 自然の動きを感じたままに、素直に表現できればと思っています。
唯、表現することは、苦しみと楽しみが半ばします。

<感想>

 平仄の上では問題ないと思います。
 言葉の面では、
起句:「庭臨独」は語順がおかしいですね。お書きになったように「庭に独り臨めば」とするならば、「独臨庭」としなくてはいけません。
承句:「霞雨」はどのような雨のことでしょうか。「霞」は、日本語の「春にたちこめるかすみ」の意味では漢詩では使いません。朝夕の遠くの雲や靄を眺めて使う言葉ですので、庭先の景色としては不自然な表現です。素直に「春雨烟」くらいでもバランスは取れると思います。
転句:「寒雀」は、用法としては「冬の雀」を表しますので、ここでの「烟雨朝」という春暁の題とは合わなくなります。
 雀の数を表すようにして、「一雀」「両雀」「数雀」「群雀」として、頭の「僅」を平字である「才」あたりに変更してみたらどうでしょう。あるいは、「僅」を、別の副詞(例えば「唯」「惟」「俄」などに替えるのも一つの方法でしょうね。

2003. 2. 7                 by junji