2003年の投稿漢詩 第136作は 西川介山 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-136

  初春即事        

一夜小寒經雨餘   一夜小寒 雨を経るの余

平明驟暖暗香疏   平明驟暖 暗香疏なり

東皇無力開花未   東皇力無く 花を開くこと未だし

盡日清遊千里虚   尽日清遊するも 千里虚し

          (上平声「六魚」の押韻)

<感想>

 三寒四温ではありませんが、春の訪れは一歩一歩、一雨ごとに春めいていく様子が前半のたゆとうような表現によく出ていると思います。
 「一夜」「平明」(夜明け)の二つの語が時間の流れを示すと共に、「寒」から「暖」への変化も包含する役割をしているようですね。

 前半の「春がそろそろ来るかな?」という期待を転句は一転して打ち消し、「無」「未」の打ち消しの字が、最後の「虚」を暗示するかのようです。

 読み終わった後には、「千里虚」の言葉が重く心に残るのですが、前半と後半では心情が大きく違うようで、印象としては、前半と後半の作詩時期に時間差があるように感じました。

2003. 7. 6                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第137作は 佐竹丹鳳 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-137

  晩春即事        

落紅漂盡緑陰初   落紅漂い尽きる 緑陰の初め

郷思難消過舊居   郷思消し難く 旧居を過ぐ

無主簷頭新燕噪   主無きの簷頭 新燕噪ぎ

傷春白髪好風徐   春を傷む白髪 好風徐なり

          (上平声「六魚」の押韻)

<感想>

 丹鳳さんからは、以前にも旧居を訪れた内容の詩をいただきましたね。思い出してみましたが、2001年の投稿での「初秋吟」でした。

 前回は初秋の季節の中での思いでしたが、今回は晩春。懐かしい旧居は空き家となっていますが、燕は今年もやって来て巣を作っているようですね。
 転句の「無主」「新燕噪」の対比が、人と自然の姿を描いていて、いっそう寂しさが募る気がします。
 そういう点では、承句の「緑陰初」も同じような効果を持っているのでしょう。新しい季節や事物が眼に入る分だけ、一層に、古いもの、懐かしいもの、「郷思」「傷春」「白髪」などに心が動くことになるわけですね。

 素材の配置にも工夫が感じられ、「晩春」にふさわしい詩だと思いました。

2003. 7. 6                 by junji


ニャースさんから感想をいただきました。

 ニャースです。
 私ごとですが、8月に住み慣れた家から東京に引越します。
佐竹さんの詩を見て、自分も同じような心境になるのだろうと思わずしみじみしました。
特に結句が好きです。

 穏やかな好風も立場を変えると、却って悲しみを増す材料になるんですね。余韻を感じます。

2003. 7.25                 by ニャース





















 2003年の投稿漢詩 第138作は 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-138

  田園即事        

郊野風光展眼前   郊野の風光 眼前に展ず

屈腰老農植苗専   屈腰の老農 植苗に専らなり。

美田蕪廃不堪見   美田は蕪廃し 見るに堪えず

啼鳥無心群圃辺   啼鳥無心 圃辺に群がる。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 平素、「所謂眼前景致口頭語便是詩家絶妙詞」、この詞こそ21世紀の漢詩の在り方だと思っている。和漢先賢の名詩、名句に感動し手本にするのは当然である。

 昔はは眼いっぱいに、田植えの風景が見られたが、都会の近郊には休耕田が多く、田植えといっても機械が主で、人の姿はまばらで、然も老人が主体である。農政への批判ではないが、昔の田植え風景が懐かしい。

<感想>

 田植えという昔ながらの光景も、仰る通り、様変わりをしてしまっていますね。家族総出で田植え、というのはまず目にすることはありません。

 漢詩では、南宋の楊万里「挿秧歌」にそんな懐かしい光景が描かれています。

   田夫抛秧田婦接    田夫 なえぐれば 田婦接ぐ
   小児抜秧大児挿    小児 秧を抜けば 大児 挿す


 お父ちゃんが苗を放れば母ちゃんが受け取り、下の子が苗代から苗を抜いて 上の子がそれを植える、昔は家族皆で仕事をしていたのですよね、父親が何の仕事をしているのか知らない子供なんて、きっと居なかった筈です。
 もちろん、農家の方達はそうした郷愁とは別の気持ちをお持ちなのでしょうが。

 さて、詩の方ですが、形式の点では承句の四字目「農」は平字ですので、平仄が合いませんね。「翁媼」として、「老人が主体」ということを生かすのも良いかと思います。

 構成的には、転句の「美田」が理解しにくく思いました。「かつて美田であったところも今は荒れ果てて」という意味でしょうが、承句で「老農植苗専」と書きましたから、読者の意識としては、「おじいさんが一生懸命田植えをしたから、美田となった」と思うはずです。
 「おじいさんは頑張っているけれど、田は荒れ果てている」と逆接に読むのは、前半に荒れたことを何も表していない状態では難しいと思います。
 もっとひどく言えば、「おじいさんが田植えをした→おかげで美田が荒れてしまった→見るに忍びない」ともなります。
 せっかくの枳亭さんのお気持ちが十分には出てきていないように思います。
「田」も韻字ですので、ここは推敲なさると良いように思います。

 結句は余韻の残る句ですが、ここはばっさりと切るつもりで、後半の二句で転句の内容を語るくらいでも良いのではないでしょうか。


2003. 7. 6                 by junji



謝斧さんから感想をいただきました。

 措辞叙述は気になりません。作詩経験が長い方だとおもいます。
 鈴木先生と同じ事を言うようですが、読者としては、「美田蕪廃」の原因がよく分かりません。その為内容がつまらなく感じています。
 収束も物足りないものを感じます。隠喩を含んだ叙景になるような、転句を示唆するような収束のしかたにするべきだと考えています。
 今の意味では、「詩人の悲しみをよそにして啼鳥は圃辺に群がります。それを見るにつけ、ひとしお悲しみがますばかりです」でしょうか。

2003. 7.17                 by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第139作は 岡本喜子 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-139

  春日雑詩        

藻川流緩緑芽風   藻川流れ緩かに 緑芽の風

白鷺徂魚佇紺穹   白鷺 徂魚 紺穹に佇む

戲蝶摘蓬懐舊処   蝶に戯れ蓬を摘んで 舊を懐う処

恍然身在画圖中   恍然身は在り画図の中に

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 「処」「時」と同じ意味です。
 「戲蝶摘蓬懐舊処」は、原作は「戲蝶摘蓬還幼少」でした。意味は 「蝶に戲れ蓬を摘んで幼少に還える」で、少女の日を思い出しながら、今蝶に戲れ、蓬を摘んだ、です。
 作者の作詩意図とは違い、納得いかないようでした。(by 謝斧

<感想>

 結句の「画圖中」は、自らを遠くから眺めて、画の構図の中に自分が居るように思ったというところでしょうか。恐らく、その画の中に居るのは幼女でしょうね。

 とすると、すでに「身在画圖中」「還幼少」しているし、「懐舊処」でもあるわけです。
 私の感想としては、転句では感情をあまり入れないで、単に作者の行為に限定して描いておいた方が結句を生かすように思います。例えば、「郊踏尽」などでしょうか。

 起句の「緑芽風」が全体を引き締める要の言葉になっていると思います。

2003. 7. 8                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第140作は徳島市の 尚愚 さん、四十代の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2003-140

  山家訪歌人     山家に歌人を訪ねる   

日傾山邑睡猶安   日は山邑さんゆうに傾きて ねむり 猶安し

老犬孤沈加賜餐   老犬はひとり沈し 賜餐しさんを加える

舎側藤花無見主   舎側の藤花 見る主無く

唯知朽筆谷風乾   唯だ朽筆の谷風に乾くを知る

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 漢詩をひょんなことから作り始めて、まだ二ヶ月ほどです。
色々と参考にさせていただいております。

 ある四月末の土曜日の午後、山中に住む友人の歌人を訪ねたら、昼間から酒を飲んでのんきに昼寝中。
私の顔を知る老犬は鳴き声をあげず、持参した犬用のおやつを喜んで食べて番犬としての自覚なし。
昼寝ばかりして歌人の筆は朽ちて谷風(はるかぜ)に吹かれて乾いてしまい、それを見る主もいない藤の花が静かに眺めている、
という情景です。

 実話をちょっと白楽天風の世界に脚色して詠んでみました。

<感想>

 初めまして。新しい仲間を迎えて、とても嬉しく思っています。
 漢詩を始めて二ヶ月ほどとのことですが、雰囲気のある詩をお作りになると思いました。一つ一つの言葉がお互いに調和しようとし始めると、詩としての落ち着きも出てくるように感じます。楽しみですね。

 起句は「山邑」となっていますが、やや広すぎるように感じました。承句が友人の家の庭先へと視野がぐっと狭くなっていますので、ここは友人の家くらいの広さにしておいた方が、視点の移行が滑らかになるように思います。

 承句は「孤」の役割ですが、何に対して「孤」なのか、全体に動いているものが少ない情景ですので、老犬に対応するものが見つけにくいように思います。

 転句は「無見主」ですが、「藤の花を見る人も居ない」となると、一般には「空き家」をイメージすると思います。ここではたまたま友人が眠っていたということですので、きっと目が覚めて起きていれば花を見ることはするでしょうから、「主人が居ない」ではどうでしょうか。
 承句転句の表現からは、どちらかと言えば、「友人の家に行ったが、友人は長い旅に出ているようで空き家同然になっていた。犬も藤の花も主人の帰りを待ちわびているようで寂しげだ」という状況設定に見えます。その辺りの微妙な違いが、言葉の落ちつかなさの理由のように思いますがいかがでしょう。

尚、題名の「歌人」は、日本語での「和歌を詠む人」という意味には、当然漢詩では使えません。「友人」とすれば良いでしょう。

  2003. 7. 8                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第141作は 岡田嘉崇 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-141

  緑陰茗話        

天行淑気示羣動   天は淑気を行って 群動を示し

樹入濃陰移四時   樹は濃陰に入って 四時移る

嫩緑村荘來舊友   嫩緑の村荘に旧友來り

蕭齋茗話出新詩   蕭斎の茗話 新詩出ず

詩編活句同茶味   詩編の活句 茶同に味わい

窗外晴暉開戸知   窓外の晴暉 戸開いて知る

庭院扶疎風弄影   庭院は扶疎として 風は影を弄し

佳人勝致兩良師   佳人 勝致 両ながら良師

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 少し語句の意味を補っておきましょう。
「嫩緑」「若々しい緑、ここでは若葉」のことですね。
「扶疎」「樹木が枝を四方に広げること」「勝致」「素晴らしい景色」のことです。

 言葉の流れが、進んでは戻り、戻っては進むという感じがして、ゆったりとした時間の流れが表出されていますね。
 第二句の「樹入濃陰」から第三句の「嫩緑」
第三句の「茗話」から第四句の「同茶味」、 また第三句の「出新詩」から第四句の「詩編活句」
 これらの言葉がたゆとうような時間の感覚を出していると思います。

 ただ、聯同士の発展という点では、場面がなかなか進まないという面はありますから、どちらを選ぶか、あるいは意識した上であえて狙うのか、ということが作詩の面白さですね。

2003. 7.13                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第142作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-142

  初夏閑居        

日傾雨歇小窓前   日は傾き、雨は歇む 小窓の前

叢竹茅庵淡夕煙   叢竹 茅庵 夕煙に淡し

鴉陣声高銷落景   鴉陣 声高くして落景に銷え

寺鐘音遠度秧田   寺鐘 音遠くして秧田を度る

草蛍一点破籬底   草蛍一点 破籬の底

野月半輪荒廡先   野月半輪 荒廡の先

独酌濁醪孤影対   独り濁醪を酌んで 孤影に対す

微吟酔裡倣詩仙   微吟 酔裡 詩仙に倣う

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 降る続いた雨が一休みの一夕、憂鬱さから何か解き放たれたような、そんなホッとした気分が伝わればと思っています。

 何時もお世話になります。
 投稿した後、何かしら緊張感を覚えます。そしてこの緊張感を楽しんでいます。と申しますのも、鈴木先生や謝斧さんをはじめとする貴HPファンの諸兄から返ってくるコメントが大変なプレッシャーであると同時に大きな楽しみとなっているからだと思います。

 コメントといえば、家内が小生の詩を見て、
『あなたの詩はおなじ事、同じ風景を言い方を変えて作っているだけじゃない』
 かなり手厳しい批評を加えられ、少し落ち込んでいます。

 皆様の批評や如何に。緊張と多少の楽しみといったところでしょうか。

<感想>

 なるほど、誰よりも厳しい批評家が身近に居られたのですね。これは、私もあまり暢気なことを書いていては、「この人の感想は進歩が見られない」と言われてしまうかもしれませんね。
 うーん、プレッシャーですね。

 真瑞庵さんの詩は、安定した風景を安定した言葉で書かれています。場面としては、確かに「同じ風景」となるかもしれませんが、日常を描く観点で行けばそれは仕方ないことでしょう。
 大切なのは、奥様が仰っておられるように「言い方を変え」ることができるかどうかですよね。
 前回と同じ場所に立って詩を作る時に、前回と同じ表現しか出てこないのならば、もう詩を作る必要はありません。前回と異なる表現をするためには、前回とは異なる目を持たなくてはなりません。前回発見できなかったことを見つけることができた、その感動が詩を生むわけです。
 しかしながら、その「日々新たな目」というのは、特別なものではありません。例えば、私は散歩が好きですが、いつも同じ道を歩いていて何が面白いか、と思われているかもしれません。でも、散歩していると、昨日は気づかなかったけど道すがらの梅の香りに驚いたり、草むらの中に転がっているもう汚れたボールを見つけたり、昨日と今日で風の方向が違うことを改めて実感したり、要は小さな発見であれば誰でも体験することです。
 その発見を言葉にする、そこに詩人の力量が出るわけです。語彙力や構成力、ひらめきと啓示、それらが調和された時に優れた詩が生まれてくるのだと思います。真瑞庵さんの詩に私が安心感を覚えるのは、まさにそうした調和を感じるからでしょう。

 私は女性を敵にはしたくない人間ですので奥様に直接は言えませんが、今度同じ事を仰られたらこう答えましょう。
 「同じ事、同じ風景を言い方を変えて作る方がすごいんだぞ」

 そして必ず付け加えましょう。「そのことがわかってくれた君もすごい」と。

 さて、前置きが長くなりましたが、詩の感想です。
 解説では「雨が一休みの一夕、憂鬱さから何か解き放たれたような、そんなホッとした気分」を描こうとしたということですが、ちょっと視野を欲張りすぎたのではないでしょうか。
 頷聯で聴覚、頸聯で視覚という構成は分かりますが、次から次へと登場する素材に、ホッとするよりも慌ただしさを感じてしまいます。
 こうした描き方は、どちらかと言うと、「雨が上がって、心がウキウキ、ソワソワしている」状態の感覚です。ゆったりと、それこそ雨に隠れて見えていなかったものを、落ち着いてじっくりと見つけるくらいの気持ちで描くと良いのではないでしょうか。

2003. 7.13                 by junji


謝斧さんから感想をいただきました。

 叙述措辞対法は申し分無いと思います。対聯単独では問題無いとおもいます。
 なかなか巧く作られていますが、物足りなくも感じています。
二聨とも叙景だからとおもいます。その為に尾聨にかなりの工夫が必要になります。
 頸聨の叙景に言外の意を含ませて、尾聨にその意を受け継いで収束していく方法を用いる可きだと感じています。そうでないと倣詩仙(李白の花間置酒作三人でしょうか)唐突すぎて好く分かりません。

2003.7.24                  by 謝斧





















 2003年の投稿漢詩 第143作は 長岡瀬風 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-143

  餞春        

香雲漸到北辺濱   香雲漸く到る 北辺の浜

南攝今知景色新   南摂今知る 景色新たなるを

嫩葉如潮張翠幕   嫩葉潮の如く 翠幕を張り

殘芳委地作紅茵   残芳地に委して 紅茵を作す

四囲凝望情無極   四囲凝望すれば 情極まり無く

萬物遷移理自陳   万物遷移して 理自から陳なる

從此賞花何處覓   此れ従り賞花 何処にか覓めん

東君已去泣閑人   東君已に去って 閑人を泣かしむ

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 頷聯と頸聯の対句について、感想を書きましょう。

 「如潮」を、主語「嫩葉」に対する述語として読むのか、それとも次の「張翠幕」にかかる修飾語と読むのか、に最初迷ったのです。
 「若葉は潮のように大きく波打って、(若葉は)緑のカーテンを張りめぐらしている」とするか、「潮が押し寄せるように、(若葉は)緑のカーテンを次々と張りめぐらせて行く」とするかの違いでしょうか。
 どちらが良いのかなぁと考えていましたが、次の句の「委地」の働きは述語で、「花びらは地面に捨て落ちて、(花びらは)赤い絨毯を敷き詰めている」という形で「委地」「作紅茵」は並列の関係になっていますから、上句の「如潮」も並列で取るべきだと分かりました。

 同じように文の構成から頸聯を見ると、上句の「四囲」「凝望」の目的語のようです(「四囲を凝望すれば」)が、下句は「萬物」「遷移」の主語になりますので、構成が合いませんね。
 上句を「萬物は情が極りない」と無理すれば読むこともできますが、それでも「凝望」の主語にはなり得ないでしょう。

 頸聯までの描写から行くと、景色の移り変わりを楽しんでいるのかな、と思いましたが、尾聯で心情が急転、「泣閑人」と来る。実はすでに首聯で「香雲漸到北辺濱」と桜(香雲)が北へと移動したことを書いていますから伏線は張ってあるわけで、うむ、これはこれで作者の「してやったり」という顔が目に浮かぶようです。


2003. 7.15                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第144作は 藤原崎陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-144

  蘭殘出遊        

一路新晴曲折通   一路新に晴れて曲折通じ

渓聲鳥語冑山東   渓声鳥語 冑山の東

垂櫻迎我偏添艷   垂桜 我を迎て 偏えに艷を添え

風弄春柔落花紅   風は春柔を弄して 落花紅なり

          (上平声「一東」の押韻)


<感想>

 結句の「弄春柔」王安石「鍾山即事」の承句を受けてのものでしょうか。
 王安石の方は、結句が「一鳥鳴かず 山更に幽なり」でしたが、崎陽さんの場合には「渓聲鳥語」と音を生かした表現になっていますね。
 渓川や鳥の音に包まれた空間を作っているのですが、それらの音に包まれている分だけ人里の雑音が消えて行くことになります。この承句によって、作者が一つの空間の中に入っていく過程が浮きぼりになっています。
 「冑山」「甲冑」「冑」、ですから「甲山」、つまり六甲山を言うのですが、大都市神戸のすぐ近くである分、この詩で示される山の閑寂さが重みを増していると思います。

 「垂櫻・・・・偏添艷」「落花紅」は、時の流れを表しているのでしょうか、整合がずれているような気もしますが・・・・。

 題名の「蘭殘」は説明していただけるとありがたく思います。

2003. 7.15                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第145作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-145

  憂時艱        

冑山在客世縁輕   冑山に客在り 世縁を軽んずるも

看眼時艱怒不平   眼に時艱を看ては 怒り平かならず

海外紛爭未偃武   海外紛争して 未だ武を偃めず

国中衰亂豈聊生   国中衰乱して豈に生を聊んぜず

閑居唯好婬詩句   閑居 唯だ好む 詩句に淫するを

冗子空嫌論政情   冗子空しく嫌う 政情を論ずるを

慵裏偸安苟如此   慵裏 安を偸んでは 苟しくも此の如くなれば

天公赭我老柴荊   天公 我を赭(罪する)して柴荊に老わしめん

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 謝斧さんからこの詩をいただいたのは六月の初めでしたが、掲載が遅れている間に、国内では本当に色々な事件が起きました。胸が痛くなる、と言うか、胸くそが悪くなると言うか、いたたまれない気持ちになります。
 株価がいくらか回復したということですが、政府が特に経済政策を出したわけでもないし、結局は実体のないお金が世界を漂っているに過ぎないのに、バブルの痛みをもう忘れている人も多いようです。
 ひとり浮かれているのは、これまた実体のないバブルのような政権基盤で、それでも相手が居ないからしばらく地位が安泰そうな首相のみでしょう。国民は安定感のない生活に、不安な心を抑えきれない状態ではないでしょうか。

 「時艱」という言葉に具体的に何をイメージするかは、人によって様々であるのは当然でしょう。しかしながら、本来はその違いがどこから来るかと言えば、人それぞれの立つべき場所に因るものだったと思います。
 国の方向を指し示すべき政治家が思い描く「時艱」と、下っ端の役人が描く「時艱」、労働者・市民が思う「時艱」、それぞれ異なるのだけれど、かつては「同じ立場の人ならば同じ様な思いを持っている」という信頼感があったように思います。共有感、連帯感でしょうか。
 そうしたものが薄れた分だけ、怒りの方向性は拡散し、孤立感や孤独感は増大しているわけで、「論政情」ことなどは空しさが予感できてしまうから誰もが嫌がります。そうした点で、頸聯の自嘲的な表現も良く理解できます。

 ただ、だからと言って、みんなが「婬詩句」となってしまって、世の中が隠者ばかりになってはいけないでしょうから、仕方がなくても世と交わらざるを得ないのが「物が見える人」なのでしょう。その辛さが尾聯に集約されていると私は読みましたが、どうでしょうか。

2003. 7.21                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第146作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2003-146

  桜桃        

三春英墜盡   三春 はな墜し尽くせど

繁葉緑陰加   繁葉 緑陰を加う

五風和十雨   五風 十雨と和さば

子熟絳於花    熟して花よりも絳し

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 サクランボの季節となり、デザートのサクランボを見て小学生の頃の想い出が甦りました。

 子供の頃、庭に二本の桜桃の樹があり、2米位の小木でしたが枝上で真っ赤に熟したその実は大変甘く、喜んで食べていました。
 何分、花より団子の子供でしたから、宝石のように赤く熟した実は、花よりも美しく感ぜられました。
(花が染井吉野ほど綺麗で無い所為もあったでしょう)

 食卓のサクランボを見て、こんな詩を作ってみました。

 何時も先生の漢詩に対する情熱に心打たれています。
また、該博な知識と懇切な解説に頭が下がります。
 今後とも宜しくご指導下さい。

<感想>

 「三」「五」「十」と数字を並べられた辺りから、もう嬉しくなりますね。
 五言絶句の生み出す余韻の大きさを楽しませていただきました。

 「五風十雨」は、「五日目毎に風が吹き、十日目毎に雨が降る」ということなのですが、そこから「気候が順調なこと」「豊作の兆し」の意味で使われる言葉ですね。次の「子熟」へと導く役割を果たすと共に、二つの数詞によるスピード感が生きていますね。
 結句は一首の眼目、「花よりも実の方が赤い」というサクランボの特質をとらえた所が秀逸です。ただ、ここで「熟」「絳」と述語が二つ並ぶのは、転句からの音の流れを断ち切る感じがします。
 「熟果絳於花」でしょうか。ここはもう少し推敲できるように思いました。

2003. 7.21                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第147作は 茶墨 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-147

  緑陰        

小舎窓前緑蔭繁   小舎の窓前 緑蔭繁く

薫風習習忘塵煩   薫風習習として塵煩を忘る

空斎倚机茶三昧   空斎机に倚りて茶三昧

遠寺鐘声浄六根   遠寺の鐘声 六根を浄む

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 六月中旬、信州はまだ、新緑の季節でした。お客の少ない宿で静かな時を過ごしてきました。

<感想>

 爽やかな風が詩の中から吹いてくるようで、茶墨さんの旅の充実感が伝わってきます。
 信州などの山の宿では、お客の少ない時などは私は嬉しくて仕方がありません。露天風呂にたまたま一人で居たりすると、星空も含めて大自然を独占しているような気持ちになります。旅館の側からすればお客さんは多い方が良いのでしょうけれど・・・

 さて、詩の方ですが、題名が内容と一致していないように思います。確かに詩の中に「緑陰」は出てきますが、それは景の一つに過ぎないように思います。詩の中心は室内にあるわけですから、ここは題名を変えた方が良いでしょう。
 起句の「小舎」は、「こじんまりとした宿」という意味で使ったのだと思います。その場合には、転句の「空斎」「人気のない部屋」と解釈するのでしょうが、私は「斎」には部屋は部屋でも「書斎」という感覚が強いので、何となくしっくりしませんでした。
 逆に「小舎」「自分の家」と読めばとてもすっきりしますので、日常の詩と考えたいところです。
 旅先ということを利かすならば、「空斎」を別の言葉にしてみるのも、どうでしょうか。この二字を換えるだけでも、詩の雰囲気が一変すると思います。

 承句の「忘塵煩」は、結句の「浄六根」との重複感があります。ここは心情を出さずに、実景の句にしておくのが良いと思います。

2003. 7.22                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第148作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-148

  次陶濳飲酒其五之韻        

頑拙難可意   頑拙 意を可とすること難く

俯首避世喧   首を俯だれて 世の喧さから避く。

世路風波悪   世路 風波悪しく、

天公似情偏   天公が情の偏らすに似たり。

鷄鶩擬孤鴻   鷄鶩 孤鴻に擬し、

栖栖戀故山   栖栖として故山を戀う。

傷禽逃樊籠   傷禽 樊籠を逃れ、

斂羽復何還   羽を斂めては 復た何ぞ還らんや。

倦飛啄凍草   飛ぶに倦みて 凍草を啄ばみ、

哀聲誰寄言   哀聲 誰にか言を寄せん。

          (上平声「十三元」「十五刪」下平声「一先」の通韻)

<感想>

 陶潜「飲酒其五」は中でもとりわけ名高く、「心遠ければ地自ずから偏なり」「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」など、陶潜の生活から信条まで、印象に残る句があふれていますね。
 この高校生もよく知る「飲酒其五」の韻字は、「喧・偏・山・還・言」、実はこの五字を見るだけでも詩の主題が読みとれるくらいに、選び抜かれた字が使われているわけで、この確立されたイメージを新たに謝斧さんがどう展開されるのか、興味津々というところでした。

 「鷄鶩」「孤鴻」を対比させ、「傷禽」「哀聲」と意味を重ねて行く後半は、世と相容れない詩人の姿を際だたせて、余韻を深めていると思いました。

 「孤鴻」『唐詩選』での張九齢の五言古詩、「感遇」には、世俗の地位や名誉を超越したおおとりの姿がよく描かれていましたね。

 「鷄鶩」のような凡才の身であっても、やはり「故山」を恋い、傷ついた心で「樊籠」を逃れようとする、その過程では「凍草」を啄まねばならないこともあるのでしょう。その哀しみは誰にも理解されないという展開で読みましたが、表出される心情が前半と違っているように感じますので、ちょっと解釈が違うのかな?と不安が残ります。
 違っていたら、また、ご連絡下さい。

2003. 7.24                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第149作は栃木県小山市の 忠恕 さん、六十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 お手紙は、
 漢詩を作り始めて半年、毎日朝から晩まで漢和辞典片手で漢詩の勉強ですが、お陰様にてこんなにも楽しい日々は過去にもなく、幸せの時間を過ごしております。
 このような投稿が出来ることに感謝を致しております。
 今後とも先生よりご指導を請い戴けたなら幸甚に思います、宜しく御願い致します。
と書かれていました。
 こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。

作品番号 2003-149

  思川おもいがわ風光        

夕陽波照一望鮮   夕陽 波照らし 一望 鮮やかなり

鴻雁群成北嶺天   鴻雁 群れ成し 北嶺の天

愛日倶遊安在友   愛日 倶に遊ぶ 友安くに在りや

景観今昔美思川   景観 今昔 思川美し

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

  大平山に沈みかける斜陽は川瀬を照らし一面紅く
  雁は群れを成して日光連山へと向かう
  懐へば日暮れるを惜しみて遊んだ幼友は、何処でどうしているのだろうか
  人の心は歳月の過ぎるがままに移ろえども思川の清く澄んだ水の流れは昔に変わらじ、今もなお絶景である。

      ※自宅の近くを流れる「思川の夕焼けの情景」を詠んだものです。
       対句の面で四苦八苦致しました。

<感想>

 新しい方をお迎えして、とても嬉しく思っています。

 「思川」は、その呼び名からして、まず心に響くものがありますね。ただ、申し訳ないことに、私は愛知県の片隅に生活する人間ですので、詳しいことはほとんど知りませんでした。
 早速、インターネットで調べてみました。渡良瀬川に合流する、上流にダムが一つもない貴重な川と書かれていたページと、その川にダムを建設する計画が書かれたページと、たくさんありました。
 忠恕さんの詩を読みますと、昔に変わらぬ自然の大きな景観が感じられますね。美しい姿を留めてほしいものです。

 さて、詩の感想ですが、作り始めて半年、「漢和辞典片手」に頑張っていらっしゃるそうですが、起承転結の構成もよく、平仄の点でも整った作品になっていると思います。
 用語としては、起句承句の「波照」「群成」が順序が逆でしょう。目的語を後ろに置くのが基本ですから、このままですと、起句は「夕陽 波が照らして 一望鮮やか」となり、承句は「鴻雁 群は北嶺の天を成す」となってしまいます。
 平仄の関係もありますので、起句は「夕陽波上一望鮮」、承句はそのまま入れ替えて「鴻雁成群北嶺天」とすれば良いのではないでしょうか。

 転句は「愛日」ですが、「日の沈むのを惜しんで」ということでしょうが、「日が短い(冬)ことを惜しむ」ことから来ている言葉ですから、ここでは意味がぼやけるように思います。素直に「昔日」とした方がすっきりします。
 転句は語順も、「友」を修飾する前半の四字とが離れていますので、分かりにくいでしょう。「安在」を初めに持って来て、下三字を「昔日友」とすると多少は良いでしょうか。
 「昔」が結句と重なるのでしたら、「他日」とするか、「今昔」「今古」とするのでしょうね。

 なお、結句の「美思川」は、「思川 美し」とは語順から読めません。この場合には、「美しき思川」となります。

2003. 7.25                 by junji





















 2003年の投稿漢詩 第150作は 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2003-150

  遊蒲郡紫陽花里     蒲郡紫陽花の里に遊ぶ   

賛美声称苑圃頭   賛美声は称がる 苑圃の頭

万株千彩露華浮   万株千彩 露華浮く

観盆豊艶地鮮麗   盆に豊艶を 地に鮮麗を観る

錦繍呼虹梅雨休   錦繍虹を呼んで 梅雨休む

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 蒲郡市形原温泉の補陀寺と補陀池の堤防斜面に2万株のあじさいが色鮮やかに咲き誇り、思わず嘆声を挙げます。また、補陀池の周辺では「あじさい祭り」で、豊艶な盆栽、鉢植えが展示されて人々の足を留めます。
 時宛も梅雨が已み、一際風情を添えました。

<感想>

 地元愛知県の話ですので、ここは私も行ったことがあります。
 3年ほど前から、入院の後、リハビリを兼ねて「ユトリーナ蒲郡」という温泉施設に何度か通ったことがありました。
 住んでいる半田市からは衣浦海底トンネルを通ると1時間弱で着くことができるのですが、ついでに形原温泉の方まで車を走らせた時に、時季はずれの「あじさいの里」に辿り着いたのです。
 秋か冬の頃でしたから、残念ながら紫陽花は一本も咲いている筈はなく、妻と二人で、「ここに一面、紫陽花が咲くんだろうね」と心の中に想像して帰ってきました。
 毎年、季節の前に思い出しては「今回は満開の頃に行くぞ!」と思うのですが、なかなか都合がつかなかったり、忘れてしまったりでいまだにピークを楽しめてはいませんので、枳亭さんのこの詩でたっぷりと紫陽花を味わうことにしましょう。

 まず、紫陽花の形容に感動ですね。「千彩」「豊艶」「鮮麗」「錦繍」、特に鉢植えは「豊艶」であり、地植えは「鮮麗」という描写は、転句の句中対の効果も生きていて、面白く感じました。
 転句について言えば、内容的には承句の繰り返しですので、変化に乏しい詩なのですが、この句中対によるやや変則的なリズムが外側から変化を添えていますね。

 起句と結句に「動き」を与えて、実景ばかりの句の構成を工夫されているのが感じられました。

2003. 7.25                 by junji