作品番号 2002-166
秋声
一天已覚四囲秋 一天已に覚ゆ 四囲秋なるを
西摂冑山山寺頭 西摂の冑山 山寺の頭
橘柚実成残暑盡 橘柚実成って 残暑盡き
梧桐葉落爽涼流 梧桐葉落ちて 爽涼流る
東園蕎麦白葩麗 東園の蕎麦 白葩麗しく
西圃曼珠紅辨幽 西圃の曼珠 紅辨幽なり
日暮軽寒新月淡 日暮軽寒 新月淡く
草虫泣露桂香浮 草虫露に泣いて 桂香浮ぶ
<感想>
六甲山の頂はもう秋も深くなったのでしょうね。
私の住んでいる愛知県の知多半島は、海に囲まれて高い山もなく、秋や冬の訪れの景はどこよりも遅く目に写ることになります。世の中がすっかり紅葉し尽くした頃にようやく葉が色づき始めるような状態です。
だからと言って、春の訪れは早いのか、と言うとそうでもなく、どうも季節の変化に鈍くなります。ま、その鈍さは私自身の感性の問題でしょうから、土地のせいにしては叱られるかもしれませんが・・・・。
この詩では、尾聯の「日暮軽寒新月淡」の句に、凝縮された秋の趣を感じました。西空の「新月」の淡い光と「日暮軽寒」のお互いを確かめ合うような言葉の相乗効果でしょうか、全体を引き締める一句と思います。
頸聯の「蕎麦」と「曼珠」の形容は、一般には「白葩」=「幽」、「紅辨」=「麗」という組み合わせのように思いますが、そこが鷲山さんの個性的な感覚でしょうね。
2002.11. 6 by junji
作品番号 2002-167
秋社即事
重陽節過望郷心 重陽の節過ぎて 望郷の心
橘栗醴醪香自深 橘栗 醴醪 香自ら深し
秋社鼓鐘轟碧落 秋社 鼓鐘 碧落に轟き
西郊稲菊彩黄金 西郊の稲菊 黄金に彩る
互誇殷祭有衰盛 互に殷祭を誇りて 衰盛有り
斉宴佳辰無古今 斉く佳辰を宴んで 古今無し
和楽芳隣宜酔飽 和楽 芳隣 宜しく酔飽すべし
親朋倶話酒倶斟 親朋 倶に話して 酒倶に斟まん
<感想>
「重陽」「望郷」とくれば、王維の「九月九日懐山東兄弟」を連想しますね。
そういう点から見ると、第二句以降は故郷での日々を想い起こしてのことと読むべきなのでしょうか。ただ、全体のトーンとしては故郷を離れた寂しさは出てこず、秋祭りを楽しむ姿が写実的に描かれていますので、やはり眼前の風景として見た方が素直な気がしますね。
「望郷心」をひとまず置いておけば、耳元に祭りの人たちのざわめきが聞こえてくるような、そんな楽しい句が続いていると思いました。
2002.11. 6 by junji
初めて投稿させていただきます。
作詩経験はまだ2〜3年と言うところで、今のところ月に一つか二つの詩を作るというところです。
先輩方からすれば問題にならないでしょうが、これからが勉強と思っております。
作品番号 2002-168
銷夏雑詩
夏炎覆地暑氛盛 夏炎地を覆いて 暑氛盛んなり
滅却心頭涼未成 心頭を滅却するも 涼いまだ成らず
試歩晩來風意覺 試みに歩すれば 晩来 風意覚ゆ
榊_微動水紋生 緑蘋 微動して 水紋生ず
<解説>
拙い詩を投稿いたします。
先般「夏日題悟空上人院」を念頭に置いたような詩を見て感有り。
逆の発想で作ってみました。
<感想>
新しい漢詩の仲間を迎えることができ、とてもうれしく思っています。
詩を読ませていただきましたが、全体の構成、起承転結の展開も良く、全体の色調と用語のバランスもとれていると思います。
特に結句の爽やかさは、臨場感があって、光景が目に浮かぶような、誰にも納得されるものでしょう。月に1作か2作ということですが、これからが楽しみですね。
内容的にはほとんど問題なくできあがっていると思いますが、平仄の点では一つ二つ気の付いた点を書きましょう。
漢字の平仄では、意味・用法によって平仄が変わる場合があります。今回の場合では、「炎」と「盛」の二つです。
「炎」は、「燃やす」という動詞としての用法の場合には平声ですが、「ほのお」ということで名詞として用いる時には仄声になります。
この詩の場合には、名詞用法でしょうから仄声となりますので、二四不同のルールから外れてしまいます。
また、「盛」ですが、この字も用法によって平仄が異なります。「盛る・盛り付ける」という動詞用法ならば平声(下平声八庚)なのですが、「盛んである」という形容動詞(補語)としての用法の時には仄声になります。
この詩の場合には、実は仄声になりますから、起句は韻の踏み落としとなります。
平仄は煩わしいとも思えますが、慣れていけば「あ、この字は平仄両用だったな!」と思いますので、初めのうちは辞書で確認をしてみましょう。
2002.11. 9 by junji
「とってもいいHPだと思います。
これからもっと発展しそうな気がします。
よろしくお願いします。」
作品番号 2002-169
閑適
徘徊緩歩夕陽前 徘徊して緩歩す夕陽の前
人去雲無千里天 人去り雲も無し、千里天
独座初秋人未老 独り座す初秋、人未だ老いず
詩成高臥枕書眠 詩成り高臥して書を枕にして眠る
<解説>
ちょっと思い立って、初めて漢詩を作ってみました。
詩語表から語句を適当に拾ってみたら、意外に簡単にできて、しかも自分の気持ちに割とあったものができた気がします。
まあ出来は良いわけがないと思います。
漢詩は若い頃から愛好してるので、こんなに簡単にできるなら、もっと前から作っていれば良かったなあと思いました。
<感想>
またまた新しい方をお迎えして、嬉しい限りです。
「詩語集」から言葉を拾った、ということですが、平仄の上からも問題なくできあがっていますね。そういう点で、「詩語集」は詩作をする私たちにとっては便利な書物と言えます。
ただ、感動があってから言葉を探すのではなく、言葉の方が先に与えられることもあり、実感との結びつきが弱くなることがしばしばあります。「詩語集」からどれだけ自分の感覚に合った言葉を選び出せるか、が大切なところです。
「適当に拾ってみた」とのお言葉ですが、「自分の気持ちに割とあったものができた」とのことですから、選択の時に羨門さんの感性がうまく働いたのでしょうね。
感想としてすこしだけ、気のついた点を挙げれば、
転句の「人未老」は結句とどうつながるのでしょうか。五言の詩ですと、このように語句を投げ込むような形で、ある程度飛躍や断絶があってもそれが面白さにもなるのですが、七言ですともう少しつながりを明瞭にする方が良いように思います。
他には、承句と転句に「人」の字が二度使われていますが、同字重出は字数の限られた漢詩では避けたいところです。この場合ですと、承句の方を直されたらどうでしょうか。
2002.11. 9 by junji
作品番号 2002-170
憂国
同胞枉死動西東, 同胞の枉死 西東を動かし,
日本少年傷幼童。 日本の少年 幼童を傷つく。
強制連行慰安婦, 強制連行 慰安婦
更加卑怯辱流風。 更に卑怯を加えて流風を辱す。
<解説>
チマ、チョゴリの少女が石を投げらるるこの悲しみを祖国より受く(大阪 金 忠亀さん)
強制連行のアボジの子なり棄民なり差別・蔑視・無視・放置の六十余年(東京・町田朴 貞花さん)
上記2首は、10月14日の朝日歌壇に掲載されていたものです。また、わたしは、ある在日の方から、「模倣犯の出現を防止するため新聞には書かれていないが、日本の高校生が朝鮮学校の小学生を殴った」と聞かされています。
わたしたち日本人は、こと国際政治に関わる場面に遭遇すると、国家と民族あるいはひとりひとりの一個人を一体のものとみなす傾向がとても強い。
拉致され亡くなった同胞の死は悼むべきとしても、それらの人々と何の関係もない高校生が、小学生を餌食にして、在日の人々、さらには拉致事件に直接関わらなかった北朝鮮の人々と向き合うような事件を起こすのか。
[語釈]
「枉死」 :災いにあって異常な死に方で死ぬ。
「流風」 :昔から伝わっている美風。われわれ日本人は、いわゆる判官びいきなる美風があったはずです。
しかし、この美風も、日本人社会のなかでしか適応されない閉鎖的な美風であったのでしょうか。
<感想>
ニュースなどを見ていても、聞くに堪えられないような、あまりにも悲しいことや空しいこと、恥ずかしいことが多くあります。
鮟鱇さんがこの詩で書かれた事件は、まさしく戦前の日本の姿であり、私たちは戦後の長い間、こうした行為を恥ずかしいこと、してはならないこととして否定してきたと思います。
ところが、徐々に「他人の目は関係ない、自分さえ良ければ・・・・」と公然と話したり、まさに「恥知らず」と言えるような行為が平然と行われるようになり、悲しくて仕方のない思いをすることが多くなってしまいました。
若者たちのことを「未成熟」であると言えばその通りなのでしょうが、彼らを育てているのは私たちだ、ということを忘れてはならないと思います。
2002.11. 9 by junji
作品番号 2002-171
初盆
灯籠影動暗涼流 灯籠 影は動いて 暗涼流れ
魂魄入家三日留 魂魄家に入って 三日留まる
蔬果相供追往事 蔬果 相供えて 往事を追い
音容可聽引新愁 音容聽く可し 新愁を引かん
已終駄載胡瓜馬 已に終る 駄を載せる 胡瓜の馬
從此婦乘茄子牛 此れ從り 婦は乘る 茄子の牛
焚火送歸君不見 焚火 歸りを送りて 君を見ず
西方何処涙痕稠 西方 何れの処か 涙痕稠し
<感想>
「初盆」ということですので、お盆の行事にも例年以上に一層の悲しみが深まったことと思います。
生きている私たちは、大切な人を失った悲しみに日々埋没しているわけではないのですが、何かのきっかけで、即座にその悲しみは立ち返ってきます。それが「お盆」という儀式の場合も有れば、何かの物である場合もあります。
私は父母を亡くした時がまだ幼かったので、信仰心が育たず、あの世の父親が怒っているだろうと思うような不孝者だと思っていますが、機会のある時には、やはり深く思うこともあります。中国古典を読んでいると、ひたすら「孝」を体現している人物に多く出会い、何とも恥ずかしくてたまらなくなることもしばしばです。
瀬風さんのこの詩を拝見しても、自分に跳ね返って来て、こんな気持ちでお盆を迎えたことなど自分には無いなぁ・・・・と思います。
柔らかな書き出しから、聯を進めるにつれ深まる悲しみが、尾聯で収斂するような形で高まり、共感を覚える読者も多いことと思います。
亡くなった方の魂をお盆で近く感じつつも、死者と生者の越えられない境を認識せずにはいられない寂しさが頸聯以降に切実に表現されていると思いました。
2002.11.12 by junji
作品番号 2002-172
盛夏海辺
波涛砕岸粒光跳 波涛 岸に砕け 粒光跳ぬ
洋上群鴎掠浪飄 洋上の群鴎 浪を掠)めて飄える
回看沙汀娘子戯 沙汀を回看すれば 娘子戯れ
豊肌艶色細腰嬌 豊肌 艶色 細腰 嬌たり
<解説>
この夏、孫にせがまれてそれこそ何十年ぶりかで、海水浴場に出かけました。
そこで目にした光景、若いピチピチした娘さんたちのまばゆいばかりの姿態。孫そっちのけで、久しぶりに目の保養、いや若返りの妙薬を手にした感じでした。
このホームページでは、皆さん素晴らしい詩を作っておいでになるので、大変勉強になり、楽しみにしております。
<感想>
実感の良く表れた詩で、後半などは身につまされて納得ですね。
海岸やプールサイドでは、全く目線をどこに向けたら良いのか、楽しい悩みを持つことも多いですよね。「孫そっちのけ」は多少問題発言でしょうが、詩の弾むようなリズムからは幸風さんの浮き浮き感がよく伝わってきますから、きっと許されるでしょう。
詩の感想に行きましょう。
起句は、「波濤砕」という海辺の普通の光景が、「粒光跳」の躍動感のある表現で、夏の太陽のきらめきが画面にはじき出てくるような絵になっています。工夫された言葉かと思います。承句からの表現は無難なものが多い分、起句の面白さが生きているのでしょう。
転句・結句は、もうお楽しみ会みたいな感じで、力を抜いた軽さが良いバランスだと思います。くどくするとイヤラシクなりますからね。
平仄としては、各句の頭が全て平字ですので、できれば仄字を入れてリズムに変化をつけておくと良いでしょう。
楽しく読ませていただきました。
2002.11.12 by junji
漢詩というものを作ってみたくなり、Web検索して貴HPを知りました。
世上、鑑賞を主とするHPが多い中、創作にポイントが置かれているのは有り難いです。
作品番号 2002-173
五十之秋 五十の秋
離京東下幾山川 京を離れ 東に下り 幾山川
蕩子徒過五十年 蕩子徒に過ごす 五十年
春草同遊分袂去 春草同遊 袂を分かって去り
秋風独酌枕書眠 秋風独酌 書を枕して眠る
<解説>
初作の詩です。
天命を知るべき歳に至り吾が身を顧みると、無為徒食にして慙愧に耐えません(ちょっと大袈裟)。
発句は、「その男身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ…」と同種の思いがあります(また関西人のお国自慢かな)。
転句は、紅顔の頃の親友は今何処との懐古です。
一見して愚妻曰く、「そのまんまやん」。
<感想>
漢詩を作るのは初めてということですが、構成も整っていて、頼もしい方を迎えたという印象です。
起句の「東下」は、漢文の用法では「都から東の方向へ行く」ことですので、冒頭の「離京」が意味の重複となります。『伊勢物語』の「東下り」とせっかく連携させたのですから、ここでは「離京」を変更して、別の情報を何か入れるようにしたらどうでしょうか。
結句の「秋風」は、転句の「春草」と対となることで時の流れを示して、人生の半ばを過ぎたという寂しさを感じさせる意味でも効果的だと思います。
ただ、「春」と「秋」では、一年単位の時の流れを強く感じてしまいますから、「年月の長さ」を言いたい時には、別の物を素材にした方が良いでしょうね。
このホームページは東落さんの仰る通りに、「創作」を柱にしたものですが、皆さんと一緒に発展していくものと思っています。これからもよろしくお願いします。
2002.11.12 by junji
作品番号 2002-174
在台風中敢出勤 台風の中に在りて敢えて出勤す
台風未過乱飛雲 台風未だ過ぎず飛雲乱れ、
薄禄令吾敢出勤 薄禄吾をして敢えて出勤さす。
同輩相憐双脚下 同輩 相憐れむ 双脚の下、
搬糧小蟻自成群 糧を搬する小蟻 自ら群れを成す。
<解説>
台風の中、家を出るときにふと足元を見ると蟻が群れをなしています。みんながんばっているなあと心底思いました。蟻も私を見てひょっとしたら、そう思ったのでは。
<感想>
台風の中の出勤は気が重いもの、ニャースさんのお気持ちはとてもよく理解できます。しかし、そんな時にでも足下を見つめての新発見、これは心のゆとりの問題でしょうね。
蟻たちも台風による異常を感知しているのでしょうね、大雨になって食料が不足するかもしれないという予感からいつもよりも熱心に働いているのでしょうね。
詩の眼目は、「自分と蟻の一体感」にあるのでしょうが、そういう点から見ると、転句の冒頭に「同輩」と言ってしまうのはどうでしょうか。ここでは蟻の姿を描いておいて、結句で「同じ仲間だ!」とした方が、起承転結は整うし、効果的なようには思いました。
ただ、こうした詩では即興性が大切な面もありますから、ニャースさんの心の動きとして見ると、面白いとも思います。
2002.11.13 by junji
作品番号 2002-175
擬野鶴而詠言
野鶴斂陰羽 野鶴 陰羽を収め
啄苔棲九皐 苔を啄みて 九皐に棲む
蒼天知有耳 蒼天知んぬ 耳有るを
風唳一声高 風に唳いて 一声高し
<解説>
世の中の事を厭いて(斂陰羽)、身を清くして(啄苔)、質素にして奥深いところ(棲九皐)に隠居しています。
もし、天に耳があれば、どうか私の志し(風唳一声高)を志の同じくする人に伝えて下さい。
詩は志といいます。野鶴に比(比興)して、言外で自分の心情叙述しています。
[語釈]
「詠言」 | :志しを詠ず |
「陰羽」 | :鶴の羽 |
「知有耳」 | :「詩経」に 「鶴鳴于九皐 声聞于天」(鶴鳴詩経)とあり。 天に耳がなければどうして聞こえましょうか 「秦宓伝 三国志列伝」 |
<感想>
謝斧さんの五言絶句は久しぶりですね。
承句の「九皐」は、「奥深い沢」のことです。
「野鶴」の持つイメージと隠棲がバランス良く、寂寥感・孤独感が全体に流れる印象深い詩ですね。
七律と五絶は字数が両極ですが、五絶の簡潔さがこの詩の主題に良く合うと思います。七律では同じ事を語っても、説明的になってしまうのかもしれませんね。味わい深い詩だと思いました。
2002.11.13 by junji
作品番号 2002-176
嘆秋 秋ニ嘆ズ
鬢霜更加老寒村 鬢霜 更ニ加エテ 寒村ニ老イ
還遇秋風入竹門 還タ遇ウ 秋風 竹門ニ入レルニ
昨夜枕頭蛩語休 昨夜 枕頭 蛩語休ミ
今朝芦岸雁声繁 今朝 芦岸 雁声繁シ
稲香西郊一畦圃 稲ハ香ル 西郊 一畦ノ圃
菊発東籬三畝園 菊ハ発ク 東籬 三畝ノ園
空充瓦盞新醪酒 空シク充タス 瓦盞 新醪酒
六十人生與孰論 六十ノ人生 孰(ダレ)ト論ゼン
<解説>
この春二月に六十の年を数え、今又秋を迎えて時の流れの速さを感じるとともに、老いを重ね往く事の感慨を詠ってみました。
第五句から第八句は、拗体と成っています。この形式は多くの先人も用いていますが、この形式も律詩でしょうか。お教えください。
<感想>
真瑞庵さんの今回の詩は、題材にもよるのでしょうが、詩人の視点が明瞭であり、思いが沈潜を深めているように感じます。
外側の風景をとらえるのに、心と連動させた方が良い場合もあれば、心の状態とは逆のものとして描いた方が良い場合もあるでしょう。寂しい気持ちの時には寂しい景色、とは限らないわけで、景色だけは華やかだが逆に心は重苦しいということもあるわけです。
詩の場合には、心と風景を逆にすることが多いように私は感じています。何故なら、同じ捉え方で描くと、モノトーンと言うか、どうしても単調になりやすい。詩の内容にリズムや構成上の変化を与えたり、詩人としての新発見を言うには、逆の対応の方が作りやすい・・・・と言えるでしょう。
だから、同じ捉え方で描く場合には、作者の細やかな視点がどうしても必要になります。
この詩では、頸聯あたりできっと作者の心は逆の方へと進みたいという誘惑があったのではないかと思います。そこで、ぐっと我慢をして、尾聯へと順接で発展させていったところが、詩を熟成させているように感じました。
私は今年、五十になりましたが、十年の後にこのような詩を作れるようになりたいと思います。
2002.11.13 by junji
作品番号 2002-177
五僧嶺 慶長五年島津維新退従関原越此嶺 五僧嶺
慶長五年、島津維新関原より退きて此の嶺を越ゆ
関原戦敗四面障 関原 戦敗れて 四面障ぎられ
孤軍一千退何方 孤軍 一千 何の方へか退かん
入兵敵中是必死 兵を敵中に入るるは 是れ必死
恰如一葦怒濤航 恰かも 一葦の怒濤を航くが如し
将卒一丸破囲繞 将卒 一丸 囲繞を破り
長途疾駆欲踰疆 長途 疾駆して疆を踰えんと欲す
族子重臣喪後拒 族子 重臣 後拒に喪い (1)
羸兵傷卒棄路傍 羸兵 傷卒 路傍に棄つ
扈従残兵不足百 扈従の残兵 百に足らざるに
剣戟追後尚虎狼 剣戟 後を追いて 尚も虎狼なり
斜斜晩雨垂蓬髪 斜斜たる晩雨 蓬髪に垂れ
闇闇衰燈映破槍 闇闇たる衰燈 破槍に映ず
弊馬低頭影悄惨 弊馬 頭を低れて 影悄惨
五僧嶺上遙家郷 五僧嶺上 家郷遙かなり
今時此路行客稀 今時 此の路 行客稀れなり
一日独行尋往事 一日 独り行きて 往事を尋ぬ
山径埋草荊棘繁 山径 草に埋れて 荊棘繁く
曲磴侵蘚靄霧翠 曲磴 蘚に侵されて 靄霧翠なり
危巌老檜只無情 危巌の老檜 只無情にして
深篁幽花独有涙 深篁の幽花 独り涙有り (2)
嶺上日斜風寂寥 嶺上 日斜にして 風寂寥
坐憶当時愁思至 坐ろに当時を憶えば 愁思至る
<解説>
鈴鹿山中、滋賀、三重の県境に五僧という峠の廃村があります。この地は関ヶ原の合戦の時、島津維新(義弘)の軍が壮絶な退却戦の後、ここを通って逃れたことが歴史に記されています。
往時を偲ばせるものは何もありませんが、ここに立つとき、やはり当時に思いをはせます。
初めて古詩を作ってみたのですが、一年ほど前から、あれやこれやとつつきまわしていました。
最初は律詩で、題材からは古詩が適当か、などと考えてだんだん長くなってきました。冗長になっているのか、あるいは言葉が足らないのかわかりませんが、キリがないのでこのあたりで諦めました。
[語釈]
(1)甥の島津豊久と重臣の阿多盛淳が身替わりとなって討ち死にした。
(2)シャガの花
<感想>
前半を過去の歴史的場面を描き、後半では現在の峠の様子を描いた構成は、意図もよく分かります。
特に、第十一句と十二句の対句 「斜斜晩雨垂蓬髪 闇闇衰燈映破槍」 は、敗残の逃避行の姿を良く表していて、「衰燈映破槍」は象徴的な興味深い句だと思いました。
逆に、第一句の 「関原戦敗四面障」 は「戦敗」がしっくりしない言葉ですし、「障」も受け身では読みにくい感じがして、最初にリズムに乗れない気がします。第二句で負け戦なのは十分分かりますので、ここは景を滑らかに流して良いのではないでしょうか。
後半は一貫して寂しく悲しい雰囲気で情も景も描かれていますが、長編の詩ですので、少し色合いを変える場面も欲しいと思います。
冗長か言葉足らずかと書かれていますが、私は内容的にも適切な長さだと思いました。場面の転換が大きくはないので、同じような描写が続いているとも言えますが、それに堪えうる表現力をお持ちなのだと感心しました。
埋もれてしまいそうな古跡に着目された点も、良かったと思います。
2002.11.20 by junji
作品番号 2002-178
季秋
夜來寒雨倏深凉 夜来の寒雨 倏に涼を深め
蟋蟀聲微欲入堂 蟋蟀声微かに 堂に入らんと欲す
星路漫謀今夕菜 星路漫に謀る 今夕の菜
秋刀一尾美魚腸 秋刀一尾 魚腸を美とす
<解説>
またも長らくご無沙汰してしまいました。
先日の雨の後、急に気温が下がって本格的に秋の深まりを感じるようになりました。
秋と言えば秋刀魚の季節です。人によって好き嫌いはあるでしょうが、私はやはり秋刀魚というものは僅かに肝の香がしてこそ身の味が引立つものと思っておりますので…。
<感想>
舜隱さんからこの詩を送っていただいたのは、十月下旬でしたので、一ヶ月遅れの掲載になってしまいました。すみません。
秋刀魚を歌った詩は昨年もニャースさんからいただきましたね。(「官僚」)
起句の「倏」は、「たちまち」の意味ですね。
結句の「美」は、「おいしい」とするのは辛いでしょうから、「好」に直した方が整うと思います。
前半の秋の風情と、結句の「秋刀一尾」(和臭ですが)の取り合わせも日本的、家庭的で面白く読みました。
2002.11.20 by junji
作品番号 2002-179
庚申偶作
髑髏頭頂芳花發, 髑髏(ドクロ)の頭頂に芳しき花 発(ひら)き,
仙女胯間飛蝶迷。 仙女の胯間(コカン)に飛蝶 迷う。
醉月老殘貪梦處, 月に酔って老残 夢を貪るところ
三尸驚訝出臍躋。 三尸 驚訝して臍(へそ)を出でて躋(のぼ)る。
<解説>
この詩はわたしなりの死生観(とはいえ大方は俗な道教かぶれに過ぎませんが)をイメージで書いたものです。したがって、どう読んでいただいても構わないシロモノで、作者自身がそのねらいを書くのもいかがなものかと思われますが、わたしとしては、エロスとタナトスを食材にブラックユーモアのソースで煮込んだつもりです。お手本は寒山、李白、李賀のあたりでしょうか。
だいぶ前になりますが、わたしの友人から、詩は直接的な表現を極力さけるべきであり、極力象徴的に描くべきであると教示されたことがあります。
わたしは若いときにフランス文学を学んでいます。そこで、「象徴」といえば、思い浮かべるのは、フランスのサンボリズム。これと較べますと、正直言って中国古典詩は、非常に直截で現実的であり、詩を読むというより、歴史書を読む感じがします。しかし、そこが中国詩の魅力です。
まして、中国詩には、フランスサンボリズムが実現し得なかった平仄の発見や、対句の小気味よさがある。わたしは、そこが中国詩のよいところであり、フランスサンボリズム・象徴などは糞くらえだと思ってきたのですが、この詩は、そのサンボリズムの富を、中国詩に移植する意図を持って書きました。
起句:冬の死から春が再生することを象徴しています。また、生命の誕生を象徴しています。
承句:夏、あるいは、生命の歓喜を象徴しています。
転句:秋、あるいは、老いを象徴しています。
結句:人生を総括しています。三尸は、何を天帝に報告するのでしょうか。人は罪深い存在です。したがって、三尸はその、本人が人には言えず抱え込んでいる秘密、つまりは「罪」を報告するのではないでしょうか。
しかし、起句・承句のような放埓な夢を貪る者をどう天帝に報告するのか。三尸が呆れ返ってしまうとき、人は死に、死ぬことによって生死を超越するのではないでしょうか。とすると、人の運命を見張る三尸とは、そのひとの魂ではないのか。
わたしは、拙作の結句で「三尸が天に昇る」ということは、魂の昇天を象徴すると解釈しています。
つまり、起承はエロス、転結はタナトスという構成になっています。エロスは、わかりやすく言えば男女です。そこで、起承は対句にしています。タナトスは崩壊です。そこで、ここは対句にしていません。
この詩は、今年わたしが書いた2127首目の詩です。
わたしは純粋な日本人ですので、漢詩を書くには平仄と韵を学習しなければなりません。そして、そのもっとも有効な方法は、たくさん習作することと思っています。詩について高邁なことを考える必要はないし、満足に韵に通暁しているわけでもないのに、無駄な推敲をする必要はさらさらない。
そこで、わたしは、とにかく書くことにしています。しかし、9か月で2000首の習作(言葉の学習)をしますと、正直のところ、色々なことがすべてどうでもよいように思えてきます。そんな環境で、いささか投げやりに書いたのがこの詩です。
ですが、今年の作業はこれで終わったという満足感も一方では味わっています。
[語釈]
「三尸」 | :道家で人の腹中にすむという三匹の虫。 庚申の日に腹中から出てきて、その人の秘密を天帝に告げるという。(漢字源) |
「驚訝」 | :あきれる |
<感想>
どう読んでも良い、ということですので、私なりに読ませていただきました。
起句の「髑髏」と「芳花」の取り合わせ、承句の「仙女胯間」などの語句を見ては、「ああ、鮟鱇さんの作品だなぁ」とある種の共有感を持ちましたが、転句の「老残」まで行くと、全体が人生の重さを描き出し、深くため息を誘われました。
特にこの詩では、一詩人の人生の感懐にとどまらず、自然界に生きるものとしてのはかなさを感じさせ、古代からの人の営みを思わせる格調があると思います。
結句の「三尸」の登場は、一転、諧謔の境地を表出し、「生死を超越する」のは他ならぬ詩人の視点の高さによるのだということを伝えてくれます。
「なげやりに書いた」と言われる詩ですが、鮟鱇さんの精髄が描かれているのではないでしょうか。
2002.11.22 by junji
作品番号 2002-180
戲作
私立三科英數國 私立三科 英数国
偸間不至灼詩篇 偸間して 至らず 詩篇を灼くに
塾終行歩如泥醉 塾終わりて 行歩 泥酔するが如く
中夜帰家倏忽眠 中夜 家に帰りて倏忽として眠る
<解説>
久しぶりに作ったのでめちゃくちゃになってしまいました。
承句は蘇洵だったかが発憤して詩篇を焼き捨ててしまったという故事を使っているつもりです。
「不至」にしようか「未至」にしようか迷いましたが…。
[訳]
私立の教科は英数国、
怠けてばかりいて、詩を全部焼いてしまうには至らない。
塾が終われば眠さに酔っているような歩き心地、
家に遅く帰っては(復習もせず)すぐに寝てしまう。
4月から駿台模試を受けていて、今日も受けてきました。
自己採点したところ、かなり良く、もっとやればもっと伸びるだろうと言う思いがあります。以前難しいと託っていた英語が今では大事な得点源となり、逆に一番弱いのが数学になってしまいました。
受ける学校も殆ど決めてあります。因みに東京の私立は多くが三科で、自分の志望校も三科と面接という形式です。
後三ヶ月が勝負です。
<感想>
受験生はまさに「後三ヶ月が勝負」というところですね。
徐庶が書かれているように、「もっとやればもっと伸びる」というのはその通りです。そして、学習が進めば進むほどに、理解できることも増えますし、ペースも速くなりますし、量も増えてきます。
「偸閑」して詩を作ることは大変かもしれませんが、ま、気分転換のひとつとして頑張って下さい。
転句の「泥酔」は、酔った本人の気持ちとして書いてしまうと徐庶さんの年齢からはおかしくなりますから、「酔漢」「酔客」あたりにして、外から眺めた姿にした方が良いでしょう。
結句の「帰家」は、このままでも構いませんが、中国語の用法で「回家」とすると整うでしょう。
2002.11.22 by junji