作品番号 2001-102
遊蜀九寨溝弄水 蜀の九寨溝に遊びて水を弄す
澗泉億劫鑿嵩丘 澗泉 億劫 嵩丘を鑿(うが)ち
造化刪成九寨溝 造化 刪り成す 九寨溝
靜水遍敷青玉礫 靜水 遍く敷く 青玉の礫
激湍空散白珠 激湍 空しく散ず 白珠の(あわ)
玲瓏閑掬燦輝日 玲瓏 閑に掬すれば 燦として日に輝き
冷冽試嘗甘湿喉 冷冽 試みに嘗むれば 甘 喉を湿す
初脱衣冠忘俗世 初めて衣冠を脱いで 俗世を忘る
山容水態九州優 山容 水態 九州に優たり
<解説>
退職後、妻のねぎらいも兼ねて中国の九寨溝へ行って来ました。
まあ、水の美しいこと。筆舌に尽くしがたいのを無理矢理詩にしました。
以前に投稿した律詩が散々だったのですが、性懲りもなく再挑戦しました。
実景は小生のHPに載せています。写真だとどんなバカチョンカメラでも綺麗に撮れる景色なのですが。
<感想>
中国世界遺産の中の一つ、九寨溝を詠んだ禿羊さんの詩、うらやましいですね。私も将来是非行きたいと思っている場所です。一足先に禿羊さんの詩で楽しませていただきました。
さて、詩の感想ですが、首聯で九寨溝を大きくとらえ、頷聯で渓谷を描き、頸聯で流れる水を詠うという形で、なめらかに展開してきている詩なのですが、第七句、尾聯のまとまりが気になりました。
例えば、「初脱衣冠忘俗世」ということが、この九寨溝の景観と関わりがあるのでしょうか。もしあるとするならば、「退職した今だからこそ九寨溝の良さが分かる」という意味になってしまいますし、関わりが無いとするならば、「初脱衣冠」が何かを象徴しているのかと考えます。(でも、よく分かりません)
「初脱衣冠」を生かすのなら、「ようやくここに来ることができた」というような意味に持っていくのが良いのではないでしょうか。何にせよ、九寨溝に来ているわけですから、「忘俗世」は言わずもがなの語句でしょう。
2001. 9.14 by junji
作品番号 2001-122
観蔵羌民族歌舞於九寨溝 蔵羌民族の歌舞を九寨溝に於て観る
含嬌映燭美姫睛 嬌を含み 燭を映す 美姫の睛(ひとみ)
麗舞艶歌忘夜更 麗舞 艶歌 夜の更くるを忘る
羌笛今宵最哀怨 羌笛 今宵 最も哀怨
清愁自是玉関情 清愁 自ら是れ 玉関の情
<解説>
チベット族と羌族の民族舞踊のショーがありました。
舞姫たちの美しかったこと。それと初めて羌笛を聞きました。
鄙びた音色で、そこはかとなく哀愁をかき立てられたのは王之渙の『涼州詞』を思い起こしたからでしょうか。
<感想>
こちらの詩も結句の「清愁」の意味づけに悩みます。
というのは、転句の「哀怨」という感情を表す語とぶつかるからで、詩の中にあまり直接的な心情語を多用すると、結果的には平板な印象になってしまいます。
「羌笛今宵最哀怨」を描くのが主眼であるならば、そう感じた背景(この場合は「玉関情」)を結句で描けば良いですし、「清愁」を主眼とするならば、「羌笛」は小道具として描く程度に抑えるべきではないでしょうか。
禿羊さんのホームページは次のところです。
「アウトドアと漢詩のホームページ」
2001. 9.14 by junji
作品番号 2001-123
望洋洋送友 友を送るに洋洋を望む
蒼波明月勧離觴 蒼波、明月、離觴を勧める
如夢寿星舟路長 寿星、夢の如し、舟路、長し
臨別送君頻握手 別れに臨みて頻に手を握り君を送る
航程万里望洋洋 万里の航程、洋洋を望む
<解説>
仕事の仲間が、夢の実現の為に倫敦に留学をする。仕事を離れリスクを負っての旅立ちを決意している。
大丈夫なのか心配でもあるが、希望に燃える友にありふれた現実論を説き止める訳にはいかない。
世界には、色んな生き方を目指す人がいて、一見困難と思われる事も、思わぬ人の手助けで叶う事も多いと思う。友を送るにあたり、なかなか成就に時間が掛かるが、がんばるよう心をこめて握手をなんども交わした。
倫敦で自分たちに替わって多くの友が手を貸してくれる事を願い、その前途の洋々たる事を願う。
<感想>
まず、平仄の点から見ますと、各句の第一字(「蒼・如・臨・航」は皆、平字となっていますが、これはリズムを単調にする配置ですので、避けて下さい。具体的には、前半と後半でそれぞれ一度仄字を使うと落ち着きます。
また、起句の「蒼」と「航」は「下平声七陽」に属する字です。つまり押韻と同韻の字になりますので、これは「冒韻」ということで、ルール破りになります。特に起句の第一字に韻字を持ってきては、押韻の効果は消えてしまいますから、ここは気をつけるべきです。
内容というか、文法的には、承句と転句はこの語順では、羅夢山が書かれたような読み下しにはなりません。
承句は「夢の如き寿星 舟路は長し」でしょうか。転句は「別れに臨みて君を送り 頻りに手を握る」といったところでしょう。こうした読み下しで良いのなら今のままで構いませんが、趣旨が異なってしまうというのなら、順序を直す必要があります。勿論、平仄も配慮しなくてはいけませんが。
また、読んでみると分かりますが、転句の「送君」は「臨別」と同じ内容を言い換えただけで、意味が重複してくどく感じます。別の言葉を入れて、句の内容をもっと豊かにできると思います。
あと、細かいことですが、「洋洋」などの畳言の時に、省略記号である「々」や、その他の「ゝ」「〃」なども漢詩では使わないようにしましょう。ワープロだと勝手に変換してしまうこともありますが、意識しておく必要があります。
羅夢山さんが投稿に添えて書いて来られたお手紙を紹介します。
このホームページを見て、漢詩で現せる喜びを知りたいと切に思いました。
浅学・横着な自分にはとても無理と思いあきらめていましたが、基本ルールを解りやすく書いてあり作詩して見ました。まだ、一人静かに練習しておく時期と思いましたが、初心者が違った方法で学ぶのもかえって目標から離れるのでは無いかと思い、先生に甘えて遅らせて頂きます。
こっぴどく批評を頂けば、しばらく地道に勉強したいと思います。誠に身勝手で恐縮しながら送らせて頂きます。すばらしい機会を与えて頂き、心よりお礼申し上げます。
作品番号 2001-124
九段春 一
招魂社畔滿開時 招魂社畔、満開の時
奉献櫻花錯萬枝 奉献の桜花は万枝を錯す
東海英靈應弔慰 東海の英霊はまさに弔慰せらるべきも、
南冥幽魄果誰祠 南冥の幽魄、果たして誰か祠らんや
<解説>
全くの季節はずれですが、宰相の靖国神社参拝が喧しい折から時宜には適うかと…。山陽吟社時代の10年以上前の作です。
太刀掛呂山先生がどういう添削をしたかがあるいは興味をひくかと思い、注記します。
三句目、下三字。「将被慰」→「応弔慰」
四句目、下五字。「幽鬼奈何祠」→「幽魄果誰祠」
太刀掛先生は三句の再読文字を「マサニセラルベシ」と訓じておられますが、続けてよんでみました。
あるいは人は「南冥の幽魄」をアジア・太平洋の戦場に散って遺骨収集されていないような日本軍兵士のことと思うかもしれないけど、東海の英霊と対比したかったのは、アジア全体の戦争犠牲者のつもりです。
日本の兵士も現地の人も、山川草木に宿る現地の聖霊になっていると思うほうが安らぐ感じもする。
<感想>
掲載が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。送っていただいたのは八月二二日でしたので、随分ピントがずれてしまったかもしれません。
この詩の感想は、次の第二篇と併せて書きまししょう。
2001. 9.13 by junji
作品番号 2001-125
九段春 二
國殤僵死水天涯 国殤れて僵死す水天の涯
靈域招魂只落花 靈域に招魂するは只だ落花
休説彼師非聖戦 説くを休めよ彼の師は聖戦に非ずと
汗青豈有義兵誇 汗青、豈に義兵を誇る有らんや
<解説>
この詩も、太刀掛呂山先生の添削を示しておきます。
初句、「少年僵斃」→「國殤僵死」
結句、「安有義兵耶」→「豈有義兵誇」
「耶」は文語の助辞、近体詩には使わない字で、「豈」の中にその意は含まれると注意書きがありました。私は韻字表を見ても「誇る」を思いつきませんでした。
どう見ても日本の戦争は聖戦ではないけど、落花を見て思うのは歴史の善悪ではなく戦没者のこと。
<感想>
一昨日あたりの新聞(NHKニュースだったかしら?)で、首相の靖国神社参拝についてのアンケート結果が出ていました。
予想したとおり、というか、結構矛盾した部分があって面白く感じました。例えば、十五日を避けて参拝したことについて、「バランスをとって対処し、良かった」という人もいれば、「ずっと言ってきたことを破ってケシカラン」という人もいるわけです。
そう言えば、民主党の鳩山党首は「(参拝に)行けば首相としての資質が問われるし、行かなければ公約違反になる。どっちにしろ救われないのだ」というようなことを八月十日頃に言っていたような気がします。党首対談で相手にエールを贈ってしまうような方ですから、この発言も小生意気な中学生の言い分みたいで、思わず笑ってしまったのですが、それにしても、中曽根首相以来の問題をこの期に及んで再燃させるという現首相の発想は、一体どこから来ているのでしょうか。
アイドル並の写真集も出版されているそうですから、我が世の春という感じでしょうか。与謝野晶子が彼の短歌(?)を見て、腹を抱えて笑っている姿が目に浮かびますが、それ以上に歌をあれこれと意味ありげに解釈していたマスコミにもあきれてしまいました。阿諛追従というべきか、おっと、話がずれてきたようです。
戦争による数多くの犠牲となった方々への哀悼の気持ちは、誰もが抱く素直な心情だと思います。また、戦争という非常の時に、加害者も被害者も時代の中を流されていたことも私は一定の理解はしているつもりです。
しかし、戦後50年の私たちが積み上げてきた歴史を無視することはできません。様々な立場の人達の気持ちを酌み取り、できるだけ多くの人が納得できる方向を選択する、過ちは謙虚に反省し、成功には奢らない、戦後の教育の中で私たちはそうしたことを学んできました。そして、そのことを誇りに思って生きている人が大部分だと思います。
逸爾散士さんが二詩に詠われたお気持ち、多くの人々の心を踏みにじることのないように、もう少し落ち着いて、配慮をもってもらいたいと私は痛切に思いました。
2001. 9.14 by junji
作品番号 2001-126
村居興 村居ノ興
村居六十又逢秋 村居六十 又秋ニ逢フ
四季常親野色幽 四季常ニ親シム 野色ノ幽ナルヲ
春日霞中香蕊淡 春日 霞中 香蕊淡ク
夏時雨裡翠荷脩 夏時 雨裡 翠荷脩シ
江楓月影水祠岸 江楓月影 水祠ノ岸
芦雪雁声津店洲 芦雪雁声 津店ノ洲
机上更倶醪酒美 机上 更ニ醪酒ノ美マキヲ倶ウレバ
何関無為老来愁 何ゾ関セン 無為老来ノ愁ニ
<解説>
無為自然、在るが侭に生きたい、普通に生きたい、自分が自分らしく生きたい、そんな願いを何時も持ちながら其れが出来ないまま既に60歳。せめて詩の中だけでもそんな自分であればと思って作詩しています。
が、詩中の己もそんな自分になれず、俗心がちらちら見え隠れして何時も自嘲しています。
<感想>
真瑞庵さんの詩に表れるという「俗心」なるものは、一体どんなものなのでしょうか。
今回の詩でも、まさに「村居」の四季折々を真瑞庵さんの視点で選び出し、格調を保っていて、生活が目に浮かぶように感じました。ただ、四季の風景ということで頭の中で練った面もあり、真瑞庵さんのいつものような現実感、臨場感は薄くなっていますね。
第七句の「机上」の語は、置いてあるのは書物であろうと予測させておいて、「醪酒」と逆転させたのは、計算の上か、面白く思いました。
2001. 9.19 by junji
作品番号 2001-127
風過 風過ぎて
風過街快潔 風過ぎて 街快く潔く
水溜写空蒼 水溜りは 空の蒼きを写し
暑去消蝉唱 暑きは去り 蝉の唱消える
葉枝語熱陽 葉枝は 熱き陽を語らん
<解説>
嵐の後の朝の公園を書いてみました。
蝉の声がなくなりさびしくなりました。
初めて投稿以来何篇か作詞はしましたが漢詩のパズルをとく事が出来ません。
漢字の発音自体知らない私にとって漢詩の調べを耳にするのはNHKの漢詩の番組のみ、漢字の持っている私なりの意味合いのみの漢詩に付き合いしていただきありがとうございます。
パズル好きの私には新しいゲームが出来て趣味が増えそうです。私の思いが書き表せなくてすみません。みなさまにご批評願えれば幸せです。今後ともよろしく。
<感想>
台風一過の街の様子を描いて、ということですね。
語句の意味としては、 「快潔」 はあまり聞かない言葉です。また、「潔」 は詩の核心の言葉と思います。つまり、この 「潔」を情景から感じさせることが大切で、核心を言ってしまってはこの後が大味になってしまいます。
承句の「空」については、「天」とした方が良いでしょう。
転句の「暑去」も直截な言葉ですが、それよりも下の「消蝉唱」が雅味乏しく思います。直すとすれば 「蝉声絶」 くらいでしょうか。
結句は言わんとすることが分かりません。「熱陽」は夏の陽射しのことでしょうが、それを「葉枝」が語って、だから何なのでしょうか。まだ残暑が枝には残っているということでしょうか?それならば、転句が死んでしまいます。あるいは、「葉枝」は夏の思い出の象徴でしょうか?それでも、転句からのつながりがありません。
五言絶句は字数が少ないために余韻が残り行間を考えさせる詩形ですが、下手をすれば作者の思いこみや独りよがりになってしまう危険も併せ持ちます。結句はやはり言葉足らずの印象ですね。
2001. 9.24 by junji
作品番号 2001-128
未不識 未だ識らず
大海乾坤悠久夫 大海乾坤 悠久なるかな
陳今万物悉栄枯 陳今万物 悉く栄枯す
盍光生矣安星滅 盍(なん)ぞ光生ぜしや? 安くにか星滅せん?
思邃惟姑詠臆隅 思い邃(ふか)まれば 惟姑(しばら)く 臆隅を詠ずのみ
<解説>
理科の授業を受けると、いつも宇宙などの空想に気が行ってしまうんです。
生来不思議なことに興味を持つ質なのかもしれません。元来、理科は好きな教科ですし、考えてみると限りがないのも好きですね。
親が理科出身の校長と言うこともあってのことかも解りません。
<感想>
題の「未」は再読文字ですから、この一字で「いまだ・・・・ず」と読みます。ですから、「未不識」は「未識」で十分です。
転句の「盍」は、疑問形でも用いられますが、多くの場合には打ち消しを伴って 「どうして・・・・しないのか」という意味に使います。この字だけですと、反語の場合が多く、この詩の場合も訳せば、「どうして光が生まれようか、いや、生まれない」と読む人が多いと思います。「生光何者」として、「光を生みしは何者ぞ」とすれば意図と合うでしょうか。
承句の「陳今」は、引用でしょうか。語釈をつけて下さい。時を表す言葉だとしますと、起句の「悠久」と重なっていませんか。
結句の収束は学生らしくて、良いと思います。読み下しは「詠ずるのみ」と、連体形にするのが約束です。
2001. 9.24 by junji
作品番号 2001-129
初夏村居
首夏閑行好 首夏 閑行に好く
涼晨清興催 涼晨 清興を催す
卯花花自発 卯花 花自ら発き
梅雨雨初開 梅雨 雨初めて開く
雪萼含風揺 雪萼 風を含んで揺れ
幽香隔堵來 幽香 堵を隔て來る
支頤少流憩 頤を支えて 少らく流憩し
遊目亦遅回 目を遊ばせては 亦た遅回す
捜句分詩客 句を捜りては 詩客を分とし
安排甘散材 排に安んじては散材に甘んず
浮生情易倦 浮生 情倦み易く
世味意難裁 世味 意 裁ち難し
守黒須知白 黒を守りては 須らく白を知るべし
適心何作灰 心に適いては 何んぞ灰と作らん
村翁無閉戸 村翁 戸を閉じる無く
呼我薦茶杯 我を呼びては 茶杯を薦めん
<解説>
五言排律がなかなか出来ませんでした。2カ月かかりましたが、満足はしていません。
措辞の変更ぐらいでは、納得ゆくものは出来ないので推敲はやめて、妥協しました。内容は浅近で平板です。
初夏の季節は散策に好く、涼しい朝は心も清らかになります。
卯の花は開き、梅雨もいま晴れたばかりです。
その雪のような、白い花は風にゆれ、香りは垣根を越えて漂って来ます。
私は手で顎をささえながら、幾度か休憩をし、
あちこちを見渡しながら、ぶらぶら歩き回っています。
そこでつくづく思うのは、わたくしは、句を捜るだけしか能はなく、
仕方なく、詩客を分とし、これは天が与えた配剤で散材に甘んじています。
ただ浮世の付き合いは煩わしく、倦み易く、
そういっても、世の中のしがらみには少しばかり未練があります。
牛背の先哲が云うように、潔癖さを知った上で、世の中に交わるのが一番好いとのこと、
そうであればこそ、心に適った生活を送ることが出来、どうして、心が灰になるものですか、
その証拠に、この村のおじいさんは、何時も門を閉る事なく、
私を見ては、声をかけてくれて、お茶を御馳走してくれます。
<感想>
後半に出て来る「守黒須知白」は、老子からの引用ということですので調べてみました。第二八「反朴」に書かれている言葉でした。謝斧さんの解説がとても分かりやすく思います。「守黒」が「世の中に交わる」ことですし、「知白」が「潔癖さを知る」ことですね。有名な『漁父辞』での屈原と漁父の対話を思い出す方もいらっしゃるかもしれませんね。
他にも典拠がたくさんありそうですが、私の乏しい記憶容量ではつかみきれませんでした。句の意味はそれなりに分かりやすく、句の流れも遅滞がなく、結聯までなめらかに展開されていて、さすがに、と感心しました。
2001. 9.24 by junji
作品番号 2001-130
秋望
寂樹蕭蕭秋気芳 寂樹蕭蕭として 秋気芳し
童児恭謹運珠觴 童児恭謹して 珠觴を運ぶ
従今若許飄飄往 今より若し飄飄として往くを許さば
花木深時訪草堂 花木深き時 草堂を訪ねん
<解説>
最初に言いますが、酒は飲めません、未成年ですから。
酒宴を思い浮かべて作ったんですが、頭の中で思い描いたものですから、もしかしたら実際とは違う部分もあるかもしれません。それは悪しからず . . .
最後の二句は、陸游の「遊山西村」の最後の二句をまねてみました。
<感想>
陸游の「遊山西村」は、詩中の名対句 「山重水複疑無路/柳暗花明又一村」で名高い作品ですね。
「寂樹蕭蕭」とありますから、きっと奥深い山の中でしょうか。「童子」が身の回りの世話をしているところから察するに、相手は世を離れて隠棲する幽人でしょう。
起句承句は、徐庶さんのイメージを明確にしていて、現実離れしているところが却って面白い効果を出しているでしょう。
転句の借辞も内容としては悪くないと思いますが、「飄飄往」というのはどのようなことを意味しているのか、よく分かりません。
この詩は結句が残念です。せっかく前半で山中隠者の世界を描いたのに、わざわざ「草堂」などとここで言っては、「ネタばらし」のようなもの、興が醒めてしまいます。
また、陸游の詩の「挂杖無時」につけて「花木深時」としたのでしょうが、これでは春の季節になります。ということは、秋に一緒に飲んでから、次は半年先まで訪ねないと言っているようなものです。陸游が言った「無時」は、「無」ではなく、逆に「いつでも」という意味ですから、徐庶さんの言われたのとは反対で、招待してくれた方への感謝がよく表れていると思います。
2001. 9.26 by junji
作品番号 2001-131
孟秋
一朝生爽氣 一朝 爽気生じ
晝夜有聞蟲 昼夜 虫を聞くあり
蟋蟀和明月 蟋蟀 明月に和し
蜩蝉哀朔風 蜩蝉 朔風に哀し
山猶纏葉碧 山は猶葉を纏いて碧なるも
天已啓雲空 天は已に雲を啓きて空ろなり
江水日澄K 江水 日に澄K
蕭蕭兩岸蓬 蕭蕭たり 両岸の蓬
<解説>
初めての律詩です。今までにも何度か試みたことはありましたが、どれも内容が間延びしたものになってうまくいきませんでした。今回、何とか最後まで無理なく作ることができたように思いますが、如何でしょうか?何分不慣れなものなので、添削を宜しくお願いします。
ここ十日程の間に朝晩がめっきり涼しくなりました。それでも「朔風」とは何とも気の早い話ですが、涼しくなってもなおその中で鳴いている蝉との対比を狙って用いてみました。
<感想>
初めてとのことですが、対句も工夫があり、うまく出来ていると思います。
仰るように「朔風」では冬の北風まで行ってしまいますから、いくら対比とは言っても、「蜩蝉」とはつり合わないと思います。
また、首聯の最後の文字が「蟲」で、次の頷聯の始まりが「蟋蟀」ではつながり過ぎです。頷聯をもう一度練ってみると良くなるでしょう。
意味の上では、頸聯の「天已啓雲空」が分かりにくいと思います。「雲を啓」となぜ「空」ろなのか、もう少し言葉が欲しいところです。
2001. 9.26 by junji
作品番号 2001-132
観月 月を観る
満地虫声切 満地の虫声 切なるに
寥寥坐夜蘭 寥寥と夜蘭に坐す。
未功残夢断 いまだ功ならずして 残夢を断ち、
孤客月光寒 孤客に月光寒し。
<解説>
9月4日 仲秋の名月の一月前の満月を見ながら、作りました。
[訳]
地に満ちる虫の声を聞きながら、
静かに座って月を見る。
功なくして夢も破れ、
独り見る月の光はわびしいものだ。
<感想>
月を前にした寂寥感が全編に漂っていて、秋の深まりを感じる詩ですね。
起句と承句のつながりが不明瞭のように思います。金先生の訳ならば単純な接続で分かるのですが、読み下しのように「切なるに」とすると、「虫の声がしきりなのに」と逆接で読みます。あるいは、「切なる(上に)」と添加の接続でしょうか。読み下しもそうですが、白文のままで「聞きながら」と接続できるのかどうか、気になります。
転句の「断残夢」も分かりにくいと思います。「夜闌」(真夜中)に目が覚めて「夢が途切れた」ということでしょうか。それとも、「未功」との関係で見ると、将来の希望が消えたということでしょうか。後者ならば、「夢」の用法としてはあまり賛同できません。「夢」はあくまでも眠って見るもののこととされていますから、解釈に無理が出ます。
結句の収束が余韻深いと思いますので、転句をもう一工夫してみたらどうでしょうか。
2001. 9.27 by junji
作品番号 2001-133
水亭聽蛙
梅天六月水辺村 梅天六月 水辺の村
雨鎖茅亭晝尚昏 雨は茅亭を鎖して 晝尚を昏き
時聽窓前蛙鼓聒 時に聽く窓前 蛙鼓の聒しを
煮茶消遣爽吟魂 茶を煮て、消遣すれば吟魂爽かなり
<解説>
謝斧です。嘯嘯会の藤原鷲山氏の詩を紹介します。
藤原鷲山氏は嘯嘯会では西川介山に次いで新しく、経験は8年位ですが、力は安定しています。措辞も杜撰なところもありません。
先ずは無難な作詩をこころがけているようです。反面つまらなく感じるときもありますが、今回の作品は佳作だとおもっています。
<感想>
無理がなく、結句まで流れるように読むことができました。転句の発展も素直ですし、個人的にはかなり上質な詩だと思います。
ただ、流れが良くて、素直な展開ということは、謝斧さんも仰るように、あっと驚くような斬新さは無いということでもあります。この作者の、この瞬間の感動はどこにあるのか、という不満を持てば持てるわけです。
ただ、それは作詩に何を求めるか、ということでもあり、古人と感動を共有するすることを第一にするならば個人の感懐が表出されていないことに不満を述べるのは筋違いだし、どちらが良いとか悪いとかの判断できることでもないと思います。
短歌や俳句、現代詩と漢詩の違いはそこにあるように私は思います。漢詩の場合でも他の韻文と同じく、自分の固有の感情を描き出すことは大きな目的ですが、もう一つ、三千年もの長きにわたる漢詩の伝統と触れ合うことも重要な目的です。
李白や杜甫、あるいは名も知らぬはるかな古人、彼らと共通の感情を持つことは間違いなく喜びです。そうした喜びを与えてくれるものは、実は千年間変わることなく形式を守ってきた漢詩しかないと思います。
話が大きくなってしまいましたが、安心して眺めることの出来る、そういう意味での秀作ですし、作者である鷲山さんのお人柄やご勉強ぶりがうかがわれるような作だと思います。
2001. 9.27 by junji
作品番号 2001-134
官僚
男人得意是官僚 男子の得意 是れ官僚たり
酒店常留伴柳腰 酒店に柳腰を伴い常に留まる
百姓辛労何所得 百姓 辛労 何を得たる所
秋刀晩飯有三条 秋刀(さんま) 晩飯に三条あり。
<解説>
さんまの季節です。ビールとさんまがあれば、秋の夜長もどんと来い!!の私ですが、今回の外務省の事件にはさすがにあきれました。
まだ氷山の一角なのでしょうが。
<感想>
一連の官僚による不正事件への憤りは、昨今は国民のほとんどが抱いている感情ですね。
杜甫が当時の官僚の悪逆非道の振る舞いに怒りを覚えたのは千年も昔のことながら、そのまま現代にも持って来られる気がします。権力を握った当時の官僚と、結局は公務員に過ぎない現代の官僚とは同列に眺めてはいけないのかもしれませんが、特権意識は同じ様なものなのでしょうね。
ただ、当時と現代の日本の違いは、庶民がそこそこ豊かになったこと、本当は心も豊かになっていなくてはいけないのでしょうが・・・・
2001.10. 2 by junji
作品番号 2001-135
秋夕行
昏日揺揺染赤紅 昏日揺揺 赤紅に染まり
新涼爽快産清風 新涼爽快 清風を産ず
晩天星集梁山泊 晩天 星集まれば 梁山泊
酒店罍殫巾倒公 酒店 罍(さかだる)殫(つ)きれば 巾倒公
<解説>
[語釈]
「新涼」:早秋
「巾倒公」:竹林の七賢の山濤の子、山簡のこと。
<感想>
「巾倒公」の由来は、山簡はしょっちゅう酩酊し、馬に乗って帰る時には頭巾をさかさまにかぶっていた、ということから呼ばれたのですが、でも、「濤子簡、疎通高素(濤の子の簡は、物にこだわらず高尚で素朴)」(『世説新語』)な人柄であったとも、「山簡、字は季倫、心穏やかに正しく、父(山濤)の風があった」(『晋書』)とも言われていますので、スケールの大きな人物だったのでしょう。
それはそれとしておいて、詩としては、転句の「梁山泊」も、結句のこの「巾倒公」も、何を言おうとしての引用かが分かりません。特に結句は、詩の展開が私にはつかめません。「酒店」がどうして唐突に出てきたのでしょうか。
作詩の意図をもう少し説明していただかないと、せっかくの前半が死んでしまいます。
2001.10. 2 by junji