作品番号 2000-91
梅 雨 河村 豊
寂寞梅天雨 寂寞たり 梅天の雨
霏霏野径空 霏霏として 野径空なり
誰知茅屋下 誰か知る 茅屋の下
逐鹿小箱中 鹿を逐う 小箱の中
<解説>
すでに梅雨明け宣言が出ていますが、梅雨の詩です。(^^;。
結句の「小箱」と言うのは、パソコンのことでして、
その中で「鹿を逐う」と言うのは、『三国志』などのゲームをしている、ということです(^^;。
あと、起句の「梅天」ですが、これは梅雨空のこと。ただ、本当は「雨冠に母」という字なのですが、ここでは当て字(「梅」)を使っています。(意味は全く同じです)
[訳]
梅雨の雨は寂しいものだ。
しとしとと降り続いて、あぜ道も寂しげだ。
誰が知ろうか、このぼろ屋の下で、
箱の中で天下を争っているなどということを。
<感想>
掲載が遅くなりましたが、7月中旬に頂いた作品です。
五絶の軽快なフットワークが、河村さんの作品にはいつも感じられ、ほのぼのとした気持ちになりますね。
今回は、鬱陶しそうな梅雨の景色を起承で語った後、突如、コンピュータゲームに話を持っていってしまう所がびっくりですね。いかにも現代、という感じが漂う展開だと思います。
難点としては、やはり、「自注」が無いと結句の意味が分からないという所でしょう。
私の意見としては、結句に『三国志』の中で「梅雨」とか「雨」に関わるような出来事を出して、もう少し起句承句とのつながりを出した方が、全体の構成が理解しやすいと思います。
「小箱」云々のことは、題に回してしまったらいかがでしょう。
2000. 8. 7 by junji
作品番号 2000-92
夏夕遇雨 夏夕雨に遇ふ
飛光一閃擘炎雲 飛光一閃 炎雲を擘(つんざ)き
驟雨沛然天地紛 驟雨沛然として 天地は紛る
小姐莫恟風已至 小姐 恟(おそ)るる莫かれ 風已(すで)に至る
垂枯眉葉復欣欣 垂枯の眉葉 復た欣欣
<解説>
[訳]
焼けるような暑さ、雲を稲光が一瞬切り裂いて
にわか雨がザザーッと来たら、何処が道やらもう分からない
お嬢さん、でも恐がることはないんだよ。
もう風が吹き始めてる。
枯れかけていた柳の枝も、ほら、また元気そうだろう。
<感想>
イメージとしては、通勤帰りに駅から出たら丁度雷雨に遭ってしまった夕方。
隣には可愛いお嬢さんが恐がって立っている。つい、声を掛けてしまいたくなって・・・・
という内容です。病院の高層の窓から稲妻の光る空を見、地下鉄の駅の辺りを遠く眺めながら作りました。
ちょっと色っぽさを出したかったので、「小姐」と現代風にしてみました。初めは「小娃」と白居易だったかな?、その辺りを意識したのですが、堅苦しそうでしたので、直しました。
結句に何を持ってくるかで随分悩んだのですが、「鳥魚草木」だとか、「池辺草木」を初めは入れていたのですが、せっかく「小姐」ですので「柳眉」ならぬ「眉葉」としたのですが、どうでしょうかね。
2000. 8. 7 by junji
作品番号 2000-93
雨中游板取村 雨中 板取村に游ぶ
径傍翠渓煙雨繁 径は翠渓に傍て煙雨繁く
堤楊恍惚杉林昏 堤楊は恍惚として杉林は昏し
一双白鷺棚田佇 一双の白鷺 棚田に佇み
一笠釣翁石磯蹲 一笠の釣翁 石磯に蹲る
急瀬水声周茆舎 急瀬の水声 茆舎を周り
紫陽花影彩牆根 紫陽花影 牆根を彩る
野亭独酌半瓶酒 野亭独酌 半瓶の酒
酔誘雲郷仙閣門 酔は誘う 雲郷仙閣の門へ
<解説>
7月の初め、板取川へ鮎掛け(鮎の友釣り)に出掛けました。
出掛ける前から雨は降っていましたが、そこはそれ、釣りキチの性、とにかく出掛けてしまう。
現地の雨はそれ程でもないのですが、川の濁りがきつくて、とても友釣りは不可能。そこで、鮎茶屋で一杯。
この板取村は紫陽花が有名な所で、雨に濡れた花は一際鮮やかでした。
<感想>
整った対句が場面を引き立てて、そのまま絵になる趣がありますね。
頷聯の対はややありきたりの感がありますが、頸聯の「紫陽花影彩牆根」がぐっとひきしめていると思います。
難を言えば、7句目に使われている「野亭」の語で、作者の視点を示しているわけですが、その前までの句調では「雨の中を歩き回って景を楽しんでいた」という印象でしたので、裏切られた気がします。尾聯だけが独立しているように思いますが、いかがでしょうか。
2000. 8. 7 by junji
作品番号 2000-94
寄藤工場長 藤工場長に寄せる
一月遼東碧海寒 一月遼東 碧海寒し
乗舟割菜尽心酸 舟に乗り菜を割ること 心酸を尽くす
壮年已過人将老 壮年已に過ぎ 人将に老いんとす
喜笑悲愁在馬欄 喜笑悲愁は馬欄に在り
<解説>
大連の取引先である海藻の馬欄河養殖場というところの工場長である藤さんにあてたものです。
47年間養殖に従事し、業界の尊敬を一身に集めた方です。
本当にお疲れ様でした。
<感想>
ニャースさんから2作目を寄せていただきました。
今回の詩は、ご自身の解説にもあるように、特定の方に贈られた詩のようですね。こうした詩の場合には、当の本人同士ならば分かるけれど他人には分からない事情などをどこまで詩に入れるかが難しいと思います。
例えば、この詩で言えば、承句の「乗舟割菜尽心酸」は、詩だけを読んでも意味が分かりにくいですね。解説を読んで、私は「ああ、養殖業をしていたことだろうね」と解釈しましたが。
同じく、結句の「喜笑悲愁在馬欄」も、気の利いた表現だとは思いますが、では、何を言っているのかを詩から判断せよと言われると困ります。やはり、解説を読んで初めて理解できる句ですね。
こうした贈答も含めて、特殊な状況を表す詩ですので、解説に書かれたような内容(藤工場長が馬欄河養殖場に居られたこととか、退職なさることとか)を「題」に補足されると良いと思います。
転句についてですが、こうした言い方を自分に対して使うのは分かるのですが、相手に対して使うのはどうなのでしょう。他の方のご意見もうかがいたいところですね。
2000. 8.12 by junji
作品番号 2000-95
老炎天 炎天に老ゆ 鮟鱇
蝉吟樹頂争声量 蝉吟 樹頂に声量を争ひ
炎熱陽台碍夕涼 炎熱 陽台に夕涼を碍(さまた)ぐ
游目暮山収白日 游目すれば 暮山 白日を収め
焼雲酔境似紅裳 雲を焼いて 酔境に紅裳に似る
少年数樂在閨裏 少年数(しばしば)閨裏に楽しみ
老骨應知近墓傍 老骨 応に墓の傍に近きを知る
流汗胯間淫志涸 胯間に汗を流して 淫志涸れ
垂涎雪面戀情狂 雪面に涎を垂して 恋情狂す
<解説>
[語釈]
「陽台」:ベランダ
「雪面」:雪のように白い顔、美人
老いらくの恋とでもいうのでしょうか、具体的な相手は居ないのに何か失恋をしたような、五十代の体力の衰えにはそういう悲しみがあります。あるいは、男性としての機能がいよいよ最後の時を迎える、そういうことであるのかもしれません。
この詩は、その状況を炎天の下でイメージした詩です。
このような生臭いテーマは、あるいは唐詩にはふさわしくないのかもしれませんが、律詩の持つ厳格な規律が、言葉に悲愴な効果を添えてくれるのではないかと思い、全対格を試みました。
<感想>
確かに、これまでの漢詩ではあまり扱われていないテーマですね。
人が老いることを詠った詩はいくつもありますが、その老いを何によって表すか、姿形や髪の色、あるいは病気、このあたりが一般的でしょうが、肉体的な(特に性的な)衰えを詠むことはないですね。
というよりも、そもそも男女の恋愛感情を詠った詩そのものも少ないのが漢詩の特徴ですから、当然かもしれません。
「律詩の持つ厳格な規律が、言葉に悲愴な効果を添えてくれるのではないかと思」われたそうですが、私はそんなに「悲愴」な感じはしませんでした。どちらかと言えば諧謔な印象が残りましたが、それは詩の表現の問題ではなく、やはりテーマの問題だと思います。
生臭いものはやはり生臭いのであり、そのまま素直に味わうべきだと思います。悲愴を狙うのが逆効果になる場合も多いですし、形式で追うならば、古詩の形でおっとりと表現した方が、逆に切迫感があるように感じるのではないか、と私には思えます。
2000. 8.15 by junji
作品番号 2000-96
夏日釣魚遊
残炎未散水中央 残炎 未だ散ぜず 水の中央
尽釣斜陽入晩涼 釣を尽くせば 斜陽 晩涼に入る
漁果相多争覇宴 漁果 相多く 覇を争ふの宴
酣歌酔飽払蚊荘 酣歌 酔飽 蚊を払ふ荘
<解説>
友人たちと一泊で川さかなを釣りに行った時のことを漢詩にしました。
<感想>
静岡の種子島さんという、雅号がとても面白く感じました。
結句の「酔飽」という言葉は、私の好きな言葉ですが、ベロベロに酔っぱらい、たらふく食ったことを言いますね。よほど大漁だったようで、ウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ・!
使われている言葉も躍動感があり、楽しい釣行だったことがよく窺われる詩だと思います。
形式の面で言いますと、承句の「陽」、転句の「相」が、押韻の「下平声七陽」に属する字です。(「相」は「あい・互いに」の意味の時は平声、「大臣・易を見る」の時は仄声です)
冒韻(韻字を押韻以外の所で使うこと)については、厳禁と言われる場合もあれば、フリーパスの場合もあり、主宰の考え方に依るところが大きいようですので、このホームページでも許容範囲は大きくしています。詳しくは、99年の投稿詩の21作目、鮟鱇さんの 『春夜感傷』 の所を参照して下さい。
で、この詩ですが、私の意見としては、「斜陽」は無理に「陽」にこだわる必要は無いように思いますので、よく似た言葉で「斜暉」などを用いてはいかがでしょうか。
また、転句についても、「相多」という表現自体が実は気になります。「相」の字の後ろに形容詞が来ていて違和感があります。「同じく」「共に」「等しく」など、同じ趣旨の言葉は沢山あることですから、敢えて冒韻で通すのではなく、ここは別の表現を考えてみたらどうでしょう。
こうした、何かの折に作った詩というのは現実感があり、生き生きとした表現がとても心に残ります。次作も楽しみにしています。
2000. 8.17 by junji
作品番号 2000-97
夜 蝉
杯中浮氷響 杯中 浮氷響き
触唇琥珀光 唇に触る 琥珀光
蝉声繊麗聞 蝉声 繊麗として聞こえ
緑闇伴歌香 緑闇 歌を伴ひて香はし
<解説>
ウイスキーの水割りを傾けている時に、夜になくヒグラシの声を聞いた時の情景です。
初めて漢詩というものを作ってみました。なかなか楽しかったです。一応、平仄は合わせたのですが、どういうものでしょうか?
良いのか悪いのか、さっぱり分かりませんので、ご助言たまわりたいと思います。
<感想>
隆葦さんは、私と同じく高校の国語の教員ということですので、興味を持っていただけたことをとても嬉しく思います。
漢詩に限らず、短歌や俳句も含めて創造するという行為を数多く体験することは、是非とも若いときにしてほしいことです。感性が研ぎ澄まされていて、詩として詠いたいことが沢山ある時期にそれを言葉で定着させる、それが芸術の何よりの基本です。
感動もないのに詩は作れません。しかし、感動だけで詩が作れるわけではありません。大切なのはいかに感動を言葉で表現するか、そのための様々な体験や訓練は、国語の教員として必修のものだと思います。
漢詩を自分で作ることが授業に役立つかどうかは、それは授業への取り組み次第ですし、生徒の関心や興味の在り様にもよります。ただ間違いないことは、創作の試みは、教員として、人として、自己を見つめ、自己を育てることにつながることです。
是非、これからも頑張って下さい。
さて、初めての漢詩についてですが、起承転までは流れは分かるのですが、結句の「香」が突然の登場で、何が何故香るのか、とまどいました。
結句だけでみれば、「緑闇」が香ったのかなとも思いますが、となると、作者は庭に出たのでしょうか(ウイスキーを持ったまま?)、或いは窓から香りが流れ込んできたのだとすると、そんな強い香りは「緑闇」の中の何なのでしょうか。
夜の庭の景としてはあまり熟した言葉ではないと思いますが、でも、「緑闇」はイメージとしては分かる言葉です。そこに組み合わせるのに、「伴歌」(これも蝉の声であるならば、転句の繰り返しになりますから不要です)や「香」が合わないのだと思います。
夏の夜庭を描くのに適する素材を洗い直してみると、「緑闇」に合うものが見つかるかもしれません。
漢詩でもやはり、素材の精選が第一ですので、どんなことを詩の中に詠み込むか、どんな景を詠うか、を選択することが大切です。「五言絶句は俳句のように作る」と、やや乱暴な言い方をした人が居ましたが、わずか二十字の中に置くことのできる素材は限られます。(俳句の十七字に比べれば、表意文字二十字は圧倒的に情報量は多いと思いますけれども)
場面や展開が分かるためには出来るだけ多くのことを入れなくてはいけませんし、バラバラと物事を入れ過ぎても混乱をします。そういう点では他の韻文作品と変わりはありませんね。漢詩の場合は、そこに「起承転結」とか、「対句」とかが関わってきて素材の選択時の要素になります。
以下は平仄についてのことですので、あまり神経質にならず、こんなこともあるのか、くらいの気持ちで読んでみて下さい。
まず、起句ですが、平仄の点では「二四不同」を破っています(「中」も「氷」も平声)。「杯中」に替わる言葉が今思いつきませんが、二字目が仄声になるような語句を検討してみて下さい。
承句は、平仄の点では、二字目の「唇」が仄声に前後を挟まれた「孤平」になっています。これは一字目の「触」を「銜」(ふくむ)などの平字に直せば解消します。
転句は、ホームページの韻目検索の問題ですね。「聞」の字は平仄両用なのですが、ホームページで調べると、「聞く」は「平」:「聞こえる」は「仄」という表記になっていますが、耳で直接聞く場合には「平声」、噂として聞こえる時に「仄声」ですので、私の説明不足、不注意でした。ごめんなさい。この詩の場合は「耳に聞こえた」ということですから「平声」となります。
ということで、ここは私の責任ですので提案として、ここは仄声でないといけませんので、「韻」の字を用いてはどうでしょう。
以上ですので、形式や平仄もこの際、きちんとしたいということでしたら、後半書きましたことを参考にして推敲して下さい。
2000. 8.16 by junji
作品番号 2000-98
夏日山行
客子山行攜一瓢 客子山行 一瓢を携え
炎蒸夏日有誰招 炎蒸夏日 誰か有りて招かん
梢梢自向静中聽 梢梢たるは自づから 静中に向かって聴き
聒聒祇于醉裏消 聒聒たるは祇だ 酔裏に消ゆ
借榻老僧眠野寺 榻を老僧に借っては野寺に眠り
訊途樵父渡溪橋 途を樵父に訊ねては 渓橋を渡る
路傍唯見茉莉白 路傍唯だ見る 茉莉白く
頻帯午風花影揺 頻りに午風を帯びては 花影揺らぐ
<解説>
梢梢自向静中聽
聒聒祇于醉裏消
は、少し工夫をしたところです。
意味は、
「涼風が木の葉にあたる音を、静かな山中に聞き、
鳥等の鳴き声は少し酔っているせいか、遠くで微かに鳴いているように聞こえる」
です。
「梢梢」「聒聒」が、それを生じさせている存在(木とか鳥)の叙述がないため、この句に関しては、何か奇異に受けとめられるかと存じますが、意味は分かりにくいことはないと思いますので、この対句に関しては自分では無理はないかと思っています。諸兄の御批正を賜りますよう、お待ちしております。
詩の内容は、陳套の誹りは免れないと思っていますが、これ以上推敲を重ねるのが嫌になりました。
<感想>
こうした山中の詩の世界は私の大好きな所、繰り返し読んで、病室から一気に夏の深山の中に入り込んで行きました。
頷聯の対句は無理はないと思います。ただ、「聒聒」は、「騒がしい鳥の鳴き声」ですから、「普段は騒がしい鳥たちの鳴き声も、快く酔った今日は、遠くで微かに鳴いているように聞こえる」という、鳥たちも今日はちょっと遠慮しているという感じでしょうか。
頸聯も分かりやすい句になっていると思います。「榻」が来ましたから「眠」まで一気の流れですね。
2000. 8.22 by junji
作品番号 2000-99
七夕
草露玲瓏灑砌辺 草露玲瓏として 砌辺を灑(あら)ひ
清風松下思迢然 清風 松下 思ひ迢然
今宵織女盈盈涙 今宵 織女 盈盈の涙
河漢方流七月天 河漢方(まさ)に流る 七月の天
<解説>
二十世紀の最後の七夕、と言っても西暦の感覚が漢詩とはそもそも合わない(と私は思いますが)ので、特に今年の七夕がどうのこうのという分けではありません。
読んでいただくと分かりますが、「迢」「盈盈」などの語は、『文選』「古詩十九首」の「迢迢牽牛星」より選びました。二千年というより、もっと遙かな時の流れの中で、変わらぬ伝説の美しさを言葉に繋いでみたかったというのがその意図です。付き過ぎたと言われるかもしれませんが。
[語釈]
「砌辺」:庭の石だたみの辺り
「迢然」:はるか遠く
「盈盈」:(涙が)満ちあふれる状態
「河漢」:天の河
[訳]
草に置いた露は真珠のように
キラキラと庭の石畳の上を濡らしている
松の木陰を抜ける清らかな風を身に受けて
私の心は遥か遠くへと飛んでいく
今夜織女は年に一度の逢瀬だけれど
明日はもう別れ、涙が溢れて止まらないだろう
天の川はいままさに流れだそうとしている
七月の今夜、七夕の夜だよ
作品番号 2000-100
夏天赴長安留学 夏天に長安に赴き留学す
長亭 相把酒 長亭にて相い酒を把る
告別 一蝉鳴 別れを告げれば 一蝉鳴く
作客 郷山碧 客となりて 郷山はみどりにして
乗鴻 積水平 おおとりに乗れば、積水平なり
前途 何処遠 前途 何処にか遠く
後果 此身成 後果 この身に成る
勿問 回来事 問うなかれ 回来の事
洋洋 万里程 洋々たり 万里の程
<解説>
実はこの九月より西安交通大学というところに語学留学することになりまして、この詩はそれに先駆けて日本を離れるに当たっての心境を詠んだものです。
冒頭に「長亭」云々とありますが、実際に「長亭」で別れを告げたわけではありません。この辺はイメージと言うことで……(^^;。
あと、「積水」というのは、王維が阿倍仲麻呂を送るときに詠んだ詩の冒頭「積水不可極」からとっています。まあ、意味的には日中間に横たわる海・空間だと想っていただければ良いと想います。
[訳]
あずまやで、共に酒をとる
別れを告げれば、蝉が一匹鳴きだした。
旅人となった今、故郷の山は美しく
おおとり(飛行機)に乗れば「積水」も穏やかに見える。
わたしの前途はどれくらいの距離があるのだろうか?
いずれにしろ、留学の成果はこの身についていくだろう。
帰ったあとのことを聞かないで欲しい。
わたしの前には洋々たる万里の道があるのだから。
<感想>
もっと早く掲載すべきだったのですが、遅れてすみません。何はともあれ、留学おめでとうございます。
楽しみですね。河村さんはホームページを拝見しても、中国語に堪能なご様子ですし、きっと素晴らしい成果を手に入れられることと思います。
詩も高揚感の溢れる、若々しい内容になっていると思います。
中国に行かれてからも是非、折にふれての留学の感想などを教えて下さい。お身体に気をつけて、頑張って下さい。
河村さんのこの作で、今年の丁度100作目、昨年よりも随分早いペースで投稿を頂いていますが、記念の詩としてふさわしいものをいただきましたね。
2000. 8.25 by junji
作品番号 2000-101
我有佯仙癖 我に仙を佯(いつわ)る癖あり
頻鼓烟霞癖, 頻に鼓す烟霞の癖、
山中追鳥声。 山中に鳥声を追う。
坐愉樹陰酒, 坐(そぞ)ろに愉しむ樹陰の酒、
醉裡遇花精。 醉裡に花の精に遇う。
閑賞光風舞, 閑に賞せば光風の舞、
人間似夕櫻。 人間(じんかん)の夕櫻に似る。
時思夢魂旅, 時に思う夢魂の旅、
天上洗朝酲? 天上に朝酲を洗わんかと。
<解説>
隔句対を用いて五律を試みてみました。
隔句対は、通常の対句が句と句を対にするのに対し、2句を一文として、文と文を対にするものです。律詩の場合、頷聯と頸聯について聯のなかで対にするのではなく、聯と聯とで対にします。
日本ではあまり行われていないが、中国では律詩の対として認められているとのことです。わたしはこれを、平仄討論会にも寄稿のある葛飾吟社の中山先生からうかがいました。
さて、拙作ですが、頷聯と頸聯を対にするのに加え、起聯と頷聯、頸聯と尾聯を対にすることを試みました。つまり、隔句対による全対格。そうすると、律詩全体に前半4句20字と後半4句20字に、対の関係が生まれます。ただし、2・4・6字の平仄については、粘法の対応になりますので、対とはいえないのかもしれませんが。。。
頻鼓烟霞癖,山中聽鳥声。坐愉樹陰酒,醉裡遇花精。
閑賞光風舞,人間似夕櫻。時思夢魂旅,天上洗朝酲?
さて、詩の趣旨ですが、わたしは「仙人」が大好きで、「仙人」になりたがる、あるいは仙人のふりをする癖(佯仙癖)があります。とくに詩を書こうとするとそうで、わたしの詩のなかには、月、酒、花、夕、鳥、風、蝉、孤、仙という言葉がよく出てきます。そして、わたしに顕著な夢想癖。今回の詩は、その辺のことを自戒しながら、それでも仙人になったような気分の快さを表現したいと思いました。
<感想>
隔句対は、古詩で見られる形式だと思いますが、更に全対格を持ってきたのが鮟鱇さんの工夫ですね。
「佯仙癖」は、私にもしばしば出ますので、よくわかります。隠者の閑適と共に、仙郷や仙境というものに、どうにも憧れてしまいます。
「花精」「夕櫻」などの言葉も、鮟鱇さんのこれまでの詩にも出てきたイメージですから、私には懐かしい友人に再会したような安心感がありますが、初めて読んだ方には「人間似夕櫻」がやや難解かもしれませんね。
2000. 8.25 by junji
作品番号 2000-102
盂蘭盆会偶成 仁藤郁夫
牛馬供盆架 牛馬盆架に供え
庭前迎火温 庭前の迎え火温かなり
今宵懐昔日 今宵昔日を懐かしむ
改感翁媼恩 改め感ず翁媼の恩
<解説>
[語釈]
「牛馬」:茄子の牛、胡瓜の馬
「盆架」:盆棚
「昔日」:昔
「翁媼」:翁と媼、祖父母の意
<感想>
この詩は、仁藤さんが送って下さった8月2日付け「長野新報」の文芸欄に掲載されていたものです。仁藤さんの作を始め、「三餘風雅社」の皆さんの漢詩が書き下しと語注も付して載せられていました。
「長野新報」の文芸欄を以前にも見せていただいたのですが、長野での文芸団体の作品や活動の紹介がされていて、中でも短歌・俳句と並んで漢詩が大きく取り上げられていることに感動しました。
茄子の牛や胡瓜の馬、盂蘭盆会に今でもお供えをなさっている家庭も多いのでしょうが、私自身は子供の頃、祖母が飾っていた記憶しかありません。懐かしい気持ちで詩を読ませていただきました。
2000. 8.28 by junji
作品番号 2000-103
賀結婚 結婚を賀す
良縁永契並鴛鴦 良縁永く契る 鴛鴦並び
喜色佳辰溢吉祥 喜色の佳辰 吉祥溢る
敬愛所生真幸福 敬愛所ずる所 真の幸福
此情発現寿無疆 此の情(こころ)発現すれば 寿疆(かぎり)無し
<解説>
ジューンブライドとかいう6月初旬、私の最愛の姪が、めでたく結婚式を挙げました。
急遽この漢詩を作り朗詠し、我が娘同様に心から祝ったのですが、いま振り返るに忸怩たるものがあります。
その一つに漢詩の基本の所に誤りは無かったかということです。例えば起句の「並鴛鴦」です。「並」は目的語を持つのではないか、すると「鴛鴦を並べ」と読む方が正しいのか、また「・・鴛鴦並び」と読むには「鴛鴦並」とするのが正しかったのか。
愚作のご批評かたがたご指導賜りますよう、お願い申し上げます。
<感想>
おめでとうございます。
こうしたおめでたい詩は、いつ読ませていただいても心温まるものですし、贈られた姪御さんもさぞかしうれしかったことと思います。
文法的に正しかったかどうかをご心配のようですが、そうした点は気にする必要はないと思います。確かに文法的に見た場合に、作者の意図した読み下しのように読んでもらうには苦しい点はありますが、それは読み下しを例えば「鴛鴦を並ばせ」とか、「吉祥を溢れさす」と読めば良いことで、それで意味は通じます。大切なのは、読み下しではなく、句の意味だと私は思いますし、「正しい」とか「正しくない」ということではないと思っています。
それよりも、一首を見るならば、
良縁永契並鴛鴦
喜色佳辰溢吉祥
敬愛所生真幸福
此情発現寿無疆
と、祝福の気持ちに満ちた言葉が散りばめられていて、いかにも「賀結婚」という場面にふさわしいと思います。
「批評、指導を」ということですので強いて言うならば、結句の「此情発現」がやや説明的な感じがしますし、転句とも内容が重複していますから、例えば「姪御さんの花嫁姿」とか、「結婚までの道のり」などの具体的な記述が入ると良いかもしれません。でも、この詩は十分立派な詩ですから、改める必要はないと私は思いますよ。
2000. 8.28 by junji
作品番号 2000-104
江上嘆 呂望
朝雲暮莫影 朝雲 暮れには影なく
世事是流流 世事 是れ流流
江上良嘆息 江上 しばし嘆息し
回風弄白頭 回風 白頭を弄ぶ
<解説>
孔子の「江上の嘆」を題材としてみました。
朝の雲は日暮れ頃にはその形を留めず、世間のことは移り変わる、と。江上でしばしため息をついていると、つむじ風で白髪がなぶられたよ、みたいな意味です。
<感想>
孔子が江上で嘆いた話は、『論語』の「子罕」篇、次の章からの言葉です。
子在川上曰、「逝者如斯夫。不舎昼夜」
(子、川上に在りて曰く「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず」と)
有名な章ですからご存知の方も多いと思いますが、訳も掲げますと、
孔子が、ある時、川のほとりに居て、流れてやまない川の水をながめて詠嘆していうには、「過ぎ去って帰らぬものは、すべてこの川の水のようであろうか。昼となく夜となく、一刻も止むことなく、過ぎ去っていく。人間万事、この川の水のように、過ぎ去り、うつろっていくのだのう」
(明治書院「新釈漢文大系」より引用)
さて、呂望さんの作品ですが、この孔子の嘆きがよく表れされた詩になっていると思います。特に結句は、場面をまさに描きあげた感がありますね。
比べると、起句がやや当たり前過ぎる気がします。何か典拠が有れば別ですが、変化の象徴のような雲が、朝と比べて形を変えるのは当然だと思うのですが、どうでしょうか?
2000. 8.28 by junji
作品番号 2000-105
金谷懐古
風住鳥啼東谷春 風住(や)み鳥は啼く 東谷の春
白花孤落不見人 白花孤(ひと)つ落ちて 人を見ず
恰是緑珠堕楼景 恰も是、緑珠樓より堕ちるの景
往時若夢涙沾巾 往時夢の若く 涙巾を沾す
<解説>
この春、椿園を散策していた時、大輪の白椿が眼前でポトリと墜ちるのを見ました。
途端に杜牧の「落花猶似堕樓人」(金谷園)の句が想い浮かび、その着想を借りました。転句は、杜甫の「正是江南好風景」(江南逢李龜年)の句を借りました。
うまく平仄が合わせられず、挟み平ですが、結句の平仄は是でよいのでしょうか?
昨年8月以来半年ぶりに作りました。
<感想>
椿の花が落ちるのを見ての「緑珠堕楼」を連想するには、仰っておられる杜牧の『金谷園』の詩を読まないといけませんね。
金谷園
繁華事散逐香塵 繁華 事散じて香塵を逐ふ
流水無情草自春 流水無情 草自ら春なり
日暮東風怨啼鳥 日暮東風 啼鳥怨み
落花猶似堕楼人 落花 猶 堕楼の人に似たり
(「唐詩三百首」より)
この詩に登場する「堕楼人」が、Y.Tさんのこの詩に登場する「緑珠」です。
西晋の時代の大富豪、石崇の別荘が「金谷園」、石崇の愛姫の名前が「緑珠」、権力者から緑珠を差し出すように言われたけれど拒否をした石崇は、罪を捏造されて捕らえられてしまいます。その直前に緑珠は、自分のせいで石崇が罪せられることを知り、金谷園の高楼から身を投げて死んでしまったそうです。
高い屋根から身を投げる美女の姿を、杜牧は「落花」と重ね、Y.Tさんも「椿」と重ねたのです。確かに、白い椿の墜ちるのは一種愴艶なところがあり、そこに投身自殺の美女を見立てるのは納得できますね。
ただ、椿を暗示する表現が見あたりませんから、この詩だけで読者にイメージを完全に伝えられるかというと、少し不安はあります。
挟み平については、原則としては結句の下三字を孤仄にするわけですが、絶対に、ということではないようです。現に、引用された杜甫の「江南逢李龜年」の詩でも、挟み平に対して結句は特には平仄で対応はしていません。
ただ、平仄法は基本的には「平声」と「仄声」のバランスの取り方ですし、挟み平と孤仄はそうした調整の機能でしょう。挟み平が平起式の七絶にのみ許されると言われるのも、仄声が句の中で多くなりすぎないようにという要素があると思います。そうした点では、Y.Tさんのこの詩は、後半に仄声がやや多いように思います。
「懐古」の言葉が必要性が薄いようですから、もう一息推敲されてはいかがでしょう。
2000. 8.28 by junji