第91作は 河村 豊 さんからの作品です。
 これまで「東坡肉(とんぽうろう)」さんでしたが、
 「このたび、心機一転し、ハンドル名をやめ、本名で統一することにしました」
とのことでしたので、このホームページでもこれからは本名で紹介させていただきます。

作品番号 2000-91

  梅 雨        河村 豊

寂寞梅天雨   寂寞たり 梅天の雨

霏霏野径空   霏霏として 野径空なり

誰知茅屋下   誰か知る 茅屋の下

逐鹿小箱中   鹿を逐う 小箱の中

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 すでに梅雨明け宣言が出ていますが、梅雨の詩です。(^^;。
 結句の「小箱」と言うのは、パソコンのことでして、
その中で「鹿を逐う」と言うのは、『三国志』などのゲームをしている、ということです(^^;。
 あと、起句の「梅天」ですが、これは梅雨空のこと。ただ、本当は「雨冠に母」という字なのですが、ここでは当て字(「梅」)を使っています。(意味は全く同じです)

 [訳]
 梅雨の雨は寂しいものだ。
 しとしとと降り続いて、あぜ道も寂しげだ。
 誰が知ろうか、このぼろ屋の下で、
 箱の中で天下を争っているなどということを。

<感想>

 掲載が遅くなりましたが、7月中旬に頂いた作品です。
 五絶の軽快なフットワークが、河村さんの作品にはいつも感じられ、ほのぼのとした気持ちになりますね。
 今回は、鬱陶しそうな梅雨の景色を起承で語った後、突如、コンピュータゲームに話を持っていってしまう所がびっくりですね。いかにも現代、という感じが漂う展開だと思います。

 難点としては、やはり、「自注」が無いと結句の意味が分からないという所でしょう。
 私の意見としては、結句に『三国志』の中で「梅雨」とか「雨」に関わるような出来事を出して、もう少し起句承句とのつながりを出した方が、全体の構成が理解しやすいと思います。
 「小箱」云々のことは、題に回してしまったらいかがでしょう。

2000. 8. 7                 by junji





















 第92作は 桐山人 、拙作です。
 

作品番号 2000-92

  夏夕遇雨      夏夕雨に遇ふ  

飛光一閃擘炎雲   飛光一閃 炎雲を擘(つんざ)

驟雨沛然天地紛   驟雨沛然として 天地は紛る

小姐莫恟風已至   小姐 恟(おそ)るる莫かれ 風已(すで)に至る

垂枯眉葉復欣欣   垂枯の眉葉 復た欣欣

          (上平声「十二文」の押韻)

<解説>

 [訳]
 焼けるような暑さ、雲を稲光が一瞬切り裂いて
 にわか雨がザザーッと来たら、何処が道やらもう分からない
 お嬢さん、でも恐がることはないんだよ。
      もう風が吹き始めてる。
 枯れかけていた柳の枝も、ほら、また元気そうだろう。

<感想>

 イメージとしては、通勤帰りに駅から出たら丁度雷雨に遭ってしまった夕方。
 隣には可愛いお嬢さんが恐がって立っている。つい、声を掛けてしまいたくなって・・・・

 という内容です。病院の高層の窓から稲妻の光る空を見、地下鉄の駅の辺りを遠く眺めながら作りました。
 ちょっと色っぽさを出したかったので、「小姐」と現代風にしてみました。初めは「小娃」と白居易だったかな?、その辺りを意識したのですが、堅苦しそうでしたので、直しました。
 結句に何を持ってくるかで随分悩んだのですが、「鳥魚草木」だとか、「池辺草木」を初めは入れていたのですが、せっかく「小姐」ですので「柳眉」ならぬ「眉葉」としたのですが、どうでしょうかね。

2000. 8. 7                 by junji



 鮟鱇さんから感想をいただきました。

 鮟鱇です。貴作「夏夕遇雨」を拝読しました。
 率直に言って、いつもの先生とは作風が異なり、少々飛躍があるように感じました。
 起句・承句と「小姐莫恟」の結びつきから、今雨が降り出した感があり、「風已至」が、少々早すぎるように感じます。僭越ですが、わたくし流には「小姐莫恟楊柳舞、垂枯長袖復欣欣」ぐらいの感じにしたいのですが。

 むしろ気になるのは、先生が、ご自分の心境を吐露することに、少々遠慮なさったのではないかということです。「病院の高層の窓から稲妻の光る空を見、地下鉄の駅の辺りを遠く眺めながら作りました。ちょっと色っぽさを出したかったので、『小姐』と現代風にしてみました」と先生は書いていますが、「色っぽさ」を出したいという所に小生は、闘病生活の中での余裕、あるいは生への意志、もう少し複雑なものかもしれませんが、いずれにしろ地下鉄の出口のあたりで立ちすくむ若い女性と、それを見下ろす先生の対比があり、さらにその対比を包み込む天の意志、雨があり、晴れがあるという状況があるわけです。その三者のうち、先生の状況が詠われていないことに、小生、先生の遠慮(あるいは日本的な美意識?)を感じます。
 しかし、その三つを絶句に詠み込むのは、至難のわざ、というより不可能です。

 少々説明的になるのかもしれませんが、承句と転句の間に、雷と対峙する先生の病院生活の状況と、地下鉄の出口の少女を対比し、律詩にするのはいかがかと考えました。そうすれば、「風已至」らなば、「復欣欣」も生きてくるように思いました。

2000. 8. 9               by 鮟鱇




 早速の感想、ありがとうございます。
 ご指摘の点、一つ一つ心に浸みていく気がしました。病室にいても、皆さんとつながっているという思いは、本当にうれしいものです。

 さて、鮟鱇さんがご指摘なさったことは、まさに私が「雨の現場」に居ないことから生まれたことと思います。結論から言えば、私がこの詩で実際に見たものは起句承句に尽きるのであり、後半の「小姐」にしろ、「風已至」「垂枯眉葉」「欣欣」も全て、高層から眺めた点の如き景を拡大再生産したものなわけです。
 勿論、現実体験であろうが、イメージで詩を描こうが、問題はないわけですが、ちょっと色気を出したからいけないのですね。
 当初は、「雷が鳴った。雨がザーと降り出した。でも私は病室だから平気だよ。きれいだなぁなどと風雅に眺めていることよ」てな感じで作ったのですが、起承転結の転に入院以来、毎度毎度「病気」だの「病室」だのを持ってくるものですから(展開しやすいのですね)、少々飽きて来て、変化を意図的に狙ったりしたのがいけなかったのでしょう。
少し言い訳臭くなりました。

 もう一点、絶句ではなく律詩にした方がまとまるかな、とは自分でも途中で思ったのですが、これは気力の問題で、再度トライする気持ちにはまだなっていません。でも、入院中には直しておきたいと思っています。
 ありがとうございました。

2000.8.12               by junji






















 第93作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-93

  雨中游板取村     雨中 板取村に游ぶ   

径傍翠渓煙雨繁   径は翠渓に傍て煙雨繁く

堤楊恍惚杉林昏   堤楊は恍惚として杉林は昏し

一双白鷺棚田佇   一双の白鷺 棚田に佇み

一笠釣翁石磯蹲   一笠の釣翁 石磯に蹲る

急瀬水声周茆舎   急瀬の水声 茆舎を周り

紫陽花影彩牆根   紫陽花影 牆根を彩る

野亭独酌半瓶酒   野亭独酌 半瓶の酒

酔誘雲郷仙閣門   酔は誘う 雲郷仙閣の門へ

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 7月の初め、板取川へ鮎掛け(鮎の友釣り)に出掛けました。
 出掛ける前から雨は降っていましたが、そこはそれ、釣りキチの性、とにかく出掛けてしまう。
 現地の雨はそれ程でもないのですが、川の濁りがきつくて、とても友釣りは不可能。そこで、鮎茶屋で一杯。
 この板取村は紫陽花が有名な所で、雨に濡れた花は一際鮮やかでした。

<感想>

 整った対句が場面を引き立てて、そのまま絵になる趣がありますね。
 頷聯の対はややありきたりの感がありますが、頸聯の「紫陽花影彩牆根」がぐっとひきしめていると思います。
 難を言えば、7句目に使われている「野亭」の語で、作者の視点を示しているわけですが、その前までの句調では「雨の中を歩き回って景を楽しんでいた」という印象でしたので、裏切られた気がします。尾聯だけが独立しているように思いますが、いかがでしょうか。

2000. 8. 7                 by junji



 謝斧さんから感想をいただきました。

 鈴木先生は「尾聯だけが独立しているように思いますが、いかがでしょうか。」という感想ですが、私は少し違った考え方をしています。
 尾聯以前は散策を楽しみ、野亭にゆきついて流憩したとして、鑑賞しました。無理は無いかと思っています。相変わらず対句は、詩情溢れる良い対句だと思います。
 七言律詩は大変難しい詩形で、いろいろな人の作品を見ていますが、格律に外れたり、対句が合掌体になっているものが殆どです。(人のことは言えませんが)先生のどの作品も鑑賞に堪え得る佳い作品だと思っています。

 今回の作品で気になったところは、以下の点ですが、一読者として感想を述べさせていただきます。

  一双白鷺棚田佇
  一笠釣翁石磯蹲
 同字重複はかまわないのですが、「一双」と「一笠」の「一」を同字にした効果は無いと思いますが、敢えて同字重出にしたのは、どういった意図があるのでしょうか。
 また、「笠」と「双」は別の種類の字だと思います。確かに句自体は修飾された関係になっておりますが、「双」は形容詞の数目類で、「笠」は名詞の器物類に属します。
 「一双」と「一笠」は対さないのではないでしょうか。確かに、李白詩に、「雨水夾明鏡/双橋落彩虹」がありますが。
 「石磯蹲」の「蹲」は妥かではないと思います。

 また、
  野亭独酌半瓶酒
  酔誘雲郷仙閣門
については、技巧的過ぎるかもしれませんが、「野亭独酌半瓶酒/酒誘酔郷別乾坤(似桃源)」とするのが、この場合はぴったりだと思います。「雲郷仙閣門」は少しくどいかと思います。

 以上は私の勝手な感想ですが、どんなもんでしょうか。

2000. 8.10              by 謝斧




 私の感想を読んで、真瑞庵さんからもお手紙をいただきました。(謝斧さんのメールとは入れ違いでした)

 鈴木先生、いつもお世話になり有り難う御座います。
 今年は例年になく厳しい暑さが続きますが、お身体如何でしょうか。又、病院でお過ごしのように見受けられますが、十分ご自愛下さい。
 さて、小生の拙詩の尾聯についてですが、小生としては、村内を動き回った後の野亭であり、其処での飲酒、そして心地よい酔いに板取村の閑雅な風景が重なっての「雲郷」「仙閣」への酔夢とのつもりですが・・・・。
 そこで、
  停藜野店酔醇酒
  酔誘雲郷仙閣門
 と、第七句をやや説明的にしましたが、如何でしょうか。

2000. 8.12              by 真瑞庵




 僭越ながら、真瑞庵さんのお返事を聞き、私の感想の補足を。

 真瑞庵さんの今回の『雨中游板取村』は、私はこれまで読ませていただいた詩の中でも、構成の整った、美しい詩だと感じました。
 特に、首聯から始まって、雨の板取村の景色を遠景から中景、近景とそれぞれの聯で順に描いた前半は、まさにNHKの誇るハイビジョン映像のようで、煙雨の中で「早瀬」の水音を聞いたり、「紫陽花」の垣根を眺めたりして歩き回っている作者の姿が目に浮かぶようです。
 だから、私としては、そのまま作者には雨の中に居てほしかったのですね。「野亭」と来た途端に、前半の景が亭の窓越しに見えた景になってしまって(多分それは、その直前の「茆舎」「牆根」の語が「野亭」と付き過ぎるからではないかと思いますが)、「なんだ、雨の中をわざわざ歩いているんじゃないのか」という「裏切られた」感じを受けたのでしょう。時間的な「間」が少しあれば、という気がします。
 しかし、ではだからと言って真瑞庵さんの修正案のような説明的な句が良いのか、と言われるとこれも難しいところですね。既に「野亭独酌半瓶酒」という句が出来上がって、詩の中での存在感を持ち始めていますから、修正案よりは元の方が良いと思いますし、何となく私も、謝斧さんや真瑞庵さんが言われるように「野亭独酌半瓶酒」でしっかり意味はつながるなぁ、とつい感じたりもします。
 もう少し考えてみましょうか。

2000. 8.16              by junji






















 第94作は ニャース さんから、二作目の投稿です。
 

作品番号 2000-94

  寄藤工場長      藤工場長に寄せる  

一月遼東碧海寒   一月遼東 碧海寒し

乗舟割菜尽心酸   舟に乗り菜を割ること 心酸を尽くす

壮年已過人将老   壮年已に過ぎ 人将に老いんとす

喜笑悲愁在馬欄   喜笑悲愁は馬欄に在り

          ( 上平声「十四寒」の押韻 )

<解説>

 大連の取引先である海藻の馬欄河養殖場というところの工場長である藤さんにあてたものです。
 47年間養殖に従事し、業界の尊敬を一身に集めた方です。
 本当にお疲れ様でした。

<感想>

 ニャースさんから2作目を寄せていただきました。
 今回の詩は、ご自身の解説にもあるように、特定の方に贈られた詩のようですね。こうした詩の場合には、当の本人同士ならば分かるけれど他人には分からない事情などをどこまで詩に入れるかが難しいと思います。
 例えば、この詩で言えば、承句の「乗舟割菜尽心酸」は、詩だけを読んでも意味が分かりにくいですね。解説を読んで、私は「ああ、養殖業をしていたことだろうね」と解釈しましたが。
 同じく、結句の「喜笑悲愁在馬欄」も、気の利いた表現だとは思いますが、では、何を言っているのかを詩から判断せよと言われると困ります。やはり、解説を読んで初めて理解できる句ですね。
 こうした贈答も含めて、特殊な状況を表す詩ですので、解説に書かれたような内容(藤工場長が馬欄河養殖場に居られたこととか、退職なさることとか)を「題」に補足されると良いと思います。
 転句についてですが、こうした言い方を自分に対して使うのは分かるのですが、相手に対して使うのはどうなのでしょう。他の方のご意見もうかがいたいところですね。

2000. 8.12                 by junji





















 第95作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-95

  老炎天      炎天に老ゆ    鮟鱇

蝉吟樹頂争声量   蝉吟 樹頂に声量を争ひ

炎熱陽台碍夕涼   炎熱 陽台に夕涼を碍(さまた)

游目暮山収白日   游目すれば 暮山 白日を収め

焼雲酔境似紅裳   雲を焼いて 酔境に紅裳に似る

少年数樂在閨裏   少年数(しばしば)閨裏に楽しみ

老骨應知近墓傍   老骨 応に墓の傍に近きを知る

流汗胯間淫志涸   胯間に汗を流して 淫志涸れ

垂涎雪面戀情狂   雪面に涎を垂して 恋情狂す

          ( 下平声「七陽」の押韻 )

<解説>

 [語釈]
 「陽台」:ベランダ
 「雪面」:雪のように白い顔、美人

 老いらくの恋とでもいうのでしょうか、具体的な相手は居ないのに何か失恋をしたような、五十代の体力の衰えにはそういう悲しみがあります。あるいは、男性としての機能がいよいよ最後の時を迎える、そういうことであるのかもしれません。
 この詩は、その状況を炎天の下でイメージした詩です。
 このような生臭いテーマは、あるいは唐詩にはふさわしくないのかもしれませんが、律詩の持つ厳格な規律が、言葉に悲愴な効果を添えてくれるのではないかと思い、全対格を試みました。

<感想>

 確かに、これまでの漢詩ではあまり扱われていないテーマですね。
 人が老いることを詠った詩はいくつもありますが、その老いを何によって表すか、姿形や髪の色、あるいは病気、このあたりが一般的でしょうが、肉体的な(特に性的な)衰えを詠むことはないですね。
 というよりも、そもそも男女の恋愛感情を詠った詩そのものも少ないのが漢詩の特徴ですから、当然かもしれません。
 「律詩の持つ厳格な規律が、言葉に悲愴な効果を添えてくれるのではないかと思」われたそうですが、私はそんなに「悲愴」な感じはしませんでした。どちらかと言えば諧謔な印象が残りましたが、それは詩の表現の問題ではなく、やはりテーマの問題だと思います。
 生臭いものはやはり生臭いのであり、そのまま素直に味わうべきだと思います。悲愴を狙うのが逆効果になる場合も多いですし、形式で追うならば、古詩の形でおっとりと表現した方が、逆に切迫感があるように感じるのではないか、と私には思えます。

2000. 8.15                 by junji





















 第96作は静岡県の 種子島 さん、50代の男性の方からの初めての投稿作品です。
いただいたメールには、

 漢詩に興味のある人が勉強できて、かつその自作作品を自由に、即発表できる事に驚きました。今後、このページの盛況を祈念します。
 小生、作詩に熱中したり休んだり、一定した努力をしておりませんでしたが、このページを見て改めて刺激を受けました。漢詩の勉強、作詩をまた始めたいと思います。


 と、ありました。がんばりましょう。

作品番号 2000-96

  夏日釣魚遊        

残炎未散水中央   残炎 未だ散ぜず 水の中央

尽釣斜陽入晩涼   釣を尽くせば 斜陽 晩涼に入る

漁果相多争覇宴   漁果 相多く 覇を争ふの宴

酣歌酔飽払蚊荘   酣歌 酔飽 蚊を払ふ荘

          ( 下平声「七陽」の押韻 )

<解説>

 友人たちと一泊で川さかなを釣りに行った時のことを漢詩にしました。

<感想>

 静岡種子島さんという、雅号がとても面白く感じました。

 結句の「酔飽」という言葉は、私の好きな言葉ですが、ベロベロに酔っぱらい、たらふく食ったことを言いますね。よほど大漁だったようで、ウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ・!
 使われている言葉も躍動感があり、楽しい釣行だったことがよく窺われる詩だと思います。
 形式の面で言いますと、承句の「陽」、転句の「相」が、押韻の「下平声七陽」に属する字です。(「相」は「あい・互いに」の意味の時は平声、「大臣・易を見る」の時は仄声です)
 冒韻(韻字を押韻以外の所で使うこと)については、厳禁と言われる場合もあれば、フリーパスの場合もあり、主宰の考え方に依るところが大きいようですので、このホームページでも許容範囲は大きくしています。詳しくは、99年の投稿詩の21作目、鮟鱇さんの 『春夜感傷』 の所を参照して下さい。
 で、この詩ですが、私の意見としては、「斜陽」は無理に「陽」にこだわる必要は無いように思いますので、よく似た言葉で「斜暉」などを用いてはいかがでしょうか。
 また、転句についても、「相多」という表現自体が実は気になります。「相」の字の後ろに形容詞が来ていて違和感があります。「同じく」「共に」「等しく」など、同じ趣旨の言葉は沢山あることですから、敢えて冒韻で通すのではなく、ここは別の表現を考えてみたらどうでしょう。

 こうした、何かの折に作った詩というのは現実感があり、生き生きとした表現がとても心に残ります。次作も楽しみにしています。

2000. 8.17                 by junji





















 第97作は三重県松阪市の 隆葦 さん、30代の男性からの作品です。
 

作品番号 2000-97

  夜 蝉        

杯中浮氷響   杯中 浮氷響き

触唇琥珀光   唇に触る 琥珀光

蝉声繊麗聞   蝉声 繊麗として聞こえ

緑闇伴歌香   緑闇 歌を伴ひて香はし

          ( 下平声「七陽」の押韻 )

<解説>

 ウイスキーの水割りを傾けている時に、夜になくヒグラシの声を聞いた時の情景です。
 初めて漢詩というものを作ってみました。なかなか楽しかったです。一応、平仄は合わせたのですが、どういうものでしょうか?
 良いのか悪いのか、さっぱり分かりませんので、ご助言たまわりたいと思います。

<感想>

 隆葦さんは、私と同じく高校の国語の教員ということですので、興味を持っていただけたことをとても嬉しく思います。
 漢詩に限らず、短歌や俳句も含めて創造するという行為を数多く体験することは、是非とも若いときにしてほしいことです。感性が研ぎ澄まされていて、詩として詠いたいことが沢山ある時期にそれを言葉で定着させる、それが芸術の何よりの基本です。
 感動もないのに詩は作れません。しかし、感動だけで詩が作れるわけではありません。大切なのはいかに感動を言葉で表現するか、そのための様々な体験や訓練は、国語の教員として必修のものだと思います。
 漢詩を自分で作ることが授業に役立つかどうかは、それは授業への取り組み次第ですし、生徒の関心や興味の在り様にもよります。ただ間違いないことは、創作の試みは、教員として、人として、自己を見つめ、自己を育てることにつながることです。
 是非、これからも頑張って下さい。

 さて、初めての漢詩についてですが、起承転までは流れは分かるのですが、結句の「香」が突然の登場で、何が何故香るのか、とまどいました。
 結句だけでみれば、「緑闇」が香ったのかなとも思いますが、となると、作者は庭に出たのでしょうか(ウイスキーを持ったまま?)、或いは窓から香りが流れ込んできたのだとすると、そんな強い香りは「緑闇」の中の何なのでしょうか。
 夜の庭の景としてはあまり熟した言葉ではないと思いますが、でも、「緑闇」はイメージとしては分かる言葉です。そこに組み合わせるのに、「伴歌」(これも蝉の声であるならば、転句の繰り返しになりますから不要です)や「香」が合わないのだと思います。
 夏の夜庭を描くのに適する素材を洗い直してみると、「緑闇」に合うものが見つかるかもしれません。
 漢詩でもやはり、素材の精選が第一ですので、どんなことを詩の中に詠み込むか、どんな景を詠うか、を選択することが大切です。「五言絶句は俳句のように作る」と、やや乱暴な言い方をした人が居ましたが、わずか二十字の中に置くことのできる素材は限られます。(俳句の十七字に比べれば、表意文字二十字は圧倒的に情報量は多いと思いますけれども)
 場面や展開が分かるためには出来るだけ多くのことを入れなくてはいけませんし、バラバラと物事を入れ過ぎても混乱をします。そういう点では他の韻文作品と変わりはありませんね。漢詩の場合は、そこに「起承転結」とか、「対句」とかが関わってきて素材の選択時の要素になります。

 以下は平仄についてのことですので、あまり神経質にならず、こんなこともあるのか、くらいの気持ちで読んでみて下さい。
 まず、起句ですが、平仄の点では「二四不同」を破っています(「中」も「氷」も平声)。「杯中」に替わる言葉が今思いつきませんが、二字目が仄声になるような語句を検討してみて下さい。
 承句は、平仄の点では、二字目の「唇」が仄声に前後を挟まれた「孤平」になっています。これは一字目の「触」を「銜」(ふくむ)などの平字に直せば解消します。
 転句は、ホームページの韻目検索の問題ですね。「聞」の字は平仄両用なのですが、ホームページで調べると、「聞く」は「平」:「聞こえる」は「仄」という表記になっていますが、耳で直接聞く場合には「平声」、噂として聞こえる時に「仄声」ですので、私の説明不足、不注意でした。ごめんなさい。この詩の場合は「耳に聞こえた」ということですから「平声」となります。
 ということで、ここは私の責任ですので提案として、ここは仄声でないといけませんので、「韻」の字を用いてはどうでしょう。

 以上ですので、形式や平仄もこの際、きちんとしたいということでしたら、後半書きましたことを参考にして推敲して下さい。


2000. 8.16                 by junji





















 第98作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-98

  夏日山行        

客子山行攜一瓢   客子山行 一瓢を携え

炎蒸夏日有誰招   炎蒸夏日 誰か有りて招かん

梢梢自向静中聽   梢梢たるは自づから 静中に向かって聴き

聒聒祇于醉裏消   聒聒たるは祇だ 酔裏に消ゆ

借榻老僧眠野寺   榻を老僧に借っては野寺に眠り

訊途樵父渡溪橋   途を樵父に訊ねては 渓橋を渡る

路傍唯見茉莉白   路傍唯だ見る 茉莉白く

頻帯午風花影揺   頻りに午風を帯びては 花影揺らぐ

          (下平声「二蕭」の押韻)

<解説>

  梢梢自向静中聽
  聒聒祇于醉裏消

 は、少し工夫をしたところです。
 意味は、
「涼風が木の葉にあたる音を、静かな山中に聞き、
鳥等の鳴き声は少し酔っているせいか、遠くで微かに鳴いているように聞こえる」

 です。
 「梢梢」「聒聒」が、それを生じさせている存在(木とか鳥)の叙述がないため、この句に関しては、何か奇異に受けとめられるかと存じますが、意味は分かりにくいことはないと思いますので、この対句に関しては自分では無理はないかと思っています。諸兄の御批正を賜りますよう、お待ちしております。
 詩の内容は、陳套の誹りは免れないと思っていますが、これ以上推敲を重ねるのが嫌になりました。

<感想>

 こうした山中の詩の世界は私の大好きな所、繰り返し読んで、病室から一気に夏の深山の中に入り込んで行きました。
 頷聯の対句は無理はないと思います。ただ、「聒聒」は、「騒がしい鳥の鳴き声」ですから、「普段は騒がしい鳥たちの鳴き声も、快く酔った今日は、遠くで微かに鳴いているように聞こえる」という、鳥たちも今日はちょっと遠慮しているという感じでしょうか。
 頸聯も分かりやすい句になっていると思います。「榻」が来ましたから「眠」まで一気の流れですね。


2000. 8.22                 by junji





















 第99作は 桐山人 、拙作です。
 七夕の8月6日に作りました。

作品番号 2000-99

  七夕        

草露玲瓏灑砌辺   草露玲瓏として 砌辺を灑(あら)

清風松下思迢然   清風 松下 思ひ迢然

今宵織女盈盈涙   今宵 織女 盈盈の涙

河漢方流七月天   河漢方(まさ)に流る 七月の天

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 二十世紀の最後の七夕、と言っても西暦の感覚が漢詩とはそもそも合わない(と私は思いますが)ので、特に今年の七夕がどうのこうのという分けではありません。
 読んでいただくと分かりますが、「迢」「盈盈」などの語は、『文選』「古詩十九首」の「迢迢牽牛星」より選びました。二千年というより、もっと遙かな時の流れの中で、変わらぬ伝説の美しさを言葉に繋いでみたかったというのがその意図です。付き過ぎたと言われるかもしれませんが。

 [語釈]

 「砌辺」:庭の石だたみの辺り
 「迢然」:はるか遠く
 「盈盈」:(涙が)満ちあふれる状態
 「河漢」:天の河

 [訳]

 草に置いた露は真珠のように
          キラキラと庭の石畳の上を濡らしている
 松の木陰を抜ける清らかな風を身に受けて
          私の心は遥か遠くへと飛んでいく
 今夜織女は年に一度の逢瀬だけれど
          明日はもう別れ、涙が溢れて止まらないだろう
 天の川はいままさに流れだそうとしている
          七月の今夜、七夕の夜だよ























 第100作は 河村 豊 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-100

  夏天赴長安留学      夏天に長安に赴き留学す  

長亭 相把酒   長亭にて相い酒を把る

告別 一蝉鳴   別れを告げれば 一蝉鳴く

作客 郷山碧   客となりて 郷山はみどりにして

乗鴻 積水平   おおとりに乗れば、積水平なり

前途 何処遠   前途 何処にか遠く

後果 此身成   後果 この身に成る

勿問 回来事   問うなかれ 回来の事

洋洋 万里程   洋々たり 万里の程

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 実はこの九月より西安交通大学というところに語学留学することになりまして、この詩はそれに先駆けて日本を離れるに当たっての心境を詠んだものです。

 冒頭に「長亭」云々とありますが、実際に「長亭」で別れを告げたわけではありません。この辺はイメージと言うことで……(^^;。

 あと、「積水」というのは、王維が阿倍仲麻呂を送るときに詠んだ詩の冒頭「積水不可極」からとっています。まあ、意味的には日中間に横たわる海・空間だと想っていただければ良いと想います。

 [訳]
 あずまやで、共に酒をとる
 別れを告げれば、蝉が一匹鳴きだした。
 旅人となった今、故郷の山は美しく
 おおとり(飛行機)に乗れば「積水」も穏やかに見える。
 わたしの前途はどれくらいの距離があるのだろうか?
 いずれにしろ、留学の成果はこの身についていくだろう。
 帰ったあとのことを聞かないで欲しい。
 わたしの前には洋々たる万里の道があるのだから。

<感想>

 もっと早く掲載すべきだったのですが、遅れてすみません。何はともあれ、留学おめでとうございます。
 楽しみですね。河村さんはホームページを拝見しても、中国語に堪能なご様子ですし、きっと素晴らしい成果を手に入れられることと思います。
 詩も高揚感の溢れる、若々しい内容になっていると思います。
 中国に行かれてからも是非、折にふれての留学の感想などを教えて下さい。お身体に気をつけて、頑張って下さい。

 河村さんのこの作で、今年の丁度100作目、昨年よりも随分早いペースで投稿を頂いていますが、記念の詩としてふさわしいものをいただきましたね。


2000. 8.25                 by junji





















 第101作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-101

  我有佯仙癖      我に仙を佯(いつわ)る癖あり  

頻鼓烟霞癖,   頻に鼓す烟霞の癖、

山中追鳥声。   山中に鳥声を追う。

坐愉樹陰酒,   坐(そぞ)ろに愉しむ樹陰の酒、

醉裡遇花精。   醉裡に花の精に遇う。

閑賞光風舞,   閑に賞せば光風の舞、

人間似夕櫻。   人間(じんかん)の夕櫻に似る。

時思夢魂旅,   時に思う夢魂の旅、

天上洗朝酲?   天上に朝酲を洗わんかと。

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 隔句対を用いて五律を試みてみました。
 隔句対は、通常の対句が句と句を対にするのに対し、2句を一文として、文と文を対にするものです。律詩の場合、頷聯と頸聯について聯のなかで対にするのではなく、聯と聯とで対にします。
 日本ではあまり行われていないが、中国では律詩の対として認められているとのことです。わたしはこれを、平仄討論会にも寄稿のある葛飾吟社の中山先生からうかがいました。
 さて、拙作ですが、頷聯と頸聯を対にするのに加え、起聯と頷聯、頸聯と尾聯を対にすることを試みました。つまり、隔句対による全対格。そうすると、律詩全体に前半4句20字と後半4句20字に、対の関係が生まれます。ただし、2・4・6字の平仄については、粘法の対応になりますので、対とはいえないのかもしれませんが。。。

  頻鼓烟霞癖,山中聽鳥声。坐愉樹陰酒,醉裡遇花精。
  閑賞光風舞,人間似夕櫻。時思夢魂旅,天上洗朝酲?

 さて、詩の趣旨ですが、わたしは「仙人」が大好きで、「仙人」になりたがる、あるいは仙人のふりをする癖(佯仙癖)があります。とくに詩を書こうとするとそうで、わたしの詩のなかには、月、酒、花、夕、鳥、風、蝉、孤、仙という言葉がよく出てきます。そして、わたしに顕著な夢想癖。今回の詩は、その辺のことを自戒しながら、それでも仙人になったような気分の快さを表現したいと思いました。

<感想>

 隔句対は、古詩で見られる形式だと思いますが、更に全対格を持ってきたのが鮟鱇さんの工夫ですね。
「佯仙癖」は、私にもしばしば出ますので、よくわかります。隠者の閑適と共に、仙郷や仙境というものに、どうにも憧れてしまいます。
 「花精」「夕櫻」などの言葉も、鮟鱇さんのこれまでの詩にも出てきたイメージですから、私には懐かしい友人に再会したような安心感がありますが、初めて読んだ方には「人間似夕櫻」がやや難解かもしれませんね。

2000. 8.25                 by junji





















 第102作は岡谷市の 仁藤 郁夫さんからの作品です。
 仁藤さんは投稿いただいたのは初めてですが、これまでにも励ましのお手紙などを何度もくださってました。岡谷市での「三餘風雅社」(主宰:小松智山氏)で漢詩を楽しんでいらっしゃるそうです。

作品番号 2000-102

  盂蘭盆会偶成        仁藤郁夫

牛馬供盆架   牛馬盆架に供え

庭前迎火温   庭前の迎え火温かなり

今宵懐昔日   今宵昔日を懐かしむ

改感翁媼恩   改め感ず翁媼の恩

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

[語釈]
 「牛馬」:茄子の牛、胡瓜の馬
 「盆架」:盆棚
 「昔日」:昔
 「翁媼」:翁と媼、祖父母の意

<感想>

 この詩は、仁藤さんが送って下さった8月2日付け「長野新報」の文芸欄に掲載されていたものです。仁藤さんの作を始め、「三餘風雅社」の皆さんの漢詩が書き下しと語注も付して載せられていました。
 「長野新報」の文芸欄を以前にも見せていただいたのですが、長野での文芸団体の作品や活動の紹介がされていて、中でも短歌・俳句と並んで漢詩が大きく取り上げられていることに感動しました。

 茄子の牛や胡瓜の馬、盂蘭盆会に今でもお供えをなさっている家庭も多いのでしょうが、私自身は子供の頃、祖母が飾っていた記憶しかありません。懐かしい気持ちで詩を読ませていただきました。

2000. 8.28                 by junji





















 第103作は千葉県市川市の 気力青年 さんからの作品です。

作品番号 2000-103

  賀結婚      結婚を賀す  

良縁永契並鴛鴦   良縁永く契る 鴛鴦並び

喜色佳辰溢吉祥   喜色の佳辰 吉祥溢る

敬愛所生真幸福   敬愛所ずる所 真の幸福

此情発現寿無疆   此の情(こころ)発現すれば 寿疆(かぎり)無し

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 ジューンブライドとかいう6月初旬、私の最愛の姪が、めでたく結婚式を挙げました。
 急遽この漢詩を作り朗詠し、我が娘同様に心から祝ったのですが、いま振り返るに忸怩たるものがあります。
 その一つに漢詩の基本の所に誤りは無かったかということです。例えば起句の「並鴛鴦」です。「並」は目的語を持つのではないか、すると「鴛鴦を並べ」と読む方が正しいのか、また「・・鴛鴦並び」と読むには「鴛鴦並」とするのが正しかったのか。
 愚作のご批評かたがたご指導賜りますよう、お願い申し上げます。

<感想>

 おめでとうございます。
 こうしたおめでたい詩は、いつ読ませていただいても心温まるものですし、贈られた姪御さんもさぞかしうれしかったことと思います。
 文法的に正しかったかどうかをご心配のようですが、そうした点は気にする必要はないと思います。確かに文法的に見た場合に、作者の意図した読み下しのように読んでもらうには苦しい点はありますが、それは読み下しを例えば「鴛鴦を並ばせ」とか、「吉祥を溢れさす」と読めば良いことで、それで意味は通じます。大切なのは、読み下しではなく、句の意味だと私は思いますし、「正しい」とか「正しくない」ということではないと思っています。

 それよりも、一首を見るならば、

 良縁永契並鴛鴦
 辰溢吉祥
 敬愛所生真幸福
 此情発現寿無疆

と、祝福の気持ちに満ちた言葉が散りばめられていて、いかにも「賀結婚」という場面にふさわしいと思います。

 「批評、指導を」ということですので強いて言うならば、結句の「此情発現」がやや説明的な感じがしますし、転句とも内容が重複していますから、例えば「姪御さんの花嫁姿」とか、「結婚までの道のり」などの具体的な記述が入ると良いかもしれません。でも、この詩は十分立派な詩ですから、改める必要はないと私は思いますよ。

2000. 8.28                 by junji





















 第104作は岐阜市の 呂望 さんからの初めての投稿作です。
 いただいたメールには、ホームページの感想として、
  「漢詩の具体的な作り方や平仄・韻検索など、親切極まりないページだと思いました」
と書いていただきました。
 ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

作品番号 2000-104

  江上嘆        呂望

朝雲暮莫影   朝雲 暮れには影なく

世事是流流   世事 是れ流流

江上良嘆息   江上 しばし嘆息し

回風弄白頭   回風 白頭を弄ぶ

          (下平声十「一尤」の押韻)

<解説>

 孔子の「江上の嘆」を題材としてみました。
 朝の雲は日暮れ頃にはその形を留めず、世間のことは移り変わる、と。江上でしばしため息をついていると、つむじ風で白髪がなぶられたよ、みたいな意味です。

<感想>

 孔子が江上で嘆いた話は、『論語』の「子罕」篇、次の章からの言葉です。

  子在川上曰、「逝者如斯夫。不舎昼夜」
   (子、川上に在りて曰く「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず」と)

 有名な章ですからご存知の方も多いと思いますが、訳も掲げますと、

 孔子が、ある時、川のほとりに居て、流れてやまない川の水をながめて詠嘆していうには、「過ぎ去って帰らぬものは、すべてこの川の水のようであろうか。昼となく夜となく、一刻も止むことなく、過ぎ去っていく。人間万事、この川の水のように、過ぎ去り、うつろっていくのだのう」
              (明治書院「新釈漢文大系」より引用)

 さて、呂望さんの作品ですが、この孔子の嘆きがよく表れされた詩になっていると思います。特に結句は、場面をまさに描きあげた感がありますね。
 比べると、起句がやや当たり前過ぎる気がします。何か典拠が有れば別ですが、変化の象徴のような雲が、朝と比べて形を変えるのは当然だと思うのですが、どうでしょうか?

2000. 8.28                 by junji





















 第105作は名古屋市の Y.T さんからの作品です。

 平仄討論会ではおなじみのY.Tさん、今回は次のようなお手紙もいただきました。

 時々、諸先生の投稿詩を読ませて貰っており、親切な解説と暖かいアドバイスにいつも心打たれております。
 初心者の私はどうしても、借句が多く恥ずかしいのですが、先日岩波、中国詩人選集の宋詩概説を読んでいましたら「宋代には他人の句を集めて詩を作る事が多かった」と有りました。詞には頻繁ですが、詩でも流行したとの事で少し気が楽になり、投稿します。


作品番号 2000-105

  金谷懐古        

風住鳥啼東谷春   風住(や)み鳥は啼く 東谷の春

白花孤落不見人   白花孤(ひと)つ落ちて 人を見ず

恰是緑珠堕楼景   恰も是、緑珠樓より堕ちるの景

往時若夢涙沾巾   往時夢の若く 涙巾を沾す

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 この春、椿園を散策していた時、大輪の白椿が眼前でポトリと墜ちるのを見ました。
 途端に杜牧の「落花猶似堕樓人」(金谷園)の句が想い浮かび、その着想を借りました。転句は、杜甫の「正是江南好風景」(江南逢李龜年)の句を借りました。
 うまく平仄が合わせられず、挟み平ですが、結句の平仄は是でよいのでしょうか?
 昨年8月以来半年ぶりに作りました。

<感想>

 椿の花が落ちるのを見ての「緑珠堕楼」を連想するには、仰っておられる杜牧の『金谷園』の詩を読まないといけませんね。

    金谷園
 繁華事散逐香塵    繁華 事散じて香塵を逐ふ
 流水無情草自春    流水無情 草自ら春なり
 日暮東風怨啼鳥    日暮東風 啼鳥怨み
 落花猶似堕楼人    落花 猶 堕楼の人に似たり
              (「唐詩三百首」より)

 この詩に登場する「堕楼人」が、Y.Tさんのこの詩に登場する「緑珠」です。
 西晋の時代の大富豪、石崇の別荘が「金谷園」、石崇の愛姫の名前が「緑珠」、権力者から緑珠を差し出すように言われたけれど拒否をした石崇は、罪を捏造されて捕らえられてしまいます。その直前に緑珠は、自分のせいで石崇が罪せられることを知り、金谷園の高楼から身を投げて死んでしまったそうです。
 高い屋根から身を投げる美女の姿を、杜牧は「落花」と重ね、Y.Tさんも「椿」と重ねたのです。確かに、白い椿の墜ちるのは一種愴艶なところがあり、そこに投身自殺の美女を見立てるのは納得できますね。
 ただ、椿を暗示する表現が見あたりませんから、この詩だけで読者にイメージを完全に伝えられるかというと、少し不安はあります。

 挟み平については、原則としては結句の下三字を孤仄にするわけですが、絶対に、ということではないようです。現に、引用された杜甫の「江南逢李龜年」の詩でも、挟み平に対して結句は特には平仄で対応はしていません。
 ただ、平仄法は基本的には「平声」と「仄声」のバランスの取り方ですし、挟み平と孤仄はそうした調整の機能でしょう。挟み平が平起式の七絶にのみ許されると言われるのも、仄声が句の中で多くなりすぎないようにという要素があると思います。そうした点では、Y.Tさんのこの詩は、後半に仄声がやや多いように思います。

 「懐古」の言葉が必要性が薄いようですから、もう一息推敲されてはいかがでしょう。

2000. 8.28                 by junji


 謝斧さんから感想をいただきました。

 この詩を読んで先ず感じたことは、措辞に普通あまりみられない、それでいて生硬さを感じない、「風住」・「孤落」という詩句が使われていることです。私の勉強不足かもしれませんが、用例があれば教えて下さい。
 杜牧の詩が背景にあるせいか、なにかしら、深い蘊藉があるようにもかんじられます。
 素直に「だれにも知られずに、白い花が一片おちました。私も杜牧のように、緑珠が楼より堕ちて、自ら命を絶ったことを思い出されて、何とは無しに物悲しくかんじられます」とよみましたが、これでよいのでしょうか。作詩意図は白花と緑珠をかぶらせよということなのでしょう、そうすれば、「恰是」ときめつける必要はないとおもいますが、なにも説明せずにそれでいて、読者に分かるような工夫をするべきだとおもいます。
 内容は杜牧の詩をうまく利用して、佳作だとおもいます。読んで調子のよい作品ですね。
 結句の「若夢」は、普通は、自分の過去の事に関して夢の若くというのではないかと理解していましたが、どうなのでしょうか。

 平仄は転句が完全に失声しています。
 確かに6字目の挟み平(孤平)は、次の句(結句)の孤仄でたすけることができます。
   ○○●●●○●(孤平)
   ●●○○○●○(孤仄でたすける)
 あるいは同一句で助ける場合は、
   ●●○○●○●(3・4字目を平にすることで助ける)
 この場合は3・4字目を平にします。音調的には●●○○○●●に匹敵します。当然二・六対は破られますが、許されます。
 Y.Tさんの詩の場合は、転句が、最も許されないとされている、4字目の孤平になっています。
   ●●●○●○●  となっています。
 もし挟み平にこだわるならば、この場合の助け方は、二・六対もやぶられていますので、次の句(結句)の孤仄でたすけることができません。
 こうした場合は同一句で助けます。この場合は3・4字目を平にすることによって助けることができます。

2000. 9. 5                  by 謝斧