作品番号 1999-15
菜花満野一川奔 菜花は野に満ち一川奔(はし)る
金色報春茅舎軒 金色春を報ず茅舎の軒
童子午眠牛歩背 童子午眠す牛歩の背
光陰難進貴陽村 光陰進み難し貴陽の村
<解説>
中国は貴州省の省都貴陽から南へ車で二時間程、長順縣に向かう途中の恵水というあたりに少数民族である苗族の多くが暮らす村がある。
桂林を思わすような奇岩の山が連なり、山間には川を挟んで畑地がひろがり一種独特の風景をつくり出している。
訪問したのは去年の二月、旧正月である春節も終わり、南に位置する貴州は暦通り春、村は菜の花が満開で一面黄金の海といった風情。
青く澄み切った清流がその中を流れている。
家々はいかにも貧しそうで粗末ではあるが、春の輝くひかりの中で、ここだけが将に桃源郷の趣を見せていた。
水牛が一頭ゆっくりと動いており、よく見るとその背中には小さな子供が昼寝をしているではないか。ゆらり揺られて本当に気持ちよさそうに眠っている。
私を乗せた車はそんな風景の中を走って行くのだが、一瞬時間が止まってしまったような錯覚をおぼえた。夢のような、夢でない不思議な風景と気分。
1999. 3. 1
作品番号 1999-16
取数人多超六千 取数(アクセス)する人多くして六千を超え
平成詩客尚連綿 平成の(時代に)詩客なお連綿たり
維庵電網収清韻 庵を維(むす)ぶインターネット、清韻を収め
鈴木先生愉管弦 鈴木先生、管弦を愉しむ
<解説>
「鮟鱇30韻」の中でもこのホームページについては詩にさせていただきましたが、改めて作りました。
<感想>
ありがとうございます。作者からの挨拶(3月13日付)にも書きましたが、実はこの10日程、病院暮らしをしています。昨年の秋以来、どうも体調がすぐれず、検査をしてもらっています。
先日、鮟鱇さんに入院のことを連絡しましたら、早速に詩を送ってくださいました。何よりの励まし、ベッドで思わず涙ぐみました。本当は3月3日には、「曲水の宴」ばりに七言句のやりとりでもしようか、という構想もあったのですが、残念ながら来年に回します。
1999. 3.13
作品番号 1999-17
百花紅紫競鮮妍 百花の紅紫 鮮妍を競ひ
囀鳥嚶鶯万朶辺 囀鳥嚶鶯 万朶の辺
乞仮始知春好景 仮を乞ひて始めて知る 春の好景
任他小病自相憐 任他(さもあらばあれ) 小病自ら相憐れむを
<解説>
万朶:枝いっぱいの花
乞仮:休暇を取ること。仮は暇と同じ
任他:「さもあらばあれ」と読み、後の語句を受けて、
「それはどうでもいいことだ」と軽く否定する意味。
入院が決まったその日、病院の前の公園を少し歩きました。名古屋では名高いその公園では、梅や桃の花が艶やかな色を誇り合い、噴水のほとりでたたずむと、鶯の枝を渡る声が聞こえて来ました。そして、ひよ鳥や他の小鳥達も楽しげに囀り、歩いていく人も含めて全てのものが、春の穏やかな午後を楽しんでいました。
病気でくよくよしていた私ですが、その韶光を浴びながら、こんなにゆったりと春の時間を味わうのは初めてだなぁ、とふと気づきました。
考えようによれば、それは病気のおかげ。自分で自分をいたわるようなことは止めて、つらい中にも良いことはある、と考えるようにしよう。そんな気持ちを詩にしました。
詩を送って下さった鮟鱇さん、「人生、つまずいたり、転んだりすることも必要なのかもしれません。シャルウィ・ダンス?ではありませんが、一気に走ると中年で息切れしますね。幅を持つ意味では、転ぶことも一興かと思えてきました」と励ましのメールを下さった落塵さん、みなさん、ありがとうございました。
作品番号 1999-18
春来花笑是天工 春来たりて花笑ふは、是れ天の工
人酔詩成又酒功 人酔ひて詩成るは、又酒の功
声気相投賞桜宴 声気相い投ず、桜を賞(め)づるの宴
一樽忽尽月明中 一樽忽ちに尽く 月明の中
<解説>
私は漢詩を作り始めてまもなく2年になります。最初に作ったのが、次の雨の中での花見の詩。
桜花盛開雨濛濛、孤鳥哀鳴無人声、
東京郊外賞花宴、独飲悶酒心益冷
韻も平仄も調ってはいませんが、景情は今も気に入っています。
私は努力だけは人に負けるものではなく、作った絶句もまもなく500首、技術的には何とか一定のレベルに達したかと思っております。ただ、景情の方はいかがなものか。
今回の詩の第三句の「声気相投」は漢和辞典で見つけた成句で、「意気投合」とほぼ同じ意味です。
<感想>
手慣れた鮟鱇さんの作品ですね。同じ題材の二年前の作と並べてみますと、はるかに作者の内面の拡がりを感じさせてくれます。
私は詩を作るのが遅く、鮟鱇さんの500首(これには宋詞は入っていませんね)にはとても及びもつかず、でも500も作るとこんなに味のある作品が作れるようになるのだろう、と刺激を受けました。
ということですが、私の感想を一つ。
これはきっと好みの問題かもしれないのですが、結句の「月明中」が私には余分な気がします。題名も「夜宴」ですし、これはきっと実景だろうとは思うのですが、いっそのこと日中の桜見物に場面を換えたらどうでしょうか。
転句までの表現で、私はこれは昼間の情景だと思ったのです。特に、起句の「天工」という拡がりのある言葉は、単に桜の花だけではなく、桜を中心にしながら辺り一帯、もっと言えばこの春の世の中全体を視野に入れての「天」である、そう感じました。
月の光に照らされた桜、というと、どうしても視野が狭く感じるし、やや重いんですよね。ここはやはり健康的に、真っ昼間に大酒喰らって、という風情が合うように思うのですが、どうでしょうね。
「初めて投稿します。今後とも宜しくお願いいたします。
つい最近インターネットに接続しました。早速開きましたのがこのページです。漢詩に興味を持っておられる方が沢山居られて、大変喜んでいます。小生もそのお仲間に加わることができまして、非常にありがたく思います。
大変未熟な作品ですが、皆様の目に触れ、忌憚のないご批評をお聞かせ下されば幸甚です。」
作品番号 1999-19
雪関江郭降書堂 雪は江郭を関ざし書堂に降る
林樹蓮田素粧 林樹蓮田素を粧ふ
茅屋門開無客訪 茅屋門開けども客の訪れる無く
檐梅花発不聞香 檐梅花発けども香を聞かず
炉辺坐愛醇醪酒 炉辺坐ろに愛す醇醪の酒
机上漫吟魚父章 机上漫ろに吟ず魚父の章
不覚閑居亙終日 覚えず閑居終日に亙(わた)るを
漏鐘嫋嫋已昏黄 漏鐘嫋嫋として已に昏黄
<解説>
二月、全国的に雪に見舞われ、ここ尾張地方も随分な積雪でした。そんな時にできたのがこの詩です。
雪が降り続き、木曽川沿いの村里を閉じこめ、私の書斎の窓の外も頻りに雪が舞っている。
冬枯れの林の木々も、蓮根田も、あたかも絹の布をかぶったように白くひっそりと静まり返っている。
客がいつ来ても良いようにと、我が家の門の前を雪掻きをしたが、誰も訪ねて来ない。おまけに、二輪、三輪と咲き始めた庭先の梅の花も、降り積もった雪に縮み、せっかくの香りも消えてしまった。
まあ、人生、こんな期待外れの事は間々あることだ。一人でゆっくり旨酒を楽しみ、気の向くままに好きな楚辞でもひもといて、吟じてみよう。
ゆったり過ごしているうちに、すっかり夕暮れ時となり、どこかのお寺の鐘の音が静かに鳴り渡っている。
<感想>
律詩の規則や平仄にも破綻が無く、雪の日の静謐な時の流れがゆったりと描かれていると思いました。作者の落ち着いた人柄が偲ばれる作品ですね。
頸聯の第七句に挟平格(挟み平)が用いられていますので、真瑞庵さんのこの詩を使わせて頂いて、皆さんに説明をしておきましょう。
第七句「不覚閑居亙終日」の平仄を示しますと、「●●○○●○●」となり(「亙」は「亘」の本字)、平仄の規則から見ますと「二四不同」は良いが「二六対」を破っていることになります。しかし、韻を踏まない句に限ってですが、下三字の平仄を「●○●」と孤平で表現して「○●●」と見なして良いことになっています。
私が古本屋で見つけた戦前の漢詩の創作法の本では、挟み平を行なった時はその後ろの句を逆に挟み仄にするように、つまりこの場合で言えば、例えば「●●○○●○●」に対して「○○●●○●○」と対応させるのが良い、と書かれていましたが、最近の本ではそこまでは書かれていませんし、私も制約は少ない方が良いと思います。
対句については、頷聯と頸聯に置くのが基本ですので、真瑞庵さんのこの詩もそれに則っています。語の対応も平仄の対応も良いと思います。ただ頷聯の「無客訪」と「不聞香」は文の構造が異なっていますので、やや対応が甘くなっているのが残念でした。
1999. 3.20
作品番号 1999-20
君詩如画奪天工、
堪比唐朝王孟功。
一席仲春花月宴、
尽能収在仄平中。
<解説>
貴方の詩は絵のようで、天工を奪うものである。
唐の王維、孟浩然に比べても遜色はない。
春の月下での一席の花見宴会の情景を、
生き生きと詩の中に描かれている。
<感想>
お二人の詩を通しての交情がうかがわれ、心温まる気がします。
王維も孟浩然も、盛唐を代表する山水詩人。特に王維は宋の蘇軾から「詩中に画有り、画中に詩有り」と絶賛された「詩仏」ですが、孟浩然との友誼の逸話も有名ですね。お二人も王孟に負けない友情を是非お続け下さい。
さて、河東さんのこの詩ですが、歯切れの良い言葉を使い、気合いの籠もった表現になっていると思います。ただ、そのテンポの良さが最後まで行かず、結句がやや饒舌な印象を受けます。中国語として成り立つかどうか分かりませんが、「尽在仄平中」あるいは「能収仄平中」でも意は通じると思います。つまり、二字分が余分なのでしょう。訳に書かれた「生き生きと」に該当するような語句なり表現をここは入れてみたらいかがでしょうか。結句にも欲張ってもう一つ、何か実体のある言葉を使って下さい。
1999. 3.25
作品番号 1999-21
春宵朧月上江天 春宵 朧月 江天に上り
爛漫桜雲環綵船 爛漫たる桜雲 綵船を環る
酣酔欲眠猶夢浅 酣酔して眠らんと欲するも猶ほ夢浅く
波声促慕与君縁 波声 慕ふを促す 君との縁
<解説>
起句及び承句は、河岸の夜桜を遊覧船で楽しむ情景、転句と結句は酔っぱらって好きな人を思ってしまうというものです。
<感想>
承句の「綵」は「彩」と通じる字ですので、「綵船」で色鮮やかに飾られた船の意味ですが、春の華やかさを感じる情景ですね。
結句の「促慕」は良い表現ですね。切実過ぎる程でもなく、でも軽くはない気持ちが出ていると思います。
今回も鮟鱇さんの詩を使わせていただいて、少し詩の規則(今回は冒韻)の勉強をしましょう。
「冒韻」とは、韻字と同じ韻目に属する字を、押韻以外の場所に使ってしまうことです。このホームページの「平仄のきまり」でも同韻を禁ずとして書いておきました。これは、せっかく脚韻を踏んで音の美しさを作り出しているのに、同じ音が他にも出てきてはその美しさが弱まってしまうことから、避けるようにとされている規則です。
さて、鮟鱇さんの今回の作の転句「酣酔欲眠猶夢浅」では、四字目の「眠」が「下平声一先」に属する字ですので、このままでは「同韻を禁ず」を破ってしまいます。
ただ、「同韻字の使用」に関しては、それ程厳しく言わない(現実に唐詩でも見かけるので)人も居ます。また、押韻しない句だから転句のみは許すという人も居ます。鮟鱇さんの場合はこちらでしょうね。
漢詩の規則は、必ず守るべき類と守るのが望ましい類とがあり、更にその上例外がどんどん出てきますので、初心者の方は迷うかもしれませんが、初めは「全ての規則をしっかり守る」という姿勢で、条件は厳しくして取り組んで下さい。その上でやがて、ちょっと冒険をしてみるのが楽しいのですよ。
1999. 4. 4
作品番号 1999-22-1
酔欲還家探暗香 酔ひて家に還らんと欲し 暗香を探る
忽来池畔木犀芳 忽ち池畔に来たり 木犀芳し
陶然眺目水紋眩 陶然として眺目す 水紋の眩きを
橋上仰看明月光 橋上仰ぎ看る 明月の光
<解説>
ほろ酔い気分で家に帰る道すがら、どこからともなく良い香りが漂って来た。
香りをたどってふらふら行くと、池の辺の金木犀。
ますます気持ちよく風に吹かれて水面を眺めると、波紋がきらきらと輝いているではないか。
池に渡された橋の上でふと仰ぎ見れば、月が皓々と輝いていた。
ちょっと季節外れですが、昨年の情景を思い出して作ってみました。
<感想>
以下が、私が3/26に夜光杯さんに送ったメールの全文です。
昨年の情景を思い出して作った、とありましたが、そのせいか、視点がやや観念的で、散漫な印象を受けます。
目立つ所としては、
@夜光杯さんの前の2作(作品番号「1999-12」と「1999-13」)に比べて、起承転結が崩れています。
前半の木犀の香りを堪能した景と、月光がつながりません。転句は話が飛んでも良いですが、結句で起句承句をもまとめる必要があります。
A用語に読者を混乱させる組み合わせがあります。
「暗香」は「どこからかの香り」の意味もありますが、一般的には梅の花の香りを指します。また、「暗」の字の意味から、明るい光の中は似つかわしくなく、夜や明け方、夕暮れがイメージされます。そうなると、結句の「明月光」とのバランスが悪いですね。
B承句の「木犀」は、和語ではありませんか。
今病院ですので、手元に中国語辞典がないのですが、一度調べて下さい。
私の意見としては、起句の脚三字に「金桂芳」を置き、承句を「誘われて池を巡り、暗香を探る」としてみるのが良いかと思います。但し、その時には結句の「明月」を修正する覚悟が要ります。
C結句は、内容的にも転句の繰り返しになってますし、「眺目」と遠くをながめた視線をわざわざ上に「仰看」するのも変ですね。明月の光はもう十分に「水紋」によって分かっている筈ですから、全面的に直しましょう。
転句の表現がしゃれていますから、平仄を合わせながら転句の言葉を結句に持ってくるようにして、転句を考え直すのが良いと思います。
ということで、今回はなかなか厳しい内容になりましたが、是非頑張って二稿目を送って下さい。
私が漢詩を習いに行った時、「結句から転句、その後で起句と承句」という順番を守るように教えられ、習作を見ていただいた所「結句を直しなさい」と言われ、つまり全部初めから作り直したことが何度もありました。
でも、苦労した後で、「まあ、良いでしょう」と言ってもらえたうれしさは忘れられません。
そうそう、平仄・押韻では今回は問題はありませんので、ご安心を。
1999. 3.26
作品番号 1999-22-2
酔余幽径桂花芳 酔余幽径桂花芳し
廻到池辺探暗香 廻りて池辺に到り暗香を探る
魚躍復潜中藻底 魚躍りて復た潜む藻底の中
陶然眺目水紋光 陶然として眺目す水紋の光
<解説>
大変勉強になるご意見ありがとうございました。ご指摘に沿って自分なりに手直しをしてみました。またご意見をお願い致します。
第一稿で考えたのは情景を最初はできるだけ暗くして、匂いに誘われて池まで来て波紋の輝きを見つけ、酔った眼でふと見上げると月が皓々と輝いていた、というふうに暗から明、下から上へと視線をもっていこうかなと思って作ってみました。
木犀についても中国語辞典に「桂花=木犀」とありましたので、場面を暗くしておく意味であえて使ったのですが、こういう意図はあまり意味がなかったかもしれません。
今回感じたのは、あまり独り善がりでへたな技巧を凝らさず、もっと素直に創るということでした。
第二稿では転句が浮かばず苦労しました。魚が跳ねる音も考えましたがこんな感じに落ち着きました。また教えて頂ければありがたいです。
ご体調はいかがですか。一日も早いご回復をお祈りいたします。
<感想>
手直しされた詩を拝見しましたが、内容的にも欲張った所が無くなり、良くなったと私は思います。
ただ、転句は、夜光杯さんもおっしゃっておられるように、随分苦労された気配が漂っています。後半の「中藻底」を「藻底の中に」という語順で読むのは辛いと思いますので、「魚が跳ねた」ということだけに限定して、転句を練ってみたらどうでしょうか。
身体の方をご心配下さり、ありがとうございます。頑張っていますよ。
1999. 4. 4
作品番号 1999-23
三条流水繞林 三条の流水林を繞る
煙靄洋茫麦苗青 煙靄洋茫として麦苗は青し
蕭蕭澗風余冬意 蕭蕭たる澗風冬意を余し
煌煌晴日召春霊 煌煌たる晴日春霊を召く
雪残山郭樵夫径 雪は残る山郭樵夫の径
梅発茅軒野父庭 梅は発く茅軒野父の庭
時聴鳴禽疎樹杪 時に聴く鳴禽疎樹の杪
暫留竹翠微亭 暫し留む竹翠微の亭
<解説>
二月末、今年初めて養老山に妻と登ってきました。山道には残雪が多く、吹く風はまだ肌寒さを感じました。しかし、遠く濃尾平野は春霞がかかり、所々は麦畑の青さが輝いていました。
そんな冬と春とのせめぎ合いの面白さが表現できたらと思って作ってみました。
木曽三川が雪解け水を湛えて濃尾平野をゆったりと流れています。
春霞は遠くまでかかり、漸く出揃った麦の苗は春の日差しを浴びて、青く輝いています。
人気の無い山の谷を渡る風は肌に冷たく、まだ冬の気配を含んでいますが、晴れ渡った空に輝く日光は、まるで春の精霊を招き寄せるようです。
山里の樵径には雪が残り、萱葺き屋根の農家の庭先では梅の花が咲き始めています。
時折、名も知らぬ山鳥が冬姿の樹のこずえで鳴き、暫く、山腹の東屋に杖を休めてその声に聞き入っていました。
<感想>
冬と春の境目の景色を対句で対比させながら描いておられて、意図は成功していると思います。
ただ、首聯での「煙靄」と「麦苗青」は春を強く示しますので、二句目以降が順に「春」「冬」「春」「冬」「春」「冬」と並び過ぎてしまい、ややくどく感じます。首聯で季節をあまり示さずに、ただ「山に登った」というくらいの説明的な内容にすると、頷聯・頸聯の対句がもっと生きてくるのではないでしょうか。
また、前半の四句とも初めの字が「平声」ですが、これもややリズムが単調になるように思います。「蕭蕭」が意味的にここには合わないでしょうから、仄音の言葉で風の冷たさを表す言葉を持ってきたらどうでしょう。
今回の詩では、特に頸聯の対句が素晴らしく、心に残る句になっていますね。
1999. 4. 10
作品番号 1999-23-2
悠望眼下麦苗青 悠か眼下に麦苗の青きを望み
晴日伴妻跋阻 晴日妻を伴うて阻を跋む
凜凜澗風余冬意 凛凛たる澗風は冬意を余し
煌煌朝曄召春霊 煌煌たる朝曄は春霊を召く
雪残山郭樵夫径 雪は残る山郭樵夫の径
梅発茅軒野父庭 梅は発く茅軒野父の庭
時聴鳴禽疎樹杪 時に聴く鳴禽疎樹の杪
暫留竹翠微亭 暫し留む竹翠微の亭
<解説>
早春山行ですが、ご指摘に従い直してみました。
ただ、三句目の「凛凛」が「余冬意」の「余」に対して少し強すぎるのですが、適当な言葉を見つけることが出来ませんでした。春先の少し肌に感じる程の冷たさと言った言葉であればと思いましたが。
いつもの事ながら、自分の語彙不足に悩んでいます。
ご療養中、まことに恐れ入りますが宜しく御指導下さい。
<感想>
そうですね、おっしゃる通りで、「凛凛」は語感も強いですね。
私も語彙力には自信がありませんが、「澗風」とのつながりから考えるならば、「習習」が「そよそよとした谷風」の意味を持っています。「颯颯」も良いでしょう。
冷たい風の意味を出すならば「索索」くらいでしょうか。
もっと他にもピッタリの漢字があるかもしれませんが、今のところでの参考にして下さい。
1999. 4.28 by junji
作品番号 1999-24
風刀剪落西山月 風刀剪り落とす 西山の月
折戟未銷昔日光 折戟未だ銷えず 昔日の光
蘭舶能沈泥舶泛 蘭舶能く沈み 泥舶[よく]泛ぶ
幾人才俊済滄浪 幾人の才俊か 滄浪を済らん
<解説>
[語釈]
「西山月」 旧十二月四日。
「戟」 鑓。
「銷」 消す。溶かす。
「蘭」 芳草。また木蘭。
「舶」 海を渡る大船。
「泛」 うかぶ。
「済」 わたる。
<感想>
入院中の私にお見舞いの詩を送って頂きました。
梅足さんの作品はいつも示唆に富んでいますので、今回も何度も読み返させてもらいました。でも、まだ解釈に自信がない(^^;)のですが、きっと梅足さんはイメージが浮かぶまで考えなさい、と仰るでしょうから、療養中の暇にまかせて更に味わわせていただきます。
起句の韻の踏み落としと、承句の孤平は対句の関係からのものですね。ただ、「剪落」と「未銷」の熟語構造の対応が甘いようですので、無理に孤平にするよりも、「未銷」の方を○○と平声二字の熟語にしてみたらどうでしょうか。でも、「銷」の字が要(かなめ)ですかね?
1999. 4.23 by junji
と書いた後、何気なく『三体詩』をパラパラと読んでいたら、杜牧の『赤壁』という詩に出会いました。
七言絶句ですが、その冒頭起句が「折戟沈沙鉄未銷」でしたので、梅足さんはこの表現に惹かれたのかな?と思いました。となると、やはり承句の「未銷」は替えにくいですね。ご無礼しました。
1999. 4.27 by junji
作品番号 1999-25
旋風一点吹飛去 旋風 一点を 吹き飛ばし
渦水一周沈潜来 渦水 一周にして 沈潜す
車径数尋拡翼止 車径 数尋あるも 翼を拡げば止まる
自転何劫天河回 自ら転わらば 何劫もの[径ある]天河回る
<解説>
[語釈]
「渦」うず。
「車径」車輪の直径。
「尋」ひろ。1.8m。
作品番号 1999-26
労月中天残 労月 中天に残り
佳花在野嫺 佳花 野に在って嫺
春風長養尽 春風 長養 尽し
一鳥何啼閑 一鳥 何を啼いてか 閑なる
<解説>
[語釈]
「労月」陰暦一月二十日。
「嫺」みやびやか。
「啼」なく。
<感想>
『転回』の詩は、「旋風・渦水・車径」と畳みかけるように、回転するものを積み重ね、最後に「天河」で無欲無心の雄大さを喩えたように感じました。荘子の論法を彷彿とさせる展開だと思います。
『労月佳花』は、写真で切り取ったような印象的な場面を言葉でうまく表してあると思います。
掲載が遅れてすみませんでした。投稿ありがとうございます。しっかり元気が湧いてきましたよ。
1999. 4.23 by junji
作品番号 1999-27
百樹千枝開万花 百樹の千枝に万花開き
桜雲盛処有人家 桜雲盛んなる処、人家あり
懐疑空舎村童語 空舎(空き家)たるを懐疑すれば村童語る
白叟帰山看彩霞 白叟は山に帰りて彩霞を看んと
<解説>
桜の花をひとつだけじっと見ていると、さまざまなものが見えてきます。桜の花はあまりにもたくさんあって、ひとつの花だけを凝視するのは難しく、目が紛れます。おそらくその集中と紛れが人を夢境に誘うのではないかと私は思っています。凝念と発散・開放、その動きを詩に託してみました。
なお、「帰山」は、一般的には「故郷に帰る」という意味ですが、ここでは「仙人になる」の意味にとってもらえればと思っています。
<感想>
病院の前の公園の桜も満開の4月の初め、花見客の酔声は真夜中まで途切れませんでした。
私は丁度その時、薬の副作用のため頭痛に苦しんでいましたので、とても外に出る気にならず、残念ながら今年の花見は窓越しのものとなってしまいました。
でも、鮟鱇さんが桜の花の詩をたくさん送って下さいましたから、現実以上に素敵な花見を楽しめました。
1999. 4.23
作品番号 1999-28
曾頭晴日淡煙時 曾頭晴日淡煙の時
間暇逍遥水社陲 間暇逍遥す水社の陲
堤柳軽軽投翠影 堤柳軽軽として翠影を投じ
風芦細細動滄 風芦細細として滄を動かす
遊人花下偏憐色 遊人花下扁に色を憐れみ
野鳥樹辺不惜辞 野鳥樹辺辞を惜しまず
卓刻碣文難工事 卓刻す碣文難工の事
紅葩何識薩人悲 紅葩何ぞ識らん薩人の悲
<解説>
木曾三川の治水神社あたりの春の様子を詠ってみました。
ここは、ご存知のように薩摩藩が幕命により治水の難工事で多くの犠牲者を出した所です。今は、木曾三川公園として整備され多勢の人々が春を楽しみにやって来ます。
そんな遊客と薩摩藩士の苦労とを対比してみました。
ただ最初は、結聯を
「遥望銀峰雲闢処 雪留寒意仍春遅」
として作りましたが、どちらがベターなのか?
ご批評をお願いします。
<感想>
水辺の春景は、詩の題材としてよく採られるところ、それだけに腕の見せ所でもありますね。
数年前、五月の連休中に多度山に登り、頂上から木曽三川を眺めました。新緑の木立の間からの川の姿は長い時の流れを象徴するように、ゆったりと曲がり交わり、心に深く残りました。
結聯についてどちらが良いかということですが、詩のテーマをどうするか、の違いかと思います。
春の景を表現することが目的ならば初めの案で良いと思いますし、この木曽三川という固有の場での作とするならば「難工事」「薩人」という言葉が生きてきます。
「普遍」と「個別」の違いで、どちらかにした方が良いということはないと思います。どちらも完成作として、大切にされたらどうでしょうか。
1999. 4.27 by junji
作品番号 1999-29
孤坐電車愉旅程 孤り電車に坐り旅程を愉しめば
山陰鉄路上京城 山陰の鉄路、京城(=京都)に上る
東風散霧濤浮島 東風、霧を散じて濤は島を浮かべ
春日照崖雲化桜 春日、崖を照らして雲は桜に化す
沿線景多游客少 沿線、景多くして游客少なく
渡河水重落英軽 渡河、水重くして落英軽し
飛橋余部分天地 飛橋、余部(あまるべ)に天地を分かち
目下人家花底営 目下(=眼下)には人家、花底の営み
<解説>
山陰本線の旅、日本一の余部(あまるべ)鉄橋を渡る機会を得、その車窓の風景を詩にしました。
第一句の「電車」、山陰本線は電化されておりませんので、ほんとうは「ディーゼルカー」であるのですが、「汽車」とすれば自動車になってしまいますし、「火車=汽車」では時代がかってしまいますので、「電車」としました。
第三句「濤」は、孤平を避けるため「濤」としていますが、イメージのうえでは「海」とすべきかと迷っています。
律詩は難しいです。
<感想>
以前、風塵翁さんも旅行に出られて、その後に素晴らしい作品を送って下さいました。旅の効用は申し上げるまでもないことでしょうが、詩を作る上でも良い機会になりますよね。
鮟鱇さんの解説の「汽車」や「火車」が分かりにくい方もいらっしゃるかもしれませんので、私の方で補足しておきますと、中国語では自動車のことを「汽車」と言います。また、汽車のことは「火車」と言います。鮟鱇さんは詩の中では、ディーゼルカーのつもりで「汽車」と本当は書きたかったのですが、それでは自動車に乗ったことになってしまい困ったぞ、という話なのです。(うーん、かえって分かりにくくなったかもしれない?)
ともあれ、春の好景が目に浮かぶ詩になりましたね。こうした具体的な景物を詠むには、律詩というスタイルは適している(作るのは大変でしょうが)と思いました。
1999. 4.29
作品番号 1999-30
東西南北沙 東西南北の沙
猶有海無涯 猶有り、海の涯無きも
鳥欲窮天上 鳥は天上を窮めんと欲し
取風漂舞斜 風を取り漂ひ舞ひて斜めなり
<解説>
鳥取砂丘に行き、作ったものです。
転句・結句の句頭で「鳥取」の二字を読み込んでみましたが、「取風」は無理があるかも知れません。「乗風」ぐらいが素直かと思います。
「取」には「選ぶ」の意味があるように漢和辞典にありましたので、あえて「取」としてみましたが、「鳥」は「鴎」に、「取」は「乗」にしたほうがよいかと迷っています。
<感想>
私は、この詩のように地名を盛り込んだりするのが好きなので、鮟鱇さんが悩んでおられても、単純に「鳥取」で良いじゃないか、と思います。論理的でなくて済みませんが、旅行の記録の意味もありますし、このままでどうでしょう。
確かに、「鴎」や「乗」の字の方が収まりはよいですが、「天上を窮める」のに「鴎」がふさわしいか、とか、「風に乗る」のはやっぱり仙人ではないか、とか、色々な議論も起きそうですから、私は現行の線を推します。
1999. 4.29