第16作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-16

  愚人説夢          鮟鱇

儒迂酔夢説人愚   儒は酔夢に迂(うと)くして人の愚かなるを説き

夢説人愚我有吾   夢に人の愚かなるを説けば我に吾あり

吾有我愚人説夢   吾に我が愚あれば、人、夢を説き

愚人説夢酔迂儒   愚人は、夢を説いて酔いたる迂儒なり

          ( 上平声七「虞」の押韻 )

<解説>

 [訳]
儒者は、酔って見る夢にはうといもので、人の愚かしさばかりを説き、
夢のなかで「人は愚かだ」といえば、
         なんだか自分には「自分」があるような気がしてくる。
「自分」にそういう愚かしさがあることに気付けば、
         人は夢を説く(=わけのわからないことをいう)もので
愚人(=私)は、夢を説いて酔っ払っている迂儒(世事にうとい儒学者)だ。

 この詩は十字回文詩です。

.....有.....
....吾.我....
...儒...愚...
...迂...人...
....酔.説....
.....夢.....

 坤歌体は、「我有吾。儒迂酔夢、説人愚」となります。

<感想>

 哲学書を読んでいるような気持ちになる詩ですね。
 転句が謎なのですが、「吾有我」と「愚人説夢」の接続は逆接ではないのでしょうか。「愚かしさに気付いても尚かつ夢を説くから愚人だ」ならば分かるのですが、書き下しのままですと論理の展開が納得できないのですが・・・・。教えて下さい。

2000. 1. 23                 by junji



 鮟鱇さんからは、すぐに丁寧な解説をいただきました。皆さんにもご紹介しましょう。

 「愚人説夢」について、ご質問にお答えします。

起句:「儒は酔夢に迂(うと)くして人の愚かなるを説き」
 ここでの「儒」は儒者のことですが、理屈を好み、理屈によって人の道を説こうとする人のことのつもりです。そういう人は、酔っ払って見る夢に興味などはないでしょうし、とかく人間の愚かさとか、他人の非をとく傾向があります。ものごとを弁別 する「理屈」にはそういう働きがあります。
承句:「夢に人の愚かなるを説けば我に吾あり」
 しかし、「理屈」というものは「夢」です。理屈を夢としないためには、「天」の合理性とか、「神」の論理性とか、存在としての「本質」とか、あるいは「イデア」とかの存在を、本気で信じなければなりません。
 近代日本は、神なき時代です。もし神があるとしても、一般的には「個人」という神。「個人」が神であるかぎりは、その個人の「理屈」は、個人は不死ではありませんから、死ねば泡沫のごとくに消えるものであり、消えるものは存在するものではなく、 「夢」です。
 「理屈」には、区別する働きがあります。そこで、理屈が働きだすと、つまり、理屈を通して世のこと、人のことを考え始めますと、人の愚ばかりが見えるようになり、人と自分を区別する働きも生じてきます。つまり、自分は理屈によって賢くなり、他人は理屈によっておろかになります。ここにいたれば、自分には「自分」というものがあることになります。デカルトのいう「われ思うゆえにわれあり」は、決してわたしがここに書いたことばかりではないと思いますが、無関係でもありません。
転句:「吾に我が愚あれば、人、夢を説き」
 日本語の「夢」には、「理想」とかの意味がありますが、漢語では夢は眠っているあいだに見る「夢」であり、「説夢」に理想を説くという意味はなく、夢のなかのことがらのようなわけのわからないことをいうという意味になります。あるいは、荘子のいう「胡蝶夢」の「夢」ぐらいまででしょうか。
 鈴木先生は、この転句について、「愚かしさに気付いても尚かつ夢を説くから愚人だならば分かる」とおっしゃってくださっているのですが、先生のおっしゃる「夢を説く」の「夢」がいわゆる「理想」であるとすれば、わたしのいいたかったこととは異なります。
 ではどういうことかですが、これはわたしの理屈ですが、起句・転句のようなことを考えるとわたしはいろいろなことが馬鹿馬鹿しくなります。
 そこで、筋道の通ったことをいうよりも、「夢のなかのようなわけのわからないこと」をいいたいと思うのです。ほんとうは何もいわないのがよいのですが、わたしはわたしという「愚」がありますから、人に対してやはり何かをいいたい、そこで、「わけのわからないこと」をいう、そんなつもりの転句です。
結句:「愚人は、夢を説いて酔いたる迂儒なり」
 愚人は「わたし」を謙遜して言う言葉。結句の意味は、わたしは、わけのわからないことを酔ったついでに口走る「迂儒」だというつもりです。
 「迂儒」は、世間のことにうとい儒者の意味ですが、「わたしのなかのわたし」などはないと思いながら、それでも人に対して「わけのわからない」ことを口走るので、わたしもそうとうに理屈ぽいことになります。そういう人間は「迂儒」です。


2000. 1. 25                 by 鮟鱇




















 第17作は 三耕 さんからの作品です。
 大寒の中での一枝の春を読んで下さいました。

作品番号 2000-17

  大寒梅発    大寒に梅発く  三耕

寒窮草木尽   寒窮りて 草木尽き

月満群星微   月満ちて 群星微かなり

誰不知明日   誰か 明日を知らざらん

一枝初発機   一枝 初めて発くの機

          ( 上平声「五微」の押韻 )

<解説>

 [語釈]
「寒窮」:大寒。
「月満」:陰暦十二月十五日。
「発」  :ひらく。咲く。

 転結は二句一解で読むこともできます。即ち
「誰か 明日 一枝初めて発くの機を 知らざらん」

<感想>

 梅はまさに「天下魁」として、春の来ることを教えてくれます。
 明けない夜は無いように、春の来ない冬は無い。でも、雪の降りしきる中で春の気配を感じ取るのは難しいものです。
 それを為らしめるのは、自然の微かな変化。それを感じ取る詩人の感性。
 この詩は、起句の「寒窮草木尽」が生き生きとした句で、光っていますね。

2000. 1.27                 by junji





















 第18作は広島県呉市の 金先生 、36歳の男性の方からの初めての作品です。

作品番号 2000-18

  亡母偲歌(詠亡母一年忌)        

三星明河落   

好花客悉欷   

独座弧月下   

逝者更思帰   

          ( 上平声「五微」の押韻 )

<解説>

 [訳]
 今年もまたオリオン座は天の川の側に上がり
 変わりなく咲いた形見の花をみては皆涙をながす。
 月明かりの下 ひとり座り
 逝った人は 帰って来ぬかと思いを巡らす。

 初めて韻や平仄を考えて作った作品です。
 一昨年の暮れに60歳で逝った母の一周忌が近づき、
オリオン座が高くなり、母の大事にしていたカニランの花が咲いたのを見て作ってみました。
 まだまだ下手ですが これからもよろしくお願いします。

<感想>

 こうした情の溢れるような詩は、表現を云々するよりも、読み手が作者の心情に近づくことが大切だと思っています。
 承句から転句へと、「客悉」から「独座」として時間の経過を示した形の展開は、細く曲がった月の下での残された者の哀しみを強調して、良い詩だと思います。
 ただ、承句の「好花」は、「良い(美しい)花」の意味にとりがちです。「お母さんが大事になさった花」とのことですので、それが伝わる良い言葉はないでしょうか。私も考えてみます。

2000. 1.27                 by junji



感想が寄せられていますので、ご紹介を。

 金先生の「三星明河落」は警句ですね。
 作者の解釈も句単独では詩的ですばらしいと思いますが、私は「明け方 西の 空に落ち」と解釈しました。
 上天に煌々と在るよりも 没した後の侘しさ がこの詩の起句として相応しいように思います。
 こう解釈すると、さらに五更を迎えて前夜を思う、そして更にその前夜、前夜、・・・と過去に遡及していく想いが重なってくるようにも感じられます。

 宿題の「好花客悉欷」は
     「花似人同欷」は如何でしょうか。
 「同」の中には「悉皆」の意がある反面「不同」の意も含みます。
かなり「年年歳歳・・・」に付き過ぎではありますが「不同」でないところが読み手に如何と問う妙点です。
 結句は組み合わせに少し違和感がありますが、全体の詩境はそれを補って余りあるものと感じました。
 次作も是非拝見いたし度く お待ち申し上げております。

2000. 1.29                 by 三耕
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 第19作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 皆さんのご意見を是非聞きたい、ということですので、解説もお読みになって、感想をお寄せ下さい。ここをクリックで、すぐに送れます。

作品番号 2000-19

  詩懐        鮟鱇

瞑目驕然断景光   瞑目して 驕然と景光を断てば

山河何敢説無常   山河何ぞ敢えて 無常を説かん

我雖野鄙吟懐浩   我は野鄙なりと雖も 吟懐は浩く

妄想猶存鼓俗腸   妄想なお存りて 俗腸を鼓す

          ( 下平声「七陽」の押韻 )

<解説>

 わたしには、新しい詩を書いてみたいという俗気があります。そのためには、これまで学んできたことを、まず壊さなければならないように思います。
 この詩は、眼の前の風景に対し眼をつぶろうというものです。
 わたしはこれまで、七言絶句では、景を描き情をのべる詩を書いて来ましたが、そういう詩は眼を明けながら作る詩です。眼をつぶったらどうなるのか、あるいは、眼をつぶっても、唐詩は可能なのか、そんなことを考えました。
 はたして詩になっているのかどうか、みなさんの指正をまちます。

<感想>

 うーん、この問題は難しいですね。目をつぶることで、一体鮟鱇さんは何を見ないようにしているのか。そして、見ないことで何を訴えたいのか。
 詩は、まさに「妄想」に当たるような何らかの情が無くては詩とは言えないでしょう。自分の中の深い感情を言葉で定着させたい、その欲求がまずあって、次にどんな表現が適切かの選択が来るのだと私は思っています。
 では、その情は何から得られるのか、勿論目からだけではなく、耳からも手からも、五感全てから感じ取るものでしょう。いや、もっと言えば、私という存在全てを使って感じるもの。
 鮟鱇さんは、目という手段をまず捨ててみようとしたのですね。その後は、必然的に、耳も鼻も捨てていくことになるのでしょう。そして、最後に何が残るのか。
 この「詩懐」の詩は、そう言う意味では、鮟鱇さんの「新詩宣言」と言えるでしょうか。
 鮟鱇さんが、この宣言に基づき、どんな詩懐を展開していくのか、ワクワクとしています。

2000. 1. 31                 by junji



三耕さんから感想が寄せられました。

 今晩は三耕です。
是非感想をということですので思うところを書いてみました。

 まず、鮟鱇さんの「詩懐」そのものにつきましては、私も「この『詩懐』の詩は、そう言う意味では、鮟鱇さんの「新詩宣言」と言える」論説として拝読いたしましたので、「鮟鱇さんが、この宣言に基づき、どんな詩懐を展開していくのか」実作を期待申し上げます。

 さて、
「眼をつぶったらどうなるのか、あるいは、眼をつぶっても、唐詩は可能なのか」という事を考察して参りますに、「その後は、必然的に、耳も鼻も捨てていくことになるのでしょう。そして、最後に何が残るのか。」というご洞察まで前提と致しますと、
 「詩興」(詩作の契機)から五感を捨象するとどうなるかという事に行き着きます。
 此の「詩興」から「詩作」の過程につきまして、実景を契機として作詩する場合 の自らの詩作経験を図式化してみますと下のようになるかと思います。

  [五感によるインプット] + [想念] => [詩作]
  ([想念]:作者のその刹那持っている問題意識。
    (+)は単なる四則演算ではなく関数に近いものでしょうか。)

 従いまして、詩作の契機から五感を捨象しますと、その刹那持っている想念のみを契機として詩作するということになります。そして、このような経緯で書きましたものは、実は私にもありまして、「詩」になっているかどうかはともかくとして「問いの答えは可能」ということになります。ただ実景を契機とする作の方が格段に多いのも事実です。

 実作は以下のものです。
  「三月上巳」(http://user2.allnet.ne.jp/nisino/kansi/148.html)
  「中原一事」(http://user2.allnet.ne.jp/nisino/kansi/149.html)
  「新月一明鏡」(http://user2.allnet.ne.jp/nisino/kansi/162.html)
  「暖英酒」(http://user2.allnet.ne.jp/nisino/kansi/178.html)
  「赤尾」(http://user2.allnet.ne.jp/nisino/kansi/181.html)
  「風難駐」(http://user2.allnet.ne.jp/nisino/kansi/183.html)

 ここで、「問題提起」の前提条件と私の[想念]の補足をしておきます。

<「問題提起」の前提条件>
 私は、詩作の契機から[五感によるインプット]を切り捨てることは可能かという問題提起として解釈しました。
 詩の中から五感に訴える用字を捨象する事、即ち、純粋な叙情表現や幻想表象のみの用字で詩を構成する事は公開詩としては存立し得ないと思っております。一部の思想・信条を共にするような閉鎖された集団の中だけなら可能かもしれません。
 例えば「寂寞苦愁也」の類を延々と見せられても、それだけでは共感も驚きを伴った詩的感動も生じ得ません。

<私の[想念]の補足>
 想念の成立自体は当然ながら、五感によるインプットの積み重ねで形成されたものです。厳密には 漢字 一字にも人それぞれ形造られた固有のイメージが出来上がっているものです。
 ここにおける、心情を培ってきた過去の経験(五感によるインプット)を捨象することはできません。
 ここでお気付きの事と思われますが、詩的共感は読み手の「心情」を形成してきた五感による表象を通して追体験の形で与える事ができ、さらに驚きを伴った詩的感動は、五感による表象の異相(単なるパラドックスでは無いもの)を描き出すことによって驚きを与え、発見だと頷かせることによって感動を呼び起こす事ができるという図式が見えてきます。

                         以上でございます。

2000.2.3                  by 三耕
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 第20作も 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-20

  年頭思海(改)           鮟鱇

蒼蒼碧碧海連天   蒼蒼たり、碧碧たり、海は天と連なり

永遠無涯日月権   永遠の涯(はて)なきは日月の権(はか)るところ。

人似游舟弄泡沫   人は似たり、游舟の泡沫を弄ぶに

浮沈早晩任風遷   浮沈は早晩、風の遷(うつ)るに任せん。

          ( 下平声「一先」の押韻 )

<解説>

 [訳]
 蒼蒼たり、碧碧たり、海は天と連なり
 永遠の涯なきは日月が権(はか)ること。
 人はふらつく舟が泡沫を弄ぶのに似て
 浮き沈みは早かれ遅かれ風まかせて移りゆく。

 鈴木先生のご指摘を受けて改定しました。
 先生のご指摘は起句の冒頭4字「終于看到」についてでしたが、わたしとしてはいちばん力をいれたつもりのところがまずいということでしたので、「力及ばず」と思った次第です。
 冒頭4字は、先生のご指摘どおりランボーにひきづられたところもありますが、詩の冒頭でまず声を出し、われここにありというミエをきるのは西洋の詩ではよくあることですし、唐詩でも最近読んだ寒山あたりは(絶句ではありませんが)にもその例があります。
 絶句の場合、まず静かに「景」から入って「情」に移るという書き方がかなり定着しています。また、そうしたほうが、起承転結のメリハリをつけやすいとも思いますが、わたしとしては、ちょっと違う書き方がしたいと思った次第です。
 しかし、それでは「終于看到」がよかったかというと、知り合いの中国人の青年に読んでもらったところ、彼もやはり冒頭4字に首をかしげました。「普通の文章の言葉。詩では使わない」

改作の「蒼蒼碧碧」は、いかにもおざなりで少し投げやりな印象をもたれるかも知れません。しかし、わたしとしては、渾身の言葉です。
 この句で必要なのは海と空だけです。雲があったり、鴎が飛んでいたりするのは余計ですし、空が「空虚」であるとか、海が「広漠」としているとか、季節がいつであるとかは関係がありません。
 したがって、「蒼蒼碧碧」しかないのですが、もしこれで駄目であるとすれば、もともと七言絶句にすることに無理があるテーマのように思います。

<感想>

 この改作は、きっと鮟鱇さんにとっては不本意なものだったのかもしれませんが、私の率直な感想を述べますと、今回改められた「蒼蒼碧碧海連天」の起句は素晴らしいと思います。
 鮟鱇さんが解説で仰るように、絶句の構成では「景」から「情」へという展開が多く使われます。そして、風景は風景、心情は心情と別々のことのように描きがちです。しかし、短詩形文学である漢詩(短歌や俳句もそうですが)で描かれる風景は、作者の感性の反映でなくてはなりません。当然のことですが、僅か二十字や二十八字の中に作者が目で見た情報全てを表現できるわけではないからであり、何を言葉にするか、どれを捨ててどれを取るか、そこにこそ風景を描く面白さもあるわけです。
 「海が太陽と番う」という感動を述べるのに、雲も鴎も確かに要らないと思います。しかし、実態を伴わない概念だけの「海」と「空」では、読者に伝わるものは少なくなります。「私は、こういう空と海を見たぞ(それが事実か、想像かは別です)!だから、こう思ったぞ」と言わなくては、この詩の場合には、その後の永遠や人生の抽象性が浮いたものになってしまうと思います。
 「蒼蒼碧碧の海と空」、それだけを思い浮かばせて、起句は鮟鱇さんの感動を見事に切り取っていると思います。「われここにありというミエ」も十分きっています。この句によって一首の土台が重く大きなものとなり、全体をしっかり支えています。前作では気にならなかった承句が、逆にやや力不足に感じてしまうくらいです。秀抜の一句です。

2000. 1. 31                 by junji





















 第21作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-21

  失題          謝斧

少有匡時策   少しく有り 時を匡すの策

空存濟世資   空しく存す 世を濟うの資

詩人憂國歩   詩人 國歩を憂い

微志有誰知   微志 誰れ有りてか知らん

          ( 上平声「四支」の押韻 )

<解説>

 [訳]
 少しは 時流を正す策を持っています。
 濟民の才もあります。
 詩人である私はつねに国を憂い、
 此の心を誰が知るであろうか。

<感想>

 テレビや新聞では、国会の混乱が連日報道されています。2月5日付けの『天声人語』ではありませんが、「民主主義」という言葉が空文化して、日本の上を飛び回っています。
 何でもかんでも「多数決で決めれば民主的だ!」などという、恐ろしいほどに単純な「民主主義」はさすがに教育の現場でも反省されているように思っていましたが、何ともっと上の政治の場では健在だったのですね。
 憂国の詩人と呼ばれる人も、そして、憂国の絶唱と呼ばれる詩も多いのですが、為政者は自らの政権が滅ぶまでは気づかないようです。
 でも、それは多分『裸の王様』の「愚か者には見えない衣装」と同じように、金や権力にしがみついた人には聞くことができない種類のものなのでしょう。
 多くの人には見えている「國歩(国の進む足取り、運命)」も、みんなが感じている「志」もあるのに、とはがゆい思いがつのります。

2000. 2. 5                 by junji





















 第22作は八王子市の 青巒 さんからの初めての投稿作品です。
 青巒さんは、漢詩歴十年以上の大ベテラン、心強い仲間が増えていくのはとても嬉しいことです。

作品番号 2000-22

  新朝有感      新朝感有り  青巒

香雪瓊姿向旭鮮   香雪の瓊姿 旭に向かって鮮やかなり

風和日穏賀新年   風和らぎ日穏やかな新年を賀す

飽嘗世味七旬繞   飽嘗 世味 七旬巡り

頃者壺中自在天   頃者 壺中 自在の天

          ( 下平声「一先」の押韻 )

<解説>

 初めまして!
 先ずは新入りのご挨拶と自己紹介を兼ねて、今年の賀状に用いた禿筆をご披露しました。
 詩中にある如く、此の三月で古希を迎える一佚老、勝手気儘、好き放題に暮らしている現状を、後漢の費長房の故事を借り、現在の心境を詠いました。
 今後とも宜しくご指導下さい。
 尚、転句は七絶、五絶とも下三字は○○●を●○●に(但し孤平に注意)、即ち挟み平に出来るので“七旬繞”としました。

<感想>

 新年漢詩には入れませんでしたが、丁度今年の穏やかな正月にふさわしい詩ですね。
 語句の意味を、青巒さんには失礼ながら、初心の方のために私の方で少し補っておきましょうか。
  「瓊姿」は「玉のように美しい姿」のこと、「飽嘗世味」は「世の中のことも味わい尽くして」という感じでしょうか、「旬」はここでは「10年」のこと、「七旬」ですから、「七十年」ですね。
 費長房は、『後漢書』の「方術伝」に記されている人物です。壺の中に入って行く老人に従って仙術の修行をし(最後の試練で失敗をしてしまいますが)、人間界に戻って鬼神を自由にあやつったそうです。狸やらすっぽんの化けたものを叱りつけたりと、なかなか楽しい話です。
 青巒さんのゆったりとした「自在」の生活が、故事をふまえて生き生きと目に浮かびますね。

2000. 2. 6                 by junji





















 第23作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 前作「詩懐」での決意を実作にチャレンジした作品ですね。

作品番号 2000-23

  開秋別君        開秋に君と別る  鮟鱇作者

回回回憶似簷鈴   回回たる回憶、簷鈴に似て

片片片言対恋情   片片たる片言、恋情に対す。

別後初知風颯起   別れて後に初めて知る、風は颯として起ち

開秋我獨月徒明   開秋に我ひとりにして月徒(いたず)らに明るきを。

          ( 下平声「九青」・下平声「八庚」通韻 )

<解説>

 [語釈]
「回回回憶」:ぐるぐるめぐる思い出。
「片片片言」:とぎれとぎれの少ない言葉。
「簷鈴」:風鈴。
「開秋」:秋のはじめ。

 拙作「詩懐」では、新しい境地を開くために眼をつぶってみようという詩を書きました。
 わたしとしては、眼をつぶったら何が見えるかぐらいに考えていたのですが、大言壮語が過ぎたようです。鈴木先生にその虚をつかれ、さらに耳をふさぎ、鼻をつまんだらどうなるか、とご指摘を受けました。
 わたくしの大言壮語を反省すれば、日本人の漢詩は視覚に依存することが多いように思い、とりあえず眼をつぶってみようぐらいのことでしたので、鈴木先生のおっしゃるとおりにしてみたら、どのようなことになるのか、今のところわたしにも見当がつきません。
 しかし、眼はつぶってみました。そしたら、何があったか。
 思い出がありました。いまから三十年以上も前の高校三年生のときの失恋の思い出です。拙い恋の結果、わたしは秋の初めにガールフレンドと分かれました。別れの言葉はとつとつとして、言葉少なく、気まぐれに鳴る風鈴の音のように思い出されます。
 この詩は、日本人の文学表現に顕著な俳句的写実主義を斥け、絶句におけるロマン主義をめざそうというものです。

<感想>

 目をつぶったら何が見えるか、と前回に私が言いましたのは、やや大袈裟すぎたかと実は私自身も反省していたのですが、私が言いたかったのは、次のようなことだと思います。
 つまり、鮟鱇さんは詩における「情」の表現を大切にしたい、と仰っていると理解したわけですが、その「情」を形成しているものは個々の作者の人生の蓄積であり、それは勿論「視覚」に限定されるものではないにしろ、何らかの現実によって構築されているわけです。その現実を見ないようにと否定した時に、逆にどんな「情」が可能になるのか、という疑問を提示したわけですが、うーん、三十年前の失恋が来るとは思いもしませんでした。
 こういう展開は楽しいですね。スリリングでワクワクします。次は何が来るかと、心待ちにしています。
 それはさておき、漢詩の定型化された創作姿勢に対する鮟鱇さんの苛立ち(?)は、よく分かります。詩が定型詩だからといって、作り方や感情までもが定型化されていたのでは、生きた詩には決してなりません。そこへの切り込みをはかる鮟鱇さんの「新詩宣言」を真摯に受け止めたいと思っています。

2000. 2. 6                 by junji





















 第24作は 真瑞庵 さんからの作品です。

作品番号 2000-24

  立春慢述      立春慢述  真瑞庵

行年六十白頭人   行年六十 白頭ノ人

垂老毋言擁剰薪   垂老言フ毋レ 剰薪ヲ擁スルト

北嶺雪消帰雁切   北嶺雪消エ 帰雁切リニ

南庭雨歇絳芽伸   南庭雨歇ンデ 絳芽伸ブ

懶資耒耜植蔬菽   耒耜ヲ資ッテ 蔬菽ヲ植ウルニ懶メバ

嬉配觴杯醉醴醇   觴杯ヲ配シテ 醴醇ニ醉ヲ嬉シム

遅日舒舒茅屋裡   遅日舒舒 茅屋ノ裡

東風萬頃払顔   東風萬頃 顔ヲ払ウテ宴V

          ( 上平声「十一真」の押韻 )

<解説>

 立春の頃,風邪を引いてしまい、投稿が今になってしまいました。
 小生,間もなく60歳。老いて益々盛んとまでは行きませんが,其の歳其の歳に応じた春の楽しみ,人生の生き方を楽しみたいと想っています。

<感想>

 四句目の「絳芽」は木々の紅い芽吹きのことだと思いますが、正岡子規の名歌、
   紅の二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る
 を思い出します。
 この歌は、季節的には立春よりももう少し後でしょうが、和歌の音調の美しさというものを感じさせてくれて、私の大好きな歌です。
 「の」の音の多用によるリズム感、「針(り)」「やらかに」「春雨(るさめ」「る」のハ行音の繰り返し、母音に注目すれば「Bara」「Hari」「Yaharaka」「Harusame」の「a」音の韻律、どれも口に出して詠んだ時の響きの美しさを考慮した言葉の配列が為されていて、何度口にしても味わい深い歌です。
 そして、内容的には「紅の」の初句、ここで生まれる一息の間が紅色を鮮明にさせ、一首全体を華やかなものにしています。この「紅の」がもう少し後ろに来て、「薔薇の紅の芽の針」などとなっていたら、単なる説明に終わってしまい、色気も何もありません。
 正岡子規の短歌は、全てが良い歌だとは思えませんが、この歌は写生と優美さが融合した、「21世紀に残したい歌」だと思います。

 真瑞庵さんの詩に戻りますと、最後の句の「東風」、頷聯で「北嶺」や「南庭」のように方角を示す言葉が使われていますので、ここで更に「東」というのは効果が薄いと思います。「条風」なりに言い換えるか、他の風の言葉を探してみたらどうでしょうか。

2000. 2.16                 by junji





















 第25作は 謝斧 さんからの作品です。
 回文詩を送って下さいました。

作品番号 2000-25

  回文詩 適意        謝斧

身老一村閑意随   身は一村に老いては 閑意に随い

下渓樵路好開眉   渓を下りし樵路 好し眉を開かん

新詩寫景林堤上   新詩景を寫す 林堤の上り

人誘幽花落日遲   人は幽花に誘われて 落日遲し

          ( 上平声「四支」の押韻 )

<解説>

 前詩の逆読み

遲日落花幽誘人   遲日 落花 幽かに人を誘い
上堤林景寫詩新   堤に上って 林景 詩を写して新なり
眉開好路樵渓下   眉を開けし好路 樵渓の下
随意閑村一老身   意に随いし 閑村の一老身

 回文詩は同じ字を使うので同じ内容になってしまい、費やした時間のわりには巴調になってしまいました。
 作り方は同じ字を使っても、意味の違った字を使ってつくるのでしょうか、こういった回文詩より、鮟鱇先生が作るような回文詩の方が文学的には優れているものとおもわれます。

<感想>

 いろいろな回文詩があって、面白いものですね。
 謝斧さんのおっしゃるように、一句七文字の中で同じ字の組み合わせをするわけですから、内容的に同じようなイメージになってしまうのは仕方がないのでしょう。でも、文学的にも知的にもレベルの高い作品だと思います。

2000. 2.16                 by junji





















 第26作は 三耕 さんからの作品です。
 昨年の10月に掲載しました『風難駐』の平仄を合わせて、更に語句を推敲なさったようです。前作と併せてお読み下さい。

作品番号 2000-26

  風難駐(改)        三耕

玉幡玲颯風難駐   玉幡 玲々颯々として 風駐り難く

野水孤舟逝不住   野水の孤舟 逝きて住まらず

松柏桑棠自作薪   松柏も 桑棠も やがては薪となる

只看片鏡照行路   只看る 片鏡の 行路を照すを

          ( 去声「七遇」の押韻 )

<解説>

 [語釈]
「玉幡」   :玉の飾りのついたはた。
「玲」     :玲々。美しい金属音を表す。
「颯」     :颯々。風の吹く様。
「野水孤舟」:起句「玉幡」との対比。
「松柏」   :常に青葉を湛える。万代・永遠の象徴。
「桑棠」   :扶桑:東を表す。落棠:西を表す。合わせて一日。
「自作薪」  :「作」は成り行きで成る。因みに「為」はわざわざ成る。
   前作の「松柏摧為薪」は常套句としてあまりに狎れ過ぎの感有り。
「只看」   :前作の「冀磨」は道徳(儒教)に過ぎる。
   神秀の「身是菩提樹、心如明鏡台。時時勤払拭、勿使惹塵埃」より
   慧能の「菩提本無樹、明鏡亦非台。本来無一物、何処惹塵埃」を好む。
「片鏡」   :不十分な自己の意でもある。
「行路」   :起句「難」と合わせ読み 李白「行路難」を連想せしむ。

・弘法大師『遍照発揮性霊集』巻第七「六四:菅平章事の為の願文」より。
・「時」をテーマにして時を直接表す文字を使わずに作詩してみました。
・破格の仄声押韻ですが、「時」という「三心不可得」の微妙な詩興の脚韻には通常の平声を用いる気にはなれませんでした。
 古来仄声押韻の詩に尋常ならざる想念が込められているのは、韻律を確立したとされる杜甫の詩においても然りであります。






















 第27作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 「目を閉じて詩を創る」の第二作目だそうです。

作品番号 2000-27

  観想夕陽      夕陽を観想す  鮟鱇

無浮無想未無心   浮かぶなく想うなくも 未だ無心ならず

無學無錢有酔吟   学なく銭なくも 酔吟あり

有限有情無夢境   有限の有情に夢境なくも

山河有藝夕陽沈   山河に芸あり 夕陽沈む

          ( 上平声「十一真」の押韻 )

<解説>

 眼を閉じ、耳をふさいで何が残るかを考えた第二作です。
 眼を閉じ、耳をふさいでも、人間には歌う心や夢境がまず残るように思います。しかし、人間は有限であり、やがて尽きます。禅の境地では夢境さえも滅するのでしょう。そして、そのあとに何が残るのか。残るものがあるのか。残るものはある。そんな気持を詩に託しました。
 禅うんぬんについては、わたしには最後に残るものがあると思えますので、この詩は、いわゆる「無我」をめざす心境を歌うつもりのものではありません。念のため。

 「無浮無想」:先日、中国の方から「浮想」という言葉を教えてもらいました。「空想する」とほぼ同じ意味のようですが、「想いを浮かべる」あるいは「浮かぶ想い」というイメージが「空想」よりもおもしろく、日本語としては熟していませんが、使ってみました。

<感想>

 鮟鱇さんの究めようという姿勢には、本当に頭が下がります。
 目を閉じても見える風景もあれば、耳をふさいでも聞こえる音楽もあるでしょう。触らなくとも感じる痛みも有れば、語らなくても伝わるいたわりもありますね。
 心に浮かぶ様々なものの中から、「妄想」と「詩心」を峻別することが詩人の使命なのかな?、と最近ふと思います。
 詩についてですが、転句までとても言葉が選ばれていて印象が強く出来上がっています。結句の「夕陽沈」の主語述語の終わり方が現実っぽくて気になります。名詞で終えて余韻を残したいと思いますが、いかがでしょうか?

2000. 2.20                 by junji





















 第28作は 青巒 さんからの作品です。

作品番号 2000-28

  山寺探春      山寺に春を探ねる  青巒

磴道紅粧凭女牆   磴道の紅粧 女牆に凭り

春融芳靄汎叢篁   春は融け 芳靄 叢篁に汎う

山腰浄境無人影   山腰の浄境 人の影無く

只看孤禽囀繞廂   只看る 孤禽の囀して 廂を繞るを

          ( 下平声「七陽」の押韻 )

<解説>

 養痾、老妻と閑歩するのが日課となっている昨今、一日足を延ばして近郊の山寺に春を探ねる。
 山門に続くひめがきに寄り掛かる紅梅、竹藪の奥には、うっすらと靄が汎っている。
 寂とした浄境、人の影すら無い。突然、一羽の山鳥が一叫、廂をかすめて何処かへ飛び去った。
 長閑な春の一時、艶、幽、静、動と欲張ってみました。

<感想>

 春の山寺の穏やかな景色と、そこをゆったりと歩く青巒さんご夫妻の姿が目に浮かぶような一首ですね。
 転句の「春融」の表現が素晴らしく、私は机の前でこのまま、春の山の中に自分が消えてしまいそうな気がしました。
 ただ、結句の「只看」が冗語ではないでしょうか。特にその後の「孤禽囀」との関係を考えると、少なくとも聴覚の後に視覚を持ってきたいと思いました。

2000. 2.20                 by junji





















 第29作は 羊羊 さんからの初めての投稿です。
漢詩創作も10年以上のキャリアをお持ちのベテランの方です。昨年のトルコ(土耳其)大地震に際しての2作品です。
 尚、「語釈」は私の判断で付けさせていただいたものです。

作品番号 2000-29

  土耳其大地震有感        羊羊

唐突轟音断夢魂   唐突の轟音 夢魂を断ち

竦然忘我市民奔   竦然忘我 市民奔る

砂噴地裂崩群屋   砂噴き地裂けて 群屋崩れ

海嘯波狂流衆村   海嘯き波狂いて 衆村流る

親族散離何飲恨   親族散離 何ぞ恨みを飲まん

家財湮滅竟無言   家財湮滅 竟(つい)に言無し

世間含悔疎天誡   世間含悔 天誡を疎んず

日蝕依然殃禍源   日蝕依然 殃禍の源ならん

          ( 上平声「十三元」の押韻 )

[語釈]
「竦然」   : 恐れて立ちすくむ状態
「殃禍源」  : 天が下す災厄の源






 第30作も 羊羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-30

  土耳其大地震有感(二)        羊羊

工人惑利用虚材   工人利に惑いて 虚材を用い

蟻垤高軒迅速摧   蟻垤高軒 迅速に摧く

見矣平然羅馬壁   見よ平然たり 羅馬の壁

舊時層塔屹崔嵬   舊時の層塔 屹として崔嵬

          ( 上平声「十灰」の押韻 )

[語釈]
「蟻垤」   : 蟻の塚のように、土を積み上げた家
「崔嵬」   : 建物が高くそびえる様子


<感想>

 トルコの大地震は昨年の8月でしたでしょうか。台湾の大地震と重なって起きたことと、新聞の崩れた家屋の写真をよく覚えています。
 天災である「殃禍」の部分と、(二)で詠われた人災の部分と、災害には常に二つの面があります。古来、庶人はこの二つの災害に幾度も遭いながら、その度に立ち直ってきたのでしょう。
 (一)の詩は、災害の恐ろしさや、その場の人々の姿が目に浮かぶ詩だと思います。
 (二)の方では、「迅速」について推敲を進めておられるとのこと、確かに「迅速」という行為の速さを表す言葉と、「摧」という自然の現象を表す言葉とのバランスを考えると、「瞬息」や「忽」を用いた熟語などが適しているかもしれませんね。

2000. 2.26                 by junji