作品番号 2000-136
秋日山行一六韻 五言排律
銀水橋頭去 銀水橋頭に去り
夙川渓下之 夙川渓下を之く
行過妙竜寺 行き過る妙竜寺
流憇北山池 流憇す北山池
触景停藜杖 景に触れては 藜杖を停め
逢人勧酒巵 人に逢っては 酒巵を勧めん
幽禽枝杪轉 幽禽は枝杪に轉じ
怪石路傍欹 怪石は路傍に欹つ
野興興堪味 野興 興 味うに堪え
病躯躯易疲 病躯 躯 疲れ易し
途斜労兀兀 途斜にして 労れて兀兀
脚重歩遅遅 脚重くして 歩むこと遅遅たり
徙倚林堤静 徙倚すれば 林堤静かに
崔嵬松磴危 崔嵬として 松磴危し
登楼久延目 楼に登りては 久く目を延べ
凭檻獨支頤 檻に凭っては 獨り頤を支う
短褐驚涼意 短褐 涼意に驚き
軽霜冒素肌 軽霜 素肌を冒す
悠揚暮鐘断 悠揚 暮鐘断ゆ
迢逓遠岑奇 迢逓 遠岑奇なり
秋思牽愁切 秋思 愁を牽くこと切なり
老夫懐旧悲 老夫 旧を懐えば悲し
酒醒空掻首 酒醒て 空く首を掻き
日暮坐低眉 日暮て 坐に眉を低る
寂歴拊衿処 寂歴 衿を拊つ処
蕭条落葉時 蕭条 葉を落す時
西風碧梧砕 西風 碧梧を砕き
晩照錦楓宜 晩照 錦楓に宜し
写景須探句 景を写すには 須らく句を探し
遣心無過詩 心を遣るには 詩に過ぐる無し
此情何所似 此情何の似たる所ぞ
逢着舊親知 逢着す舊親知
<解説>
長い詩を投稿しまして申し訳有りません。
五言の長律の詩作は、私にとっての最終目標です。内容的に不具合が有りましたら御批正願います。
<感想>
詩の長さを感じさせない、謝斧さんの表現力の発揮された詩ですね。
対句としては、「野興興堪味/病躯躯易疲」の言い回しなどは、工夫されていて面白いと思います。また、「徙倚林堤静/崔嵬松磴危」なども印象深いですね。
全体の構成としても、叙景と作者の行為がバランス良く配置されていて、山の中を私自身が実際に散策しているような現実感がありました。
2000.11.10 by junji
作品番号 2000-137
三秋吟得二千首
大家一首値千金, 大家の一首、値(あたい)千金
凡士三杯有幾吟? 凡士の三杯、幾吟有りや?
二十百詩浮酒盞, 二十百詩、酒盞に浮かび
今宵又映月蛾臨。 今宵また映ず、月蛾の臨むを
<解説>
詩を作るにあたっての私の初志のようなものとして、凡才はどう詩を作ったらよいか、というテーマがあります。ダイアを見つけるには石を多く拾うこと、つまりたくさん作る、詩に関するえらい人のえらそうな話は半分だけ感心する、つまりわが身は俗人であることを忘れず精進努力する、などなどを思いながら、とにかく作り続けています。
現在の目標は詩詞3000首。3000を越えたら、詩詞は実際に作ってみないとわからないこともあると思いますので、少しはその辺のことについて、愚説を述べたいと思っています。
今回の拙作は、2000首のマイルストーンを超えた記念。自分なりに工夫したところもありますが、2000作ってもまだこの程度かと、わたしの凡才をお笑いいただければ幸いです。
なお、題にある「三秋」は、詩を作り始めて三度目の秋、のつもりです。
<感想>
2000詩詞、おめでとうございます。
鮟鱇さんの詩を初めて見せていただいてから、もう2年になるか、と思います。旺盛な創作力はまさに驚嘆、垂涎の極みです。
この夏に入院生活を送るにあたって、無聊を解消するためにと、私は実は、鮟鱇さんにならって毎日詩を一つずつ創ろうと決心していました。ところが、とんでもない話で、とてもとても。数日で挫折してしまいました。何が足らないか、やはり感性だと思いました。
感動のない所に詩は生まれない。そして、日々感動を得るためには、柔軟で敏感な感性が無いといけません。単調な病院生活の中でも何か一つでも感動するものを見つける、それがなかなか出来ない私は、つくづくと自分の鈍さを痛感しました。
鮟鱇さんの日々の鍛錬と、その豊かな感性による2000首、あらためてお祝いします。
今回の作は、まさに鮟鱇さんの作品という感じで、数字をちりばめながら、酒も忘れず、楽しみながら詩とたわむれる姿がうかがわれますね。
起承転結の関係から言うと、転句よりも結句の方が転換を強く感じます。七言詩ですので、転句と結句の内容を入れ替えた方がまとまりが出るように思います。五言詩ですと、起句から流れるように結句まで行く場合が多いですが、七言では、転句で内容の転換をしておかないとやや間延びします。
2000.11. 10 by junji
大家一首値千金, 大家の一首、値(あたい)千金
凡士三杯促幾吟? 凡士の三杯、幾(いく)吟を促さん?
浮盞銀蟾有天語; 盞に浮く銀蟾に天語あり、
二千詩似酔人琴。 「二千の詩は似たり、酔人の琴」と。
鈴木先生にご指正いただき、改作しました。旧作、起承でエネルギーが燃え尽きてしまい、転結がおろそかになりました。改作もどこまでのものかです。
「浮盞」は小細工かもしれません。素直に「仰看」でよいようにも思います。いかがでしょうか。
結句、「酔人の琴」は、本人はよい気持ちかも知れないが、周囲は聞くに耐えない琴の音のつもりです。転句、月の呼び名には嫦蛾(月の女神)や月兎(月のウサギ)など、実に多様な表現のしかたがありますが、結句の天語の内容にふさわしいのはやはり銀蟾(銀色のガマカエル)でしょう、これは小生の感性ですが。。。
2000.11.17 by 鮟鱇
作品番号 2000-138
桂殿秋 博多人形
塵不穢,
玉為肌,
几上彫塑未知悲。
紅唇向誰語,
秋恋春謳,
歳月遅遅。
<解説>
この作品は或るご婦人が欧州に赴任される送別に贈った作品です。漢詩詞作品、
作ったら大いに利用しましょう。べた誉め大いに結構。
<感想>
作ったらどんどん発表して、どんどん誉め合いましょう。私も大賛成です。
漢詩(詞)はなかなか発表する機会が少ないし、ましてや、他の人からの感想や意見を聞く機会がなく、寂しい思いをしていました。このホームページは、そうした現状をすこしでも上向きになるようにと心掛けるものです。
詩も意見もどんどん出し合いましょう。
2000.11.10 by junji
作品番号 2000-139
霧中橋上望江山 霧中 橋上に江山を望む
寒雨爲霧江上幽 寒雨霧を為して江上幽たり
霑新蕣葉獨沈愁 霑いて新たなる蕣葉独り愁いに沈む
霧中迴首城如月 霧中首を迴らせば城月の如し
碧水逾深晝夜流 碧水逾々深く昼夜流る
<解説>
ローカルな話題になって申し訳ありませんが、金華山の頂上にある岐阜城は夜になるとライトアップされるために、霧が出たりすると山が隠れて城だけ浮き上がって見えます。
先日、夕方暗くなってから友人と帰宅の途についた時のこと、その日は雨が上がって辺りに霧が立ち籠めていたのですが、金華山の麓を流れる長良川にかかる橋をわたっていた時に友人の一人がそのような城を見て、「月かと思った」と言ったのを聞いてこの詩を思いつきました。
毎朝登校する時にも、急いでいなければゆっくりと四季折々の風景を楽しむのが一日の始まりのささやかな楽しみです。
<感想>
舜隱さんの、感興が素直に表現された詩ですね。
今回の詩で気の付いた点を挙げますと、
@起句は、叙景描写としてはとても良いのですが、平仄の点で四字目の「霧」が仄声ですので、このままですと、「二四不同」の原則を破ります。転句にも「霧」の字が出てきて同字重複でもありますから、ここは「為霧」を捨てて別の言葉を入れてはどうでしょうか。
A承句は「霑新蕣葉」が、書き下しもそうですが、読みにくい言い方ですね。「新」の字を「新しい」の意味で用いているからだと思いますが、「〜したばかりの」の意味にして「新霑蕣葉」ではどうでしょう。
B転句の比喩がやや直接的すぎる気もしますが、解説を読みましたら、お友達の言葉だそうですから、これはこれで良いのでしょう。ただ、山の上のお城だということ、あるいはお城の描写をどこかで語らないと、「城如月」は理解できないと思いますよ。
岐阜市に私の高校の時の恩師がいらっしゃったこともあり、金華山に行く機会も何度かありました。天守からの眺望はすばらしく、長良川がはるかに白く輝いて見えました。山あり、川あり、豊かな自然に恵まれた環境での学生生活、充実が感じられる舜隱さんですね。
2000.11.10 by junji
作品番号 2000-140
人文
雲漢流星観 雲漢 流星を観て
人文化下天 人文 下天を化す
三章法就簡 三章 法 簡に就き
索野現遺賢 野に索むれば 遺賢 現る
<解説>
西川介山さんの「耶律楚材」を拝見し、今やはり耶律楚材だという共感をもって投稿
いたします。
現在は誠に地球的規模の危急存亡の秋であります。かかる折り、多民族国家を二百年にわたって統治し得た元帝国の礎を築き上げた耶律楚材に学ぶべきものは多々あるのではないでしょうか。
拙作は、耶律楚材の「湛然居士文集」に見られるその治世の在り方を慕って書いたものです。
[語釈]
「雲 漢」:天の川。
「下 天」:天下。
「遺 賢」:野に遺された賢人。
因みに、三年前、梅足時代に耶律楚材を詠んだ漢詩は次の通りです。
「山川草木自有色」 (1997.09.22梅足)
|長|万|風|而| |虚|楚|何|古| |万|況|虫|山|
|声|里|奪|今| |伝|材|在|来| |物|豈|魚|川|
|一|砂|草|幻| |一|元|彼|征| |万|人|鳥|草|
|発|上|民|影| |殺|朝|非|伐| |様|間|獣|木|
|孤|雁|離|多| |実|二|而|異| |無|莫|更|自|
|馬|飛|群|才| |志|百|此|端| |二|彩|発|有|
|嘶|来|鶏|踊| |士|年|是|国| |生|心|声|色|
下平声「八庚」上声「四紙」上平声「八斉」換韻。古体詩。
[語釈]
「彩 心」 :多彩な心。
「虚伝一殺」:偽りの言い伝えを一掃する。
「而 今」 :にこん。ただ今。
<感想>
耶律楚材については、西川介山さんの詩の時に書きましたが、皆さん、いろんな思いを持っていらっしゃるのですね。
今回は、耶律楚材の代表的な詩を紹介しましょう。
西域河中十詠 其の六
寂寞河中府 寂寞たり 河中府
西流緑水傾 西流 緑水傾く
衝風磨旧麦 衝風 旧麦を磨く
懸碓杵新粳 懸碓 新粳を杵す
春月花渾謝 春月 花渾べて謝し
冬天草再生 冬天 草再び生ず
優游聊卒歳 優游 聊か歳を卒へん
更不望帰程 更に 帰程を望まず
わびしげなサマルカンド、
緑の水は西へ傾いて流れる。
強い風を受けて風車は古い麦を粉にし、
懸碓は新しい米を杵でつく。
春の月に花はみな散り果て
冬空に草はまた萌え出す。
かりそめにものんびりと年を終えたいものだ、
この上帰ることも望まないで。
明治書院「中国の名詩鑑賞9」より引用
2000.11.10 by junji
作品番号 2000-141
商暮雑詠
忽到黄昏立包廚 忽ち黄昏に到り 包廚に立ち
購来珍異有秋娯 購い来たる珍異に 秋有りて娯しむ
憐他松菌華州産 憐れむ他の松菌 華州の産
遠路旬余香欲無 遠路旬余 香無からんと欲す
<解説>
[訳]
秋は日が落ちるのもはやく、私は台所に立って料理を作っています。
まったけを買ってきて、秋の風味をたのしんでいますが
中国産なもので香もすくなく、そのうえ遠くからやってきたせいか、収穫から日にちもたっているので、香もなくなって少し残念です
<感想>
こうした生活詩は、女性ならではの柔らかさが感じられ、とても良いですね。特に承句の詠み出しは、もうこの一句で場面が目に浮かぶような、素晴らしい句だと思います。
結句の「香欲無」がやや直截的で、せっかくの「まったけ」がかわいそうですね。「わずかの香りを楽しんだ」というような終わり方にした方が、全体のまとまりも落ち着くのではないでしょうか。
2000.11.10 by junji
作品番号 2000-142
秋懷
秋風老楓樹 秋風 楓樹を老わしめ
墜葉堆霜埜 墜葉 霜野に堆し
閑在嘆時移 閑に在りて 時の移るを嘆じ
愁心與誰語 愁心 誰と與に語らん
<解説>
「秋風老楓樹/墜葉堆霜埜」 「楓樹」は私に擬しています。
仄韻の五絶です。
起句承句は対句で、起句は仄声ですが、踏み落としです。
<感想>
介山さんの五絶は初めてですね。用語も統一された情を表していて、「秋懐」の趣を十分に伝えている詩だと思います。
起句承句を対句としてとらえるならば、「老」(動詞)と「堆」(形容詞)の対応と、起句の末が仄声という点がどうでしょうか。転句の「閑在」は、「在閑」の方が趣意は明確になると思います。
2000.11.17 by junji
作品番号 2000-143
擬和 『霧中橋上望江山』
江上聚陰万象幽 江上 陰を聚めて 万象 幽
路中俯首一心愁 路中 首を俯せて 一心 愁
岐城泛霧疑山月 岐城 霧にうかんて 山月かと疑う
昼夜照臨幾歳流 昼夜 照臨 幾歳流る
<解説>
今回は、早速 舜隱さんの『霧中橋上望江山』に次韻してみました。
本来、原詩の詩興と異なるものとすべきですが、その詩興「金華山の岐阜城は夜になるとライトアップされるために、霧が出たりすると山が隠れて城だけ浮き上がって見え、 (中略) そのような城を見て、『月かと思った』」のにそそられて失礼ながら同じ詩興で書いてみました。其れ故「擬」と冠しました。
[語釈]
「 江 」 :長良川。
「 聚 」 :集める。
「 象 」 :形。草木など形有るもの。
「 俯 」 :ふせる。うつむく。
「 首 」 :こうべ。
「一心愁」:舜隱さんの筆名にみる「致君尭舜上(杜甫『奉贈韋左丞丈』)」未だ成らざるの思いを承けてみました。
「 岐 城 」:岐阜城。中国の周の都に在った岐山に習うべく命名されたと聞いております。
拙作『二城 (2000/03/16) 』では「中原望岐山」と詠んでおります。
「 泛 霧 」:霧にうかぶ。
「疑山月」:山上に『ライトアップ』された岐阜城が霧中にぽっかり浮び上がった様を仰ぎ見て『月かと思った』情景。
李白『静夜思』
「牀前看月光、疑是地上霜。挙頭望山月、低頭思故郷」
「 照 臨 」:原義:日月が四方を照らす。天子が天下をおさめる。
此詩では、「昼は太陽に夜は照明に照らされた岐阜城が濃尾平野を見下ろしている様」。
さらには、「尭舜に習うべきあるじの治世」を象徴。
「幾歳流」:築城の思い 歳月を経て如何と問う心境。
<感想>
幕末から明治初期の詩人、森春濤の代表作『岐阜竹枝』、
環郭皆山紫翠堆 郭を環つて 皆山紫翠堆し
夕陽人倚好楼台 夕陽人は倚る 好楼台
香魚欲上桃花落 香魚上らんと欲して 桃花落つ
三十六湾春水来 三十六湾 春水来る
は、岐阜の城下の特徴を余すところ無く詠んだ素晴らしい詩です。
舜隱さん、三耕さんが現代の岐阜城の景を詠い、新しい詩興を描き出したと思います。ストレートに景を表出した舜隱さんの詩も、伝統の詩情を踏まえた三耕さんの詩も、どちらも良い詩で、こうしたやりとりが本当に詩の楽しみですね。
2000.11.17 by junji
作品番号 2000-144
春雨
雨脚濡湖畔 雨脚湖畔を濡らし
白蛇泳水辺 白蛇水辺を泳ぐ
不知天地別 知らず天地の別るるを
春色美如煙 春色美しきこと煙るがごとし
<解説>
春の茫々とした美しさを漢詩にしました。
湖畔に細かな雨が降って、空と地の区別がつかないような状態をよんだつもりです。
<感想>
春雨のやわらかな情景が言葉とうまく融合した、女性らしい詩情の現れた詩ですね。初めての漢詩創作とは思えません。他の短歌や俳句などを愛好なさっていらっしゃるのでしょうか。
「指導」などとは行きませんが、今後の参考に若干の感想を書かせていただきます。
漢詩独特のきまりである平仄については、よく調べていらっしゃるようで、間違いはありません。ただ、転句(第三句)に「天」の字が使ってありますが、この字は押韻に用いている「辺」「煙」と同じく「下平声一先」に属する字ですので、せっかくの二句目と四句目の脚韻という音調効果が薄れてしまいます。押韻と同じ韻目の字は他の所では用いる(「冒韻」と言います)ことは禁じられていますので、避けましょう。
結句の「春色美」については、わざわざ「美」と言うのは必要ないでしょう。詩の中の様々な素材を用いて「美」を伝えるのが詩の本筋です。
平安末期を代表する藤原俊成という歌人がいましたが、その人の歌
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
を、同時代の俊恵という人が批判して、
「かの歌は、『身にしみて』といふ腰の句の、いみじう無念に(残念に)覚ゆるなり。これほどになりぬる歌は、景気を(情景を)言ひ流して、ただ空に(心の中に)身にしみけむかし(身にしみたことだろうなぁ)と思はせたるこそ、心にくくも優にもはべれ。いみじう言ひもてゆきて(言葉が過ぎてしまって)、歌の詮(歌の要・中心)とすべきふしを、さは(それでは)と言ひ表したれば、むげにこと浅く(むやみに内容が浅く)なりぬる。」
と言ったという話が『無名抄』という鴨長明の本に載っています。
この俊恵の批判は、簡単に言えば、「歌の本趣である『身にしみて』ということを、言葉で言ってしまっては駄目だ」ということになるでしょう。「寂しい」「悲しい」「美しい」、そう言った感情は言葉でくくってしまうと、個としての、その瞬間の情が薄れてしまいます。どのように「寂しい」のか、他の人の「寂しさ」とどう違うのか、それをいかに伝えるかが私たちが詩を書く根本です。桂光さんの「美」も同じです。
では、詩では全くそうした言葉は使ってはいけないのか、というとそうではないわけで、今述べた点を踏まえた上で意図的に使う場合があるわけですが、それはまた、次の機会にしましょう。
承句の「白蛇」は、この素材を何故詩の中に入れたのか、全体の中での役割が私には分かりませんでしたので、解説なりで言っていただけると良かったかと思います。
2000.11.17 by junji
作品番号 2000-145
電脳世紀
電脳騒街上 電脳街上を騒がし
市民此砕身 市民此に身を砕く
卒然花木咲 卒然として花木は咲けども
忙殺不看春 忙殺として春を看ず
<解説>
コンピューターがさかんになって私を含め、人々がそれに夢中になっている間に、実際の春が来たことにも気づかないことをやや皮肉的に漢詩にしました。
私自身、コンピューターによってずいぶん生活が便利になりました。
例えば、メール一つで、このように漢詩を投稿して指導を仰ぐこともでき、なんだか本当に世界が広がった感じです。ただ、その反面、自然とのふれあいが減ったのもたしかです。ときどき季節の移り変わりに気づいてはっとすることもあります。
<感想>
仰る通りで、私も毎日の生活の中で、自然と接する機会がどんどん減少しています。その結果、季節の移ろいにも気付かずに過ごすことがとても多くなってますね。
一体何が原因でこんなに自然と縁遠い生活になってしまったのかを考えることがよくあります。私の場合には、@通勤が車であること、A散歩する時間帯が夜であること、Bコンピュータに向かう時間が長すぎること、C食べ物に旬が無くなったこと、などが挙げられるのですが、でも、何よりも大きいのは自分の関心が薄れていることのように思っています。
きれいな花が咲いたことや、紅葉や落葉、手水鉢の氷、見てはいるのにそうしたことへの感動が弱くなっている自分を痛感します。いけませんね、これでは。
さて、桂光さんの2作目、転句の「卒然」について。一般的に「花木」は急には咲かないわけですから、表現として目に付きます。
「そうか、コンピュータに夢中になってしまって花を見ることも無かったから、急に咲いたように見えたのか!」
と理解しましたが、そうなると、結句の内容と今度は重複してくるわけです。転句のここはあまり先を示さずに、「満園の花だ」くらいの内容に抑えておいて、結句で一気に収束させた方が、せっかくの着想がより生きると思います。
ただ、内容の重複は「強調」という効果もあるわけですので、作者の意図がそこにあるということでしたら、改めることはないと思います。機知に富んだ詩ですので、このままでも他の人に示し得る作品だと思います。
2000.11.18 by junji
作品番号 2000-146
陽關詞 折楊柳
舉杯相酌涙空垂 杯を舉げ相い酌めば 涙空しく垂れ
昔日清遊語一悲 昔日の清遊 語ること一に悲しき
為君詠彼折楊柳 君が為に詠ぜんとす 彼の折楊柳
休説明朝分手時 説くを休めよ 明朝手を分かつの時
<解説>
鮟鱇先生が陽関詞を投稿されましたので、私も以前に作った陽関詞を投稿しました。
普通の平仄とはことなりますので平仄を記しておきます。平仄は王維の陽関曲と同です。
渭城朝雨軽塵 ●○○●●○◎
客舎青青柳色新 ●●○○上●◎ 上は 上声
君勧更尽一杯酒 ●○●●入○上 入は入声、上は 上声
西出陽関無故人 ○入○○○●◎ 入は入声
拙詩の平仄は、
舉杯相酌涙空垂 ●○○●●○◎
昔日清遊語一悲 ●●○○上●◎
為君詠彼折楊柳 ●○●●入○上
休説明朝分手時 ○入○○○●◎
です。
<感想>
清遊をし給へ 小春日の中へ
この句は、私が今回病気で療養している際に、職場の方が励ましのに送って下さったものです。謝斧さんの詩を読んで、同じ「清遊」という言葉を見、何か通じる不思議なものを感じました。
「陽関詞」の平仄に、四声の点まで気を配るべきか否かについて、鮟鱇さんと謝斧さんのお手紙のやりとりが続いています。初心の方々にはやや難解かと思い、この投稿欄には掲載していませんが、後日、機会を見てご紹介しましょう。
別れの詩は、心の高まりを詠いあげて、まさに盛唐詩の最も得意とするところですが、表現を抑制しながらも切々と詠う『三体詩』の作品も私は好きです。
2000.12. 1 by junji
作品番号 2000-147
蠹魚嘆 蠹魚の嘆
我在長安作蠹魚 我は長安に在りて 蠹魚と作るも
夢為飛将逐穹廬 夢に飛将と為りて 穹廬を逐う
男児莫失図南翼 男児 失う莫れ 図南の翼を
馬上何須万巻書 馬上 何ぞ須いん 万巻の書
<解説>
[訳]
何の才も無い学生の身。
太平の都にて書籍を繙かねばならぬ日々。
されど夢の中では竜城の飛将軍に扮して匈奴に対することもある。
男子たるもの、図南鵬翼の野心を失ってはいけない。
移ること急なる情勢にあって、ちまちまと本など読んでいられようか。
転句の「図南翼」は、承句の「飛将逐穹廬」に釣り合わないのが難。
功を樹て南の故国に錦を飾るの意、ないしは、次なる南征の志、と解釈するのは強引すぎるように思います。
結句は、実は半ば開き直り。
学業に倦み、帳面にも埃を積もらせる我が身を恥ず一方、ささやかな言い訳か。それで「何須万巻書」と。
――すると、転句が空しくなっちゃうかしら。
日頃の研鑚あっての大志ですから。
<感想>
少し語句の説明の補足を私の方からしておきましょう。
題名にもあります「蠹魚」は、巣くう虫、「紙魚」のことですが、「ここは書物にのめりこんで才能を埋もれさせる」ことの喩えでしょう。
「飛将」 「穹廬」は、匈奴に攻め入った李広将軍の故事から持ってこられたもの、「穹廬」は「パオ」のことですが、ここでは「匈奴」そのものですね。
「図南(鵬)翼」は、荘子からの引用ですが、「鵬が大志を抱いて南海に飛び立つ」ことです。
感想ですが、一句ごとに見ると破綻もなく、分かりやすいのですが、全体の構成として結句が無理矢理という感じがします。
現実は「蠹魚」であり、「飛将」は「夢」の中でのこと、大志は胸に秘めて雌伏の時を過ごしている、起句から転句まではそんなイメージなのですが、結句で一気に「書物を捨てよう」となると、「あれ、いつの間に?」という感じでしょうか。
ただ、「蠹魚」である現実から今から抜け出す決意の詩であるとするならば、そんなに違和感はないかもしれません。
もう一点、結句の「馬上」は、現代中国語では「mashang:すぐに」という意味ですが、漢詩で用いた場合には、そのまま「馬の上」ととらえることになるでしょう。時の流れの速さを表すような他の語を探してみたらどうでしょうか。語の成り立ちについて詳しく知りませんので間違ってたら申し訳ないですね。用例があれば教えて下さい。
全体としても、力強く、生命力のある言葉に満ちた作品だと思います。次作にも期待します。
2000.12. 2 by junji
作品番号 2000-148
偶作
天意又傷民意, 天意、また民意を傷(いた)め,
大都徴税養村。 大都に徴税して村を養う。
滅私奉鄙台宰, 滅私奉鄙の台宰,
帰郷沿道方言。 帰郷沿道の方言。
<解説>
七絶のフォーマットをお借りしての六言絶句の投稿、お許しください。六言絶句は、全対格とすべきですが、起・承句は対句になっていません。
20世紀もいよいよ最後。終戦直後に生まれた私の50年を越える半生は、おかげさまで太平無事の恩恵に浴することができました。これも、戦後の経済の発展のおかげです。
しかし、昨今の政治の状況を見ますと、先行きとても不安です。
戦後の自民党政治の基本構造は、戦後日本の経済発展の余力たる税収で、日本全体を豊かにすることであったように思われます。そのおかげで、今日では日本全国到るところ、立派な道路が網の眼のように張りめぐらされております。力のある政治家が出た地域は特に。
政治、あるいは税金というものは、本来、富の再配分にあります。だから、力のある政治家は、納税額の多い地域ではなく、税金の恩恵に浴することの多い地域から生まれるのでしょう。近い将来、東京を地盤とする総理大臣が出るのかどうか。。。
そんなことを考えながら作った詩です。悲憤慷慨ではありません、少々悲痛な諷刺をめざしたつもりです。
[語釈]
「 大 都 」:大都会
「滅私奉鄙」:「滅私奉公」をひねっています。「鄙」は都市ではない地方
「 方 言 」:特定の地域に特有の言葉。日本語でいう「お国言葉」
<感想>
相変わらずの利益ぶん取り型の予算編成、一億総肩すかしの内閣不信任案採決、海の向こうでは二転三転の大統領選挙、このまま21世紀に向けて突入のカウントダウンが始まっています。
今私は療養のために長野県の月川温泉という所に来ていますが、先日、たまたま露天風呂で名古屋からいらっしゃった方とお話をしました。その方は、多分60歳くらいの年齢だと思いますが、しばらく山に上る月を眺めながら話をしていましたところ、その方がポツッと、「まあ、いっぺん、日本はくちゃくちゃにならなあかんよ」と言われて、私はびっくりしました。
温泉の露天風呂で、初めて会った人と政治向きの話はあまりしないとも思うのですが、その方は静かな口調で、「首相でも大統領でもええで、選挙で選べるようにするとええんだわ。あんな派閥の都合みたいなことばっかで・・・」とか、「税金納める国民のための政治をしてくれる政治家も役人も居らん」と、語り続けておられたのでした。
政治や国のあり方への不満が、こうした場でふいに語られることの意外さ、と言うよりも、政治がまさに日常的な話題になっていることに、私は妙な感動をしました。
中国古代の帝王である堯は、国民に政治を意識させない政治を行った聖王とされ、善政のひとつの範とされています。現代日本の政治はその点から見れば、全く逆の範となるのかもしれませんね。
2000.12. 3 by junji
作品番号 2000-149
和中山典之囲碁棋士作南洲歌
昔日維新残夢長 昔日の維新、残夢長く、
今朝廟決促帰装 今朝の廟決 帰装を促す。
人生否泰如棋局 人生の否泰 棋局の如し。
跋渉山川鍛若郎 山川を跋渉して若郎を鍛えん。
百錬精兵離学舎 百錬の精兵、学舎を離れ、
一志盟友出家郷 一志の盟友、家郷を出づ。
進軍植木途高低 植木に進軍して途(みち)は高低。
布陣田原気勢揚 田原に布陣して気勢揚がる。
<解説>
中山典之囲碁六段の新いろは歌(48字みな使い二度は使わない)の漢詩訳です。
元歌は
維新に滅び我を得ず
希みつなげて兵ねらむ
植木行く稚児お供せよ
雨降りやまぬ田原坂
「週間碁」「囲碁研究」に所載です。
[語釈]
「廟決」:政府の決定
「帰装」:帰り支度
「否泰」:幸、不幸
「若郎」:わかもの
「田原」:田原坂
<感想>
平仄については、
六句目「一志盟友出家郷」、平仄は●●○●●○○となり、「二四不同・二六対」の原則から外れています。
また、七句目「進軍植木途高低」は平仄「●○●●○○○」となっていて、「下三平」の禁忌を冒しています。
それぞれ「志」「低」を別の字に換えれば解決すると思います。
元歌の内容をここまで拡げられた手腕に感嘆! 素晴らしい力技だと思います。次作を楽しみにしています。
2000.12. 3 by junji
作品番号 2000-150
秋懷 其二
癡雲作淒雨 癡雲 淒雨と作り
風動後庭侵 風動 後庭を侵す
秋蛬凍檐宇 秋蛬は 檐宇に凍え
幽齋夜氣深 幽斎 夜気深し
<解説>
[訳]
昨日来の雲は雨となり
冷たき風は我が家の庭を吹く
キリギリスは、寒さのせいか、軒先で凍えて、じっと動かず鳴かないでいる
私のいる書斎は夜も深くなっている。
<感想>
起句の「淒雨」というこの一語で、まず秋も深まる冷たい雨を提示し、全体の音調を作り出していると思います。それに先立つ「癡雲」が、意味としては「嫌な感じの雲」ということでしょうが、雨の先触れのような感じで、ここに作者の感情を表す言葉を用いることに、評価が分かれるのではないでしょうか。
私は先にも言いましたように、「淒雨」がとても生きているように感じますので、ここは雲の形態を言うに留めておいて、後の語をより印象強くしたいように思います。「癡雲」という言葉自体が「秋懐」という寂寥の感覚に合わないように思うからかもしれません。
全体としても、とても鋭敏な感覚がうかがわれ、転句の素材の配置も工夫されていて、面白く思いました。
2000.12. 5 by junji