作品番号 2000-1
漢家中興 三耕
漢家中興両千年 漢家中興 両千年
北伐南征幾月円 北伐南征 幾月 円かなる
滄海済時帆莫恙 滄海済る時 帆 恙なく
錦官城裏元宵天 錦官城裏 元宵の天
<解説>
[語釈]
「漢家」 :漢王朝。
「両千年」 :二千年。
「円」 :まどかなる。
「済」 :わたる。
「莫恙」 :つつがなし。
「錦官城」 :蜀漢の成都。
「元宵」 :陰暦正月十五日の晩。
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作品番号 2000-2
恭賀新禧 鮟鱇
龍跨全球挂彩虹 龍は全球を跨いで彩虹を掛け
鳳孵新卵舞祥風 鳳は新卵を孵(かえ)して祥風に舞う。
千禧年際誰無願 千禧年際、だれか願うこと無きや
当楽和平四海同 当に和平、四海に同じなるを楽しむべきと。
<解説>
[語釈]
「全球」 :現代中国語で「全地球、世界」のこと。
「千禧年」 :「千年紀」のつもりです。
「和平」 :現代中国語で「平和」を意味します。講和ではありません。
みなさまへの年賀として作りました。
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作品番号 2000-3
新春書懐 謝斧
紛紛世上歳華新 紛紛たる世上歳華新しく
一朶凌寒蝸舎春 一朶寒を凌いで蝸舎春なり
野老不関時事否 野老は関せず時事否なるを
楽天知命自甘貧 天を楽しみ命を知りて自のずから貧に甘んず
<解説>
[語釈]
「楽天知命」: 境遇に安んじる 易 繋辞
[訳]
みだれた世間にも新しい年がやってきました。
私が住んでいる粗末な家にも梅の花が寒さに堪えて
(まるで私のように)咲いて春がおとずれを知せます。
わたくしのような田舎のおやじなどは、世情が悪いなんかは興味ありません。
ただ天が与えられた運命を楽しんで、貧乏は貧乏なりに分を守って楽しみます。
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作品番号 2000-4
謹謝万客(次鮟鱇先生) 謹んで万客に謝す 桐山人
電絡衢中韻事交 電絡衢中 韻事の交
万来騒客列詩豪 万来の騒客 詩豪に列す
清談更好新春旦 清談更に好し 新春の旦
満座多情雅趣高 満座多情にして 雅趣高し
<解説>
[訳]
インターネットの交錯する中での詩歌の交際、
次々にやって来る漢詩好きの方達は
皆詩豪と呼ぶにふさわしい人ばかり。
今日は丁度元旦の朝、
こんな日にはますます世俗を離れた話をするのが楽しいものだ。
お集まりの皆さんは感性豊かで
風雅な趣がいよいよ高まっていく。
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作品番号 2000-5
新年 河東
竜騰人躍喜盈天, 竜は騰(あ)がり、人躍(おど)り、喜びは天に盈る。
万国迎来歳両千。 万国の迎え来たりし歳(とし)両(に)千。
電脳欣聞無変故, 電脳(コンピューター)、変故無きを欣聞す。
屠蘇入腹欲昇仙。 屠蘇、腹に入らば、昇仙せんと欲す。
書き下しは河東さんが書かれたものです。
「添削を」とのことでしたが、大きく直すような所はありませんでしたよ。
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作品番号 2000-6
元旦試筆 真瑞庵
人生五十有余年 人生五十有余年
霜鬢頻繁老野田 霜鬢頻繁野田ニ老ユ
点燭悠悠身世想 燭ヲ点ジテ悠悠タル身世ヲ想イ
聴鐘累々俗塵損 鐘ヲ聴イテ累々タル俗塵ヲ損ツ
時貪美酒池塘夢 時ニ貪ル美酒池塘ノ夢
閑染賦詩粗笨箋 閑ニ染ム賦詩粗笨ノ箋
花発鳥鳴江上里 花発キ鳥鳴ク江上ノ里
休言幾度楽春天 言ヲ休メヨ幾度カ春天ヲ楽シマント
<解説>
明けましておめでとう御座います。
今年もよろしくお願いいたします。
絶句を作ろうと想いましたが,上手く纏める事が出来ず律詩になってしまいました。
まだ老いたと言うには早すぎるかも知れませんが,色々な煩わしさから早く逃れて悠悠自適の人生を送りたいものだとの思いを表してみました。只,何時の事になるやら亦何時まで自然の美しさを楽しめることやら。
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作品番号 2000-7
年頭所懐 偸生
経國濟民超妄言 経国済民は 妄言を超ゆ
世人銷落総難論 世人の銷落 総じて論じ難し
寳泉新発二千兩 宝泉 新たに発す 二千両
希勿還殘守禮門 希はくは 還た残(そこな)ふ勿かれ 守礼の門を
<解説>
[訳]
世の中の政治ときたら、もう呆けたような私の理解を超えちまってるし、
世の人の変化ときたら、全く話にもなりやしない。
そうそう、新しい二千円なんてお札がでるそうだが、
絵柄の守礼門が再び疎略に扱われないことを願うばかりだ
(訳は桐山人が担当しました)
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作品番号 2000-8
除夜作 除夜の作 落塵
清鐘寂寂玉塵煙 清鐘寂寂 玉塵煙り
凛冽風刀且固泉 凛冽たる風刀 且に泉を固めんとす
茅屋題詩幽興起 茅屋 詩を題すれば 幽興起こり
満杯薄酒望飛仙 満杯の薄酒 飛仙を望む
<解説>
[訳]
降りだした雪に寂寂と除夜の鐘が渡ってくる
おりしも厳しいほど冷たい風に、今まさに氷が張ろうとしている
さて、そんな時間にあばら家で、詩作にふけっていると幽興が湧いてきて
酒を呑みながら、仙人に憧れるのであった。
(今年一年を飲み干そう・・・・・)
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作品番号 2000-9
詠龍(其の一) 謝斧
老龍未點睛 老龍未睛を点ぜず
蜿蜒濳幽邃 蜿蜒として幽邃に潜む
本非池中物 本より池中の物に非ず
蟠屈似降志 蟠屈して降志するに似たり
一得風雲去 一たび風雲を得て去らば
破壁上天肆 壁を破って上天を肆いままにする
龍驤不可覊 龍驤は覊す可からず
定知窄天地 定めて知る、天地の窄きを
<解説>
[語釈]
「未點睛」 :まだ瞳を入れていない
「蜿蜒」 :うねうねと屈曲して動く様
「破壁」 :壁画の竜に睛をいれたら忽ちにして壁を破って上天した
「龍驤」 :蛟龍が天に翔け上がる
「不可覊」 :つないでおくことが出来ない
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作品番号 2000-10
詠龍(其の二) 書き下し 謝斧
誰忘点睛描壁間 誰か点睛を忘れて 壁間に描く
池中降志潛龍蟠 池中志を降して潜龍蟠る
勿爲伏櫪老騏看 為す勿れ 櫪に伏す老騏の看を
未得風雲寧慨歎 未だ風雲を得らざれも 寧くんぞ慨歎せん
<解説>
[語釈]
「老騏伏櫪 志在千里」:人が雌伏するに喩える 魏武帝
「未得風雲」 :龍が風雲を得て天に上る
優れた人物が機会をえて世の中に出ること
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作品番号 2000-11
須韶光 韶光を須(ま)つ 偸生
不齊籬落愛荒叢 籬落を斉(ととの)へず 荒叢を愛す
時隠北窓寛老躬 時に北窓に隠(よ)って 老躬を寛くす
黄鳥東来猶凛烈 黄鳥 東来すれども 猶凛烈
破堂何日語春風 破堂 何れの日にか 春風を語らん
<解説>
[訳]
垣根を剪り揃えていないのは 荒れた庭が好きだから
時々窓辺で老いた手足を伸ばしては ゆったりと庭を眺めるのだよ
高麗鶯がやって来たのに まだまだ外は厳しい寒さ
このおんぼろの家は 何時になったら春の色になるのだろう
(訳は桐山人が担当しました)
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作品番号 2000-12
詠陳子昂 陳子昂 を詠ず 謝斧
幽州台上人嘆涕 幽州台上人嘆涕し
天地悠々鴻爪空 天地悠々たるも鴻爪空し
漢魏詩家已成土 漢魏の詩家已に土と成り
獨追風骨古応同 獨り風骨を追って古と応に同じなるべし
<解説>
正月の御薦めの漢詩が 陳子昂 の『登幽州台歌』でしたので無理やりに投稿しました。起句は対句でもないのに踏み落しで、然も転句は挟み平です。破格の作品ですが、唯だ陳子昂 の志しを詩人として、誰かに伝えたい為に作りました。
訳は
幽州台上に人(陳子昂 作者に擬してるとよんでくれば大変うれしいです)は嘆涕しています
天地は限りなく続きますが人の命には限りがあります。
その限りあるなかで漢魏の詩人たちは、後生に男性的な力強い詩風を残しますが、それは丁度、鴻が爪跡を雪泥に残すのと同じで、雪が解けたら跡形も無くなってしまいます。
おそらくは、唯一陳子昂 のみが、漢魏の詩人と同じ風骨を受け継いでいるのではないでしょうか。
<感想>
李白が敬慕してやまなかったと言われる陳子昂は、その人生のエピソードを読んでもいかにも骨太な、「大丈夫の人」という印象を受けます。詩も、私が知っているのは数限られていますが、『唐詩選』の「晩次楽郷県」などは愛唱しています。
「雪泥鴻爪」は蘇軾の詩に使われていた印象的な比喩ですね。人生のはかなさを例えるのには美しすぎるのでは、と以前は思いましたが、こんな力強さを持った言葉だったのですね。
2000. 1. 5 by junji
作品番号 2000-13
祝鈴木先生詩壇去年詩満百首 河東
各有千秋一百篇,
位無高下幾詩仙。
再興唐代風流業,
見智見仁聴自然。
<解説>
[語釈]
「各有千秋」:それぞれの良さ、特色がある。
「仁者見仁、智者見智」:
(『易経』)同じ問題でも、見る角度が違うと、見解も異なってくる。
「聴自然」:「聴任自然」の略。自然に任せる。
[訳]
それぞれの特色を持った百首の漢詩。
誰の位が高くて、誰の位が低いか区別のない数名の詩人。
唐の時代の風流業がこの人たちによって再興された。
作品はどう理解されるか読者に任せている。
<感想>
ありがとうございます。
100もの作品が寄せられるとは、私自身思ってもいませんでした。多くの方が漢詩に対して、様々な愛着を持っていらっしゃることを実感した1年でした。
今年は、更に内容面でも充実させて、「楽しい漢詩」のページを続けていきたいと思います。
2000. 1. 6 by junji
作品番号 2000-14
年頭思海 年頭に海を思う 鮟鱇
終于看到海連天
永遠無涯日月権
人似游舟弄泡沫
浮沈早晩任風遷
<解説>
[訳]
ついに看たぞ、海が天に連なるのを
永遠の涯なきは日月が権(はか)ること。
人はふらつく舟に似て泡沫を弄び
浮き沈みは早かれ遅かれ風まかせて移りゆく。
この詩は、うまく書き下せません。ご勘弁を。
起句・承句は、ランボーの詩を意識しています。そこで起句下三字、「海番天(海が天につがう)」にしようかとも迷いました。
正月明けにランボーを読みました。「みつけたぞ、永遠を」という言葉が頭に浮かび、昔読んだランボーにそういう詩があったはずだと思い、物置(学生時代の本はみんな物置です)の埃を払い、30年ぶりに、とうとうまた、ランボーの詩を見つけました。
「また見つけたぞ。何を?永遠を。海が太陽と番(つが)うのを」
「番(つが)う」と訳したのは、堀口大學先生の名訳です。
原文は”allee avec”となっています。英語に直訳すれば、”gone whith”。素直に訳せば「共に行く」とか、「調和する」とかではないかと思います。
しかし、”alle avec”は”mellee avec”に解釈する研究があって、この場合は混ざりあう=異種交配の意味を含むことになります。
そこで、堀口先生は「番う」という言葉に訳されたのだと思います。
「番う」には、「共にある」の意味もあり、「交わる」意味もあり、まさにぴったりです。
しかし、「太陽が海と番う」という文脈になると、日本語では「交わる」の意味が強くなるように思います。「共に行く・共にある」というニュアンスであれば、日本語では、わざわざ「番う」といわずに「海と太陽の調和を」とでも訳せばよいからです。
長くなりましたが、そんなことを思いながら、「海連天」にした次第です。
この作、「奉和ランボー先生」のつもりではありますが、わたしの作は常識の枠を超えるものではなく、とてもランボー先生には及びませんので、「海連天」ぐらいが相場です。
<感想>
そう言えば我が家にもランボーの詩集があった筈だが、もう随分長い間見たことがない、鮟鱇さんではありませんが、「物置の埃を払」わないと見つけられないかもしれません。
ランボーは、私の学生時代にも必読書でした。「ランボーも読ま(め)ねぇ奴は文学を語る資格も無ぇ」という感じで、脳味噌が沸騰し始めるのを必死に制御しながら読んだ覚えがあります。
でも、考えてみると、あの頃は『必読書』なんてのが沢山あったように思います。勿論、学校の先生が薦めるようなそれではなく、とにかく一人前の人間として認めてもらうためには読み越えなくてはならない本が、そう、本当に多かったと思います。ランボーもしかり、マルクスも埴谷雄高も大江も庄司薫(?)もそうでした。
実態は前時代的な教養主義であるかもしれませんし、単なるカッコつけとも言えるかもしれませんが、しかし、少なくとも私たちの世代にとっての、共有の知的財産であり、それは精神的な連帯を築き上げてくれています。
翻って、今の若者の「必読書」ってのは何なのでしょうね。「読んでないと恥ずかしい」どころか「読んでると恥ずかしい」ようなような本が氾濫している現代には、共有の知的財産の中に本は入らないのでしょうか。
鮟鱇さんの解説を読みながら、そんなことを考えました。
さて、詩の感想ですが、2000年という、時代の境目を意識したスケールの大きな詩だと思います。
ただ、起句の表現がゴツゴツしていて、ランボーの言葉に引かれ過ぎたように感じました。具体的には、「終于看到」という言葉ですが、「海連天」とあれば見たことは分かるわけですから、わざわざここに人の行為を出す必要は無いように思います。
自然と人事(情)をどう配置するかが構成の面白さですが、この起句と承句では自然を描くことに徹して、人の気配は見せない方が、転句からの悠久と刹那の対比が生きる筈です。我慢してでも、海や空の大きさを感じさせる言葉を「海連天」の前に置くようにしたらどうでしょうか。
2000. 1. 15 by junji
作品番号 2000-15
時事箴言 謝斧
人心荒侈類豺狼 人心荒侈して豺狼に類し
窮老流離臥路傍 窮老流離して路傍に臥す
無奈世間風雨悪 いかんともするなし 世間風雨悪しく
空吟板蕩割愁腸 空しく板蕩を吟じては愁腸を割く
<解説>
[語釈]
「荒侈」:行いがすさみ贅沢になる
「板蕩」:詩・大雅 政治の乱れを歌う
[訳]
人心はすさんで贅沢になり、まるで豺狼のようです。
リストラ等で年老いた人達は職もなく住む家もなく路傍で暮らしています。
世情の悪さは、どうしようもありません。
独り詩を読んでいて 板・蕩にいたれば腸が裂けるような悲しみが私を襲います。
失礼とはおもいますが、年老いたホームレスの方をみるにつけては、同情に堪えません。
私も同情される立場にいるのですが、少しは彼らよりは恵まれています。此の憤りを歌にしました。
<感想>
偸生さんからの今年の新年漢詩も、現代という時代を見据えながらの作でした。
漢詩という1000年以上も昔の形式と言葉を用いて、今生きている現代を表現する。漢詩という手段を選択した者は、その困難を越えなくてはなりません。
勿論、現代を描かねばならないわけではなく、唐代の詩人の見たものや心情を追体験したり、共有を求めたりする詩の作り方もあります。それも一つの詩です。
しかし、その場合でも、つまり場面や素材は千古変わらぬものではあっても、描かれているものは自分自身の心です。そうでなくては詩は詩ではなく、言葉の羅列に終わってしまいます。
謝斧さんの今回の詩は、まさに「時事箴言」、現代がそのまま言葉として28字の世界に凝縮していると思いました。
2000. 1. 23 by junji