作品番号 2017-121
看梅
老梅處處二分加 老梅処処 二分加ふ
小院蕭然柳着芽 小院蕭然として 柳は芽を着く
細雨如煙苔徑滑 細雨 煙の如く 苔径滑らか
孤亭映水竹籬斜 孤亭 水に映じて 竹籬斜めなり
<感想>
こちらは特定の場所は分かりませんが、場面としては小さな庭(小院)のあちこち(処処)に年老いた梅(老梅)があり、その梅の木が皆花を少し開き(二分加)、柳も芽吹いている(柳着芽)というもの。小院に老梅がいっぱいというのが気にはなりますが、全く無いというわけではないでしょうから、ひとまず収まります。
ただ「蕭然」は「ものさびしい」状態を表しますので、老梅二分や柳芽という春の到来に対しての感覚とは合いませんね。
静かな庭ということでしたら、「春日閑庭」とした方が流れが良いですね。
転句で雨を降らせるのは良いですが、「如煙」は大げさで、これでは前半の景が皆消えてしまいます。
読者は、前半の二句で早春の穏やかな晴日をイメージしますので、前半と後半で二つの詩になっているようで、日を置いての作詩かもしれませんね。
ここは無理が目立ちました。
全体を見ると、やはり詩題の「看梅」の梅が弱いですね。
梅を見に出かけたけれど、まだ早すぎたから、他のものを見ていたという結末でしょうか。でも、それですと「不看梅」ですよね。
この最後の句で、もう一度梅に戻る、例えば香りが漂ってきた(暗香)というような構成になるとしっかりした詩になります。難しいですが、それが工夫の愉しみです。
2017. 2.26 by 桐山人
作品番号 2017-122
看梅
舊知雅友共吟行 旧知の雅友 共に吟行す
盡日漫遊句未成 尽日 漫遊 句 未だ成らず
幽徑無塵香世界 幽径 塵無く香世界
梅林花發好詩情 梅林 花は発く好詩情
<感想>
梅を見に友と出かけた情景が、句の流れと共に展開し、読者も一緒に梅林を歩いているような気持になります。
素直な展開が良いですね。
直すところは、承句の「漫遊」、「そぞろ歩き」の場合には「漫」は仄声になります。
「逍遥」などの「平平」の語にしておきましょう。
もう一点は、承句で「句未成」と詩ができないという話をしながら、結句で「好詩情」となると、結局詩はできたのか、できなかったのか悩みます。
時間経過で梅林に入ったら詩ができた、ということかもしれませんが、わざわざそんな面倒なことを言わなくても、承句を直しておけば済むと思いますので、検討してください。
2017. 3. 1 by 桐山人
作品番号 2017-123
梅
凌晨歩野暁光遅 凌晨 歩野 暁光遅し
霜落氷池冷透肌 霜落ち 池氷り 冷に肌透す
風掃雲霞明旭日 風掃ふ 雲霞 旭日明らかなり
香寒玉骨満南枝 香寒 玉骨 南枝を満たす
<解説>
寒いさなか、梅が咲いて春が近づいてきている様子を表現してみました。
<感想>
梅という題ですが詩の中には「梅」の字を使わず、最後に「香」と「玉骨」で伝えようという意図ですね。
ただ、「玉骨」は梅の枝の様子を喩えた表現ですので、結句は直訳すれば「僅かばかりの香りが梅の枝(玉骨)南の枝にいっぱいだ」となり、どう見ても「玉骨」が邪魔ですね。
「満」という感じから見て、「清香梅(素)蕾満南枝」と素直に表した方が良いでしょうね。
2017. 3. 1 by 桐山人
作品番号 2017-124
遥望
覚詩齢六二 詩を覚えたり齢六(十)二にして
文士似連峰 文士は似る連峰に
熟々知非力 熟々(つくづく?)知る非力さを
傍書唯高重 傍らの書は唯高く重なるのみ
<解説>
六十二才にして漢詩に取り組み創り方を覚えたものの、
いにしえの和漢の詩人たちは峰の連なる山々に似て、
詩を学べば学ぶほど己が力(知識、読書量等)のなさを、翻ってその分詩人たちが遥か遠くにそびえ立つ偉大な存在であることを思い知る。
漢詩入門といった漢詩にかかわる本を何冊も買い求めたが、それらは傍らにただ高く重ねてあるばかり。
しかし、高さだけで言えば、遠くに見える峰の高さより、重ねた書の高さのほうが勝っているかも・・・
<感想>
初めて漢詩を創られたそうですが、新しい漢詩仲間を迎えて嬉しく思います。
本で学ぶのはなかなか大変ですが、頑張って下さい。
五言詩ですが、「二+三」の句の基本構造、押韻も良いです。結句の四字目だけ「二四不同」が崩れていますが、この辺りは単純な見落としだと思いますので、最初の作品としては上々ですね。
表記の点で、転句の「熟々」は「熟熟」と同じ字を書きます。「々」は単なる記号で漢字ではありませんので漢詩では使いません。
読み下しは日本語なので、こちらに使う分には良いですよ。
以上は表記のこと、言わば技術的な問題ですので、直すだけのことです。
大切なのは、表現のことで、自分の気持ちが十分に伝わっているかどうかですね。
順に見ていきますと、
起句の「覚詩」は「詩の作り方を覚えた」ということでしょうが、言葉が不足、「詩を覚えた」としか読めません。
すっきりと「為詩(詩を為さんとす)」とした方が伝わりやすいでしょうね。
承句は流れとしては起句を受けて、「力が無いことを感じた」という内容、つまり転句の内容をここに持ってきた方が良いでしょう。
「初覚菲才身」として韻字も変える形でしょう。
前半がこれでまとまりましたので、転句に偉大な先人を想う気持ちを出すことにして、詩題から「遙望先人道」。
結句については、韻字を「上平声十一真」にして、「大変だけど頑張るぞ」という気持ちが出るように、ここはご自身で推敲してみてください。
2017. 3. 2 by 桐山人
作品番号 2017-125
偶作(一) 降雪早晨
病坊南北又西東 病坊 南北 又西東
十字高樓學舎中 十字の高楼 学舎の中
人生萬物如泡沫 人生 万物 泡沫の如し
降雪早晨消午風 降雪 早晨 午風に消ゆ
病棟に淡雪積もる事も無し
<感想>
承句の「十字高樓學舎中」は大学病院でしょうか。東西南北に病棟が並ぶということですから、規模も大きいのでしょう。
昨年ご病気されてから、もう半年になりますか。
詩をいただけるということは、お元気でいらっしゃることと思って安心をしています。
転句の「萬物如泡沫」を受けて、結句の表現が来ているのでしょうが、感懐としては順序は雪が先でしょう。
はかなく消える雪を見ながら人生のはかなさを感じるとすれば自然な流れですが、そこを逆にすることで、説明的な描写になるのを避けて、余韻を残したのでしょう。
2017. 3. 2 by 桐山人
作品番号 2017-126
偶作(二) 大寒不駭
老梅破蕾花滿庭 老梅 蕾を破り 花庭に満つ
無ョ鶯兒睡未醒 無ョの鴬兒 睡未だ醒めず
丁酉如流春二月 丁酉 流るるが如く 春二月
大寒不駭樂餘齡 大寒駭(おどろ)かず 余齢を楽しむ
早梅や鴬鳴かず雪化粧
<感想>
題名の「大寒不駭」は「大寒でもそれほど大騒ぎしない」ということでしょうか。
承句の「無頼」はここでは「怠け者」くらいの意味でしょう。
花と鶯を配置するだけですと常套になりますが、それを逆手にとって「鶯は鳴かない」とすることで具体性が加味されています。
転句の「丁酉」は「今年は特に」ということでしょうが、どういう点が今年限定なのか伝わりません。
「今古」「萬物」など色々考えられる中での選択の意図が分かると良いのですが、すみません、つかみきれませんでした。
2017. 3. 2 by 桐山人
作品番号 2017-127
新年書懐
迎新水畔亦山陲 新を迎ふ水畔 亦 山陲
淑気三元掲旭旗 淑気三元に旭旗を掲ぐ
高節不関浮世事 高節は関せず 浮世の事
至誠一貫答明時 至誠一貫して明時に答へん
<解説>
新年のご挨拶が遅れました。この漢詩にかえさせてご挨拶とさせていただきます。
今年もよろしくお願いします。
さて、正月、旧正月と過ぎて、世間では春一番も終わり、二番、三番と春の到来を予感させる話で持ちきりですが、どうもこの季節になるといろいろ思うので、また次回にでも作詩いたしますが、こちらでは時期外れですが、お話させていただきます。
この詩は言志的漢詩のようなつもりで、作詩したものです。
私の考えでは元旦というのはできるかわからないかもしれないけど、これだけのことをしてみようということを考えて、漢詩をされる人は漢詩に書いてみるということをまず初硯ですることではないか?ということを実感し、それを詠じるものだと思っております。
そこで言志というのはいつ書いてもと思うのですが、私は、新年の計は元旦にあり的な話で元旦に抱負を述べ、一年の息災を願うと今年一年を占うのでは?と思います。
私はここ数年それが何か戸惑いもあり、できないこともありましたが、今年の風は何かが違うと作詩いたしました。
世間のことはどうでもいいけど、私自身の野心のために漢詩道を追求して行くことが社会活動の在り方なのかもしれません。
今後とも漢詩に対して「習慣」の一つとしてつきあっていこうと思いますので、よろしくお願いいたします。
<感想>
詩と解説を拝読しました。
志を述べる、これは漢詩に限らず詩というものが創られる根源的な意図の一つだと私も思っています。
言葉にすることによって自分の考えが整理され、論理が深まるという過程は日常生活でも経験することで、他人とディスカッションすることは例えば仕事をする上でもまだまだ欠かせない手順でしょう。
詩はそのディスカッションを自分自身と行うという作業だと思います。
それは実は、美しい風景を見た感動を詩にするという時でも同じで、表現や措辞を何度も検討することで、「感動」という漠然としたものが「言葉」という形に固まっていくのが作詩の意義、妙味、愉しみだと私は思っていますよ。
加えて他人が詩を読めば、更に議論が深まるだろうということで、このホームページの存在意義を強調しておいて、さて、第三者の目で詩を拝見しますと、
転句の「浮世」は「塵世」の方が、結句の「答」は多分「応」としたかったのを平仄を考慮したのかと思いますが、「対」がで良いと思います。
2017. 3. 3 by 桐山人
作品番号 2017-128
新年書懐
歳朝爽爽曙光紅 歳朝 爽爽として 曙光紅なり
馥郁梅花万里風 馥郁たる梅花 万里の風
独題句而閏箋筆 独り句を題して 箋筆を潤し
遐年無恙気蓬蓬 遐年恙無く 気は蓬蓬
<解説>
歳の朝 爽やかに 曙光は紅なり
梅の花が馥郁として、 万里の風に乗ってくる。
独り 句の題を決め、たっぷり筆を潤し紙に書く
年は遙かに 恙なく 気は為すがままに
<感想>
芳園さんは作詩を始めて八年程、とのこと、この桐山堂には初めての投稿ですね。
新しい漢詩仲間をお迎えして嬉しく思っています。
読み下し文は<解説>のものが添えられていましたのが訳文という感じでしたので、私の方で書かせていただきました。
元旦の朝日(起句)、広がる梅の香り(承句)、そして作者自身の詩人としての行動(転句)から「遐年無恙」、つまり長寿健康の喜び(結句)という流れで、素材としても新年らしいものが無理なく配置されていて、落ち着いた漢詩になっていると思いました。
転句がやや気になります。
「而」は接続の言葉ですが、詩では通常使いません。二つの動作を「〜してから、そうして」という感じで繋ぐ時にわざわざ入れることはありますが、ここではそこまで強調するほどのことではないですね。
「独題新詩」で良いでしょう。
その後の「閏」は「潤」で、サンズイを省くこともあるかもしれませんが、正字を書いた方が納得できます。
あと、「潤箋筆」も「箋と筆を潤す」となり、「箋を潤す」がどうでしょう。
「潤」を残して挟み平で行くなら「潤柔筆」、ちょっと苦しいですが「潤翰筆」。挟み平を解くなら「揮筆翰」「拈筆翰」でしょうか。
2017. 3. 3 by 桐山人
作品番号 2017-129
賽琴平宮
嚴然華表聳蒼天 厳然たる華表 蒼天に聳え
象頭山頂入紫煙 象頭山頂 紫煙に入る
賽客連綿階幾百 賽客 連綿 階 幾百
航行安泰願望編 航行の安泰 願望の編
<解説>
象頭山腹にある「こんぴらさん」
堂々たる鳥居をくぐると785段の石段に
途切れることなくお参りの人の列
海上安全航行祈願の神社だけあって絵馬・祈り文が多く掛けられておりました。
<感想>
前半はスケールの大きな景がうまくまとまっていますね。
特に起句は色彩も鮮やかで、山に登っていく景色が目に浮かぶようです。
転句は良いですが、結句はやや欲張ったか、「海上安全航行祈願の神社」の知識がないと、山の話からどうして海に行くのか苦しみますね。
岳城さんの個人的な思い出の詩、あるいは琴平宮に奉納する詩というならこのままでも良いですが、一般に示すならば「旅程安泰」としておくと良いでしょう。
結句の韻字は「編」よりも「篇」の方が意味がすっきりするように思います。
2017. 3. 7 by 桐山人
作品番号 2017-130
觀沖之島展
孤島雲流玄界天 孤島 雲は流る 玄界の天
見參遺産衆人前 遺産見参す 衆人の前
秘儀秘寶神意儼 秘儀 秘宝 神意儼なり
至上興感千載傳 至上の興感 千載に伝へん
神宿る孤島寿ぐ九博展
「沖之島展」: 九州国立博物館、「宗像・沖ノ島と大和朝廷」展
<感想>
起句は、「孤島」と下方から始まり、「雲」を経て、「玄界天」と上方、更に空の彼方へと視線が動いていきます。
そこまで遠くに行っておいて、承句では「沖之島」の内側に入っていくので、戻るのが辛いですね。
やや姑息ですが、入れ替えて「玄海雲流孤島天」とすると、空も孤島も同時に視野に残りますので、びっくり感が減りますね。
転句は「二六対」、結句は「二四不同」になっていないので、平仄が乱れていますので、これは修正が必要ですね。
2017. 3.17 by 桐山人
作品番号 2017-131
觀芬闌圖案展
海行萬里北歐邊 海行万里 北欧の辺
湖沼森林風景鮮 湖沼 森林 風景鮮なり
圖案榮冠推國色 図案 栄冠 国色を推す
芬闌獨立百餘年 芬闌独立 百余年
デザインの奥義を究む福博展
「芬闌圖案展」: 福岡市博物館、「フィンランド・デザイン」展
<感想>
フィンランドデザイン展は愛知でも4月から開催されるようで、全国に先駆けて福岡がトップ開催ですね。
独立100年を記念しての開催だそうですが、森と湖の国のイメージで日本でも馴染み深い国ですね。
詩は前半で日本から遙か遠くのフィンランド、美しい自然の国土だと紹介するわけですが、「風景鮮」がもう一歩、具体的になると良かったですね。
実際に行かれたなら「春景」「秋景」とできるところですが、今回はそうではないので「四季」くらいでしょうか。
転句はデザイン展の話になるのでしょうが、「推国色」が悩ましいですね。
フィンランドの国旗は白地に青の十字ですが、これは湖の青と雪の白さを描いたとされていますので、そうしたことでしょうか。
あるいは、フィンランド・デザインの特色として鮮やかな色使いが挙げられるそうですので、その辺りか、ここが難しかったですね。
2017. 3.21 by 桐山人
作品番号 2017-132
病中雜吟
當時靈藥入膏肓 当時の霊薬は膏肓に入り
一服須臾二豎亡 一たび服すれば須臾にして二豎亡ぶ
加願病餘初把筆 加へて願はくは病余初めて筆を把れば
代成謦咳吐詞章 謦咳を成すに代って詞章を吐かんことを
「膏肓」: 膏は心臓の下、肓は横隔膜の上。薬も鍼も届かないという場所。「病入膏肓」。
「二豎」: 病気、病魔。昔、晋の景公が、二人の童子の姿をとった病が良医を恐れて膏肓に潜む夢を見たという。
<解説>
今シーズンのインフルエンザ。「三十云年間無敗」とうそぶく妻にはかなわぬと見たか、次男→私→長男と力なき男ばかり次々にノックアウトして過ぎて行きました。
何日も外出できないでいたので、詩を読んだり書いたりするのに充てる時間はたっぷりあったはずなのですが、なかなか思いどおりという具合にはいかないもの。
薬が効いて熱が下がっても、子どもたちとは違って、実際に活動するエネルギーを回復するのは容易じゃないようです。
今の時代のお薬は 膏肓にだって届きます
一回飲めばたちまちに 潜む病魔をやっつける
ついでに言えばこの後は 詩を書くために筆もてば
セキの代わりに良い言葉 出るんだったらいいのになぁ
<感想>
このところ漢詩大会では連続して入賞者に名を連ねている観水さん、詩作では充実した調子を維持していらっしゃいますが、インフルエンザには勝てないようですね。
我が家でも、流行(病)に反応するのは男達で、何でもかんでも新しい物を欲しがる性格も影響しているのだと妻には言われています。
詩は、「膏肓」「二豎」と故事を出しつつも現代の医薬の進歩という話題に持って行き、最後は「良い詩が出来る薬があればなぁ」という軽妙な結末で、スラスラと調子も良く、楽しく読みました。
考えてみると、この超新薬は古来からの詩人の願望かもしれないし、そう考えると、実は一番の妙薬は「酒」だと答えてくれそうな先人ばかりの気もしますね。
2017. 3.21 by 桐山人
作品番号 2017-133
早春
朝訪時増早 朝訪の時は早さを増し
光輝縮塔陰 光輝は塔陰を縮む
君知春緑出 君は春の緑出づるを知るも
莫忘夕遅今 忘れること莫れ 夕べ遅き今を
<解説>
今回、二作目ができましたので送らせていただきました。
それにしても、漢詩を曲がりなりにも創ることができたことで、漢詩に対する見方、味わい方がガラリ180度、一変しました。
このことだけでも、創作を始めて本当に良かったと思っています。
そうそう、高校生向けの漢文法の参考書と一緒に、鈴木先生の『漢詩を創る、漢詩を愉しむ』の本を購入し、今読んでいるところです。
(ネットで中古本を購入しました。申し訳ございません(^^;))
現在、日没がすでにまる一時間伸びました。
遊びや仕事のし過ぎに注意しましょう。
プレミアムフライデーの効果と今後はいかに・・・
<感想>
先月末にいただいた作品でしたが、年度末で仕事が立て込んで掲載が遅れてすみません。
五言詩ですが、早春の日差しの変化を「縮塔陰」で表したところが工夫のところですね。
起句で日の出が早まったことを出し、結句で日没が遅くなったことを対比的に出しましたが、ここは狙い過ぎです。
確かに、春は朝が早くなり、日暮れが遅いというのは実感としてあるでしょうが、それは古来から「春夜短」と言われるように誰もが知っていること、あまり大げさに言うと詩が平板になってしまいます。
この対比で、結局詩の主題は何かと言うと「春の日は一日が長い」ということになり、転句の「春緑出」が言いっ放しでつながらず、せっかくの承句の新鮮な感動がおまけのようになってしまいます。
詩としては、欲張らずに朝の情景だけにして、結句では春景をもう少し詳しく語る方がまとまりが良くなるでしょうね。
私の本を読んで下さり、ありがとうございます。
出版社が親会社に吸収され、現在はもう在庫が無い状態のようです。
あらかじめ多く初刷はしてくれましたが、何と言ってももう何年も経ちましたので、すみません。
2017. 3.21 by 桐山人
作品番号 2017-134
客愁
雲淡天瞑雨似塵 雲淡き天瞑の雨は塵に似て
館中孤坐客愁頻 館中に孤坐して客愁頻りなり
無聊啜茗南窗靜 無聊 茗を啜り南窓は静か
院落寥然易憶人 院落寥然として人を憶ひ易し
<感想>
「旅先の想い」という題名に即した内容で、寂しげな雰囲気が良く出ていますね。
部分的に気になる点を拾うと、
起句の「雲淡」は「雲重(雲重く)」ならば納得できますが、「天瞑」ですと、真っ暗な空を眺めて雲の濃淡を判別したことになります。ここは悩ましいですね。
承句は「館中」では広すぎで、転句の「南窗」と入れ替えた方が収まりが良いでしょう。
結句は「易憶人」が余分なまとめで、承句の「客愁頻」を言い換えただけの印象、庭の景色から何かを見つけて「客愁」を象徴させるとまとまります。
逆に承句の「客愁」という感情語を出すのをやめて、結句に持ってくるのも一案でしょうね。
2017. 3.22 by 桐山人
作品番号 2017-135
麗日
麗日閑行草色宜 麗日に閑行して 草色宜し
野花到處鬪芳姿 野花到る処 芳姿を闘はす
禽聲斷續如人語 禽声断続して 人語の如く
雙蝶之情不可知 双蝶の情は知るべくもあらず
<感想>
春の一日、郊外を歩いた印象を描いたものですね。
「草」「花」「鳥」「蝶」と各句に素材を配置して、風景ビデオを見ているような展開になっていますね。
また、転句で「声」つまり聴覚を出すことで変化を狙う構成も、基本を押さえて作ろうという気持ちが伝わります。
起句は問題無いですが、一面に草の緑が萌えてきたことを受けた承句、「到處」と来ると、同じ視野の中に草も花もとなって、どちらが見えているのか悩ましくなります。
「到處」とするなら承句は「草」を出さない、逆に、草の中に花が現れているなら「處處」として収める形でしょう。
転句は、この語順ですと、「鳥の声が人語に似ている」のではなく、「鳥の声の途切れ途切れなところが人語に似ている」ということになります。さて、どこが似ているのか、という疑問が湧きます。
それが作者の実感だとしても、読者に対して説明不足の感は否めません。
「人語」を「談語」、あるいは「催人語」などとすると、イメージしやすくなります。
一番分かりやすいのは、まず上四字を「○○啼鳥」としてから、鳥の声がどうだったのかを語る形だと思いますので、それで検討してみてはどうでしょう。
結句は「之」が無駄な字で、どういう「情」なのかをここでは述べる必要があります。それが作者の気持ちを一番表す部分でもあり、これを「蝶の気持ち」とぼかすのは狡いやり方です。
ここが曖昧なために、下三字の「不可知」も投げっぱなしになり、全体として締まりの無い結末になります。
上二句の勢いから体力を温存して結句に臨むようにしましょう。
2017. 3.24 by 桐山人
作品番号 2017-136
頌農 其一 農を頌る 其の一
瑞穂天然恵 瑞穂 天然の恵、
晴耕粒粒祈 晴耕 粒粒祈る。
早苗還土謝 早苗 土に還って謝し、
降雨読経依 降雨 橋を読んで依るべし。
万里遍豊作 万里 遍く豊作、
千秋大落暉 千秋 大きな落暉。
神前将奉納 神前 将に奉納せんと、
日暮負稲帰 日暮 稲を負って帰る。
<解説>
初に「頌」か「讃」か迷いましたが、結局「頌」にしました。
スローライフとか憧れもあるのでしょうか、鍬やスキなど持ったこともないのに農業を歌う、笑ってしまう。
TPPとか考えていたらこんな詩が浮かんできたので投稿に至りました。
基本的には私は貿易自由化論者ですが、それによって農村がどう変化するか考えると少し複雑です。日本人は代代稲を栽培し、米の酒を飲んできたのですから・・・・
極端な話ブラジル産の大吟醸はちょっと酔えないような気もします。日本人のDNAに染み込んでるからですかね・・・・・
自分の詩は簡単明瞭で分かりやすくて、その代わり深みと言うか渋みにかけているかもしれませんが、難しい漢字も少ないし・・・・・このような詩しか書けないのです。
まぁええがや、今夜は日本酒で・・・・忙しいのも一段落着いたので。
<感想>
第一句の「瑞穂」はもちろん和語ですが、題材的にもこの語を用いたかったのでしょうね。
首聯と尾聯で詩は完成していますので、頷聯と頸聯で何を語るかが大事なところ、ただ第四句は分からないです。
「晴耕雨読」の流れかなと思いますし、直前の第三句は田植えのことでしょうから、ここも農民の姿や仕事を描いているのでしょうが、「読経」は何を言うのか、読み下しの「橋を読んで」だともっと難解でここは読み飛ばしました。
第五句はリズムのある良い句ですが、対の関係で置いた「千秋」はおかしく、「千年いつも大きな夕陽」では話が広がりすぎます。
作者としては、毎年毎年、お百姓さんが秋の収穫をしながら大きな夕陽が沈むのを満足感で眺めている、という気持ちかなと思いますが、「大落暉」でそこまで読み取らせるのは無理ですし、私は逆に「大落暉」が何か不幸や不吉なことの暗示のようにも思えて、千年もの長い間、農民が苦しんできたことを言っているのかと思ったりもしました。
2017. 3.28 by 桐山人
作品番号 2017-137
頌農 其二 農を頌る 其の二
民生先口腹 民生 先ず口腹、
経世勧農初 経世 農を勧めるは初。
水利耕田満 水利 耕田満ち、
高倉予米余 高倉 予米余れり。
近隣無相盗 近隣 相盗無く、
神話在詩書 神話 詩書に在り。
至達同褒貶 達するに至れば褒貶を同じうす、
何求撃壌誉 何ぞ撃壌の誉を求めん。
<感想>
前作と同じ趣旨で作られたものですね。
前半はすっきりとまとまっていると思います。
後半は頸聯の対がやや苦しく、第六句が第七句に繋がりすぎているのが気になります。
「無相盗」は唐の玄宗皇帝の貞観の治、「海内升平」と言われた時代には、「道に落とし物があっても誰も拾得しない、夜も戸を閉めない、旅人も(安心して)野宿できる」と言われたそうです。
次の「詩書」はその辺りを示しているのでしょうが、「神話」は今度は結句の堯帝の治世を表す「撃攘」を指すように理解します。
気持ちが先走ったのか、言葉が錯綜していて、ここであまり故事を出すと、結句の「撃攘」がしつこくなり、詩の結びが甘くなりますね。
2017. 3.28 by 桐山人
作品番号 2017-138
早春過客(一)
尋道帰同道 道を尋ね 同じ道を帰る
孤生復独亡 孤り生まれ また独り亡ぬ
片雲流転客 片雲 流転の客
不識本来郷 識らず 本来の郷(ところ)
<感想>
起句は、人生の姿を端的に表したものでしょうね。
迷い苦しみながら人生を歩いてきて、何度も同じ道を行ったり来たり、人は孤独な存在であると前半をまとめました。
転句は比喩を用いて見方と変えながら、やはり人生を振り返った内容です。
ただ、「早春過客」の題ですので、ここは「片雲」よりも、季節の変化を表す言葉で「流転」を出した方がすっきりします。
結句の「本来郷」とあるのは、起句で述べられた「尋ねた道」でしょう。
探しても、自分の願う生き方を見つけるのは難しい、というのは重い言葉ですね。
2017. 3.28 by 桐山人
ご指摘を受け、不十分ですが改作しました。
早春過客(一) 推敲作
尋道帰同道
孤生復独亡
早春流転客
不識本来郷
2017. 4. 4 by 哲山
作品番号 2017-139
早春過客(二)
美驕権力傲 美は驕(あざむ)き 権力は傲る
玉座恣人心 玉座 人心を恣にす
虚飾儚相似 虚飾 儚きこと 相似たり
夜行月照襟 夜行すれば 月 襟(こころ)を照らす
<感想>
起句の「美」は単に容貌を表すのではなく、漢詩では才能を持つ優れた人物も指します。
直後の「権力」と対応していますので、ここでは小賢しく世間を渡る人物あたりを暗示しているのでしょうか。
承句の「玉座」と「権力」との違いがはっきりしなくて、その分、起句と承句の流れがぎくしゃくしているように感じます。
昔から変わらず政治は人民を苦しめてきた、というなら「今昔」、最近の世の中は、というなら「近者」など、時を表す形が収まるかと思います。
転句は「相似」が何と何を似ていると言っているのか、また「虚飾」が儚いことはわかりきっていますので、ここは上二字を検討するのが良いでしょう。
結句は唐突な感じが残りますが、五絶ならではの転換として解釈はできますね。
ただ、この詩も題名とはそぐわないので、ただの「月」ではなく、春の月と分かるような表現が欲しいですね。
また、この句は「二字目の孤平」ですので、その点も含めて推敲してください。
2017. 3.28 by 桐山人
ご指摘を受け、不十分ですが改作しました。
早春過客(二) 推敲作
美驕権力傲
玉座恣人心
春日均温地 春日は均く地を温め
天心月照襟 天心の月 襟を照らす
2017. 4. 4 by 哲山
作品番号 2017-140
早春過客(三)
梅綻余寒有 梅 綻んで 余寒あり
鶯啼堤未萌 鶯 啼いて 堤 未だ萌えず
田園耕姥影 田園 耕姥の影
遊子望郷情 遊子 望郷の情
<感想>
早春らしい詩が最後に来ましたが、起句承句のどの語でも(一)(二)に入っていると嬉しかったですね。
もちろん、この詩はこの詩で趣があり、良いですが。
承句の「堤」と転句の「田園」は同じ場面としては気になりますし、場所を表す語が続くので、承句は「草未萌」としてはどうでしょう。
結句は、どうして「望郷情」が来るのか、これは五絶と言っても、無理があるでしょう。
起承転と叙景が続いていますので、転句で懐昔を導く素材を何か入れておく必要があります。
「田園耕姥」がひょっとすると母親を思い出させるのかもしれませんが、それは作者の独自の解釈に過ぎず、読者への配慮も大切です。
2017. 3.28 by 桐山人
ご指摘を受け、不十分ですが改作しました。
早春過客(三) 推敲作
梅綻余寒有
鶯啼堤未萌
旧懐耕母影 旧懐す 耕母の影
遊子望郷情
2017. 4. 4 by 哲山
作品番号 2017-141
酔帰
濁醪数斗満瓶酒 濁醪数斗 満瓶の酒
酔裏偶従山路帰 酔裏 たまたま山路従り帰る
残月朦朧梅似雪 残月朦朧として梅雪に似る
暁風清冷惹人衣 暁風清冷として人衣を惹く
<解説>
友人宅にて親しい友人達と呑んだあと、
たまたま山あいの旧道から帰ったところ、
ぼんやりとした月に照らされた梅の花は雪のようで、
明け方のひんやりとした風に乗り、こちらに引き寄せられて来ました。
<感想>
初めての投稿なのに、掲載が遅くなりすみません。
三月で仕事が終りましたが、年度替わりの引き継ぎやらの処理と、漢詩大会の準備などでなかなか落ち着いた時間が取れず、ホームページの更新の方がついつい後回しになってしまっています。
お詫びの気持ちを籠めつつ、拝見をしました。
漢詩作詩は一年程のご経験だそうですが、素材や詩語の選択のバランスが良く、細かい所までよく考えておられることを感じます。
例えば、承句の「偶」などは作者の思いが絡んだ語で、月下の梅の花を偶然目にしたとすることで、梅花の美しさが驚きを伴って新鮮な印象をもたらす効果を意識されてのものでしょう。
更に、「偶」はこの山路が「いつもは通らない」ことも表し、新鮮さとか神秘的な導きとかまで感じさせるようです。
ここは良いのですが、次の「従」は余分な言葉でした。
丁寧に「山路を通って」と説明をしたのでしょうが、下三字の「山路帰」とするだけで十分伝わるところ、逆に「従」があることで「山路を通って」が強調されてしまいます。
そうなると、逆に夜中にどうして山路を歩いたのか、その理由がこの「偶」によって気になってきます。
「酔っていたからたまたま」、というのは酒飲みが言い訳をする常套手段、日常生活では許される(?)言い方でも、相手に自分の感動を伝える詩ではそこが実は大切なところ。
逆に言うと、ここで「従山路」が焦点になると、起句の役割が弱くなり、必要性が問われかねません。
工夫は工夫として、あっさりと「酔別同朋山路帰」と収めておくのも検討できます。
結句は「暁風」でびっくり、結局、朝まで飲んでいたということでしょうか。
うーん、そうなると「ぼんやりとした月に照らされた」というイメージが通じるかどうか、承句を「酔裏徹宵」とするなど、早い内に時間帯が分かるようにしたいですね。
ここは「風」も感じるようにして「幽香」と香りを出しておき、時間はぼかしておくとどうでしょう。
2017. 4. 8 by 桐山人
作品番号 2017-142
久会友
花時近夥作通門 花時近づき夥となる、門を通ること
朝出夕陰帰道昏 朝に出でて夕陰に帰り道昏く
自旧友来再会誘 旧友より来る再会の誘い
過行歓楽帰歓存 過ぎて行きたる歓楽返り、歓びて存す
<解説>
受験もあり連絡をあまりとっていなかった仲間との一年ぶりの再会の喜びを詠みました。
<感想>
また、新しい仲間を迎えられて、嬉しいですね。
最近漢詩を作り始めたとのことですが、押韻はバッチリ、平仄は若干修正が必要ですが、勉強されていることが分かります。
受験生であったようですが、高校で指導を受けられたのでしょうか。
これから楽しみですね。
順に平仄も含めて見ていきましょうか。
起句は「○○●●●○◎」となっていて、平仄はしっかりしています。
表現としては、「夥作」は「夥となる」としたければ「作夥」の語順になります。ただ、「夥」はこれだけで状態を表しますので、「作」は不要。
句意は、「春になって部屋から出て、外に行くことが多くなった」ということかと思いますので、「花時愈近出遊繁(花時逾いよ近くして出遊繁し)」とすれば同じことを伝えられるかと思います。
承句もそれを受けて(「出」が使えなくなりましたので)「朝発夕帰途已昏(朝に発し夕に帰せば途已に昏し)」として、前半でまとまりができるように持って行く形が考えられます。
転句の平仄は「●●●○●●●」となっており、「四字目の孤平」ですから三字目か五字目を平字にしなくてはいけません。
表現でも「自旧友」とすると「来」の主語が「再会誘」、語順としては主語が先に来なくてはいけません。
ひとまず「友」を主語にする形で、「久闊友朋催再会(久闊の友朋 再会を催し)」というところでしょうか。
結句は意味がよく分からないのですが、「昔の楽しみが戻ってきて、楽しいぞ」ということかと思いますが、「歓」の字の重複も気になります。
昔の楽しかった思いは「旧情」、楽しく過ごしたということで言えば「交歓一日」とすると一日中遊んだという意味になりますので、まとめて「交歓一日旧情存」という句が考えられます。
まとめてみますと、
花時逾近出遊繁
朝発夕帰途已昏
久闊友朋催再会
交歓一日旧情存
森楽さんの句を私が読み間違いしているかもしれませんが、解釈できる範囲で考えるとこんな形になるかというサンプルとしてお考えくださると良いでしょう。
2017. 4. 9 by 桐山人
作品番号 2017-143
探梅
石磴登攀滿目梅 石磴登攀すれば 満目の梅
竸妍染枝與丹皚 妍を競うて枝を染む 丹と皚
馨香馥郁春風和 馨香馥郁 春風和し
睍v黄鶯去又來 睍vたる黄鶯 去りてまた来る
<感想>
梅が満開の所に行くわけですので、題名は「探梅」よりも「看梅」の方が合うでしょうね。
梅の花の色と香り、更に春風と鶯と満艦飾の趣ですね。
承句は平仄が合いませんね。勘違いでしょうね。
上の「競妍」と下三字にも色彩が出ていますので、更に中二字には「染」はもう要らない字になります。
「枝上」「萬樹」で収まるでしょう。
下三字は読み下しのようにすれば「丹與皚」の順になりますので、この場合ですと「丹皚を与にす」ですが、ここで「染丹皚」としてはどうでしょうね。
結句は「又」よりも「復」の方が意味が合うでしょう。
2017. 4.19 by 桐山人
作品番号 2017-144
春風
軽寒雨後白雲重 軽寒 雨後 白雲重し
拈句苦吟万事慵 句を拈り 苦吟 万事慵し
春風飛花香気列 春風 花は飛び 香気列し
揮毫磨墨筆如龍 揮毫 墨を磨して 筆龍の如し
<解説>
なかなか暖かくならず少し憂鬱でしたが、春風で爽快になった様子を描いてみました。
<感想>
春分を過ぎて寒の戻りがあり、なかなか防寒具を片付けられない春でした。
春の雪が一晩で何十センチも積もり、表層雪崩で悲しい事故があったのも思い出されます。
地球人さんの詩は、そんな春と冬の混在するような気候と、それに影響を受ける心情を対比したものですね。
「幽鬱」な景と情が起句と承句に、また、「爽快」な景と情は転句と結句に配置し、すっきりした構成が狙いでしょう。
前半、後半、それぞれの内容は共感できるものですが、残念なのは、つながりが無いこと。
本来ならば、承句と転句の間に「やがて」という接続の言葉が入るのでしょうが、それが無いので、全く別々の日に作った二句が並んでいる、という印象を避けられません。
詩全体を眺める視点で、転句に時間経過が伝わるような言葉が必要になりますね。
「春風」は平仄も合いませんので動かして、「忽至春風」とすると、変化が同じ日のことだと通じやすくなるでしょう。
「忽至」では直球過ぎるようでしたら、「窓外一風」も良いと思います。
あと、承句は「四字目の孤平」ですので、「万事」を「諸事」としておくと良いですね。
2017. 4.23 by 桐山人
作品番号 2017-145
憶江南・憶故郷
時時夢 時時 夢む
弓岳一望灣 弓岳 一望の湾
島嶼松連碧水 島嶼青松 碧水に連なり
天然雅韻遏雲寰 天然の雅韻 雲を遏むの寰
不二是郷関 不二 是 郷関
時時恨 時時 恨む
茅屋小童康 茅屋 小童の康
與父浮舟競釣果 父と舟を浮かべ 釣果を競ひ
母揮刀案海珍光 母 刀を揮へば 案 海珍光る
不孝獨愁腸 不孝 独り愁腸
<解説>
「詩詞世界」を参考に作ってみましたが・・・。
双調のつもりですが、三字句の部分は、字を換えても問題有りませんか。
また、前段と後段の夫々の句は、同じ形式にすべきでしょうか。
語注:「弓岳」佐世保港を見下ろす「弓張岳」
<感想>
東山さんから詞の作品をいただきましたので、またまたで申し訳ありませんが、鮟鱇さんに感想をお願いしました。
鈴木先生
東山さんの「憶江南(憶故郷)」についてコメントします。
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玉作、拝見しました。
双調の詞は、前段後段(前闋・後闋)をどう展開するかで工夫が必要ですが、前段で景、後段で情(回想)を詠まれており、双調の特性をよく生かされた作品になっていると思います。
その上で、細かいことですが、前段後段の間は一行明けるとか区切りの記号を入れるとかされた方がよいと思います。
詞は詩に較べ自由で、色々工夫することが許されていたようです。
憶江南でみれば、もともと単調だったものが双調になっていますし
白居易の作
江南好。風景舊曾諳。日出江花紅勝火。春來江水鵠@藍。能不憶江南。
でみれば 詩では厳しく規制されている同字重複が顕著。
それが大胆に使われていて、効果的であることは勿論ですが、詩ではここまで同字重複は許されないと思います。
そして、玉作でみれば、前段と後段の押韻が違います。
前段と後段で押韻を換える例を私は「憶江南」では見たことがありませんが、適宜換韻する詞牌も他にはありますので、新しい試みとして大変興味深く拝読しました。
ただ、伝統的な作法の上からは、四・五句目の七字句二句は、対仗にすることが求められます。
また、上四下三に作ることになっていますが、玉句「母揮刀案海珍光」は上三下四でしょうか、
「案海珍光」の意味が小生にはわかりません。
それはともかく、「憶江南」は単調ではほぼ七言絶句ほぼ同じ字数、双調にすると七言律詩とほぼ同じ字数です。
しかし、句の数が「憶江南」は絶句・律詩よりも多く、それによって、絶句や律詩では表現できない詩境が可能になります。
繰り返しになりますが、玉作の前段での景(現在)、後段での情(追懐)という展開、抒情は七言律詩では表現できないし、余情を欠くものになってしまうように思います。
お尋ねの件ですが、
>また、前段と後段の夫々の句は、同じ形式にすべきでしょうか。
前後段同形の詞牌は他にもありますが、同じ句法を繰り返す必要はありませんし、そういう作例を見た記憶は小生にはありません。
そうすると長い聯のようになりますが、前後段の詩境が似てしまい、単調になりがちで難しいと思えます。
作品番号 2017-146
春日散策
春光和暖好清明 春光 和暖 好清明
處處鳥啼聴又行 処々 鳥啼 聴き 又 行く
堂奥法燈青一穂 堂奥の法燈 青 一穂
落花舞和読経声 落花の舞は和す 読経の声
「清明」: 二十四節気の一つ、春分から十五日目、四月の五、六日頃
<感想>
清明の日には郊外に出かけて墓参りをするのが恒例の行事だったようです。
この詩では「墓参り」の言葉は出てきませんが、それを踏まえての後半の描写ですね。
承句は本来は「啼鳥」としたかったのでしょうが、平仄で逆転させたものだと思います。しかし、そのために、読む時に「鳥啼き 聴き 又 行く」という流れで動詞が連続、主語が転換している印象になります。
無理をせずに、句の頭に「啼鳥」を持ってきて、中二字は鳴き声の形容を入れるとすっきりするでしょうね。
転句で法堂の奥深くに入り込んでいきますので、転句で「落花」と外の景色に飛ぶのがやや違和感があります。
結句は全体のまとめとして効果を出していることを考えると、どうも転句が不要のように見えてきます。
収まりよくするならば、転句を法堂を外から眺めた景色に抑えておくことかと思います。それでも十分に、前半の広々とした野外の景からの転換はでき、転句としての働きは生まれるでしょうね。
2017. 5.13 by 桐山人
鈴木先生、いつもご指導有難うございます。
「春日散策」を先生のご指摘を検討し、別添のとおり推敲しました。
よろしくお願いします。
春日散策(推敲作)
春光和暖好清明 春光 和暖 好清明
啼鳥喞啾聴又行 啼鳥 喞啾(しょくしゅう) 聴き 又 行く
庭院幽辺香烟満 庭院の幽邊 香烟満つ
落花舞和読経声 落花の舞は和す 読経の声
2017. 5.17 by 緑風
作品番号 2017-147
野猫
野猫闖入自窓辺 野猫 窓辺より闖入し
泥餌呼我声可憐 餌を泥(ねだ)りては 我を呼ぶ 声憐れむべし
了食蹲窺厭掻撫 食を了し 蹲を窺ひて 掻撫を厭ひ
去如脱兎此身全 去って脱兎の如く此身を全うす
<感想>
野良猫が居着くというのはよく聞くことですが、大抵の場合には人間の方が猫に負けて餌を与えてしまうようですね。
謝斧さんのこの詩でも、「闖入」ということで猫の方が勝手に入ってきたのでしょうが、ついつい何か餌を探してしまう謝斧さんの優しい気持ちが表れていますね。
承句の「我」は「吾」に、結句の「此身」は「痩身」でどうでしょうね。
2017. 5.13 by 桐山人
作品番号 2017-148
老婆慈愛
空腹孩童被棄児 空腹の孩童 被棄の児
老婆自宅割烹炊 老婆は自宅にて 割烹の炊
少年感佩安居所 少年は感佩す 安居の所
覊絆想望芳大慈 想望を覊絆す 芳しき大慈
<解説>
先日、NHKスペシャルで「ばっちゃん」というドキュメンタリー番組を見た。
広島県の82歳の女性中本忠子さん(元保護司)は貧困の子ども、親に遺棄された子供に30年来自宅を開放し食事を与えているという。
空腹になると女の子は体を売り 男の子はカツアゲをするという。
子どもたちは心を開放し安心できる場所を得ている。非行に走ってしまった少年も、「ばっちゃん」を悲しませたくないから、将来を考え、きちんと生きなくてはと技術を身に受けるなど励んでいるという。
単なる美談として済ませられる問題ではないが、この女性のこの年齢にしてこの行動を続ける姿には全く頭が下がる。
<感想>
起句の「被棄児」という言葉が胸に沁みます。
今地域で夕ご飯を食べられない子ども達に食事を提供する活動が進んでいるそうです。
一方では、賞味期限近い食品や飲食店の食べ残しの食材は相変わらず大量のまま(一部改善されたそうですが)廃棄されているという社会の矛盾を考えると、暗澹たる気持ちになります。
誰もがこの女性のようにはできないことですが、転句の「感佩」は「ありがたいと思い、その感謝の心を忘れない」という言葉、結句の「羇絆」は「かたくつながる」という言葉、こうした思いを忘れないで出来ることからして行きたいと思いますね。
承句の「自宅」は「開宅」とすると、場所を示すことから女性の気持ちが含まれた表現になるでしょうね。
2017. 5.13 by 桐山人
鈴木先生
ありがとうございました。ご指導に従って 下記のように補整しました。
空腹孩童被棄児
老婆開宅割烹炊
少年感佩安居所
覊絆想望芳大慈
実は、私は退職後約20年、週に1度ですがささやかなボランティア活動をしていました。
が、80歳を機に止めました。
その後この女性の活動をTVで知りました。
「私ももう少し頑張れたのではないかなあ。」 と反省を込めて ただただ感服しています。
2017. 5.16 by 茜峰
作品番号 2017-149
春日即事
山山皆靉靆 山山 皆靉靆たり、
樹樹尽春枝 樹樹 尽く春枝。
可極雲生処 極むべし 雲の生ずる処、
瑶台採筆追 瑶台 筆を採りて追はん。
<感想>
凌雲さんの今回の詩では、前半の下二字、「靉靆」が重韻語なのに対して「春枝」は音的にも対応が弱いので、対句が生きて来ない感じです。
遠景の「山山」が雲がかかって「靉靆」なのに対して、近景の「樹樹」に春の趣を持たせたいということでの措辞だと思います。
五言絶句は句の字数が少ない分、言わねばならないことをどこでどう入れるか、という言葉の選択が難しく、それが対句になった時にはもっと厳しい条件になってきますね。
「春」と直接言うのは避けて、「嬉嬉」「煕煕」などの畳語で対句をまとめておき、例えば転句の「雲生」を「春雲」として残すなどが良いでしょうか。
2017. 5.24 by 桐山人
作品番号 2017-150
梅
一朶白花授麗妍 一朶の白花 麗妍を授け
青梅偶酒養丹田 青梅酒に偶し 丹田を養ふ
浸塩漬酢成皴面 塩に浸り酢に漬かり皴面と成るも
未厭多年喫飯連 未だ厭はず 多年喫飯の連れ
<感想>
梅の花から実となり、その実も酒ともなるし漬け物にもなる、言い換えると、鑑賞にも良し、滋養にも良し、そして食事の友にも欠かせないという三点から梅を詠じたもので、これは詩人のみならず、万人が納得する内容ですね。
多面的に述べていることがこの詩の本領で、言っていることは特別な話ではないのですが、漢詩で書くとどことなく厳かな趣も出て来て、楽しめますね。
起句が四字目の孤平ですので、直す必要がありますが、「授」の字に梅が偉そうにしている雰囲気が有って面白いので、「芳花」としてはどうでしょうね。
2017. 5.24 by 桐山人