2015年の投稿詩 第151作は北九州市の 忍冬 さん、六十代の女性の方からの投稿作品です。
 

作品番号 2015-151

  薩南知林島        

薩南處處鳥聲頻   薩南処処 鳥声頻りなり

碧水連天萬頃春   水碧く天に連なる 万頃の春

獨歩微吟砂嶼路   微かに吟じて独り歩む 沙嶼の島

松風颯颯渡清晨   松風颯颯として 清晨に渡る

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 世界漢詩同好會にも投稿いただきましたが、新しい漢詩の仲間を迎えることができ、とても嬉しく思います。

 この作品は、名古屋にいらっしゃる闘病中のお兄様に、現地の写真パネルとともに贈られたものだそうです。
 私もお葉書で写真を見せていただきましたが、青青とした空と海、砂州でつながる知林島の緑、雄大な景色が広がり、空高くから鳥の声が聞こえてきそうな風景です。
 お兄様も喜ばれたそうですので、十分にお気持ちが伝わったのでしょうね。

 読み下しで、承句は「水碧」とは戻りませんので、「碧水 天に連なり」でしょうね。
 同様に、転句も「独歩 微吟」と対語を音読みしておくと効果が出ますね。



2015. 6.24                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第152作も 忍冬 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-152

  屋久島        

青螺畳處白雲生   青螺畳なる処 白雲生じ

峻嶺飛泉水一泓   峻嶺の飛泉 水一泓

盡日尋幽淨心目   尽日幽を尋ねて 心目を浄め

披襟滿耳巨杉聲   襟を披き耳に満たす 巨杉の声

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 こちらの作品は、北九州市の芸術祭で入選なさったもの、こちらも雄大な景色を描き、徐々に島の中に進んでいく様子がリアルタイムの映像のように目に浮かぶ書き出しですね。

 後半は作者の心情が出てきますが、結句の「巨杉の声を聞く」という表現が良いですね。
 「巨杉」が良いか「古杉」が良いか、迷うところですが、見た時の印象を言葉にしたことで、ここでも現実に屋久杉の前に立っているイメージが湧いてきます。
 忍冬さんの、映像や絵画的な感覚が感じられますね。

 転句の「淨心目」も良いですが、結句の「耳」と重なりますので、私でしたら「淨心氣」としますか。



2015. 6.24                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第153作は中国の高校生、 聖龍 さんからの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2015-153

  嘆感        

哀哉吾生好違正   哀しき哉 吾生 好く正に違ふ

迷途未卜前茫茫   途に迷ひ未だ卜せず 前は茫々

痛惜今世混且濁   痛惜す 今世 混に且つ濁(じょう)

苦祈後業輝而煌   苦だ祈る 後業 輝きて煌く

文辭詩賦效前古   文辭と詩賦 前古を效(なら)ひ

コ道心術灋先王   コ道と心術 先王に灋(のっと)る

数十載越身定寄   数十載 身は越(いよい)よ 定め寄り

二元玉人手滿香   二元の玉人 手は香に滿つ

          (下平声「七陽」の押韻)


「二元」: 二次元
「玉人」: 美しい女の子


<解説>

 鈴木さま
 御名前を良く存じております。

 僕は中國の高校生で御座居ます。以前から、日中漢詩と古文に深く興味を持っております。
 鈴木先生の漢詩网(web)桐山堂を訪問し,多くの良作を拜讀し、大變嬉しく存じました。

 御邪魔して恐縮では御座居ますが、此は僕の作った漢詩の一つです。
 友人と日本語に譯してみましたが、御指導と御指摘下さっても宜しいでしょうか。

<感想>

 中国からの投稿、しかも高校生という若い方から詩をいただき、とても嬉しく思います。
 日本の高校生でも漢詩を作っているのはほんの少ししかいませんが、古典を愛する若者が居ることは、本当に励みになります。

 律詩をいただきました。読み下し文と解説につきましては、詩意・文意を考慮して私の方で一部直しましたが、日本語(古文)もよく勉強なさっていると感じました。

 平仄につきましては、古典詩としては適合していない所があります。
 日本では、漢詩を作る時には、唐代の形式を尊重し、平仄を考慮するにしています。概ね「二四不同・二六対」と「反法・粘法」、そして「下三連の禁止」などですが、下にご参考にとお示ししました。

 内容としては対句も考慮され、構成的にも整った形になっていると思いました。
 特に前半の自分自身への迷い、そこから未来志向として古典を学ぼうという姿は、青春時代の若者の姿として共感できますね。まさに士大夫の目指すべき道、王道に立ち戻ろうということでしょう。

 ただ、第一句の末字「正」は仄声で踏み落としになりますが、七言律詩でしたら押韻したいところです。

 尾聯の趣旨が分からなかったのでお尋ねしたところ、英文の丁寧なお返事をいただきました。
 句の意味は、将来科学技術が発展したら、二次元の美女(これは日本からのものだそうですから、漫画やアニメの主人公でしょうか)と実際に手を取り合うことができるかもしれない、という意味だそうです。
 話が飛躍するように感じますが、古典を学びつつ先進技術も活用する将来を描いたというところでしょうか。
 ただ、「二元玉人」が唐突に出てくると、色々な解釈が考えられ、こうした心情を述べる詩としては弱さが出てしまいます。
その辺りを検討されると良いでしょう。

 お手紙には、現在の中国の現状への思い、日中両国の交流を願うお気持ちが書かれていて、中国の若い方のお考えが伝わりました。
 是非、今後も投稿くださり、交流を進めましょう。


 尚、参考のために平仄をお示し、古典詩への対応をお示ししておきます。

  哀哉吾生好違正  ○○○○●〇●  四字目を仄声にする(二四不同)・七字目は韻字に
  迷途未卜前茫茫  ○○●●○○◎  二字目を仄声(反法)四六字目も逆に
  痛惜今世混且濁  ●●○●●●●  四字目五字目を平声に(二四不同)
  苦祈後業輝而煌  ●○●●○○◎  五字目を仄声(下三平)
  文辭詩賦效前古  ○○○●●○●
  コ道心術灋先王  ●●○●●○◎  四字目を平声(二四不同)・六字目を仄声(二六対)
  數十載越身定寄  ●●●●○●●  四字目を平声(二四不同)
  二元玉人手滿香  ●○●○●●◎  四字目を仄声(二四不同)・六字目を平声(二六対)




2015. 6.26                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第154作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-154

  乙未花茨忌(故白石悌三君十七回忌)        

無常人世有誰先   人世 無常 誰有りてか先んず

相隔幽明十七年   幽明 相隔す 十七年

吾鬢已蒼君髪壯   吾が鬢 已に蒼く 君が髪は壮なり

我情不變尚依然   我が情 変らず 尚依然たり

          (下平声「一先」の押韻)


[獨吟歌仙 花茨(第十五の巻)]

   俤や昔の侭に花いばら
   死者は不死身である。生前の遺影の侭、十七年経っても歳を取らない。

   七月歌舞伎伊達の十役
   十七年前、新装なった博多座の杮(こけら)落し。博多山笠無念の外題「勧進帳」 兼山
   十八歳原発の是非如何ならん
   少年法の改正に先駆け、選挙の投票権が十八歳以上に引き下げられた。
   番茶も出花今昔の感
   昨今の十八歳は青春時代の真盛りだが、往年の十八歳は結婚適齢期だった。
   今風の出前サーヴィス月見台
   昨今の観月会では、コンビニ特製の花見弁当と缶ビールが配られる。
   知己幾人か敬老の集ひ
   敬老会の招待客は後期高齢者に限定され、顔見知りも段々少なくなった。

【補注】
少壯能幾時 鬢髪各已蒼《贈衛八処士・杜甫》
桃花潭水深千尺 不及王倫送我情《李白・贈王倫》



<感想>

 毎年この時期にいただいている「花茨忌」の詩、十七回忌を迎えたとのことです。
初めていただいたのは「寄花茨丁亥忌」、2007年でしたので八年前でしょうか。
 遺影の中の友人の姿は昔と変わらない、しかし私の方は年齢を重ねて、白髪も増えてしまった。しかし、故人(君)を想う気持ちは全く変わらないよ、という思いは、実は亡くなった人への思いだけではなく、もう何年も会えなくなって、ひょっとしたら二度と会うこともできない人への想いにも共通するものです。
 高校時代の卒業アルバムを見た時の懐かしい幾つもの顔に対して、私も年老いて、訃報にも何度か接するようになり、以前とは異なる感懐を抱くようになってきました。

 転句と結句の頭に一人称の語が用いられていますね。【補注】を拝見すると、李白の詩から持ってきたように見えますが、李白の句は「我情」ではなく、「我を送るの情」、ここでは王倫の方の「情」ですので、「我」を重ねて入れるのは疑問です。
 「旧情」とか、ずばり「友情」で良いと思います。

 兼山さんからは、10月の福岡での漢詩大会、その夜の桐山堂懇親会で、是非多くの方に「福岡の夜」を満喫してもらいたいというお言葉をもらっていますので、皆さん、よろしくご検討くださいね。


2015. 7. 6                  by 桐山人



兼山さんからご質問をいただきました。

 拙詩「乙未花茨忌」に対して、ご感想を頂戴致しまして感謝申し上げます。
 文中の「転句と結句に重出している一人称の語」に関する不躾な質問を御許し下さい。

 単純に「王倫が我(李白)を送るの情」と同じ様な「我(兼山)の故人に対する情」の心算ですが、敢えて「吾が鬢」と「我が情」と重出させるのは、無意味(疑問)でしょうか?


 そうですね、詩中の「我情」は「私の心」ということだとは理解できますが、そもそもあまり入れる必要の無い「吾」「我」を繰り返す効果があるのかは、確かに疑問です。
 転句の方はまだ、「吾鬢」「君髪」との句中対ですので、対応として「吾」が入るのは自然です。
 その対応については、この転句で満足しておくべきで、結句とまで対応させようというのは欲張りでしょう。
転句のせっかくの句中対がぼやけてしまいます。

 何よりも、ここで「我」と言う必要があるかどうか、私が例示しましたような「旧情」「交情」として、「情」の内容を示した方が詩としての情報量が増えると思いますよ。 2015. 9. 9             by 桐山人






















 2015年の投稿詩 第155作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-155

  世論偶感        

功罪汗屬   功罪は汗青に属し

是非時代存   是非は時代に存す

人寰多禍敗   人寰 禍敗多し

虚靜聞史論   虚静に史論を聞かん

          (上平声「十三元」の押韻)



<感想>

 起句の「汗青」は「あぶって水分を汗のようにとばした青竹に文字を書いた」ことから書物や歴史書を著しますね。
 文天の「過零丁洋」の最後にも使われていましたね。

 「功罪」「是非」の判断を時の流れに委ねるのは、何か重大な行動をしようとして、判断がつかない、あるいは周囲の同意が得られない時に、自分を勇気づける考えではあります。
 だから何でもやって良い、ということではなく、逆に、現在の地位や勢力に甘んじてやりたい放題をしていると歴史が必ず審判を下すということです。
 過去の歴史を見て過ちが無いかを判断し、未来に恥じることの無いように行動することが大切だということです。

 東山さんは具体的な案件を出しているわけではありませんが、私はまさに現在の、高飛車な「上から目線」、質問をぼかす答弁の繰り返し、マスコミをおどす傲慢さなどが目立つ政治家の目の前に突きつけたい言葉だと思いました。

 簡潔な表現で、五言絶句の特性を生かした詩になっていると思いました。
 結句は平仄が乱れています。結びに「史論」を持ってこようとすると、全体に見直さなくてはいけなくなりますね。



2015. 7. 6                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第156作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-156

  母子        

貧家慈母賣家鷄   貧家の慈母 家鷄を売り

少女新鞋喜走畦   少女新鞋 喜び畦を走る

急雨作塗愁足下   急雨塗(ぬかぬみ)を作し 足下を愁ひ

跣行悲咽渡淤泥   跣行悲咽 淤泥を渡る

          (上平声「八斉」の押韻)



<感想>

 こちらの詩は、何か題材があったのでしょうね。
 昔懐かしいという感じの情景です。
 せっかく買って貰った新しい履き物、雨に降られて汚れるのを嫌がり、裸足(跣行)で泣きながら歩いているという流れは、鮮明な映像として目に浮かびます。
 現代の日本でも、新しいものを与えられた子どもは、こんなに純粋に喜んでくれるのでしょうか、ふと不安になります。



2015. 7. 6                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第157作は 莫亢 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-157

  自石垣島座渡船之西表島  
          石垣島より渡船(フェリー)に座して西表島へ之く   

舳刳碧海渡流波   舳は 碧海を刳きて 流波を渡る

溟島眺遼浮万渦   溟島 眺め遼かにして 万渦に浮かぶ

漠漠軽陰何愁客   漠漠たる軽陰 何ぞ客を愁へしむ

顚風把褞拉飄過   顚風 褞を把りて 拉き飄して過ぐ

          (下平声「五歌」の押韻)



<感想>

 前半で船で渡っていく様子、青々とした海と白い波、ダイナミックな光景が描かれていますね。
 特に承句は、実際に莫亢さんがご覧になったもので、パノラマ撮りしたような広がりと奥行きが出ています。

 転句はややぼけますが、広い海上に薄もやが垂れ籠め、作者の旅愁へと進み、しかしそれも軽いもので、進む船風に飛び散じて行くのは、李白の白帝城の詩を思い浮かばせますね。
 起承転結がうまく整った詩になっていると思います。

 

2015. 7.12                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第158作は 調布T.N さん、七十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2015-158

  拷A風趣 深大寺       

大樹悠悠蔽碧旻   大樹悠悠と 碧旻を蔽ひ

拷A風渡鳥聲頻   緑陰 風渡り 鳥声頻りなり

皇都郊外古僧刹   皇都の郊外 古僧刹

早曉逍遙洗俗塵   早暁 逍遙し 俗塵を洗ふ

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 お手紙をいただきました。

 深渓先輩から勧められ、初めて投稿をさせて戴きました。
 インターネット上での教材やツールが整備されていて、素晴らしいホームページです。

 先輩各位の作品が見られるのも参考になります。

 初めての投稿詩、ありがとうございます。
 新しい仲間を迎えることができ、とても嬉しく思っています。
 学期末で仕事が錯綜し、掲載が遅れてご心配をかけました。

 さて、詩の方は世界漢詩同好會の詩題、韻目でいただきましたので、参加詩に載せさせていただきました。

 起承転結も含め、整った詩をお作りになっていらっしゃいますね。
手慣れた作詩という印象です。

 若干、気になるとすれば、起句の「碧旻」の直後に「緑陰」として、同系の色を重ねたところでしょうか。
 両方の色を引き立て合うならば良いですが、同じような色だと、どちらも印象がぼけてしまうことがあります。
 「緑陰」を離して結句にでも置けば随分解消されます。

 ついでに、起句の「蔽碧旻」も、これが「早暁」の空となると、何となく違和感があります。昼の空と考えるとしっくりするのですが。

 例えば、承句を「午風枝動鳥聲頻」としてみる。あるいは、「輕風枝杪鳥聲頻」として結句に「午下逍遙洗俗塵」としてみるなど、推敲の楽しみが増えると思います。

 もう一点は、結句の「洗俗塵」、どこからこの気持ちになったのかと言うと「古僧刹」を歩いているからでしょうが、では、具体的に「古僧刹」のどこ?と考えると、分かったような分からないような感じです。
 「大樹」「碧旻」「緑陰」「風」「鳥聲」「早暁」「逍遙」、描かれたものを見ても、「これが俗塵を洗う」という決定打にはなり難い印象です。
 どれかに「清」の一字が入るだけで、そこが浮き上がりますので、例えば、結句を「午氣清涼洗俗塵」とするようなことを考えてはいかがでしょう。



2015. 7.12                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第159作も 調布T.N さんからの作品です。
 

作品番号 2015-159

  慈雨        

梅雨蕭蕭潤地輿   梅雨蕭蕭と地輿を潤す

紫陽水滴宝珠如   紫陽の水滴 宝珠の如し

主人坐対荒庭影   主人坐して対す 荒庭の影

天壌恩波意有餘   天壌の恩波 意に余り有り

          (上平声「六魚」の押韻)



<解説>

 終日の雨に紫陽花は生き生きとして、宝珠のような水滴が荒庭の物に当たり、心地良い音色を醸し出していました。

<感想>

 こちらも無理なく作っておられますね。

 今年は六月の下旬頃から梅雨の長雨が続き、二三日前に久しぶりに青空を見て、妻と感激しました。
 お書きになったような、雨を喜び、楽しむという心境までは私はなかなかなれず、散歩も行けず、最近の趣味である自転車逍遙もできず、雨空に向かって文句ばかり言っていました。

 結句の「天壌恩波」は、天地の遍く広い恵みということですが、ここまで言われれば梅雨空も満足することでしょう。

 「あじさい」は「紫陽花」まで書かなくてはいけないと言われますが、私はだけではお気持ちもよく表れていると思います。
 欲を言えば、せっかくの「心地良い音色」を入れて、転句を「主人坐聴荒庭韻」としてはどうでしょうね。



2015. 7.12                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第160作は中国西安在住の 巴山庸人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-160

  夜聞火車聲        

寂寞嚴冬夜,   

依稀長笛聲。   

應朝南国去,   

漢涘有郷城。   

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 中国からのお手紙をいただきました。
 巴山庸人さんは現代に古典詩を作る意義を考えていらっしゃるようです。
 現代の中国の方が漢詩にどんなお考えをお持ちなのか、興味のある方もいらっしゃるでしょうから、訳して一部をご紹介しましょう。
 お手紙は中国語でしたので、私の読解が違っていましたら済みません。

 現代中国で伝統詩詞(古典詩)の創作熱は高まっていて、愛好者の団体は万を超えるだろう。
インターネットを使って、盛んに作品を発表している。
 しかし、現代の事物を古典詩で詠むことはなかなか難しいのが実情だ。

 新詩の形式は現代生活を容易に表現することができるのに対し、旧詩は多くの人が指摘するように、現代生活を表すには不適当だ。
 だから、一般に、旧詩創作は現実生活を描写することは極めて少なく、作者の頭の中で想像されたものが主流となっている。
 旧詩は本当に現実に適応できないのだろうか、現実を描写することは不可能なのか。

 私の基本的な見方は、旧詩が現代生活を描写することは、本当に難しいところがあり、更に限界もある。
 旧詩が全てを包含することはできないし、題材が適していない面もある。しかし、旧詩はかならず現実での意義を有している筈で、また、時代が遷っても淘汰されずに残っていることが、何よりも旧詩の存在意義を表している。
 さて、何首かいただきましたので、少しずつご紹介しましょう。

 「火車」は中国語で「汽車・電車」のことです。
 前対格を用いて、冬の夜、遠くから聞こえてくる汽笛に感覚を集中させて行きますね。

 起句の「寂寞」は、冬の夜の厳しい寒さを象徴させていると同時に、結句の描写から、「客夜」でもあることが分かります。
 西安から南方に漢水の流れる地まで行く夜行列車、夜が深いからこそ聞こえてくる汽笛が静寂を浮き出させます。
 更に、その音が遠いことで汽車という実体が薄れ、故郷に向かう汽車というイメージ、郷愁が心の中に浮かびます。どことなくノスタルジックな趣がよく出ていますね。



2015. 7.18                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第161作は 巴山庸人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-161

  賣燙串人        

夜深寒徹骨,   

人静老街空。   

若个合歡下,   

默当爐火紅。   

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 題名の「賣燙串人」は街頭の焼き串売り、香ばしい煙で通行人や観光客を引きつける屋台の主人ですね。

 前半は古都西安の冬の夜でしょうね。「老街」の言葉が雰囲気をよく出していますね。

 転句の「若个」は「誰」とか「何」を表す言葉ですが、この場合には「誰」でしょうか。
 こんな寒い夜にデートしているのは誰かしら、黙って当たっている炉の火は赤々としているよ
 後半はこんな意味でしょう。

 題の「賣燙串人」は詩の中では何もしないわけで、炉の炎の向こう側に背景として存在しているだけなのですが、その陰影が一幅の絵画のような味わいを出していて、作者の詩心を感じますね。




2015. 7.18                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第162作は 徠山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-162

  緑陰清話        

友到索居肝膽披   友は索居に到り 肝胆を披く

緑陰一榻啜茶時   緑陰の一榻 茶を啜る時

白頭相對語翻少   白頭 相対して 語翻(かえ)って少(まれ)に

閑看青山忘刻移   閑に青山を看て 刻(とき)の移るを忘る

          (上平声「四支」の押韻)


「索居」: 侘び住まい。
「肝膽披」: こころからうち融けること。

<感想>

 徠山さんから前回は御岳山噴火の時事詩をいただきました。

 今回は「緑陰清話」、古典的な詩題で、友人との楽しい時を過ごしているのがよく分かる詩ですね。

 起句の「肝膽披」は「友」が来たのなら言わずもがな、逆に言えば、「肝膽披」でない人は「友」とは呼ばないので、表現が何となくもたもたした印象がします。
 よく整った詩ですが、詠い出しの「友」を「客」に変えると、すっきりした流れになると思います。

 転句の「語翻少」は、「白頭」を受けて、長年の付き合いの友人だから言葉はあまり要らない、話さなくても心は通じ合うということでしょう。
 流れとしては理解できますが、題の「緑陰清話」から行くと、どうでしょうか。「清話」は話をすることを楽しむという趣がありますから、「話さずに清話する」という禅問答のような場面になります。
 古来の詩題に一ひねり、という面白さはありますが、ちょっとスリリングなので、詩題から「話」を取る方向が落ち着く気がしますね。



2015. 7.18                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第163作は 徠山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-163

  雨日讀書        

天昏懶出入梅初   天昏く 出るに懶し 入梅の初

閑坐幽齋對古書   幽斎に閑坐して 古書に対す

密密疎疎簷溜滴   密々 疎々 簷溜滴たり

此聲誘我入華胥   此の声 我を誘ひて 華胥に入る

          (上平声「六魚」の押韻)

<感想>

 起承転結もまとまっていて、気持ちがよく伝わる詩ですね。

 結句の「此聲」が何となく甘く、この音がどんな印象だったのかがあると、「入華胥」が生きてくると思います。
 作者の印象に依りますが、「密密疎疎」と水滴の落ち方はもう出ていますので、無難に「好聲」。 承句の「幽齋」を、「閑」「幽」の類語を避けてあらかじめ「茅齋」としておいて、結句の方を「幽聲」とするなどが考えられますね。



2015. 7.22                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第164作は 巴山庸人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-164

  冬臨廣遠潭        

一泓氷告,   

数樹骨紅梅。   

蜂蝶倶深蟄,   

花唯向我開。   

          (上平声「十灰」の押韻)



<感想>

 題名の「広遠潭」が具体的な地名なのかどうかは知りませんが、広々とした深い岸辺が目に浮かびますね。

 起句の「一泓」は「一泓清水」という言葉からのものですね。そこから考えると、起句は「一泓氷水香v、対句の承句は「數樹骨梅紅」となるところでしょうか。

 転句で「蜂蝶」を出し、結句に作者を持ってくるのは展開として良いですが、承句に「紅梅」を出しておいて、また、「花」を出したのでは、冬の情景と春の情景を並べた形で前半と後半が同じ構成になります。
 そのため、「向我開」の感動があまり浮かび上がってきません。
 承句も岸辺の情景を出しておいても、春を暗示する「蜂蝶」が転句の役割を果たしているので、展開上は問題は無いと思います。
 色々考えられますが、「一泓氷水漲 兩岸斑叢頽 蜂蝶倶深蟄 紅花向我開」でしょうか。



2015. 7.22                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第165作は東京都小金井市の 碧翁 さん、七十代の男性の方からの初めての投稿作品です。

作品番号 2015-165

  内苑菖蒲        

雨余緑樹繞陂池   雨余の緑樹 陂池を繞る

藍水生漣立鷺鷥   藍水漣を生じ 鷺鷥立つ

蛺蝶尋芳舞橋畔   蛺蝶芳を尋ね 橋畔に舞ひ

紫黄花発競姸姿   紫黄の花発き 妍姿を競ふ

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 五月末に深大寺水生公園を訪ねたところ、水は漫漫、鷺は餌を求め、蝶の舞う先を見ると色とりどりの菖蒲が咲き誇っていた。

<感想>

 碧翁さんは調布T.Nさんのお近くですので、やはり深渓さんのご紹介でしょうか。
 また、新しい仲間を迎えて、とても嬉しく思っています。

 作詩のご経験は七年ほどだそうですが、実際に見た景色を描かれたこともあり、場面の伝わりやすい詩ですね。

 まず細かいことですが、起句の読み下しは「雨余 緑樹 陂池を繞る」としないといけません。「緑樹」は雨中だろうが雨余だろうが、池のまわりに存在するわけで、「雨余の緑樹」では「雨が降ったから緑樹が池を繞る」となります。

 全体の構成では、「緑樹」「鷺鷥」「蛺蝶」がどれも水辺の景物として描かれて、確かに作者が見た景色が素直に描かれていますが、内容的には、起句・承句・転句を勝手に入れ替えてもあまり変化が無い印象です。
 これは転句に責任があり、結句の「菖蒲」とのつながりをもっと強くしないといけません。その意味では「橋畔」が中途半端ですね。
 作者は自分の目で見ていますので、「橋畔」と言えば「菖蒲の花の場所」と直結するのでしょうが、深大寺水生公園を知らない読者はわからないことです。
 それならばいっそ、場所を示さずに「蛺蝶尋芳何處去」として、読者と一緒に蝶の姿を追って、その先に菖蒲が見えた、とするのも一つの例ですね。

 また、転句の「尋芳」ですが、結句の最後が香りではなく「競姸姿」と姿を言っていますので、ここを直す形で「蛺蝶尋花板橋畔 菖蒲黄紫競姸姿」としても良いでしょう。



2015. 7.22                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第166作は神奈川県平塚市の 地球人 さん、五十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2015-166

  夏日舟行        

夏来永昼壮炎威   夏来りて 永昼 炎威壮んなり

江静乗舟蹴浪飛   江静かにして 舟に乗じ 浪を蹴って飛ぶ

急雨濛濛蓮葉響   急雨 濛濛 蓮葉響く

荷花香散晩涼帰   荷花 香散じて 晩涼帰る

          (上平声「五微」の押韻)



<解説>

 『漢詩を創る 漢詩を愉しむ』を読んで、このホームページの存在を知りました。
 漢文は学生時代に古文の授業以来です。

 上記の本を読んで作ってみたくなりましたので、今回投稿させて頂きました。
 ホームページの「漢詩の基礎コーナー」も参考にさせていただきました。
 初めての作品です。

 ホームページでは、中学生や高校生の方たちも漢詩を作っているのだなと知って感心しました。

 この詩は、暑い夏の日に夕立がきて、快適になったといった状況を表現しようとしました。
 漢詩のルールは守ったつもりですが、違反している点などありましたら、ご指導の程宜しくお願いします。

<感想>

 また新しい仲間を迎え、これはいよいよ「漢詩ブーム到来」かと胸が高鳴りますね。
 まずは拙著をお読みくださり、ありがとうございます。「読んで作ってみたくなり」という筆者冥利に尽きるようなお言葉、本当に嬉しく思います。
 初めての作品ということですが、押韻、平仄ともよく調べてお作りになっていると思います。
 ただ、いただいた詩に題名がありませんでしたが、せっかくの作品で残念ですので、とりあえず「夏日舟行」としておきましたが、「首夏雑感」「夏初水境」などでも良いですね。
 謙遜なさったのかもしれませんが、記念というか、記録の意味でも題名はつけた方が良いです。

 起句で夏の暑さ、承句で舟の様子、転句から突然の雨、結句で雨後の涼しさを詠うという構成は無理がありません。
 ただ、承句であまり舟上の快適さを出してしまうと、暑さが弱まり、結句が十分に生きてこないきらいはあります。
「江静小舟乗浪帰」くらいで、少し落ち着いた感じが良いですね。

 転句は下三字の「蓮葉響」は大粒の雨がバラバラと当たっていることを表しているのでしょうね。
 ここも承句と同じで、あまり勢いを出すのは疑問です。お使いになった「濛濛」が丁度良いくらいですので、合わせる形で「湿蓮葉」と挟み平にするのが良いのではないかと思います。

 結句の「荷花」は転句の「蓮」とかぶっていて、「葉は音を響かせ、花は香りを失い」という対応かもしれませんが、それなら句中対のような形で一つの句の中に置いた方が効果があります。
 現行では、転句の主役は「急雨」「蓮葉」ではありませんので、句同士でも対には考えにくいですね。
 花の名を出さずに、「紅花散香」と形容しておくと、重複感が消えて、つながりが自然に感じます。「残花垂首」なども下三字への流れがよくなりますね。

 下三字の「晩涼帰」は秋の言葉、まだ初夏ですので「一涼微」くらいが妥当でしょうね。



2015. 7.22                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第167作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2015-167

  [仙呂]遊四門・酒樽吟後洗詩魂        

樗翁却老作俳人,   樗翁 老いを却(しりぞ)けて俳人となり,

探勝似行雲。      探勝を探ること 行雲に似る。

寓情于景從天分,   寓情于景 天分に従ひ,

覓句愛芳春。      句を覓(もと)むるに芳春を愛す。

樽,            樽,

吟後洗詩魂。      吟じて後は詩魂を洗ふ。

          (中華新韻九文平仄両用の押韻)



<解説>

 [仙呂]遊四門は、元の時代になった散曲のひとつです。
 散曲は、詞と同様に長短を織り交ぜて詠むので、詞と似たようなもの、『欽定詞譜』に収録され、詞として扱われているものもあります。

 ただ、違いはあるわけで、そのひとつが押韻です。
 曲の押韻には、協韻といって同じ韻部の平声と仄声をともに用いる場合がとても多く、
 また、平声(陰陽二部)と上声は、たがいに代用可能とする場合があります。
 そこで、詩詞では平声vs仄声ですが、曲では平声・上声vs去声、といえるかも知れません。
 もちろん曲にも平声vs仄声型の譜のものも多数あり[仙呂]遊四門もそのひとつ、平声・上声vs去声と考えた方がよい譜が少なからずです。

 なお、韻部は、曲がさかんになった元代北方では入声はすでに消滅し、平声(陰陽二部)、上声、去声のみ、現代の普通話に近くなっており、
 曲韻(中原音韻)の韻部は現代韻の『詩韵新編』とほぼ同じです。

 [仙呂]遊四門 曲譜

  △○▲●●○平,▲●●○平。△○▲●○○仄,▲●●○平。平,▲●●○平。
   ○:平声。●:仄声。平:平声の押韻。仄:仄声の押韻(協韻)。
   △:平声が望ましいが仄声でもよい。▲:仄声が望ましいが平声でもよい。


<感想>

 「唐詩宋詞元曲」と歴史的な知識としてはわかっても、なかなか実作に触れる機会も少なく、詞と曲の違いも分からない状態ですので、鮟鱇さんのご教示が嬉しいですね。

 「樗翁」は「役立たずの老人」ということですが、ご自身の謙称、ここでは「リタイアした閑な爺さん」というところ、「俳人」は「趣味人、遊び人」というところでしょうね。

 「寓情于景」は次の詞にも出てきますが、「情を景に寓す」ということで、「自然の景物に心を寄せて詩を練る」、作詩で言えば「叙景の中に感情を籠める」ということでしょう。詩作の後に酒を愉しむという流れですね。

 第五句は一字だけですので、難しいけれど眼目のところでもあるのでしょう。
 「句を練り、好時節を愛で、そして、そして、その後は、何と何と」というくらいの前置きの後、「酒だ〜〜」の声が一帯に響いているような面白さを感じました。
 このあたりの軽快さで読解しても良いでしょうか。


2015. 7.23                  by 桐山人



鮟鱇さんからお返事をいただきました。

 鮟鱇です。
 拙作《[仙呂]遊四門・酒樽吟後洗詩魂》について
>このあたりの軽快さで読解しても良いでしょうか。
 とのコメントをいただきました。

 散曲は詩や詞にくらべ軽快な作品が多いと思っています。
 そこで、散曲を詠むときは、軽やかに、を心がけています。

 私がねらいとしましたあたりを先生に読み解いていただき、とてもうれしいです。
 ありがとうございました。

2015. 7.30           by 鮟鱇






















 2015年の投稿詩 第168作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-168

  再訪沖繩有感        

平安座島是懷哉   平安座島 是れ懷しき哉

三十餘年歳月催   三十余年 歳月催す

前濱海域滄桑變   前浜海域 滄桑の変

唯一故人何足哀   故人 唯一 何ぞ哀しむに足らん

          (上平声「十灰」の押韻)



   懐かしき平安座前浜梅雨湿り


<解説>

 「沖縄石油基地」は平安座島と宮城島間の埋立地に立地している。
 その建設工事(昭和五十八年竣工)に曾て従事した。

 この度、三十二年振りに現地を訪問したが、平安座島と沖縄本島とを結ぶ海中道路は四車線に拡幅され、平安座島と浜比嘉島とを結ぶ浜比嘉大橋が開通し、平安座前浜の景観は大幅に変貌していた。
 当時の地元関係者も大半が他界されており、お元気な元与那城村長(奥田良正光氏)とだけ再会した。

【補注】

  沖縄石油基地の建設工事竣工す。すなわち平安座島に別れを惜しみて詠める琉歌(一首)
 平安座前浜に(フェンザメヌファマニ)
 打引く波の (ウチャイフィクナミヌ)
 振別の涙  (フヤカリヌミナダ)
 肝に留めて (チムニトゥミティ)

       (在沖日誌―昭和58年10月11日―)

  沖縄市芸能団体協議会会長の島袋英治氏(*)に琉歌の御指導を仰いだ。
 (*)現在、島弦会、島袋英治三線研究所

<感想>

 沖縄での建設工事に携わったということですが、三十二年ぶり、お書きになったように「滄桑變」を実感されたことでしょうね。
 また、曾ての顔見知りもお一人だけ、というのも時の流れを感じられたことでしょう。
 ただ、そのことを悲しむのでは無く、一人だけでも久闊を叙すことができたことを喜んでいるという結末は、共感できます。

 前半で「是懷哉」と感情が入り、「三十餘年」と時間の長さを述べています。この「懐かしい」という気持ちが転句で、現地の変化を表すことで逆転し、更に、また結句で故人に逢うことが出来たと喜びに戻るという構成で、後半がやや慌ただしいように感じます。
 「海域」で海辺の様子は変わってしまったかもしれませんが、「海色」として、自然の景色は変わらないという趣に持って行ってはどうでしょうか。



2015. 7.29                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第169作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-169

  再訪沖繩有感(二)        

基地是非難奈何   基地 是か非か 奈何ともし難し

攻防死守幾年過   攻防死守 幾年か過ぐ

琉球王國山河在   琉球王國 山河在り

南北西東城跡多   南北西東 城跡多し

          (下平声「五歌」の押韻)



<解説>

 「沖縄慰霊の日」(六月二十三日)、戦没者追悼式に於ける翁長沖縄県知事の平和宣言、及び安部内閣総理大臣の挨拶を聞いて、両者の立場の相違を憂慮せざるを得ませんでした。
 何とか解決の糸口は無いものでしょうか。

 今日の普天間基地移転問題と昭和末期の石油備蓄基地建設問題とは必ずしも同一ではありませんが、対立の構図は全く同じであります。
 先月、久し振りに沖縄を訪ねた直後には、時事問題としての沖縄を詠むことを一度は躊躇しましたが、是非とも記録に留めて置くべきだと思い直し、一詩を詠みました。

【自註】  嘗ての琉球王国は亡びたが、沖縄の山河は遺っている。
群雄割拠していた時代の城(グスク)跡が、世界遺産として沖縄全土に遺っている。
(北山には今帰仁城、中山には中城、勝連城、首里城、南山には豊見城など)先の大戦で全島が激戦地となった沖縄の山河には、戦後七十年の今日なお、日米安全保障条約の下、極東最大の米軍軍事基地が遺っている。

   城(グスク)てふ異形の城跡梅雨に入る



<感想>

 沖縄の問題は、既定のこととして進めたい政府と、前回の沖縄知事選によって示された民意との食い違いが顕著で、こちらに関しても「聞く耳持たず」の姿勢を崩そうとしない現政権の下、何とか打開策を取ってほしいという言葉は、特に沖縄に関わってこられた兼山さんの痛切な気持ちでしょう。

 起句の「難奈何」はあまり詩では用いない用法で、「可奈何」「無奈何」の方が一般的ですね。

 転句の「山河在」は杜甫の「春望」を意識されたのでしょう。ただ、琉球王国自体のことで言えば、沖縄が不幸な激戦の地であったことは確かですが、大戦の時点で王国が滅んだという展開は違和感があります。
 「山河麗」としておくのが結句とのまとまりが生まれるでしょう。



2015. 7.29                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第170作は 莫亢 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-170

  夏雨        

狂風巻地欲生雲   狂風 地を巻きて 雲を生ぜんと欲す

電影雷声栖鳥群   電影 雷声 栖鳥群がる

頃刻沛然蘇万物   頃刻 沛然として 万物を蘇らしむ

東山一角漸斜曛   東山の一角 ようやく斜曛

          (上平声「十二文」の押韻)


<感想>

 突然の急雨については、蘇軾の「六月二十七日、望湖楼酔書」が有名ですね。

 承句は「栖鳥群」では集まってくることになりますので、雨を避けて木の枝に鳥が群がっているということでしょうか。
 「雷声」がありますので、印象としては、鳥がざわざわと騒ぐという場面では無いかと思いますので、「栖鳥紛」の方がすっきりします。

 転句は「蘇」ですと、雨を喜ぶ形になります。結句の雨上がりへの気持ちが薄くなりますので、「濛」「冥」あたりが良いと思います。



2015. 7.29                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第171作は 莫亢 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-171

  立於吉祥寺街道        

往昔学生親酒旗   往昔 学生 酒旗に親しみ

一宵談政不知疲   一宵 政を談じて 疲るるを知らざりき

于今酔処尋無跡   今において 酔処 尋ぬるも跡無く

但見霓虹日暮時   ただ見る 霓虹(ネオン) 日暮の時に

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 前半は青春時代の思い出をそのまま素直に描いたもので、私自身も懐かしい思いになりました。
 「一宵」は「徹宵」「毎宵」でも良いですね。

 転句の「于今」は文章語ですので、「如今」「当今」などの詩語を使ってはどうですか。



2015. 7.29                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第172作は 道佳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-172

  糸切独裁風筝凧        

大綱血刃独風筝   大綱は血刃し 独りのみ風筝

光被天空憲法声   天空を光被す 憲法の声

民族命根開壱切   民族の命根 開く壱切

青春崛起導黎明   青春崛起し導く黎明

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 大綱(憲法)は、血刃(戦争法強行)し、独裁者の大凧は空中でフラフラし、まさに墜落しそう。
 その大空をおおうのは、憲法を守れの大きな叫び。
 日本の運命は、すべて自ら切り開くと
 未来を担う若者たちが立ち上がり始め、日本の夜明けへと導きと突き進んでいる。

「大綱」: 国の基本、憲法
「血刃」: 血で切りつける、戦争
「風筝」: 日本の凧
「光被」: 徳が広く行き渡る
「命根」: 命の根本
「青春」: わかもの
「崛起」: むっくりと立ち上がる
「黎明」: 夜明け


<感想>

 時事問題については、色々なお考えがあると思います。
 このサイトではこれまで、どなたでも漢詩としての交流ができるように、あまり政治的な色彩が濃い主張に対しては、主宰の私の判断で掲載をご遠慮いただいたこともありました。
 しかし、今回強行採決された法案につきましては、私としては、どうしても黙ってはいられない思いです。

 戦後生まれの私は、現在の憲法を誇りとし、守り、二度と戦争はしない国の民として育てられてきました。成人となった後も、教育に携わる者として、未来を担う若者たちに、平和の大切さを伝えることを使命としてきました。
 法案の必要性、危険性、そもそもの合憲性についての数々の疑問はそのままで、戦後七十年間の国民の心を足蹴にするような姿勢を認めては、あるいは、認めないとしても何も言わなかったら、これまでの私の教え子たちへの裏切りであるし、私の人生に対しての裏切りでもあると思います。

 今日、私は東京に漢詩・漢文の勉強に来ましたが、その研修が終った後、国会議事堂に行きました。国会取り巻き運動に参加するためです。
 一人の国民としての気持ちで、声を挙げてきました。
 衆参議員会館の前の歩道に次々に集まる人の流れを見ながら、未来への責任を痛感してきました。

 結句の「青春」は「若者世代」という意味ですが、日本語では「若い時代」という意味が強いので、同じ意味ですが「青年」とした方が伝わりやすいですね。
 道佳さんの詩は吟詠を意識して作られたそうですので、その関係かもしれませんね。

 同じく結句では、「開黎明」は、私の気持ちとしては、これまでも暗かったわけではないという気持ちから「未来明」としたいですね。



2015. 7.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第173作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2015-173

  水調歌頭・老去認識賦才貧        

晩境多閑假,       晩境に閑假多く,

把酒坐涼陰。       酒を把りて涼陰に坐す。

喜風清爽,         風の清く爽やかなるを喜べば,

山湖如鏡映行雲。    山湖は鏡のごとくに映ず 行雲を。

自在浮遊夢幻,      自在に夢幻に浮遊し,

不斷化爲泡影,      不斷に泡影と化爲(な)り,

鵬翼渡乾坤。       鵬翼 乾坤を渡る。

追悔生涯處,       生涯を追悔するところ,

愁悶轉沈沈。       愁悶 轉(うたた)沈沈たり。

     ○              ○

求本分,          本分を求め,

學韻事,          韻事を学び,

作詩人。          詩人と作(な)る。

少年立志,         少年 志を立つるも,

老去認識賦才貧。    老い去って認識す 賦才の貧しきを。

縱目寓情于景,      目を縦(ほしいまま)にし情を景に寓(よ)せ,

冩字尋章摘句,      字を冩(か)くに章を尋ねて句を摘み,

禿筆未翻新。       禿びたる筆 いまだに新しきを翻さず。

空送金烏落,       空しく金烏(夕陽)の落つるを送り,

諷詠似蝉吟。       諷詠 蝉の吟ずるに似る。

 

          (中華新韵九文平声の押韻)



<解説>

 久しぶりに「水調歌頭」を詠みました。填詞の所要時間は1時間ほど。
 「水調歌頭」は蘇軾に大傑作があり、テレサ・テンの『淡淡幽情』に収められていることでも知られています。
 蘇軾は11世紀の人(1037年ー1101年)、
 「水調歌頭・丙辰中秋歡飲達旦大醉作此篇兼懷子由 」が詠まれたのは丙辰年すなわち1076年。
 いわゆる源平合戦の100年ほど前の中秋の日。
 なんとも昔のことです。

 しかし、その昔々のある日の1時間ほど(多分)で書きあげた作品が、
 1000年近い時を超えて今も鮮度を失っていないのだから、蘇軾は凄いと思います。

 さて、拙作、私にしては、そう悪いできではないとは思いますが、
 蘇軾の大傑作を思いながらの填詞、私の非力を思い知るばかりでした。

 水調歌頭 詞譜・雙調95字,前段九句四平韻,後段十句四平韻 毛滂ほか

  ▲△△▲●,▲●●○平。△○○●,△▲○●●○平。▲●△○△●,▲●▲○△●,▲●●○平。△△▲○●,▲●●○平。
  △△▲,△△●,●△平。△○▲●,△●▲●●○平。△●△○▲●,△●△○▲●,△●●○平。▲●△○●,▲●●○平。
   ○:平声。●:仄声。平:平声の押韻。
   △:平声が望ましいが仄声でもよい。▲:仄声が望ましいが平声でもよい。

<感想>

 YouTubeで、テレサテンの「淡淡幽情」を視聴しました。
 台湾のテレビ番組の録画のようでしたが、テレサテン自身が蘇軾や「水調歌頭」について冒頭で語っていて、九百年前(彼女が歌った時から数えてでしょう)の詩人への敬意が感じられるものでした。
 美しい歌声と抒情豊かな歌唱力で、またまたファンになりました。

 蘇軾の「水調歌頭 丙辰中秋歡飲達旦大醉作此篇兼懷子由」は、李白の「月下独酌」や「把酒問月」を踏まえて、月世界に羽化登仙するイメージと、「悲歓離合」の人の世で、離れていても同じ月を眺めたいという結末まで、スケールの大きなものですね。
 ひょっとして結末も、白居易の「八月十五夜禁中獨直、対月憶元九」が意識されているかもしれません。

 鮟鱇さんのこの詞も、スケールの大きさ、イメージの広がりでは肩を並べていると私は思います。
 ただ、主題が老境の思いになっているからでしょうか、後半はまとまり過ぎていて、あれよあれよと思う間に日没になってしまったという印象ですね。

 蝉の鳴き声については、次の作品にも出てきますが、鮟鱇さんから以前「晩節にひたすら伴侶を求めて鳴く蝉の姿に憧れる」というお話を伺いました。
 検索して探したら2002年の掲載で「」でした。「えー、そんな前のことだったか」と自分でびっくり、それくらい脳天気な私ですので、「晩境の身だけれど、まだまだこれからだよ」という逆転をついつい期待してしまうのでしょう。
 詞ではどう書いたら良いかうまく浮かびませんが、「惟看金烏落,一意夕蝉吟。」と頑張っちゃうとか、「諷詠月明吟」のような今から月が昇るよ、という未来志向とか、そういう開き直り感は鮟鱇さんのお気持ちとは違ってしまいますかね。



2015. 8. 2                  by 桐山人


























 2015年の投稿詩 第174作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2015-174

  八聲甘州・眞吾是月光洗仙都        

上蜃樓高處送行雲,   蜃樓の高き處へ上(のぼ)って行雲を送り,

帶酒悟眞吾。        酒を帶びれば眞吾を悟る。

正白衣蒼狗,        正に白衣蒼狗なり,

少年紅涙,         少年に紅涙,

老叟金壺。         老叟に金壺。

後悔生涯空過,       生涯の空しく過ぎしを後悔し,

賣口買音書。        口を賣らんと音書を買ふ。

韻事生山水,        韻事 山水に生じ,

遊覽江湖。         遊覽す 江湖を。

     ○                ○

處世追求自己,       世に處(を)りて自己を追求し,

踏迷宮岔路,        踏むは迷宮の岔路(わきみち),

晩境前途。          晩境の前途。

似痴人説夢,        痴人の夢を説くに似て,

騷客詠茅廬。         騷客 茅廬に詠ず。

有鳴蝉、夕暮含怨,    鳴蝉あり、夕暮に怨みを含み,

訴好逑、不敢憫鰥夫。  訴ふ 好逑の、敢へて鰥夫を憫れまざるに。

風清爽、月臨山頂,    風は清らかにして爽やかに、月は山頂に臨み,

光洗仙都。         光は洗ふ 仙都を。

 

          (中華新韵九文平声の押韻)



<解説>

[語釈など] 
「蜃樓」:蜃気楼。
「眞吾」:まことの我。ほんとうの自分。
「白衣蒼狗」:杜甫「天上浮雲如白衣,斯須改変如蒼狗」。白衣のごとき雲がたちまち蒼き狗(いぬ)のようになる。       世事の変化無常なることを比喩する。
「賣口」:自分を誇ること。
「音書」:韻書。
「迷宮岔路」句:ほんとうの自分探しはいくら心血を注いでも脇道にそれるだけのように私には思える。
「痴人説夢」:愚かな人が夢を語る。何をいっているのか、よくわからないこと。
「光洗仙都」句:仙都は仙人の都。ほんとうの月光は仙人の世界でしか見ることができないのではないかと私は思っている。
   この句、「光洗頭禿(光は洗ふ、頭の禿げたるを)」とした方がよいかも知れない。

 現代は「自分さがし」の時代でもあって、ほんとうの自分を探して詩を詠む人が多いように思います。
 個性的な生き方がしたいという思いは私にもかつてはあって、そういう生き方が今の私にできているかどうか、ということをずいぶん考えたように思います。
 しかし、それは何であったのか、古希まじかの今にして思えば、それもまた夢であったのかと、ただただ呆れるばかり、です。

 そういう思いを思いつくままに、この詞に託してみました。
 お笑いください。

 八聲甘州 詞譜・雙調97字,前後段各九句,四平韻 柳永

  ●△○▲●●○○(一七),▲△●○平。●△○△●(一四),△○▲●,△●○平。▲●△○▲●,▲●●○平。△●△○●,△●○平。
  ▲●△○△●,●▲○▲●(一四),△●○平。●△○△●(一四),△●●○平。●△△、△●△●,●▲○、△●●○平。○○●、▲○△●,▲●○平。
   ○:平声。●:仄声。平:平声の押韻。拙作は中華新韻十四姑平声の押韻。
   △:平声が望ましいが仄声でもよい。▲:仄声が望ましいが平声でもよい。
   (一七):前の八字句は,上一下七作る。その一は領字。
   (一四):前の五字句は,上一下四作る。その一は領字。

<感想>

 こちらは素直に理解できますね。
 結句でお考えの「頭禿」、この言葉は「白頭」と同様で年老いたことの形容ですが、自称とすると滑稽味が生まれてきますね。
 ここは、直前に「有鳴蝉、夕暮含怨,訴好逑、不敢憫鰥夫。」と面白みのある比喩がありますので、繰り返しをどう判断するかですね。
 ややしつこいと感じるならば、「仙都」の方が落ち着くように思います。

 詞譜のご説明で、「(一七)の一は領字、(一四)の一は領字」とあります。「領字」は(韻字までの)目的語を伴う述語だと理解していますが、そうすると、
 例えば前段の(一七)の場合には、「送行雲,帶酒悟眞吾」という「蜃樓高處」に「上」ると読解するのが良いのでしょうか。
 同じく、後段の(一四)も「迷宮岔路,晩境前途」を「踏」む、これはそのまま理解できます。
 次の「痴人説夢,騷客詠茅廬」のに「似」るというのは、よく分からないのですが、無理して韻字まで引っぱらなくても良いのでしょうか。
 「痴人の説夢のごとく、詩人(私)は茅屋で詩を詠む」とした方がわかりやすいのですが。  詞に詳しくない私にご教示ください。




2015. 8. 2                  by 桐山人



鮟鱇さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生
 こんにちは 石倉です。
 いつもお世話になっています。

 作品番号 2015-174について、コメントさせていただきます。

 「仙都」の方が落ち着くように思います。との感想、ありがとうございます。

 さて、領字について、お答えします。

1 一七について

 八声甘州といえばまず柳永の作、その冒頭は、

   対瀟瀟暮雨洒江天,一番洗清秋。

 で、その初句はきれいに一七になっています。
 しかし、蘇軾は、
   有情風万里卷潮来,無情送潮帰。

 と詠んでいます。
 その句読は
  @ 有/情風万里卷潮来,無情送潮帰。
 なのか。
  A 有情風/万里卷潮来,無情送帰。
 なのか。
 Aとするのが自然です。

 拙作、
   上蜃樓高處送行雲,帶酒悟眞吾。

 もこの蘇軾の例にならい、

   上蜃樓/高處送行雲,帶酒悟眞吾。

 と読んでいただくのがよかったかもしれません。
 読み下しは、

   蜃樓の高き處へ上(のぼ)って行雲を送り,

 としましたが、

   蜃樓に上り高き處に行雲を送り,

 とした方がよかったかも、と思います。

2 一四について

 「痴人説夢,騷客詠茅廬」のに「似」るというのは、よく分からないのですが、無理して韻字まで引っぱらなくても良いのでしょうか。とのご質問ですが、
 作者としては、

   痴人が夢を説き、騷客が茅廬に詠ずるに似る

 という文意にもとれるはず(読み下しはそうしていませんが)で、領字としては二句にまたがっていると強弁できると判断しています。

 ただ、それは形式上の話で、領字が次の句にまたがっているとは思えない作例もあったように記憶していますので、私は、次句までかけずに切ってしまう場合もあります。
 ここでも、先生ご指摘のとおりで

   痴人の説夢のごとく、詩人(私)は茅屋で詩を詠む
 の意でよんでいます。

2015. 8. 3           by 鮟鱇
























 2015年の投稿詩 第175作は 小鮮 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-175

  多摩森林科学園初夏        

聖地東辺城市西   聖地の東辺 城市の西

大丘小壑鬼神棲   大丘小壑(しょうがく) 鬼神棲む

朝朝揮手時間杖   朝朝揮手す 時間杖

今散桜花杜宇啼   今桜花散じ 杜宇の啼く

          (上平声「八斉」の押韻)



<解説>

「多摩森林科学園」: 東京都八王子市にある森林研究施設。全国の有名な桜のクローン育成と桜の研究で有名。
「聖地」: 高尾山薬王院有喜寺。八王子市の高尾山の中腹にある真言宗智山派の大本山。
「城市」: 八王子市のこと。
「大丘小壑鬼神棲」: 大きな丘と小さな谷、山中(やまじゅう)に神がおわす。
「鬼神」: 山の女神、山鬼。
「朝朝揮手時間杖」: 山の女神が日々この杖を円弧を描くように揮うことで、季節が進んでいきます。
「杜宇」: ホトトギスのこと。杜鵑とも。


<感想>

 前半で現地の場所を説明して、奥深い山を述べ、「鬼神」の登場。
 高尾山は天狗伝説で知られているそうですから、転句への流れとしても自然ですね。

 ただ、題名の「多摩森林科学園」ですぐに高尾山を想像できるか、というと、疑問です。
 起句の「聖地」「城市」がどこを表すのか、また「城市西」なのに「大丘小壑」というつながりも分かりません。

 詳しい方ならば「多摩森林科学園」という名を見ただけで理解出来るのかもしれませんが・・・。
 題名に「八王子」とか「高尾山」という言葉を入れていただくと、すっきりすると思います。

 承句の「鬼神棲」は転句への導入、転句は山の神が四季を巡らすことを出して結句への導入ということで、全体の構成を工夫していらっしゃると感じます。
 結句が詩の中心で、まさに季節が移ろう場面を描かれているわけですが、「今」ですと、「散桜花」「杜宇啼」が眼前で同時進行している印象になります。
 これも地元の方ならば違和感が無いことかもしれませんが、一般的には「已」として「桜が終った後にホトトギスの季節」という方がしっくりしますね。



2015. 8.9                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第176作は 小鮮 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-176

  尾瀬孟夏        

遥遠湖辺孟夏時   遥遠たる湖辺 孟夏の時

鬼神緑化百千枝   鬼神緑化す 百千枝

水芭蕉盛開夢想   水芭蕉盛開 夢想(ゆめゆめ)む

懐古山行憶旧知   山行を懐古し 旧知を憶ふ

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 自作の短歌「木道や池塘草原(そうげん)湖(みずうみ)と懐かしきかも尾瀬の山旅」と唱歌「夏の思い出」から想を得ました。

 尾瀬には十数回行きました。いつ行っても良いところです。

 転句、4−3の区切りの句が思い着かず、5−2の区切りになってしまいました。ほかに良い句がないでしょうか。

<感想>

 「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬」というメロディが聞こえてきますね。

 尾瀬の豊かな自然を目に浮かべていると、急に「夢想」、そして「懐古」となって、昔の友が懐かしいと展開していきます。
 さて、今回の詩の主題は何なのか、尾瀬の美しい景色、懐かしい気持ち、同行した昔の友人の思い出、どこに焦点を当てれば良いのか悩みますね。

 景色を詠んだ詩の場合、現在目の前で見ている光景をその場で描くわけではなく、何年も前の体験を思い出して作詩することも多いと思います。
 その時にいちいち、「これはずっと前のことだが」と説明することはしません。感動が言葉になるには時間が必要だということを皆知っているからです。
 例えば「尾瀬孟夏」と題されていれば、今年のことかもしれないし、過去の体験かもしれないが、とにかく、作者が孟夏に尾瀬に行った時の話だと読者は理解して読み進めます。
 尾瀬の景観を描くのではなく、「思い出として懐かしい」ということを主題にするならば、題名に「憶」を入れるか、起句の「遥遠」を「懐昔」として、最初から読者に伝わるようにすべきです。
 そうであれば「旧知」も納得できるように思いますが、現行では唐突な印象です。

 転句のリズムについても、結句につなげるために「夢想」を入れようとすると無理が出ます。
 起句に「懐昔」と入っていればこの言葉は入れなくてもよくなりますので、転句全体を水芭蕉の景色にまとめる形を考えると自由度が増すと思います。
 「水芭蕉発瀬音響」「水芭蕉上清風渡」「水芭蕉満清瀕上」などではどうでしょうね。



2015. 8. 9                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第177作は 聖龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-177

  番凩(つがゐこがらし)        

木枯其季少人聞   木枯らし 其の季 人の聞くこと少(まれ)に

瑟瑟蕭蕭傳怨魂   瑟瑟 蕭蕭 怨魂を傳ふ

金颯之音回寰宇   金颯の音 寰宇で回る

思郷遊子空餘恨   郷を思ふ遊子 空しく恨み餘す

          (中華新韻)



<解説>

 此の詩「番凩」は、日本の音楽を聴いた僕の感想です。
 其れは【戰爭の中の少年少女の故郷に別れた恨み】の意味を表す歌の一首です。
 niconico動画の中で聴けますが、とても良い藝術作品だと思います。


<感想>

 聖龍さんからいただいた二作目ですが、最初、「番凩」の意味が分からなくて、ネットで調べましたら、
 「2008年10月1日に仕事してPがニコニコ動画に投稿したボカロ曲使用VOCALOIDMEIKOKAITO。」との解説を見つけたのですが、この解説の方が私にはより難解でした。
 青字の言葉を更に検索して分かったのは(多分ですけど)、「仕事してP」という名の人が、作曲してニコニコ動画に投稿した楽曲の題名であり、その曲はボーカロイドという合成音声の二人(MEIKOとKAITO)が歌っているということでした。
 昔風の言い方では、ボーカルも含めたコンピューターミュージックということですね。

 なかなか辿り着くまでに苦労をしましたが、実際に視聴してみると、歌声も含めてあまり違和感が無いことに驚きました。
 と言うよりも、こうした人工的な声や音楽が日常的に蔓延していて、慣れてしまったのかも知れません。
 聖龍さんがおっしゃるような「戦争」も、ゲームの中の「いくさ」に近いように感じましたが、木の葉と木枯らしが手を取り合って苦難に立ち向かうというストーリー性と起伏のあるメロディが調和していると感じました。
 こうした媒体を通して、若者の文化は繋がっているのだなと納得しました。

 その楽曲が関係するのは詩題だけで、詩の内容自体は理解しやすいものですね。

 中華新韻で押韻とのことですが、私にはわかりませんが、「恨」はこれで合っていますか。
 平声ならば「下三平」になるし、仄声ならば踏み落としなので、どちらにしても疑問が残ります。

 起句は「其季」が強調でしょうか、「節季」とそのまま述べた方が分かりやすいですね。

 承句の「怨魂」と結句の「恨」は、同趣旨の言葉が重なっていて、気になる部分です。
 晩秋の季節に伴う愁いと旅先での客愁と、二つの感情を出すのはどうでしょうか。
 特に結句の方は取って付けたような印象もありますので、検討されるのが良いでしょう。

 転句の「金颯」は聞き慣れない言葉ですが、「秋風」のことでしょうか。  「之」の字は詩では不必要ですが、それ以上に、承句の「瑟瑟蕭蕭」ともう風の音を出していますので、更に加えるのは邪魔です。
 「金颯」が金色に染まった枯葉ということならば良いかも知れませんが、その場合でも「音」は出すべきではなく、「金葉無邉」という感じが良いですね。





2015. 8.12                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第178作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-178

  認知症介護三首 其一       

認知兆候剛唯疑   認知の兆候 剛へに唯だ疑ふ

診断愕然暗涙垂   診断に愕然して 暗涙垂る

阿母徂景看不見   阿母の徂景 看れども見えず

細工介護自堪悲   細工す介護 自ら悲みに堪ふ

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 テレビの認知症介護の場面から漢詩を作りました。
 三首を同じ韻にしなかったのですが間違いでしょうか?

<感想>

 課題詩や世界漢詩同好會のように、「同じ韻で作る」という目的や制約があれば勿論同韻でなくてはいけませんが、通常は三首を同題で作られても、韻目を同じにする必要はありません。

 詩はテレビを見てのもの、ということですので、直接のご体験ということではないようですが、お気持ちがよく伝わって来るのは南芳さんの共感が強いからでしょうね。

 内容としては、起句の「認知兆候」は、「兆候を認知」ならば分かりますが、「認知の兆候」は無理ですね。「認知症」ということで病気だと理解できるわけで、「症」を削った「認知」だけならば通常の「物事を理解する」という意味にしか取れません。
 「剛」は「剛えに」と読み下しをいただいたのですが、「ひとへに」と訓ずれば良いでしょうか。
 意味は現代語の用法で「したばかり」という意味で使われたのでしょうか。
 ただ、この句は次の「唯」も平声なので、下の三字が全て平字、つまり「下三連」になっていまして、これは禁忌です。
 「認知症状僅懐疑」としておく必要があります。

 承句は「診断を受けて結果を聞き、愕然として涙が流れた」ということで、家族の気持ちを表した句ですが、ここも「四字目の孤平」になっていて、やはり禁忌です。
 「暗涙」と同意の「幽涙」が「○●」ですので、こちらにして孤平を避けましょう。

 転句は「お母さんは過ぎゆく季節を見ることもなく」とも読めますが、南芳さんが「阿母の徂景」と訓じていますので、「お母さんの変わっていく様子」ということでしょうか。
 「徂景」は平仄では「二四不同」を破っていますので、「景」は使えません。これも「光」「姿」くらいでどうでしょう。





2015. 7.17                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第179作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-179

  認知症介護三首 其二        

介護我身莫嘆嗟   介護する我が身 嘆嗟する莫れ

清涼一刻路傍花   清涼の一刻 路傍花

名医加療風波冷   名医の加療も風波冷かなり

阿母健康夢覚遐   阿母の健康 夢に覚ても遐なり

          (下平声「六麻」の押韻)



<感想>

 こちらの詩も、起句と結句が「四字目の孤平」になっていますので、それぞれ「我身」を「傾身」、「健康」を「康寧」と言葉を換えることができます。

 介護に大変な日々に、ふと「路傍花」を見て心をなごませる様子が、読者にも一時の安心を与えてくれます。
 しかし、「名医加療」にも病状は好転しているわけではないことがすぐに伝えられ、厳しい現実が眼前にあります。

 結句は「夢覚」は「寝ても覚めても」という意味かと思いましたが、「夢に覚ても」と読まれていますので、「夢から覚めても」というお積もりでしょうか。
 「も」が入れば「夢の中でも現実(夢覚)でも」となりますが、本文で「も」を入れるのは無理ですので、解釈としては「夢の中では良かったが、目覚めてみると(健康は)遠い話だった」、あるいは主語を「阿母」にして、「お母さんの状態は眠りから覚めても変わらなかった」ということになります。
 後者の方が転句とのつながりは良いでしょうが、どちらにしても、かなり深読みというか好意的な読み方をしてのことですので、多くの読者に伝わるには、語句の検討をされるのが良いでしょうね。



2015. 7.17                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第180作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-180

  認知症介護三首 其三       

高等術師部外情   高等の術師 部外の情

萬難治療笑相迎   萬難の治療に笑って相迎へん

献身介護安心処   献身の介護 安心の処

傍母神幽体共軽   母に傍って神幽して 体共に軽し

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 起句の「四字目の孤平」を解消することと、「部外情」が意図がわかりませんので、下三字を「仁篤情」としてはどうでしょう。
 ここがすっきりすると、承句の「笑相迎」もつながりやすいと思います。

 転句は、「安心」なのは母親かと考えますが、結句の主語は介護している人になりますので、そうなると転句も「献身の介護をして安心だ」ということになりますね。
 それとも、「献身介護」をしてくれているのは別の人(病院の介護士?)で、それを見ていると安心するということでしょうか。
 テレビ番組の中で何か場面があったのかもしれませんが、読者には分からないことですので、ここは伝わりにくい言葉を入れない方が良いですね。
 結句に気持ちが出ているわけですので、転句はあまり感情を入れずに、事実を述べておくのが良いですね。
 「献身介護医先進」と病院の様子に絞っておくのも、一つの案ですね。



2015. 7.17                  by 桐山人