2015年の投稿詩 第331作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-331

  秋望        

孤雲天愈碧   孤雲 天愈碧く

霜葉復山紅   霜葉 復た山紅なり

秋盡人終遠   秋尽きんとして人終(すで)に遠く

鴉聲竿上風   鴉声 竿上の風

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 「愈」「復」「終」と各句に虚字が入り、バランスが悪いですね。
 「孤雲流碧落 霜葉四山紅」として解消してはどうでしょう。

 転句の「人終遠」は「周りに人が居ない」ということでしょうか。寂しい雰囲気を出すならば、「人声遠」で良いと思いますよ。

 結句は余韻が残りますね。



2016. 1.13                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第332作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-332

  登朝倉山        

日午遊行石蒜滋   日午 遊行 石(せき)蒜(さん)滋る

登丘古刹昔年姿   丘に登れば古刹昔年の姿

三重塔境別天地   三重の塔境別天地

一杵鐘声透碧池   一杵の鐘声 碧池に透る

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 快晴の秋晴れの午後、彼岸花を眺めながら、近くの朝倉山に登ってみました。
 ひっそりした庭園には人も少なく、久し振りに中秋を満喫しました。

<感想>

 承句の「昔年」は以前(例えば子どもの頃)見たままだ、という気持ちですね。
 ただ、「古刹」とかぶりますので、「紺宇古今姿」としてはどうでしょう。

 結句は「一打鐘声渡碧池」とした方が用語としては自然です。



2016. 1.14                  by 桐山人



緑風さんからお返事をいただきました。

鈴木先生 いつもご指導有難うございます。
 現在冬籠り中で外出は控え、『漢詩はじめの一歩』を再勉強中です。

『朝倉山に登る』推敲しましたのでご報告いたします。
よろしくお願いします。

  登朝倉山(推敲)
日午遊行石蒜滋    日午 遊行 石蒜滋る
登丘紺宇古今姿    丘に登れば紺宇 古今の姿 
三重塔境別天地    三重の塔境別天地 
一杵鐘声渡碧池    一杵の鐘声 碧池に渡る


2016. 1.23          by 緑風






















 2015年の投稿詩 第333作は 楽宙 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-333

  逆旅        

雨後清穹北斗懸   雨後の清穹に北斗懸かり

長街燈火遠相連   長街の燈火、遠く相連なる

寒窓独夜思天命   寒窓独夜、天命を思えば

一瞬星霜五十年   一瞬の星霜、五十年

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 知天命と言われる50歳を迎えることになりました。
 徳富蘇峰の結句を頂戴し、作詩してみました。

 出張先のホテルにて夕方の雨も上がり、澄んだ空に北斗七星が昇っている。
 夜景に目を移すと、繁華街の明かりが遠くまで延びている。
 寝付かれず窓の外を眺めつつ、与えられた人生を思うに、あっという間の50年に天命を知るには程遠い思いでいっぱいになる。
 うかうかしているとあっという間に歳はとりますが、いつまでも未熟な思いに駆られ焦るものです。

<感想>

 楽宙さんも「知命」の五十歳ですか。

 私も振り返ってみると、四十歳、五十歳、六十歳、それぞれの区切りの年齢で、色々な思いを持っていたことを思い出します。
 私の五十歳は、このホームページを始めてしばらく、皆さんの応援で軌道に乗ってきた頃でした。
 病気からの復帰もでき、ホームページの活動も仕事の面でも、自分のできる精一杯のことをやって、充実していた時期だったように思います。
 漢詩への関わりは、今振り返ると、私にとってはまさに「知命」だったのかもしれませんね。

 楽宙さんは、どんな「天命」を感じていらっしゃるのでしょうか。
 知るのが楽しみだとなると良いですね。

 前半は雰囲気は出ているのですが、起句も承句も「光」を素材にしているのが詩を小さくしているように思います。
 ホテルからの夜景ですので、見えるものも限られて仕方ないかもしれませんが、遠くの山とか田野とか、なにか広々としたものがあると良いように思います。

 結句はお書きになったように、徳富蘇峰の「壬辰新年」の結句、「一瞬星霜九十年」を借りたものですが、場面にはよく合っていると思います。
 ただ、一句の一文字換えただけですので、下三字は作者自身の思いが出て欲しいとも思います。
 何と言っても、徳富蘇峰の「九十年」に較べてしまいますので、「五十年」が随分軽くなってしまう気がします。





2016. 1.13                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第334作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-334

  大震災        

大地動揺海咽闤   大地は動揺し海闤を咽む、

河川浸水逆流攀   河川は浸水し逆流して攀る。

如夢再彩桜花国   夢の如し再び彩る桜花の国、

回首猶存瓦礫山   首を回せば猶存す瓦礫の山。

青竹衝天勝雪裏   青竹 天を衝くは雪裏を勝ればなり、

紅梅発里耐冬間   紅梅 里に発くは冬間を耐ればなり。

旧来陸奥東風晩   旧来 陸奥東風晩し、

淑気温巡復笑顔   淑気 温く巡り 笑顔に復らん。

          (上平声「十五刪」の押韻)



<解説>

 震災から1年位で書いたものです。

<感想>

 前半で震災時の場面とその後の復旧が進まない現状を描きましたね。
 後半は「青竹」「紅梅」のように苦しい中を堪えて春を迎えるように、東北ももう一度笑顔を取り戻すことが出来ることを期待するという構成になっています。

 頷聯の「如夢」「桜花国」に戻ることは「夢のようなことだ」という話になって、これからも駄目だという形になりますので、本来の意図と違ってくるでしょう。
 「見夢」としておくと現状の、次の「回首」と連動して、現状の厳しさを表すことになると思います。



2016. 1.15                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第335作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-335

  秋櫻        

青天雲標白   青天 雲標 白し

蓬勃靡花叢   蓬勃として 花叢なびく

紅紫林立乱   紅紫 林立して乱れ

秋櫻正娓風   秋櫻 正に風にしたがう

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 起句の「雲標」は「雲の端」ということでしょうか、「標」は平声ですので「表」でしょう。

 承句の「蓬勃」は「花の香気がいっぱいに漂う」ことですので、ここでコスモスの香りが出てきます。
 転句は花の色彩になるという構成で持ってきましたね。
 ここまでは良いと思います。

 結句の「娓」は「したがう」という意味で用いているようですが、承句の「靡」とかぶっているため、転句までで言い尽くしてしまって、結句はおまけのような印象になります。
 ここは起句の広がりに戻して、「満地風」くらいでしょうか。
 その関係で「秋櫻」も花から離れたいですね。
 二字目の孤平を避けて「秋高満地風」、全ての句の頭が平字ですので、起句を「一天」としてはいかがでしょう。



2016. 1.15                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第336作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-336

  人命        

曰人命重於坤儀   曰く 人命は坤儀より重し

戦禍戕衆奪女児   戦禍 衆を戕(ころ)し 女 児を奪ふ

剰地異俄山川裂   あまつさえ 地異 俄に山川を裂く

難民何日果帰期   難民 何れの日か帰期を果さん

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 すみません、こちらの詩はどのような事件、災害を想定したものでしょうか。
 一般的な内容として読ませていただきました。

 承句の「戕」は「ころす」という意味で平声を探したのでしょうね。
 戦闘によって殺戮や略奪が繰り返され、更に天災が重なる、こうした社会不安が世の中の大きな変化をもたらすことは歴史が語っていることで、現在の武装勢力の支配地域だけのことでなく、日本においても大きな社会変革の時期に起きました。

 しかし、それは中古、中世の過去のことで、哲山さんが仰るように、「人命」に重きを置くべき現代において通用する論理ではないでしょう。
 ましてや、そうした社会不安を利用して体制を有利に導こうという手段は決して許されるものではないと思います。

 残念ながら、と言わざるを得ないことに悲しみが堪えませんが、世界に広がる難民が以前の生活に戻れることを祈りたいです。

 転句だけは平仄が乱れていますので、ここは直しましょう。



2016. 1.15                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第337作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-337

  大垣茶屋御殿        

亂定殿中絲竹聲   乱定まり殿中 糸竹の声

雖為壕塁短籬縈   壕塁を為ると雖も 短籬を縈らす

神君上洛往還息   神君上洛 往還の息い

帷幕何須偃武營   帷幕何ぞ須ひん 偃武の営

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 大垣市では毎年、市の文芸祭が催されており、県外からの応募も許されています。

<感想>

 大垣市の文芸祭では、以前緑風さんが受賞されていましたね。

 茶屋御殿は将軍家や大名の休憩場所として五街道に作られた施設で、後に宿場が整備されると廃棄されました。
 大垣の茶屋御殿は中山道の要衝としての徳川家康の命で赤坂宿に設けられたそうで、跡地は牡丹園として愛されているようです。

 東山さんの詩は、そうした歴史事象を織り込んだものですね。

 結句の「偃武」は「武器をしまう、戦争をやめる」ことで、長く続いた戦国の時代が終わったことを表していますね。



2016. 1.15                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第338作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-338

  冬日偶成        

朝聞増税夕看戎   朝に増税を聞き夕べに戎を看る

人事銷磨心力窮   人事銷磨して心力窮す

世路渾沌風雅絶   世路 渾沌 風雅絶ゆ

暫關七竅旅虚空   暫くは七竅を關じ虚空を旅せん

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 税率を軽減するだの何か事件が起きるとすぐにテロだのと、生活や命を脅かす「猿芝居」が横行しています。
 右を向いても左をみても馬〇と阿〇の絡み合い。
 いつの間にこんなになっちゃんたのでしょうか。
 年末年始は喧噪から離れ本でも読んで過ごします。

<感想>

 そうですね。
 昨年は日本の政治の世界では対話があり得ないのだと痛感させられることが多く、重たい空気が漂っていましたね。
 一番心配なのは、亥燧さんも書かれているように、国民の「心力窮」すること。
 せめて風雅の世界は勢いを持ちたいところかもしれません。

 結句の表現は、「見ざる聞かざる言わざる」ではなく、自分の心をより高めていこうという方向性としてとらえたいですね。



2016. 1.16                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第339作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-339

  冬夜読書        

凝閉澄高撃柝齊   凝閉澄高 撃柝齊(ひと)し

一村銀色夜猿啼   一村の銀色 夜猿啼く

二更終邁尚凭几   二更終に邁ぎて尚几に凭れば

陋室沈沈熒燭凄   陋室沈沈 熒燭凄し

          (上平声「八斉」の押韻)



<感想>

 起句の「凝閉」は「霜が降りて地面が凍る」ということ、「撃柝」は「火の用心の拍子木」です。
 転句の「更」は「已」とするのが話としては合うでしょうね。

 冬の夜の寂寥感がよく出て、詩人の姿が浮き上がってくる詩になっていると思います。



2016. 1.16                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第340作は 酪釜 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-340

  於此岸(寄鮟鱇先生玉作「曼珠沙華」)        

紅崖凡俗境   紅崖 凡俗の境

目下傾聴喧   目下 喧を傾聴す

痩貌常時錯   痩貌 常時には錯(ま)じり

青躯此処煩   青躯 此処に煩(わずら)はし

          (上平声「十三元」の押韻)



<解説>

 鮟鱇先生の投稿詩「曼珠沙華」を拝読し、同じ場面にたったと夢想して、手習いに一首作ったものです。
 はなはだ拙く申し訳ないですが、自分で作ったらこうなってしまうのだろうな、と思いました。

 おそらく、喧を傾聴することなどできないのでしょうが、ふと自然の中に、生業の憂えを幻聴して(承)、そうしたなかに、痩せこけた顔をして自分はあくせくとまじっている(転)、曼珠沙華を越えてきたそうした自身の身は、さぞかし景観を損なうものであろう(結)、超凡脱俗の場所に、まだ自分は似つかわしくなさそうだ(起)といった感じです。

 お目汚し失礼しました。

<感想>

 鮟鱇さんから後日、またお返事をいただけるでしょうから、とりあえず、私の方は表現に絞って感想を書いておきます。

 起句は「曼珠沙華の咲き誇る谷は、凡俗との境界の地」というお気持ちでしょうか。
 そのまま読むと、「紅崖が凡俗の地」だと逆の意味に取りますね。「離俗境」「脱塵境」とそのまま語った方が誤解が少ないと思います。

 承句は「喧」というあまり望ましくないことに対して、「傾聴」、耳を傾けるということがよく分かりません。
 解説に書かれたような「生業の憂えを幻聴して」という意図でしたら「聴愁喧」かと思いますが、後半に日頃の自身の姿が出てきますので、ここは「紅崖」の方に視点を残した表現にした方が構成としては良いでしょうね。
 下三平を避けて「午風」「野風」「暮風」「颯風」などを「喧」の上に置くような形ではどうでしょう。





2016. 1.19                  by 桐山人



鮟鱇さんから感想をいただきました。

酪釜様

 拙作「曼珠沙華」をお読みいただき、一首寄せていただき誠に光栄です。
 ありがとうございます。
 酪釜さんというお名前、馬乳酒を作る釜?でしょうか。
 とてもいいですね。言葉という乳を煮る そういうお姿が眼に浮かびます。

 さて、玉作は

  @ 景観
  A 超凡脱俗の場所
  B 生業の憂い
  C 自分は似つかわしくない場所にたっている

 という四つのことを読まれようとしていると思えます。

 そこで
 そのそれぞれを起承転結に展開すればよいということかと思いますが、五言にそれを詠み込むのは至難。
 いささか窮屈な作品になっているかと思います。

 しかし、美しい自然の景勝に身をおいていながら、
  C 自分は似つかわしくない場所にたっている

 と発想されたのがとてもよいと思います。

 その発想のおかげで、作詩が複雑になり、難しくなっていると思いますが、
 自然の美しい景勝をいくら美しいといっても、新鮮味のある詩は詠めないと思います。

 その発想、視点をこれからもぜひ大事にしてください。

2016. 1.22           by 鮟鱇























 2015年の投稿詩 第341作は 酪釜 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-341

  低頭(寄酔竹先生玉作「願田夫安康」)     頭を低る   

禾頭何若呪   禾頭 いかなる呪(まじな)ひか

九拝粛揺身   九拝して 粛揺するの身

秋稼残孤画   秋稼 孤画を残し

倣祈翁免辛   倣ひて祈る 翁 辛を免るを

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 酔竹先生の投稿詩「願田夫安康」を拝読して、同じ場面にたったと夢想して、手習いに一首作ったものです。
 はなはだ拙く申し訳ないですが、自分で作ったらこうなってしまうのだろうな、と思いました。

 風に稲穂が揺れていますのをたくさんお辞儀をし、つつましいさまと見立て(承)、そうした実っている秋の田は、はっとするほど孤独にぽつんと残っている(転)、稲穂の真似をして田主に何事もないようにと祈る(結)、稲穂よ、それはどうやるおまじないなのか(起)といった感じです。

 お目汚し失礼しました。

<感想>

 まず、起句の「呪」は、基本的には「相手に不幸がおとずれるようにする」ことを意味しますので、詩の意味としてはバランスが悪いと思います。
 「祷」で、次の「粛揺」と合わせた方が良いでしょう。
 挟み平で「遍垂首」も考えられますね。

 転句は難解で、下三字の「残孤画」は「一枚の絵が残っている」と私は読むのですが、どんな情景を言っているのか、この三字で理解するのは苦しいでしょう。
 ただ、「実っている秋の田」から「孤独」を感じ取るというのは、酪釜さんならではの感覚ですので、そこを何とか伝えたいですね。
 「秋稼」は起句の「禾頭」と重なりますので、ここも変更して
 「孤客秋天下」「秋日適孤往」というところでしょうか。

 結句は誰を「倣」のか、気持ちを強く出すのには「使田夫免辛」と使役形ではいかがでしょうね。



2016. 1.19                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第342作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-342

  詠人応制     人を詠じて制に応ず   

慣聞凶行不須驚   凶行を聞くに慣れては 驚くを須ひず

如捨塵泥惻隠情   塵泥を捨つるが如し 惻隠の情

口貴名教実貪利   口には名教は貴しとするも 実は利を貪り

徒労性善孟先生   徒労なり性善の孟先生

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 名教の内自ずから楽地有り

「晋書」楽広伝  人倫の教えを行う中に、おのずから楽しい境地がある。

 戎問うて曰く、「聖人は名教を貴び、老荘は自然を明らかにす。其の旨異なるか、同じきか」と。瞻曰く、「将(はた)同じこと無からんや」と。戎、咨嗟(しさ)すること良(やや)久し。遂に之を辟(め)す。時に三語の掾(えん)と号す。是(こ)の時、王衍(おうえん)・樂廣(がくこう)、皆清談を善くす。衍、神情(しんじょう)明秀なり。少(わか)き時、山濤之を見て曰く、「何物の老嫗(ろうう)か寧馨兒(ねいけいじ)を生める。然れども天下の蒼生(そうせい)を誤る者は、未だ必ずしも此の人に非らずんばあらざるなり。

<感想>

 勅題の「人」を題として詠んだものですね。

 本来誰もが持っている筈の「惻隠情」がどこかに置き去りになってしまった昨今の世情への嘆きが、だんだんと加熱していって、最後はそもそもの性善説を唱えた孟子に対して「徒労」というのは、なかなか厳しい言葉です。

 この「惻隠情」として孟子が出しているのは、「井戸に落ちそうな子ども」を見た時に持つ感情で、実利や賞賛を得ようというものではなく、単純に「危ない!」と思って助けようという心です。
 それは誰もが持っている筈だと孟子は言い、この心が無ければ「人に非ず」と断定しています。
 家庭での幼児虐待、介護や保育の場での虐待、本来は無条件で愛され、守られるべき存在が、憎悪の対象になってしまうという現代の日本を見れば、孟子の嘆きは一層深くなることでしょう。

 でも、きっと孟子はへこたれないと思います。
 孔子と隠者のやりとりが『論語』にもありますが、眼前の人を救う、乱世だからこそ正しい道を求めなくてはならない、それこそが人としての本来の道、性善の姿の筈です。
 「ふるい」とか「きもい」と言われようが、頑固に現実と向き合うことが大切なのだと私は思います。

 謝斧さんが注として添えて下さった後半、登場する王衍は西晋代の人ですが、名門で才能もあり多くの人をひきつけたのですが、政治の要職に就いても清談にふけり、現実を見なかったため、結局は西晋を滅ぼす要因となったとされます。
 こんなに長く引用したのはどうしてかと思いましたが、ここに謝斧さんの、現実を見る目と、それでも持ち続ける希望が含まれているのでしょうね。



2016. 1.27                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第343作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-343

  晩秋        

街頭並路尽錦衣   街頭 並路 尽く錦衣、

停足忘時坐愛帰   足を停め 時を忘れ 坐ろに愛す帰り。

霜葉無風揺落舞   霜葉 風無く揺落して舞ひ、

当如有意故霏霏   当に意有るが如く故霏霏。

          (上平声「五微」の押韻)



<感想>

 題名をいただかなかったので、取りあえず、「晩秋」とつけておきました。

 山の紅葉もさることながら、町の中の街路樹が一斉に葉を黄色くする景もまた良いものですね。
 朝、一面に散り敷いたイチョウの葉を踏み散らすのは、子ども心を誘うような気がします。

 起句は「錦」は仄声ですので、「二六対」が崩れています。
 ありきたりですが「錦楓衣」というところでしょうか。

 承句は杜牧の「停車坐愛楓林暮」を下敷きにしての句、ただ下三字は読みにくいですね。
どう見ても「坐」は「愛」と「帰」両方に懸かっていく構造で、杜牧の「坐愛」を熟語のように扱っているため、無理をしてしまった感じです。
 「帰」を「帰り道」と名詞で読むのも、ここは苦しいでしょう。
 「忘時」と重複する感もありますので、ぐっと我慢して「坐愛」を他の表現にした方が良いと思います。

 結句の「故霏霏」の「故」は「ことさらに」、上の「当如有意」を受けて「わざとらしく」という感じでしょうか。
 落ちる葉に心を感じるところが眼目になりますが、作者が思っている以上にロマンチックな印象の結びになっていると思いますよ。



2016. 1.27                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第344作は 酪釜 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-344

  楓一葉惜別龍帆老師     楓の一葉 龍帆老師を惜別す   

仲尼尊像頂鮮楓   仲尼の尊像 鮮楓を頂く

湯島聖堂師予夢   湯島聖堂 師 予め夢す

徒弟集吟娯岳労   徒弟 集ひて吟ず 娯岳の労

友朋参讃導旗功   友朋 参じて讃ふ 導旗の功

声如龍駆昂揚盛   声 龍駆の如くに昂揚して盛んなり

意若帆翻哀咽空   意 帆翻の若くに哀咽して空し

過午将飛枝一葉   過午 まさに飛ばんとす枝の一葉

今天雲散穏添風   今天 雲散じ穏やかに風を添ふ

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 少し長い解説です。

 昨年の6月、詩吟会の教場長が亡くなりました。
 この教場長、今年の2月ほどには、12月に湯島聖堂で会員50人以上の大会をしよう、と、すでに場所を予約していました(当時の会員はその目標の半数強)。
 さて、私は、その亡くなりました方と数度の面識があり、かねがね教わりたいと思っておりながら、ついにそれは果たされず、すわ、しくじった、と、遅まきながら10月に入会した運びです。

 来る大会は12月頭。遺志は果たされ、会の一人一人が思い出と吟とを披露しました。また、その会の躍進と、その吟へ功績により、亡くなりました先生は追贈の名として「龍帆」を襲名されました。
 まだ日の浅い私は、唯一、吟ずることのできる李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」を吟じ、また、参加者各位の想いを傍観して【孤帆】より着想を得、作詩に至りました。

孔子の銅像があざやかな紅葉を屋根のようにしている、
湯島聖堂は、師が生前より目標としていた。
教わった人たちが集まってはこの会をたのしんでいた労いを吟じ、
仲間たちがやってきては旗じるしを導いてきたいさおしを讃える。
声は昂揚して盛んで龍が駆けるかのようだが、
心は哀咽して空しく船が遠くに去っていくかのようだ。
やや昼もすぎ飛びたとうとしている枝の一葉。
今、空は、雲が散りゆき、穏やかに風が添うてくる。


【導旗…旗を導く】の対語として【娯岳…岳を娯しむ】を閃いたときに、めくるめく爽快感がありました。
吟の会の名を「岳精会」というのであります。

 紅葉の葉に龍駆を観て、帆翻を観て無情を見ながらも、会の仲間は、今日の様子をみれば龍帆先生は天から笑いかけてくるだろう、との思いを、なんとか詠みこめていればと思います。

 なお、中国人の友人がいうには、「盛」対「空」がイビツ。
「帆が翻る」のは不吉、縁起が悪い、とのことでした。

<感想>

 湯島聖堂での大会、穏やかな冬の日だったのでしょうね。
 五十人もの盛会、おっしゃる通り、先生もお喜びになっておられることと思います。

 第二句の「夢」はこの意味では仄声ですので、「師夢通」というところでしょうか。

 頷聯の対は「爽快感」があったのでしょうが、残念ですが「岳」だけで吟社名とは分かりません。吟社の方だけにお示しする分には理解していただけるでしょうが、外部の人にはちょっと無理。「集まって吟じて岳を娯しむ」とはどういう集団かと思います。
 「岳」が具体的な事物を指すわけではないわけで、それならいっそ名前をそのまま持ってきて「精岳娯」とした方がすっきりするでしょう。

 頸聯は諡号としての「龍帆」を折り込んだもので「龍駆」の方はわかりますが、「帆翻」だけで「哀咽空」と持ってくるのは苦しいかな?と思います。
 「征帆」の語を逆にして、「帆征」とするとつながりが分かりやすくなりますね。

 どちらの句も、下三字がもたもたした感じで、句としては例えば、
   声如龍駆・・盛
   意若帆征・・空
と五六字目を削っても句意が伝わるわけで、そうなると厳しい言い方ですが、「昂揚」も「哀咽」もあまり役に立たない言葉ということで、無理矢理七言に持って行ったという感じですかね。

 あと、私の感覚としては、他の方もいらっしゃるわけですので、個人的な「空」という感懐をあまり強く出すのはどうでしょうか。
 哀しいけれど、先師の教えた道をしっかり歩いて行こう、という方向が良いように思います。



2016. 1.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第345作は 叶 水魚 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-345

  雑詠        

黄昏方浴月   黄昏テ方ニ月ヲ浴ブ

風欲吐祥符   風ハ祥符ヲ吐カント欲ス

不語中庸熱   語ラズ中庸ノ熱

可聴九条徒   九条ノ徒ニ聴クベシ

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

  たそがれのなかをあるいてきて、もう月光を浴びている
  風は何かいい知らせをはこんできたようだ 
  中庸の道は本来の熱を失いかけている
  (逆説的だが)九条の会などの論議を聴いてみよう(何か地殻変動がおきていそうだ。)

<感想>

 結句の「条」は平声ですので、反法が崩れています。
 「九条徒」は外せない語でしょうから、この結句に合わせて逆向きに反法、粘法で揃えていく形になりますね。
 言いたいことと表現が少しずつずれているように感じますが、例えば承句の「祥符」は「吉兆」と同じ意味ですが、仰るような「地殻変動」、世の中が変わるということを指すなら、「天動符」でしょうかね。

 その場合には、転句の「中庸の熱を語らない」ことは肯定的に受け取ります。

 ひとまず平仄も含めて揃えてみると、
  日暮方看月
  西風天動符
  中庸無熱語
  宜聴九条徒

 こんな感じでしょうか。



2016. 1.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第346作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-346

  晩秋残月        

板橋霜降露霑衣   板橋霜降りて 露衣を霑し

小鳥噍噍花徑微   小鳥噍噍 花径微かなり

分曉天高見半月   分曉天高く 半月を見るも

朝暉慚上爍清暉   朝暉慚く上がって 清暉を爍(とか)す

          (上平声「五微」の押韻)



<感想>

 「板橋の霜」と来ると、晩唐の温庭筠の作、「商山早行」を思い出しますね。

 「噍噍」は「鳥が集まって騒いでいる声」を表し、この意味の時は平声になります。

 「分曉」は「拂曉」と同じで「夜明け」ですが、このあたりの時間の流れを「残月」で描こうという意図ですね。

 転句までは工夫された表現が続き、景が眼にしっかりと映るようです。
 結句は初め「上」と思いましたので、実景だとしても説明的と言うかストレートと言うか、面白みが無いと感じ、それまでの佳句の価値が落ちる印象でした。
 よく見たら、「上」ですので、「慚」は「慙」と同じ、「朝日が恥じらいながら上ってきた」という擬人的な表現だとすると、これはなかなか良くて、太陽が何か遠慮しながら上ってくるような感じがします。
 日の出の、あのゆったりと表れる太陽が目に浮かびます。

 読み下しは「慚く」と書かれていますのでひょっとしたら入力間違いかもしれませんし、「慚」がベストの漢字かどうかは検討の余地はあると思いますが、ドキッとする表現に出会えたという感じで、ワクワクしました。



2016. 1.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第347作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-347

  田舎雑興(借鐵峰先生之句而作詩)        

閑居田舎稲粱豊   田舎に閑居すれば 稲粱豊なり

雨読晴耕似放翁   雨読晴耕 放翁に似たり

時掃霜楓焼芋栗   時に霜楓を掃って 芋栗を焼き

隔籬分与喚村童   籬を隔て分与せんと 村童を喚ばん

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

※「雨読晴耕似放翁」: 「臥読陶詩未終巻 又乗微雨去鋤瓜」 放翁詩

 転句はそのまま鐵峰先生の句をかりました。
 詩は放翁詩風をまなびました。
 僕輩はこういった詩を大変このみます

<感想>

 こちらも提壺吟社の皆さんの詩のやり取りですね。

 注にお書きになった陸游の詩は「小園 其一」ですが、まさに「雨読晴耕」の暮らしを表しています。
 謝斧さんのこの詩では「晴耕」も「雨読」も出て来ませんが、そこは七絶の辛いところ、「似放翁」に登場していただくことで、陸游の詩の情景が重なってきます。
 重層化という形の表現ですね。

 転句の「焼芋栗」は鐵峰さんの句ですか、紅葉を焚いて酒ではなく芋と栗を焼く、古典では芋は里芋になりますがここでは焼き芋が合いそうですね。

 結句の「村童」がまた田園生活を彷彿とさせる言葉で、首尾良く収まっていると思います。



2016. 1.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第348作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-348

  聖誕贈品        

夢醒詩翁驚冷齋,   夢醒さめて 詩翁 冷齋(寒い書斎)に驚くに,

眼前聖誕老人來。   眼前に聖誕老人(サンタクロース)來たる。

温顔含笑給朱筆,   温顔 笑みを含んで給ひたる朱筆,

自走推敲助菲才。   自ずから走りて推敲し菲才を助く。

          (中華新韻四開平声の押韻)



<解説>

 老人もクリスマス・プレゼントがもらえれば、ということ詠みました。


<感想>

 願望としては、貰えるものなら何歳になろうとプレゼントを貰いたいと私も思います。
 ただ、希望するプレゼントの内容については、やはり歳に応じてのものになりますね。
 鮟鱇さんは「朱筆」、やはりという感じで、納得ですね。

 でも、筆が自分で勝手に推敲したりすると、結局、後日鮟鱇さんとと喧嘩になるんじゃないかと、つい心配してしまいます。



2016. 1.30                  by 桐山人






















 2015年の投稿詩 第349作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-349

  祭天神・祭一年啼血詩千首       

祭一年啼血詩千首,   一年の啼血の詩 千首を祭るに,

坐寒齋、          寒齋に坐り、

取暖爐邊傾緑酒。    暖を取るに炉辺に緑酒を傾く。

醺然暫借紅顔,      醺然として暫く紅顔を借り,

却老伸龜手。       老いを却(しりぞ)けて亀手を伸ばす。

把朱毫歳暮推敲,    朱毫を把りて歳暮に推敲し,

爲童叟。          童叟となる。

     ○              ○

覓妙想、頻迷走,     妙想を覓(もと)め、頻りに迷走すれば,

繆斯哂、          繆斯(ミューズ)は哂(わら)ふ、

凡作無結構。       凡作に結構なし と。

求仙樂,          仙楽を求め,

浮苦海,          苦海に浮かび,

悶悶空延壽。       悶悶として空しく寿を延ばす。

但欣讀、先人神品,   ただ欣んで読む、先人の神品に,

黄卷開花,         黄卷に花を開き,

皓齒生香,         皓齒に香を生ずるあれば,

未欲横棺柩。       未だ欲さず 棺柩に横はるは。

          (中華新韻七尤仄声の押韻)



<解説>

 [語釈]
「龜手」: あかぎれした手。朱毫:朱筆。
「童叟」: 通常は童と叟。ここでは童のように子供じみている老人。
「結構」: 構造。仙楽:仙人の音楽、天の音楽。
「神品」: ここでは人間わざならぬ傑作。黄卷:書物。

 一年の作詩を振り返りながら詞を詠みました。
 本年の作詩数は2200首弱、絶句は600強、律詩100弱、詞曲は600弱、十七字や漢俳や石倉十八字令などの漢語短詩でおよそ900首です。
 2002年以降14年、年2000首の多作を本年も誇っています。

   詩はもとより数ではありません。
 しかし、詩を詠むセンスに乏しい者が上達するには多作がいちばん、韻律に通じ自在に詩詞が詠めるようになる、
 そういう上達もさることながら、自分なりの癖、よくいえば詩風が身についてきたように思えるのがうれしいです。
 それと同時に、他人の作もよく味読できるようになりました。
 もちろん、私なりの味読で、癖もありますが、この人のこういう詠み方はわたしにはできない ということを知り、わたしなりの学習を自作に反映する、
 そういうことが楽しめるようになりました。
 そして、それと同時に、私の詩才の乏しきを自覚させられ、ため息をつきます。
 しかし、そのため息が続く限り、よい詩を詠もう という闘志も涌くわけで、まだまだ死ねません。

   さて、上掲の『祭天神』ですが、
 『欽定詞譜』に柳永が詠むには詠んだが、「宋元人に填詞者はいない」とあり、つまりはあまり詠まれていない詞体のようです。
 『祭天神』を詠んだ日本人はむろんいないでしょう。
 そういう詞体で詠むのは賢明なことではありません。
 しかし 私が詠めば、柳永没後おおむね千年の時と海を超えて、柳永のいっときの詩魂が、再現されることになります。
 『祭天神』私が詠むのは2作目ですが、
 あまり詠まれていない詞体を見つけてきてそれを填めることには、千年の時空を超えて先人の詩魂に触れる、そういう楽しみがあります。

 祭天神 詞譜・雙調84字,前段六句四仄韻,後段九句四仄韻 柳永

  ●●○○●○○仄(一七),●○○、●●○○○●仄。○○●●○○,●●○○仄。●○○●●○○(一六),○○仄。
  ●●●、○○仄,●○●、○●○○仄。○○●,○●●,●●○○仄。●○○、○○○●,○●○○,●●○○,●●○○仄。
   ○:平声。●:仄声。仄:仄声の押韻。
   △:平声が望ましいが仄声でもよい。▲:仄声が望ましいが平声でもよい。
   (一七):前の八字句を一・七に作る。(一六):前の八字句を一・六に作る。
   「、」:句中の句読。ちなみに「,」は句、「。」は章を区切る。


<感想>

 仰る通り、詩を通して千年も昔の詩人と心の触れあいができることは、ある意味奇跡のようなことだと私も思います。
 鮟鱇さんは内容だけでなく、詞という形を通しても触れあうわけで、楽しみがより深いかもしれませんね。

 今回の作品は、鮟鱇さんの旺盛な創作の姿と気概が目に浮かぶような内容で、面白く拝見しました。
 いつも仰っていますが、(失礼ながら)いつ冥界でかつての大詩人にあっても、楽しく応酬ができ、まさに交歓ができるというのは素晴らしいですね。
 私は、棺桶の中に、詩語辞典と電子辞書、そしてネット検索ができるパソコンを入れてもらわなくては困ってしまいます。しかし、詩語辞典は一緒に焼けば良いですが、パソコンや電子辞書はそういうわけにはいかないので、あの世までのネットがつながる日まで元気でいなくてはいけないなぁと思っています。
 こういうのも、長生きへの意欲となるかもしれませんねぇ(笑)。





2016. 1.31                  by 桐山人






















 2015年の投稿詩 第350作は 酪釜 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-350

  宴後車中憶君     宴後 車中に君を憶ふ   

娯会如流電   娯会は流電が如く

霜呼煙奎星   霜呼 奎星に煙る

車窓為鏡識   車窓 鏡と為して識る

頬染恋慈銘   頬染まり 恋慈銘するを

          (下平声「九青」の押韻)



<解説>

 忘年会の帰り道に奎宿(とかき)を見て、少々色っぽい詩が浮かびましたのでお目汚しいたします。

 奎星(奎宿)は西方白虎七星宿のひとつ【とかき:斗掻き】で、白虎の脚をあらわす星座です。
 まさに千里を行き千里を戻るの象徴で、引き返して想いを告げようかしら、というような意味を隠したつもりでおります(と、言って、この解説がないとそんなところまで分かるわけがないとも思います)。

 また、西洋の星座になおすと、奎宿は、美姫アンドロメダ、および、美の女神アフロディテと愛の神エロス(クピト、キューピット)の別の姿である魚座のあたり。片想いの女性に見立てる雰囲気になるかと存じます。
それが、電車のなかで見ていて、窓ガラスに顔を近づけているものですから、吐息で白く曇りますのを「霜呼煙奎星」といたしました(承)。

 もうちょっと見たい、と、窓を拭くと、鏡のように自分の顔が映って、あ、と思う(転)。

 顔にくっきりと、恋をした、と書いてある(結)。

 少し含みを持たせると「如流電」は、楽しい時間は早くすぎるな、という感慨だけではなく、和習ではあるかもしれませんが、ビビっときた、というイメージをも持たせたかったのであります(さらに、電車であることを暗に知らせる狙いもありました)(起)。

 五言絶に、これでもか、と盛り込んだため、かなり難読で無理矢理のキライがありますが、甘口の予感をふんわりと感じて下されば幸せです。

<感想>

 うーん、若い方は良いですね。
 全体にもやもやとした甘い雰囲気が出ていて、気持ちが感覚的に伝わってきますね。

 起句の「娯会」は「宴」の字を使った方がよく分かります。五言ですので、できるだけ明快な言葉を使う方がよいでしょう。

 承句は、仰るような意図はなかなか難しく、逆に句の意味そのものが伝わりにくくなっているように思います。「霜呼」は「○霜」として窓から見えたという形で、叙景として暗示したものを想像させるのが良いでしょう。

 転結は上二句が分かれば、充分に伝わると思います。



2016. 1.31                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第351作は 聖龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-351

  詠普羅霍羅夫塡戰役     Про хоровка、prokhorovka戦役(プロホロフカの戦)   

小戎既工   小戎 既に工(つく)れり

戰車雄雄   戰車雄雄たり

哀我將士   我が將士を哀れむは

鳴鳴艸蟲   鳴鳴たる艸(くさ)の蟲

コ寇孔急   ドイツの寇 孔(きは)めて急なり

犯邊而東   邊に犯して而も東す

安弗勵士   安んぞ士を勵まさざる

以禦敵攻   以て敵の攻めを禦(ふせ)ぐ


小戎既前   小戎 既に前(すす)めり

戰車駢駢   戰車駢駢(べんべん)たり

五百騤駕   五百の騤駕(きが)

是撃是殘   是れを撃ちて 是れを殘(こは)す

所乘既毀   乘(の)る所 既に毀(こは)せり

手搏身捐   手をもって搏(う)ちて 身は捐つ

屍骨滿地   屍と骨と 地に滿つ

左櫜右鞬   左櫜(かう)ありて 右は鞬(ぎやん)あり


三千浮世   三千 浮き世

誰無兩親   誰か兩親無からん

水沙數家   水沙數の家

誰有子訊   誰か子の訊ぬる有らん


刹那命喪   刹那に命は喪へり

彈雨銃林   弾雨に 銃林に

悠悠朱紫   悠悠たり 朱紫

忘我民心   我が民の心を忘る


          (「上平一東」「下平一先」「上平十一真」「十二侵」の換韻)


「小戎」: 兵隊を乘る車。タンク。
「我將士」: ソ連の兵士。
「駢駢」: 竝ぶ、配列する。
「騤」: 強壯、勇壯。
「水沙」: 佛語、恆河の沙。
「櫜」: 矢袋。今、銃彈を入る袋と謂う。
「鞬」: 弓袋。今、銃を入る袋と謂う。
     《左傳・僖公二十三年》:“若不獲命,其左執鞭弭,右屬櫜鞬,以與君周旋。”
「朱紫」: 古代の高官の服。白樂天《偶吟》:“久寄形于朱紫内,漸抽身入實ラ中。”ここは地位高い人を表す。


<解説>

 此僕初爲之四言也。
 世界大戰終結,已七十年。僕未弱冠十五齡,戰後五十五年生。
 此戰,蘇コ東線戰場之轉。其戰車五百有餘,實亙古未有也。
 最近讀二戰史,有感是役之慘,因爲之。

 此れは僕の初めて爲(つく)る四言なり。
 世界大戰は集結して、已に七十年。僕は未だ弱冠十五齢にて、戰後五十五年に生まれり。
 此の戦、ソ連ドイツの東線戰場の轉り。其の戰車は五百有餘、實に古に亙(わた)りて未だ有らざるなり。
 最近二戰の史を讀み、是の役の慘たるに感有り、因りて之を爲れり。


<感想>

 「プロホロフカの戦」は、日本ではあまり知られていない名前で、高校の世界史教科書にも載っていません。
 私もネットで調べて、ようやく概要が分かりました。

 1943年7月12日、旧ソ連のプロボロフカの地で、第二次世界大戦東部戦線にてドイツ軍とソ連軍の戦車部隊による激戦が行われ、両者とも多大な損害を受けましたが、スターリングラードの戦い以降苦しんでいたドイツ軍は完全に守勢に回り、形勢が大きく動いた戦いであるようです。

 日本では「ソ連が勝利した戦」ということなので、東西冷戦の影響か、それともこの段階でドイツ軍は力を失っていたことを隠したのか、そのあたりは私には分かりませんが、世界史の教員に尋ねても「知らない」ということでした。
 歴史、特に近現代史は政治の影響を受けることが多いわけですが、日中の高校事情が思わぬところで分かりましたね。

 四言ということで、例えば「孔」を「きわめて」の意味で用いるのは古典語、古詩の趣を出そうとされたのでしょうね。

 換韻をしていますので、段落分けを見ていくと、第一解(聯)でこの戦が始まる事情と緊迫感、第二解は戦の惨状、第三解で戦争そのものへの作者の批判が出されてきますが、古詩らしく丁寧に描こうとしているのが分かります。

 読み下しは私の方で若干直しましたが、日本語(特に古典)の勉強が進んでいるようで、古詩なのに、前回よりも直すところは少なくなりました。すごい!!

 「水沙數家」はガンジス川の沙のように数が多いことで、「恒河沙」という言葉もあります。
 その次の「誰有子訊」が分かりにくいのですが、前の「誰無兩親」との対応で考えて「誰か子の訊ぬる有らん」としましたが、「誰か子に訊ぬる有らん」か、それとも「訊」は手紙かなとか、いろいろ悩みました。
 「訊」は去声でもあり押韻が崩れますので、この句は「何有天倫」としてはどうでしょうね。



2016. 2. 1                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第352作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-352

  酬重九        

奈良柿子隠鐘聲,   奈良の柿子 隠たる鐘声

重九逢君秋色清。   重九 君に逢ふ 秋色清し

龍眼熟時黄檗寺,   龍眼 熟す時 黄檗寺

閩南山下白雲輕。   閩南 山下 白雲軽し

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 陳興さんは今は西安にお住まいでしょうか。

 こちらの詩にある「黄檗寺」は本家本元の福建省にある黄檗山萬福寺ですね。
 結句の「閩南」も福建省の辺りを指しますので、前半は日本での体験、後半は中国でのことと書き分けられたのでしょう。
 前半が実景、後半が思い出という構成かと思いましたが、逆もあるかもしれませんね。
 截然と前後が分けられたからでしょうか、ちょっと迷わせます。



2016. 2. 1                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第353作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-353

  渋谷萬聖節     渋谷ハロウィン   

百萬魔妝渋谷街,   百万の魔妝 渋谷の街

獠牙赤血走屍骸。   獠牙 赤血 屍骸走る。

夜深風冷誰逃去,   夜深く 風冷やかなれど 誰か逃げ去る,

躱進南瓜劃火柴。   躱進する南瓜 火柴を劃す。

          (上平声「九佳」の押韻)



<感想>

 ハロウィンでは、特に渋谷が話題になりましたね。

 だからどうなのか、という感想ではなく、仮装された街という非現実的な光景を風物詩として描いているところがこの詩の良さですね。
 結句の「劃火柴」は「マッチを擦る」ということですから、横をすり抜けた(「躱進」)カボチャが脇に行って「劃火柴」、マッチを擦った、というのは実際に見た風景でしょうか、ポンと非現実と現実が入れ替わる面白さが生きていると思いました。

 仮装して参加した皆さんも、楽しい行事という感覚だったと思いますから、詩は記録として十分に働くと思います。



2016. 2. 1                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第354作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-354

  旗袍三章 一        

満家王氣已如烟,   

尚有旗袍傳世間。   

明月當年愁不釋,   

清風十里柳繊繊。   

          (中華新韻の押韻)



<感想>

 陳興さんからは、「旗袍(qi pao)」の題で三首いただきました。
 「旗袍(qi pao)」は日本ではチャイナドレスと呼びますが、中国の清の時代の衣装ですね。

 満州族の王朝はすでになくなったが、旗袍だけは今でも残っている、という書き出しですが、単に時代が推移しただけではなく、「王気」と「世間」を並べたことで政治の姿そのものが変わったということを感じさせようという意図があるのでしょう。
 移りゆく世の中、古来幾度も繰り返された興亡の歴史への思い、それを見続けた「明月」の悲しみが今でも残っているということと、「柳」も細々として寂しげな趣ということなのでしょう。

 チャイナドレスと聞くと、華やかな伝統衣装というイメージがありますが、歴史の悲哀を表すものとしてのとらえ方は、中国の方だからこその思いでしょうね。



2015. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第355作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-355

  旗袍三章 二        

旗袍美女索題詩,   

君有軽烟裊裊姿。   

我是凝眉苦吟客,   

秋風敲戸阻眠時。   

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 こちらの詩は、旗袍の美女の写真でも見ていらっしゃるのでしょうか。
 「君」と随分近くに引き寄せた感がありますね。

 後半の「秋」「風」「夜」「客」という伝統的なシチュエーションは前半のなまめかしさと乖離しているのですが、承句と転句での「君」と「我」の対比で形としてつながり、何となくまとまったような気にさせられます。




2016. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第356作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-356

  旗袍三章 三        

鎧甲鐵衣邉塞雲,   

早朝宮外佩聲堰B   

如今不識漢家服,   

只認旗袍中國裙。   

          (中華新韻の押韻)



<感想>

 前半は清の時代の風景を思い描いたものですね。
 「佩聲」は軍隊の整列した声でしょうか。清朝の勇壮な姿がよく表れていると感じました。

 しかし、それも今では遠くなり、「旗袍」のみが遺されているという展開は、「一」と共通するものですね。



2016. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第357作は中国の 巴山庸人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-357

  買菜老        

遲遲行夙寒,   

非是入商山。   

菜肆南門外,   

長安最價廉。   

          (中華新韻の押韻)



<感想>

 巴山庸人さんの作品は以前にも三首、掲載しました「夜聞火車聲」などをご紹介しましたが、まだまだ何首か送っていただいていました。
 時間が無くて全部はご紹介できませんでしたが、現代の中国の風景が感じられる詩ということで、ここで改めて載せさせていただきましょう。

   朝早く、まだ寒い中をゆっくりと歩いている老人、特別に「商山」に入って隠棲しようとしているわけではない。
   長安の南門のところでは朝市が開かれていて、そこで買うのが一番安いのだよ。

 「入商山」は、「商山四皓」の故事から持ってきた言葉で、秦の時代の四人の隠者が商山に入ったということです。
 そうした古典文学的な趣を感じさせておいて、最後は現実的な話で終わる、ということで、展開の面白さとともに、老人の顔が目に浮かぶような風物詩になっていると思いましたので、ご紹介しました。



2016. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第358作は 巴山庸人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-358

  賣花老        

一枝水烟袋,   

半壺苦丁茶。   

七十又有六,   

賣得長壽花。   

          (下平声「六麻」の押韻)



<感想>

 「一枝」は棒のようなものを数える言葉ですが、日本語では「一本」でしょうか、「水烟袋」は日本で言えば「水キセル」、キセルはどう数えるのか知らないのですみません。
 「苦丁茶」は中国茶で苦〜いお茶ですね。
 題名はそのまま「花売りのじいさん」というところでしょうか。
 
 「長壽花」は中国では「カランコエ」を指すようですが、七十六歳という長寿の老人が売る「長寿花」はいかにも説得力がありそうですね。
 作者の狙いも、ここでニヤリとするところにあるのでしょう。

 ちょっと時代劇的な小道具を並べて、最後にひょいと軽妙な結びを置くというのは、現代風景を描くからこその遊び心でしょう。

 平仄については「これでもか」というくらいで、どの句も崩しているのは古詩ということを強調しているのでしょう、素朴な口承の趣を出そうという意図ですね。



2016. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第359作は 巴山庸人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-359

  外族客        

移居自青海,   

営業在長安。   

時遇古城雪,   

毎説白草原。   

          (「上平声十四寒」「上平声十三元」の通韻)



<感想>

 もう十年くらい前になるでしょうか、11月の下旬に私が西安に行った時に、丁度雪が降りました。
 ホテルで従業員の人から、「初雪です」と言われたので、ラッキーと思いましたが、それほど積もるとは思いませんでした。

 一夜明けて外を見てみたら、何と一面の雪景色、その日に出かけた華清宮も真っ白になっていました。


   <西安雪のホテル前>


   <雪の華清宮>


   <雪の華清宮>

 西安の雪という内容に、その時のことを思い出しました。

 青海省から来て西安で働いている方が、雪を見るたびに故郷のことを思い出して話をする。
 中国という多民族国家、特に西安はかつてのシルクロードの起点、多くの民族の人々が集まっている都市ですので、この詩は実体験なのでしょうね。

 



2016. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第360作は 桐山人 の作品です。
 

作品番号 2015-360

  杜甫草堂 一        

茅屋黄昏裡   茅屋 黄昏の裡

秋風花徑旋   秋風 花徑を旋る

草堂千歳跡   草堂 千歳の跡

詩客萬情牽   詩客 萬情牽く

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 2015年も沢山の投稿、ありがとうございました。
 掲載が遅れてご迷惑をおかけした方も多かったと思います。
 すみませんと、毎年同じことを謝っている気がします。

 2015年の掲載は、私の詩で締めくくりとさせていただきます。

 昨夏、念願の成都の杜甫草堂に行きました折の作です。



   <杜甫石像>




   <草堂>




   <草堂堰水>




2016. 2. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第361作も 桐山人 の作品です。
 

作品番号 2015-361

  杜甫草堂 二        

草堂寂寂既黄昏   草堂 寂寂たり 既に黄昏

花徑秋風竹影繁   花径 秋風 竹影繁し

萬里尋來杜陵屋   万里尋ね来たり 杜陵の屋

肅然慕躅佇茅門   肅然 躅を慕ひて 茅門に佇む

          (上平声「十三元」の押韻)



<解説>

 草堂に着いたのはもう夕方、観光客もまばらな状態で、ゆっくりと見学ができました。

 この茅屋で杜甫が暮らしていた、そう思うと自然に涙がこぼれて来ました。



   <茅屋>




   <草堂花径>




   <草堂花径>




あらためて、一年間ご支援ありがとうございました。

2016. 2. 8                  by 桐山人