2014年の投稿詩 第121作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-121

  訪菅廟古梅        

回春菅廟想公長   春は菅廟に回りて 公を想ふこと長く

無主古梅空放香   主無きの古梅 空しく香を放つ

休説江州司馬句   説くを休めよ 江州司馬の句を

不如散髪老家郷   如かず 髪を散じて家郷に老ゆるを

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

   江州司馬句
  日高睡足猶慵起
  小閣重衾不怕寒
  遺愛寺鐘欹枕聽
  香爐峯雪撥簾看
  匡廬便是逃名地
  司馬仍爲送老官
  心泰身寧是歸處
  故ク何獨在長安

   菅原道真の詩
  一從謫落就柴荊
  萬死兢兢跼蹐情
  都府樓纔看瓦色
  觀音寺只聽鐘聲
  中懷好逐孤雲去
  外物相逢滿月迎
  此地雖身無檢繋
  何爲寸歩出門行


<感想>

 起句は本来は「懷公長」としたかったところでしょうが、平仄を合わせられたのでしょうね。

 引用された「江州司馬句」は「香炉峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」で、また、菅原道真の詩は「不出門」と題されています。
 菅原道真の詩は、対句からもうかがえるように、同じく左遷という境遇にあった白居易の詩を意識したものですが、白居易が「故郷は長安にあるだけではない」と現在の自分の所在を受け入れようとしているのに対して、道真の方は都への想いが捨てがたく、ひたすらに謹慎の姿勢をとり続けています。
 同じく、謹慎中の道真の詩で「九月十日」でも、帝への忠誠の気持ちの変わらないことが出されていますね。

 白居易のようには生きられない生真面目さは、一人道真公だけではなく、日本人の特性かもしれません。神となって敬われ親しまれるのは、彼の生き方を共感、賞賛する人々が多く居たということでしょう。
 ただ、そのあまりの生真面目さが痛々しく感じる部分もあり、謝斧さんの結句からはそんな気持ちも感じられます。
 「散髪」は「冠をかぶらない状態」、つまり無位無冠で隠棲すること、のんびりと家族の元に戻してあげたかったという想いが籠められていますね。



2014. 3.30                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第122作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-122

  太安萬侶墓        

青山重畳景光清   青山 重畳 景光清らかなり

茶圃農夫勉力耕   茶圃の農夫 力耕に勉め

掘出誌銘銅一片   掘り出す 誌銘 銅一片

方知記紀史官塋   方に知る 記紀 史官の塋(はか)

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 年末に大和の田原の里を友人とハイキングしてきました。
 ここには太安萬侶の墓や光仁天皇陵などがあり、歴史の香に満ちたところでした。
 題材を上手く料理できず、事実の羅列だけの面白くない詩になってしまいました。

<感想>

 起句と承句が大和の古風景を描いていて(ちょっと季節感が弱いですが)、前半で叙景かと思ったら、実は承句は転句の導入だったのですね。
 太安萬侶の墓については、三十数年前に偶然に発掘されたのですが、茶畑を整備していた方が植え替えで茶の木を抜いた時に地中から見つけたそうです。
 その事情が承句と転句で示されていますが、あまり説明的に読まずに、承句は起句も受けて叙景であるとともに、転句で歴史的な「事実」も語っていると重層的に読みたいですね。



2014. 4. 6                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第123作も 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-123

  光仁天皇陵        

依妃承位不親望   妃に依りて位を承く 親(みずか)ら望みしにはあらず

因讒誅妃何禍殃   讒に因りて妃を誅す 何ぞ禍殃なる

翠鬱山陵秘真実   翠鬱たる山陵 真実を秘す

愛憎千載只茫茫   愛憎 千載 只茫茫

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 光仁天皇は天智天皇の孫(父は万葉歌人の磯城皇子)です。
 壬申の乱後、皇統が天武系に移ったため皇位につく可能性はなかったのですが、聖武帝の後天武系に有力な皇子がいなくなり、また聖武帝の皇女・井上内親王を妻とし、間に皇子を儲けていたため、60才を過ぎて即位します。
 しかし、その数年後、光仁帝を呪詛したとの讒言によって、井上内親王と皇子は皇后・皇太子を廃されます。
 この事件は藤原氏内の権力争いなどいろんな陰謀が渦巻いているようで、古代史上にミステリーとなっています。

 「誅」を使ったのは言い過ぎかもしれませんが、井上内親王は後に幽閉され皇子と共に暗殺された様子です。
 「愛憎」は天皇・皇后二人の間に残ったのは果たして愛だったのか憎しみだったのか???といった意味です。

<感想>

 前半の「妃」の繰り返しは、「妃」のおかげで位に就いたのに「妃」を誅したという、禿羊さんの詩で言えば「愛憎」の入り混じりを強調したのでしょうね。
 どちらかと言えば淡々とした「因讒誅妃」の記述が、おぞましい(?)政治の歴史を逆に浮かび上がらせているとも言えますね。
 「誅妃」は別の表現でも表せるでしょうが、却って説明的になるかもしれません。

 後半はやや間延びして、転句と結句にあまり変化が無いのが気になりました。



2014. 4. 7                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第124作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-124

  偶讀兩雲遺稿有感     偶兩雲の遺稿を讀みて感有り   

天下二分何可忘   天下 二分す 何ぞ忘るべけんや

尊攘憂國坐刑場   尊攘 憂國 刑場に坐す

義徒臨命詩三首   義徒 臨命 詩三首

長子終生涙幾行   長子 終生 涙幾行

歳月遷移正若水   歳月 遷移 正に水の若し

幽囚悲憤獨無常   幽囚 悲憤 獨り無常

兩蘇遺稿曾孫代   遺稿 兩つながら蘇る 曾孫の代

編釋漸成經百霜   編釋 百霜を經て 漸く成る

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

「兩雲遺稿」と仮称するのは、齊藤信行編釈「白雲洞遺稿」並びに今泉俊昭訓解「今泉岫雲遺稿」の二書である。
 両書の原著者は、片や会津藩士、片や岩国藩士として、共に戊辰戦争に従軍された同世代の漢詩人である。
両遺稿は百年の歳月を経て、夫々の曽孫によって編釈がなされた。
偶然にも御両人が筆者の知人であることも、何かの奇縁であろう。

起聯=天下を二分した「戊辰戦争」の敗者を思う。
頷聯=白雲洞絶筆(三首の内)

  生来三十七年秋 悲莫悲於今歳秋
  愁人一夜千行涙 滴尽満天名月秋

頸聯=今泉岫雲絶筆(三首の内)

  光陰荏苒自移遷 誰識幽人獨寂然
  可酌可詩還可舞 今宵六十有三年

結聯=百年後、兩曽孫による兩雲遺稿編釋成る。

【補註】

南部五竹=岩国藩士、名は裕、通称俊三郎、字は君綽、号は五竹、白雲洞。
 慶応2年長幕戦争後、建尚隊を組織したが機が漏れ縛に就き、斬により散華。
 享年37歳。天保2年(1831)‐慶応3年(1867)

今泉岫雲=会津藩士、名は利武、通称勇治。
 明治元年(1868)会津落城後は越後各地に流浪、明治6年(1873)会津若松で漢学教授。
 明治16年(1883)私立日清館教授。天保5年(1834)‐明治29年(1896)

齊藤信行=五竹の曽孫(昭和3年生、東京在住)
  齊藤信行編釈『白雲洞遺稿』はウェブサイト「南部俊三郎の著作」(PDF)に収録。

今泉俊昭=岫雲の曽孫(昭和6‐平成25年)
  今泉俊昭訓解『今泉岫雲遺稿』は訓解者の没後、故人の義弟(福岡在住)により出版。



<感想>

 兼山さんから立派な『今泉岫雲遺稿』を送っていただき、明治の漢詩人の力量を改めて感じました。

 今泉岫雲氏と南部五竹氏とは関わりは無いでしょうが、お二人の号に「雲」が入っていることと、遺稿をまとめられた曾孫のお二人が兼山さんとのつながりがあったということで、縁を感じられたのですね。

 二人の詩人の生き様と作品を一つの詩にまとめるという難しい作詩だったと思いますが、律詩という形でうまく収められたと思います。

 常春さんからも『今泉岫雲遺稿』につきましての感想の詩をいただきましたので、次にご紹介しましょう。



2014. 4.11                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第125作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-125

  読今泉岫雲遺稿有感 一        

嗣子綿綿校遺稿   嗣子綿々遺稿を校べ

曾孫密密訓沈吟   曾孫密々沈吟を訓ずる

會津儒學盈波亂   会津儒学波乱に盈つるも

血統猶持一意心   血統猶持す一意の心

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

 兼山さんより 会津藩士漢学者 今泉岫雲遺稿を頂いた。

 漢詩五百首を年代順に並べて第四十一首が落城の吟である。
 中堅の藩儒であり、家でも子弟に教える。落城後は新潟で教鞭をとり、また、会津に日新館が開設されると其処で教鞭をとり、また私塾を開く。そして真情を酒に託す。今で言えば学校の先生というところか。
 この詩集のすごさは、その長男真幸氏が、牧師として教会での重責にありながら、父の遺稿を校編したこと、そして曾孫俊昭氏が、訓解を成し遂げたことにもある。


<感想>

 常春さんからの感想の詩ですが、仰る通り、三代の精華が花開いたという印象ですね。
 二首いただきましたが、こちらの詩は、そうした脈々と受け継がれた漢詩の心を詠まれたものです。



2014. 4.11                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第126作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-126

  読今泉岫雲遺稿有感 二        

落城激動意沈沈   落城 激動 意沈沈

愛酒猶持一徹心   酒を愛して猶 持す一徹の心

老去藩儒歸故里   老い去りて藩儒 故里に帰る

詩歌永染子孫襟   詩歌永えに染む 子孫の襟

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 こちらは今泉岫雲氏の生涯を常春さんとしてまとめた詩です。
 『今泉岫雲遺稿』から常春さんのお気に入りの詩を選んで下さいましたので、以下にご紹介しましょう。

甲申(明治17年帰郷直後の作)
  甲申七月
乱余為客似浮萍
豈識帰郷身世寧
且覓先塋鍬荊棘
十年初得拝精霊

その前年の作、明治開化についての感懐。
  偶成
迂生平素見機遅
開化人言日日移
自古守株迂遠説
是迂是遠已吾知

明治18年の暮か? 戊子元旦の前に詠んでいる。
  酔吟
茫々宇宙幾春秋
自古艱難在下民
今日城中搢紳客
悉皆鼠窃狗偸人




2014. 4.11                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第127作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-127

  閑居人囁     閑居人の囁き   

徐起聞鐘一欠伸   徐に起き 鐘を聞いて 一欠伸

徒行日暖弄衰身   徒行日暖かく 衰身を弄ぶ

揮毫没我心安息   揮毫に没我 心 安息

老気軒昂我世春   老気軒昂  我が世の春

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 知らぬ間に傘寿を過ぎ八十一歳 幸い健康に恵まれ晴耕雨読の生活・・
 体操・散策・旅行・作詩・書道等を気ままに続けています。
 この詩は『年寄りの独り言』として作りました。

<感想>

 ご健康でいらっしゃることをまずお慶び申し上げます。
 私も今年は「晴耕雨読」の生活にあこがれて仕事を減らしてみたのですが、四月になってから晴れの日のほとんど、ひたすら庭仕事に「没我」、なかなか読書に進めない毎日を過ごしています。

 題名につきましては、「閑居人囁」で分からないことはないですが、私は「閑居 人が囁く」と読み、誰か他人の声が聞こえると理解しました。「閑居人」という言葉もどうもしっくり来ません。「独り言」ということを表すなら、「閑居偶成」で十分意図は通じますので、わざわざ誤解を招く表現にする必要は無いでしょう。

 全体にのんびりとした生活がよく伝わってきますが、疑問なのは起句の「聞鐘」で、これは緑風さんのお住まいの辺りでは、何時頃に鳴りますか。
 私の近所のお寺では毎朝五時半に鐘の音が聞こえてきますが、通常は明け方の早い時間に鳴るイメージがありますので、「徐起」と合わないのですね。

 もう一点気になるのは、転句と結句の「我」の重複ですね。
 「同字重出の禁」という規則のこともありますが、言葉として「没我」として「我世春」というのは矛盾しているように思います。
 結句の「我世春」は日本語そのままという感じで、推敲したい部分ですね。



2014. 4.14                  by 桐山人



緑風さんからお返事をいただきました。

いつもありがとうございます。
以下の通りに推敲しました。

    閑居偶成(推敲)
  徐起開窓一欠伸   徐に起き 窓を開いて一欠伸
  徒行日暖弄衰身   徒行 日暖かく 衰身を弄ぶ
  揮毫心爽眺庭樹   揮毫 心爽やかにして 庭樹を眺む
  老気軒昂極楽春   老気 軒昂 極楽の春

2014. 4.21              by 緑風























 2014年の投稿詩 第128作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-128

  肥前佐賀        

梅花馥郁舊藩庠   梅花馥郁 旧藩の庠

葉隠連綿高志郷   葉隠連綿 高志の郷

忠孝魁慈私意斷   忠孝魁慈 私意を断ち

維新賢傑七枝芳   維新の賢傑 七枝芳し

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

「旧藩庠」: 東原庠舎
「葉隠連綿」: 現在も「葉隠研究会」等の方々が、諸々活動されています。

<感想>

 そうですね、東原庠舎、現在の多久聖廟は肥前佐賀の鍋島藩にあったわけで、となると佐賀独自の武士道を語った山本常朝の「葉隠」が連想されます。
 起句の「庠」は「東原庠舎」を指していますが、「庠」は「校」と同じで学校を表す字です。

 承句の「高志」は、私は最初地名かと思いましたが、そうではなく、現在まで地域の方々が高い志を大切にされていることを表したものですね。

 結句の「七枝」は東原庠舎ゆかりの方々なのでしょうか。
 承句の「葉隠」云々の辺りから、佐賀全体に詩の流れは動いていますので、大隈重信や江藤新平などの佐賀の七賢人を表していると考えた方が良いでしょう。
 その分、東原庠舎の意識が弱まっているので、起句の役割がやや弱く感じられます。



2014. 4.15                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第129作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-129

  天神社        

老鶯尋侶去   老鶯 侶を尋ねて去り

池鯉逐人旋   池鯉 人を逐うて旋る

春尽天神社   春は尽く 天神社

菅公枕硯眠   菅公 硯を枕に眠らん

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 小さな天神宮も合格祈願が終わったようです。
 春は緒に就いたばかりでしたが、天神様を休ませたいと思い、春尽に仕立てました。
 下手な機知が先行して、先生から又も叱られそうですが・・

<感想>

 ユーモラスな結句の光景が、妙にリアルに目に浮かんできます。「なるほど」と楽しく拝見しました。

 起句は季節感が表れていますが、受ける承句は春だと感じられないのが残念なところ。前半があまり意図の感じられない叙景になってしまいました。
 ここですっきり暮春を感じさせれば、転句の「春尽」が要らない、というよりも邪魔になるくらいになると思います。

 詩の眼目が結句にあり、その謎解きのような形で転句に戻り、そして前半の叙景が生きてくるという構造ですので、承句に余韻が残るくらいが良いでしょうね。



2014. 4.15                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第130作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-130

  新秋夜坐        

秋気無端涼一棚   秋気端無く 一棚涼し

孤蛩可味動吟情   孤蛩味はふべし 吟情を動かす

何来吹笛誰家唱   何こより来たる吹笛 誰が家の唱ぞ

眉月天河雲影横   眉月 天河 雲影横たふ

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 起句の「秋気無端」と題名の「新秋」が対応が良いですね。
 また、承句の虫の音も「孤」がはたらいて、秋の始まりを感じさせます。
 起句、承句とも、よく意識された措辞が趣を出していると思います。

 転句は李白の「春夜洛城聞笛」を彷彿とさせる内容ですね。新秋の季節、まだまだ涼を求めて窓を開けたままの家も多いでしょうから、音楽が伝わって来たのでしょう。
 「唱」も加わると宴会の雰囲気になってきますので、賑わいにあこがれる孤独感、寂しさも含まれているのでしょう。
 それが、結句の「眉月」の細い月の繊細さへの導入になっているようです。
 ただ、結句は「眉月」「天河」「雲影」と三つも上空のものを並べたのは欲張りすぎで、「眉月〇〇雲影横」あるいは「眉月〇〇天漢横」とするか、「眉月天河〇〇横」という形に持って行くのが良いでしょう。
 「〇〇」は名詞ではなく、形容詞でないといけませんが。



2014. 4.16                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第131作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-131

  養鶏場即事        

安棲四壁不言辛   四壁に安棲して辛を言わず

昼夜偏勤産卵真   昼夜偏へに勤むる産卵の真

問汝時鳴欲何所   問ふ 汝 時に鳴いて何の所を欲するや

不歎宿命恨天神   宿命を歎いて天神を恨まず

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 先日、養鶏場をやってる大学の後輩が突然訪ねてきました。
 黄身が二つ入った卵を160個頂きました。

 あまりに沢山でしたのでみなさんに御すそ分け。たいへん喜ばれました。
 私も子供のころはニワトリの散歩係でしたので、少しはニワトリの気持ちがわかります。

<感想>

 以前、私の住む町内、ほんの百メートルほどの所に養鶏場があり、おいしい卵だと評判でした。何年か前に廃業したようで、いまでは鶏舎だけが残っています。
 鶏の鳴き声で目が覚めた頃が懐かしいですね。

 それにしても、黄身が二つ入った卵に出会うと、私はいまだに「今日はラッキー!!」と思うのですが、それが160個もあると言うのはすごいですね。割ってみないと黄身が二つかどうかは分からないというところが卵の面白さなのですが、毎日毎日、割る度に「ラッキー!!」と思えるだけでも、何か幸せな気持ちになるでしょうね。

 結句の「不」の位置がしっくりこないのですが、句意としては「宿命を歎くことも天神を恨むこともしない」ということでしょうか。
 七言句の「二・二・三」のリズムで行けば「宿命は歎かず、天神を恨む」と読みますが、こちらでしょうか。
 起句の「不言辛」との関わりや「不」の同字重出もありますので、結句は再考されるのが良いでしょう。



2014. 4.17                  by 桐山人



亥燧さんからお返事をいただきました。

 いつもありがとうございます。

 「不」は宿命を歎いて天心を恨まずという、上、中、下にして全体にかかるものとして作りました。
 いつも朝早くから鳴いていますが、何がお望みですかって聞いたら、にわとりは、宿命を歎かず天の御心(卵を産むという)は決して恨みませんと言うほどの意味でしたが、やっぱり紛らわしいので、次のようにしました。
 同字の重出も直しました。

  安棲四壁未言辛   四壁に安棲して 未だ辛を言はず
  昼夜偏勤産卵真   昼夜偏へに勤むる 産卵の真
  問汝時鳴欲何所   汝に問ふ 時に鳴いて何の所を欲するや
  不歎宿命活天神   宿命を歎かず 天神に活きる



2014. 4.18          by 亥燧






















 2014年の投稿詩 第132作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-132

  三月三日        

軽暖東風度柳枝   軽暖東風 柳枝を度り

江城桃李闘芳姿   江城桃李 芳姿を闘わす

流觴曲水先賢宴   流觴曲水 先賢の宴

七日無詩笑我痴   七日詩無く 我が痴を笑ふ

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 三月三日は上巳の詩。
 日本ではひな祭りですが中国ではその昔、会稽山のふもと蘭亭で誠に優雅な宴が開かれました。
 流れに盃を浮かべて自分のところに到達するまでに詩を作って競うという遊びです。
 何日かかっても悪戦苦闘しているのに、なんともはや(-_-;)

<感想>

 王羲之の曲水宴、優雅の極みだと私も思っていましたが、中には苦しい詩人も居たかもしれませんね。
 そう考えると、雲の上のような宴でしたが、何となく身近に感じられますね。
 それならば、いっそ、私も参加できるように頑張っちゃう気持ちになれたらと、中国旅行で買ってきた「闌亭序」のレプリカを眺めました。

 転句は、ここで昔の宴を思い浮かべるという時間の変化がありますので、「先賢曲水流觴宴」と語順を換えた方がすんなり入れると思います。

 結句は「痴」というよりも内容的には「拙」だと思います。謙遜し過ぎの感もありますので、せっかくの韻字の「詩」を最後に持ってくる形で検討されてはいかがでしょうか。



2014. 4.17                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第133作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-133

  送別真朋        

良宵送別酒亭迎   良宵に送別して 酒亭に迎へ

下涙呑聲唱渭城   涙下り聲を呑んで 渭城唱はん

行矣明朝去關左   行矣 明朝 關左を去らば

回頭應起并州情   頭を回らせば應に起すなるべし 并州の情

          (下平声「八庚」の押韻)

「并州情」: 賈島「度桑乾」
  客舎并州已十霜 帰心日夜憶咸陽 無端更渡桑乾水 却望并州是故郷


<感想>

 賈島の詩は「渡桑乾」(読み下しと口語訳を添えておきました)、よく知られた作品です。
 科挙に受からず生活に苦しんでいた時代の作品と思われますが、十年暮らした并州、その間は故郷が恋しいだけであったが、去るとなると「第二の故郷」とも言うべき親しみが湧いてくる、という、現代人でも共感を呼ぶ内容になっていると思います。

 謝斧さんのこの詩は「送別」ですので、去っていく友人に贈る詩、ということは「并州情」を起こすのも友人となります。
 「関左」は関東を指しますが、その地が友人にとっても第二の故郷にきっとなるだろうという結びで、言外に作者自身との交友も忘れないでくれという想いが籠められているのでしょう。



2014. 4.28                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第134作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-134

  立春        

立春俄雪舞   立春 俄かに雪舞ひ

幸便速昂心   幸便 速くも心昂ぶる

族子新生快   族子 新生の快

皚庭娯独斟   皚庭 娯しみて独り斟む

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 立春の雪、という取り合わせに、浮き浮きとする気持ちがすっきりと描かれています。

 転句の「新生」は新しい春を迎えた喜びですが、家族が増えたことも表しているのでしょうか。
 そうした賑やかさや、承句の「速昂心」という心情から見ると、結句の「独」はどうでしょうか。
 酒はひとりで飲んだ方がおいしい、という人も居ますが、ここで孤独感を出すよりも、素直に喜びを表して「更斟」とした方が流れが自然になると思います。



2014. 4.28                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第135作も 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-135

  遅春        

東風過日越山川   東風 過日山川を越え

料峭今朝震暁天   料峭 今朝暁天を震はす

草未萌焼残土手   草いまだ萌えず焼残の土手

滔滔唯逝水清漣   滔滔として唯だ逝水清漣

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 結句の「滔滔唯逝水清漣」について、初めは<寒温両つながら逝水清漣>に拘っていたのですが、「滔滔唯」の方がすっきりすると思って改めました。

<感想>

 なかなか春らしい暖かい日が来ない時季の情景を描いたものですね。
 起句は「春風がこの間は吹いていたのに」という承句へ導く表現ですが、どこか特定の山とか川を越えてきたならば分かりますが、「山や川を越えた」と不確定に言ったら「辺り一面もう春になった」という意味になります。
 しかも、そう言っておいて、「土手には草も芽生えていない」と来ると「あれ? 春風が吹いたんじゃなかったの?」と思うし、また結句で「滔滔」と水が流れるとなると、「雪が溶けて山にも川にも春が来た」と思いますので、どうにもちぐはぐな描写になります。

 ただ、後半の転句と結句だけで見るならば、春浅い頃の季節のうつろいとして理解はできます。簡単に言えば、「転句の情景」(まだ冬)だけど「結句の情景」(水はもう春)という逆接で読めます。
 その逆接が前半でも同様に繰り返されているのがこの詩の構成ですので、起句を練り直すのが良いでしょうね。

 また、句のリズムで見ると、転句は「三・四(二・二)」、結句は「二・五(一・四)」となっており、七言のリズムとしては読み辛いので、こちらも推敲をお勧めします。



2014. 4.28                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第136作は 桃羊野人 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-136

  春雨        

蛙声渡水燕双飛   蛙声水を渡り 燕双飛す

雨絲蕭蕭草又肥   雨絲 蕭蕭 草又肥ゆ

濁酒傾杯孤館暮   濁酒杯を傾くる 孤館の暮れ

無聊太息客人稀   無聊太息客人稀なり

          (上平声「五微」の押韻)



<感想>

 春の情景として「蛙」「燕」「雨」「草」と前半に並べましたが、四つ並ぶと羅列という印象が強く、変化をつけるためにも三つくらいで考えると良いでしょうね。

 承句は「絲雨」と語順を換えておかねばいけません。

 転句の「孤館」は「ぽつんと離れた一軒家」、これ自体は問題はありませんが、結句の「客人稀」とつなげると、つまらなくなります。
 なぜ客人が来ないのか、これは「春雨」という題であるからには、その理由は「雨降りだから誰も来ない」、でなくては詩情が生まれません。
 ところが「孤館」となると、作者がそんな寂しい場所に居ることが、「客人稀」の理由になってしまいます。それなら春でなくても、年がら年中、来客は少ない。
 と言うよりも、そもそも「孤館」に居るのは「客人稀」を求めているのでは、と思うのですが、ならば「無聊太息」するのも変な話です。
 いやいや、この「孤」は「私ひとりだけで」という意味で孤独感を出しているのだ、という意図かもしれませんが、「孤独」と「無聊」は違いますので、やはり、この「孤」は気になりますね。
 「客人稀」も今一という感はありますが、ひとまず転句から収まるようにしてはどうでしょう。



2014. 4.28                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第137作は 茜峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-137

  不屈少女        

少女豊容暉眼光   少女は豊容にして 暉やく眼光

改新祖国語高昌   祖国を改新す 語は高昌なり

暴威銃弾断來世   暴威 銃弾は 来世を断つ

書籍筆翰齎屈強   書籍 筆翰は 屈強を齎(もたら)す

不疾誰何偏志学   誰何をも 疾(にく)まず 偏へに志学す

無能制圧更飛翔   制圧は能はず 更に飛翔す

婦人視線拡言動   婦人の視線 拡がる言動

千万友朋呈展望   千万の友朋に 展望を呈(しめ)す

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 パキスタンの少女 マララ・ユスフザイさんの言動に心を突き動かされている。

「母国の将来を変え、教育を義務化したい」
「欲しいものは1冊の本と、1本のペンだ」
「私は誰にも敵対はしない。テロリストの子供たちにこそ教育を受けさせたい」
「武装勢力は銃弾で私を黙らせようとしたが 私たちの希望や志は変わらない」
「過激派は教育の力、女性の声の力を恐れている」
「教育こそが国を強くする」


 瞳は輝き、高らかに理想を述べるその態度は 少女とは思えない立派な女性の姿だ。
 視線は世界へと拡がり、彼女の祖国のみでなく、他の国の人たち、特に女性たちの心をの支えになっている。


<感想>

 マララ・ユスフザイさんは過激派から頭と首に二発の銃弾を受けたそうです。
 十五歳の少女に銃撃が行われるという、痛ましいパキスタンの政情を思うにつけ、私たちに彼女の言葉が一層力強く響いてきます。
 茜峰さんの今回の詩は、マララ・ユスフザイさんの姿や言葉をよく表していますね。
 律詩というスタイルが、全体像を描くのには適していて、彼女をよく知らない読者にもイメージが伝わって来ます。

 形式のことで言えば、頷聯は対句の対応が甘いでしょうし、頸聯も「不」「無」は入れ替える、「飛翔」は「高翔」の方が良いかと思いますが、言葉の勢いが消えてしまうようでしたら、現行のままでも構わないでしょう。



2014. 4.29                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第138作は 押原 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-138

  春陰閑居        

十里田園一径通   十里 田園 一径通ず

桃花淡靄夕陽紅   桃花 淡靄 夕陽紅なり

春陰恍惚無餘事   春陰 恍惚として餘事無し

老境閑居遊宙空   老境 閑居 宙空に遊ぶ

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 うららかな春の夕べ、この様な心境で居りたいもの。

<感想>

 書き出しの「十里田園」で、すでにパノラマ写真のような広がりと奥行きが出ていますが、そこに「一径通」「桃花」と来ると、もう心は桃源郷ですね。
 桃花の「淡靄」と夕陽の「紅」はグラデーションの効果も出しているのでしょうね。

 全体の色調も整っていて、まさに絵画を見ているような気持ちになります。
 最後の「遊宙空」はちょっと大胆に、「遊大空」として、スケールを広げるのも面白いでしょうね。



2014. 4.29                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第139作は 桃羊野人 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-139

  病中偶成        

鐘声隠隠使人愁   鐘声隠隠 人をして愁へしむ

借問何為歳月空   借問す 何為れぞ 歳月空し

微志無成灯一穂   微志成る無く 灯一穂

臥痾夜中北窓風   痾に臥す夜中 北窓の風

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 読み下し文は私の方で付けましたので、作者の本意とは若干違うかもしれませんが。

 ひどい風邪をひかれて、その折の作とのことですが、実感の籠もる詩ですね。
 冒頭の「鐘声」と結びの「北窓風」が首尾が合い、病牀で動けない状況を聴覚で表しているのはとても良いですね。

 病気で寝ていると、どうしても頭の中は重くなるばかり、そうした心情も納得のいくものですが、起句の「使人愁」から、承句の「歳月空」、転句の「微志無成」と続くのはあまりに悩みすぎです。
 転句の語句を承句に置き、「微志無成歳月空」とまとめてしまった方が良く、その分、転句に工夫の余地が残ります。

 もう快復されたようで、一安心です。



2014. 4.29                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第140作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-140

  春日看花        

寒氣歸來遅發芽   寒気帰り来れば 発芽を遅らす

盛開時日毎年差   盛開の時日 毎年 差(たが)ひ

木蘭櫻樹一齊放   木蘭 桜樹 一斉に放つ

稀有佳期醉物華   稀有の佳期 物華に醉ふ

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 今春 厳寒の日が繰り返したためか、花の時期に少なからず異常がありました。
 そのせいか、辛夷、木蘭、桜が一斉に咲くという光景となりました。
 北国では或は珍しいことではないかもしれませんが、当地大阪では大変珍しい景色でした。
 そこで、ちょっとまとめてみました。



<感想>

 時間があれば妻と家の近くを散歩していますが、季節の変化を花で知ることが多くなりました。
 私の住む所は昔は兎が跳ねていたような山を切り拓いた宅地ですが、庭に立派な樹木を植えて手入れしている家、玄関先を草花できれいに飾っている家が多く、我が家には無い樹木の花を眺めて楽しんでいます。
 コブシとモクレンの違いが分からずに、真っ白な花が満開の大きな木を見つけては、他人さまの庭先で二人して「これはコブシだろう」「これはハクモクレンじゃない」と勝手に話していますので、その家の人が聞いたら笑われるかもしれませんね。

 承句の「時日」は「時期」の意味ですが、「日」とつながると「時間・時刻」の意味が出て細かくなります。「節候」「時節」などが良いと思います。

 転句の「一齊放」は説明的ですので、「齊放」を熟語にして「正(当)齊放」と感動を籠めると結句に余韻を生むことができますね。



2014. 5. 5                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第141作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-141

  於白帝城想杜甫     白帝城に於て 杜甫を想ふ   

黄流滾滾地涯来   黄流 滾滾として 地涯より来り

奔水割山三峡開   奔水 山を割って 三峡開く

白帝城頭臨絶景   白帝城頭 絶景に臨み

虁州街裏酌香醅   虁州街裏 香醅を酌む

此津群賈喧如旧   此の津 群賈 喧なること旧の如く

当歳孤舟逝不回   当歳 孤舟 逝きて回らず

遥想詩人漂泊涙   遥かに想ふ 詩人 漂泊の涙

啼猿飛鳥剰秋哀   啼猿 飛鳥 秋哀剰りあり

          (上平声「十灰」の押韻)



<解説>

 鈴木先生 一詩投稿いたします。
 私が三峡を訪れたのは大分昔でまだ三峡ダムが完成していなかったのですが、当時を思い出して作ってみました。

 残念ながら猿の鳴き声を聞くことが出来なかったのですが。


<感想>

 私もダムが完成するという直前に三峡に行くことができましたが、白帝城から眺めた長江の景観は心に残りました。
 しかし、その時の私が一番印象に残ったのは、「長江の水は茶色い」という事実でした。「黄河の水は茶色だが、長江は碧色だろう」という風に思い込んでいたので、びっくりでした。
 禿羊さんの首聯の「黄流滾滾地涯来 奔水割山三峡開」はまさにその通り、納得ですね。

 頸聯は上句の「喧如旧」が「賑やかさは昔のままだ」ということで、次への導入でもあります。「旧」を単独で使うなら、「依旧」が落ち着くように思います。
 「当歳」は「当時」の意で過去を表しますが、ただ、「旧」を受けての対句なので、つい「現在」の作者の状況と読みそうになります。「昔日」と明確にしても良いでしょう。

 「孤舟逝不回」は悩ましい表現で、作者はこの段階で、もう杜甫を十分に意識しているわけですが、読者の方はやはり唐突な印象になります。
 「孤舟」自体は昔も今もいくらでも存在するわけで、それが全て「不回」なわけではない。では、どうして帰らなかったのか、帰らなかったのは誰か、と考えて、ようやく、尾聯の「詩人漂泊」につながることになります。
 この辺りは、禿羊さんには珍しく、我が儘な展開になっていますね。「孤舟逝不回」を「一舟行不回」とすれば、少しは解消されるかなと思います。



2014. 5. 5                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第142作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-142

  春雨        

少女春衣湿   少女 春衣湿ふ

雲低昼愈昏   雲低れて 昼愈昏し

鞋痕応有涙   鞋痕 応に涙有るべし

只去雨零軒   只去る 雨零の軒

          (上平声「十三元」の押韻)



<解説>

 雨の日、母国の恵まれない子供たちのためにと、異国人の少女がチョコレートを売りに来ました。
 私は断ってしまったのでしたが、なにやら後めたく、家人からもなじられて、落ちつかない一日でした。
 少しは、贖罪の気持ちが表現できたでしょうか。

<感想>

 最近は、日本では街角での物売りも見ることは無く、「マッチ売りの少女」はマッチそのものも含めて、子ども達には現実感の薄い存在です。
 ですから、そうした訪問での募金や寄付に対しても、何となく怪しげな気持ちが先に立ってしまいます。
 私は断るのが下手で、ついつい相手の話を聞いてしまい、断りにくくなってしまうのですが、そうした時は妻が交代してしっかりと応答します。
 どんなものであれ買ったりしようものなら、後で妻から厳しく叱られてしまいますので、それに耐えるよりも見ず知らずの相手に断った方が楽だと、「えい!」と勇気を出して断ることができるとほっとするような次第で、越粒庵さんとは逆ですね。

 詩は「贖罪」かどうかは別にしても、全体に少女へのいたわりの気持ちがよく出ていて、結句も余韻が残ります。

 雨と涙の取り合わせは分かり安いのですが、その分、常套の手法という見慣れた印象もあります。
 転句は少女の心情を「涙」で表すのではなく、少女の印象、顔の表情とか目の輝き、仕草や動作などで表すと、去っていった少女の気持ちも想像できて、深みが出るかと思います。



2014. 5. 6                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第143作は愛知県犬山市にお住まいの 松庵 さん、八十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2014-143

  花見宴        

清明時節鳥声新   清明の時節 鳥声新たなり

郊外丘陵天地春   郊外の丘陵 天地の春 

対酌笑談桜樹下   対酌笑談 桜樹の下

満柯花発酔芳辰   満柯花発きて 芳辰に酔ふ

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 町内の公園に10本余の桜があり、満開になった4月3日、古老が寄り集まって花見の宴を開きました。
 周囲は山に囲まれ、ウグイスなど、終日鳴いています。
 満開の桜を愛でながら、飲むほどに酔うほどに、楽しい思い出が増えました。

<感想>

 松庵さんは作詩は七年ほど前からだそうです。最初は詩吟仲間の方に教えていただいてそうですが、四年前にお亡くなりになり、以後は独学で作っていらっしゃったそうです。
 詩を拝見しましたが、漢詩の作法は勿論、起承転結も考慮されていて、最初のご指導がしっかりされていたのでしょうね。
 特に、「花見宴」という詩題ながら、桜を出すのを転句までじっと我慢されたのが効果的です。ついつい、満開の桜の美しさに目を奪われて、起句から桜の花を描きがちなもの、丁寧な作品になっていると思います。
 分かりやすい用語ですが詩語を外さず、肩を張っていないところも良いですね。

 推敲されるとすれば、「清明時節」の季節感を整えることで、時期としては晩春になりますので、「鳥声新」ではおかしく、ここは「鳥声頻」とした方が良いでしょう。
 承句の「天地春」もややずれる感はあります。「郊外」「丘陵」はどちらかで良いので、ここに「天地春」で春爛漫が続いているという印象を伝える言葉を何か工夫すると良いでしょうね。

 後半は問題無いと思います。



2014. 5. 6                  by 桐山人


松庵さんからお返事をいただきました。

 お陰様で思考の範疇が広がりました。
 以下の通り前半を修正しました。

  清明時節鳥声頻
  郊外風光草木新

 有り難うございました。
2014. 5. 9          by 松庵
























 2014年の投稿詩 第144作は 桃羊野人 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-144

  閑適        

落花暮色小江潯   落花暮色小江のほとり

愛此清明不可侵   此の清明を愛す侵すべからず

友到閑庭塵外境   友閑庭に到り塵外の境

囲棋静坐月斜臨   棋を囲に静かに坐せば月斜めに臨む

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 雰囲気としては分かるのですが、実際に場面を想像していくと、もやもやとぼやけてしまう感があります。
 清明の頃、四月上旬の夕方、桜の花が舞う川のほとり、「この季節が一番好きなんだ」という作者の言葉までは理解できます。しかし、「不可侵」まで来ると、強調し過ぎでしょう。
 この春景が詩の主題ではなく、閑かな生活を描きたいはずですが、ここで完結してしまいますね。

 「不可侵」の場面に「友到」「小江潯」「閑庭」、俗世と隔絶した「塵外境」に来る友人はどんな人なのか、色々気になりますが、何よりも問題は、前半の好景を全く忘れていることです。

 前半と後半をそれぞれ単独で見れば場面はできあがっているのですが、お互いがそっぽを向いているようで、別々の詩が組み合わさっている印象です。
 詩の主題がどこにあるのか、この場合ですと詩題の「閑適」をメインにして、そのために何を配置するかという構成をしないと、せっかくの好景や好場面が勿体ないですね。




2014. 5. 6                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第145作は奈良市にお住まいの 虎堂 さん、七十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 お手紙には
桐山堂HPは、ときどき覗かして貰ってました。
これだけのHPを維持されていること、それを利用させて貰えることは本当に有難いことです。
 と感想を書いてくださいました。

作品番号 2014-145

  拷A讀書        

新告ャ陰午熱頒   新緑 陰を成し 午熱を頒つ

後園移榻樂書寰   後園 榻を移して 書寰を樂しむ

史篇眞僞誰知否   史篇の真偽 誰ぞ知るや否や

毎讀乍疑猶讀頑   讀む毎に疑ひ乍ら 猶ほ頑なに讀む

          (上平声「十五刪」の押韻)



<解説>

 歴史物、大好き人間としては、今に伝わる所謂「史実」が、時代時代の勝者の言い分に拠るところが大きいものと知りながら、その道の先生方による新説が出てくるのに、またワクワクするものです。
 さりながら、少年時代に染みついた贔屓の英雄が、それほどの人物でなかったことを知るのも、複雑なものです。(埒もないことを・・・・・)

<感想>

 新しい仲間を迎えて、大変嬉しく思っています。
 経験豊富な詩作、楽しみにしています。

 前半は詩題に沿った表現で、破綻もなく仕上がっていると思います。
 緑濃い庭の木陰に椅子(「榻」)を置き、読書に耽るというのは文人のあこがれ、共感を呼ぶ表現です。

 後半から趣が変わりますね。
 転句は「誰」「否」で二つ疑問を表す言葉が並び、却って分かりにくくなっています。「誰知(誰か知らん)」「知否(知るや否や)」のどちらかで十分でしょうから、「誰」を「今」とか「人」の名詞、あるいは「可」なども面白いでしょう。

 結句は日本語をそのまま漢字にしたような印象で、特に「乍」は「ながら」と音読しては和習になります。
 「たちまち」と読めば救われますが、それならば語順を「乍讀常疑(乍ち読まば常に疑ひ)」とするところでしょう。
 「讀」の字も重ねている意味はあまり感じませんので、例えば「疑念更深」とするのが落ち着くように思います。、



2014. 5.17                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第146作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-146

  晩秋即事        

老蛬叢中秋色残   老蛬叢中 秋色残す

空林山骨思無端   空林 山骨 思ひ端無し

天辺一笛人安在   天辺一笛 人いずくにか在る

独抱傷心落日寒   独り抱く傷心 落日寒し

          (上平声「十四寒」の押韻)



<感想>

 晩秋らしい寂しさが、「老蛬」「空林」の語からよく伝わってきます。
 承句の「無端」は「思いがけず」「とりとめもない」など不確定な事態や心情を表す言葉ですが、ここでは「限り(端=涯)が無い」というくらいでしょうか。
 その広がり感が次の「天辺」へと素直に導いてくれます。

 転句の「一笛」も辺塞詩のような寂寥感と空漠感が出ていますので、ここまで来ると、もう結句の「傷心」は要らないでしょうね。



2014. 5.24                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第147作も 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-147

  早春景        

牆角初鶯語未円   牆角 初鶯 語未だ円ならず

東風微暖雪晴天   東風 微暖 雪晴れの天

草堂迎客交情密   草堂客を迎ふ 交情密なり

梅片煎茶一脈禅   梅片 煎茶 一脈の禅

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 こちらも落ち着いた暮らしの趣がよく表れた詩ですね。

 春を迎えても、今年は平地でも雪が結構降りましたが、仲泉さんのお住まいの山梨ではまだまだ雪の日が多かったのでしょう。
 承句の「雪晴天」「東風微暖」とはしっくりこない印象もありますが、春の遅い山国の事情とすれば納得できます。

 その「雪晴」から順に、雪がやんだから友人が訪ねてきて(「迎客」)、閑かにお茶を楽しんだ(「煎茶」)と流れて行きますので、ゆったりとした時間の流れも感じられます。

 早春の詩ですと、つい「梅」を真っ先に置きたくなりますが、じっと我慢したことが、この詩の主題が叙景だけでなく、自然と一体となった作者の心情にあることを示していて、効果を出していると思います。



2014. 5.24                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第148作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-148

  神戸有馬金湯温泉     神戸有馬温泉金の湯   

有馬温泉壺口水,   有馬温泉は壺口の水か

黄河一勺注瀛洲?   黄河から一掬いの水を瀛洲に注いだか

路中摩托書兵庫,   路中のバイクに兵庫と書かれ、

始覺今来神戸游。   初めて神戸に来ていると覚った

          (下平声「十一尤」の押韻)

注: 壺口の水、中国黄河の水のことを指す。

<感想>

 神戸にある有馬温泉の「金の湯」は、鉄分が酸化して茶色くなっているのが有名ですが、それを「壺口」(黄河中流にある滝)の水、つまり、黄河の水と見立てたところがこの詩の眼目ですね。

 バイクに「兵庫」と書かれていたというのも実感があり、確かに私も旅行に行けば、周りの車のナンバープレートが目に入ります。普段は目にしないような地名や県名が書かれた車が増えてくると、その土地に来たことを実感します。
 そういう意味では誰にでも経験のあることで、分かりやすい後半部分だと思いますが、「神戸」に来た、ということに対しての、作者の思いがもう少し出ると、一つの詩としてまとまると思います。
 現行ですと、旅行の記録という印象で、それはそれで意味も面白みもありますが、前半のスケールの大きな表現が埋もれてしまうようで、ちょっと勿体ないかなというのが感想です。




2014. 5.25                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第149作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-149

  登六甲山展望台        

傍晩駆車登六甲,   夕方車を駆りて六甲を上れば

路牌頻警萬千彎。   道標頻りに警告す千万のカーブありと

無燈光處為山海,   灯光無き処は山か海か

半片星河大阪湾。   半片の銀河ぞ大阪湾

          (上平声「十五刪」の押韻)



<感想>

 六甲のドライブウエーからの夜景の美しさは本当に素晴らしいですね。
 「100万ドルの夜景」は現在では「1000万ドルの夜景」と言われるそうです。

 神戸や大阪の光の渦の中に、真っ暗な山や海が見えるという転句は実感が籠もっていますね。
 「無燈光處」は説明で散文的ですが、結句に「半片星河」は銀河が半分切れて落ちているかのように見えたという比喩がありますので、控えたのでしょうか。
 夜景の光と影のコントラストに面白さを見つけたのが陳興さんの感動になりますが、私の印象ではもう少し光の面を出しても良いかと思います。
 その意味では、承句ですぐに頂上まで行って景色を眺めても良いのではないでしょうか。



2014. 5.25                  by 桐山人
























 2014年の投稿詩 第150作も 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2014-150

  京都清水寺遇藝妓        

藝妓經過惟默默,   芸妓が 唯静かに過ぎてゆく、

櫻花二月未全開。   桜花は 二月に未だ 全く咲いていない

雪妝華服淩波子,   雪化粧の華やかな服 波が洗うような美人

清水寺中新拜回。   清水寺に参拝し帰るところ

          (上平声「十灰」の押韻)



<感想>

 陳興さんは昨年は鎌倉に行かれたようですが、今年は神戸から京都というコースのようですね。

 転句は舞妓さんの姿を表していますので、起句の描写とは近づけたいところ。韻字や平仄を直さなくてはいけませんが、転句と承句を入れ替えるのが良いと思います。
 作者は広い視野がありますから、舞妓さんを見て、辺りの桜の枝を眺めて、また舞妓さんを振り返って、という動作の流れに不自然さを感じないでしょうが、読者は詩に書かれていることしか見えませんので視線の変化に途惑います。
 読みやすいように配慮することは必要です。

 承句の「未全開」は部分否定になりますので、「まだ満開というわけではない」ということで「少しは開いている」と解釈します。
 お書きになった「まだ全く咲いていない」は全否定で、花は一つもない、となります。
 「二月」は陰暦で実際は三月、作詩の日付は15日となっていますので、少しは咲いていたのかどうか、微妙なところでしょうね。
 全く咲いていなかった、ということでも心は満開を待っているわけですから、「全開」ではなく例えば「蕾將開」という形が落ち着くでしょう。



2014. 5.25                  by 桐山人