2013年の投稿詩 第151作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-151

  春日偶成        

平方橋上獨凭欄   平方橋上 獨り欄に凭れば

老少喧嘩花下餐   老少喧嘩 花下の餐

千樹香雲融失色   千樹香雲 融けて色を失ひ

一川石瀬已春闌   一川石瀬 已に春闌なり

          (上平声「十四寒」の押韻)



<解説>

 市内を二分する大きな川が流れており、そこの河川敷公園は毎年花見客で賑わいます。
春霞でまるで水墨画のような感じでした。

<感想>

 インターネットで検索すると、新居浜市の「平方橋」は「平形橋」となっていましたが、少し字を替えたのでしょうか。真四角の橋なのかな、と考えてしまいました。

 川沿いの桜が満開で、花見客で賑わう情景を描いていますが、特に転句が良いですね。
 この転句を受ける結句にも力が欲しいところ、二つのことを出すよりも、まっすぐに河川敷が延びている様子を出して「一条石瀬」「一条長瀬」などではどうでしょうか。

 起句の「獨」は、詩の最後が「春闌」で終わるのならば、変に孤独感を出すのは邪魔で、のんびりとした気分を表す言葉にした方が良いでしょう。



2013. 5.17                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第152作は 茜峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-152

  九十四歳立選挙     九十四歳 選挙に立つ   

遺偈立教幽憶翁   遺偈の立教 幽憶の翁

守文憲法核忡忡   守文す憲法 核の忡忡

終身乃計謳歌響   終身乃計 謳歌は響く

少壮共鳴心緒隆   少壮が共鳴 心緒隆まる

          (上平声「一東」の押韻)




<解説>

 昨年末の衆議院に94歳の男性が憲法改正阻止と脱核への強い思いを持って立候補された。
 300万円の供託金は「葬式代」を当てられたという。
 驚きと同時に、ご自身とそれを容認された親族に対して尊敬の念を持ち胸が熱くなった。

 結果は最下位だったが、その後この行動は強く反響を呼んでいるとのこと。
 先日は東京のライブハウスでSLANGというパンクロックグループが「おじいちゃんありがとう」のメッセージを込め行動をたたえて歌ったという。
 カンパのための基金も立ち上げた。募金、手紙も続いているらしい。こんな若者がいるということにもまたまた胸が熱くなる。

「終身乃計」: 管子(中国春秋時代の思想家)の言葉「一樹百穫なる者は人なり」から引用した。

<感想>

 起句の「幽憶」は「幽懐」「幽思」を言い換えたもの、心の奥に強い思いを持っていることですね。

 「管子」の言葉は、「一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」という言葉の後、「一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり」とまとめています。
 未来を見据える気概こそが人を育てるということですね。

 未来どころか過去にも目をつぶろうとする、あるいは最初から目を開いていない人ばかりの昨今の政治家、困ったものです。



2013. 5.17                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第153作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-153

  尋花木曽山中 其一        

行盡桃源里   行き尽くせば桃源の里

羊腸蹇蹇蹎   羊腸 蹇蹇としてつまず

鶯聲殘雪上   鶯声 残雪のほとり

花底自陶然   花底 自から陶然たり

          (下平声「一先」の押韻)




<解説>

 かの桃源郷とはこのことか
 曲がりくねった峠の細道
 汗を拭い重い足を引きずってやっとたどり着くと
 消え残る雪の向こうに鶯の声
 見上げれば花、花、花


<感想>

 起句から一気に幻想的な世界へと導かれます。
 「行盡」の説明が承句に来るわけで、前半の二句で詩題の「尋花木曽山中」をしっかりと説明していると思います。

 転句に「殘雪上」、結句に「花底」と場所を表す語が続くのが、やや場面を複雑にしているように感じます。





2013. 5.18                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第154作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-154

  尋花木曽山中 其二       

遲日春陰裏   遅日 春陰のうち

落花詩酒筵   落花 詩酒の筵

山中何所見   山中 何の見る所ぞ

惟足醉中眠   惟だ酔中の眠に足る

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 春の日はうらうらとして散り初めし花が舞う
 人知れぬこの山中、この上さらに何がいるというのか
 ただ夢うつつのひと眠り



<感想>

 正岡子規が明治二十四年に木曽を旅行した時に、「岐蘇雑詩」と題して七言律詩三十首の漢詩を作りました。
 これは、平声三十韻を用いたもので、子規の漢詩の頂点を示すとも言われています。
 ただ、この旅行は六月だったそうで、「尋花」という趣は無く、「木曽路はすべて山の中」というイメージが強まる詩ばかりです。芳原さんの「木曽山中で花を尋ねる」という詩題は斬新ですね。

 「其二」のこちらの詩は、李白が訪ねてきたか、と思わせるような、世俗を超越した心境があふれています。

 転句の「何所見」は「(山の中には)何も見るものが無い」と全否定する形になりますので、「この花だけでよく、これ以上は(見るものもない)」という意図を出すには「何更見」としておくべきでしょう。




2013. 5.18                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第155作は 押原 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-155

  雀        

群翔朝日向   群翔 朝日に向ふ

壮快一聲譁   壮快 一声譁し

午院無心啄   午院 無心に啄む

自由野鳥誇   自由は野鳥の誇り

          (下平声「六麻」の押韻)




<解説>

 籠には入らない、雀の矜恃。

<感想>

 押原さんの五言詩、前回の「籠鳥」と好対でしょうね。

 「群翔」からの流れからは、承句の「一聲」は「百」くらいが落ち着くのではないでしょうか。

 結句の「自由」は平仄を合わせるなら「天真」というところでしょうが、「籠鳥」の束縛に対比させるということで考えると、私はこのままでも良いと思います。



2013. 5.18                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第156作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-156

  春日野望        

往事麥田天雀啼   往事 麦田には天雀(雲雀)啼き

紫雲英秀飾町畦   紫雲英(蓮華草)はさき 町畦を飾る

近年處處休耕圃   近年 処処 休耕圃

農業復興多課題   農業の復興 課題多し

          (上平声「八斉」の押韻)




<解説>

 以前は麦畑には雲雀があがり、蓮華草の花が開いているのが、当然の景色でしたが、今では麦畑は減ってしまいました。
 さらに、TPPの問題も出てきて、農業経営も大変でしょう。
 そして、食料問題はいろいろと複雑な難しい課題が多くて、今後のことも心配です。

 そんなことを考えながら、つくりました。

<感想>

 かつての田んぼでは、レンゲが一面に咲いている光景を春に目にしました。
 稲の肥料になるという話を聞いた覚えがありますね。
 最近は休耕田も多くなりましたし、レンゲよりも菜の花の方が多くなっている気がします。

 承句の「町」は「田のあぜ道」の意味で、日本の「まち」の意味ではありません。

 現在の農村の状況を描いた転句はまだ良いですが、結句の「農業復興」は唐突に感じます。
 前半の懐古では「麦畑」「天雀」「紫雲英」と出されていますが、実際の農業の場面ではなく、ここから「農業が盛んだった」と読み取るのは難しいからです。
 働いている場面が一語でも入ると良いでしょうが。



2013. 5.18                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第157作は 劉建 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-157

  水禽        

水禽兩兩霧蒼蒼   水禽両両 霧蒼蒼

閑語囂囂靜作浪   閑語囂囂ごうごう 静かに浪作り

不即不離偕老道   不即不離 偕老の道は

是妻閉嘴萬夫望   是 妻嘴閉じるを 万夫望まんと

          (下平声「七陽」の押韻)




<解説>

 初冬にやってくる水鳥たちを見ていると実に人間のようなやり取りがあるように見えてきます。番いの野鴨は人間の夫婦よりはうまく接していますね。

<感想>

 水鳥のつがいをのんびりと見ていると、確かに人間の姿に通じるものがあるかもしれませんね。

 承句の「囂囂」は「やかましい」と「静かに落ち着いた様子」のまるっと反対の二つの意味があります。「静」と直後にありますが、結句から考えると前者の方でしょうかね。
 まるで長年連れ添った夫婦のように見える水鳥ですが、円満の秘訣は「妻閉嘴」と来ると、なかなか厳しいお言葉になりますね。
 「万夫望」と大げさに言ったところに、笑ってごまかそうという意図(笑)があるかな、とも思いますが、話題を一気に拡大する効果もあり、詩をうまくまとめていると思います。



2013. 5.18                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第158作は 一地清愁 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-158

  【南郷子】填詞        

呵手度回欄,   

芳信遲遲入小園。   

正染梅花枝末上,   

年年,   

又見紅香損秀顔。   


莫妬百花繁,   

何異枯榮與世間?   

一朶逐風如泪下,   

懨懨,   

落我唇眉半寸先。   

          (詞韻「七部平声」の押韻)



<感想>

 一地清愁さんから、以前にいただいていた詞です。

 「損秀顔」が正確にはわかりませんが、「顔を曇らせる」という意味でしょうか。

 「一朶逐風如泪下」は斬新であり、ゾクゾクとするような描写で、「疲れはてた」という意味の「懨懨」と合わさって、「春愁」という題の近代象徴詩を読んでいるような気持ちになりますね。




2013. 5.18                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第159作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-159

  暮春偶成        

庭草鮮伸日日新   庭草鮮やかに伸びて日々新たなるも

老殘疲弊不堪春   老残疲弊して春に堪えず

信濃路杳花開否   信濃路は杳にして花開くや否や

千里郷關追憶頻   千里郷関 追憶頻りなり

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 新緑の季節になりました。若葉が目に沁みます。
 この時期の木々の葉っぱには、光と戯れるような、なんて言いますか、妙に艶のある感じがします。
 年とってこのような「若さ」をみると余計にさみしくなります

 ・・・という心境にはなかなかなれず、日々雑事に追われています。
 この詩は若いころに四年間過ごした、信州松本を思い浮かべながら作りました。

<感想>

 題名としては、「偶成」とするよりも「暮春懐昔日」とした方が詩の内容と合うでしょうね。

 前半の眼前の景は実感としてよく分かりますが、その分、どうして後半の懐古へと流れるのかが伝わりませんね。現状ですと、後半は望郷としてまとまっており、別々の詩のような印象です。
 「昔住んでいた街」という意味合いで、結句を「千里故城追憶頻」、あるいは「十歳旧居」としてつながりをつけるところでしょうか。



2013. 5.27                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第160作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-160

  慙羞        

道遙遙老来   道遙遙として老来し

春爛漫心虞   春爛漫にして心虞(うれ)ふ

去去不帰日   去去帰らざるの日

今猶慙果無   今なお果の無きを慙づ

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 規則に抑えられて途中で投げ出しそうになり、はじめはのんびり寝てしまう<結>だったのを換えてしまいました。
 文の読み方もいまだに迷っています。

 結句の「慙」も「悔」、「奈」など考えたのですが、「奈」では大見得を切りすぎるような気がし、「悔」ではただの泣き言に終わる感じがするし、要するに言葉が見つかりません。



<感想>

 全体の詩意としては、年老いて春を迎えたが、何も成果を得ていないことが恥ずかしいくらいだ、ということですね。
 お書になったような「のんびり寝てしまう」という逆転の結末もありますし、今回のような素直な流れもあります。
 どちらも詩として成り立つものですので、自分のお気持ちに合致する方を選べばよいでしょう。

 起句と承句は句の切れ目が「道遙遙 老来」「春爛漫 心虞」という形になっています。「二+三」と切る形の方が一般的ですが、「三+二」もここは通じやすいでしょう。
 ただ、起句は句末を直します。と言うのは、五言絶句の場合には押韻は二句目と四句目、一句目が押韻することもありますが、押韻しない時は平仄が逆になります。
 この詩の場合は「上平声七虞」の押韻ですので、同韻にするか仄声にします。「道遙遙老到」というところでしょうか。

 転句はこのままでよいですが、結句は本来「無果」とするところ、押韻の関係でしょうが、読みにくい状態です。
 上二字を「猶慙」として、「猶慙果有無(猶ほ慙づ 果の有無を)」でどうでしょう。

 「文の読み方に迷っている」とのことですが、詩の方が文法的に正しく書かれていれば、読み下しは自然に整う方向に進みます。
 その上で、アレンジをするかどうか。例えば、お示しした「猶慙果有無」を調子を伸ばす形で「猶ほ慙づ 果の有りや無しやを」としてもそれは構いません。



2013. 5.27                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第161作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-161

  孟夏帰故山賦老境        

去国飄飄三紀垂   飄飄 国を去って三紀に垂(なんな)んとす

物更人没故山姿   物更はり 人は没す故山の姿

吾生至此無調念   吾が生 此に至るも念(思い)に調(かな)ふなし

枕石漱流還幾時   枕石漱流 還(なお)幾ばくの時ぞ

          (上平声「四支」の押韻)




<解説>

 故郷を去っていつしか三十六年
 老いて再び見ることかなわぬと決めていたふるさとに帰った
 見る物すっかり変わり多くの人はもういない
 やるだけやった 精一杯生きてきた
 でもこれでよかったのか
 悠々の心境はいったい、いつになったら得られるのか


<感想>

 私も還暦を過ぎ、人生の節目をひとつ過ぎたわけで、そろそろ落ち着いて詩作三昧の日々が来るかと思っていましたが、なかなかそうは行きません。
 週の半分ほど働かせていただいているからもあるでしょうが、自分でコントロールしなくてはいけない時間が多く、ついつい優先順位を間違えて、結局は、現役だった時よりも忙しくなったような気がしています。

 芳原さんは、「吾生至此無調念」と書かれていますが、まったく思ったようにはいかないものですね。



2013. 5.29                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第162作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-162

  謝斧堂        

夙称謝斧冑山堂   夙に謝斧と称す 冑山の堂

四壁三弓屡空常   四壁三弓 屡空常なり

與世相忘別天地   世と相忘る 別の天地

主人耽酒類清狂   主人酒に耽りて清狂に類す

          (下平声「七陽」の押韻)


「冑山」: 甲山 西宮市 頼山陽に「冑山歌」があります
「屡空」: 屡々苦しむ 
「空」: 仄用で送韻 「詩韻含英」


<感想>

 謝斧さんの号を受けて、起句が成り立ち、後半への導入となっていますね。

 承句の「弓」は長さの単位、「三弓」で四メートル弱、日本の家屋で言えば「四畳半」というところでしょうか。「狭い我が家」という感じですね。

 しかしながら、転句の「別天地」、結句の「清狂」が自負を表し、謝斧さんの気概が出ていると思います。



2013. 5.29                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第163作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-163

  笑謝斧堂主人固窮居士        

破屋頽門謝斧堂   破屋頽門謝斧の堂

主人屡空固窮長   主人屡空にして 固窮長し

襤褸散髪嫌多事   襤褸散髪 多事を嫌ひ

獨唱鳳兮如楚狂   獨り鳳兮と唱って 楚狂の如し

          (下平声「七陽」の押韻)


<感想>

 こちらの詩も同じ頃にいただいたもので(掲載が遅くてすみません)、同趣旨の内容でお作りになったのでしょう。韻目も同じです。

 結句の「楚狂」は、春秋の時代、楚の国で狂人のふりをしたという接輿(せつよ)のことです。
 『論語』から引用しますと、

 楚狂接輿歌而過孔子。
 曰、「鳳兮鳳兮、何徳之衰。往者不可諫、來者猶可追。已而、已而。今之從政者殆而。」
 孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言。
             (『論語』微子第十八)

 楚の狂 接輿 歌ひて孔子を過ぐ。
 曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、來る者は猶ほ追ふべし。みなん、已みなん。今の政に従う者はあやふしと。」
 孔子下りて之と言はんと欲す。(接輿は)はしりて之をく。之と言ふを得ざりき。

 乱れた世に対して、自分は汚れたくないからと身を遠ざけている隠士は、『論語』では孔子の論敵ですが、乱れているからこそ世を変え人を救うために世に出るのだと主張する孔子とは話は食い違うだけです。
 接輿は狂人の振りをしてまで世から離れようとしているわけですが、言いたいことだけを言うと、孔子との問答は避けて走って行ってしまうというわけで、私の印象では「小学生のわがまま坊主を相手にしている」ようなものでした。
 ただ、そこまでして守りたい自分がある、ということを現代に置いてみると、こうした生き方への賛否は微妙になってくるかもしれません。

 謝斧さんの前の詩の「清狂」は「世俗を離れて自由な」精神への自負だと思いましたが、接輿と同じく、狂人の振りをしているという意味を強めていくと、謙遜、あるいは自分を卑下した表現として、それを貫く厳しさや辛さまで読み取りたくなるのですが、それは謝斧さんの作詩の意図ではないでしょうね。





2013. 6. 1                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第164作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-164

  又川中島        

甲越干戈古戦場   甲越 干戈の古戦場

只期上洛賭興亡   只だ上洛を期して 興亡を賭ける

両雄今古不双立   両雄 今古 双び立たず

流劃千犀十二霜   千犀に流れを劃つ 十二霜

          (下平声「七陽」の押韻)

「千犀」: 千曲川と犀川



<解説>

 前作の「川中島」をこのように推敲しました。

 甲越の合戦は、十二年余も決着がつかなかったという。

 川中島の戦い 
第1次(1553)布施の戦い
第2次(1555)犀川の戦い
第3次(1557)上野原の戦い
第4次(1557)八幡原の戦い
第5次(1564)塩崎の対陣



<感想>

 起句は前作の「風雲」から「干戈」と直されたのですが、その下の「古戦場」とあまりにくっつき過ぎかという印象です。
 「甲越干戈」が「戊辰戦争」というような形で一つの名詞として通用していれば、よほど良いかもしれませんが。

 「古戦場」の前には、その古戦場の様子なり地名が入ると落ち着きますから、前作の「風雲」に戻すとか、あるいは結句の「流劃千犀」を置くのも面白いかもしれません。

 「流劃千犀」は「千犀に」と先に読むのも苦しいですが、「流れを劃つ」とひっくり返すのもおかしいので、「流合千犀」として、「流れは千犀に合す」としてはどうでしょう。



2013. 6. 1                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第165作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-165

  晩春山行        

翆煙蒼靄隔浮塵   翆煙 蒼靄 浮塵ヲ隔ダテ

山舎寂寥無訪人   山舎 寂寥トシテ 訪フノ人無シ

一樹山櫻爲誰好   一樹ノ山桜 誰ガ為ニ好シヤ

風前片片落花頻   風前 片片トシテ 落花頻リナルハ

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 少し季節遅れの「晩春の桜」も「山行」ならではの光景で、ソメイヨシノの桜雲も美しいですが、古代を彷彿とさせるような山桜一樹も素敵ですね。

 私は岐阜県の阿智村(昼神温泉の辺りです)にある「駒つなぎの桜」をよく見に行きます。源義経が馬を繋いだと言われるそうですが、そうなると千年桜、たしかにそれくらいの風格があります。
 最近は有名になってしまって、開花の頃はカメラマンが道を占拠していて、とても近寄れませんが、以前は口コミくらいでしか知られてなく、古代の東山道の山道を歩いて行くと、突然、畑の真ん中にどでかい桜が出現します。

 桜が漢詩で詠まれたのは日本が先鞭になるのですが、やはり山桜が中心で、奥深い山中に桜の花が人知れず花を開いているのを愛でたようです。やがて、平地の庭園に移した過程で、多くの人の賞翫の対象になっていったのでしょう。

 平城天皇の「賦櫻花」という詩が『凌雲集』に残っています。

 

  賦櫻花   平城天皇(日本・中古)


昔在幽岩下   昔在り 幽岩の下

光華照四方   光華 四方を照らす

忽逢攀折客   忽ちに攀折の客に逢ひ

含笑亘三陽   笑を含みて 三陽を亘る

送気時多少   気を送る 時に多少

垂陰復短長   陰を垂る 復た短長

如何此一物   如何なるぞ 此の一物の

擅美九春場   美を九春の場に擅にすることは

          (下平声「七陽」の押韻)



[語釈]
「光華」: 美しい姿
「攀折」: 山に攀って折ってきた
「三陽」: 春三ヶ月
「九春」: 九旬の春
「気」: 香気
「多少」: 多い少ない 


 真瑞庵さんの今回の詩は、転句がとてもよく、その分、承句の「無訪人」に新味が乏しく感じられます。
 「山舎寂寥」で十分に下三字は言い尽くされているように私には思われますが、いかがでしょう。



2013. 6. 2                  by 桐山人



真瑞庵さんからお返事をいただきました。

先生のアドバイスを受け承句を変えてみました。

  山舎無逢来訪人    山舎 逢ウ無シ 来訪ノ人


2013. 7.30              by 真瑞庵























 2013年の投稿詩 第166作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2013-166

  燕燕鶯鶯        

紅雲流處午風輕,   紅雲 流るるところ午風輕く,

燕燕鶯鶯花底聲。   燕燕鶯鶯 花底の聲。

香雪繽紛星散處,   香雪繽紛として星散するところ,

女仙群舞擅春情。   女仙 群舞し春情をほしいままにす。

          (中華新韵十一庚平声の押韻)

<解説>

 燕燕鶯鶯:四字成語。若い女性を比喩する。

 私は、韻律(押韻と平仄に関する規律)が現代においてもなお可能性があることを実証したく、ジャンル横断の詩作りを楽しんでいます。
 まず韻律準拠の漢語俳句(二あるいは三箇所押韻)を詠みます。

       二七令・燕燕鶯鶯

  風輕,燕燕鶯鶯花底聲。
  ○平,●●○平●●平(中華新韵十一庚平声の押韻)

  風輕く,
  燕燕鶯鶯
  花の底の聲。

 世界の俳句は、三行に作る場合が多い。これにならい、拙作の読み下しも、押韻によって、三行に展開しています。
 これをもとに、和語の俳句を作ります。和語の俳句は、季語を用い、五七五にする場合もありますが、所謂自由律でよい、と思っています。

  燕をり鶯もをる花間の乙女

 この作は重季・字余りですが、自由律ですので、そういうことは問題としません。
 次に、漢語俳句を、絶句や短い詞に展開します。上掲二七令を七言絶句に展開したのが、投稿作です。
 そして、最後に、二七令、七絶を眺めながら、所詮は筆を弄んだに過ぎない、などと自戒し、詠んだのが次の短歌です。

  花の底の夢にあるまじ燕をり鶯もをる筆底の韻事  画蛇添足

 「画蛇添足」は、俳句だけでもよいか、と思える時に短歌を詠む場合に使う雅号です。
 とはいえ、足のある方がない蛇よりも妙想であり、俳句よりも短歌の方が出来がよい場合、少なからずです。

 わが国では、詩人、歌人、俳人がそれぞれのジャンルに閉じこもっている、ということがしばしば問題とされ、その壁を超える交流の試みが時々なされています。
 しかし、具体的な成果は、あまりないようです。そもそも詩人、歌人、俳人が、それぞれのジャンルに閉じこもっていてなぜ悪いのか、とも私は思います。

 一方、韻律準拠で詩作をすれば、現代詩を除くジャンル横断はできますし、そのなかでどの作がよいかも自選できます。
 しかし、韻律準拠の詩作を俳人、歌人に求めるのは実際上きわめて困難です。
 また、漢詩人に、俳句や短歌も詠みましょうといってみても、何のためか、と思われるだけでしょう。
 そこで、詩人、歌人、俳人がそれぞれのジャンルに閉じこもってなぜ悪いのか、と思う次第です。
 しかし、韻律準拠で詩作をすれば、ジャンル横断ができるのは事実です。そして、ジャンル横断には、この手がダメならあの手で、という次第で、楽しめます。
 詩作りを楽しむ、という立場に立てば、ジャンル横断は一所懸命の何倍かを楽しめます。





















 2013年の投稿詩 第167作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2013-167

  死于非命        

可憐勝地探濃春,   憐れむべし 勝地に濃春を探り,

浴後閑傾清聖人。   浴後に閑に清聖を傾くるの人。

死于非命黄泉醒,   命に非ずして死して黄泉に醒め,

責難閻王何破倫?   責難す 閻王 何んぞ倫を破らんか?と

          (中華新韵十一庚平声の押韻)

<解説>

 勝地:形勝の地。
 清聖:清酒の別名。
 死于非命:四字成語。非命は正命に対し、天命にはずれた形で命を失うこと。死于非命はすなわち横死。思わぬ災禍で死ぬこと。
 責難:文句をいうこと。
 破倫:倫理にもとる行い、人間にあらざる振る舞いをすること。

 この作は、下記の作とともに、ジャンル横断の連作のひとつです。

 1 漢語俳句・死于非命

  浴後傾清聖,死于非命黄泉醒。
  ●●○○仄,●○○仄○○仄 (中華新韵十一庚仄声の押韻)

  浴後に清聖(清酒)を傾け,
  非命に死に
  黄泉に醒む。

 2 和語自由律俳句

  清聖を浴後に傾け横死せり

 3 短歌

  清聖を浴後に傾け横死すれば黄泉(よみ)にて責めん閻王が破倫 画蛇添足






















 2013年の投稿詩 第168作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2013-168

  竹枝・失魂蕩魄        

好學韵事(竹枝)   好く韵事を學んで(エイヤサ)

作詩伯(女兒),    詩伯となり(ホイサ),

失魂蕩魄(竹枝)   魂を失い魄を蕩(ゆら)し(エイヤサ)

破生活(女兒)。    破れし生活(ホイサ)。

          (中華新韵二波平声の押韻)

<解説>

 失魂蕩魄:四字成語。魂を失い魄を蕩(ゆら)す。思い乱れて恍惚となるさまを形容する。
 詩伯:詩の指導者。ボス。

 「竹枝」の詞譜は次のとおりです。なお、拙作の韵字「伯」と「活」は、旧韵では入声で仄ですが、現代韵では平声です。

 竹枝 詞譜・單調14字 「詞譜(姚晋編)」
  △○▲●(竹枝)●○平(女兒),△○▲●(竹枝)●○平(女兒)。
    平:平声の押韻。
    竹枝、女兒:和唱(あいの手)。

 この作は、下記の作とともに、ジャンル横断の連作のひとつです。

 1 漢語俳句・失魂蕩魄

  詩伯,失魂蕩魄破生活。

  ○平,○○●仄●○平(中華新韵二波平仄両用の押韻)

  詩伯,
  魂を失い魄を蕩(ゆら)し
  生活を破る。

 2 和語自由律俳句

  魂魄失調生活破綻詩伯在り(コンパクシッチョウセイカツハタンシハクあり)

 3 短歌

  魂魄は失調するし生活は破綻するしの詩伯なるかな  画蛇添足

<感想>

 鮟鱇さんの解説を読んでいただけば、私の感想は要らないと思いますが、高校生に国語を教える時に、私は最初に「文章には散文と韻文がある」ということから始め、「韻文には、短歌・俳句・詩が含まれる」と話すと、多くの生徒は「短歌と俳句と詩は分類としては同じものだ」と初めて納得した顔をします。
 現代でも「ジャンル」横断は、自作の漢詩に短歌や俳句を添えていらっしゃる方(このサイトでも、兼山さんや知秀さんがそうですね)も多く、自分の思いをどの器に盛るか、ということでの選択肢の多い方を本当に羨ましく思います。
 古来、「詩・書・画」が文人のたしなみ、とされてきましたが、「詩」の中だけでも幅の広いもの、可能な限り自分の幅を拡げたいと願っていますが、やはり、難しいものですね。


2013. 6. 2                   by 桐山人






















 2013年の投稿詩 第169作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-169

  初夏雑詠        

地方公吏剰錢無   地方の公吏は剰銭無し

婦唱夫隨共不愉   婦唱夫随共に愉まず

老初年金受恩澤   老いて初めて年金の恩沢を受くるも

忽称介護亦収租   忽ち介護と称され亦租を収む

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 65才になって晴れて年金受給者に。
 ところが、ここから介護保険を支払うことになりました。
 おかしくないですか?

 承句は、四字目の弧平を避けるために「夫」と「婦」を入れ替えましたが可能なのでしょうか?
 まあ、これが我が家の実態でもありますが。
 とにかく女房の尻に敷かれても、文句を言わず慎しく生きてきたのに、あんまりです。

<感想>

 私も地方公務員の一員として、共感する点がいっぱいです。よくぞ仰ってくださった、という感じですね。

 承句は「四字目の孤平を避けるため」だけでは意味が異なってしまいます(ここでは、全く逆になりますからね)ので「可能か?」と尋ねられると返事に困るのですが、意味が変わることを当初から狙ったと見れば、本来の熟語と異なっても別に問題はありません。

 転句の「初」は平声ですので、「老得」あるいは「得老」ではどうでしょうか。



2013. 6. 2                 by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第170作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-170

  初夏吟遊雑詩        

巒峭清澄雨已収   巒峭清澄として雨已に収まり

羊腸小径緑陰稠   羊腸の小径緑陰稠し

求光光浴與光戯   光を求め光浴びて光と戯れる

嫩葉使人忘積憂   嫩葉は人をして積憂を忘れしむ

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 老いた身には新緑があまりに眩しすぎて。

 ♪葉裏のそよぎは〜  思い出誘いて〜♪・・・唱歌「追憶」

<感想>

 「吟遊」というよりも「山行」という題名の方がすっきりする内容ですね。

 転句はかなり狙いを持った表現になっていると思いますが、ややあざとくなったかもしれませんね。
 「求光」は良いですが、平仄のために入れ替えた「光浴」は意味が伝わりませんし、下三字の「光と戯れる」も「戯光」で良いはずです。狙いを生かすためには、もう一工夫が欲しいですね。

 意味としても、「光」をこれだけ意識させておきながら、では結句とのつながりは?と言うと、転句までの初夏のきらめくような光景から突然「積憂」が出てくる形で、読者はついて行きにくいのではないでしょうか。
 老懐を意識するならば、「老客暫時忘積憂」のような形で作者を登場させておくと、説明的ですが収まりは良くなると思います。



2013. 6. 2                  by 桐山人





亥燧さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生いつも有難うございます。

 「光」を並べすぎてやはり無理がありました。で、見た目そのままに直しました。
なお、そよぐは、今あまり使われてませんが、「戦」の字を当てました。なんとなく若い葉っぱが風に負けず懸命に生きているような感じがして。

    初夏山行
  巒峭清澄雨已収
  羊腸小径緑陰稠
  戦風嫩葉戯光艶   
風に戦ぐ嫩葉は光と戯れて艶
  老客暫時忘積憂   老客暫時 積憂を忘る


2013. 6.16             by 亥燧



 題名も「初夏山行」とされ、転句もバランスが良くなったと思います。

 「戦」で「そよぐ」は用例もありますが、「戦風」と並べた時にどうでしょうか。
「戦雲」などとの連想で、「いくさ」を考える読者が多いと思います。
 「涼風葉戦戯光艶」(風はどんな風でも良いと思いますが)のような並べ方が良いでしょう。


2013. 7.18            by 桐山人


亥燧さんからお返事をいただきました。

 ありがとうございました。
 ずいぶん立派になってなんだか照れくさい。

 光にこだわったり、戦ぐ(そよぐ)にこだわったりしましたけれど、まあ、弱いもの(若葉)が一生懸命生きてる、そんな姿を詩にしてみたかったんです。
 選挙でがなり立てる方々がうそつきに見え、新聞やテレビも見る気のしないこの頃です。
 何となく鬱屈してしまい何とも言えない閉塞感もありましたので。

 ありがとうございました。また作ります。


2013. 7.24            by 亥燧






















 2013年の投稿詩 第171作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-171

  靖国遊就館        

遊就館中哀咽聲   遊就館中 哀咽の声

招魂庭裡敬神情   招魂庭裡 敬神の情

易遺舊事人心弊   旧事を遺れ易きは 人心の弊

不忘慰靈年毎櫻   慰霊忘れず 年毎の桜

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 丁度桜は満開でしたが、境内の桜は毎年、心ならずも亡くなった多くの人達を、慰めるために咲いているような感じを受けました。

<感想>

 東山さんのこの詩も、桐山堂懇親会を開いた三月末の靖国神社の印象ですね。

 満開の桜もそうですが、その桜の花見に来ていた多くの人々を見て、びっくりでした。桜は、たくさんの人を呼び集め、楽しい宴を開くことで慰霊をしているのかもしれませんね。

 「咽」は「むせぶ」という意味で仄声での使用ですね。



2013. 6. 5                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第172作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-172

  初夏出雲崎        

烟波人去後   烟波 人去りて後

漁浦晩風微   漁浦 晩風微かなり

佐渡渺何處   佐渡 渺として何処ぞ

倶鷗一艇歸   鴎を倶して 一艇帰る

          (上平声「五微」の押韻)



<解説>

 暮方の出雲崎漁港で夕日を見ようとしました。夕日も佐渡も霞んでいました。

 母の生地である佐渡を、良寛はいつも見つめていたようです。

<感想>

 良寛さんの母親が佐渡の出身、ということは、「たらちねの母がかたみと朝夕に佐渡が島辺をうち見つるかな」という歌でも知られていますね。

 前半は穏やかな書き出しですが、転句で「佐渡が見えない」という発展と、もやの中から現れる船による絵画的な描写、印象に残る詩になっていると思います。



2013. 6. 5                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第173作は 茜峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-173

  湖西山行        

湖上碧波村巷葱   湖上の碧波 村巷は葱たり

高原填湊彩張蓬   高原は填湊 彩る張蓬

迎吾殘雪愛花卉   吾を迎ふる残雪 花卉を愛づ

清冷快哉連嶂風   清冷も 快き哉 連嶂の風

          (上平声「一東」の押韻)


「葱」: 青々と繁るさま
「填湊」: いっぱいになって込み合っている。
「張蓬」: テント
「花卉」: 草花
「連嶂」: 連なっている山々


<解説>

 滋賀県琵琶湖の西に高島トレイルというトレッキングコースがある。
 福井県嶺南から滋賀県高島市に至る分水嶺の尾根を結んで登山道としたコースである。
 全長約80kmに及ぶが、快適なコースで、今人気がある。

 先日のゴールデンウイークの一日、その一部を歩いた。大谷山周辺である。

 稜線からは琵琶湖が一望でき、波は静か里は緑豊かで心が満たされる。
 麓のマキノ高原は色とりどりのテントで埋め尽くされている。
 イワカガミ、イカリソウ、カタクリ等々の草花が私たちを迎えてくれる。
 谷には残雪があり、分水嶺を吹く風もまだ冷たいが、これも心地よいものだ。

<感想>

 起句の「葱」は「葱葱」と畳語として使うと「草木が青々と茂るさま」ですが、一字ですと「青色」という意味です。この詩の場合には「村巷が青い」ということで「碧波」と対応させていますが、下二字を「葱葱」とした方がすっきりするかと思います。
 そういうことで言えば、上四字も「波」を色とか状態を表す言葉にして、「波は青く静か 里は緑豊か」という感じで句中対を出すようにしても良いでしょう。

 転句の「残雪」は結句に持って行った方が良く、この位置ですと「愛花卉」の主語になってしまいます。
 「迎吾」「快哉」も、この詩ではあまり必要性を感じない言葉ですね。



2013. 6. 9                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第174作は 劉建 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-174

  辛夷        

花瓣微香帯雨來   花弁 微香 雨を帯びて来たり

児如覓嬭白拳開   児 嬭を覓める白き拳の如く 開く

旅居幾許吾娘去   旅に居(きょ)し幾許ぞ 吾娘去り

但見相逢夢裏哉   但だ見る 相逢ふを 夢裏哉

          (上平声「十灰」の押韻)


「嬭」: 乳の意。

<解説>

 今春、高校入学のため娘が下宿生活を始めました。
 反抗ばかりの娘が、突如として目の前から消えてしまったように感じます。
 普段見ない娘の夢ばかり見る昨今です。

 辛夷の花は、北では北辛夷と言い、桜よりも早く咲く木の花で、今年は遅い春の訪れです。

<感想>

 それは寂しいことですね。
 私の娘も大学の時に東京で下宿していましたので、「突如目の前から消えてしまった」という言葉が実感として分かります。劉建さんの場合はまだ高校生ということですから、もう少し一緒に居て成長を見たいところ、寂しさも尚更でしょうね。

 「辛夷」は漢語としては「モクレン」を指します。「コブシ」は日本の木なので「コブシ」としか言いようがないのですが、分類すればモクレンではありますし、従来から「コブシ」の表記として使われていますので、誤解は少ないでしょう。
 私もつい、ネットで「コブシとモクレンの違いは?」という項目を眺めてしまいましたが、違いに悩んでいる人も多いのですね。
 その「コブシ」の描写、承句は「子ども」が「如し」の主語になっていますので、「児」と「如」の位置を入れ替えて、(コブシの花は)「児が嬭を覓めて 白い拳を開いた如く」となるようにしておくべきですね。

 この承句で「児」を出したのが転句への伏線となっているのか、「旅居幾許」は「下宿していかほど」という時間経過を表しているのでしょうが、高校進学という意味合いを出した方が、季節的なつながりもあって、転句にスムーズに入れるでしょう。

 娘さんの姿を夢で見てしまう、という結句は、さすがに二ヶ月経ちましたので、少しはこの状態に慣れて来られたと思いますが、娘を思う父親の気持ちはこういうものだぞ、と世の女性たちに伝えたいですね。




2013. 6. 9                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第175作は岐阜県各務原市にお住まいの 賢道 さん、五十代の男性の方からの作品です。
 お手紙には、
 漢詩に興味を持ち、見よう見まねで作詩を初めてみましたが、自分の市や近隣の市にも、漢詩を教えてくれたり、漢詩のサークルなどが全くありません。
 このように、ネットを通じて添削していただけるのは、私にとって大変ありがたいことです。
 これからも時々出させて頂きたく思いますので、宜しくお願い致します。
とのお言葉がありました。

作品番号 2013-175

  雨日        

眼前四面翠渓枝   眼前 四面 翠渓の枝

如画郷村景最奇   画の如し 郷村 景 最も奇なり

雨滴無塵閑且静   雨滴 塵無く 閑にして且つ静か

山房春去久忘機   山房の春は去り久しく機を忘る

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 緑多い渓谷がある故郷の景色の素晴らしさに加え、梅雨に入って雨のしとしと降るさまに心が落ち着き、嫌な世の中のことも一時忘れている様子を詩ってみました。

【口語訳】
  目の前の四方は緑の谷合の木の枝ばかりである。
  まるで画のような私の故郷は最も景色が素晴らしい。
  雨がしたたり塵もなく綺麗であり、辺りは全く静まりかえっている。
  山にある家の春は過ぎ去り、久しく世の中のことを忘れています。

<感想>

  新しい仲間をお迎えでき、しかも私のお隣の岐阜県にお住まいの方と知り、またまた嬉しく、大歓迎です。
 つい二週間ほど前に、私用で各務原に行ってきたばかりですので、勝手に親近感を強くしています。

 見よう見まねで作った、とのことですが、平仄も整っていて、勉強されていると思います。
 押韻については、起句承句の「枝」「奇」は「上平声四支」韻ですが、結句の「機」だけは「上平声五微」韻になります。通韻としても、結句だけ異なるというのは認めにくいので、ここは検討が必要です。
 同じ様な意味の漢字に換えておくならば、「時」としておけば良いでしょうが、「山房」がどうなのかを書いて、下三字は「送春時」と持ってきて、あまり心情を出さない方が結句は趣が深まります。「山房清浄送春時」という感じでしょうか。転句の「閑静」と雰囲気が重なりますので、「山房閑静」としても良いですが、どちらにしても、転句の検討が次に必要になります。

 前半も大きな問題点はありませんが、詩としての完成度の点で言えば、
@「眼前」「四面」、視界を表す言葉はどちらかで十分です。

A「翠溪」という遠いものを眺めていますから「翠溪樹」ならまだ分かりますが、細かな「枝」を見るのは妙な感覚です。

 「枝」に重点があるわけではないのに、「枝がどうしたの?」という形の句は読者を悩ませますね。

B承句の「如画」「景最奇」は具体性が無いと、ただ「すごい、きれい」を押しつけるだけになります。もちろん、「四面翠」だけでも大きな具体性ですが、Aで述べたように、「枝」が邪魔して、その景が生きてきません。

C転句は「雨のしずくに塵が無い」と読んでしまいます。「雨後」「雨下」などが考えられますが、「煙雨」などの雨を表す言葉を探すのも良いかもしれません。

 細かいところまで書かせていただきましたが、作詩では基本的には「自分の思いを読者に伝える」ことが重要で、誤解や混乱を招く表現は無いか、もっと的確に表現する言葉は無いか、という検討をしていただくポイントとなればと思います。

 是非、次作も拝見させて下さい。お待ちしています。



2013. 6.11                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第176作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-176

  雨中送春        

西風萬里散黄沙   西風萬里 黄沙を散じ

細雨蕭蕭惜落花   細雨蕭蕭 落花を惜しむ

春夏秋冬人易老   春夏秋冬 人老い易し

兼山八十感無涯   兼山 八十 感涯無し

          (下平声「六麻」の押韻)

 行く春や四季には四季の定めあり


<感想>

 兼山さんからは、以前に「自賀傘壽有感」をいただきましたが、今回は暮春の候の詩となりましたね。
 前回の「傘寿は傘寿の楽しみがあるわい」という勢いがちょっと弱くなっているのは、春が去ることと合わせて、まだ体調が完全に戻ったということではないそうですので、その影響もあるでしょうか。

 起句の「西風」は、黄砂が中国から飛んでくることを表したのでしょうが、何となく即物的で面白くないですね。
 「長風」としておくところでしょう。
 起句と承句のつながりがやや弱く感じますね。起句は早春の景ですか。

 転句は面白い表現ですが、晩春の景だけで一気に「春夏秋冬」と持っていくのは、言葉として強引かな。
 先に書きましたように、承句が早春ということですと、まだ、その強引さもゆるくなりますが。



2013. 6.19                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第177作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-177

  初夏即事        

百花飛盡斷春愁   百花飛び盡して 春愁を斷じ

萬緑成陰午院幽   萬緑 陰を成して 午院幽なり

知否雨餘繁雜草   知るや否や 雨餘 雑草の繁るを

有名無用問無由   有名無用 問ふに由無し

          (下平声「十一尤」の押韻)


万緑や雑草吾も一緑


<感想>

 こちらも分かりやすい詩ですが、やや表現が大げさかな、という気持ちです。
 転句の「雨餘繁雜草」「知否」ではなく、誰もが分かることという気がします。

 この「雑草」の、「無名」で「無用」である点が重要で、そのことはよく分かるのですが、「知否」があるために、どうもちぐはぐな印象が残ります。

 転句の二文字だけ推敲されてはいかがでしょうか。



2013. 6.19                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第178作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-178

  墓参        

此日佳城歴五春   此の日 佳城 五春を歴たり

殘櫻散盡鳥聲頻   残桜 散り尽き 鳥声頻りなり

呼名不答謝疎遠   名を呼べども答へず 疎遠を謝し

跪拝焚香老境身   跪拝し 香を焚く 老境の身

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 亡妻の五回忌墓前に佇み、花を供え、香を焚く老境の身の感懐。

<感想>

 五回忌をお迎えになったのですね。
 起句と承句で情景を描いていますが、桜が散り終えた後の葉桜の枝に鳥の声が響くという場面は、切ない思いを強く感じさせます。
 さらに、転句での悲哀の高まりから結句の静寂な収束へと続く展開は自然で、読者も同じ場所で同じ思いを感じるような詩になっていると思います。



2013. 6.19                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第179作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-179

  騎自行車訪故人於山中不会     自行車に騎して故人を山中に訪ふも会はず   

故人辞職在山郷   故人 職を辞して山郷に在り

曲澗畳丘雲径長   曲澗 畳丘 雲径長し

茶圃青青塵外里   茶圃青青たり 塵外の里

籬門妻女告康彊   籬門の妻女 康彊を告ぐ

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 現在、週三日、勤務しておりますが、昨年親しくしていた同僚が退職しました。
 お宅は車だったら一時間ぐらいの山奥なのですが、自転車で出かけるとなると半日がかりです。

 ふと気が向いて、初めて山道を辿って訪ねたのですが、残念ながら不在でした。
中国の詩に、「知人を訪ねたが会えなかった」という詩が結構あるようですが、まさにそんな状況でした。


<感想>

 禿羊さんがお書きになった「知人を訪ねたが会えなかった」という詩で、まっさきに浮かぶのは賈島の「尋隠者不遇」でしょうね。

 承句が山道の情景をよく表していて、躍動感までも伝わってくるようです。
 そこを越えると一気に広がる「青々とした茶畑」、なるほど、「塵外里」だと汗も忘れて爽やかな気持ちになります。

 結句の「康彊」は、「健康で丈夫」という意味ですが、作者はもちろん、読者の心の中も健康になるような詩になっていますね。



2013. 6.19                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第180作は 杜正 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-180

  千鳥淵観桜        

千鳥長堤簇軟塵   千鳥の長堤 軟塵 簇(むら)がる

碧波紅雨放詩神   碧波 紅雨 詩神を放(ほしいまま)にす

集来白社同門友   集ひ来る白社 同門の友

花下交歓共酔春   花下 交歓し 共に春に酔ふ

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 今年三月二十三日の全国漢詩大会とそれにも増して、引き続いて開催された桐山堂交流会は、大変楽しいものでした。
 遅ればせながら、この時の印象を吟じたものを投稿させていただきます。

 三月二十三日、東京の千鳥が淵の長堤には 沢山の人が集まり、
淵の碧い波、堤の桜花は吟じるのに十分過ぎるものだった。
この日漢詩大会に全国から漢詩人が集った。
桜花の下 交歓し 共に春に酔った。

<感想>

 杜正さんからは交流詩をいつもいただいていましたが、お顔を拝見するのはもちろん、初めてでした。
 もう三ヶ月になりますが、皆さんのお顔もよく思い出し、交流会がついこの間だったような気がしています。
 楽しい宴は、ちょうど満開の桜というシチュエーションも加わって、忘れられないものになりそうです。

 次はいつ会えるのかな、と考えるのも楽しく、今度の国民文化祭あたりかな?と考えています。



2013. 6.19                  by 桐山人