作品番号 2012-271
送春
百花散盡送春時 百花散り尽くし 春を送る時
緑樹薫風芳草滋 緑樹 薫風 芳草滋し
紅萼薔薇香和酒 紅萼の薔薇 香り酒に和し
重觴敲句醉吟詩 觴を重ね 句を敲き 醉ひて詩を吟ず
<感想>
初出時に私の添えた感想です。
結句は「和酒」「重觴」があって、「醉吟詩」では当たり前過ぎて面白くないですね。
「重觴吟句醉郷詩」と直せば多少は救われるように思います。
あるいは、誰か古人で酒飲みを持ってくるか、薔薇に関係の深い詩人を持ってくるかでしょう。
作品番号 2012-272
中秋月
中秋清月出雲端 中秋の清月 雲端を出づ
半夜晴空眼界寛 半夜 晴空 眼界寛し
去國何年郷愁起 国を去りて何年ぞ 郷愁起き
磐梯遍照會津巒 磐梯遍く照らす會津の巒
<感想>
初出時に私の添えた感想です。
転句の「郷」はこの意味では平声なので、挟み平にはなりません。結果的に「二六対」が崩れています。
挟み平で持っていって、「昔愁」「旅愁」というところでしょうか。
結句は、このままでは「磐梯」が「會津の巒」を「遍照」となります。当然月が主語でしょうが、遠いので苦しいですね。
「磐梯」がどうなのかを形容するのが良いと思います。
作品番号 2012-273
淵客
雨後琤琤江水邉 雨後 琤琤たり 江水の邉り
笠蓑多少釣人連 笠蓑 多少 釣人連なる
追懐老父垂綸日 追懐す 老父の綸を垂るるの日
溌剌香魚躍翠漣 溌剌たる香魚 翠漣に躍る
<感想>
初出時は以下の形でした。それに添えた私の感想です。
淵客
雨後江邉首夏天
還來乱蓑釣人連
垂竿亡父琤琤聞
新鮮香魚立紫煙
起句、眼下の情景を承句以降で述べていますので、「天」で終わるのは不自然です。
次への流れを出すには、「雨後琤琤江水邉」「雨後清風渡水邉」とした方が良いでしょう。
承句は、「還來」の主語が「作者」なのか「釣り人」なのか、はっきりしません。また、「蓑」は平声で平仄が乱れていること、「乱」の字も詩情に合わず使いにくい点を考えると、「笠蓑多少釣人連」「許多蓑笠釣人連」というところでしょう。
転句は「竿」が「垂」は変なのと、突然お父様が登場するのも気になります。最後の「聞」も「聞く」の意味では平声です。
「追懐(旧懐)老父垂綸日」というところでしょうか。
結句の「立紫煙」は魚を焼いている場面でしょうか。二字目の「鮮」は平声ですので「溌剌」とし、「香魚」がどうしたかを描く方向で考えます。韻字も替えて、「躍翠漣」などでどうでしょう。
作品番号 2012-274
訪厳島神社
高天遙望白雲流 高天遥かに望めば 白雲流れ
旅意茫茫八月秋 旅意 茫茫 八月の秋
朋友倶尋神聖地 朋友 倶に尋ぬ神聖の地
朱廊綺殿十分遊 朱廊 綺殿 十分の遊
<感想>
結句で厳島神社の景観を入れるのに、随分と苦労をされた作品でした。
しかし、苦労をした分だけ、詩としてのまとまり感は上がったと思います。
2012.12.28 by 桐山人
作品番号 2012-275
山代成君寺
古刹寂寥山代閭 古刹 寂寥 山代の閭
芸防激戦覇図墟 芸防の激戦 覇図の墟
慶長一揆苔碑下 慶長一揆 苔碑の下
念祖七哀流悌余 祖を念ひ 七哀 流悌余す
<解説>
年の瀬も迫りました。
老いて望郷の念にかられ、祖母方の遠い昔の伝承の一句です。
良いお年を迎えられますように・・・
「山代」: 岩国錦帯橋の架かる錦川の上流十余里僻陬の山村
「芸防」: 安芸の毛利氏と周防の大内氏
毛利軍が周防に進軍、大内方山代衆は山寺成君寺に立て籠もり頑強に抵抗するもやぶれる。
わが遠祖大内方として参戦討ち死にす。
その孫の代に慶長一揆が起こり宇佐郷村庄屋として連座処刑さる。
「慶長一揆」:
毛利藩は関が原で西軍として敗戦、西國の大大名から防長二州に移封。
直後山代に厳しく、七三の七分の高率の年貢を徴収して、山代10ヶ村で一揆が勃発。
10ヶ村の庄屋と畔頭の11名が、打ち首獄門となった事件。
後に各地で起こる一揆の魁といわれる。
成君寺に十一庄屋の顕彰の碑あり。
<感想>
山代の地は深渓さんに多くの思いを呼び起こす特別の地でしょうね。
慶長一揆の関係では、以前の「弔十一庄屋辞世四百年」にも詳しく書かれていましたね。
結句の「七哀」は「数多くの哀しみ」という意味で解釈すれば良いでしょう。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-276
訪阿那賀墓苑
純心志願豫科練 純心 予科練を志願し
悲痛殘聲慕母恩 悲痛なる残声 母恩を慕ふ
戰死鳴門童十四 戦死す鳴門で 童の十四
古希滬友墓前蹲 古希の滬友 墓前に蹲る
<解説>
O君は、昭和20年3月、海軍甲種飛行予科練習生(予科練)を志願、6月宝塚航空隊に入り、8月戦死、享年14歳。
「阿那賀墓苑」: 82柱の少年兵墓苑、慈母観音を祀る。淡路島南端在
「滬」: 上海の別称。
小学校、中学校と机を並べた友は、飛行兵として、飛行機に手を触れる事もなく あっけなくあの世に向った。「お母さん!」と絶叫しつつ。
この詩は古希の時、同窓30余名で墓参した時のもの。
兼山さんの「尋鹿屋航空基地跡」に寄せて投稿しました。
<感想>
兼山さんは深渓さんの詩に次韻されたものでした。
三人の方が、戦争時の航空隊を題材に詩を寄せられたのは、もちろん、同じくらいのご年齢ということもあるでしょうが、やはり、戦争の哀しみを知らない、知ろうとしない人々が増えた時勢のこともあるでしょう。
結句の「滬友」で、上海での学校の同級生だということを伝えようとされたのでしょう。
やや苦しいかな?という気もしますし、「学友」でも通じるとは思いますが、常春さんの意図もよくわかりますね。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-277
巌流島
馬關蕩蕩急潮旋 馬関蕩蕩 急潮旋り
幔幕飄飄雲雨天 幔幕飄飄 雲雨の天
遲發坐舟爲櫓剣 遅れて舟に坐して発(ゆ)き櫓剣を爲る
早期捨鞘構汀前 早に鞘を捨てて期ち汀前に構ゆ
電光横斷斬飛燕 電光横断 飛燕を斬り
閃影跳身征後先 閃影跳身 後先を征す
四百年來周膾炙 四百年来 周く膾炙するも
人人不憶一流研 人人憶はず 一流を研(きわ)むるを
<解説>
巌流島の決闘は1612年とのことで、今年で400年を迎えるそうです。
初めて、七律を創ってみましたが対句になっているか心配です。また、「後先」は和臭かと思いましたが・・・
結句は、一流を立てるほどの努力・鍛錬に思いを致すことが重要との意味あいのつもりです。
<感想>
10月頃に送られたようですが、私のところに届かなかったようです。通信の問題か、私が間違えて削除してしまったか、ご迷惑をかけました。再送していただきました。
初めての七律ということですので、対句の関係を中心に感想を書かせていただきましょう。
律詩の対句は通常は頷聯と頸聯ですが、首聯も対句にしようとしたのか、微妙な感じですね。上四字は対句仕立てですが、下三字は文法構造も異なりますので対とはなりません。それならば、上四字を対する必要はありませんので、表現ももう少し自由に考えられるでしょう。
例えば、第一句は「馬関」、つまり関門海峡の様子を描いていますが、そこからすぐに「幔幕」は飛び過ぎで、一旦は「船島」なり「巌流島」を経過しないとズーム効果が出ません。
私の感覚では、第二句はそのままで良いとして、「馬関蕩蕩」を船島の様子を描くことにし、早く決闘場面に持ち込んだ方が、全体の構成で整うと思います。
尚、参考までに、首聯を対句にした場合には、第一句は踏み落として押韻しないのが「正格」と言われます。ただ、唐詩でも押韻している詩は見られますが。
頷聯は武蔵と小次郎の姿を描きましたが、どちらの句も上四字の読み下しは苦しいですね。「遲發坐舟」は「遅れて発ち 舟に坐して」、「早期捨鞘」は「早に期ち 鞘を捨てて」と読むべきです。
句意はそれぞれ分かりますが、語句の対応で見ると、「坐舟」は場所を表すのに対して「捨鞘」は物を扱い、「爲櫓剣」は物に対して「構汀前」は場所を表していますので、本来の対応から言えば「坐舟」と「構汀前」、「爲櫓剣」と「捨鞘」が対になっていないといけない形です。
ここはせっかく対句になりやすい内容ですので、少し配置を動かせば、きれいに対応すると思いますよ。
頸聯は「飛燕」は「飛」は「燕」にかかっていく修飾語と被修飾語の関係、「後先」は逆の意味の語を並べた並立の関係、つまり熟語の構成が異なっていますので、対としては整っていません。
順序が逆になりましたが、同じように「横断」と「跳身」も熟語構成が異なっています。こちらは「跳身」を「高跳」とすれば収まると思います。
「征後先」もわかりにくい感じですので、こちらを検討してはどうでしょう。
尾聯の意図は分かりますが、「人人不憶」は反対に言えば「私だけは分かっている」という意味になりますので、四百年という時間を考えると、不遜と言われそうですね。
「人人尚憶一流研」と肯定形に変えるだけでも、同じ内容でも表現がぐっと柔らかくなります。
私の印象としては、「一流研」は武蔵のことか小次郎のことか、それとも両者か、作者の立ち位置がはっきりしないので、そのあたりが出ると良いかなと思います。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-278
初到秋田縣作五絶一首兼示同僚
未到秋田域,
秋田犬已聞。
山尖如犬耳,
直可聽蒼旻。
<感想>
陳興さんは、前回の世界漢詩同好會に金中さんのご紹介で参加されました。作詩経験も長いそうで、日常の思いを素直に詩になさっていらっしゃるように感じました。
私の感想は、日本の方が漢詩を作ることを基本にしていますので、表現などで多少食い違うこともあるかと思います。逆に、陳興さんの詩を、日本人はどう解釈するか、という参考にしていただくと良いかと思います。
これからもよろしくお願いします。
転句は本来は「山尖」と「犬耳」は逆の位置でしょうが、平仄の関係でこうされたわけですが、意味はよく分かります。
現代の中国で作詩される方は中華新韻でお作りになることが多いのですが、陳興さんは平水韻を基本にされているそうです。
この詩では、ただ、「聞」は「上平声十二文韻」、「旻」は「上平声十一真韻」で韻目が異なっています。
古詩では通韻をよく行います。「上平声十二文」も「上平声十一真」も通韻の範囲内ですので、認められる範囲ではありますが、近体詩で作る場合にはできるだけ同韻にします。
この詩で見ると、「聴蒼旻」は秋田犬の風格を感じさせる表現ですので、ここは生かして、承句の「聞」を「上平声十一真韻」の中から適する字に換えるような方向で、「親」「馴」などを入れるところでしょう。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-279
秋田望月
朝暮秋田米,
風應自故郷。
天邊挂鈎月,
垂綫到何方?
<感想>
起句は、他郷(秋田)で暮らしていることを表し、それを受けて、承句で故郷を憶う心情へと進めていますね。この風は西風でしょうかね。
転句の「鉤月」はつりばりのような曲がった細い月、関連した比喩で「垂線」を出し、「鉤(月)の繋がった糸の先はどこまで」、と望クの思いを出している後半は、心情がよく伝わってきます。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-280
往秋田空港途中過河川小橋恰値兩岸櫻花滿開
水流橋下滌青草,
五月秋田思駐留。
莫道櫻花開滿岸,
旅人唯嘆彩雲稠。
<感想>
秋田ではゴールデンウィークのあたりが桜の季節になるのですね。
「五月」というともう夏、桜は春、そして地名ではありますが「秋田」、この組み合わせが面白いですね。
その「五月秋田」がどうして「思駐留」なのか、その説明は後半になるわけですが、起句を例えば「小橋新水滌青草」(「春水」でも良いですね)」としておくと、前半でひとつ完結し、起句の役割がはっきりとしてくると思います。
転句の「莫道」は詩的な表現ですね。説明的な表現にするならば、題に用いた「恰値」を入れるところです。
ここは「彩雲稠」、艶やかな雲が濃く漂っているようだとする私の感動を邪魔しないでほしい、という気持ちでしょうか。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-281
秋田
秋田夜半點檯燈,
且任微凉戸外盈。
客有郷思寄河鬥,
野多春色入山城。
收完稻穀田閑置,
落盡櫻花葉競生。
最喜夕陽知酒醉,
天邊隱去悄無聲。
で
<感想>
第一句の「檯燈」は卓上スタンド、夜にひとりで部屋に居ることを感じさせます。
ただ、「夜半」がありますので、そこから外に出て行ったとなると、頷聯以降の風景との違和感が大きく感じます。「日暮」くらいの方が良いかと思います。
「燈」は「下平声十蒸韻」で韻目が合いません。七言律詩は規則に厳格であまり通韻しませんので、合わせるならば「檠」とする形でしょう。
第三句の「河鬥」はよく分からないのですが、「河閘」という感じでしょうか。
尾聯の「知酒醉」は、夕日が真っ赤な顔をしている、という比喩でしょうね。
2012.12.31 by 桐山人
あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
掲載また感想を頂き、ありがとうございます。
「河鬥」についてですが、河は銀河の意味で、夜空のことです。鬥は星のことです。
引き継いでの掲載と感想を楽しみしております。
2013. 1. 4 by 陳興
作品番号 2012-282
五月二十三日傍晩秋田望眉月
一彎眉月挂雲邊,
占得風光半片天。
傍晩秋田超市去,
穿過種菜小庭園。
<感想>
細い「眉月」が空に掛かっているのを見たことと、庭に苗を植えることの直接的なつながりは無いでしょうが、作者がそういう気持ちになったということは何となく理解できます。
「何となく」という言葉が気になるかもしれませんが、こうした短詩型の文学では作者の気持ちを完璧に伝えること自体が難しいことで、日本の短歌や俳句の省略表現に近いものを感じますね。
「傍晩」は「夕方」、「超市」は「スーパーマーケット」、現代中国語が入ることで、後半は臨場感が出ていると思いました。
陳興さんからいただいた作品はまだまだ沢山ありますが、ひとまず五首紹介して、残りはまた後日に掲載しますので、お楽しみに。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-283
歳晩書懐
光陰逝水歳将終 光陰 逝水 歳将に終わらんとす
百事去来一夢中 百事 去来す一夢の中
七十餘年多愧赧 七十餘年 愧赧多し
炉辺独坐奈愚蒙 炉辺に独坐 愚蒙を奈せん
<解説>
歳を拾う毎に重なる思ひ。
<感想>
年の終わりが近づくと、ますます時の流れの速さを感じますね。
承句は「四字目の孤平」になっていますので、「去」を「行」に、あるいは「一夢」を「幽夢」「春夢」などに変更する形で解消しておきたいですね。
転句の「多愧赧」、結句の「愚蒙」は謙遜し過ぎと言うか、同意の反復になり、やや詩が重くなり過ぎですね。この最後の部分に起句の「歳将終」を持ってくるくらいが、余韻が残って良いと思います。
2012.12.31 by 桐山人
ホームページをよく見せていただいています。と御挨拶をいただきました。
皆さんの語彙の豊富さに驚いています。
また先生の懇切丁寧なご指導振りに敬服しています。
今後とよろしくお願いします。
作品番号 2012-284
歳晩書懐
行雲悠遠向天涯 行雲 悠遠にして 天涯に向かふ
逝水淙淙去何之 逝水 淙淙として去り 何くに之く
歳月如矢思往時 歳月 矢の如く 往時を思ふ
浮生若夢被風吹 浮生 夢の如く 風に吹かる
<解説>
72歳の誕生日に、自身の葬式用写真を用意しました。
折から歳の暮れ、人生を振り返ってみたとき まるで風に吹かれるまま。雲や水のように再びは戻らぬ若い頃のことを思い出しています。
この先はどうなるのだろうか・・・
久しぶりの作詞で興が沸いてきました。
これからも勉強し漢詩にいそしみたいと思っています。
是非御講評、添削頂きたくお願い申し上げます。
<感想>
起句はイメージがよく出ています。「涯」も使用に問題はありません。
承句は読み下しが苦しかったので直しておきましたが、平仄を示すと「●●〇〇●〇◎」ですので、実は「二六対」になっていません。下三字を「何処之」として「何処にか之かん」と読んでおくのが良いでしょう。
転句はまず、句末で押韻してはいけませんので、「時」を「事」としておきます。
平仄で見ると、四字目は平声でなくてはいけませんので、「矢」は使えません。平声の字で、作者が納得できる言葉を考えてみましょう。私でしたら、「歳月隙駒」とするところでしょうか。
結句は「浮生が「若夢」ではありきたりですので、如風さん独自の比喩を何か考えると良いでしょう。
2012.12.31 by 桐山人
作品番号 2012-285
歳晩感懐
天寒霜冷露窓中 天寒くして 霜冷やかに 露窓の中
濁酒芳香愛酔翁 濁り酒の芳香 酔を愛す翁
遠寺鐘声欹枕聴 遠寺の鐘声 枕を欹てて聴く
時辰歳暮一年空 時辰は歳暮 一年空し
<感想>
寒い大晦日に酒を飲んで寝ていたら、除夜の鐘がゴーンと響いてきたという場面ですね。
転句の「遠寺鐘声」は良いのですが、「鐘の音を枕を欹てて聴く」となると白居易の詩につき過ぎる感がありますね。
あまりに有名ですので、鐘の音を描写するような表現の方が独自の世界が表れて良いと思います。
2013. 1. 9 by 桐山人
鈴木先生いつもご指導有難うございます。
推敲を致しましたのでよろしくお願いします。
転句の『遠寺の鐘声・・・』のところですが、「遠寺鐘声懐往時」(遠寺の鐘声 往時を懐かしむ)にしました。
2013. 1.25 by 緑風
推敲案を見ましたが、この句だけに目が行ってしまったようですね。
転句ですので句末は仄字でなくてはいけませんし、「時」の字は結句の頭に載っています。
また、そうした発声上の問題は別にしても、ここで「懐往時」とこれまでの過去を振り返ってしまうと、結句の「一年空」が妙に小さな感懐に終ってしまいます。
もう一工夫、というところでしょう。
私でしたら、「遠寺鐘声餘韻盡」かな?
2013. 1.30 by 桐山人
転句を、鐘の音を中心とし
幽寂韻 幽寂の韻(ひびき)としました。
2013. 3.15 by 緑風
作品番号 2012-286
壬辰歳晩書懷(一)
今日慌忙報歳終 今日 慌忙 歳終を報ず
青雲路遠無一功 青雲の路遠く 一功無し
理非曲直閑敲句 理非 曲直 閑かに句を敲く
雖稚難抛賦送窮 稚と雖ども抛ち難く 送窮を賦す
棄つる詩も遺す詩も無し歳の暮
<感想>
転句は「人生を振り返ると、あれやこれやとあったけど、今は静かに詩を作ろう」ということでしょうが、上四字と下三字のつながりが曖昧で、詩の内容が「理非曲直」という風に感じます。
「閑」の字を「只」のような形でつながりをばっさり切るか、上四字を「理非此逝」「理非已去」のようにするなど、ひとひねりという気がしますが、いかがでしょう。
2013. 1. 9 by 桐山人
作品番号 2012-287
壬辰歳晩書懷(二)
喜悦人生八十年 喜悦 人生 八十年
多難多事世情遷 多難 多事 世情遷る
光陰如矢如風去 光陰 矢の如く 風の如く去る
詩債成山愧瓦全 詩債 山を成し 瓦全を愧づ
ワンクリックで御破算になる歳の暮
<感想>
結句の「瓦全」は、役に立たないまま残るという意味です。
詩の意味はよく伝わりますが、承句の「多」、転句の「如」と二句続けて同種の表現はややくどいかな、という気がします。
転句の方の「如風去」が働きが弱い気がしますので、歳晩というニュアンスをここで出しておくと、「詩債」が生きてくるのではないでしょうか。
2013. 1. 9 by 桐山人
作品番号 2012-288
白鳥
春雪蔽田野 春雪 田野を蔽ひ
波濤荒湖上 波濤 湖上を荒る
孤舟不見翁 孤舟 翁を見ず
唯抱子白鳥 唯だ子を抱く白鳥のみ
<解説>
水差し用の置物白鳥からイメージを得ました。
孤舟蓑笠翁の面影を出すべきかどうか迷っています。魚舟不見人・・・
<感想>
水差しの置物から、「雪の田野」「荒波の湖」と想像を広げていることに、まず驚きです。想像力というものは大きなものだと改めて感じました。
その大きな大自然の情景描写から、「白鳥」まで少しずつ視野を絞ってきた流れも自然だと思います。
転句は「人影も見えない」ということを言えばよいところですが、この展開で行くと、「孤舟」は作者が乗っているとも読め、そうすると作者の心情が描かれた句となり、前半の叙景の現実感が強くなります。
そういう意味では、結びの「翁」はいかにも柳宗元を意識した感じで、知的な面白さだけは有っても、深みがありません。前半も「ああ、絵の中の世界、空想の世界だね」として終ってしまいそうです。
ここは「孤舟不見人」がよいでしょう。荒波の湖に舟を出すか?という疑問もありますので、「維舟不見人(舟を維ぐに人を見ず)」でもよいでしょうね。(「繋舟」が解りやすいですが、五言詩の二字目の孤平になりますので避けます)
五言ですので、承句と結句で押韻します。「上」と「鳥」は音読みでは似ていますが、韻は別です。結句の「鳥」に合わせると、「上声十七篠」という韻目になります。これは、孟浩然の「春暁」と同じ韻目になります。
仄声の韻になりますので、起句と転句の末は平声にします。
合わせて、平仄も揃えると次のような感じでしょう。
春雪蔽園田 (〇●●〇〇)
浪荒湖上暁 (●〇〇●●)
孤舟不見人 (〇〇●●〇)
唯慈親白鳥 (〇〇〇●●)
2013. 1.20 by 桐山人
作品番号 2012-289
過AEON超市逢大廳鋼琴有人獨奏
江州司馬感琵琶,
詩聖江南嘆落花。
不問鋼琴繞梁否,
只知游子久離家。
<感想>
秋田イオンのロビーでピアノの演奏が流れていたのですね。買い物をしている時にでも、美しい音楽の生演奏が耳に入ると、つい足を止めて聞き、落ち着いた気持ちになりますね。
起句は白居易、承句は杜甫を思い浮かべ、古人も音楽に触発された思いを描いていますね。
転句の「鋼琴」はピアノ、「繞梁」は「余韻が豊かで響き残る」ことですが、故事によれば三日間も余韻が消えなかったとされます。
このホールのピアノの音色が同じように響き残るのかどうかは分かりませんが、心の中には染み込んで、故郷を偲ばせる音色だったのでしょう。
「江州」「江南」の「江」の同字重出が、陳興さんの故郷を感じさせ、いっそう望郷の思いを強く意識させますね。
2013. 1.27 by 桐山人
作品番号 2012-290
秋田有題(其一)
偶來松下尋松子,
曾到池邊觀白蓮。
遠望天邊雲自改,
應同心事兩相憐。
<感想>
起句の「松子」と承句の「白蓮」で季節の変化を示し、時間的な広がり感が出ていると思います。
「松子」は隠者を、「白蓮」は清廉な人柄を想起させますので、自ずから作者の心境が表出してきます。
承句の「池邊」は転句の「天邊」と同字重出になっていますので、これは気になります。「池邊」を「池亭」とするか、前半の対句を生かしたいならば、「天邊」を「天涯」とするところでしょうか。
ただ、各句とも上二字の働きが弱い気がします。
下の五字を使って五言絶句にした方が、ゆったりとした趣が出るように思いますがいかがでしょう。
2013. 1.27 by 桐山人
作品番号 2012-291
秋田有題(其二)
登階回首見春風,
吹過庭園百尺松。
行到天涯不相識,
今宵是否夢中逢?
<感想>
この庭園は秋田のどこなのでしょうね。百尺の松がある立派な庭でしょうが、さすがに「秋田 庭園 松」で検索してもわかりませんでした。
吹き抜けて空の果てまで渡っていく春風に託しているのは、望郷の思いでしょうか。
平水韻では「風(上平声一東)」と「松(上平声二冬)」は別韻になりますので、通韻として表示をしました。
2013. 1.27 by 桐山人
作品番号 2012-292
秋田深夜聞雨
雨到窗前阻客眠,
雲端垂綫到人間。
微風毎使行程改,
本落林中却屋檐。
<感想>
旅先で聞く雨の音は、ついつい様々な物思いを誘い、眠れずに滴る音を聴いてしまうことがありますね。
起句で場面の状況を述べた後は、作者の想像の世界へと進んで行くのですが、遠くの雲から落ちてくる雨を次第に自分の方へとズームインしてくる展開は、広がりがあり、雨に包まれた世界の中にひとりで居るという感覚が湧いてきます。
旅愁だけではなく、力強さも感じられますね。
2013. 1.27 by 桐山人
作品番号 2012-293
秋田小道傍晩散歩偶得
何處人家作夕炊,
唐揚飄遠蒜香飛。
一時游子深呼吸,
遙望晩霞天際垂。
<感想>
こちらも平水韻ですと、承句の「飛」だけが別韻になりますね。
承句の「唐揚」は「高く広がる」という意味もありますが、ここは「カラアゲ」と読みたいですね。炒めたりして熱を加えたニンニクの香りは、中華でもイタリアンでも、食欲をそそります。
深呼吸して胸一杯に香りを吸い込んで、夕暮れの家路を急ぐという姿が目に浮かび、この日常的な生活感がある転句までの描写と、結句のいささか大げさに構えた表現のアンバランスが、詩人の生き生きとした姿をよく出していると言えますね。
2012. 1.27 by 桐山人
作品番号 2012-294
上海往秋田飛機上作
羽田飛去別虹橋,
雲海俯看如卷濤。
雲下是城還是海?
悠然一鶴渡雲霄。
<感想>
起句は「羽田(空港)に向けて、(上海の)虹橋空港を飛び立った」という意味でしょうね。
転句の雲の下を想像しているわけです。
飛行機に乗ると、私も窓から下界を眺めています。晴れていれば航空写真のような景観と記憶の地図とを重ねたりして楽しみがありますが、雲ばかりですとさすがに退屈、今はどのあたりかな?と想像するのは実感があって、面白い表現になっています。
そのモヤーとしたような瞬間から、視点が一気に作者から離れるのが結句ですが、何かテレビドラマのオープニングを見ているような立体感がありますね。
古典韻では承句だけ韻目が異なりますので、平水韻にする時(?)には修正が必要になります。
また、同字の重出を避けるのが日本では一般的です。
この詩では、「雲」が三回、「海」が二回。転句の「海」は「水」に変更はできるかもしれませんが、「雲海」という言葉からの連想で使いたいということなら、このままでしょうかね。言葉の面白さを優先したという解釈ができます。
同じように言えば、「雲」についても他の字に換えるよりもそのまま「雲海の雲の下」という方が良いようにも思いますが、結句まで雲が来ると、ちょっとくどいかな。
最後は「青霄」としておくのが無難な気がしますね。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-295
秋晩
昨到秋田還酷熱,
朝來何處不清凉。
櫻花曾喜滿開晩,
秋待秋田秋葉黄。
<感想>
こちらの詩は、前作の飛行機で秋田に戻った翌日ですね。
残暑の厳しい時季だったのでしょう、承句の描写、ウンウンと納得しました。「何處」は「どこもかしこも」という感じで、いらだちさえも感じられます。
桜の花を出して、時間の推移を表している転句は、やや技巧的な感じもします。恐らく、結句の「秋待秋田秋葉黄」を生かしたいというところから来たと思いますが。
でも、それくらい結句はよく工夫された句ですね。「秋」を三回も使って、意味も通じ、平仄も整わせた構成力というか発想力はすごいです。
ということで見た時に、起句で「秋田」と入れておくことが効果的かどうか、私でしたらここは「昨到日本還酷熱」として、最後のお楽しみの効果を高めるところでしょうね。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-296
擬問寒蛩
莫非明月誤,
或許夜凉多。
戸外寒蛩叫,
徴詢過我麽?
<感想>
「莫非」は、古典では二重否定として用いて「……でないものはない」と訳すことが多いのですが、ここは推測の「……ではないだろうか」という意味で口語的に訳すところ。
次の「或許」も口語で、二語で「あるいは、ひょっとしたら」という意味を表す副詞です。
作詩の時期としては、前作からそれほど経っていない、まだ残暑の厳しい頃でしょうか。
気がつくと戸外でもう虫が鳴き始めている、という転句の内容から、「月が明るいからだろうか、夜は涼しくなったのかな」という前半の疑問へと戻っていく、ちょっとミステリーを読んでいるような展開、構成ですね。
最後は、その虫たちが私を呼んでいるのかな、とメルヘン的な終わり方で、五言絶句とは思えないような豊かな内容だと思います。
「寒蛩」は通常は「冬のこおろぎ」と読み取ります。鳴き声が秋と冬で変わるわけではないでしょうから、どうして「寒」と判断したのか、悩んでしまいます。「野蛩」、孤平になるのが嫌でしたら、時期的に「軒蛩」というところでしょうか。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-297
九月二十四日
毎逢此日強爲詩,
曾是離家渡海時。
大雁秋來秋水渡,
歸來秋葉滿秋池。
<感想>
転句は納得できる表現ですが、結句はどうでしょうか。
日本での作詩通説では句またがりの同字重出は好まない、という感覚があるので、そのせいかもしれませんが、「敢えて」重出する効果があまり無いように感じます。
「秋葉」が「秋池」に満ちるのは、とりわけ斬新な発想ではないし、具体的な情景が言葉の重複という技巧の中に埋没している気がします。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-298
秋田値中秋將至有題
天上繁星亂,
雲何成一圈?
秋田恰秋夜,
明月漸團圓。
<感想>
この詩の転句は「秋」の字が効果的で、「秋田で秋の夜」ということへの作者の感情、発見の楽しみのようなものが感じられます。
異郷で迎える中秋の明月、という趣もこの「秋田」で暗示され、印象深い詩になっていると思います。
起句の「二字目の孤平」を避けるならば、「繁星」を「聚星」としておくところでしょう。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-299
秋田聞友人到泰國清邁戲贈
又飛清邁國王迎?
金殿臺階脱履行。
若遇唐人問何世,
宋元過後又明清。
<感想>
「清邁」は「チェンマイ」の地名の漢字表記です。
後半は桃源郷に迷い込んだような趣ですね。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-300
秋田路上遇雨適逢中秋
蠣餅中秋倍念之,
秋田偏下雨如絲。
出門無傘歸來雨,
一路詩書遮雨歸。
<感想>
中秋の餅ということですと、いつも中国のおみやげで買う月餅が連想されますね。
複数句にまたがる同字重出は古典詩では避けるということは以前にも申し上げました。
規則がどうのというよりも、近体詩という定型の限られた字数の中では、情報量を増やすために同意の語を避けるという意味だと私は思っています。
「中秋」と「秋田」は片方が地名ということもありそれほど気になりませんが、「雨」と「歸」は他の言葉に換えられるように思います。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-301
秋田度國慶有感
又逢佳節思留詩,
六十三年回顧之。
客在秋田零點過,
神州猶是慶生時。
<感想>
国慶節は10月1日、郷土を離れて佳節を迎える思いがよく伝わってきますね。
「神州」は私たちは日本を想定しますが、ここは陳興さんの母国、中国を指しています。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-302
秋田竿燈
竿挂燈籠四十六,
肩悩額頂或腰持。
風來不倒彎如柳,
一片危帆自在移。
<感想>
秋田の伝統的な祭りである「笠燈まつり」、笠燈の揺れ動く様と人々の熱気が伝わってきます。
この詩は日本人が作ったような趣で、祭りに対する共感が表れていて、陳興さんの日本の文化への思いが感じられますね。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-303
秋田待天龍座流星雨未果戲題
天龍星座流星雨,
聞道今宵過地球。
超市歸來不妨信,
流星轉作滿天浮。
<感想>
「天龍座流星雨」はりゅう座のジャコビニ流星群と呼ばれています。
13年に一度、10月に好観測期を迎えるもので、しし座流星群と並んでよく知られています。
転句の「不妨信」は、「出現をひたすら待ち続けた」ということでしょうね。
2013. 1.31 by 桐山人
作品番号 2012-304
秋田聞作家莫言獲2012年諾貝爾文學獎偶題
扶桑昔日出川端,
赤縣今朝説莫言。
雪國曾經春夢裏,
高粱一夕臥平原。
<感想>
起句は、日本でかつて川端康成がノーベル文学賞を受賞したことを指し、承句は中国(「赤縣」)で今年莫言氏が受賞したことを並べています。
その対応で川端康成の代表作である「雪國」が転句、莫言氏の「赤い高粱」が結句に出ていますね。
「赤い高粱」を読んだ時に、圧倒的な迫力に打ちのめされるような感覚で、しばらく私は声が出なかったことを覚えています。
受賞、おめでとうございました。
陳興さんの作品はまだ続きますが、2012年の投稿詩としてはここまでとさせていただき、続きは2013年の投稿の方に載せさせていただきます。