2010年の新年漢詩 第91作は 赤龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-91

  (新年漢詩)与友祝新年(一)        

窓外梅花黄鳥鳴   窓外の梅花 黄鳥鳴く

四山残雪眼前横   四山の残雪 眼前に横たふ

相迎共酌新年酒   相迎え共に酌す新年の酒

追想往時煖友情   往時を追想し友情を煖む

          (下平声「八庚」の押韻)

























 2010年の新年漢詩 第92作は 赤龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-92

  (新年漢詩)与友祝新年(二)        

前庭梅花一鳥鳴   前庭 梅花あり 一鳥鳴く

四山淑気眼前横   四山の淑気 眼前に横たふ

相迎共祝新年酒   相迎え共に祝す新年の酒

嬉笑三元春意生   嬉笑(きしょう)三元春意生ず

          (下平声「八庚」の押韻)























 2010年の新年漢詩 第93作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-93

  拝見「新年漢詩」「漢詩講座」玉作而有感        

先生歴歳務栽培   先生 歴歳 栽培に努め

馥郁紅梅與白梅   馥郁たり 紅梅と白梅と

不盡深慈注薫染   不尽の深慈に 薫染を注ぎ

春初網上萬花開   春初 網上 万花開く

          (上平声「十灰」の押韻)



<感想>

 こちらは、皆さんの「新年漢詩」と漢詩講座の受講生の作品を読んで、井古綆さんが思いを書いてくださったものです。

 今年は世界漢詩同好会の詩題と重なった点もあったでしょうが、本当に多くの皆さんから新年漢詩に投稿いただき、また、私の講座の受講生の皆さんも熱心に頑張ってこられたので、新年漢詩のページを見ると、井古綆さんが仰る通りで「春初網上萬花開」そのものです。
 投稿いただいた皆さん、受講生の皆さん、そしてこの詩をくださった井古綆さん、ありがとうございました。
 今年も頑張って、「漢詩の花盛り」のサイトにしていきますので、よろしくお願いします。


2010. 2. 1                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第94作は 知秀 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-94

  迎曾孫越南        

洋洋万里曙光紅   洋々万里曙光紅なり

子女呈祥笑語同   子女祥を呈して笑語を同じうす

日越架橋波不愕   日越の架橋 波に愕かず

欣然曾孫美雲中   欣然曾孫 美雲の中

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 一昨年夏、娘夫婦の国際養子に一女が授かりまして、戸籍の上では曾祖母と言うことになりました。
この年末年始、妻子と共に来萩しまして、ともに楽しい数日を過ごしました。

    日越の架け橋となれ初曾孫その名は美雲一歳五ヶ月


<感想>

 知秀さんの国際養子の方がご結婚なさったことは、「祝陳文龍君」のところで拝見していましたが、お子さんがご誕生とのこと、おめでとうございます。

 お写真もいただきましたが、しっかりしたお顔で、かわいいですね。ひいお祖母ちゃんとしては、目尻が下がってしまうことでしょう。
 美雲ちゃんというお名前で、詩の中にも登場していますが、ベトナムでは何と読むのでしょうね、「メイウン」かな。名前の通りに美しい雲に乗って、日越だけでなく、世界に飛び立っていくのでしょうね。


2010. 2. 1                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 知秀閨秀お久しぶりです。玉作を拝見いたしました。
 知秀さんに抱かれている可愛い姿が目に浮かびます。以前閨秀の御作に次韻させていただきました。そのよしみで今回も依韻いたしましたので、ご笑覧くだされば幸甚です。

 最初、白文を拝見して『美雲』に些か疑問を抱きました。鈴木先生の感想文を拝見してお孫さんの名前だと分かりました。 美の字がありますので、女のお子さんでしょうか。

 次韻と思いましたが依韻となりました。

    依韻『玉韻・迎曾孫越南』
  蘭孫生誕喜無窮   蘭孫らんそんの生誕 喜び窮まり無し
  抱擁嬰孩衆思同   嬰孩えいがいを抱擁すれば 衆思は同じ
  何日美雲維日越   何れの日にか 美雲は日越をつな
  掌中珠玉忖胸中   掌中の珠玉 胸中をそん

2010. 2. 3              by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第95作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-95

  別佳人        

交好無成別恨新   交好成る無く 別恨新たなり

孤身今夜涙沾巾   孤身今夜 涙 巾を沾す

離情難耐君姿遠   離情耐へ難し 君が姿遠きは

恋恋未明何有因   恋恋 未だ明らかならず 何れに因有りや

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 正月から不幸な話で申し訳ありません。
 昨年末ケンカして別れた佳人とのことを書いたものです。あまりにつらいので詩を書いてしまいました。
 本来ならいい年末で明るい正月を迎えるはずでしたが、佳人が遠くに行ってしまい、耐え難いことになってしまいました。
いろいろ理由があるのですけど、自分が至らないかな?と今は後悔して、反省して、また元に戻らないかな?と感じています。

 涙ながらに読んだメールは今もつらいですね。

<感想>

 何ともつらい話ですね。
 私自身はもちろん、他人様の失恋の話を聞くのも何十年振りかのことですので、あまりうまい言葉が出ないのですが、一つだけ言えば、「後悔」や「反省」はどれだけしても良いですが、「涙ながらに読んだメール」は早いうちに削除した方が良いでしょう。「元に戻る」にしろ(あまり期待しない方が良いとオジサンはすぐに思ってしまいますが)、新しい方向に進むにしろ、つらい思い出を大事に取っておくことはないと思いますので。

 昨今の若い人たちは、くっつくのも早ければ離れるのも早く、恋愛に対しては結構クールなのだと思っていましたが、そうばっかりでもないんだとびっくりしました。

 楽聖さんは、昨年、自作漢詩よるピアノ狂想曲(シャレも含みます)『園田居』Op16を東京で初演なさったのですが、私は残念ながら日程が合わずに行けませんでした。次の機会があれば是非拝聴したいと思いますので、ご案内をよろしくお願いします。


2010. 2. 1                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第96作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-96

  悪弊踏襲        

多年宿願廟堂更   多年の宿願 廟堂あらたまり

高掲維新政策成   高く維新を掲げて 政策成る

唯一金權傳舊態   唯一 金権 旧態を伝ふ

國民向孰俟河清   国民はたれに向かって 河清かせいたん

          (下平声「八庚」の押韻)

「孰」: 現在我国政界の最高実力者に対抗出来得る司法機関。
「河清」: 黄河の濁流が澄んで清くなること。

<解説>

 この詩意の黒白はまだ未定だが、一国の指導者たる者は、卑しくも李下に冠を正してはならない。
 平成22年1月15日の作。当詩の作詩後、関係者二名が逮捕された。

<感想>

 前半は政権交代からの一連の政策に対しての期待感、そして後半は自民党時代と変わらない「金と政治」の問題への失望感が描かれています。
 その期待と失望の間をつなぐのが「唯一」の語ですが、この語によって、「多年宿願」という起句の作者の思いが明瞭になっていますね。
 こうした言葉使い、一語が全体と緊密につながっているというのは、漢詩の楽しみの大きな要素だと私は思っています(なかなか、作るのは大変なのですが・・・)。


2010. 2. 1                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第97作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-97

  天網恢恢        

徘徊李下去平然、   李下を徘徊 平然と去り、

隠蔽収賕愚也賢。   収賕しゅうきゅうを隠蔽するは 愚か賢か。

天網恢恢疎不漏、   天網恢々 疎にして漏らさず、

野心滿滿得誰憐。   野心満々 誰か憐れむを得ん。

猶將仍舊從強欲、   猶 仍旧じょうきゅうを将って 強欲に従ひ、

奈以維新改政權。   いかんせん 維新を以って 政権を改むるを。

當路須遺名與井、   当路は須らく遺すべし めいせいと、

毋汚晩節愛金錢。   晩節を汚して 金銭を愛するなかれ。

          (下平声「一先」の押韻)

「収賕」: わいろ。
「仍旧」: 古い習慣にそのまま従う。
「井」: 古くからいわれている井戸塀。


<解説>

 

第一句は次句の『収賕』への隠喩で「平然」に作者の詩意をこめた。

<感想>

 「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉が懐かしく感じるのは、この言葉を使う機会が少なくなったからかもしれませんね。

 ごまかした方が得、ばれなければ悪いことをしても良い、そんな現代の風潮を嘆いていたのに、それが新政権の顔役に出てきていては、叱る言葉も弱くなりますね。

「李下に冠をたださず」は「瓜田にくつを納れず」と同じ意味で、人に疑念を抱かれるような行為は自らが慎むべきだという『文選』の言葉です。
 はるかな昔の時代から、政治家が取るべき姿は変わらないものなのですね。


2010. 2. 1                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第98作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-98

  寄井古綆雅兄之宇宙実験棟“希望”詩  
     宇宙輸送船(一) 次韻

五十年前鉛筆音   五十年前 鉛筆の音

試行遙夢固方針   試行夢遥かに方針を固む

地球觀測萬家想   地球観測 万家の想

宇宙飛翔千載心   宇宙飛翔 千載の心

威信相爭小功業   威信相爭ふは小功の業

和親互助大成箴   和親互ひに助く大成の箴

有人往復依海外   有人の往復 海外に依り

郵逓一途精進深   郵逓一途 精進深し

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 2009年の井古綆さんの「宇宙実験棟"希望"」に次韻した作品です。

「鉛筆」: ペンシルロケット。1955年 実験を重ねた超小型(長さ23センチ)水平発射型。
「宇宙輸送船」: 宇宙ステーション補給機HTV(H-U Transfer Vehicle)は地上より宇宙ステーションへの物資輸送機で帰路は廃棄物を収蔵し、大気圏にて補給機ごと灰燼とする。平成21年9月打ち上げられた1号機は、同11月2日大気圏に突入任務を終えた。
 同様な宇宙輸送船は、欧州、ロシアでも行なわれている。

 若田光一さんは米国スペースシャトルで、野口聡一さんはロシアソユーズで出発しました。よくテレビに映る居住棟はロシア、サッカー場ほどもある太陽電池は米国の担当です。

 科学技術を詩題とすること ご同慶の至りです。思い切って次韻してみましたが、肝心の輸送船は最後の一句で触れるのみとなりました。絶句はわき道にそれないよう心がけました。

<感想>

 首聯の「鉛筆音」は、「鉛筆でカリカリと図面を描いたり、計算をしたりした」ことを回想されたのかと思っていましたら、「ペンシルロケット」だと注を見て、そうだったのかと感心しました。
 ペンシルロケットは糸川英夫氏が実験を重ねた初期のロケットですが、これが我が国のロケット開発の出発点、そこから話を持ってきたところが、科学技術への思いのある常春さんの観点ですね。
 ただ、これは私の職業柄かもしれませんが、やはり「鉛筆音」は教室とか研究室のイメージが強くて、次韻ですので仕方なかったのかもしれませんが、ロケットの「火箭」を句中に用いた方が意味は伝わるように思います。

 二句目の「遥夢」は、実験しながらぐっすりと寝てしまったような印象ですので、「試行幾度」とか「夢」を「望」に換えるのがよいでしょう。

 頷聯はまさにその通りで、私たちが子供の頃の宇宙への憧れが素直な表現で表れていると思います。簡潔で良い聯ですね。

 尾聯は上句の「依海外」が前聯と結局は同じことを言っているわけで、改めて言われると、どうも「依海外」に無念さがあるように感じられ、尾聯だけでなく全体にも影響してしまいますので、この句は推敲されると良いと思います。


2010. 2.15                  by 桐山人



常春さんから、頸聯が気になったとのことで、修正のお手紙が来ていました。
気がつきませんでして、ご迷惑をかけました。以下に修正の詩を掲載します。

    宇宙輸送船(一) 次韻
  五十年前鉛筆音   五十年前 鉛筆の音
  試行遙夢固方針   試行夢遥かに方針固む
  地球觀測萬家想   地球観測 万家の想
  宇宙飛翔千載心   宇宙飛翔 千載の心
  威信相爭奇詭道   威信相争うは 奇詭の道
  善隣互助至仁箴   善隣互助は 至仁と箴あり
  有人往復依海外   有人の往復 海外に依より
  郵逓一途精進深   郵逓一途 精進深し


2010. 2.16             by 桐山人



常春さんからお返事をいただきました。

 ご指摘ありがとうございました。

「鉛筆の音」、私としては、特に五十年前と記したから、容易にペンシルロケットと理解していただけると思っていましたが、ひとりよがりでした。
 首聯をペンシルロケットの説明だけとして、
  五十年前火箭音   五十年前 火箭の音
  呼稱鉛筆何似針   鉛筆と呼称するも何ぞ針の似し

と改めました。

 尾聯を
  幸哉共用往還便   幸いなる哉共用す往還の便
  郵逓一途精進深   郵逓一途 精進深し

と改めました。

 次韻で最も難しかったのは頚聯『箴』の字でした。
左伝にある「親仁善隣、国之宝也」を用いて、
  威信相爭奇詭道   威信相争ふは 奇詭の道
  善隣互助至仁箴   善隣互助は 至仁と箴あり

 と改めます。

 推敲作

  五十年前火箭音   五十年前 火箭の音
  呼稱鉛筆何似針   鉛筆と呼称するも何ぞ針の似し
  地球觀測萬家想   地球観測 万家の想
  宇宙飛翔千載心   宇宙飛翔 千載の心
  威信相爭奇詭道   威信相争ふは 奇詭の道
  善隣互助至仁箴   善隣互助は 至仁と箴あり
  幸哉共用往還便   幸いなる哉共用す往還の便 
  郵逓一途精進深   郵逓一途 精進深し

 第八句の「一途」には専心の意味と、片道の意味とを兼ねています。このことは、何も将来の往復を否定するものではありません。


2010. 2.18             by 常春





















 2010年の投稿詩 第99作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-99

  宇宙輸送船(二)        

発射成功宇宙郵   発射成功 宇宙の郵

別離火箭軌円周   火箭と別離して 円周に軌す

無人誘導到希望   無人誘導 希望に到る

正是必須輸送舟   正に是 必須輸送の舟

          (下平声「十一尤」の押韻)

「火箭」: ロケット。
「軌円周」: 宇宙ステーションの軌道に乗ること。


<感想>

 「郵」はもともとは「宿場・駅」を表す字で「中継所」という意味も持ちますが、ここでは「宇宙への郵便」が一番しっくり来るでしょうか。
 転句まで宇宙からの中継を見ているようで、時間経過も含めて、一気に読み進めることができます。その分、結句は落ち着きすぎで、「到希望」なわけですので、もう少しドラマチックな結末が欲しいところです。
 技術畑の人からは「この輸送こそが最も重要なことだ、文系人間は困る」と言われそうですが、何かこう「人類の未来は明るいぞ」という、風呂敷を広げるような心が浮き立つ言葉をつい期待してしまいます。


2010. 2.15                  by 桐山人



常春さんからお返事をいただきました。

結句にご意見、「うーむ」と呻りました。
やはり私は、工学人間、詩情もロボットみたいなものかな。
この詩で強調したいのは、無人誘導でした。

 結句を

 技術先端凝集尤 得集先端技術優 期待前途技術遒 

など考えてみましたがどれもいまひとつ。


2010. 2.18              by 常春






















 2010年の投稿詩 第100作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-100

  賢妻飲水知源        

散人幸伴老妻賢,   散人 幸ひにも伴ふに老妻 賢く,

飲水知源斷酒錢。   水を飲めば源を知り酒銭を断つ。

以后長生耽韻事,   以後 長生して韻事に耽り,

題詩三萬赴黄泉。   詩を題するに三万にして黄泉に赴く。

          (中華新韻「八寒」の押韻)

<解説>

「飲水知源」: ものごとの本源に明晰であること

 私の妻は私の健康を思い,酒を慎むようにいつもいいます。
 そして,小遣いを制限すれば,酒量が減ることを知っています。
 拙作,これを踏まえて作っています。



<感想>

 鮟鱇さんのこの詩は、中華新韻では「八寒」になるのですね。平水韻ならば「下平声一先」となります。鮟鱇さんは以前にも書かれていましたが、ご本人は中華新韻でお作りになっても、このサイトへ投稿の際には平水韻でも通用するようにしておられるとのこと、お気遣いが感じられます。

 それにしても、これは世の男性にとっては、決して妻には見せられない詩ですね。鮟鱇さんのようにうまく行くと知ったら、来月からの小遣いが一気に減らされそうです。

 「飲水知源」は調べてみましたが、「飲水思源」とは意味が異なるようですね。「思源」ですと「源流を思う」ということで、感謝の気持ちを持つことのようですが、「知源」は「飲むだけで源流を当てることができる」というような意味が出てくるのでしょうね。

 結句の「黄泉」は文字通りでしょうか、それとも人間界を超越してしまったと比喩したのでしょうか。
 どちらにしても、私にとっては鮟鱇さんにはまだまだ「黄泉」に赴かれては困ります。「三萬」という数字自体がもう既に人間業を越えたような数なのですが、ここは更に高いハードルで「神業」の領域に入られたらどうでしょうか。

2010. 2.20                  by 桐山人



観水さんから感想をいただきました。

 「飲水知源」というのは勉強になりました。
 はじめ、承句を文字通りに解釈し、本当に奥様が水源をあてられる特技をお持ちで、「水だって十分に味わうことができるのだからお酒なんていらないでしょう」というような理屈で「断酒銭」されたのかと変に納得してしまっていたのですが、解説を読んで「賢」とされた意味が理解できました。

 奥様の鮟鱇さんへのお気持ち、また鮟鱇さんの奥様へのお気持ちを想像できる、すてきな詩だと思います。
自分もいつか、こんな詩が書けるようになれればと思っています。


2010. 2.21                by 観水



鮟鱇さんからお返事をいただきました。

観水様
 貴兄からコメントをいただき、とてもうれしいです。
 私は50歳を過ぎてから詩を始めましたので、もう時間があまりない、という焦りもあり粗忽な詩作りをしてきました。
 しかし、焦ってばかりいても良い詩は書けない、貴兄の「書懷(一)作品番号 2009-236」のような詩が書けたら、と思うのですが、詩はやはり、人となりを隠す能わずで、私には私に書けることしか書けないようです。

 さて、承句「飲水知源斷酒錢」の解釈ですが、作者の私がいうのもどうかですが、貴兄の解釈の方がよい、と思います。
 「品」があると思います。
 そして、その品位を大切にすれば、転句結句は、拙作のようにはならない、しかし、その品位ある転句結句は私には作れない、そこで、作者としては落ち込むのですが、良くも悪くも自分を知ることができることはありがたいです。

 コメントに感謝します。


鈴木先生
 あたたかいコメントありがとうございます。

 「飲水知源」と「飲水思源」−あまりその差を意識せずに書いてしまいました。
 というより、最初にできた句が、「飲水知源斷酒錢」、主語がない句なので,承句か結句かと考え、その主語を考えて頭に浮かんだのが「老妻賢」、そこでこの句は承句だ,という手順で作りました。
 「知源」であったので「賢」という韻字が頭に浮かびやすかったと思います、「思源」だとどうだったか・・・主語を妻ではなく、私にして、また別の詩になっていたかと思います。
 四字成語としては「飲水知源」、「飲水思源」のいずれも意味に大差はない、と思います。
 しかし、先生にお書きいただいたように「感謝の気持ちを持つ」というニュアンスで「飲水○源」を詩に取り込むには、○は「思」の方がよいと思います。ただし、「知」と「思」を入れ替えるだけでその効果を期待するのはむずかしく、前後の句で何をいうかを考えないといけないと愚考します。


2010. 2.28                  by 鮟鱇



井古綆さんからも感想をいただきました。

「飲水知源」が前に出過ぎていて、詩意にフィットしないように感じます。
また、起承と転結の結びつきが弱い感じがいたしました。

 この韻で考えてみました。

  老妻常減杖頭銭   老妻は 常に減ず 杖頭銭
  始識深謀與我賢   始めて深謀を識り 我より賢なり
  今日題詩三萬首   今日 題詩 三万首
  是非獨力有良縁   是 独力に非ず 良縁に有り


「杖頭銭」: 酒を買う銭。晋の阮修の故事。


2010. 2.28              by 井古綆





















 2010年の投稿詩 第101作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-101

  悲歌        

沈鬱佳人去不還   沈鬱たり 佳人去り還らざれば

寂寥難慰作哀顔   寂寥を慰め難く 哀顔を作す

無情傷別悲猶在   無情の傷別 悲しみ猶ほ在り

独坐幽斎発涕潸   独り坐して幽斎に涕を発して潸たり

          (上平声「十五刪」の押韻)

<解説>

 書斎に籠って、何か書くこともなく考えることもなく、ただ無情に過ぎ去った時間ばかり考えていて書いた詩がこれです。
 こんな風に思えたことは何年ぶりだろうか?という感じですね。

 詩集『悲傷絶句』の4番目の詩です。これを使って合唱組曲にする予定です。
3月上旬の作曲コンクールに出す予定にしています。

<感想>

 この詩は、まず自分の心を表す言葉が浮かんで、その後にその心を説明するという形の句で、まさに「独坐幽斎」、感情が深まった時の詩ですね。
 「沈鬱」「寂寥」「無情」などの感情形容語が先行するため、分かりやすいと言えば分かりやすく、ただその分だけ類型化して、作者の個別の気持ちが浮かびにくくなっています。
 試みに、各句の頭の二字を削って五言の絶句として読んでみると、急に作者の生々しい姿が浮かんで来るように思いませんか。

 作者としては、その「生々しさ」をせっかくオブラートに包んだのに・・・・というお気持ちかもしれませんが。


2010. 2.23                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第102作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-102

  二月二日歸ク會葬此日望淺間山噴火有感  
    二月二日 郷に帰って葬に会す 此の日 浅間山の噴火せるを望んで感有り  

曳曳淺間山上煙   曳曳たり 浅間山上の煙

如瞋如怨又如憐   瞋るが如く 怨むが如く 又憐れむが如し

多言少女應包涙   多言の少女 応に涙を包むべし

此日何人不問天   此の日 何人か 天に問はざらん

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>


  浅間の山の噴煙は 空の涯までたなびいて
  うらみ怒っているようで また悲しんでいるようで
  やまぬ少女のお喋りは 涙をかくすためのもの
  この日いったい何人が 天に問わずにいられよう


 去年の二月、親類の葬儀に参列するために帰郷した際の作です。
 その日の朝、ちょうど浅間山の小規模な噴火があったところで、北西から南に向って細く長く、噴煙がたなびいているのが遠くに望まれました。東京・神奈川方面にまで降灰があったようです。

 作中の「少女」は、故人の孫に当たる小学生です。事情により、祖父母のもとで暮らしています。
 当日、涙も見せず、諸事に忙殺される祖母をいたわる一方で、遠方からの参列者の世話も焼き、あちらこちらに気遣いをする彼女の姿に、言葉がありませんでした。



<感想>

 観水さんは昨年は身近でお亡くなりになる方が多く、つらい一年だったそうです。
 そのお気持ちが承句の「如瞋如怨又如憐」の対語に表れているのでしょうね。
 この句を読んで、私は蘇軾の「赤壁賦」を思い出しました。蘇軾が赤壁で舟を浮かべた時に、客の中に洞簫を吹く人が居て、その音色が「其声嗚嗚然、如怨如慕、如泣如訴。」という件でした。「其(洞簫)の声、嗚嗚然(むせびなくような音)として、怨むが如く慕ふが如く、泣くが如く訴ふるが如し」と続く文は、高校の授業で生徒に読ませてもリズム感を感じさせ印象深いものでした。

 承句に浅間山の噴煙の描写を持ってきましたから、起句の「曳曳」は邪魔になります。季節とか二月を表す語にした方がいいでしょうね。

 承句の比喩は全て感情形容語で作者の感情が投影されているわけで、その思いが直接転句へと向かいます。
 転句の「多言」は初め「無言」ではないのかと驚きましたが、そういう意味ではリアルで、痛々しい思いが痛切に迫ってきます。

 結句はそれまでの緊迫感がやや薄く、その分読者は救われる思いもしますが、唐突感があります。詩としては結びですので、もう一度浅間山に戻るなりして全体をまとめる形にすると息を呑む劇的な詩になるように思います。


2010. 2.25                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作を早くから拝見していました。

 大変難しい詩題で矛盾点がありましたのですが、看過していました。では何故この度感想文を差し上げようとしたのかと申し上げれば、不肖わたくしも詩中の年齢に近づきましたので、玉作を考えてみました。

 本来 自然現象を人間の死と結びつけるには無理があります。しかしながら、作者にはそのことを超越した憐憫の情があったことだろうと推測いたします。
 そのことを勘案して推敲しましたのが下記の詩です。


  人生漠漠恨綿綿   人生 漠々 恨み綿々
  獨別孤孫赴九泉   独り孤孫に別れて 九泉に赴く
  天帝憫不塵界事   天帝はあわれむやいなや 塵界のことを
  噴煙無意似香煙   噴煙の無意は 香煙に似たり

「塵界」: 人界

 後は詩題に注釈するしか無いように思います。
 なお、玉作の結句『何人』は間違いで正しくは「幾人」もしくは「誰人」と措辞したほうがよいように思います。


2010. 4. 2                by 井古綆





















 2010年の投稿詩 第103作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-103

  偶感        

駒岳嶙峋耀一陽   駒岳嶙峋として一陽に耀き

芙蓉峰峙作双方   芙蓉峰は峙ちて双方を作す

両相競卓天空濶   両つながら相卓を競ひ天空に濶たり

奈我人生志未償   我が人生を奈んせん 志未だ償はず

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 仲泉さんのお住まいは甲府でしたから、駒ヶ岳も富士も両方が一望できるのですね。前半の二句はそのあたりの特性をよく表していますし、転句も同様のスケールの大きな句だと思います。
 ただ、承句の「作双方」は、転句の先取りになり、せっかくの効果を半減させています。ここはぐっと我慢して、起句は「駒ヶ岳の具体的な姿」、承句も「富士の具体的な姿」として並べるのが良いでしょう。

 転句は「天空濶」は「天空濶し」「天空濶たり」と読み、主語を「天空」にしなくてはいけません。

 結句は、この感懐がどこから来たのか、転句までの内容とつながる理由をもう少し書いて欲しいですね。俳句ですとこんな感じで行間に含ませるような描き方もあると思いますが、漢詩ではかなり丁寧に描かないと、読者が置いてきぼりになってしまいます。


2010. 2.27                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第104作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-104

  雪        

舞若鵞毛布紈素   舞へば鵞毛の若く 布けば紈素

生來潔白未慙天   生来の潔白 未だ天に慙ぢず

爐峰小閣人猶睡   炉峰 小閣 人は猶ほ睡り

謫路藍關馬不前   謫路 藍関 馬は前まず

高積明窓支苦學   高く明窓に積もれば 苦学を支へ

厚敷玉屑兆豊年   厚く玉屑を敷けば 豊年を兆す

方今歳歳降量変   方今 歳々 降量変わる

靈長驕驁逆自然   霊長の驕驁 自然に逆らふ?

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 この詩は三年前の作品で、尾聯は下記のように作っていました。
今年になって降雪量が増してきましたので、尾聯を変更しました。

    方今頓報地球暖   方今 頓(とみ)に報ず 地球の暖
    已忘嚴冬訝自然   已に厳冬を忘れ 自然を(いぶか)訝る



 [語釈]
「紈素」: 白色の練り絹
「炉峰」: 香炉峰。白居易のhttp://tosando.ptu.jp/si_exm.html#korohoを引用
「謫路」: (潮州への)貶謫の路
「藍関」: 藍田関。韓愈のhttp://homepage1.nifty.com/kjf/Hanshi/00027.htmを引用
「明窓」: 蛍窓雪案をさす
「玉屑」: 雪の形容
第六句: 古諺
「方今」: 現在
「驕驁」: おごりたかぶる


<感想>

 首聯と尾聯に作者の雪への思いが表れるわけですが、第一句は特に工夫されたところでしょうね。句中対が効果を出していると思います。

 中間部で人と雪のつながりの深さを描いていますが、特に頷聯で白居易や韓愈という先人の詩での雪、頸聯の孫康の故事(蛍雪)は時間の広がりを感じさせて、尾聯の「方今」を「ところが今では」と逆接的につなげる意図がよく出ていると思います。

 最後の句は、自然界の変化を人間の傲慢さがもたらしたものだと明解に示した点が前作からの変化です。
 「霊長」として人類のこれまでの行いを非難する形になっていますが、私は現代人に限定した方が良いかと思います。
 頷聯頸聯とのつながりのこともありますが、地球環境を壊してまで科学技術を追い求めたのはこの百年くらいのこと、それまでの長い歴史では「順自然」だったと私は思うのですが、いかがでしょう。


2010. 2.27                  by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

 先生の慧眼おそれいります。
 苦心した処を見通されました。

 感想文最後の部分尾聯「方今」「霊長」は先生のおっしゃる人間の文明社会百年を指します。
したがって詩意には「?マーク」をつけました。


2010. 2.28            by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第105作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-105

  待春        

余雪凄凄曽水村   余雪 凄凄 曽水ノ村

紙窓煦煦草茅軒   紙窓 煦煦 草茅ノ軒

炉前閑坐老翁影   炉前 閑カニ坐ス 老翁ノ影

春事猶遼不出門   春事 猶遼クシテ 門ヲ出ズ

          (上平声「十三元」の押韻)


<解説>

 節分を過ぎて春の訪れも近いと思っていた矢先、此処尾張の国木曽川沿いの村に雪が舞いました。
 越後の国では三十数年ぶりの大雪とのこと。
 そこでこの一詩。春が早く来てほしい気持とこのまま安閑と冬籠りをしていたい気持ちと半々と言ったところです。

<感想>

 今年は思いも掛けず雪が多いですね。
 真瑞庵さんと同じく愛知県に住んでいますが、とりわけ私の住んでいる知多は温暖な地域で、「雪が積もったのは何年振りか」というようなところです。雪は心をウキウキとさせてくれるもの、見て楽しむものと捉えていますから、珍しく道路に雪が積もったりすると交通状況が即座に悪くなります。

 そんな日は、真瑞庵さんの仰る通り、「炉前閑坐」と行きたいところ、更に言えばその後に「酔吟裡」と続けたいのですが、まだ宮仕えの身は通勤電車の窓から沿線の田んぼの雪を眺めるしかできません。

2010. 2.27                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第106作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2010-106

  新春晴天        

新歳天空無片翳   新歳の天空 片翳無く

早晨地上少軽塵   早晨の地上 軽塵 少なし

梅花発日欲中午   梅花 発いて 日は午に中らんと欲し

颯颯東風渡玉春   颯颯たる東風 玉春を渡る

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

    青天にきず一つなし玉の春  一茶

 先日、こんな句を見て、五言に翻訳してみました。
    新春晴天
  碧天無片翳
  地上少軽塵
  新歳日当午
  微風渡玉春

 これを七言にしてみたのが投稿詩です。
本当は「雲」を入れたかったのですが、「新歳碧天無片雲  良辰地上不留塵」と「真」「文」の通韻に成ってしまい、やむなく対句にして踏み落としました。
 「天空」と「地上」では少し苦しいですが。

<感想>

 この一茶の句をもとに考えるならば、五言の方がすっきりとしていますね。
 それでも、承句の「地上軽塵」、転句の「日当午」、結句の「微風」など、俳句には無い言葉を入れて膨らませているわけです。
 このように膨らませることは、アイスクリームを作る時には空気を含ませて食感を高めるように、決して悪いことではありません。どんな言葉を入れたかで、作者の感覚が表されるわけです。

 もともと、俳句は省略文学の極致であり、膨大な作者の感情をわずか十七音で表すために極限まで言葉を選び抜いています。
 選び抜くとは一方で削り落とす面もあり、目に見えたもの、耳に聞こえたもの、これまでに経験してきたこと、連想された様々な思い、それらをみんなひっくるめてガラガラポンし、本当に必要なものだけを改めて並べ直したようなものでもあります。

 読者は逆の過程を辿れば作者の思いに出会えるのでしょうが、わざと落とした(隠した)ものを見つけるのは困難で、読者が自分で補うことが求められ、許されるのが俳句だと私は思っています。
 (俳句を)漢詩にするのは、その補いの部分の楽しみと勝負だと言えます。

 五言から七言にした段階で、更に「新歳」「早晨」「梅花」などが加えられ、より具体化が進んでいくわけですが、どの語も破綻は無く、これはこれで七言絶句としては良い詩になっていると思います。転句は「梅花已発日当午」とした方が良いでしょうが。
 ただ、具体的なものが増えた分だけ焦点がぼやけて、一茶の俳句のインパクトの強さが薄くなった印象はどうしても残りますね。


2010. 2.27                  by 桐山人



Y.Tさんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、貴重なご教示有り難う御座いました。

 転句、最初は「野梅花発日中午」も考えましたが、「野梅花」と三字も使うのは、どうかなとあの様にしたのですが。
「梅花漸発日当午」としたいと思います。


2010. 3. 3               by Y.T




井古綆さんから感想をいただきました。

 Y.Tさんの玉作を拝見いたしました。よく出来ているように思います。
少々気がついたことがありましたので筆を執りました。

 起句の「新歳天空・・・」と承句の「早晨地上・・・」の措辞の語法が、熟練をされたY.Tさんには惜しく思います。
 転句は鈴木先生のご指摘の通りだと思います。
 結句の「颯颯」は「嫋嫋」のほうがよいように感じますが、如何でしょうか。

詩作してみました。

    新春作
  天満陽光無片翳   天は陽光に満ちて 片翳無く
  人更心気絶軽塵   人は心気を更ためて 軽塵を絶す
  梅花已発日当午   梅花は已に発いて 日は午にあたり
  嫋嫋東風渡玉春   嫋嫋たる東風 玉春を渡る


2010. 4. 3                by 井古綆


Y.Tさんからお返事をいただきました。

 井古綆先生 拙作に貴重なご教示を賜り、有り難う御座いました。
「嫋嫋」の方が遙かによいと思います。また先生の玉作(対句)も素晴らしく、大変勉強になりました。
今後とも宜しくご教授の程お願い致します。

 ところで今回、一茶の句を漢詩に翻案してみて、俳句の漢詩への写し替えに就いて私も自分の考えを述べてみたいと思います。
 一口に俳句と云っても色々で、鮟鱇先生の云われる様に、象徴的な作品も在れば、具体的な作品もあると思います。(勿論、全体としては象徴的な物が多いでしょうが)従って、具体的で比較的漢詩に写しやすい俳句も在れば、象徴的で写すのに大変な力量を要する作品も在ると思います。「古池や・・・」の句は象徴的で大変難しい例だと思います。

 歴史的に見ると、清の袁枚等による「性霊派」の影響で、俳句や俗謡の漢詩翻案は江戸の漢詩人の間で一時流行した様ですが、所詮機知のひけらかしで長続きはしませんでした。
 例えば、六如上人の「朝顔につるべとられて貰ひ水」の翻案 : 井邊移植牽牛花 狂蔓攀欄横復斜 汲綆無端被渠奪 近来乞水向隣家
 これなどは俳句をそっくりそのまま七絶に写しています。その技巧には驚嘆しますが、説明過剰で、明らかに俳句より劣ります。
 これは常春先生の云われるように、俳句には俳句独特の美があり、漢詩には漢詩特有の美があるからです。
 写しやすい俳句をそっくりそのまま漢詩にしたのでは、字数の多い漢詩では説明がくどすぎて内容の無い物に成ってしまうと思います。寧ろ散文(漢文)にした方がましかもしれません。
 漢詩としての良さ=美を出すには、矢張り句に対する自己の想い入れを表現する事が必要と感じますが如何でしょうか。

 鈴木先生のご指摘になった俳句を漢詩に移す際、「補い、膨らませる部分」が必要と云うのは、そうしたことと解釈します。つまり、俳句をそっくり漢詩に移植するのは絵画の模写と同様、技巧の練習としては宜しいが、作品(漢詩)とするには矢張り、自己の想い、考え、が要るのでは無いでしょうか。

以上です。宜しくお願いします。


2010. 4.10             by Y.T



 以前、『桐山堂 漢詩あれこれ』のコーナーで「漢詩と俳句の表現について」のテーマで意見交換が続きました。
 今回のY.Tさんのお手紙につきましても、そちらに継続意見として転載しました。

                  by 桐山人





















 2010年の投稿詩 第107作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-107

  待春        

猶白吹山二月雪   猶ホ白シ 吹山 二月ノ雪

且寒曽水柳堤烟   且ツ寒シ 曽水 柳堤ノ烟

草屋草庵浮淡靄   草屋 草庵 淡靄ニ浮カビ

疎林疎樹接曇天   疎林 疎樹 曇天ニ接ス

炉頭閑聴緑茶煮   炉頭 閑カニ聴ク 緑茶ノ煮ユルヲ

盆裡独耽梅影鮮   盆裡 独リ耽シム 梅影ノ鮮ヤカナルヲ

纔来春事耨耕季   纔カニ来ル 春事 耨耕ノ季

労老執鍬南圃邊   老イヲ労ハリテ 鍬ヲ執ラン 南圃ノ邊

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 先日掲載しました「待春」の七言絶句と同じ題の七言律詩、こちらの方が数日後に届きましたが、前回の「春が早く来てほしい気持とこのまま安閑と冬籠りをしていたい気持ち」と同じ趣でしょうね。

 首聯の「吹山」「曽水」は「伊吹山」と「木曽川」を表したものです。
 頷聯は狙いのある表現ですね。上句で言えば、「草屋」「草庵」どちらもあまり違わないものを二つ並べることで、「あの家もこの家も」という効果を出していますね。

 細かいところまで神経を届かせた言葉の使い方をされているのですが、反法粘法が崩れているのはどうされたのでしょうか。せっかくの作品ですので、できれば揃えた方が良いと思います。


2010. 2.28                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 まず、玉作を拝見して、詩情が満ち溢れているように感じられます。

 惜しむらくは、鈴木先生ご指摘の反法などが崩れていることです。これを是正されましたならば、後世に残る立派な作品になると思いましたので、更に三句四句への助言を差し上げたく存じます。

 三句目 草屋草庵・・・ 四句目 疎林疎樹・・・ の表現では少し物足りないように感じます。
そもそも漢詩の発達は極論すれば、五言では表現に不足な点があったため七言に変化したのではないかと思います。
 すなわち「草屋**浮淡靄・疎林**接曇天」になると思います。この各句の** **が各詩人の腕の見せ所ではないでしょうか。
 ここへ入れる詩語は形容詞であり、たとへば「草屋参差」「疎林蕭索」など『双声語』『畳韻語』などを挿入すれば詩に風格が出てくるように思います。わたくしも、そのような形式に成るように苦吟しております。

 先輩に対しまして失礼とは思いましたが、あえてご助言をいたしました。
玉作の完成を期待してやみません。


2010. 4.10            by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第108作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-108

  奥水威子収容所有感     アウシュビッツ収容所有感   

当年帝国賭興亡   当年の帝国興亡を賭す

猶太人民襲虎狼   猶太(ユダヤ)人民虎狼に襲はる

殺戮非情陰濕極   殺戮非情にして陰濕極まる

学生落涙泣無常   学生涙落とし 無常に泣く

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 言わずと知れたポーランドのアウシュビッツ。ポーランドを旅行した学生時代に訪れた史跡ですけど、入口はきれいな庭園のようでした。
 しかし、建物を見ていると気持ち悪くなるのを感じました。女子学生は涙をハンカチで拭っていました。あんまり気持ちのよいところではなかったのですけど、当時の日記を元に詩にしてみました。
 音大の演奏旅行がポーランドでよかったなと思います。
 その後の私の作曲生活に多大な影響を与えたことは記しておきます。

<感想>

 過去を見つめる時に、あまりに酷い出来事に触れるのは、仰る通り、気持ちの良いものではありません。それは、人間としての存在そのものを否定されるような思いだからでしょう。

 まして、それほど惨たらしいことが一人の狂人の行為ではなく、国家として、組織として為されたことに対して、怒りよりも悲しみを感じます。

 楽聖さんが若い時にこうした体験ができたことは、「多大な影響」と書かれていますが、心の奥深いところでの世界観に今後も関わってくるのだろうと思います。

 その思いの深さを詩にするのは、特に七言絶句という短い形式に収めるのは難しかったと思いますが、時間をしばらく置いたのが良かったのでしょう。必要なことを選んでまとまっていて、見直すとすれば語句の問題だけだと思います。
 承句を引き出すには起句の「賭」よりも「誤」の方が分かりやすいのではないでしょうか。同じく、転句の「陰湿」よりも「陰惨」が良いと思います。
 結句の「学生」は、初め楽聖さんがご自身のことを言ったのかと思いましたが、同行の方々を見ての言葉ですね。客観的な描写になって良いと思います。ただ、「泣無常」は「時の変遷に涙を流す」ということでしょうか、この場面の緊迫感にはそぐわず、せめて「泣非常」の方が良いでしょう。


2010. 3. 4                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 楽聖さん、初めまして。
 難しい詩題に挑戦されていますことに、敬意を表します。少しばかりの年長者として助言を差し上げたく筆を執りました。

 この強制収容所において前代未聞の虐殺が行われていたことは多くの人は周知の事実です。
したがってここを尋ねられた感動を最大の表現をもってされれば、読者に感動を与えると思います。
玉作にはその表現が少し不足なような気がいたしますので、現場を見てはいませんが試作してみました。
楽聖さんの作詩の参考になればありがたく思います。


    試作
  猶太人民襲虎狼   猶太ユダヤの人民 虎狼に襲われ
  此傳惨劇幾星霜   此に惨劇を伝へて 幾星霜
  獣心極致毌肝肺   獣心の極致は 肝肺かんぱいつらぬ
  絶後非違永不忘   絶後の非違は とこしへに忘れず

「毌」: 貫く
「絶後」: 空前絶後
「非違」: (人の)道にはずれ、もとる


2010. 4. 8               by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第109作も 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-109

  維納国立歌劇場紐連堡指輪観劇有感  
     ヴィーンシュターツオーパー ニュールンベルクの指輪観劇有感   

惜時心酔夜方深   時を惜しみ心酔して夜方に深し

楽曲響清高尚音   楽曲 響きは清し 高尚の音

演奏陶然忘着席   演奏に陶然として席を着し忘る

指輪観劇努研尋   指輪観劇 研尋努む

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 オーストリアヴィーンを旅行中オペラが見たくなり、ホテルの人にドイツ語でたずねてみたら調べてくれて、オペラハウスに行きました。
 それはワレキューレです。あれは5時間かかり、立ち見で5時間はちょっと足が痛くなったので席を取ればよかったかな?と思いました。

 音楽は本場が何よりもいいです。しかし、長い曲でした。
 その後、オペラハウスからホテルへ帰ることができたのは、日本人と独逸語を話す2人を見つけてからで、さがせなかったら帰れなかったかもしれません。駅名は覚えていたけど、どこでその市電に乗ればいいか、暗い街の中では全然わかりませんでした。
 今、思い出すと怖いですね。


<感想>

 それはそれは、危ないところでしたね。若さゆえの行動力でしょうね、私などは日本国内でも、方向音痴で夜遅くなると危なくて外に出られません。

 起句の「惜時」は「忘時」だと思うのですが、転句の同字重出を避けたのでしょうか。
 承句は、「響清」ということと「高尚音」の違いが素人には分からないのですが、この句の表現では違いがあるということですね。

 転句は、「忘着席」は感動して立ち上がったままだったということでしょうね。「陶然」は芸が無いので、作者の感情よりも演奏がどうだったかを書いた方が良いでしょう。

 結句の「指輪観劇」は題名を参照することで理解はできますが、句だけで見れば「何のこっちゃ」というところですね。わざわざ「指輪」と題名を示す必要があるのかは疑問です。もっと疑問は、その「指輪観劇」「努研尋」のつながりです。句としてのまとまりがなく、それぞれの単語が独立しています。作者の頭の中ではつながっているのでしょうから、そこを丁寧に語るように言葉を選んでいくと、全体的にも整った詩になると思います。


2010. 3. 4                 by 桐山人



 井古綆さんから感想をいただきました。「述懐」に添えられた楽聖さんのお返事へのお答えも兼ねてのものです。

 楽聖さんお返事をありがとうございました。
わたくしは今年で76歳になりました。このような歳になりますと楽聖さんのようなお若い方が羨ましくなります。

 わたくしの26歳当時には携帯ラジオがほしくてたまりませんでした。ソニーの前身である東通工の製品を求めました。電池の消耗が激しく一時間で放電するような開発途上の品物でしたが、わたくしも若者でしたので、洋楽を好んで聴いていました。
 「運命」などは何回か聞いているうち、第三楽章から第四楽章へ移行する局面で、作曲家の心情が僅かながら理解できるようになりました。

 またモーツアルトの「フィガロの結婚序曲」「アイネクライネナハトムジーク」などをよく聴きました。
 最初求めたレコードはモーツアルトの「クラリネット協奏曲」で、以後、ラロの「スペイン交響曲」、ベートーベンその他のバイオリン協奏曲やピアノ協奏曲などを求めました。4、50年昔のことです。

 長々と駄辨を申しましたが、玉作への感想に移りたいと思います。
 鈴木先生のご感想で総てをつくされていますが、気がついた点を述べてみます。

 わたくしは歌劇を観賞したのは「宝塚歌劇だけです。http://tosando.ptu.jp/2005/toko2005-8.html#2005-118
 楽聖さんが観賞された「ニュールンベルグの指環」は題名だけは早くから存じていましたが、観賞したことは無いことをご承知ください。玉作の詩意を推敲しましたのが下記の詩です。


     試作
  偶望遊覧夜方深   偶たま遊覧を望めば 夜方に深し

  輪奐劇場慆楽音   輪奐りんかんたる劇場 楽音をほしいままにす

  合奏長時誰退席   合奏 長時 誰か退席

  名伶熱演打人心   名伶めいれいの熱演 人心を打つ



「輪奐」: 建物の広大なさま
「慆」: 立派な劇場のため音が響きわたることを表現した
「名伶」: 現代中国語。名優

 わたくしは常々作詩においては結句」から作るように勧めています。何故ならば結句の韻字には最も重要な字をもってこなくてはならないからです。
 御作の起句に「心酔」と「心」を使用されているのは惜しく思いました。

 本来ならば歌劇であれば楽曲と歌手の双方に配慮するべきですが、絶句では難しいように思いました。
当詩では承句と転句で楽曲を称え、結句で歌手を称賛したつもりです。
楽聖さんをはじめお若い方々の詩想のお助けになればわたくしの望外の喜びです。


2010. 5.27                by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第110作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2010-110

  西湖        

断橋細雨作湖紋   断橋の細雨 湖紋を作り、

古刹寒鐘隠約聞   古刹の寒鐘 隠約と聞く。

不解柳条白娘恋   柳条は解さず 白娘の恋、

痴情恰似妾思君   痴情 恰も 妾が君を思ふに似る。

          (上平声「十二文」の押韻)




<解説>

   断橋に降る細かい雨は湖に水紋をつくり、
   古い寺の鐘が寒い中、かすかに聞こえる。
   柳の枝は白娘(白蛇)の恋を理解できまい。
   しかし あなたを一途に思うわたしにはよくわかるのだ。

 ご無沙汰です。ニャースです。
 相変わらず 中国で業務にとりくんでいます。
出張で杭州に行く機会を得ました。添付写真は西湖です。

 断橋に立ち 白蛇伝の話を思っていたら詩情がわき作詩しました。
女性の視点で作ってみました。


<感想>

 断橋は西湖十景の一つ、「断橋残雪」で詠われる橋です。
 ニャースさんは出張で大連から杭州に行かれたそうですが、きっと私が先日日本から行ったツアー代金の方がニャースさんの旅費よりも安かったのではないかと思います。大連でお会いした時にも、私のツアー代金を聞いて驚いておられましたので、またまたびっくりさせては申し訳なく、金額は秘密にしておきましょう。

 詩は、「女性の視点で作った」とのことですが、繊細な感覚が感じられ、狙いは果たしていると思います。特に、前半の叙景と後半の心情の対比が良く、若々しさと老練さを兼ね備えた詩になりましたね。


2010. 3. 4                 by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

 ニャース先生の詩を久しぶりに見せてもらいました。
相変わらずお上手ですね。

 殊に起承句の細かな描写は見事だとおもいます。
まるでその場にいるようになります。

 煖癬ノ回, 以坐馳役萬景 牙頬生香 使我為快 好哉 好哉。

 私等はとても風雅とは思えない理屈ぽい悪口のような詩ばかり作ってますので、まさに一服の清涼剤です。


2010. 3. 5                by 謝斧



ニャースさんからお返事をいただきました。

 鈴木先生 謝斧先生

 ご評価ありがとうございます。
杭州には1年に2回くらい行くのですが、あまりに好景に接するとどう描写していいかわからなくなり、自分の表現力のなさをいつも痛感しております。
 中国も経済発展が進み、生活のテンポも早まり、文人墨客たちが住みにくい世界になっているようです。
 私も日常の瑣末な仕事に追われていますが、詩心は常にもっていたいと思っております。

 また投稿させていただきますので 宜しくご指導くださいませ。


2010. 2. 9                by ニャース


井古綆さんからも感想をいただきました。

 作者はお若いにも関わらず、着想がよいと思いました。
 結句はそのものズバリのため、「恰似」では文意に整合性が無いように感じました。
 難しい詩題だと思いましたが、起句の「湖紋」は無理な感じがいたします。

    試作
  断橋細雨作波紋   断橋の細雨 波紋と作り    
  名刹寒鐘出暗雲   名刹の寒鐘 暗雲を出ず
  散策湖邊到民話   湖辺を散策すれば 民話に到り 
  白蛇夫婦永慇懃   白蛇の夫婦 永く慇懃     

※起承を対句に考えて見ました
※「慇懃」は情交の意味です。


2010. 3.23                 by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第111作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-111

  題新春        

稜層告暁此迎新   稜層暁を告げ此に新を迎ふ

天際香霞自有神   天際の香霞 自ら神有り

可愛家郷心気爽   愛すべし家郷 心気爽やかなり

回頭四面夢中春   頭を回らせば四面 夢中の春

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 すっきりとした良い詩で、仲泉さんの「家郷」への愛着の思いがよく伝わってきます。

 承句からは暖かな春の日射しが感じられます。飯田蛇笏の句、「雪山の繊翳もなく日のはじめ」のように、山の新春はまだ厳しい寒さと思いこんでいましたが、仲泉さんの詩で目を表れた気持ちです。

 結句の「回頭四面」は、だめ押しのような重複感と言うか、ここらで視点の変化が欲しいところではありますが、東天を眺めていた作者の目の動き、時間の動き、心の動きが感じられ、この句はこの句で面白いと思いました。


2010. 3. 9                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

「稜層」は形容詞で、「崚嶒」としても「山が険しく重なるさま」で此に措辞すれば意味を成しませんし、全体としては何を詠じているのか焦点が定まらないような気がいたします。

   試作しましたが転句は冒韻です

  鶏鳴咿喔此迎新   鶏鳴 咿喔(いあく) 此に迎新 
  富嶽崚嶒正有神   富岳 崚嶒 正に神有り
  柏酒三杯忘塵念   柏酒 三杯 塵念を忘れ
  悠悠自適故郷春   悠々自適 故郷の春

※「咿喔」:鶏の鳴き声
※「塵念」は「俗念」でも

などではいかがでしょうか。


2010. 4. 6              by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第112作は東京都江戸川区の 小鮮 さん、五十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2010-112

  在北岳山頂観望東駒岳与仙丈岳  
      北岳の山頂で東駒ヶ岳と仙丈岳を観望す   

白璧峰尖串太空   白璧の峰尖 太空を串(うが)ち

峨峨鶴翼孕清風   峨峨たる鶴翼 清風を孕む

山巓小屋炊煙上   山巓小屋 炊煙上(のぼ)り

酌酒回眸一路夢   酌酒回眸 一路夢(ぼう)たり

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 数年前に北岳に登り、そのおり漢詩らしきものを書きました。昨秋桐山堂さんの本を読み、推敲して、どうやら平仄、押韻も合わすことができました。
 東駒とは、甲斐駒ヶ岳のことで、岩の色で白く、錐のように鋭い山頂が聳えています。隣の仙丈岳は、なだらかな圏谷を持つ山で、まさに鶴翼を広げたような山です。
 北岳肩の小屋で、今日の山行を振り返っているという図です。


<感想>

 南アルプスの山々や青空が目に浮かぶようなスケールの大きな詩ですね。こうした大自然を漢字を用いて描くと、力感が生まれる気がしますね。

 起句については、まず「峰尖」ですが、この語順ですと「峰は尖り」と読むのですが、次の「串」も動詞で、意味の重複感が強くなります。「尖峰」と入れ替えれば解消しますが、「岩峰」とすると直前の「璧」からの流れも良くなるでしょう。
 「串」は「二つの物を貫き通す」という象形の字ですので、「太空」に対してはどうなのでしょうか。「穿」(平字)、「劈(つんざく)」(仄字)などが良いように思います。

 承句このままで良いと思いますが、転句はややスケールがしぼんでいる印象です。「小屋炊煙上」が単なる説明に終わっているためかと思います。
 ここは視点が前半の遠景から近景へと移る句ですので、もう少し工夫が欲しいですね。

 結句は末字の「夢」は「上平声一東」韻ですので「くらい、はっきり見えない」という意味ですが、「蒙」あるいは「朧」の方が分かりやすいように思います。

 その他のこととしては、題名ですが、「在北岳山頂」よりも「従北岳山頂」、「与」の接続詞を取り除いて、「従北岳山頂、観望東駒仙丈両岳」とした方が良いでしょう。


2010. 3.31                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作を拝見いたしました。
 初めての作品とのことですが、個々の点につきましては鈴木先生の感想文で述べられていますので、別の視点で述べたいと思います。

 まずネットで「北岳」を検索したところ、雄大な景色が掲載されていました。玉作はうまく詠出していると思います。
 結句の「夢」の措辞に些か疑問を感じましたので筆を執りました。漢詩に限らず物事に感動を与えるのは最後(結句)にあります。
 玉作の結句「一路夢」の「夢」(はっきりみえない)では読者に感動を与えることは出来ないように思います。
 これを打破するにはどうすればよいか、熟慮しましたが、「攀路回看一望中」とすれば苦労して登攀したことを振り返る意味になります。参考にしてください。

 また、詩の後半の転結を叙情句にすれば、さらによくなると思います。試案を参考例として下記しておきます。

転句   山巓絶景如仙界   山巓の絶景は 仙界の如く
結句   忘刻遥望感不窮   忘刻 遥望 感窮まらず


2010. 4. 3               by 井古綆


小鮮さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生と井古綆さんの講評により、拙作を直してみました。
ご笑覧いただければ幸いです。

 従北岳山頂、観望東駒仙丈両岳     北岳の山頂から東駒仙丈両岳を観望す

白璧尖峰穿太空  白璧の尖峰 太空を穿(うが)ち
峨峨鶴翼孕清風  峨峨たる鶴翼は清風を孕(はら)む
寄岩独立飛雲処  岩に寄り独り立つ飛雲の処(ところ)
万壑千山一望中  万壑千山 一望の中(なか)


 投稿の作は、結句の韻に「望」か「朧」しか思いつかず、転句とあわせて夕景にしました。再投稿の推敲作では、井古綆さんから「一望中」という韻を含む句をいただき、最初の構想(この登山のときの短歌「北岳の山頂の岩にひとり立ち甲斐駒仙丈指呼の間に見る」)に沿った転句、結句にできました。
 なお、転句は偶然読んだ宋の陸游の詩句「攬衣独立鏡湖辺」を真似たものです。


2010. 4.18               by 小鮮





















 2010年の投稿詩 第113作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-113

  庚寅花茨忌        

十有二年年月驅   十有二年 年月駆け

白頭霜鬢嗄聲枯   白頭 霜鬢 嗄声枯る

花茨萬朶花相似   花茨 万朶 花相似たり

天地幽明汝與吾   天地幽明 汝と吾と

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

   花いばら干支一巡の忌日来る

 畏友S君と幽明を隔てて今年(庚寅)は早や十二年回忌、当方は今年喜寿、草臥れた風体は詠み込みたくないのだが、客観的描写(承句)は已む無しと言うことだろうか。

 「二年年月*」及び「花茨**花相*」と同字二度使用が気になっています。

<感想>

 転句の「花相似」は劉廷芝の詩「代悲白頭翁」にある「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」から持ってきていますので、「花は変わらずに咲く」ことと「人間は常に変化していく」ことの対比が表されています。
 「花相似」はそうした効果を狙った言葉ですので、「花茨」が別の言葉で表せないのだったら、同句内でもありますから、同字重出でも気にしなくても良いと思います。

 起句の「年」の重複は粗雑な印象がします。下三字を「歳月駆」とすれば収まるのですが、その場合に「四字目の孤平」になることを避けようとされたのでしょうか。
 「十有二年」を例えば「十二流年」「十二星霜」とすればどうでしょうか。


2010. 4. 6                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 鈴木先生の感想文に続きまして、愚見を申します。
本職の閑を縫ってのご指導有難うございます。
したがって急がれている文面がよく分かります。
先生に失礼ながら、筆を執りました。

    試作
  十二春秋倏忽驅   十二の春秋 倏忽(しゅっこつ)と駆け
  禿頭霜鬢嗄声枯   禿頭 霜鬢 嗄声枯
  今年亦迓花茨節   今年も亦迓ふ 花茨の節
  憶昔連綿枕上濡   憶昔 連綿 枕上濡れる


「春秋」: 本来ならば星霜とすべきが、次句に「霜鬢」があるため春秋とした。
「嗄」: は「枯」と重複するため変更するべき。白頭霜鬢では同じ表現。
※御作結句の「汝与吾」は是非とも必要ではない。

2010. 4. 7            by 井古綆



 私がお示しした「星霜」では、また「霜」が重複してしまいましたね。
 注意不足で失礼しました。
 井古綆さん、ご指摘とご配慮、ありがとうございます。

2010. 4. 7            by 桐山人

兼山さんからお返事をいただきました。

 毎度、丁寧な御指導を賜り、感謝致します。
井古綆先生にも御礼申し上げます。

 実は、横浜在住の旧友が所用で来福するというので、ついでに、少し早目の「庚寅花茨忌」を営むことに致しました。
 その折に拙作を披露する予定でしたので、タイミング良く、お二方からの御指導を頂戴出来たのも、仏の縁でしょうか。

 拙詩と併せて、獨吟歌仙(表6句)を披露する予定です。

     獨吟歌仙「花茨・その十」

   花いばら干支一巡の忌日來る

   七變化して華やぐ參道

   故郷は昭和と共に消え去りて

   画集に遺る月を待つ人

   無殘やな大温室の破芭蕉

   竹馬の友と飲む今年酒


今後とも、何卒、宜しく御願い致します。

2010. 4.12              by 兼山





















 2010年の投稿詩 第114作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-114

  悼M大兄        

死生一度莫相疑   死生一度 相疑ふこと莫かれ

今日何圖逝若斯   今日 何ぞ図らん 斯くの若く逝く

眷屬妻孥揮涕涙   眷屬 妻孥 涕涙を揮ふ

香煙香火恨無涯   香煙 香火 恨 涯無し

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

   磐が根の雪より白し死衣装

 故人の「M大兄」は同じ中学高校(修猷館)で私の一年先輩、元町内会長さんでした。
告別式に臨み、故人の名前にちなみ、万葉歌人「柿本人麻呂」の短歌を献吟しました。

  柿本朝臣人麻呂 石見の国に在りて死に臨む時に 自ら傷みて作れる歌

 鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ 万葉集(巻2‐223番)


 起句は、李白の「悲歌行」にある「死生一度人皆有 孤猿坐啼墳上月」を用いた。


<感想>

 承句は下三字の「逝若斯」「斯くの若く」が具体的にどんなことを指しているのか分かりません。「こんなに早く」なのか、「こんなに苦しんで」なのか、とにかく「こんなに○○だ」と示すところにこの詩の場合の特徴が表れるわけで、それが無いために、詩全体に具体性が欠落し、ありきたりの言葉が並んでいるだけという印象になっています。

 逆に言えば、「斯くの若く」が共感、共有できる人にとってはよく伝わる詩かもしれません。
 例えば、故人をよく知っている人たちばかりの告別式の場で詠んだならば、「このように」とのひと言が、逆に万感の思いを引き受けてまとめるような効果も出てきます。
 このように比喩や「あれ、これ」などの指示代名詞、固有名詞などを意図的に用いることで臨場感を出す技法は小説などではよく見られますし、詩でも同様です。ただし、ある程度は予測できるような言葉や伏線、つまり読者を導入する配慮は必要になります。広域性の強いインターネットですと、なおさらですね。

 なお、投稿詩では「M大兄」にはお名前が入っていたのですが、掲載の関係で直させていただきました。


2010. 4. 6                 by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第115作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-115

  石山寺        

高僧開祖歴千年   高僧の開祖 千年を歴て

閨秀藻翰名帖伝   閨秀の藻翰は 名帖を伝ふ

堂塔参差雑松樹   堂塔 参差 松樹に雑じり

賽人駱駅隠香煙   賽人 駱駅 香煙に隠る

琶湖縹渺蒼波静   琶湖 縹渺 蒼波静かに

秋月玲瓏白玉懸   秋月 玲瓏 白玉懸かる

清影一条昭濁世   清影 一条 濁世を昭(てら)し

俗身五戒絶塵縁   俗身 五戒 塵縁を絶す

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 2009年の投稿詩「遊石山寺」へのご高批ありがとうございました。先生のご指摘の通り題名のみで詩中に入れることが出来ませんでした。
 全対格にすることは文字の配置に余裕がなく、詩の内容を詩題に添うようにしました。

 このたび当詩を律詩にまとめました。前の詩題「遊」を削除しなければ詩意に齟齬があるように思いましたのでそのまま「石山寺」といたしました。


「高僧」: 良弁をさす
「閨秀」: 紫式部をさす
「藻翰」: はなやかで美しい文章
「名帖」: 源氏物語の「須磨の巻」をさす
「参差」: ちらばるさま

※「秋月」と「白玉」はダブります。白玉を碧落にすれば読み下しが「碧落に懸かる」となり迷うところです。
  先生のご教授をお願いいたします。 

<感想>

   首聯は、上句の「歴千年」と続けると、「良弁の開山から千年を経て紫式部が登場した」と読解するように思います。
 石山寺と言えば、紫式部が『源氏物語』を執筆した寺として知られていますので、そのことを寺の歴史の聯としてまとめようとした意図は分かります。「歴千年」を変更して首聯も対句に持っていくか、第二句には第四句のような内容を持ってきた方が良いでしょう。
 ついでに第四句では、「駱駅」は「絡繹」とした方が文字面も良いと思います。

 頸聯の「秋月」「白玉」は、更に次の「清影」にも重なりますので、避けるべきです。
 琵琶湖に月の光が漂って輝いていることをメインにするならば、「白玉」のかわりに「清影」を持ってきて尾聯を直すか、尾聯の月光に照らされて心が浄化される思いをメインにするならば「秋月玲瓏」を比良の山(で良かったでしょうか)の景にするのが良いと思います。


2010. 4.10                  by 桐山人



井古綆さんからお返事をいただきました。

ご高批ありがとうございました。
以下のように推敲いたしました。

ご指摘の「駱駅」は「絡繹」とともにマイ辞書に登録していましたが、選出が杜撰でした。
ありがとうございました。


    石山寺
  高僧吉夢開基杳   高僧の吉夢 開基杳(はるか)に
  閨秀藻翰名帖傳   閨秀の藻翰 名帖伝ふ
  堂塔参差雑松樹   堂塔 参差 松樹に雑じり
  賽人絡繹隠香煙   賽人 絡繹 香煙に隠る
  琶湖縹渺蒼波静   琶湖 縹渺 蒼波静かに
  比叡澄高明月懸   比叡 澄高 明月懸かる
  清影一条昭濁世   清影 一条 濁世を昭(てら)し
  俗身五戒絶塵縁   俗身 五戒 塵縁を絶す


「高僧吉夢」: 良弁が夢みたといわれる石山寺草創の縁起。
「明月」: 中秋の名月。


2010. 4.11             by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第116作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-116

  夜逢梅花     夜 梅花に逢ふ   

歸人夜闇中   帰人 夜闇の中

颯颯歩生風   颯颯 歩 風を生ず

何者牽吾意   何者ぞ 吾が意を牽くは

路傍一樹紅   路傍 一樹紅

          (上平声「一東」の押韻)


<解説>

 ある冬の夜、帰宅の道を急いでいたとき、ふと視界の端に紅い何かが見えました。足を停めて振り返ってみれば、紅梅が一本、暗闇の中にその姿を浮かび上がらせていました。
 このときの印象が強く残り、その光景のままに「路傍一樹紅」の5字を得ましたが、なかなか詩のかたちにはならず、さらにふた冬をかけて、現在の五絶にまとまりました。


 闇のなか家路いそげば
 サッサッと風の音だけ
 ふと人の気配と見れば
 かたわらに紅梅ひとつ


<感想>

 暗闇の中に一樹の紅梅、幻想的でややミステリアスな光景をどう詩で描くか、という点に苦心されたのだと思います。

 「帰人」とわざわざ説明を入れたり、逆に風は「寒風」とか「春風」とかでなく、「歩」が生む風だとした前半の日常性、対して転句のサスペンスタッチから結句の謎解きまでの緊張感、起句の「帰人」という客観表現と転句の「吾」の主観への変化、「物」ではなく「者」とした点など、細かいところまで意識された観水さんの丁寧さがよく伝わってきます。
 しかし、率直に言うと、その丁寧さが「あざとさ」につながるような、やや狙いすぎの感じが私にはあります。

 このままの詩ですと、読者が読んで感じるのは、作者の心を騒がせたものの正体がわかったという一つの事件であり、「梅の樹が在った」という事実の記録としての印象で終わってしまうのではないでしょうか。

 何故この梅が心に深く残ったのかという根本のところ、闇の暗黒と花の紅の対比、つまり梅そのものへの視点が無いため、「路傍一樹紅」の句から先に進めないのです。
 ただ、それは「解説」を拝見すると作者自身も同じ状態のようですから、苦しいところかもしれませんね。
五言絶句でもありますから、いっそ導入を省いて、闇夜の紅梅の幻想性に絞って描いていくのも一案かと思います。


2010. 4.12                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 観水さんが二年間も詩想を暖めていらっしゃったことは称賛にあたいすると思いました。
その心は大切だと感心いたします。

 起句にも韻を踏んでいるならば、七言にするほうが詩意を含め易いのではないかと思います。
詩の構成上、最も肝心な点は「香」を挿入していないことではないかと感じられます。

 作者一人では気がつかないこともあります。これを克服するのは熟読してみるしかないでしょう。
観水さんが暖めてこられました詩想とは異なるかもしれませんが、試作してみました。

    春宵
  春宵一刻寸筵終   春宵 一刻 寸筵終わり
  醉歩蹣跚醒軟風   酔歩 蹣跚まんさん 軟風に醒める
  誘引幽香歸繞道   幽香に誘引されて 繞道じょうどうを帰れば
  庭梅月夜萬枝紅   庭梅 月夜 万枝の紅

「蹣跚」: よろけるさま
「軟風」: 肌に心地よく感じる風
「繞道」: 回り道

 ※結句は楽天の長恨歌「雲鬢花顔金歩揺」をまねて名詞を三つ並べてみました。


2010. 4.14             by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第117作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-117

  懷春日水邊遊     春日水辺に遊びしを懐ふ   

少女來遊處   少女 来り遊ぶ処

喜心我亦同   喜心 我も亦た同じ

沾衣是春水   衣を沾らすは 是れ春水

吹髮是春風   髪を吹くは 是れ春風

          (上平声「一東」の押韻)


<解説>

 青春の日の思い出。
 早春の一日、水辺で彼女と二人戯れている場面を想像していただければ幸いです。

 春一番の暖かさに「吹髮是春風」を得、そこから過去の思い出の情景へとつながりました。

 [訳]
 戯れる彼女の姿
 見つめてる僕も楽しい
 もう水も冷たくないし
 吹きぬける風ははるかぜ

<感想>

 こちらの詩は、承句が下三字がどうもうるさいですね。眼前の少女にしろ、思い出の少女にしろ、水辺で戯れている姿の前に「我」は邪魔です。
 二人で居たという思い出の場面が大事だ、と言うのなら、後半を直す必要があります。

 転句を挟み平で持ってきたのは、結句との対句効果を重視したのでしょう。
 結句は、柔らかな髪を吹くのは柔らかな「春風」という組み合わせで良いのですが、転句は「春水」がベストなのか、どうでしょうか。


2010. 4.12                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第118作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-118

  自祝喜壽     自ら喜寿を祝す   

七十七齢天地心   七十七齢 天地の心

迎來壽域値千金   迎へ来る寿域 千金に値ふ

當知自是南山樂   当に知るべし 是れ自り 南山の楽

日夜謝恩閑獨吟   日夜 恩に謝し 閑に独り吟ず

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 私は今年喜寿を迎えます。
 決して熱心な仏教徒ではありませんが、自分の誕生日が偶々彼岸の中日なので、仏事には何かと因縁があります。

   彼岸来て値千金喜壽賜ふ

 神仏の加護に感謝する毎日を念願し、自分なりの漢詩を創っています。
「人間的無心と天地の心」と題する鈴木大拙師の説話があります。
「南山之壽」ならぬ「南山の楽」とは如何なる楽しみでしょうか。

<感想>

 兼山さんも喜寿ですか。
 昨年のサイト懇親会でお会いした時には、私はお姿を見て、六十代後半くらいかなと思っていました。また、お会いしたいですね。

 起句の「天地心」はここでは「天地の意思」という感じでしょうか。「喜寿を迎えて天地の真髄に触れた」と解釈すると、次の「寿域値千金」と暗に通じるようにも思います。

 転句は「南山楽」がはっきりとはわかりませんが、「南山」だけでも長寿を意味しますので、「人よりもうんと長生きをした人が味わえる楽しみ」ということでしょうか。
 「自是」「自(おの)づから是(これ)」と読んだ方がすっきりすると思いますが、「ここから」と強調するなら「従此」とするところでしょうか。

 結句の「謝恩」は、長生きできたことに感謝するという意味に取りますので、そうすると起句から読んできて繰り返しのような印象が出てしまいます。
 「独吟」以外の毎日の行為を何か入れるか、前半の感謝の気持ちを少し減らすかすると良いでしょう。

 ともあれ、喜寿をお迎えになり、お祝いを申し上げます。

2010. 4.12                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 玉作を拝見しました。

 率直に申し上げますと、玉作は俳句の影響でしょうか?
 管見ですが、御作の俳句では総てが完結しているため、それを起句承句で吟じられているように感じられます。 ですから、絶句自体が二分されているように感じられるのではないでしょうか。
 鈴木先生の感想もそれを指摘されているように思います。

 あくまで管見ですが起句承句の下三字「天地心・値千金」に問題があるように感じられます。
 兼山さんのお考えとは異なるかも知れませんが、その部分のみを推敲してみました。

起句   七十七齡重信心   七十七齡 信心を重ね
承句   迎來壽域感懐深   寿域を迎来すれば 感懐深し

 と、このように措辞すれば、「感懐深し」だけでは、詩意が完全ではなく、転句へ続けたい気持ちが発生するはずです。
 読者にもスムーズに詩意が伝わるのではないかと思いますがいかがでしょうか。


2010. 4.10             by 井古綆






















 2010年の投稿詩 第119作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-119

  小集会席上有感        

同志親情意気存   同志情を親しくして意気存す

成来新曲吐奇言   来りて新曲を成し奇言を吐く

数声大笑一燈下   数声大笑す 一灯の下

与友今宵共討論   友と今宵 共に討論す

          (上平声「十三元」の押韻)

<感想>

 親しい友人との集いでのお気持ちを詠ったものですね。

 楽聖さんの詩ですので、起句の「同志」も承句の「新曲」を見て「ああ、音楽の仲間の方達だな」と理解が進みますが、「同志」を「詩友」と読んでも通じるでしょう。
 ただ、「同志」と結句の「友」が重なっているのもやや気になるところです。
 承句の「成来」「来成」とするか、「持来」とした方が良いでしょう。

 転句は「数声」「一灯」の数詞の対応が場の盛り上がりをよく出していると思います。

 同じ志を持った仲間との宴は、時に議論や激論になることもあるでしょうが、楽しいものですよね。


2010. 4.20                  by 桐山人






















 2010年の投稿詩 第120作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2010-120

  述懐        

此意如今与世違   此の意如今世と違ひ

喧声逆耳事多非   喧声耳に逆ふ 事多く非なり

眼前現象何輕薄   眼前の現象 何ぞ軽薄

塵外逍遥脱俗機   塵外に逍遥 俗機を脱せん

          (上平声「五微」の押韻)



<感想>

 この詩に書かれている心情は、恐らく、古今東西の志有る若者がいつも抱き続けてきたもので、懐かしい思いで共感する方もいらっしゃることでしょう。

 起句と結句で主題は伝わってきますが、ポイントはやはり、そうした思いに至らせたものが何であるか、ということになります。
 この場合で言えば、承句転句の内容になりますので、「皆が大声で話していることを聞くと、何とも俗っぽく感じるから」ということなのでしょう。
 しかしながら、「塵外」に隠棲することはできないわけで、仮に周囲が軽いとしても、同調せずに自分のスタイルで行くしかないでしょう。ただ、「他人は他人、自分は自分」のあまり、孤立も辞さずという姿は私は痛々しくて見ていられません。
 孤立の方が動きやすいというタイプの人も中にはいるでしょうが、多くの場合(特に隠棲を願うような詩を書く人など)は、根底に世のため、人のために働きたい、という願望があり、他の人と力を合わせて事を成し遂げる喜びを知っている人です。
 自分の能力を認め、支えてくれる仲間と一緒に頑張りたいと思っているのに、それが達成できないから嘆くわけで、「他人なんか知るか」という人は嘆きなど最初から持ちはしないでしょう。

 現代の日本は、「個人主義」という名のもとに、実は個人が「孤立」していくことを容認する流れが加速しているような気がしています。
 でも、自分を隠したり飾ったりせずに、自分の求める環境、自分の好きなことをあっさりと晒してカミングアウトし、その上で仲間を作っていくと、軽薄に感じた人でも別の場面では頼りになる存在になるし、何よりも自分自身が頼りにされることが生まれるはずです。

 少しだけ人生の先輩として、感想を言わせてもらいました。
 頑張ってくださいよ。


2010. 5. 5                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 楽聖さんの玉作を拝見いたしました。

 漢詩の起承転結の基本的な形式には合致しているように感じました。個々については疑問点がありますが、不肖わたくしが楽聖さんの年齢に思いを馳せれば、時代の推移もありますが、自省して汗顔のいたりです。

 しかしながら、漢詩を学ぶ僅かばかりの年長者として、愚見を申し上げたいと思います。
 詩全体を見れば抽象的な詩語ばかりで、焦点がボヤケているように思います。

 起句に例をとれば「此意」と措辞すればこの句は承句になるような気がいたします。これを「衆口如今与世違」として具体的にすれば起句に変化するように思います。
 さすれば、承句の「喧声」の「声」が衆口の「口」とダブりますので「喧喧」とすれば解決するでしょう。

 転句は抽象的ではなく具体的な表現が良いのではないかと思い、ここまで筆を進めてきましたら、古希を過ぎた者としては、世情に思いを馳せて、楽聖さんの詩意に乖違すると思いますが、以下のようになりました。

 なお、何処かで申し上げましたが、平起こりの詩形にすれば、結句の韻字には熟語が多くあるので、作詩が容易にできると思います。


    試作
  衆口如今与世違   衆口 如今 世と違ひ
  喧喧逆耳事多非   喧々 耳に逆らふ 事多く非なり
  高挑友愛無深念   高く友愛を挑げるも 深念無く
  日本将来患式微   日本の将来 式微を患れふ

「式微」: 国勢などが甚だしく衰えること。


2010. 5. 9             by 井古綆


楽聖さんからお返事をいただきました。

 井古綆さん、いつもありがとうございます。

 いい助言で助かります。漢詩修行にはいいかもしれません。
少しずつ書いてはまた助言して頂けたらと思います。

 井古綆さんは古希ですか?私は年齢が半分ですね。
 漢詩は難しいのでまた助言お願いします。


2010. 5.21              by 楽聖