2005年の投稿詩 第121作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-121

  春夜        

點燈中夜勉   灯を点けて 中夜に勉め、

久去水山行   久しく水山の行を去る。

數學疑餘務   数学 余務を疑ひ、

文章怖理盲   文章 理盲を怖る。

暖風侵戸懶   暖風 戸を侵して懶く、

星影映槽清   星影 槽に映じて清し。

借問何無睡   借問す 何ぞ睡ること無きかと、

應縁玉鏡明   応に玉鏡の明らかなるに縁るべし。

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

灯をつけて夜遅くまで勉強し、
長い間野山の遊びから遠ざかっている。
数学ではやり残しがないかと疑い、
国語では文章の意味が通らないのでないかと怖れる。
生暖かい風が戸から入ってきて物憂げに、
星の光が水槽に投じて清い。
何で睡らずに勉強できるのか、
それはきっと月が明るく照っているからであろう。

 近況にかえて、昨夜詠みました。
 予備校や学校で忙しいですが、音楽と漢詩だけは暇を作ってやっています(笑)
 取り敢えず、大学では文学部か社会学部を目指して、日々励んでいます(いるつもりです)。
 国立大学は五教科七科目の導入に加え、目指している大学は、二次試験にも数学UBが必要とあって 結構厳しいですが、何とか合格できるように頑張ります!

<感想>

 この詩は、前作の「偶題」より先に掲載しなくてはいけなかったかもしれません。徐庶さんの近況報告ということですが、頑張っておられるのでしょうね。

 頸聯の具体的な生々しさは、こちらがつい緊張してしまう程です。また、尾聯の「何無睡」は、徐庶さんの胸の中のつぶやきのようで、「借問」の軽さが少し救いですが、「蛍雪の光」に更に月光を加えた強さで、あと半年を乗り切って下さい。

2005.10.13                 by 桐山人


「數學」「文章」は対句になるでしょうか。
 古人の詩には「文章」と「老病」の対句例があります。いずれも並列関係になります。文章は文と章 老病は老と病です。

2005.10.28                 by 道聴途説居士


徐庶さんから、推敲のお返事をいただきました。

 拙作「春夜」についてですが、道聴途説居士先生のご指摘に従って、
「數學」→「圖式」に改新致します。 意味の方も「数学では式や図に書き残しがないかと疑い」の方に更えたいと思います。

2005.12.26                 by 徐庶





















 2005年の投稿詩 第122作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-122

  植杏樹越智眼科     越智眼科に杏樹を植う   

科分国手各窮尋   科は国手を分けて各窮尋し、

眼病専門杏美林   眼病は専門の杏美林

智徳成蹊不其爾   智徳 みちを成すは其れのみにあらず

越泉布矣注仁心   泉布を越えて 仁心を注ぐ

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 私は昨年10月に白内障の手術を受けました。身障者ですのでお金はかからなかったので、お礼に拙詩を差し上げました。
 杏美林の美は、国手が起句にあるので、杏林は病院の意で美はその美人スタツフの意です。

<感想>

 井古綆さんは、今年度の多久市での漢詩コンテストに入選なさったそうです。おめでとうございます。表彰式でのことなど、またお教えください。楽しみですね。

 今年も夏の間入院なさっていたそうですね。大変な中での作詩だったのでしょうね。
 「泉布」「貨幣」のことですが、言わずもがなという感じも少ししますね。お礼の詩ということもあるのでしょうが、ご自身の気持ちが出てくると良いと思います。

2005.10.13                 by 桐山人


「越泉布矣注仁心」についてですが、近体詩の七言詩は二音節(二字)四拍子からなります。
越泉/布矣/注仁/心
 唯、魏晋以前の詩たとえば「近寒食兮草萋萋」等の例はありますが、近体詩である七言絶句からはなれます。
この場合の韻律的リズムは大変難しく、工夫がいります。
たとえば、上四字は(安定な)近/寒食/兮と切分音(シンコペーション)効果を期待すれば、下三句も(不安定な)草/萋萋と切分音にします。意味的リズムには近寒/食兮/草萋/萋(一音節休止)と明確に半拍子がずれています。
 拍節リズムをそのまま読めば、鮮明に切分音効果が得れます。近体詩である七言絶句は平仄の声律が確立していますので、そういった工夫は必要ありません

2005.10.28                 by 道聴途説居士





















 2005年の投稿詩 第123作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-123

  高山右近記念聖堂        

名利双全悩未央   名利双全 悩み未だ央きず

耶蘇高訓使人康   耶蘇の高訓 人をして康んぜしむ

突如籠鳥被刑網   突如 籠鳥 刑網を被り

不計池魚驚火殃   計らずも 池魚 火殃に驚く

煩悶権門也天主   煩悶す 権門か天主か

従容殉教与秋霜   従容たり 殉教と秋霜と

曾遷異国完操節   曾つて異国に遷し 操節を完うし

聖者今還此聖堂   聖者は今此の聖堂に還りたり

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 この聖堂は大阪府高槻市にあります。彼は信仰さえ捨てたならば明石の城主として、生涯安穏に過ごせたものを、あえてクリスチャンのみちをえらび、従容としてマニラで一生をおえたと伝えられています。
 私は彼の信仰による精神力の強さに感動をおぼえ此れを作りました。

<感想>

 高山右近を始めとする戦国末期のクリスチャンは、掌を簡単に覆すような権力者の政治的意図により、受難の苦しみを味わったのはよく知られていることです。
 三浦綾子さんの「千利休とその妻たち」は、そうした側面から時代の波の中を生きた千利休の人生を描いた小説でした。殉教と女性の人生という二つは三浦さんの作家としての重要な視点ですが、その明確さが強く印象に残る作品でした。
 井古綆さんの今回の詩でも、殉教の士としての高山右近をとらえ、彼の生き様を感じさせる内容になっていますね。頷聯の比喩がやや分かりにくいと思います。ここは、詩としては展開するところですので、丁寧に導入すると読者も分かりやすいように思います。

2005.10.20                 by 桐山人


読者の方からご指摘がありましたが、尾聯上句の「操」は、「みさお」の意味では仄声になりますので、「二六対」が崩れています。確認をして下さい。


井古綆さんから、七句目の訂正をいただきました。

「操」を「貞」に変え「貞節をまっとうす」に致します。ご高批有難うございました。

2005.10.22                 by 井古綆





















 2005年の投稿詩 第124作は 一人 土也 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-124

  山中蒲公英     山中の蒲公英   

幾十黄花立,   幾十の黄花立ち、

何千碧樹繁。   何千の碧樹繁し。

乱山天地濶,   乱山 天地濶く、

流絖趁風翻。   流絖 風を趁って翻る。

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 幾十もの黄花が立ち、
 何千の碧樹が繁る。
 乱れたつ山、天地はひろく、
 流れるたんぽぽのわたは風を追って翻る。


<感想>

 広い高原に咲き誇るようなタンポポの黄色い花、周りの青々とした木々との色の対比も鮮やかで、爽やかな気持ちになったのでしょうね。

 後半の景の広がりから行くと、起句の「幾十」は、もう一桁多く描いても誇張感はないように感じます。やや遠慮がちではないでしょうか。
  幾百黄花立
  何千碧樹繁

と並べると、ちょうどバランスが良いと思いますよ。

 結句に「流絖」を置いて、タンポポの白い綿毛が風に飛ぶ様を描いたことは、色彩の広がり、時間の推移などを感じさせる工夫がこめられているのでしょう。
 前半の対句による絵画的な描写と、後半の映像的な表現、バランスのとれた詩になっていると思います。

2005.10.20                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第125作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-125

  傍病父     病父に傍う   

秩父連山一碧遐   秩父連山は一碧にして遐(とお)く

雪冠富士更遙霞   雪冠の富士は更に遙かに霞む

老翁病院在三日   老翁病院に在ること三日

故里風光見傍爺   故里の風光 爺(ちち)に傍いて見る

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 父が生体検査のため4日間入院した埼玉県西部の市民病院は小高い丘の上にあり、快晴だった入院当日、青く連なる秩父連山とその後方に雪冠の富士山が霞んで見えた。
父の車椅子を暫く停めて、その光景を父に指さして示しながら暫く眺め入った。

<感想>

 お父さんは九十五歳ということでしたか。「傍病父」という題名からは重いものを感じますが、詩は穏やかな光景となっていて、ほっとします。
 作者の、お父さんへの温かなお気持ちが感じられます。
 固有名詞である「秩父連山」「富士」が起句と承句に入っていて、これはどちらかを普通名詞にすべきでしょう。
 また、結句の「爺」「父親、祖父」という意味の他にも「年長者」という意味を持っていますので、転句の「老翁」と重なるでしょう。結句の下三字は語順としても不自然です(本来ならば、「傍爺見」とすべきでしょう)ので、結句を推敲されるとよいでしょうね。


2005.10.21                 by 桐山人


 ドラマのシーンを思わせるというと俗なようですが、イメージ豊かな詩ですね。語法はともかく結句の「故里風光爺に傍いて見る」はぴたっと決まった表現に思えます。

 鈴木先生は、起句、承句の固有名詞の重なりを指摘しておられますが、故郷の山河の固有名詞、遠く望む富士山、どちらも捨てがたいところです。関東平野では、富士山が見えるというのはそれだけで晴れて空気が澄んだ日のイメージを呼び起こしますし。
 秩父は「父」の字があるので、「爺」の字を用いなければならないのが難点かもしれません。「爺」を韻字にするのがちょっと無理筋かと思います。「霞」を「霞む」と読むのは和臭かなとも思います。本来は朝焼けとか夕焼けとかを指す字ですよね。「彩霞」のように。
 「秩父」は「武甲」に変えられないかしら。方角が違って富士山がその先に見えなくなると困るのですが。「富士」は「蓮峯」みたいな漢語にするほうが漢詩らしいけど、作品のリアリズムは日本語を要求しているのかもしれません。
 「見●傍○爺○」は「傍○父●望○」にして韻を変えたらと思いますが、「望」は陽韻で「傍」が冒韻になりますね。これだから漢詩は難しい。「与」や「共」より、なんとなく「傍」という字がいいなあ。

2005.11. 3                  by 逸爾散士























 2005年の投稿詩 第126作は 庵仙 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-126

  捨松舞鹿鳴館     捨松 鹿鳴館に舞ふ   

渡航海外捨松知   海外に渡航す 捨松の知、

克服苦難帰国時   苦難を克服し 帰国の時。

華麗起風鹿鳴館   華麗に 風を起こす 鹿鳴館、

才媛遍発勝西施   才媛 遍ねく発し 西施に勝る。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 先日、会津若松へ行って来ました。
「捨松」は日本の女性で最初の留学生ということはご存じと思いますが、若松市内で生まれました。戊申の役で落城の時、城に籠もったこともありました。
 また、敵将の大山巌と結婚し生涯は波乱に富んでいました。
 鹿鳴館での舞を題にしました。兄は山川健次郎です。2部連作です。
作中の「西施」はもちろん中国の春秋時代の美女です。「西施に勝る」としました。

<感想>

 平仄の確認をまずしておきましょう。
 承句の「苦難」は、このように「苦しむ」意味の時には仄声(「悩む・むずかしい」の時は平声)になりますので、ここは不適切です。
 また、転句で「二六対」が破れている点は「挟み平(●○●を○●●とみなす)ということでよいのですが、その結果、「四字目の孤平」が起きてしまってはいけません。「興風」などのように、三字目を平声にしておかねばなりません。
 結句の「媛」の字も、「美女・姫」の意味の時には仄声です。
 (参考までに、「勝」「まさる・勝つ」意の時は仄声、「たえる」の時は平声ですので、ここでは仄声の用法で問題ありません)

 さて、会津若松におでかけになった折の作ということですので、なるほど、とは思いますが、「西施に勝る」は随分思い切った表現です。西施は中国三大美女の一人ですので、そこまで言って良いかしら、それよりも、そうした歴史上の人物との比較は避けるのが一般的ですから、そうなると、ここは反語的な表現で、実はけなしているのかとも思われますので、誉めるのはむずかしいですね。

 起句は、結局は「捨松知」が主語になるのでしょうが、「知」が「渡航」するというのも分かりにくいでしょう。また、「捨松」という固有名詞も、詩全体とのバランスで見た時に、逆にイメージを壊していると思われます。題に用いてもいますので、ここは使わないようにした方が良いでしょう。

2005.10.21                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第127作も 庵仙 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-127

  讃山川健次郎功労     山川健次郎の功労を讃ず   

山川十五免参軍   山川 十五にして 参軍を免がる、

反意傷心離戦雲   意に反し 心を傷め 戦雲を離るる。

登詰昌平総長座   昌平総長の座に登り詰め、

救済国難値奇勲   国難を救済す 奇勲に値(あた)る。

          (上平声「十二文」の押韻)

<解説>

 15歳だったために残念ながら、16歳以上で編成する白虎隊に参加できず、傷心の戦線離脱である。
 その後昌平黌総長まで昇進し、敗戦した会津藩の苦しい情況を世に知らせ、その功績は大きかった。日本最初の女子留学生・捨松の兄である。

 転句の下3語は○●●であるが、このときに限り●○●が許されると思いそうしてしまったが、正しいかどうかは不明。ご教授願いたい。

<感想>

 こちらの詩も、前作と共通するようなところになりますが、幾つか気になります。
 第一は、起句の「山川」です。これは個人の名前、つまり固有名詞として使われているのですが、一般名詞としても「山川」という言葉があります。となると、読者はこの言葉を読んでもすぐに「山川という名前の人が十五歳の時に」との意味だとは思えず、まず初めには「山と川が十五・・・・??」と読んでしまい、話が分からなくなります。
 漢字は一つ一つが意味を持っているために、固有名詞であっても詩の中に使う時には、字本来の意味が働いてしまいます。そのことが詩を生かす時もあれば、詩のイメージを壊してしまうこともあります。
 今回の詩の場合には、壊すとまでは行きませんが、読者に不必要な迷いを与えてしまうのは良くないでしょう。

 転句の下三字の挟み平については、仰る通りです。ただし、今回の場合には、「長」が仄声の用法です(「長い」の意味なら平声)ので、「二六対」は破れていません。(但し、「下三仄」になっています)

 結句の「難」についても、前作に説明した通りで、ここでは仄声になっていますから、確認が必要でしょう。

2005.10.21                 by 桐山人


逸爾散士さんから感想をいただきました。
 山川健次郎の功績を讃えた詩、郷土の先人への思いと歴史への懐旧を併せて、漢詩らしい題材と思います。
 ただ、詩の段取り、構成がぼやけた感じ。なにか説明調にも思えます。

 詩題にいう「功労」は、会津の敗戦後の苦難を広く知らしめたことなのでしょうか。昌平黌総長に就任したことなのか、よくわかりません。
 「登り詰める」というのは和臭に感じますが、それよりも転句の内容を言う意味があるのか疑問です。あるいはそうして出世して、国難を救ったのが偉いということかしらん。この場合の「国難」は会津地方のこと?
 普通は日本全体を考えてしまいそう。詩の上だけでそうとれるか曖昧です。
 「昌平総長の座に登り詰め、国難を救済す」と結句の半ばまで続いて、そこで切れて、それが奇勲だ、というのも「句割れ」みたいでなんか形が悪い。

 前半、「紅顔十五不加軍、白虎朋兄悉化墳」のように事情を説明しておいて、後年、会津の立場あるいは不遇、窮状を「文」を持って明らかにしたというように構成するのがいいかなと思います。(「名分」の場合、「分」は仄字とこのHPの韻・平仄調べに出ていました。残念ながら韻字にできませんね)昌平総長云々は意味があるのかなあ。

 個人的には「参軍」というと中国の官名かなと思うし、「戦雲」というのは個別の戦闘行為より、もっと広く戦争のことをさすように思えます。

 山川健次郎の功績がなんなのか、はっきり伝わるかどうかがポイントですね。作者が先人の何に感謝し讃えているかということですから。そう考えると昌平総長になったなどは枝葉末節ですので「栄達」の一語で片付け、「国難を救済す」にあたるのが何かを明らかにするのがいいかと思います。

 蛇足 私は東京生まれです。「讃岐様」に御殿奉公したのが誇りという祖母を持つ祖母のもとで育ちました。徳川家(トクセンケ)のほうが天皇家より偉いとどこかで思っている(半分ギャグです)ので、戊辰戦争では官軍を面憎く思う意識があります。こういう題材には共感を覚えます。

2005.10.23                     by 逸爾散士



 庵仙さんから「結句の『難』は仄声で良いのではないか」とのお手紙をいただきました。
 仰るとおりで、ここは仄声として読みますね。二字目の「済」が仄声だったため、二四不同を勘違いしてました。二字目を平声にしなくてはいけませんでした。
2006. 2. 4                by 桐山人




















 2005年の投稿詩 第128作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-128

  iraq     イラク   

人戦硝煙血染沙   人は硝煙に戦ひ 血は沙を染む、

狂狼跋扈阻平和   狂浪跋扈 平和を阻む

千思万考無良策   千思万考 良策無く、

何日高吟撃壌歌   何れの日にか高吟せん 撃壌の歌

          (下平声「六麻」・下平声「五歌」通韻)

<感想>

 結句「撃壌歌」は、漢文の方では曽先之の『十八史略』に載せられた堯舜説話の中での、「鼓腹撃壌」のことを指してのものです。
 概略を示しますと、

 古代、堯帝は天下を治めること五十年、世の中がうまく治まっているのかどうか、多くの人民が自分を統治者として望んでいるのかどうかを知りたくて、身をやつして町に出かけてみました。
 街角で童謡が聞こえてきました。

   立我烝民   我が烝民を立つるは
   莫匪爾極   なんぢの極にあらざる
   不識不知   らず知らず
   順帝之則   帝ののりに順ふ

 簡単に訳しますと、「私たち多くの人民がこうして暮らせるのは、本当にあなた(帝)のおかげです。知らず知らずのうちに、帝のお決めになったことに従っています」ということです。

 また暫く行くと、一人の老人が口に食べ物を頬張り、「鼓腹撃壌」(腹を鼓打って、地面を踏んで踊りながら)して、こう歌っていました。

   日出而作    日出でて作し
   日入而息    日入りてそく
   鑿井而飲    井をうがちて飲み
   畊田而食    田をたがやして食ふ
   帝力何有於我哉 帝力 何ぞ我に有らんや

 こちらも訳しますと、「朝になれば仕事をし、夕べになれば休息をする。自分で井戸を掘っては水を飲み、自分で田を耕しては飯を食う。帝のお力なんぞ、儂には関係ないね」

 この老人の歌は、意味の上では、帝に対して何の恩も感じていないものとなるのですが、これは「無為の治」と言われることで、「人民から天子の存在を意識されないような政治」こそが理想の政治と考えられているのです。
 水や空気は、その存在や恩恵を意識することは普段ありません。もし感じることがあるとすれば、それは水や空気が不足した時になります。この老人が帝の恩恵を感じていないということは、逆に言えば、不足を感じてもいないのであり、それは満たされた生活を送っていることでもあります。

 イラクの状況を遠く思いつつ、この「撃壌歌」を引用された井古綆さんのお気持ちがよく伝わる詩ですね。

2005.10.27                 by 桐山人


「千思万考無良策」についてですが、
「思」の平仄は名詞では仄用、動詞では平用になります。唯、文脈からでも、どちらともとれる場合があり、曖昧なところがあります。
 便宜上両韻にするとことわっている本もありますが、少し乱暴だとおもいます。古人の詩からの作例では、あきらかに名詞用法では明きらかに仄用です。
 この「千思万考」の場合もあきらかに名詞用法でありますので、仄用かとおもいますがどうでしょうか。

2005.10.28                 by 道聴途説居士


井古綆さんからのお手紙です。

 道聴途説居士さんよりご高批を頂き有難うございました。
 仰るとおり私も迷いました。申すまでも無く、「千思万考」は「千万」「思考」の互文です。
 「思」の平韻は「おもう。かんがえる」の動詞です。「思考」の意味には「かんがえる。かんがえ」とありました。それで私は「千回思っても、万回考えても」と解釈して「千思万考」としました。他に良い詩句を探せなかったので、膾炙されているこの熟語を使用しました。
 拙詩に慧眼を留めて頂き有難うございました。

2005.11. 4                 by 井古綆



 鮟鱇です。
 井古綆さんの「iraq」の感想で、道聴途説居士さんは、「思」を「便宜上両韻にする」は「少し乱暴だ」と書かれていますが、わたしもそのとおりだと思います。道聴途説居士さんは漢詩の作り方に深い造詣がある方のようで勉強になります。
 ただ、ご指摘の「千思万考無良策」の「思」を名詞と読むか動詞と読むかは、議論のあるところです。井古綆さんご自身がどちらのつもりで書かれたかはわかりませんし、井古綆さんの読み下しがどうであるかはともかく、わたしには動詞として読むべきと思います。日本語で読む場合は「千思万考(せんしばんこう)良策なし」が語呂がよいのですが、意味は、「千たび思い万ずに考えるも良策なし」となると思います。

 現代韻の韻書である「詩韻新篇」は、道聴途説居士のおっしゃるとおり、「思」を両韻とはしていません。そして「三思」などは平韻として扱い、「詩思」「春思」などは仄韻となっています。「三思」は「みっつの思い」ではなく、「三たび思う」だからであり、「詩思」は「詩に思う」ではなく「詩の思い」、「春思」は「春に思う」ではなく「春の思い」だからです。
 また、「千思万考」から思い浮かぶ言葉に、「左思右考」という言葉があります。これは漢和辞典に載っているもので、出典は不明ですが、あれこれ考えるという意味、「左の思いと右の考え」という意味ではなく、「左に思い、右に考える」という意味であり、動詞性の四字成語です。四字成語というと日本語の文脈ではすべて名詞のようになってしまいますが、それが動詞のように機能するものか、形容詞のように機能するものか、あるいは名詞のように機能するものか、注意が必要だと思います。
「千思万考」は、わたしには動詞性のものとして、機能していると思います。

2005.11. 8                  by 鮟鱇


 逸爾散士です。

 「思」は「支」韻と「ゥ」韻と『詩韻含英異同辨』に載っていますね。
 動詞性と名詞性という鮟鱇先生の説明はわかるのですが、「相思」のような名詞で使っているものも平用していますよね。「相思う」からでしょうけど…。『詩韻含英異同辨』には「妙思」「幽思」などは平仄、「支」韻、「ゥ」韻の両方に出ていました。「巧思」は「ゥ」韻の方には返り点がついて載っています。
「追思」という語は平字で出ていました。実はこの「追思」を仄字で使えるとわたしとしては嬉しいのですが。

 漢詩を作り始めてそんなにたっていない頃に以下の仄韻の詩を作りました。仄韻というか、奇数句は「支」、偶数句は「ゥ」を使って言葉遊びで韻を踏んだのです。ヨーロッパの言語は知らず、交互の韻は漢詩ではないのでしょうねえ。内容はロマンティックなものを目指したけど構成、措辞はやはり初心だから幼稚。詩題は『春にして君を離れ』というメアリ・ウェスマコット(アガサ・クリスティ)の小説名をイメージ。真ん中の対句に前後を無理やり付けたのは、みえみえですねえ。
 習作の上に遊戯的なものだから、投稿詩ではなくここに記します。

  於春別離君
 初遇慕姱姿  相聞憶姓字
 柳萌為別離  花落留追思
 嫩草素粧肌  露珠当夜涙
 心差何以知  終夜更無寐


めぐりあって美しい姿を慕い 聞き知って姓名を憶えた
柳の萌える頃に別れ、花は落ちて思い出をとどめる
若草は薄化粧の肌 おく露はあの夜の涙
心たがうのをどうやって知るのか 夜もすがらい寝られず

 というわけで、「追思」が名詞性だと好都合なんですけど…。
 だめでしょうね。(がっかり)

2005.11.27                  by 逸爾散士






















 2005年の投稿詩 第129作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-129

  五月        

杜鵑花赤詰朝林   杜鵑の花は赤し 詰朝の林

楓樹葉青薫夕森   楓樹の葉は青し 薫夕の森

精気蒸蒸盈地処   精気蒸蒸として 地に盈つる処

欲然亦是少年心   然えんと欲するは 亦た是れ 少年の心

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 (語注)
詰朝=早朝

<感想>

 前半の対句によって、初夏の景を広く描き、そこから得た感懐を後半で展開する構成になっていますね。
 結句の「欲然」は、杜甫の「絶句」を連想させます。杜甫の詩では、青い山と燃えるような赤い花を描いた後で、急転、「今春看又過 何日是帰年」と望郷の思いへと進んでいくのですが、柳田さんは「精気」に満ちた季節感からそのまま、「少年心」へと流れていきます。
 色鮮やかな花や万緑の木々の中で、私の心も若々しくエネルギーに満ちあふれているぞ、という気概が伝わってくるのは、「亦」の字がよく働いているからでしょうね。
 さて、この詩を、実際に若い世代の人が詠んだものと見るならば文字面通りの解釈で良いのでしょうが、ある程度年齢を重ねた方の作品だとして見ると、単なる青春賛歌では済まなくなります。いつまでも若さを失わない、今でも少年の(ような)心を胸の中で生き生きと燃やしている、そんな作者の思いが感じられるます。

2005.10.27                 by 桐山人


 措辞がどうしても林をもちいなければならないのであれば、しかたがないのですが、前対格であれば、踏落ししたほうが声律上(シンメトリー)では優れているとおもいます。
 また、「楓樹葉青薫夕森」での「森」の用法では、和習になります。

2005.10.28                 by 道聴途説居士





















 2005年の投稿詩 第130作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-130

  出遊探詩        

閑出村閭夏葉初   閑に村閭を出づ 夏葉の初め

依然景物意舒舒   依然たり景物 意舒舒たり

挟書扶杖散行穏   書を挟み杖に扶けられて 散行穏に

摘句負嚢吟歩徐   句を摘み嚢を負って 吟歩徐なり

林下回頭熟盧橘   林下頭を回せば 盧橘熟し

池辺得趣淨芙渠   池辺趣を得しは 芙渠の淨きを

空甘遊手過慵裏   空しく遊手に甘んじて 慵裏に過し

羞分詩淫與世疎   羞らくは詩淫を分として 世と疎なり

          (上平声「六魚」の押韻)

<解説>

 遊手は今でいうニートでしょうか。

 菅廟吟社の席題です。
 韻牌は魚韻でした。作詩は25分で推敲に5分をかけ、30分で作詩して、提出しました。今までの最速記録です。
 5句目の「盧橘」は原作は「楊柳」でしたが、宿題で措辞が重複しましたので、帰宅後訂正しました。
 早く作るのは自慢出来ることではありませんが、古人もこのくらいの早さで作っていたとおもいますので、今回は頂いた韻も険韻でなかったため、意識して、古人に挑戦しました。内容もそんなに悪くは無いとおもっています。

<感想>

 この詩は、謝斧さんが歩いていると見ていましたので、とてもよく分かるのですが、解説でお書きになったような「ニート」と言われると、現代の若者のことかと思い、おやっと感じてしまいました。
 言葉に対するイメージの問題かもしれませんけどね。

 結句は「羞」が良いのでしょうか。私は「矜」「誇」の方がすっきりするような気がしましたが。

2005.11. 1                 by 桐山人


謝斧さんからお返事をいただきました。

「羞」は唐以後の俗語で、意味は「慚愧」などとおなじで、「ありがたく思っています」との意味です。

   空甘遊手過慵裏   空しく遊手に甘んじて 慵裏に過し
   羞分詩淫與世疎   羞らくは詩淫を分として 世と疎なり

 世の中に何の役にも立てずに、世の中の事などには気にせず、詩ばかりに耽っている、怠け者である私でも天は許して下さって、多少面はゆいこともありますが、ありがたく思っています。との意味です

2005.11. 4                 by 謝斧





















 2005年の投稿詩 第131作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-131

  北条市議会文教厚生委員会北海道行政視察随行書感(一)        

秀逸選良情未休   秀逸選良 情(こころ)未だ休まず

提携決眥北邦周   提携眥を決して 北邦を周る

生涯学習民生要   生涯学習は民生の要

新市将来必有酬   新市の将来 必ず酬ゆる有らん

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 平成17年元日松山市、北条市、中島町は合併して四国初の50万都市「新松山市」として再出発を切りました。
 我が北条市役所も職員が激減され、大半が県都・松山市役所へ配置換えとなりました。職場環境や決裁・PCの扱いなど全てが松山方式に統一され、半年間が過ぎました。
 ただただ3万北条市民の幸せと北条地域の更なる発展を期待しながら‥それぞれが職責を全うするのみです。

 この詩はまだ北条市が存していた昨年秋、生涯学習の先進地である北海道千歳市へ議員に随行して行政視察に行った時の気持ちを詠んだものです。わずか半年前のことですが私にははるか昔のことのようにさえ思えてくるのです。

<感想>

 北条市という名も消えてしまったのですね。平成の大合併は全国に広がったのですが、様々な思いがよぎることだと思います。
 新しい枠組みの中ではご苦労も多いことでしょうが、「ただただ3万北条市民の幸せと北条地域の更なる発展を期待しながら‥それぞれが職責を全うするのみです」のお言葉が何よりの希望ですね。

 起句の「休」は、読み下しでは「やすむ」と訓まれていますが、「やすまる」の意味の方が良いでしょう。読み下しは従って、「未だ休まらず」となります。
 後半の二句は、表現がストレートですので、もう少しこなれてほしいところですが、この「行政視察随行」の記録という意味ではこうあるべきかもしれませんね。

2005.11. 1                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第132作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-132

  北条市議会文教厚生委員会北海道行政視察随行書感(二)        

随行議員訪蝦夷   議員に随行して蝦夷を訪ふ

十勝連峰白雪滋   十勝連峰白雪滋し

無奈胸中封市近   無奈(いかんともするなし)胸中 市を封ずる近し

尚存気概夢駆時   尚気概を存して夢駆するの時

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 手前味噌かもしれませんが、立派な市議会議員さんたちと仕事をさせていただき感謝しています。

<感想>

 私は正直なところ、一連の市町村合併の意味がよく分からないのです。新聞から知る範囲のことしか知識がなく、財政的な側面での合併ということばかりが報道されているせいか、どうも釈然としないのです。
 戦後の貧しさから六十年、私たちの生活は比較をするならば随分豊かになったように思うのですが、自分の住む町は大きな町と合併をしなくては成り立っていかないほどの貧しさのままなのだろうか、と寂しい思いになるのです。
 サラリーマン金太郎さんの転句、「無奈胸中封市近」という言葉には、身に迫る感慨があります。それでも、尚、「気概を存して」生活していかなくてはいけない、その気持ちに対して承句の「十勝連峰白雪滋」の景の対応が生きていると思いました。

 承句の四字目、「員」は「下平声一先」の平声ですので、平仄が合いません。わざわざ「随行議員」と説明する必要もないでしょう(題だけでも十分ですね)し、ここは直した方が良いでしょう。

2005.11. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第133作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-133

  六十三翁書懐        

老来多患自昏昏   老い来たりて 患ひ多く 自づから昏昏たり

頃日傾杯独閉門   頃日 杯を傾け 独り門を閉づ

静裡荷田揺翠葉   静裡 荷田 翠葉揺れ

雨中堤柳暗江村   雨中 堤柳 江村暗し

一生泡影無名利   一生 泡影 名利無く

半夜枕肱留涙痕   半夜 枕肱 涙痕を留む

但有四時風物好   但 四時風物 好有り

牀前以酔濁醪樽   牀前 以って酔はん 濁醪の樽

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 久しぶりに投稿させて頂きます。皆さんの力作に及ぶべくも有りませんが宜しくお願いいたします。

 歳を重ねる度に自らの来し方を振り返ってみるのですが、何となく悔いが残る物を感じます。そうかと言って取り戻す術も無く、又、今の自分に不満なのかと言えばそうでもない。何か複雑なものを感じています。

<感想>

 真瑞庵さんからの投稿も久しぶり。お元気でいらっしゃっるようですね。

 頷聯、頸聯の対句については、語句の対応に気になるところ(「揺翠葉」「暗江村」「泡影」「枕肱」など)がありますが、後半の四句は味わいの深い、余韻の残る内容だと思いました。
 前半の緩やかな書き出しがあるおかげで後半の「留涙痕」も深く静かなものと感じられます。

2005.11. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第134作は 坂本 定洋 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-134

  和州伯母子嶽悲唱        

花告今生最後春   花は告ぐ 今生最後の春。

棄村行嶺二千人   村を棄て、嶺を行くの二千人。

聞聲顧徑顔皆涙   声を聞き徑を顧みれば顔、皆涙す。

百里連峰映白銀   百里の連峰、白銀に映ずるに。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 伯母子岳は標高1344メートル。高野山から和歌山、奈良の県境を南走する奥高野山系から東に分岐して伯母子山脈を成します。
 奥高野一の眺望を誇る山であり、特に東側の大嶺山脈を端から端まで一望できる様は圧巻です。
 現在は山頂周辺に遊歩道が整備されており、車でそこまで行くには大仕事ながら、歩く分には気楽に楽しめる山として人気があります。

 詩は、明治38年の大水害で壊滅した村の再建をあきらめ、北海道に移住すべく山を越えて行った十津川村の人々に思いを致して書いたものです。
 遊歩道には「泣き横手」と呼ばれるの巻き道部分がありますが、おそらくここで故郷の山々の見納めと観念したのかと思われます。

 題意の北海道移住の総勢は約二千人。四回に分けて行われたとの事で、一度に山を越えて行ったのは、ざっと「五百人」がより正確な所かと思われます。しかし、いずれにせよ尋常な数ではなく、詩の上でのことでもあり、二千人全員の思いを優先して書いてもお許しいただける範囲かと思っております。
 余計なことながら、詩は私の発病前夜とも言える時期の作です。何らかの予感が詩に反映されているのかも知れません。

<感想>

 132作のサラリーマン金太郎さんの詩でもそうですが、こうした詩では、描かれた景と作者の主題とがどのように合うかがポイントになります。明らかな叙景の詩ならば話は別なのですが。
 棄村の人々の心情と山に残る雪との対応は、無理が無く、特に「銀」の硬質な感じが、前途の艱難を暗示するようで、良い表現だと思いました。

 起句から順に、次第に村人たちの顔をクローズアップしてくる展開も、ドキュメンタリーの映像を見ているようです。
 結句の「百里」は、伯母子岳に居る村人からの距離(遠さ)を表していますね。現在の日本の単位で言えば五十キロ(漢詩では唐の時代の尺度で見ますので、「一里」は約五百メートルになります)ということですが、あまり実際の数字は考える必要はなく、「目に見える限りの遠さ」と思えば良いでしょう。
 ここは、起句の「花」「春」と対応する句ですので、「はるか遠くの山々にはまだ雪が残っている」と解釈することになりますね。

2005.11. 3                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第135作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2005-135

  朧月水仙     オボロヅキスイセン   

嫣然皓歯吐馨香   嫣然として皓歯 馨香を吐く

淪謫人間日月長   人間に淪謫せられて 日月長(ひさ)し

小園風起皺池面   小園 風 起こって 池面を皺よせば

仙子凌波舞翠裳   仙子 波を凌いで 翠裳を舞はす

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 「凌波仙子」:水仙の異称

 新聞で白鳥庭園に朧月水仙という水仙があると知り、今年、初めて見てきましたが花弁も花蕊も白一色、銀盞銀台の美しい水仙でした。
 それに感じて、こんな詩を書いてみました。尚、この水仙の名前はガリルが正しいようで、芳香の強い花です。

 「淪謫」は、咲く時を違えて咲かせた罪により天界から人間界に追放された百花仙子(水仙=凌波仙子はその一人)、即ち李汝珍の小説“鏡花縁”を典故にしていると云われれば否定の仕様もありませんが、私としては、水仙の可憐な姿を謫仙子と見立てて書いたつもりです。
 勿論、李汝珍の小説を意識していないと云えば嘘ですが。

<感想>

 「朧月水仙」という、聞くだけでうっとりするような名前の水仙ですが、Y.Tさんもメールに書いておられましたが、この名前ではインターネットで調べてもわかりませんでした。「ガリル(水仙)」で検索したら、分かりました。
 日本の水仙が亜種で、ガリル水仙が原種だとか。しかし、花の数が多いことと繁殖力が盛んなことが特徴だそうですから、実物は美しいのでしょうね。白鳥庭園は名古屋にありますから、私も来年は新聞をこまめにチェックして、見に行きたいものです。何月頃に咲くのでしょうか。

 その朧月水仙を仙女に見立てて、最後まで花だと明白に言わないところが、この詩の工夫ですね。我慢強くないと、こうした展開はできませんから、私のような辛抱弱いのはすぐに種明かししたくなってしまいます。
 その展開で言うならば、この詩を読んで頭に残るのは、起句・承句・結句で、妖艶優美な姿がはっきりと目に浮かぶようです。そう思ってみると、転句があまり働いていない・・・・、そんな気がします。役割がよく分からないというのか、次の結句の説明だけになっているようで、印象としては、「転結」ではなく「起承」に近いかな、と思います。
 推敲前に示された「風回故苑皺池面」でも、同じように感じますが、「風」と「皺池面」が付きすぎているのでしょうかね。

2005.11. 3                 by 桐山人