2002年の投稿漢詩 第181作は 赤間幸風 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-181

  題拉致被害者      拉致被害者に題す  

轗軻何限恨   轗軻(かんか) 何限(かげん)の恨み

千里幾辛酸   千里 幾辛酸

身世相思涙   身世 相思の涙

傷時徹肺肝   時を傷んで 肺肝に徹す

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 北朝鮮に拉致されて帰国した5人の方々の心情、ならびに家族の人々の思い、さらには拉致されていまだに消息不明の被害者ならびにその家族の方々の、やり場のない苦しみや無念の気持ち、そんなことを思いやって作ってみました。
 北朝鮮の不当なやり口には、憤りをおぼえずにはいられません。

 まだ駆け出しですので、先輩の皆様の作られた詩を感心しながら勉強させて頂いております。先生の貴重なご意見、アドバイスはとても参考になります。
 これからもずっと読みつづけて行きたいと思っております。

<感想>

 北朝鮮による拉致被害者の帰国に関しては、他の方からも詩をいただいています。次の祥苑さんの作品も同じ主題で書かれたものですね。

 起句の「轗軻」は、「道が平坦でないこと」から生まれた言葉ですから、「自分の思った通りにいかないので、不幸なこと」という意味で、不遇という感じで使うと思います。帰国された方達が国家の暴力によって人生が狂わされたことを不遇と言ってよいか、微妙なところでしょうが疑問に感じました。

 承句の「千里」は、距離の表現から時間的な遠さへと思いを広げ、生きた言葉だと思います。

 転句の「身世」は、「自分の人生」という意味だけでなく、「相手の思っての、人の一生」という意味もありますから、この場合は「被害に遭われた方の人生を思うと」ということになるのでしょう。

 四句を見渡すと、「何限恨」「辛酸」「相思涙」「傷時徹肺肝」と全てに似通った語句が使われていますので、意図的に畳みかけていくという効果もあるでしょうが、感情の行き詰りを感じます。
 少し視点を変えるようなこともお考えになるとどうでしょうか。

2002.11.30                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第182作は 祥苑 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-182

  拉致事件有感        

愛児拉致永年空   愛児 拉致 永年空し

難許北鮮冥霧濛   許し難き 北線 冥霧濛たり

一日千秋索安否   一日 千秋 安否をもとむに

老親慷慨恨何窮   老親の 慷慨 恨み何ぞ窮まらん

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 少し前になってしまいましたが首脳会談のおり、北朝鮮が出した安否情報が余りにも、酷い物であったので、つい自分が慷慨して、書いてしまい、こちらへ送ろうかどうかと迷っていました。

 お忙しいところを実に恐縮なのですが、お教え頂きたく存じます。
 私の前作「惜別」において、冒韻との指摘を頂きました。
 私の勉強不足のために申し訳ありませんが、何の故にか 「冒韻とは、転句に於いてのみ韻字の使用が駄目なのだ」と、思い込んでいました。
 冒韻についてお教え頂けますでしょうか。お願い致します。

<感想>

 祥苑さんの詩は、拉致被害者の日本の家族の視点から書かれたものですね。
 この詩も、転句の「一日千秋」の語が生きていて、家族の永年の苦しみや悲しみがよく表れていると思いました。
 承句の「許」は、ここでは「宥」「赦」の方が「罪を許せない」という意味がよく表れると思います。

 冒韻につきましては、厳禁と言われる場合もあれば、フリーパスの場合もあります。このホームページでは許容範囲は大きくしています。ただ、厳しく見る場合もあり、「不適格」と言われてしまうこともありますから、できれば避けた方が良い、というのが私の現在の立場です。
 同じ様なものとして、「平頭」(各句の頭が全て平字になっている)についても、ほとんどは現在では気にしない場合が多いと思います。このホームページでは指摘する場合もありますが、だからと言って間違いだというわけではありません。
 平仄は音律(リズム)だと私は思っています。単調な音律を避ける、という観点で種々の規則があるのでしょうが、それをどこで破格と画するかは作者と読者の関係だと思います。

 祥苑さんが「転句のみ許されない」というご理解は決して間違いではありません。同時に、「転句のみ許可」と言う方もいます。
 祥苑さんの「惜別」でもそうですが、冒韻については、句意と韻律の調整(優先順位)にあるのでしょう。「可能ならば・・・・」という但し書きをつけるべきだったと反省しています。

 99年の投稿詩の21作目、鮟鱇さんの 『春夜感傷』 の所にも書いておきましたので、ご覧下さい。

2002.11.30                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第183作は 海山人 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-183

  海意        

何知魚噪晨、   何ぞ知る 魚噪ぐ晨

釣舸白鴎意。   釣舸 白鴎の意

不動大風吹、   不動 大風吹く

沈沙無一事。   沈沙 一事無し

          (去声「四ゥ」の押韻)

<解説>

 久しぶりに定格の五絶ができましたので投稿させていただきます。
やや五言のリズムを忘れた節もございますが仄声、押韻ともどもご容赦ください。

 [語釈]
 「晨」:朝。
 「舸」:ふね。

<感想>

 海山人さんの含蓄の多い詩は、五言になると更に面白さを増しますね。

 今回の詩も、「ひさしぶり」とのことですが、前半などは風格を感じる句になっていると思いました。
 後半は、「大風吹」「無一事」の対比が生きて、躍動感が詩に出ているように感じます。その分、言葉のつながりに安定感が不足し、ややバタバタした収束になったかもしれません。

 しかし、茫洋と広がる海原と、そこにとけ込むような詩人の姿が目に浮かび、余韻を感じさせる仕上がりだと思います。

2002.11.30                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第184作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-184

  偶懐        

顛狂応笑萍蓬癖   顛狂 応に笑うべし 萍蓬の癖

放埒無依孔孟倫   放埒 依る無し 孔孟の倫

愛水潜虚例多古   水を愛して 虚に潜みしは 例古より多く

楽山不徳逆非真   山を楽しむも 不徳 逆は真に非ず

壑峰只管嶮岨冒   壑峰 只管 嶮岨を冒し

身体尋常傷毀馴   身体 尋常 傷毀に馴る

寧望耄昏長市隅   寧んぞ望まん 耄昏 市隅に長うるを

可也骸骨曝渓瀕   可なり 骸骨 渓瀕に曝すとも

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 ちょっと表現が過激になりましたし、いつも危険なところばかり行っているわけでもないので誇張が入っております。

   ふらふらともの狂いのように一人旅に出かけるのは我ながら可笑しく、
   だらしない性格で、孔子や孟子の教えは敬遠している。
   山水を愛していて、行方を絶った人は昔から沢山いるし、
   徳者楽山(論語)と言うが、逆は必ずしも真ではない。
   谷や峰はひたすらに険しいところに挑み、
   親不孝なことに、身体には生傷が絶えない。
   どうして、町の片隅で生きながらえて「恍惚の人」となることを望もうか、
   いいじゃないか、山の谷間に屍を曝すことになっても。


<感想>

 近体詩としては、平仄の点で、三句(六字目の平)、七句(四字目の孤平・七字目の平)、八句(二字目の仄)が破格になりますので古詩と見るのでしょうが、対句の扱いなどやや曖昧な気もしますね。

 内容としては、力強い印象で、これは禿羊さんの若々しい行動力が生み出しているものだと思います。最終句の「可也骸骨曝渓瀕」は、まさに面目躍如というところですね。
 畳みかけるような勢いがあり、作詩を重ねられて、表現することに習熟なさった感があります。その分、更に言葉への思いやりを大切にして行かれれば、良い作品をどんどん作られると期待しています。

 この詩では、禿羊さんの意気軒昂な熟年パワーを感じました。

2002.11.30                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第185作は 謙岳 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-185

  日光東照宮        

莊嚴玉殿耀朝暾   荘厳の玉殿 朝暾に耀き

~域鬱蒼杉樹繁   神域鬱蒼として 杉樹繁る

絢爛朱樓觀不飽   絢爛たる朱楼 観れども飽きず

陽門半過既黄昏   陽門 半ば過ぎて 既に黄昏

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 前作は拙い詩を取り上げてくださり、また適切なる批評ありがとうございました。
独学の限界を思い知らされました。
 これからもよろしくお願いいたします。

 一つご教示下さい。
ここで「朱楼」が使えるか否か?。

<感想>

 まずはご質問の件からですが、東照宮「楼」と表現しても良いか、ということでしょうか?・・・・どうなんでしょう?問題はないと思います。「朱楼」でもよいですが、「画楼」とすれば色の鮮やかさがより出るかもしれません。

 起句と承句の対比がはっきりしていて、一気に情景が目に浮かびます。うまく構成されていると思います。

 転句の「絢爛」の修飾語は、ややくどく感じます。特に起句で「荘厳」「玉」と説明している分、ここで更に言う必要はないでしょう。

 結句は疑問の残るところです。「陽門」にたどり着くまでに一日を要したということでしょうか。起句で「朝暾」と言っているので、詩の結びに「黄昏」と来ると、対比をどうしても考えます。
 門を出たのなら理解しやすいのですが、「半ば過ぎて 既に黄昏」となると、どんなに広い場所なのか見当がつきません。
 上平声十三元には、他にも韻字が多くありますから、結句を検討されるとよいと思います。

2002.12. 1                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第186作は 生水 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-186

  遊湯西川温泉平家里      湯西川温泉平家の里に遊ぶ  

深緑羊腸畳嶂巓   深緑の羊腸 畳嶂の巓

湯西秘境拒人煙   湯西の秘境 人煙を拒む

敗残氏族隠淪落   敗残の氏族 隠淪のさと

乗勝驕兵追捕鞭   勝に乗ず驕兵 追捕の鞭

鶏恐鳴声之不飼   鶏は鳴声を恐れ 之をやしなわず

幟危露見此無懸   幟は露見を危ぶみて 此れを懸ぐることなし

星霜八百消魂処   星霜八百 消魂の処

史実如何問沸泉   史実は如何 沸泉に問わん

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 春に背中の手術をしまして夏に療養のため栃木県湯西川温泉に行きました。
ホテルに李白の漢詩が飾られていました

<感想>

 生水さんからの投稿は久しぶりですね。術後の静養ということで心配ですが、もうよろしいのでしょうか。
ホテルに李白の漢詩ということですが、内容から見ると「蜀道難」でしょうか。

 あちこちに平家の落ちていった里の言い伝えが残っているようですが、この湯西川温泉もその一つなんでしょうね。哀憐の情をかき立てるものがあります。

 第一句は、「羊腸」の語で、「曲がりくねった小径」をまずイメージさせ、そこから目を遠くまで広げて「畳嶂巓」と出したところに、遠近感が付与されました。作者の工夫のところですね。

 第四句の「乗勝」は和臭ではないでしょうか。「乗勢」ならば良いと思いますが。
 第五句からの頸聯は、語の順序が整っていませんが、「倒装法」(押韻や平仄の関係、強調などのために語順を転倒させる技法)ということで理解できるでしょうね。

 内容としては、最後の「史実如何問沸泉」が私は気になりますね。「史実」を尋ねるのに、「沸泉」では水で流れてしまって、もう少し形のしっかりしたものに尋ねた方が良いのではないでしょうか。

2002.12.7                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第187作は 拓 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-187

  探楓        

秋光断続碧渓中   秋光断続す 碧渓の中

冷気侵肌樹下風   冷気肌を侵す 樹下の風

攀石眼前遥嶺色   石(いわ)を 攀れば 眼前 遥嶺の色

楓燃残照暮山紅   楓(ふう)は残照に燃えて 暮山紅なり

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 秋の日差しが見え隠れする深い谷間の中、
 樹の下を通る風はひんやりと肌を刺す。
 岩壁を登って上に出てみれば、目の前にはるか向こうの嶺の色が見える。
 紅葉の赤さと夕日の赤さが重なって、夕方の山は燃えるように真っ赤である。

と、まあ、このようなつもりで作りましたが、そのように読んで貰えるかどうか・・・・

 皆さんのすばらしい漢詩を見ると、自信を失うばかりですが、恥を忍んで投稿しなければ上達しないと思いますので、よろしくご指導をお願いいたします。

<感想>

 深まる秋の山間の風景が目に浮かぶような、とても風格のある詩だと思います。

 起句の「秋光断続」は、「見え隠れ」する理由として、作者が動いていることと雲などに遮られていることと二つ考えられますね。
 どちらなのかを明示せずに終るぶっきらぼうな起句を受けての承句が良いと思います。リズムが流れるようで、この二句の組み合わせは成功しているでしょう。

 転句の「遥嶺色」は、「色」の字が結句を暗示し過ぎていて、やや残念。「遥嶺闊」(遥かな嶺嶺が広く続いていて)とした方が表現することが多くなりますね。

2002.12. 7                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第188作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-188

  晩秋夕景        

江水波平群雁遊   江水 波平ラカニシテ 群雁遊ビ

津頭人絶住釣舟   津頭 人絶エ 釣舟ヲ住ム

日傾半頃敗荷圃   日ハ傾ク 半頃 敗荷ノ圃

風動両堤枯葦洲   風ハ動ク 両堤 枯葦ノ洲

幾処茅檐灯火淡   幾処ノ茅檐カ 灯火淡ク

何辺野寺晩鐘悠   何辺ノ野寺ゾ 晩鐘悠ナルハ

一叢凋菊残暉裡   一叢ノ凋菊 残暉ノ裡

猶滞余香惜窮秋   猶、余香ヲ滞メテ 暗愁ヲ誘ウ

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 今年の秋の過ぎ去ることの速さは如何でしょうか。
ここ木曽川沿いの海部地方は10月末にしてはや晩秋のたたずまい。
來雁は大きな群れをなして川面に浮かび、初夏には美しい花を誇り、真夏には涼やかな風が渡っていた蓮田もすっかり枯れ落ち、木曽川の岸ではススキの穂を揺らして夕風が吹き抜けていきます。
 そんな水郷の晩秋の一こまです。

<感想>

 これは余韻の深い詩ですね。

 菊のすえた香は人の心に寂寥感を与え、花はつんとなるような悲しみを感じさせます。尾聯の二句は、そういう意味で、「惜窮秋」を象徴するにふさわしい素材だと思います。

 その尾聯にたどり着く前に、「人絶」「枯葦」「灯火淡」「晩鐘悠」と、寂しさを漂わせた言葉のつながりは、連想を深めて読者を詩の世界の中に誘ってくれるように思います。

 真瑞庵さんが解説で書かれたように、頷聯から詩の背景に夏の風景を思い描かせて、一層の寂しさを深めているように感じました。

2002.12. 9                 by junji



謝斧さんから感想をいただきました。

 結句「惜窮秋」は間違いで「誘暗愁」でしょうか。
 修辞的には文句のつけようのない佳い作品ですね、以前はどこか瑕疵があったのですがこの作品を読ませて頂き、完全に習作期は卆えられたと感じました。
 対句も完璧だと思います。
 まさに唐人の詩の味わいがあります。ただ、対句は叙景ばかりで、次の収束までの因果関係が読者にはよく分りません。

………………
 一聯が景物なれば他聯は人事を用いるべきだとおもいます。

@今体中二聯一情一景 一法也 王夫
A律詩中二聯 往往一聯写情一聯則写景 情聯多活 活則神気生動 景聯多板 板則格法端詳 此一定之法 亦自然文也 呉騫拝
B律詩中二聯既有情景二端 詩人常喜其変化而不喜其全情或全景 此所以称為“転”也
C前聯既詠状後聯須写人事 両聯最忌同律
D詩中有情有景 且以律詩浅言之 四句両聯必須情景互換 方不複杳
E故頷聯写景 即頚聯転而書情 若頷聯書情 即頚聯転而写景 景物与人事 交相変換 此律詩中二聯之大法也

 此以外では一聯の対句中 出句写景 落句書情
或いは人事景物雙収 寓人於景 生景於人 人景交融於一句之中 無法分析


  浮雲遊子意 落日故人情     寓景於情
  感時花濺涙 恨別鳥驚心     寄情於景
  三湘愁鬢逢秋色 万里帰心對月明 融景於情
  指揮如意天花落 坐臥閑房春草深 融情入景

 例外として、全景の例もあります。
  江流天地外 山色有無中 都邑浮前浦 波瀾動遠空 
………………

 其のためか余韻が乏しく、内容は(表面的には)、平板で新味にかけるように見受けられます。
 隠喩があるのでしょうか、隠喩とまでもいかなくても、比興を含んだ句法にしなければ、感興はわきませんし、詩人の詠懐がどういったことか、読者には伝わりません。
 個人の好みですが、「猶滞余香惜窮秋」「故放余香誘暗愁」(わざと衰えかかっているにもかかわらず香りを放っては、私に人知れぬ愁いを誘わしめているようだ)となり、擬人的な句法がより分明になるとかんがえています。

2002.12.11                 by 謝斧





















 2002年の投稿漢詩 第189作は 眞香 さんからの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2002-189

  初夏偶吟        

緑陰新樹獨吟時   緑陰新樹獨り吟ずる時

清晝悠然夏景移   清晝悠然夏景移る

燕子歸來詩又爽   燕子歸り來りて詩又爽やかに

古書堆裏喜無涯   古書堆裏喜び涯り無し

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 眞香さんは、詩をいただいた時に他のデータが未記入でしたので、その後メールで何度かお尋ねしました。お返事が無いのでどうしようか迷いましたが、せっかく送っていただいたものでもありますので、掲載することにしました。
 このサイトでは、投稿する場合に、私の整理の関係上、基本的なデータ(年齢、お名前、詩作経験など)を教えていただくことにしています。眞香さんがもしこの欄をご覧になりましたら、ご連絡下さい。

 詩の感想としては、押韻の点で二点。
 一つは、結句の「涯」の字ですが、この字の韻目については今年の41作目、逸爾散士さんの「垂梅」の所にも書きましたが、上平声「九佳」が一般的ですね。他にも下平声「六麻」・上平声「四支」も認められるようです。
 「涯」の韻については、「宋詩選」(朝日新聞社)の王禹偁;の詩の解説に詳しく書かれています。引用しますと、

 「涯」は日本漢音ではガイで「麻」とは母音を異にするが、中国現代音では第二声の ya で、「麻」( ma の第二声と同母音である。宋初に成立した、もっとも権威ある韻書の、「広韻」には「涯」は佳韻に属し、麻韻には属しない。南宋末期に「広韻」を実用的に整理した平水韻では、「涯」は佳麻両韻のどちらにも属している。佳韻の字は、後には語尾の i が脱落する傾向があるが、がんらいはすべて ai を母音としていたと考えられている。したがって日本漢音のガイはこの字がまだ i 音を保存していた時期を反映し・・・
 とのことです。

 もう一点は、転句の「詩」ですが、この字は上平声「四支」に属しますので、転句に韻字と同音の字を持ってくることは冒韻となります。冒韻も色々な見解がありますが、できれば避けたいところです。

 内容的には、個々の言葉には問題ないと思いますし、起句承句の導入も初夏の景をよく切り取っています。
 転句の前半「燕子歸來」と後半の「詩又爽」のつながりにやや難があると思います。  また、結句での室内への移動も七言絶句としてはやや唐突な気がします。

 しかしながら、全体としては十分に雰囲気の表れている好詩だと思います。

2002.12.13                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第190作は 東落 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-190

  偶見庚申塔     偶々庚申塔を見る   

携書漫歩白秋新   書を携え漫歩するに白秋新なり

林裏畦間小径巡   林裏畦間 小径巡る

石塔一基残往昔   石塔一基 往昔を残し

掌中史伝記同辰   掌中の史伝 同辰を記す

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 二作目です。
秋の早朝、文庫本を持って散歩に出た時のことです。

 林を抜け畦の間の小道を行くと路傍に古い庚申塔がありました。
側面の銘に「文政八乙酉年十二月吉辰建」とあり、手中の鴎外の「伊沢蘭軒」が叙するのと同時代のものと解りました。
 ただそれだけのことですが、奇遇を感じ詩作を試みました。

 結果や如何に。「説明聞かな解らへん」とは妻の言。

 成稿までに時間がかかり季節外れの投稿となり済みません。
あれこれ語句を考えた割りには平仄の乱れが自分で気になります。
特に結句第二字の孤平が不許なるや乞御教示。

<感想>

 秋を「白秋」と呼ぶのは、五行の関係から、秋に該当する色が白だからですね。白を表す「素」の字を用いて、「素秋」という言い方もします。
 同じ様な組み合わせに、「青春」(春の色は青、方角は東)などという言葉は現在でも生きていますね。

 結句第二字の孤平については、問題ありません。現在では、孤平が問われるのは、仄句の四字目だけです。四字目に平字が単独で用いられると、句がそこで上下に分断される感が強くなるため避けるように言われています。
 参考までに、五言の場合には二字目の孤平が禁じられています。

 内容的には、起句承句はよく表されていると思います。
 結句は、「掌中」は、起句の「携書」で既に表現されていることですので、強調するのでなければ不要でしょう。
 転句の「石塔一基」を主語として、「石塔が同じ時代を記述していた」となるように書かれると、説明文が無くても理解できるものになると思います。今は「掌中史伝が同じ時代を記述していた」となっていて、主語が急に転換していることが「解らへん」の理由ではないでしょうか。

 たまたま読んでいた本と同じ記述があれば、直接関係はないにしても、何らかの奇縁を感じるのは人情でしょうね。お気持ちのよく分かる、共感できる詩だと思いました。

2002.12.13                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第191作は 鮟鱇 さんからの漢俳と演歌の作品です。
 

作品番号 2002-191-1

  深秋覓句        

深秋適放歌。      深秋 放歌に適す。

效顰籬落陶濳菊,   效顰(コウヒン)す 籬落に陶濳の菊

楓林杜牧車。      楓林に杜牧の車。

   

<解説>

 漢俳です。「歌」「車」の押韻は、平水韻では下平五歌と下平六麻の通韻となりますが、普通話詩韻では、「歌」「車」も共に三歌の陰韻できれいに協和します。
 ただ、現代韻では「菊」は第二声・平声ですので、「陶濳菊」が、いわゆる「下三連」になってしまいます。そこで、作者としては、平水韻で書き、韻は下平五歌下平六麻で通韻し、古風に則って作ったことにしておきます。

 漢俳は日本の俳句に想を得た考案された新しい短詩で、規約としては、5・7・5字の3句構成とすることぐらい、平仄、押韻についての定型化はなされていません。
 そこで、どう書いてもよいのですが、拙作は第2句を2字・5字にわけて、頭の2字を以下の5字・第3句の5字にともにかかる「領字句」としています。これにより、字数が不揃いの漢俳に、漢詩の宝ともいえる対句の妙味を導入できます。
 この句作りは、中国ですでにどなたかが発見されていることかも知れませんが、当面は小生の独創です。

 なお、拙作第2句の領字「效顰」は、西施にまつわる故事から出来た成語で「むやみに人の真似をする」意味です。菊を見れば陶濳の詩を思い、紅葉を見れば杜牧の詩を思い、目の前の菊も紅葉も見過ごしてしまう、そういう詩作りに対する皮肉をこめています。また、小生自身、そういう詩も作るでしょうから、その点では、自嘲でもあります。



作品番号 2002-191-2

  在日本秋田県觀早雪有感        

秋田冬来早。      秋田に冬来たること早し。

日照楓紅映雪原,   日が照らして楓の紅(あか)きの映ずる雪原は

如海皚皚耀。      海の如くに皚皚と輝く。

游人覓句賞奇觀,   遊人 句を覓(もと)めて奇観を賞すも

村老無言恐苦寒。   村老 言なく苦寒を恐れる。

<解説>

 現代韵で書いた漢歌です。押韻は、(早・耀)(原・観・寒)
 漢歌は、漢俳が日本の俳句に想を得たのと同様に、日本の短歌に想を得て考案された新しい短詩です。
規約としては、句を5・7・5・7・7字の5句とすることぐらいで、平仄、押韻についての定型化はなされていません。
 拙作は、5字句・7字句については唐詩の律句の平仄に準じています。また、二種の韻目を交錯させたのは、古詩、宋詞の換韻を応用したものです。漢歌・漢俳では、平仄、押韻についての絶句や律詩のような定型化はなされていないので、自由に書いてよい。そこで、わたしとしては、古典詩詞の形式美を自由に組み合わせてみることにしました。

 さて、拙作の背景ですが、11月のなかばに秋田県に旅行しました。たまたま初雪、例年より1か月早く、紅葉のまだ終わりきらないうちの豪雪でした。あいにく連日の雪で、「雪原に照り映える紅葉」を実際に目にしたわけではありません。
 その奇観はわたしの想像。また、「村老」も想像。ただ、「例年よりも1か月も早い雪」は、地元の人には歓迎すべからざるもののようで、乗り合わせたタクシーの運転手さんの雪を見る浮かぬ顔が思い出されます。

 なお、「秋田」は、日本の秋田県のことですが、「秋の田」と読まれるてもよいように思います。

<感想>

 2首、合わせて感想を書かせていただきましょう。

新しい漢詩の形式を駆使なさっての鮟鱇さんの詩作りは、漢詩の楽しみを十分に感じさせていただけるものですね。

 「深秋覓句」は、俳句の風格を思わせ、極限まで切りつめた発展の自由さがよく伝わります。感想としては、二句と三句に対句を用いられた工夫ですが、率直な気持ちとしてはこの短詩形に対句がふさわしいかやや疑問に思いました。
 対句は基本的には二句ひとまとまりで解釈しますので、表現される内容が少なくなっているのではないでしょうか。特にこの詩の場合には、「籬落陶濳菊」「楓林杜牧車」は作者の言わんとするところは同じだと思われますので、詩としての収束感が弱く感じます。(私の理解力が不足しているのかもしれません)
 対句を用いつつも内容が更に発展するのならば効用が生きてくるのでしょうが、全十七字のこの詩では、読者の想像力に頼る部分が大き過ぎるように思いました。

 「在日本秋田県觀早雪有感」の方は、この詩形の面白さを十分に表しているように思いました。私自身がこの形式で作ったことはないわけですから大したことは言えないのですが、5・7・5・7・7の字数制約を逆に利点として、五言の簡潔な描写の部分と、七言の情緒の部分がうまくブレンドされているのではないでしょうか。
 詩を作っていると、七言で作り始めてみたものの句がやや冗長に感じてしまう時とか、逆に五言で作っているのだが、どうしても2文字分だけ意が描ききれないと感じる時があります。
 鮟鱇さんのこの詩では、五言と七言の違い、それぞれの良さを改めて感じ、心が温かくなるように思いました。

2002.12.13                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第192作は東京都杉並区にお住まいの 有縁亭土筆 さん、七十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 初めてお作りになられたとのことです。お手紙を紹介します。
 漢詩には関心がありましたが、創る機会がありませんでした。
 この度、読売新聞の記事を拝読して、貴ホームページを知り、教えて頂きたいと未熟な詩をお送りします。韻のところが「韻書」が無く、ルールに外れていないかと不安です。
 よろしくご指導お願い申し上げます。

作品番号 2002-192

  生産変遷詩     生産の変遷の詩   

移而来客業   移りて而して客業に来たり

究即達人心   究めて即ち人心に達す

生産為生命   生産は生命の為

変成益生活   変じて生活を益すに成る

<解説>

 生産が変わってきている様を詩とした。

 顧客満足度が重視されるようになり、
 人の心に共感や感動を呼ぶ生産が目指される。
 これまでは生産は生命維持の生存の為とされたが、
 生産は生活を益するように変じてきている。

<感想>

 新しい仲間を迎えることができ、とても嬉しく思っています。
 初めての創作ということですので、押韻や形式、表現などで直すところはいくつかありますが、まずは作ってみることから始まります。
 有縁亭土筆さんにはご了解いただき、推敲前ですが掲載をさせていただきます。初めての方もご覧下さり、作者と同じ気持ちで詩を練り上げる、勉強していただければと思います。

 まず、何よりも「言いたいことがある!」ということが大切です。漢詩の場合には、形式などで最初に学ぶことが多く、ともすると形式を整えることで満足しがちです。あるいは、作ることが目的になってしまう場合もあります。
 勿論、形式や韻をマスターするために気持ちとは別に定期的に作ることも練習過程では大切です。古代の人でも、近くは明治の正岡子規なども、一日一首詩を作ることを日課として訓練したそうです。
 私がここで言うのは、詩を作ろうと思ったその発端をいつでも忘れないように、ということです。そして、小さなことでも構いません、自分の心が動いたことを大切にして、それを言葉として定着するために詩を作ることです。
 日常の何気ないこと、他の人から見ればどうってことないと思われることでも、本人にとってはかけがえのない感動です。詩を作るということは、自分を含めて世界を見る目を豊かにすることでなければなりません。
 有縁亭土筆さんの今回の題材は人間の生産活動というもので、一般的には詩の題材として取り上げないものです。しかし、ここで私が「一般的」と言ったのは、「詩は風雅なもの」という観点からのものです。
 しかし、詩の発生から見れば、日本の『万葉集』でもわかりますが、決して花鳥風月だけを歌ったのではなく、日常生活の中での様々な感懐を率直に歌ったものが多いわけです。仕事の苦しさ、楽しさ、大らかな感情がちりばめられています。
 やがて詩が形式化され、内容が練り上げられていくにつれ、心を直接的に表現することが雑な印象を与えるようになっていくのは仕方のない流れなのでしょう。

 私たちは現代を生き、そこで見たものを大切にしなくてはいけません。現代の中に古代の人々と同じ感興を探るのもそれも良し、現代にしかないものを見つけだすのもそれも良しですよね。
 この詩はそういう点で、最初の作としては幸運なスタートを切ることができたと考えて良いと思います。

 さて、この詩でまず直すところは、結句の最後の字が韻を踏んでいない点です。承句の末字が「心」下平声十二侵に属する字です。同じ韻目の字を探しましょう。
 ホームページのトップから「韻・平仄調べ」をクリックしていただき、右側の入力欄に半角で 「26」と入力してください。(その際に、表示に変な字が出ているようでしたら、「表示」→「エンコード」で、「日本語(自動選択)」にしておいて下さい)
 該当するのは、

陰音襟金琴吟今侵心針深森尋沈妊臨林禁浸任
淋琳斟鍼砧淫禽欽衾衿襟岑簪潯霖箴檎擒壬 

の字ですので、この中から適するものを選んで、結句の最後に置くようにしましょう。それで押韻は完了です。

 また、この詩では「生産」「生命」「生活」と三回も「生」の字が使われていますが、できるだけ同じ字は重複して使わない方が良いので、結句の「生活」を変える必要があります。韻をそろえるためにも、この二文字をまず変えてみて、その上で結句全体が話が通じるように変えてみると、整うと思います。
まずは、その辺りから手を加えてみたらどうでしょうか。

2002.12.13                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第193作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2002-193

  於晩秋的北上山地逢下雪     晩秋の北上山地に於いて下雪に逢う   

孤身客路任車揺   孤身 客路にて車の揺れるに任す、

北上秋深景寂寥   北上 秋深くして 景は寂寥。

仰看寒雲天一蓋   寒雲 天を一蓋するのを仰ぎ看れば、

紅中片片雪花飄   紅中 片々と雪花 飄(ただ)よう。

          (下平声「二蕭」の押韻)

<解説>

 今年の雪は早かったようです。
 11月9日に久慈に出張した際、盛岡から長距離バスに乗りました。美しい紅葉の中、雪が降りました。あまりに情緒があるので、詩にしようと思いましたが、ちょっと力量不足です。

<感想>

 「力量不足」とはとんでもない、十分に北の国の晩秋の風景が描き切れていますよ。
 結句の「紅中」だけは、突然の描写で、私は「季節はずれの花が咲いている」のか、それとも「冬に咲く紅い花は何だろう」と考えていました。
 そう考えさせてくれるのも楽しいものだとは思いますが、作者の意図として「紅葉を背景とした白い雪」という画面に主点があるならば、どこかで紅葉のことも暗示させて欲しいと思いました。
 特に、承句の「北上秋深景寂寥」は、句として非常に説得力があり、冬枯れた野山を思い描いていただけに、「紅」の文字が印象強くなります。
 順序を逆にして、「雪花片片紅中とすれば、少し違うかもしれません。
 題にでも構いませんから、一言添えられると問題なくなると思います。

2002.12.16                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第194作は 逸爾散士 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-194

  宴半起席 之厠而見鏡      宴の半ば席を起ち、厠へ之きて鏡を見る  

照鏡姿容認鬢斑   鏡に照らす姿容に鬢の斑らなるを認む

却憐酔貌似紅顔   却って憐れむ酔貌の紅顔に似たるを

俄聞宴席嬌声起   俄に聞ゆ 宴席に嬌声の起るを

人老酒楼歓楽間   人は老ゆらん 酒楼、歓楽の間に

          (上平声「十五刪」の押韻)

<解説>

 以前の作ですが、飲み屋で鏡を見た設定の詩を投稿します。
 ただし、長い題の詩を書いてみたかっただけで、実際に飲みにいった時に鏡を見て感慨を催したわけではありません。

 頭の中で、宴席からトイレにたって途中で鏡を見て白髪を見つけたと想像して書きました。
 そこへキャーキャー盛り上がる声が聞こえてくる。
 こうしてはしゃいでいるうちにも人は歳をとっていくんだな、という人類一般の感懐です。

 鏡を見て白髪を見つけるモチーフは張九齢の詩(「照鏡見白髪連句」)から借りました。
 承句は白居易「酔中対紅葉」のもじりです。

 「俄かに」「纔かに」のほうがいいかもしれません。
 自分が体感したように想像しながら書いた詩で変にリアルな感じですが、制作事情としては「拵え物」です。

 「照鏡」「鬢斑」を熟語にして音読みするほうが口調はいい。訓読みを推量形にするのは作者の指定の範囲か、など考えることはまだあるけど別の機会にします。

<感想>

 鏡は他人の視線で自分の顔や姿を見させてくれる、そういう点でとても恐い部分があります。特に、宴会などでは酔いが我を忘れさせているわけですが、この詩のようにトイレに行ったりして(トイレには必ず鏡がありますからね)酔顔を見せられた時は、どうにも頼りない自分の顔つきに、「おい、しっかりしろよな!」とつい声をかけてしまうこともしばしば。

 自分の顔には自分で責任をとらねばならないのでしょうが、私の場合には、鏡を見ても最近は嘆くことの方が多いようです。逸爾散士さんはいかがでしょうか。
 承句「酔貌似紅顔」とありますので、少年のような瑞々しいお顔だちだということでしょうね。うらやましい。
 ご紹介の白居易「酔中対紅葉」では、酔った顔を「霜葉」に例えて、更に「雖紅不是春」(紅いけれども春だというんじゃないよ)としゃれています。
 そこから行けば、逸爾散士さんの「紅顔」は、「紅い顔をしているけれど、少年というわけじゃないよ」という感じでしょうか。

 「俄(にわ)かに」「纔(わず)かに」の比較は、「俄」の方が臨場感、現実感は出ますね。
 「纔」の方にしますと、すでに宴会の喧噪も自分には遠いもの、しみじみと「老」を考える、という風情になるように感じます。だから、私の個人的な好みとしては、「纔」の方ですけどね。

 張九齢「照鏡見白髪」 と、白居易「酔中対紅葉」 を読みたい方は、左の題名をクリックして下さい。

2002.12.16                 by junji





















 2002年の投稿漢詩 第195作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2002-195

  笑對佳人説清貧        

眼底朱脣嘗玉盞,   眼底の朱脣 玉盞を嘗(な)め,

畫中白鶴啄田螺。   画中の白鶴 田螺を啄(ついば)む。

醉生樗散貪肴膳,   醉生の樗散 肴膳を貪り

横説清貧交酒魔。   清貧を横説して酒魔と交わる。

          (下平声「五歌」の押韻)

<解説>

 うら若い女性を前にくだくだと説教をする年寄り、小生もそういう年齢になりました。
 ことが漢詩や中国古典の話になると、相手の迷惑も考えない場面もあるでしょう。そういう老境を思いながらの自戒・自嘲の詩です。

 第2句「画中の白鶴」は少々わかりにくいかも知れません。
 小生がよく行く庶民的な中華料理店には、虹の七色の馬の刺繍画がかかっています。中華料理店に、鶴の画がかかっているのがふさわしいかどうか、少々自信がありません。しかし、小生の醉呶は、「清貧」をめぐる設定としましたので、馬よりも鶴の方がよいと思い、画を掛けかえました。
 鶴にもし「清貧」とのイメージの重なりが期待できるのなら、「画中の白鶴」は、醉生の樗散にとっての「画中の清貧」を象徴することになるはず。そんな計算を小生なりにしています。
 そして、「画中の清貧」がわかりにくければ、醉生樗散の小生にとって「清貧」は、「画に書いた餅」のごときもので、口ではとやかく言えても、とても喰いこなせるものではない、という底意があるとご理解ください。

 鶴は仙人を運ぶ霊鳥とされていますが、醉生樗散、徒食の小生には、霞を食う鳥とも思えません。そこで、田螺を食べてもらうことにしました。
 鶴は肉食なのか草食なのか、それとも雑食なのか、そのあたりは曖昧です。ただ、鶴は、その美しい姿とは裏腹に、実は健啖家、食道楽で、ドジョウやタニシあたりは鶴なりに結構なご馳走ではないかと想像しています。
 起句と承句の対句は、そんな俗っぽい想像をもとに書いています。

 [語釈]
 「眼底」:目の前
 「朱脣」:赤い脣の美人
 「醉生」:「醉生夢死」は、酔ったようにぼんやりと生き、夢を見ているようにぼんやりと一生を送る。
       価値のあることをせずに一生を無駄に過ごす意。
 「樗散」:役に立たない無能の人
 「肴膳」:ごちそう
 「横説」:自由自在に話す。また、相手かまわずに話すこと。

<感想>

 「うら若い女性」を前にすることは少ないのですが、私も若い人にくだくだと説教をする自分にふと気づき、その途端に何ともいたたまれないような気がして、言葉がしどろもどろ、訳の分からない内に話を終えてしまうことが以前はよくありました。
 最近は図々しくなったのか、相手の思惑は無視して勝手に話し続けることが多くなりました。

 かつては、町内のお年寄りが軒先で夕涼みをしては、近所の若い者に人生の蘊蓄を傾けるなんて場面があったように聞きます。その頃も、きっと若者は「また始まったぜ」なんて腹の中では思いながらも、それでもその場は拝聴していたのでしょう。年長者の人生経験に対しての敬意が残っていたのではないでしょうか。
 だから、敬意を持たせればいいのだと私は決めたのです。こちらが変に遠慮して、「相手が嫌がってるんじゃないかな」とか、「こんな話はつまらないんだろうな」などと考える必要はない、と。
 確かに、自分自身の経験から考えると、年寄りが自慢ぶって話したりするのを聞くのは愉快ではありませんでした。でも、愉快だろうが不愉快だろうが、若者が年寄りの話を聞くのは人間としての定めであり、歴史でもある。そうやって人間は数千年を生きてきたのだと私は思います。(思うようにしている?)
 だから、「横説」、結構じゃないですか。他ならぬ自分自身の経験から生まれた「思想」を語るのに、遠慮することはないと思います。上すべりの、分かったような顔をしてしゃべる人間が山ほどいるのですから。

 もっとも、つい若い美人ばかりを選り好んで話をしてしまうというのは、別の問題ですが・・・・

2002.12.18                 by junji